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中国の人口の歴史

−−人口推定の方法、人口崩壊のサイクル、など

広島大学総合科学部助教授 加藤徹

   本稿は、広島県発行の広報誌『統計の泉』(広島県統計協会)平成11年6月号(通巻587号)のために書いた原稿をアップしたものです。
 「広島大学総合科学部助教授」という肩書きも、平成11年=1999年当時のものです。

 その後、本稿の記述を加筆し、
拙著『貝と羊の中国人
(新潮新書 2006年刊)
第4章 「人口から見た中国史」

として発表しました。


 中国人は古くから人口についての記録を残してきた。人口の増減は政府の租税収入に直結し、また、人口の増減が政治の良否の指標であると考えられてきたからである。
 歴史的に見ると、中国の人口は、常に世界最大級の規模を維持し、周辺世界との人口の流出・流入の比率が少なく、また人口増加と人口崩壊が周期的におとずれた、など興味深い特徴が見られる。
 ちなみに現在われわれが「中国」と呼ぶ地域は、ほとんどが中華人民共和国の領土と重なる。しかし歴史的に見れば、中国という語が指し示す領域の面積は、時代によってかなり変化してきた。古代の黄河文明の時代には、中国と呼びうる領域は今よりはるかに狭かったし、逆に、最後の王朝である清(西暦1636−1912年)の領域は現在の「中国」よりも広く、ロシアの一部やモンゴルも含んでいた。
 以下、本稿で「中国」と呼ぶ場合、原則として、その時代の漢民族の居住範囲、という意味で使用する。

戸籍以前の時代の人口推定



 日本で最初に全国的な戸籍が作成されたのは天智天皇9年(西暦670年)である。残念ながら当時の戸籍は現存していないが、日本では7世紀以前の人口は推定によるしかないわけである。
 一方、中国の全国的な戸籍登録人口の最古の記録は、前漢の平帝の元始2年(西暦2年)の数字で、人口59,594,978人、戸数12,233,062戸、という数字が残っている。この数字には課税の対象外だった少数民族や奴婢が含まれず、また、相当な脱漏・遺漏があると見込まれるので、実人口は約7千万から8千万くらいだったと推定されている。
 これ以前の中国の人口については、種種のやり方で推定するほかはない。その推定の方法が中国の歴代の社会を反映しているので、以下にやや長くなるが紹介しておく。

夏から西周まで

 俗に「中国四千年の知恵」と言うが、中国最初の王朝は、伝承によれば、約4000年前に成立した夏王朝である。夏の領土は黄河流域の狭い領域を占めるにすぎなかった。はるか後世、西晋(西暦265−316年)に書かれた『帝王世紀』という書物には、夏王朝の人口として13,553,923人という数字がまことしやかに書かれているが、もちろん信用しがたい。そもそも、夏という王朝自体がなかば神話伝説の世界にあり、中国の歴史学界でこそ実在した中国最古の王朝とされているものの、日本など外国の学界ではまだその実在を疑問視されている。
 現時点で実在したことが世界的に認められている中国最古の王朝は、殷(紀元前千五百年ごろから紀元前千年ごろ)である。その領土も現在の「中国」よりはるかに狭いものであるが、すでに高度な青銅器文明の段階に入っていた。直接的に総人口を示す資料は残っていないが、断片的に人口の規模を伺わせる考古学的遺物が残されている。例えば、

 これらから考えると、殷の時代の人口の具体的な実数は不明なものの、対外戦争や大量の犠牲を可能にする相当規模の人口であったことがわかる。
 紀元前11世紀ごろ、殷が滅び、周王朝が興った。前述の『帝王世紀』は周初の人口として13,714,923人、というまことしやかな数字を伝えるが、もちろん信用できない。周初の人口については、三百万人から一千万人前後まで種種の推計があるが、いずれも推定の域を出ない。
 周は紀元前770年に、西の異民族の圧迫を受けて、都を東に遷した。これ以前を西周、東遷以降を東周(前770−221年)と呼ぶ。ちなみに周の東遷のとき、周王室が保管していた多数の歴史史料が混乱の中で失われたため、中国の年号・年代で確定されているのは、この周王朝が東遷した紀元前770年が最古である。これ以前の歴史的事件についての年代は、すべて推定である。

春秋時代の人口推定は保有戦車数が根拠

 東周は統治力が衰えたため、各地で諸侯が割拠し、それぞれ富国強兵政策を行った。春秋時代(西暦紀元前770−前403年)にはまだ戸籍調査は行われた気配はないが、国力を戦車の保有数であらわすようになったので、この数字をもとに当時の人口を推定することができる。
 「千乗の国」とか「万乗の君主」という言い方がある。これは、「千両の戦車をもつ大国」「一万両の戦車を保有する偉大な王」という意味である。『周礼』によれば、一般に、戦車1両につき、馬4頭、甲士10人、歩兵20人が随うと規定されており、また別に輜重車もあって一定の比率で戦車にまぜて配備された。当時の記録によれば、春秋時代後期の各国の戦車保有数の合計は25,000両であった。戦車・輜重車の比率とそれぞれの規定随行人数から単純計算すると、各国の兵力合計87万5千人となる。古代中国では、戦争の形態が現在とは違い、徴兵率は全国民の五人に一人という高率が一般的だったので、結局、春秋時代の後期の総人口は推定で500万人前後になる。これが中国の学界の定説に近い数字となっている。
 ただし、筆者が思うに、戦車の保有数などというのは、戦前の日本陸軍の「員数主義」などと同じような気がする。また、徴兵率が全国民の五人に一人というのも高すぎるように思われる。ともあれ、兵器の保有数を基準に当時の人口が推定せざるを得ないというところが、いかにも春秋時代の時代雰囲気を反映していて興味深い。

戦国時代は兵員数が人口推定の根拠に

 戦国時代(紀元前403−前221年)には鉄製農具が普及し、また、中国世界自体が周辺に拡大しはじめたため、人口は増加した。人口増加は戦争の形をも変えた。春秋時代には都市国家どうしの戦車戦が主流であったが、この戦国時代には領土国家どうしの歩兵戦が主流になった。一回の戦闘に参加する兵員の数もほぼ十倍に増え、戦闘も長期化するなど、戦争形態は大きく変化し、有名な『孫子』の兵法があらわれた。
 戦国時代の中国は「戦国の七雄」と呼ばれる七大国に分裂していた。各国の人口統計の記録は残っていないが、兵力数は残っている。司馬遷の『史記』によれば、秦・楚の兵力は百万、魏は七十万、あとの四カ国は数十万ずつだったという。
 仮に強国だった趙と斉の兵力をそれぞれ80万、小国だった韓と燕をそれぞれ50万と仮定すると、七カ国の総兵力は合計530万となる。春秋時代の兵力総計90万弱の、実に6倍である。当時の法令の記録によると、当時の一戸の平均人数は大体5人、その5人のうち2人を「卒」とした、とある。これで計算すると七カ国の戸数合計は265万戸、人口1325万人となる。当時の中国には、七大国以外にも、衛や宋などの小国があり、また、中国の西南部・南部にも相当数の人口が存在したと推定されるので、戦国時代の中国の全人口は約2千万人前後と推定される。
 筆者の私見によれば、秦や楚の兵力が百万などというのは、戦時中の日本でよく「関東軍百万」と言っていた類の、たぶんに宣伝的な数字という気がする。しかし、戦車の保有数ではなく、歩兵の兵員数で国力を表現するようになったことは、戦国時代の特徴をよく表している。
 推定2千万という人口は、現在から見れば少数であるが、当時の中国世界の面積から見ればすでに過密ぎみであった。中国で環境破壊が社会問題となるのは、実にこの戦国時代にはじまる。たとえば、儒教の思想家である孟子(前372年−前289年ごろ)も「斉の大都会の郊外にある牛山という山は、かっては美しい森林で覆われていたのに、木材の乱伐と過放牧の結果ハゲ山となってしまい、今の人はもともと牛山はハゲ山だったと誤解している」と嘆いている。
 孟子と同時代の日本列島は、やっと縄文時代から弥生時代への移行期である。中国の環境破壊問題の歴史の長さと深刻さが、わかるような気がする。

秦・漢帝国の人口について

 秦の始皇帝が中国を統一した紀元前221年、中国の人口は、戦国時代とそれほど変わっていなかったろう。秦はわずかな期間に万里の長城を作り、壮大な始皇帝陵を作り、直道を作った。約2千万人という当時の国力では無理があったようで、秦の国力は疲弊し、始皇帝の死後まもなく秦は滅亡した。
 前漢(前202−後8年)の人口についてもいろいろな推定方法があるが、ここでは省略する。
 前述のように、中国で最初に全国的な戸籍が作られたのは、前漢の末期、平帝の元始2年(後2年)で、全国の人口59,594,978人、戸数12,233,062戸、であった。これ以降の中国の総人口については、ともかく戸籍登録人口をもとに論じることができるようになる。

中国の人口増減の基本的サイクル

 これ以降の中国の歴史は、模式的に言うと、以下のようなサイクルを繰り返しであった。



 中国の歴史は、おおむね上記のサイクルの繰り返しであった。一つの王朝の寿命は十世代三百年を越えて存続することは難しく、人口崩壊期には極端な人口減少が見られる。
 特にわれわれ現代人の興味を引くのは、王朝交代期の人口崩壊である。これは、日本の歴史には見られなかった現象である。以下、具体例に即して述べる。



 これ以後も中国の人口歴史はジグザグ状に拡大して現代に至るが、途中の経緯は長くなるので省略する。
 近代の中国の人口について見ると、清朝の康熙帝(在位1661−1722年)の統治の末年、一億人の大台に乗ったころから未曾有の人口増加がはじまった。乾隆帝(在位1735−1795年)の末年には約3億にまでふくれあがり、道光帝の道光13年(西暦1833年)の戸籍登録人口は398,942,063人となった。わずか百年あまりの間に、実に四倍にまで増加したのである。
 この清の人口爆発を説明できる決定的な学説はなく、今でも中国史上の謎の一つとされている。
 ちなみに、19世紀以降、中国の近代化が遅れた原因の一つは、人口増加にともない一人あたりの生活水準が劇的に低下し、資本の原始的蓄積ができなかったからである。一方、日本は江戸時代中期以降、「間引き」などの荒っぽい人口抑制法により静止人口を維持したため、江戸時代後期の一人あたりの生活水準は急速に向上した。この江戸時代の蓄積なくして、明治以降の急速な近代化は不可能だったと言われる。
 近代の中国は、毛沢東(1893−1976)が死去するまで「生めよ増やせよ」の時代が続く。
 現在、中国人の人口は約13億人と言われる。中国政府の「ひとりっ子政策」の結果、人口増加率は減少しつつある。この政策が成功するかどうかまだ不明であるが、これを「新しいタイプの自発的人口崩壊」と見なすうがった観測もある。

中国の人口史から学ぶこと



 人口崩壊という現象自体は、実は、世界的に見れば珍しいものではない。中世のフランスは百年戦争の戦禍と黒死病の結果、人口が半減したと言われるし、近世のドイツも三十年戦争の結果、全人口が三分の二に減少した。近代における南北アメリカ大陸の先住民の激減と、タスマニア先住民の絶滅は、人類史上最悪の人口崩壊であった。
 われわれ日本人は、一度も全国規模の人口崩壊を経験していない。縄文時代の最末期に人口崩壊があったと主張する学説もあるが、それも有史以前のことである。日本は、16世紀の戦国時代ですら、各地の大名の富国強兵策によって人口が増加していた。あの過酷な第二次大戦のときですら、日本人の人口損耗は一割にも達しなかった。人類史上の例外といえる。
 一方、中国は何度も人口崩壊を経験してきた。飢饉や戦乱による直接的な死者数もさることながら、乳児死亡率の急上昇と出生率の低下で、人口は短期間に減少してしまったのである。その「もろさ」の原因は、人口の構造的不安定さにあった。
 そもそも中国に限らず、前近代社会の人類の平均寿命はおおむね二十歳代であり、子供を5人生んでも大人まで育つのは2人か3人というのが普通だった。ヨーロッパでさえ、たとえば産業革命期のイギリスの労働者階級の出生時平均余命は20歳程度にすぎなかったという(エンゲルスのあげた数字)。
 前近代の人口構造は、どの国でも、本質的に不安定で崩壊しやすかった。
 ただ、近世のヨーロッパ人は「捨て子」によって(童話のヘンゼルとグレーテルがその典型)、近世の日本人は「間引き」や姨捨によって人口増加を抑えようと試みた。江戸時代の日本では「田分けは、たわけ」という論理で、次男坊以下に遺産を分けないことまで行われた。
 しかし中国では、儒教思想の影響で、財産は均分相続が原則で、老人は大事にされ、子供の数は多いほどよいとされた。人口増加を抑制する歯止めが存在せず、結局、いつの時代も行き着くところまで行くしかなかった。
 かくて、中国の人口崩壊は、他の地域に見られぬ特徴を持つようになった。すなわち、
の三点である。
 近代以前の中国は、他の文明圏からほとんど孤立状態にあり、人口の出入りも少なかった。残酷な言い方をすれば、この巨大な「金魚鉢」の中で、中国人は人口崩壊と回復のサイクルという壮大な実験を、生物学の法則どおりに繰り返してきたわけである。
 ただし、中国は毎回、必ずよみがえり、現在に至るまで世界最大の人口規模を確保した。これは、シュメールやローマなど他の多くの文明が一度の人口崩壊のあと二度とよみがえらなかったのと対照的であり、驚くべきことである。
 中国が不死鳥のようによみがえった理由は何か。いろいろと考えられるが、最大の理由は、「農業」という再生産可能な資源を、ともかく確保できたからである。例えばシュメール文明が一回かぎりで滅亡したのは、千年以上にわたって灌漑農業を繰り返したため、地下水位上昇による塩害をまねき、農地が荒廃したからである。中国の場合、南中国では水田稲作、北中国では灌漑によらない小麦栽培を行うことで、なんとか数千年にわたって耕地の地味を保全してきた。
 日本人が弥生時代以降、一度も全国規模の人口崩壊を招かなかったのは、島国という地理的条件もさることながら、水田稲作農業という地味保全型の農業を行ってきたことが大きい。その日本の水田は今日、どうなっているのだろう。−−−
 現在、われわれが住む地球は、小さな金魚鉢になってしまった。これまで急増する人類の人口をかろうじて支えてきたのは、近代的灌漑農業技術の技術革新であったが、それも限界に近い。現に、北米大陸ではコンピューターと連動した巨大スプリンクラーを使って灌漑農地を行ってきたが、近年、急速な地味低下が報告されている。人類は、かつてシュメール文明がたどった滅亡の過程を、フィルムの早回しのように繰り返しているだけなのかもしれない。
 どうやら、人類の人口は、あと一世代か二世代で限界に達しそうである。
 そのとき、一体なにが起きるのか。こんな不吉な問題提起で筆を置くのは残念であるが、中国の人口史を振り返ることは、同時に、人類の未来を考えることにもなるのである。

(1999.5.20)


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