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  頼(らい)(さん)(よう)(1781〜1832)が三国志を詠んだ漢詩
訳解と講義 加藤 徹
        (右の写真は『山陽遺稿』詩五/巻四、出版者・山本重助、明治十二年刊)
 題司馬仲達観武侯営址図
死諸葛 生仲達 吾能料生不料死 此語大痴乃小黠
却有天下奇才目 足見姦雄心真服
寿曰管簫流 甫曰伊呂儔 後儒賛頌雷同耳 不若公論出敵讐
 
 司(し)馬(ば)仲(ちゅう)達(たつ)、武(ぶ)侯(こう)の営址(えいし)を観(み)る図(ず)に題(だい)す
 死(し)せる諸(しょ)葛(かつ)、生(い)ける仲達(ちゅうたつ)。「吾(われ)、能(よ)く生(せい)を料(はか)るも死(し)を料(はか)らず」。此(こ)の語(ご)、大(たい)痴(ち)なれども乃(すなは)ち小黠(しょうかつ)なり。却(かへ)って天(てん)下(か)の奇(き)才(さい)の目(もく)有(あ)り。姦雄(かんゆう)の心(こころ)、真(まこと)に服(ふく)するを見(み)るに足(た)る。寿(じゅ)は曰(い)ふ、管(かん)簫(しょう)の流(りゅう)と。甫(ほ)は曰(い)ふ、伊(い)呂(りょ)の儔(ともがら)と。後儒(こうじゅ)の賛(さん)頌(しょう)は雷(らい)同(どう)なるのみ。若(し)かず、公(こう)論(ろん)の敵讐(てきしゅう)より出(い)づるに。
頼山陽、文政十二年(1829)の作
[注]
大痴乃小黠=「小黠大痴」(こざかしくふるまうが実はとても愚かである)の逆。
寿曰=正史『三国志』の陳寿の評「可謂識治之良才、管蕭之亞匹矣」。
甫曰=杜甫の詩「詠懐古跡」に「伯仲之間見伊呂」(殷の伊尹、周の呂尚と伯仲している)
[大意]
 司馬懿が諸葛孔明の陣営のあとを見る様子を描いた絵図に書きつけた漢詩。
 死せる諸葛孔明、生ける司馬仲達を走らす。五丈原の最後の戦いの後、司馬懿こと司馬仲達は「私は、生きている者の考えはわかるが、死んだ者の考えはわからない」と、悔しまぎれの言い訳を述べた。この言葉は、愚かな中にも少し機知を感じる。また司馬懿は、撤退した蜀軍の陣営のあとを見て、孔明の才能に瞠目し「天下の奇才なり」と評した。奸智にたけた英雄である司馬懿が、本当に孔明に心服したことが、わかる。
 後世の知識人の孔明評は、どれも陳腐だ。歴史家である陳寿は、孔明をいにしえの管仲や蕭何になぞらえて高く評価した。大詩人である杜甫は、孔明を伊尹や呂尚に匹敵すると賞賛した。これらはどれも、結局はステレオタイプの評価にすぎない。孔明を相手に戦った司馬懿による孔明評には、及ばない。
 敵として戦ったライバルから出た評価が、いちばん公平だ。
[評]血戦の相手からの「逆感状」は、凡百の批評より重みがある。
  詠三国人物十二絶句   三国人物を詠ずる十二絶句
 
頼山陽、文政八年(1825)の作
 
(左の写真は『山陽詩鈔』巻八、出版者・浜本伊三郎他、1879年)
頭評の「小竹云・・・」は、篠(しの)崎(ざき)小(しょう)竹(ちく)(1781〜1851)の評語。
右の絶句のうち「仲謀」の冒頭「坐子・・・」は書肆の誤刻で、正しくは「生子・・・」。
 
 
訳解と講義 加藤 徹
一、先主
長腕双垂閑不勝 結髦織履枉多能 幢幢一樹柔桑緑 展到蜀山青万層
長腕 双(ふた)つながら垂(た)れて 閑(かん)に勝(た)へず
(ぼう)を結び履(り)を織りて 枉(むな)しく多能なり
幢幢(どうどう)たる一樹 柔(じゅう)(そう) 緑なり
(の)べて蜀(しょく)(さん)の青きこと万層に到る
 
先主=劉備のこと。両腕は膝まで届くほど長く、耳も人並みはずれて大きかった。
幢幢一樹・・・=劉備の一族が住む邸の角に大きな桑の木が生えていて、皇帝の乗る屋根付 き馬車のような形に茂っていた。幼い劉備は「将来、きっとこんな馬車に乗れるような 人物になってやる」と宣言した、という。
[大意]
 蜀漢の皇帝となった劉備は、若いころは不遇だった。人並みはずれた長い腕、という異相をもちながら、生活のためムシロやわらじを編んで暮らしていた。彼が子供のころ、邸に生えていた桑の木の若葉にかけた夢は、後に見事に成功して、蜀漢の国土に青青と広がる山林にまでつながった。
[評]子供のころの夢を捨てきれない人が、意外と大成するものだ。
[参考]正史『三国志』蜀書・先主伝:先主少孤、与母販履織席、為業。舍東南角籬上有桑樹、生高五丈余、遥望見、童童如小車蓋。往来者皆怪此樹非凡、或謂当出貴人。先主少時、与宗中諸小児於樹下戯、言「吾必当乗此羽葆蓋車」。叔父子敬、謂曰「汝、勿妄語。滅吾門也」・・・
[参考]篠崎小竹は、劉備が頼山陽に罵られなかったのは大いなる幸いだ、と評している。
 
 
二、孔明
有魚?尾泣窮冬 涸轍無人憐?? 誰料南陽半溝水 養渠忽地化為龍
(うを)(あ)り ?尾(ていび) 窮冬(きゅぅとう)に泣(な)
涸轍(こてつ) 人(ひと)として??(けんぐう)を憐(あは)れむ無(な)
(たれ)か料(はか)らん 南(なん)(よう) 半(はん)(こう)の水(みづ)
(かれ)を養(やしな)ひて忽地(たちまち) 化(か)して龍(りゅう)と為(な)
 
?尾=『詩経』「魴魚?尾、王室如燬」。魚が病気になると尾が赤くなる、という。
??=魚が空気や餌を求めて、水面に口を突き出すこと。
[大意]
 若いころの諸葛孔明は、道路の水たまりの中の魚だった。貧乏と寒さに苦しみ、誰からもかえりみてもらえなかった。南陽の狭い田舎は、小さなどぶのようだったが、そこで暮らしていた彼が龍のように飛躍して天下に名を轟かせると、一体だれが予測できたろう。
[評]「轍(てっ)鮒(ぷ)の急」から成功した「臥龍」孔明は、江戸時代の浪人の希望の星だった。
[参考]篠崎小竹は、半溝の水では孔明はともかく頼山陽みたいな大物を浮かべるには足りず、定めし不安定だろう、と評している。
 
 
三、関羽
北伐長駆不備呉 髯公終被阿蒙愚 問君曾読春秋日 却記秦人?役無
北伐(ほくばつ) 長駆して呉に備へず
髯公(ぜんこう) 終(つひ)に阿蒙の愚を被る
君に問ふ 曾(かつ)て春秋を読むの日
(ま)た秦人(しんひと)の?役(こうえき)を記するや無(いな)
 
?役=秦軍が?山で晋軍に大敗した戦い。『春秋左氏伝』(?僖公三十三年、前627)
[大意]
 立派で美しい髯でも有名な関羽は、遠征して魏と戦っているあいだ、油断して呉軍への備えをしなかった。その隙をつかれ、「呉下の阿蒙」こと呉の呂蒙に負けた。関羽よ。あなたも歴史書『春秋』を勉強したはずだ。あなたは、秦軍が敗北を喫した?山の戦いの教訓を、忘れていたのか。
[評]頼山陽の関羽への評価は、辛口である。
[参考]篠崎小竹は、漢人は関羽のたたりを怖がるので絶対にこんな詩は口にできまい、と評している。
 
 
四、張飛
蛇矛?住万蹄塵 恢復神州機已新 応愧??在江漢 自呼翼徳是燕人
蛇矛?(さえぎ)り住(とど)む 万蹄(ばんてい)の塵
神州を恢(かい)(ふく)する 機 已(すで)に新たなり
(まさ)に愧(は)づべし ??(そうとう) 江漢に在るを
(みづか)ら呼ぶ 翼徳 是(こ)れ燕人(えんひと)なり
 
?=「さえぎる」は「さいぎる」の音転なので、旧カナを「さへぎる」と書くのは間違い。
??=よろめく
[大意]
 長坂の戦いで、しんがりをつとめた張飛は、たった一人、馬上で蛇矛をふるい、万単位の曹操の騎馬軍団を足止めした。今こそ、曹操の手から天下を取り戻すチャンスだ。荊州のあたりをウロウロするのは、みっともない。彼はみずから名乗った。われは張飛、あざなは翼徳、燕の産なり、と。
[評]しんがりは一番危険で困難な任務だが、張飛は見事になしとげ、名をあげた。
 
 
五、趙雲
七尺彭亨胆満身 誰知鎧縫舎郎君 刀辺一塊収龍肉 留続岷峨半段雲
七尺(しちせき)の彭亨(ほうこう) 胆 身に満つ
誰か知らん 鎧縫(がいほう) 郎君を舎(す)つるを
刀辺 一塊 龍肉を収め
留続す 岷峨(びんが) 半段の雲
 
郎君・龍肉=劉備の息子・阿斗(劉禅)を指す。
岷峨=岷山と峨眉山。蜀漢の国土の山。
[大意]
 七尺の堂々たる体躯をもつ趙雲は、全身これ胆、という剛胆な英雄だ。長坂の戦いのとき、まだ赤ん坊だった阿斗は、なんと、乱戦の戦場の中で行方不明になった。趙雲は刀がきらめく戦場から、劉備の血を引く小さな赤子を救い出した。その赤子は成長し、後に蜀漢の二代目の皇帝となり、風雲の志を引き継いだ。
[評]最後の「雲」は、「蜀犬、日に吠ゆ」と言われた蜀の雲と、趙雲の名にかけている。
 
 
六、本初
冀北万蹄麾蓋辺 群雄用武孰斉肩 不蹂千里青青草 熟視阿瞞先著鞭
(き)(ほく) 万蹄 麾(さしま)ねきて辺を蓋(おほ)
群雄 武を用ゆる 孰(たれ)か肩を斉(ひと)しうする
(ふ)まず 千里青青の草
熟視すれば 阿瞞(あまん) 先(むち)づ鞭(むち)を著(ちゃく)
 
千里青青草=董卓のアナグラム。
阿瞞=曹操の小字。
著=「著作」「著名」のときはチョと読むが、「著鞭」のときはチャクと読む。
[大意]
 袁紹は最初、ヒーローだった。彼は反・董卓連合軍のリーダーとして、冀北の地から攻め寄せてきた。しかし、いざ開戦となると、董卓の強大な軍事力がこわくなり、足踏みした。敵と見合っているうちに、袁紹よりずっと小物だった曹操が先(せん)(べん)をつけ、自軍に進撃の号令をくだした。
[評]「先鞭をつける」は、漢文の四字成語では「先我著鞭」ないし「先吾著鞭」。
 
 
七、孟徳
金刀版籍得雄蹲 銅雀楼台日月昏 七十二堆春草碧 更無寸土到児孫
(きん)(とう)の版(はん)(せき) 雄蹲(ゆうそん)するを得(え)
(どう)(じゃく) 楼(ろう)(だい) 日月(じつげつ) 昏(くら)
七十二堆(しちじゅうにたい) 春草(しゅんそう) 碧(あを)
(さら)に寸(すん)(ど)の児(じ)(そん)に到(いた)る無(な)
 
金刀=卯金刀。漢王朝の国姓「劉」のアナグラム。
七十二堆=曹操は自分の墓を盗掘されぬよう「七十二疑(ぎ)冢(ちょう)」を作らせた。
[大意]
 魏の曹操は、劉氏の国土を乗っ取った。曹操は自分の権勢を天下に示すため、銅雀台を築かせた。天空の太陽や月が隠れて見えぬほど豪壮な高層建築だった。また曹操は自分の死後、墳墓が盗掘されぬよう、七十二もの偽の墓を作らせた。
 それほど周到に悪知恵を働かせた曹操だったが、曹操の魏も、司馬氏に乗っ取られ、あえなく滅亡。結局、曹操は自分の子孫に寸土も残せなかった。残せたのは、彼の七十二箇所の墓に青青と生える春の雑草だけである。
[評]徳が薄ければ、結局、何も残せない。
 
 
八、仲達
心甘蜀将遺巾幗 手辣魏軍帰戦幢 三馬同槽終幾日 回頭群鬣去過江
(こころ) 甘(あま)んず 蜀(しょく)(しょう)の巾幗(きんかく)を遺(おく)るを
(て) 辣(らつ)にして 魏(ぎ)(ぐん) 戦幢(せんどう)を帰(かへ)
(さん)(ば)同槽(どうそう) 終(つひ)に幾(いく)(にち)
(かうべ)を回(めぐら)せば 群鬣(ぐんりょう) 去(さ)りて江(こう)を過(す)
 
鬣=馬のたてがみ。
三馬同槽=最晩年の曹操が見た暗示的な夢。
去過江=『晋書』「五馬浮渡江、一馬化為龍」。司馬氏の西晋の滅亡を指す。
[大意]
 司馬仲達は、二重底、三重底の人物だった。蜀の諸葛孔明から女衣巾幗を贈られ挑発されても、冷静さを保ち、魏軍を無事に帰還させた。彼は辣腕の政治家でもあった。
 魏の曹操は死ぬ直前、夢を見た。三頭の馬が、一つのかいばおけ(槽)に頭をつっこみ、もぐもぐと餌をあさる。曹操は、自分が見た予知夢の意味を知らぬまま死んだ。その後、司馬仲達と二人の息子が、曹氏の魏王朝を乗っ取った。「槽」は「曹」の暗示だった。
 司馬氏の天下も短かった。「五頭の馬が川を渡る。一頭だけが龍になる」という不吉な童謡が流行したあと、司馬仲達を初代皇帝とする西晋はあえなく滅亡した。童謡の予言どおり、長江をわたって逃げた王族の一人が、東晋を立てた。
[評]権力も、つかみどころのない夢や童謡も、はかなさという点では紙一重だ。
[参考]篠崎小竹は、東晋が地方政権に転落しつつも江南の地で存続できたのは「典午」(司馬氏のアナグラム)の連中にとっては過分の幸運だった、と評している。
 
 
九、荀ケ(じゅんいく)
八龍孫子独騰驤 豢養誰誇吾子房 分得当塗万年臭 坐間三日果何香
八龍 孫子 独り騰驤(とうじょう)
豢養(かんよう) 誰か誇る 吾が子房
当塗 万年の臭を分ち得て
坐間三日 果して何の香りぞ
 
騰驤=馬が速くかけのぼる様。ここでは駿才の比喩。
豢養=動物を飼うこと。荀ケを、龍や駿馬になぞらえた上での縁語的表現。
吾子房=曹操は荀ケを得たとき「吾が子房なり」と喜んだ。子房は張良の字。
当塗=「当塗高」。魏のアナグラム。
坐間三日果何香=「荀令香」の故事。『襄陽記』「荀令君至人家坐?、三日香不歇」。
[大意]
 龍にも例えられたほど英才ぞろいの荀氏一族のなかでも、「王佐の才」のある荀ケは、ずばぬけたサラブレッドだった。しかし、彼の主(あるじ)となって「わが子房なり」と自慢げにうそぶいたのは、誰だったか(言わずと知れた、腹黒い曹操だ)。
 高潔の士であった荀ケは、体から不思議な良いにおいがした。他人の家を訪問すると、カーテンに三日間、残り香が漂ったという。遺(い)臭(しゅう)万載(ばんざい)の曹操の権力臭にもまみれなかった彼の香気とは、一体、どんな香りだったのかね。
[評]頼山陽は辛辣だが、荀ケを悲劇の名士として同情を寄せる人も多い。
[参考]篠崎小竹は、頼山陽が蘇軾を好む一方で荀ケを嘲るのは、『論語』の「君子は和して同ぜず」と同様の立派な見識だ、と評している。
 
 
十、仲謀
生子当如孫仲謀 不関天塹護金甌 可憐却被曹瞞餌 力荊襄斗大州
子を生まば当(まさ)に孫仲謀の如くなるべし
関せず 天塹の金甌(きんおう)を護るを
憐れむべし 却って曹瞞に餌(ゑ)ばせられ
(つ)く 荊(けい)襄(じょう) 斗大の州に
 
天塹・・・=孫権の呉が「長江天塹」のおかげで「金甌無欠」であったことを指す。
斗大=斗くらいの大きさしかない、ちっぽけなさま
[大意]
 孫権は、残念な英雄だった。赤壁の戦いで曹操に勝ったときは、曹操から「もし子供をもうけるなら、孫権のような立派な人物がいい」と言われたほど評価された。呉は、長江という天然の要害に守られていたが、若い孫権の政治的才能も立派だった。
 後に曹操は、荊州の地を餌に孫権を釣り、呉が劉備の蜀と争うようにしむけた。孫権は、まんまと曹操の策にひっかかった。彼の覇業の勢いは、ちっぽけな荊州で尽きてしまったのだ。惜しいかぎりだ。
[評]若いとき優秀でも、中高年でだめになる人が多いのは、権力者に限らない。
[参考]頼山陽は文政五年にも「孫権」を七絶に詠んでいる。
  天塹自堪誇北人。菰蘆叢裡足君臣。蓴羹不肯輸羊酪、領得江東千里春。
 
十一、周瑜
東風焼尽北軍船 烟滅長江不見痕 怪得頻頻曲辺顧 還無一顧向中原
東風 焼き尽す 北軍の船
(けむり) 滅して 長江 痕を見ず
怪しみ得たり 頻頻 曲辺に顧みるに
(ま)た一顧として中原に向かふ無きを
 
曲辺顧=「周郎顧曲」の故事。
[大意]
 赤壁の戦いで、東風が吹いた。周瑜が司令官をつとめる呉軍は、火攻めにより、曹操軍の船団を焼き払った。煙が消えたあと、長江の水面には、曹操軍はあとかたもなかった。曹操の本拠地である中原に攻め込む、絶好のチャンスだ。
 しかし周瑜は、中原侵攻作戦を一顧だにしなかった。音楽の才能に恵まれ、酔っ払っていても楽隊の些細なミスを聞くとすぐに振り返ったという周瑜が、中原を振り返らなかった理由は、わからない。
[評]頼山陽は詩人だから勇猛果敢を好むのだろうが、現実はそうはいくまい。
 
 
十二、管寧
瓜分鼎峙竟如何 幾個英雄未息戈 堅坐膝穿還自快 領来一榻我山河
瓜分 鼎(てい)峙(じ) 竟(つひ)に如何
幾個の英雄 未だ戈(ほこ)を息(や)めず
堅坐 膝 穿(うが)つも 還(ま)た自(みづか)ら快とす
領し来(きた)る一榻(いっとう) 我が山河なり
 
=牀榻。寝台兼長椅子。
[大意]
 管寧は高潔な学者だった。時の権力者から何度も出馬を要請されても、その度に丁重に辞退し、出仕しなかった。三国の争乱が果てしなく続いた乱世。天下を狙うギラギラした英雄たちの時代、権力と距離を置く管寧の生き方は、一服の清涼剤のようだ。
 彼は何十年も、質素な自宅の長椅子を愛用し続けた。ひざのところに穴があいても、使い続けた。彼は隠士としての質素な生活に満足した。彼にとって、自由な思索の時間をすごせる一畳ほどの長椅子は、天下と同等の価値のある世界なのだった。
[評]立って半畳寝て一畳、天下取っても二合半。起きて三尺寝て六尺、千石万石も米五合。
[参考]篠崎小竹は、頼山陽は管寧を非難せず仲間のような共感を寄せた、と評している。
 
 
参考サイト
 近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/
 
平成二十六年(2014)一月二十三日 作成
一月二十六日 小改
一月三十日 ルビ追加