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雅楽「蘭陵王」 |
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「礼失而求諸野」「中国失礼、求之四夷」 李海応『薊山紀程』十四日 清簟樓台絳帳垂,城南大路匝胡兒,王風委地求諸野,禮樂衣冠盡在斯。 清簟の楼台、絳帳垂る。城南の大路に胡児匝る。王風は地に委てられ諸を野に求むれば、礼楽と衣冠とは尽く斯に在り。 セイタンのロウダイ、コウチョウたる。ジョウナンのおおじにコジめぐる。オウフウはチにすてられ、これをヤにもとむれば、レイガクとイカンとはことごとくここにあり。 【注】『漢書』芸文志:仲尼有言「礼失而求諸野」。 『三国志』巻三十・東夷伝;雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。 |
『芝峰類説』(下) 朝鮮群書大系. 續々第22輯 朝鮮古書刊行会 大正4年 (近代デジタル ライブラリーの こちらの頁) | |
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仲尾宏・ソウ(曹のたて棒一本)永禄(編)『朝鮮義僧将・松雲大師と徳川家康』(明石書店、2002)ISBN 9784750315874から引用 |
p237-p238 李元植「講和使僧松雲大師と日朝善隣外交」より引用 松雲大師と清正との会見において交わされたという「説宝和尚」の話は興味深い。『奮忠舒難録』所収「密陽表忠祠松雲大師影堂碑銘并序」に「入倭諭意清正、三往三返、尽得要領、正問朝鮮有宝乎、曰無、有宝在日本、若頭是也、正色沮」とある。また、「芝峯類説中記松雲事蹟」によれば「松雲入倭営、賊衆列位数里、槍剣如束、松雲無怖色、見清正従容談笑、清正謂松雲曰貴国有宝乎、松雲答曰我国無他宝、唯以汝頭為宝、清正曰何謂也、答曰我国購汝頭金千斤、邑万家、非宝何、清正大笑」。 また、「於于野談中記松雲事蹟」にも「嘗入賊陣倭将清正。清正曰爾国何宝最貴、政曰我国無所宝。所宝惟将軍之首也、清正強笑而中実憚之」。とある。すなわち、清正が貴国にはどんな宝があるかとたずねると、松雲は別に宝というものはないが、あなたの首が宝になるでしょうというと、清正はなぜなのかとただした。すると松雲は、あなたの首は金千斤に値するので、それをもって村の家万軒を購うことができるから宝でなくて何でしょうかと問い返すくだりは面白い。 (加藤徹注:上記文中の「芝峯類説中記松雲事蹟」は独立した書名ではなく、 李晬光・著『芝峰類説』(峯は峰の異体字)の中の松雲の事蹟を記したくだり、の意。この漢文の原文「我国購汝頭金千斤、邑万家、非宝何」を正しく訳すと「我が国はあなたの首に賞金をかけています。千斤の黄金と、一万戸の領地です。これが宝でなくて何でしょうか」となる) |
p184 金栄作「松雲大師の加藤清正との外交談判」より引用
加藤清正は、西生浦に到着した後、朝鮮の王子が日本に渡来して、謝罪すれば、日本の軍隊が撤退するという噂をまき散らした後、松雲大師に面談を要請した。松雲大師が加藤清正の営中に入った時、完全武装した倭兵たちが四方を幾重にも囲む中で会談を行った。加藤清正は、松雲大師を脅かすつもりであった。しかし、松雲大師は、少しも臆する気配もなく、堂々と会見に臨んだ。その対話の中に、次のようなものがあったと言われる。 加藤清正「帰国には宝物があるか」 松雲大師「ある」 加藤清正「何か」 松雲大師「あなたの首だ(77)」 上のエピソードから松雲大師に「説宝和尚」という別号が付いた(78)。 p193 (77)『再造藩邦志』。 |
p355-p356 米谷均「松雲大師の来日と朝鮮被虜人の送還について」より引用 松雲大師とともに帰国した被虜人のうち、その後の消息を知ることができる者は二名に限られる。一人は朴守永(朴寿永)で、先述したように、帰国後、乱時における「附賊叛国の罪」を糾弾されて処刑された。もう一人は宋象賢の妾で、こちらは乱時における節義保持の誉れ高く、帰国後これを遠近に喧伝されたという(慶七松『海槎録』下)。しかし彼ら以外の一、三八九人の被虜人の消息については判然としない。被虜人を乗せた船が釜山に到着した直後の情景を、趙慶男は左記のように記している。 【史料12】趙慶男『乱中雑録』四、乙巳(一六〇五)四月条 正(*松雲大師)は刷還した被虜人を(統制使の)李慶濬に託し、彼を通じて随時分送してもらおうとした。李慶濬は配下の船団に命じて、事後処理を委ねた。船将たちは、(被虜人の)男女を受領する時になると、先を争って彼らを捕縛してしまった。その有様は略奪より甚だしかった。(被虜人が)自分の係累を問われて返答することができなければ――幼少の時に連行された者は(出身地が)朝鮮であることを知るのみで、係累や父母の名を知らない者が多かったのである――、全て自分の奴とした。(被虜人が)美女であれは、その夫を縛って海に投げ捨て、自分の物にしてしまった。こうした所業は、けっして一、二の例外ではなかった。(しかし)天は高く卑を聴いて、この事は(朝廷に)報知された。ただちに李慶濬は罷免され、代わりに李雲龍を(統制使に)充てた。よって各道の水使に命じて辺将の横暴を摘発し、事を正そうとした。(しかし)水使たちは(これを)見て報告書を出したが、ついに(辺将の横暴を)告発することはなかった。 (『大東野乗』六)これによれば、松雲大師は被虜人に対する処置を統制使の李慶濬に委ねたが、彼の船将たちは被虜人を争って捕縛し、被虜人が身分係累を返答できなかった場合は、ほしいままに彼らを自己の奴や妾にしてしまう者が続出したという。後に李慶濬はこの一件の責任を問われて統制使の職を罷免され、狼藉を働いた軍官の摘発が後任の李雲龍によって試みられたが、結局うやむやになってしまったようである。受け入れ体制を整えないまま、大量の被虜人が一挙に帰国したことが、このような混乱を招いたものと考えられるが、その責を松雲大師に問うのはいささか酷な話であろう。被虜人帰還後の事後処理の不手際は、以後の回答兼刷還使の場合においても散見されるからである。しかし遺憾ながら、松雲大師が帯同した千を越す被虜人たちが、おのおの無事に故郷へ帰ることができたかどうかは、杳としてわからないのも事実なのである。 |
鄭杜煕・李[王景][王旬]編著、金文子監訳、小幡倫裕訳 『壬辰戦争 16世紀日・朝・中の国際戦争』明石書店、2008 |
鄭杜煕「李舜臣に関する記憶の歴史と歴史化」より引用(引用開始) pp253-254 壬辰戦争の戦争史の中で李舜臣にのみ視線を集めようというのは、この戦争で侵略者日本に大いに匹敵するだけの人物として前面に押し出せる人物が、李舜臣しかいないからだといってもいい。そうした過程を通じて壬辰戦争は、実際は朝鮮王朝をほとんど滅亡に至らしめた戦争だったにもかかわらず勝利した戦争として想像された。そして、このような想像が厳しい現実を忘れさせた。さらに、植民地支配の恐ろしい経験が、壬辰戦争で経験した凄惨な敗北に重なり合い、韓国人の潜在意識の中に、日本あるいは日本の侵略が大いなる恐怖あるいは傷跡として深く残ることになった。このような常識的な次元で考えてみると、韓国人にとっては日本とはあまりにも恐ろしい傷を残した相手だったため、その傷に対峙する勇気がまだ足りないのではないかと思う。それが日本に対する誇張された優越感として表現されたり、あるいは日本を実際よりも低く見ようとする誤った意識として表出するのである。 これまで李舜臣に対する記憶の歴史をたどる中で、韓国での李舜臣論はいわゆる韓国の民族主義と不可分の関係にあるということがわかった。しかし筆者は、韓国と日本の関係で民族主義的接近を試みることは非常に危険であるという点を強調したい。李舜臣と壬辰戦争はすでに四百年前の事実であり、さらには植民地時代ですら半世紀以上が過ぎている。(中略)これを韓国民族と日本民族の問題としてアプローチしていたら、破局だけが待っているという点を強調したい。(下略)(引用終了) 第4章 米谷均「朝鮮侵略後における被虜人の本国送還について」より引用(引用開始) p117 来日した朝鮮使節によって帰還を遂げた被虜人の場合はどうであろうか。例えば一六〇五年に惟政一行と同行した被虜人たちは、釜山到着後、以下のような扱いを受けたという。 (中略) p118 すなわち、被虜人たちの移送をまかされた水軍兵士たちが、彼らを保護するどころか先を争って捕縛してしまい、身元をはっきりと答えることのできなかった被虜人を、自分の奴婢や妾にしてしまう光景が多々見られたという。(中略) 一六二四年次使節は、被虜人の李成立と金春福から、「朝鮮は被虜人を刷還しても(帰国後の)待遇は甚だ薄いといいます。捕虜となったのはもともと彼らの意思によるものではございません。すでに刷還しておきながら、どうしてそのように冷遇するのですか(19)」と問い詰められている。また李文長という被虜人は、「朝鮮の法は日本の法に劣り、生活するのに難しく、食べていくのが容易ではない。本国に帰っても少しもいいことはないぞ(20)」と吹聴し、使節の招募活動を妨害したという。 p123 朝鮮側が被虜人の刷還に執着したのは、あくまでそれが国家の体面に関わる問題だったためであり、単に被虜人を憐れむがゆえに執着したわけではなかったのである。 p125 (19)姜弘重『東槎録』天啓四年(一六二四)十一月二十三日条 (20)姜弘重『東槎録』天啓四年(一六二四)十一月二十七日条 (引用終了) |
朝鮮国礼曹為通諭事 国家不幸猝被兵禍八路生霊陥於塗炭其僅免鋒刃者又皆係 累迄今二十余年矣其中豈無思恋父母之邦以為首丘之計而 未見有襁負道路而来者此必陥没既久無計自出其情亦可 憐也 国家於刷還人口特施寛典丁未年間使臣率来被虜人口並令免 罪至於有役者免役公私賤則免賤完復護恤使之安挿本土其 所刷還之人亦皆得見親党面目復為楽土之氓在 日本者亦必聞而知之矣況今 日本既已殲滅我 国讐賊尽改前代之所為致書求款 国家特以生霊之故差遣使价被擄在 日本者生還本土此其時也若一斉出来則当依往年出来人例 免賤免役完復等典一一施行諭文所到劃即相伝依諭文通 告使价之回一時出来庶無疑畏遷延免作異域之鬼事照験施 行須至帖者 右帖下被擄士民准此 (以下の日付、印判、署名欄などは略) |