壬辰倭寇(文禄・慶長の役)について、中国の『明史』と、わが国(朝鮮)の人はみなこう述べる。「平秀吉(豊臣秀吉の唐名)は、自分の主人を殺して自立し、日本の国中を威圧するために多数の人々を誅殺し、さらに天に矢を射るような無謀な対外戦争まで仕組んだのだ」。これは間違いである。…【中略】… 当時、中国人の許儀後という者が、日本の薩摩州に身を寄せていたが、日本の秘密を詳しく手紙に書いて、こっそり中国に報告した。許儀後の近所に住んでいた中国人は、許儀後のスバイ行為を当局に密告した。秀吉の側近は全員、許儀後を極刑である釜ゆでの刑にすべきだ、と秀吉に上奏した。しかし、秀吉は言った。 「許儀後はもともと明国の人間だ。明国のために日本の秘密を伝えるのは、事のすじみちとして当然のことである。また、他人の油断に乗じて不意打ちをかけるのは、私の本意ではない。まして、古今東西の帝王は、昔からみな社会の底辺の出身者ばかりだ。私が賎しい素性の者だということが大明国に知られても、別に悪いことではない」。 秀吉はそう言って、許儀後のスパイ行為を不問に付した。そして、許儀後を密告した中国人に向かって言った。 「おまえも明国人だろう。同じ明国人をあえて密告するとは、おまえはとんでもない悪人だ」。 このことから考えると、秀吉もかなりの力量をもつ、非凡な人物であったことがわかる。小さな島国の蛮族から身を起こし、海を渡って大国と戦争をすれば、負けるのも必然である。もし秀吉が、中国に生まれて自分の胸の思いを存分に行うことができていたら、ひょっとして世界征服に成功していたかもしれない。 |
僧・惟政、号は松雲。壬辰戦争の後、僧侶の義勇軍の将となり、嶺南の地に布陣した。 敵将の清正が「会見したい」と申し出た。松雲は倭軍の陣営に入った。清正は倭軍の強大さを示して松雲を威圧するため、兵隊たちに鋭い槍や剣を束のように抱えさせ、数里の長きにわたってずらりと立ち並ばせた。だが松雲は少しも怖がる顔色を見せない。清正に会い、ゆるやかな雰囲気で談笑した。清正は松雲に言った。 「貴国に、何か宝物があるか」 松雲は答えた。 「ある。他でもない。おまえの頭こそ宝だ」 「どういう意味だ」 「賞金首だよ。わが国は、おまえの首を、千斤の黄金と万戸の領地と引き替えにしても買い取る。これが宝でなくて何だね」 清正は呵々大笑した。 以上は痛快な逸話だが、作り話だと言う人もいる。「この時、清正の軍隊は強大で、松雲はちょっと会見しただけですぐに退出した。こんな危ない言葉を口にするはずがない。きっと誇張だろう」という説もある。 この十年後、松雲は講和のため日本に乗り込んだ。日本の連中は、松雲が帰国するまで厚くもてなした。 |
惟正。ありゃあ、たいした男だよ。わが朝鮮国では賤民扱いされている僧侶の身分だけどね。惟正が日本に乗り込んで、わが朝鮮国から日本に連行されていた男女三千人を、連れて帰ってきたのは、1605年の旧暦四月だった。 惟正が日本に渡ったのは、その前の年だ。秀吉のやつが死んであの戦争が終わってから、まだ6年目だった。戦争の傷跡も生々しかった。日本軍がわが半島から撤退して戦闘は終わっていたけれど、わが朝鮮国も明国も、日本と講和は結んでいなかった。 あの戦争で、われわれと日本のあいだを行き来した使者の運命は、悲惨だった。中国人の沈惟敬は外交で大ウソをついたのがバレて死刑になり、日本人の要時羅(後述)もスパイと見なされ死刑になった。惟正はあの戦争で英雄となっていたけど、講和の任務に失敗したら、帰国後、責任を問われたかもしれない。いや、そもそも日本の連中は血の気が多い。惟正はスパイと疑われただけで、斬り殺されたろう。 でも、惟正は死生を達観した禅僧だ。敵地である日本に渡ったあとも、悠然と日本各地の美しい自然の風景を鑑賞した。倭人どもは「噂は聞いていたが、ここまですごい人だったとは」と感心した。日本に滞在中、惟正のもとには倭人の貴顕から「ぜひ一目お目にかかりたいと存じます」という要請がひっきりなしに届き、休む日もなかった。 で、大坂に着いた惟正は(加藤注―正しくは京都。漢文の原資料の「大坂」は誤り)、徳川家康と会った。家康は、前年に日本の「征夷大将軍」になったばかりの、最高権力者。惟正はまず「両国は戦争状態を終わらせ、平和な関係を結ぶべきです」と言い、次に「被虜人、すなわち戦争中にわが朝鮮国から強制連行された同胞を、返してください」と言った。 家康は思った。あの戦争は、秀吉がやったこと。自分に責任はない。両国が平和になって悪いことは何もない、と。――まあ、俺は家康から直接聞いたわけじゃないけど、きっとそう考えたのだろうね。なぜなら意外にも、日本側はあっさりと、惟正が被虜人の在日同胞たちを連れ帰ることに合意したからだ。でも、やはり彼らは姑息な日本人だ。そのあと例の件を蒸し返した。 「わが日本国は、貴公と被虜人たちの安全を保証し、貴国まで安全に送り届けることを約束する。しかし、要時羅の一件が残っている。彼が不当逮捕され理不尽に処刑された件について、貴国はその責任をどうとるのか」 みたいなことを言ったのだ。……え? あんた、要時羅(朝鮮語の発音で「ヨシラ」)を知らないのか? あの戦争の最中、和平工作を行っていた対馬の日本人だよ。やつが本当に日本のスパイだったのか、それとも心から戦争終結を願っていたのか、今となってはもうわからないがね。戦争中、小西行長からの極秘のメッセージをわが朝鮮国に伝え、加藤清正の軍隊がわが国に上陸する場所と時期を事前に密告し、主戦派の清正を討ち取るよう働きかけたのも要時羅だった。わが李舜臣も、この要時羅の情報リークのせいであやうく死刑になりかけたんだが――おっと、話がそれた。で、結局、要時羅はあの戦争が終わる直前、明の将軍との会見中に逮捕された。戦後の1599年、北京で行われた戦勝式典のとき、明の皇帝に献上された61名の降倭(日本人投降兵に対する明・朝鮮側の呼称)が処刑された。斬られた中に要時羅もいた。要時羅の日本名? 知らないよ。対馬の「梯七大夫」とか、日本の「弥二郎」という名前の発音を漢字で写したとか、いろんな説があるらしいけどね。 日本側は、惟正の堂々たる立派な態度を見て、皮肉もこめて「わが日本国はあんたを生きて返す。でも、あんたら朝鮮国と明国は外交の使者である要時羅を殺した。さあ、これをどう考える」と、恩着せがましく言ってきたのだ。 惟正は、日本側に言った。 「日本はわが国にとって、万世忘れることのできない仇の国である。だが、交隣(友好関係を保つこと)の約束を交わした以上、おまえたちとの約束は守るから安心しろ。倭人の一人がどうのこうのと、戦争中のことを今さら蒸し返しても、あの戦争の勝敗の結果は変わらないぞ。日本軍がわが国から撤兵した現在、両国のあいだを行き来する和平の使者を逮捕処刑することは、もはやありえない。もし仮に、要時羅が今も生きていて明からわが国に送還されたらならば、わが国は戦前と同様の待遇で迎え、その年のうちに日本に最も近い釜山まで安全に送り届けるだろう。要時羅の一件はもう何年も前のことで、しかも彼を処刑したのは明国の判断だ。日本側はなぜ今それを蒸し返して問題化するのか。それを口実に、わが国との関係を意図的に悪化させる企みがあるか。さもなくば、目撃者がいない海の真ん中で、私を船から海に突き落として殺すつもりか。私は、日本側の誠意を疑わざるを得ない」 惟正の言葉を聞いて、日本の野蛮人どもも「なるほど」と思い、要時羅の件にはもう触れず、「ぜひまた日本にお越しください」と言った。 こうして惟正は、講和の端緒を開くという大任を果たした。彼は帰国する直前、日本から朝鮮国の朝廷に使いを送り、仕事の首尾を詳しく報告した。また、こう要請した。 「私はこれから帰国します。何月何日に釜山港に着く予定です。それにあわせて、釜山港にわが朝鮮国の水軍の船を集結させてください。私たちと釜山まで同行する日本人は、朝鮮水軍の威容を見て、『もしまた戦争になったら日本に勝ち目はない』と恐れおののくでしょう」云々。 統制使の李慶濬(り・けいしゅん)が、朝鮮水軍の軍船を集めて釜山に赴いた。あいにくと風に恵まれず、期日に遅れてしまった。日本人をビビらせる計画は失敗。まあ、よくあることだ。 ともあれ、朝鮮各地から、たくさんの船が釜山に集まっていた。惟正は、日本から連れ帰った三千人あまりの刷還人の身を、李慶濬に預けたのさ。 「彼らを、それぞれの故郷まで船で送ってあげてください」 「わかりました。彼らはあの戦争の不幸な犠牲者です。必ず故郷まで送り届けます」 惟正は安心して去った。で――本当は、ここで筆をやめておけば美談で終わるのだが、事実は事実として書き残すことにしよう。刷還人の大半は文字の読み書きができぬ庶民なので、私が書かねば、誰も書かないだろうからね。 李慶濬は部下たちに、刷還人の男女三千名余りの護送を割り当てた。それが悲劇の始まりだった。 「おまえの故郷はどこだ? 親類縁者に、有名な人や偉い人はいるか?」 そう聞かれて、答えられない刷還人も多かった。無理もない。戦時中に日本に連行されたときはまだ子供で、自分の係累はおろか親の名前も知らぬ者も少なくなかった。 朝鮮水軍の将兵は、目の色が変わった。天涯孤独の社会的弱者たちが、突然、大量に目のまえに現れた。将兵は先を争って刷還人を縛りあげ、自分の奴隷にした。顔が美しい女がいると、その夫を縄で縛って海に投げ捨てて、女だけを奴隷とした。こういう例が続出した。戦場での奴隷狩りよりもひどかった。 そんな噂は朝鮮国の朝廷にも届いた。李慶濬は監督責任を問われて更迭された。新たに着任した李雲龍は、朝鮮国各道の水使に命令をくだし、 「地方の将兵でこのような悪いことをする者がいたら、どしどし摘発せよ」 と命じた。でも、しょせんはお役所仕事。この件で告発された軍人は、結局、ひとりもいなかったのさ。 |
第4章 米谷均「朝鮮侵略後における被虜人の本国送還について」より引用(引用開始) p.117 来日した朝鮮使節によって帰還を遂げた被虜人の場合はどうであろうか。例えば一六〇五年に惟政一行と同行した被虜人たちは、釜山到着後、以下のような扱いを受けたという。(中略) p.118 すなわち、被虜人たちの移送をまかされた水軍兵士たちが、彼らを保護するどころか先を争って捕縛してしまい、身元をはっきりと答えることのできなかった被虜人を、自分の奴婢や妾にしてしまう光景が多々見られたという。(中略) 一六二四年次使節は、被虜人の李成立と金春福から、「朝鮮は被虜人を刷還しても(帰国後の)待遇は甚だ薄いといいます。捕虜となったのはもともと彼らの意思によるものではございません。すでに刷還しておきながら、どうしてそのように冷遇するのですか(19)」と問い詰められている。また李文長という被虜人は、「朝鮮の法は日本の法に劣り、生活するのに難しく、食べていくのが容易ではない。本国に帰っても少しもいいことはないぞ(20)」と吹聴し、使節の招募活動を妨害したという。 p.123 朝鮮側が被虜人の刷還に執着したのは、あくまでそれが国家の体面に関わる問題だったためであり、単に被虜人を憐れむがゆえに執着したわけではなかったのである。 p.125 (19)姜弘重『東槎録』天啓四年(一六二四)十一月二十三日条 (20)姜弘重『東槎録』天啓四年(一六二四)十一月二十七日条 (引用終了) |
寛永十二乙亥年 日本国対馬州太守拾遺平義成、 奉書 朝鮮国礼曹大人足下、 客歳初冬、貴国民生業漁猟者四名、 漂到于本邦石州辺浦、州主為給糧服補舟楫、 遠令使价送達馬島、 茲又済其所之、 附回使之便以護還、 只在使舌、謹冀炳愿、不宣頓首 乙亥 義 成 異国出契 【上記の手紙の意訳】 日本国対馬州太守拾遺平義成より 朝鮮国礼曹大人さまへ 昨年の初冬、貴国の民で、漁労をなりわいとする者四名が、わが国の石見(現在の島根県西部)の海岸に漂着しました。地元の領主(原本の注:石見国には津和野藩と浜田藩があるが、どちらの藩主かは不明)は彼らを保護し、食糧と衣服を与え、壊れた舟を直し、使者をつけて達馬島まで送ってきました。この度、貴国の使節が帰国するにあたり、彼らを一緒に送還申し上げます。委細は随行の使者が口上で申し上げます。それでは。不一 乙亥 義 成 (出典は『異国出契』) |
正保二乙酉年 朝鮮国礼曹参議李徳沫、奉復 日本国臣従四位下侍従対馬州太守平公閤下、 槎使之来、順付漂民、不勝幸甚、 浜海漁氓、冒利軽出、 至於颶漂深入理難生全、 乃蒙貴国明辨疑似之迹、 厚加完恤、 登時解送、 不但小民偏被拯済之仁、 朝廷益知貴大君信義之篤、 感喜何可量也、 貴州致誠護還、 重用歎服、 承恵珍品、 更切感戢、 仍将薄物、聊表謝忱、 莞領是希、 余祝慎夏、 自玉不宣、 乙酉年六月日 礼曹参議李徳飛 異国日記 【上記の手紙の意訳】 朝鮮国礼曹参議李徳沫より 日本国臣従四位下侍従対馬州太守平公閣下へ ご返信 漂着民を使節とともにご送還くださり、幸甚の至りです。海辺の漁民たちは、利益を求めて軽々しく遠洋までこぎ出し、嵐にあって遠くまで流され、本当なら生きて帰れぬところでした。幸い、彼らは貴国のご厚意により、公明な取り調べだけで済み、手厚い保護を受け、即座に護送つきの帰国を許されました。わが国の末端の民が貴国の救済の仁を受けたのみならず、わが朝廷もまた貴国の大君(江戸幕府の将軍)の信義の篤さをますます認識した次第です。感謝の喜びの念は、とても言葉では表せません。貴州(対馬藩)が誠心誠意、わが漂着民を護送してくださったことに、感服いたします。そのうえ、結構な贈り物まで頂戴し、感激のきわみです。当方からも感謝のしるしに、つまらぬ物で恐縮ですが、お返しの品をお送りしますので、ご笑納くだされば幸いです。それでは、残暑が厳しいので、どうぞご自愛下さいますよう。不一 乙酉年六月○日 礼曹参議李徳沫 (出典は『異国日記』) |
長崎は、またの名を瓊浦(たまのうら)という。まことに風土がすぐれて、山も川もうつくしい。ここに住む人は、中国の人とおなじように、かしこく、さとい。男女が結婚の時をうしなったり、しごとにあぶれたりすることがない。その教えは民を正しくするようになっている。いにしえの中国の道が、ずっとおこなわれているのである。むかしから周の礼をならい、孔子の書をよんでいるので、道徳があきらかになり、ものの順序がみだれず、すべての政事がうまくいっている。中国にまけないはずである。
なんでも、まえには、屋敷のうちで、神をよろこばすための芝居がえんぜられた。しばいをけいこするものは、そこで、相公廟をつくった。相公とは、福州人がいいだしたもので、いいつたえによれば、それは雷海青をまつったもの、かれは雨をとめ、田を保護したので、田相公とよばれた。そこで相公廟とよぶのだという。これは、あてにはならないけれども、雷海青のような忠義のひとが、神としてまつられるのは、あたりまえである。役者が、これを祖とするのは、もっともである。しばいの祖を老郎神とする説があるが、老郎神とは唐の玄宗皇帝のことで、それではあまり軽はずみで、さんせいしかねる。ちかごろ、すなわち乾隆二十七年壬午のとし、福建人どうしが、あいあらそい、鐘をならして人をあつめ、あわや大事におよぼうとした。奉行所にうったえたので、とらえて調べられた。すると、このそうどうは、しばいを教えるものが、しくんだのだということがわかった。そこで、そのひとをおいかえし、相公廟をこわし、そこが唐人部屋の敷地となった。これは雷海青にとって不幸なことであった。 |
回数 | 年次 | 江戸幕府 | 間隔 | 特記事項 |
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第1回 | 1607年(慶長12年) | 二代将軍徳川秀忠 | ||
第2回 | 1617年(元和3年) | 徳川秀忠 | 10年 | |
第3回 | 1624年(寛永元年) | 三代将軍徳川家光 | 7年 | |
第4回 | 1636年(寛永13年) | 徳川家光 | 12年 | 柳川一件(1635) |
第5回 | 1643年(寛永20年) | 徳川家光 | 7年 | |
第6回 | 1655年(明暦元年) | 四代将軍徳川家綱 | 12年 | |
第7回 | 1682年(天和2年) | 五代将軍徳川綱吉 | 27年 | 赤穂浪士の討ち入りは1703年1月 |
第8回 | 1711年(正徳元年) | 六代将軍徳川家宣 | 29年 | 新井白石が活躍。「大君一件」 |
第9回 | 1719年(享保4年) | 八代将軍徳川吉宗 | 8年 | 雨森芳洲が活躍 |
第10回 | 1748年(寛延元年) | 九代将軍徳川家重 | 29年 | |
第11回 | 1764年(宝暦14年) | 十代将軍徳川家治 | 16年 | |
第12回 | 1811年(文化8年) | 十一代将軍徳川家斉 | 47年 | 天明の大飢饉(1782-1788)で延期。のち「易地聘礼」(えきちへいれい)で、対馬までで差し止め。 |
あらい‐はくせき【新井白石】
江戸中期の儒者、政治家。名は君美(きんみ)。字は在中、済美。通称勘解由。木下順庵の高弟。徳川家宣、家継に仕え、側用人間部詮房とともに幕政を補佐。武家諸法度の改正、貨幣改鋳、朝鮮通信使礼遇の改革などに尽力。その学問は日本古代や近世史、地理などの方面で実証を重んずるものであり、イタリア人宣教師シドッチから西洋の知識をも得た。詩は盛唐詩に学んで、その典型の再現に成功している。「東雅」等に言語の歴史的変遷を論じてもいる。著「藩翰譜」「読史余論」「古史通」「西洋紀聞」「采覧異言」「折たく柴の記」「同文通考」など。明暦三〜享保一〇年(一六五七‐一七二五)
漢学者で政治家にもなった新井白石は、もともと対馬の西山健甫(原漢文の割注に「名は順泰」とある)と旧友であった。十六歳のとき、自分が作った漢詩一万首を集め、西山健甫を通じて、来日した朝鮮人に批評を頼んだ。朝鮮人は、白石の漢詩の出来ばえに感心し、白石に会うことを申し出た。その上、詩集の序文を書いて、白石の文才を褒めた。後に白石は、木下順庵の門下に入ったが、これも西山健甫の紹介によるものであった。(以下略)
正徳年間の辛卯の年(正徳元年=一七一一年)、朝鮮通信使が日本にやって来た。新井白石は、莫大な経費を要する通信使のもてなしを簡略化した。江戸城での歓迎の宴会では、それまでは猿楽(能楽のこと)を上演していたが、白石は雅楽を上演した。徳川将軍の称号をそれまでの「日本国大君」から「日本国王」に変更し、幕府の将軍が朝鮮国王が対等であることを強調した。白石が旧来の外交慣行を大幅に改めたため、朝鮮通信使の側は反発し、礼儀や書式について江戸城で論争をくりひろげた。結局、朝鮮の使者が折れた。
白石の同門で、有名な漢詩人である祇園南海は、白石が六十歳になったとき、お祝いの漢詩を作った。その七言古詩の中に、このような詩句がある。「朝鮮半島から、一国を代表する使節が来日した。顔を血のように真っ赤にして、礼を争い、石のように頑固で譲らなかった。あなたは、西の階から服のすそをかかげて上り、軽々と霞のように、余裕たっぷりの態度で壇上に上がった。あなたは腰に「紫陽太守」(白石の別の号は「紫陽」で、彼の官は筑後守であった)の印を帯び、眼は稲妻のごとく輝き、ひげは武器のほこのように威圧感があった。あなたが腰の刀に手を掛けて大声をあげると、江戸城の建物の中の柱は震動した。朝鮮国の使者も、恐怖のあまり震え上がった。あなたは、朝鮮の使者の求めに応じて、その場で「撃剣の歌」を作って示したが、その詩句の言葉は、まるで血煙を吹くように激烈だったので、みな、身をすくめてしまった。朝鮮通信使と日本側の礼の改訂についての話がまとまり、宴会の雅楽の演奏が始まると、朝鮮側も日本側も喜びを分かちあった。日本の王家の威儀は、太陽のように輝いた」。(原漢文の割り注。祇園南海の自註に、こうある。「朝鮮通信使は、白石公に『貴国には撃剣の技の達人が多いと、昔から聞いております。今、見ることができるでしょうか』と言った。白石公は『いますぐこの場で見たい、とおっしゃられても、にわかにはご用意できません。私がこの場で、はるばるいらした皆さんのために、概略をお話ししましょう』と言い、その場の席上で『撃剣歌』一篇を作り、朝鮮通信使の一行に示した)。
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(ちょうたいおく 조태억) ![]() ![]() |
朝鮮通信使は、江戸時代に朝鮮王朝が日本に派遣した外交使節団である。豊臣秀吉の朝鮮出兵は両国の関係を悪化させたが、後に、徳川家康の命を受けた対馬藩による粘り強い交渉の末、国交を回復した。朝鮮通信使は1607年から1811年までの間に12回来日し、学術・芸術・産業・文化など様々な分野で交流を深めた。朝鮮通信使に関する日本・韓国双方における資料は、「朝鮮通信使に関する記録 17世紀〜19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史」として、2017(平成29)年にユネスコ「世界の記憶」に登録された。
朝鮮半島の習俗は、漢詩と漢文の才能を最も重んじている。朝鮮にも、中国と同様の科挙などの官吏登用制度がある。朝鮮の使者がわが中国に朝貢に来るときは、使節団には朝鮮国のエリートたる大官が多く参加しており、「オール朝鮮」とも呼ぶべき陣容である。トップの「議政」は、わが中国の宰相にあたる。しかも毎回、必ず朝鮮国王直属の監察官が、お目付役として随行している。朝鮮の中国派遣使節団のメンバーは全員、漢文の才能で有名な、えりすぐりの秀才たちである。
朝鮮人たちは、中国の皇都に参上すると、毎回、中国の漢文の書籍を購入する。あるとき、朝鮮人たちが、中国の王世貞の著作『弇州四部稿』を買おうとした。中国の書籍商は、わざと値段をつりあげが、彼らはそれでも買いたがったので、結局、値段は十倍まではねあがった。朝鮮人が漢文の書籍を好む熱心さは、このようである。
逆に、わが中国の使節が朝鮮国にくだるとき、漢詩文を得意とする知識人は、翰林学士が一名、給事中が一名、という小規模な編成だ。しかも彼らは、出発にあたり、露骨に「本当は、遠い田舎の国になんか行きたくないけど、公務だからしかたない」という、『詩経』の「四牡」の詩さながらの態度を見せる。そんな、やる気のない中国の知識人の来訪を、朝鮮国の文人たちは、手ぐすね引いて待っている。中国の使節が来ると、朝鮮人は立派な漢詩を作り、中国人に贈る。使節団の中国人は、お返しに漢詩を書いて朝鮮人に贈らねばならない。が、えてして、使節団の中国人が漢詩を作る才能は、朝鮮人よりおとっているともある。以前、わが中国のエリート文人であるはずの翰林学士が、朝鮮での漢詩の応酬で彼らの返り討ちにあい、朝鮮人から嘲笑と侮蔑を受け、わが中華文明の恥辱となったことは、一度ならずある。今後は、朝鮮国への使節団の人選は、慎重にとりおこなうべきように思う。漢の植民地だった土地の連中に笑われぬようにしなければならない。
江戸の中頃まで日本の学問レベルは通信使からかなり下に見られていました。七言絶句などの詩文は「稚拙」と酷評。1719年の第9回通信使も、幕府の儒学者の文章を「拙朴にして様を成さない(拙くて文章になっていない)」とけなしています。
しかし、中には通信使に知的対決を挑み、うならせた文化人もいました。その一人が、現代にも通用する健康の心得「養生訓」を著し、「日本のアリストテレス」と称賛された福岡藩の儒学者貝原益軒です。
藩命を受け、益軒が相島(あいのしま)(福岡県新宮町)の接待所へ渡ったのは1682年。そのときの様子が、大正、昭和の郷土誌「筑紫史談」に残ってます。益軒は「生涯の一大快事」と交流の喜びを表明。韓国の千ウォン札に描かれた李退渓(イ・テゲ)など著名な儒学者の思想や教育制度などについて尋ね、詩文を交換しました。朝鮮側の記録は、益軒の詩編を「一行の文人賛美せざるはなし」とたたえています。
詩の本質とは何か。自分の自然な思いや心、志を外に出すことだ。胸にひめた静かな思いや、激しい感情などをあらわにすれば、詩や歌が生まれる。詩の伝統は、三千年前、最古の詩集『詩経』が風雅 の伝統を開いた時に始まる。それ以来、漢や唐など歴代の王朝をへて、詩の韻律のスタイルは洗練を加えられ、数々の名詩が生まれるようになった。
わが清朝の皇帝陛下(当時の皇帝は、聖祖・康熙帝)は、文学と道徳を重視され、風雅の御心をもって人材育成につとめられてきた。そのおかげで、わが清朝は英才が輩出し、詩の学問も日進月歩の勢いである。皇帝陛下にお仕えするわれら臣下も、文芸振興に力を入れてきた。かくて今日、文学の機運は高まり、近隣の海外諸国までもが、わが中華の感化を受け、中華の文化にあこがれ、文芸に熱を入れている。そんな海外諸国の中でも、昔から守礼の国を自称してきた琉球国のレベルは、特にすばらしい。
新公、いみなは堪という人は、学才がすぐれ、博学であり、 詩を作るのがうまく、先祖代々、琉球国の禄を食んできた。彼は、自分が書いた漢詩集「白石余稿」の稿本を、私の叔父で外交担当の恪斎公に託し、北京まで送ってきて、私に序文を書くよう依頼してきた。
私は丙戌の年(1706年。清・康煕45年、日本・宝永3年)に、幸運にも科挙の試験に合格し、翰林院で働くようになった。それから七年。毎日、仕事がとても忙しく、親戚や友人とつきあうひまも、詩文を作って互いに贈りあう時間もないほどだ。
本来、私は多忙で、他人のために序文を書く時間はない。し かし、新公の依頼だけは例外として引き受けた。なぜか。新公は、海の向こうの島国の人だ。数万里もの距離をものともせず、わざわざ私に序文の執筆を求めてきたのだ。その心意気に感じたのである。新公が作った詩を読んでみると、作品の境地は雄大で、構想は比類がないほど優れており、文質彬彬として古代の『詩経』のすぐれた遺風をよく継承している。新公の心と才能は非凡で、海外に燦然と輝いている。彼の詩の精神を分析すると、唐の時代の一流の詩人たちにくらべても、遜色がない。静かな個性の趣は、韋応物や孟郊と同じだ。のびのびとした達意の文体は、唐の元稹と白楽天に匹敵する。骨太で深い造詣に裏打ちされている点では、陳子昂と杜甫と同系だ。情感も技巧もすぐれている点では、劉禹錫と銭起の仲間である。
私は、不思議でしかたがない。遠い島国に、これほどすばらしい詩人が現れたとは。天が生み出した不思議は多い。こんな思いがけぬ奇跡も、中にはあるのだろう。新公は、風雅の境地にひたり、詩書に没頭し、金石 の響きのようなすばらしい詩語をつむぎ出した。私は、遠い異国に住む彼と会って談笑する機会は得ていないが、彼の詩を読み、彼の人となりを理解することができた。そこで、喜んで序文を書かせていただいた次第である。
私は日本に出発する前、昆侖学士(崔昌大)に序文を書いてくれるよう依頼した。しかし当時、公は病気のため、筆を取れなかった。公は序文を書く代わりに、書架の上から『白石詩草』一巻を取り出して余に示し、次のように、はなむけの言葉をかけてくれた。
「この本は、新井白石の漢詩集だ。辛卯の年の朝鮮通信使が、日本で入手してきたものだ。白石の漢詩は、言葉づかいに卑俗で弱いところも多いが、すぐれた響きもないわけでなく、それなりに手ごわい。君がこれから朝鮮通信使の書記として日本に渡れば、この白石という人物と、漢詩の応酬や外交で、ガンガンやりあうことになる。(実際は白石は日本で失脚しており、次の朝鮮通信使と漢詩の応酬を行うことはなかった――加藤徹) 君の文才があれば、互角に渡り合えるだろう。その点は心配していない。しかし、日本は土地が広い。山や川など自然も美しいと聞いている。きっと日本には、高い才能と広い見識をもつすぐれた人物もいるはずだ。わが朝鮮通信使と直接に会って、漢詩の応酬をする日本人は、日本の全人口のごく一部にすぎない。直接、君と漢詩の応酬はしないものの、間接的に君が書いた漢文や漢詩を入手して、あれこれ辛辣な批判を加えようとする手ごわい日本人が、きっといるはずだ。古代中国の葵丘の盟のとき、斉の桓公に面従腹背する諸侯が出てしまったが、外交では、このような心服しない者が一人、二人でも現れることを恐れるべきである。小さな丘には松柏のような立派な木は生えない、という意味のことわざもあるが、君は、日本は小さな島国だから大人物がいるはずはない、と見くびってはならない。君はわが国の知識人の代表として日本に渡り、千篇、万篇と、すばらしい漢詩を雨や風のようにどんどん量産してくれ。昔、三国志の諸葛孔明は、南方の蛮族の酋長である孟獲を何度も捉えてはまた逃がし、最後にようやく心服させた。しかし君は、孔明のような策をとってはならん。孟獲のような低レベルの、目の前の日本人を心服させることに気を取られ、大局的な使命を見失ってはならない。古代中国の項羽が鉅鹿で見事に戦い、天下の諸侯を畏怖させたように、君も、天下を相手に、わが朝鮮国の漢文のレベルの高さを輝かせてくれ」
私は、うやうやしく感謝し「もったいないお言葉です。私の未熟な文才では、ご期待に添えないのが、恥ずかしいです」と申し上げた。
使節団に選ばれれば、帰国後に昇進の機会がありました。それでも誰もが行きたがったわけではありません。 隣の明は憧れの先進国でしたが、日本は後進国とみなされ、そのうえ荒海を渡る命懸けの旅だったのです。 通信使に選ばれ、己の才能を嘆く人もいました。
第11回通信使(1764年)の正使を命じられた男は「年とった母がいつ亡くなるか分からない」と固辞しました。 代わりの正使に任じられたチョオムは対馬のサツマイモを持ち帰り、釜山に植えたという説があります。 正使交代がなければ、サツマイモは朝鮮に伝来しなかったかもしれません。
「一月二十二日 大坂城」の記述より同上『日東壮遊歌』東洋文庫662, p281-p282より引用。引用開始。
(前略) 美濃太守の宿所の傍らの 高殿にのぼり
四方を眺める 地形は変化に富み
人家もまた多く 百万戸ほどもありそうだ
我が国の都城の内は 東から西に至るまで
一里といわれているが 実際は一里に及ばない
富貴な宰相らでも 百間をもつ邸を建てることは御法度
屋根をすべて瓦葺きにしていることに 感心しているのに
大したものよ倭人らは 千間もある邸を建て
中でも富豪の輩は 銅を以って屋根を葺き
黄金をもって家を飾りたてている その奢侈は異常なほどだ
南から北に至るまで ほぼ十里といわれる
土地はすべて利用され 人家、商店が軒を連ねて立ち並び
中央に浪華江[淀川]が 南北を貫いて流れている
天下広しといえこのような眺め またいずこの地で見られようか
北京を見たという訳官が 一行に加わっているが
かの中原[中国]の壮麗さも この地には及ばないという
この良き世界も 海の向こうより渡ってきた
穢れた愚かな血を持つ 獣のような人間が
周の平王のときにこの地に入り 今日まで二千年の間
世の興亡と関わりなく ひとつの姓を伝えきて
人民も次第に増え このように富み栄えているが
知らぬは天ばかり 嘆くべし恨むべしである
この国では高貴な家の婦女子が 厠へ行くときは
パジを着用していないため 立ったまま排尿するという
お供の者が後ろで 絹の手拭きを持って待ち
寄こせと言われれば渡すとのこと 聞いて驚き呆れた次第
(以下略)
「二月十六日 品川→江戸」の記述より(1764年)
十六日、雨支度で 江戸に入る
左側には家が連なり 右側は大海に臨む
見渡す限り山はなく 沃野千里をなしている
楼閣屋敷の贅沢な造り 人々の賑わい男女の華やかさ
城壁の整然たる様 橋や舟にいたるまで
大坂城[大阪]、西京[京都]より 三倍は勝って見える
左右にひしめく見物人の 数の多さにも目を見張る
拙い我が筆先では とても書き表せない
三里ばかりの間は 人の群れで埋め尽くされ
その数ざっと数えても 百万にはのぼりそうだ
女人のあでやかなること 鳴護屋[名古屋]に匹敵する
(以下略)
【原漢文】※尊皇思想家の高山彦九郎(たかやま ひこくろう、1747−1793)が活躍するより前に、朝鮮の李瀷は日本の尊皇思想家の動向を正確に把握していた。
日本維居海島、開国亦久、典籍皆具。陳北渓『性理字義』、『三韻通考』我人従倭得之。至於我国之『李相国集』、国中已失、而復従倭来、刊行于世。凡倭板文字、皆字画斉整、非我之比。其俗可見。
(中略)
近聞、有忠義之士、憤東武之雄剛、西京之衰弱、欲有所為、名位不達、匹夫無所施。 西京者、倭皇所居。東武者、関伯所居云。
前此、有山闇斎及其門人浅見斎者、議論激昂、以許魯斎仕元為非。蓋有為而発也、未嘗応諸侯徴辟(以下略)
【大意】
日本は海の中に孤立した島国だが、開国以来の歴史は古く、漢文の古典や書籍がそろっている。朱子の門人である陳北渓が書いた朱子学の用語集『性理字義』や、漢字の音韻についての専門書『三韻通考』などは、倭から輸入して手に入れた本である。わが国の高麗時代の文人・李奎報の詩文集『李相国集』も、わが国では失われてしまったので、倭から逆輸入して刊行し、再び世の中に出回るようになったのである。倭の木版本の文字は、どれも字画が端正できれいであり、わが国の本の文字が乱雑なのとは比べものにならない。倭の民度の高さには、見るべきものがある。
(中略)
近ごろ聞くところによると、倭の忠義の士たちは、「東武」(江戸のこと)が盛強なのに「西京」(京都のこと)が衰微していることに憤り、何か事を起こそうと考えているが、地位も名声もないため、どうすることもできない、という状況らしい。西京とは、「倭皇」(天皇に対する朝鮮側の呼称)がいる場所である。東武とは、関伯(江戸幕府の将軍に対する朝鮮側の呼称)がいる場所。
以前、山崎闇斎と、その門人の「浅見斎」(正しくは、浅見絅斎)という者がいて、尊王論について激しい議論を展開した。かつて中国の儒学者・許衡(許魯斎)は、自国を滅ぼしたモンゴル人の元王朝に仕えた。浅見らは、許衡の態度は間違っている、と批判した。彼らは、諸侯から招かれても出仕しようとせず、浪人のままだった。(以下略)