HOME > 明清楽資料庫 > このページ

付録 『通航一覧』より

最初の公開 2012-10-25 最新の更新 2015-5-11
[朝鮮通信使と雅楽] [漂着民相互送還体制] [参考 薊山紀程] [家康とベトナム]
[『壬辰戦争』より引用] [朝鮮国礼曹俘虜刷還諭告文] [松雲大師惟正]

朝鮮通信使と雅楽
正徳元年十一月五日(辛卯年、西暦1711/12/14)、江戸城内で朝鮮通信使に雅楽を見せた時の記録。
【日本】新井白石 1657-1725
(あらいはくせき)

【朝鮮】趙泰億 1675-1728
(ちょうたいおく 조태억)

(句読点、濁点等は一部を改めた)
  1. 正徳元年十一月三日に登城賜宴の礼あり。(自注:此時御三家御相伴の例、はいせしなり)此時燕楽を賜ふ。天和の時迄は例として猿楽ありしが、此時は雅楽にて、(自注:韓客皆々感服し、殊に高麗楽の日本に伝へて其国に伝ざりしを恨める所の事、「鶴林唱和」などに多く見ゆ)新井筑州も信使と同席して、其舞曲の問答をなす。(自注:「燕楽筆語」一篇有正徳朝鮮聘使録附言)
  2. 長保楽
    即是高麗部楽、【美】」貴邦猶有是舞耶?【美】」勝国之音今則亡矣【趙】」…
  3. 陵王
    …高斉之楽、何以伝播於貴邦耶?【任】」天朝通問於隋唐之日所伝来也【美】」此等楽譜、雖非三代之音、隋唐以後音楽、独伝天下不伝之曲、誠可貴也【趙】」天朝与天為始、天宗与天不墜。天皇即是真天子、非若西土歴朝之君以人継天易姓代立者。是故、礼楽典章、万世一制。若彼三代礼楽、亦有其足徴者。何其隋唐以後之謂之哉【美】」有礼如此、有楽如此、乃不一変至華耶!?【趙】」手之舞之、足之踏之、無不中於其節者。最妙【崔】」奏是曲者、其先高麗人。因以「狛」為姓。其於声楽当代第一、其仮面亦数百年之物也【美】」

 大意(「2ちゃんねる」乃至「ニコ動」風の文体による超意訳)――
 正徳の朝鮮通信使のとき。江戸城でのレセプションで、日本の雅楽を見せた。それまでは、朝鮮通信使の一行が来ると、日本の能楽を見せていた。
 でも、朝鮮通信使は
「今の中国人は、髪型を辮髪にして堕落してる。てめえら日本人は、チョンマゲでチョッパリで野蛮だ。 自分たち朝鮮人だけが、髪型も頭の中身も、中華文明の正統をになっている。ウリジナル、マンセ!」
という屈折したナショナリズムをもっていた。
 そんな彼らに日本の能楽を見せても、「キモい」と思うだけで、ちっとも感心しなかった。
 そこで、江戸幕府のブレーンで、ちょっとウヨっ気もある漢学者の新井白石は、日本の雅楽を、朝鮮通信使に見せることにした。
 千年以上の歴史をもつ雅楽の曲目の中には、中国本土や朝鮮半島ではとっくに滅んでしまい、日本にしか残っていない古い曲も多い。白石は、
「どうだ! 日本文化の奥深さに、恐れいったか。おめえらがどんなに威張っても、朝鮮にこんな古い音楽はないだろ。(゚∀゚)ウヒャヒャヒャ.」
と、自慢した。
雅楽「蘭陵王」
 新井白石は、朝鮮通信使の正使(趙泰億)や副使らと同席し、雅楽を見ながら、筆談で「会話」をした。
 当時の東アジアの知識階層は、国籍を問わず漢文の読み書きができたので、外国語を話せなくても漢文の筆談で意思疎通ができたのである。
 目の前の舞台上で演じられる雅楽の演奏と舞いを見つつ、  彼らが交わしたメモの記録は、文体こそ漢文なので格調高いが、内容は「ニコニコ動画」の再生画面に流れるコメントと同様、けっこうエグくて面白い。
 以下、現代の若者にもわかるようあえて通俗的な口語体に訳す。

↓『通航一覧』巻82より
【「長保楽」を見ながら】
(白石のメモ)これは高麗、つまり君たちの国の先祖の音楽ですよ。貴国には自分たちの先祖の音楽が残ってますか?
(朝鮮の正使のメモ)うーん、この音楽は残ってないねえ。…

【「蘭陵王」を見ながら。】
(白石が筆談で説明する) 舞楽の「陵王」は、 6世紀、北斉のイケメンの貴公子・蘭陵王長恭が、 北周の軍隊を、 洛陽の金墉城で打ち破ったときのエピソードを 再現した舞楽だ。 管弦楽の「蘭陵王入陣曲」と同じだね。
(朝鮮の副使のメモ)ふーん、でも北斉の高長恭にちなむ古い舞楽が、どうやって貴国に伝わったの?
(白石、答える)わが天朝が、千年前、隋や唐と交流していた時代に、日本に伝わってきたんだよ。
(正使、感心して)これらのメロディーは、三千年前の夏・殷・周の音楽ほどは古くないけど、千年前の隋や唐の音楽でさえとっくに滅んじゃってるから、 世界で唯一日本にだけこんな古い曲が伝わってるなんて、本当に貴重だよね。
(白石、自慢げに)わが天朝の起源は、天と同じく古い。代々の天皇陛下の治世も、天と同様に絶えることなく続いてきた。 わが国の天皇こそ、本当の天子さまだ。君たち西の国(中国や朝鮮のこと)の歴代の君主は、しょせんは普通の人間だ。 西の国じゃ、天命を受けて王朝を始めても、せいぜい数百年で次の王朝に取って変わられる。 それに比べ、わが国の天皇家は、なにしろ神話の時代から続く万世一系だからね!  君らの国と違って、古式の礼楽も正しく伝わるのは、あたりまえなのだよ。 いや、隋唐の古い音楽だって、目じゃないのさ。孔子よりも古い、三千年前の古代の正しい音楽のなごりも、わが国には残ってるはずだ。
(朝鮮の正使)そんなに古くて正しい礼や音楽が残ってるなんて、日本くらいじゃね。見なおしちゃったよ。 おめえら日本人が、もうちょっと頑張れば、俺たち朝鮮人と同じ小中華のレベルになれるぞw
(副使)あの踊り、手や足の動かしかたは、どれもピッタリ決まってるねえ。すばらしい。8888888888
(白石)あの俳優は日本人だが、先祖は高麗人なので、「狛」(こま)という姓を名乗っている。今の音楽界ではナンバーワンだ。 彼が使ってる仮面も、数百年前から伝わるアンティークだ。ね、俺たち日本人、すごくね?

(訳者注:原文の漢文は格調高いですが、彼らの交わした内容のナショナリズムのレベルは、 今日の壺厨とそんなに変わらないので、あえて2ちゃん風の文体模写で訳してみました)


実務者レベルにおける漂着民相互送還体制
 日朝両国の政治家レベルがナショナリズムのせめぎあいをしていた間も、実務者レベルでは、淡々と外交の仕事が続けられていた。
 例えば、鎖国体制下でも、自国に漂着した外国の「漂流民」は、政府が責任をもって保護し、相手国に送還するという黙契が、 当時の日本・朝鮮・清国の間に存在していた。
 以下はその一例。
寛永十二年(乙亥年、西暦1635)と正保二年(乙酉年、西暦1645)、日本に漂着した朝鮮の漁民を送還した時の、両国のやりとり。

寛永十二乙亥年
日本国対馬州太守拾遺平義成、 奉書
朝鮮国礼曹大人足下、 客歳初冬、貴国民生業漁猟者四名、 漂到于本邦石州辺浦、州主為給糧服補舟楫、 遠令使价送達馬島、 茲又済其所之、 附回使之便以護還、 只在使舌、謹冀炳愿、不宣頓首
乙亥 義 成 異国出契

正保二乙酉年
朝鮮国礼曹参議李徳沫、奉復
日本国臣従四位下侍従対馬州太守平公閤下、 槎使之来、順付漂民、不勝幸甚、 浜海漁氓、冒利軽出、 至於颶漂深入理難生全、 乃蒙貴国明辨疑似之迹、 厚加完恤、 登時解送、 不但小民偏被拯済之仁、 朝廷益知貴大君信義之篤、 感喜何可量也、 貴州致誠護還、 重用歎服、 承恵珍品、 更切感戢、 仍将薄物、聊表謝忱、 莞領是希、 余祝慎夏、 自玉不宣、
乙酉年六月日
    礼曹参議李徳飛 異国日記

【上記の手紙の意訳】
日本国対馬州太守拾遺平義成より
朝鮮国礼曹大人さまへ
昨年の初冬、貴国の民で、漁労をなりわいとする者四名が、わが国の石見(現在の島根県西部)の海岸に漂着しました。地元の領主(原本の注:石見国には津和野藩と浜田藩があるが、どちらの藩主かは不明)は彼らを保護し、食糧と衣服を与え、壊れた舟を直し、使者をつけて達馬島まで送ってきました。この度、貴国の使節が帰国するにあたり、彼らを一緒に送還申し上げます。委細は随行の使者が口上で申し上げます。それでは。不一
乙亥 義 成  (出典は『異国出契』)

朝鮮国礼曹参議李徳沫より
日本国臣従四位下侍従対馬州太守平公閣下へ ご返信
漂着民を使節とともにご送還くださり、幸甚の至りです。海辺の漁民たちは、利益を求めて軽々しく遠洋までこぎ出し、嵐にあって遠くまで流され、本当なら生きて帰れぬところでした。幸い、彼らは貴国のご厚意により、公明な取り調べだけで済み、手厚い保護を受け、即座に護送つきの帰国を許されました。わが国の末端の民が貴国の救済の仁を受けたのみならず、わが朝廷もまた貴国の大君(江戸幕府の将軍)の信義の篤さをますます認識した次第です。感謝の喜びの念は、とても言葉では表せません。貴州(対馬藩)が誠心誠意、わが漂着民を護送してくださったことに、感服いたします。そのうえ、結構な贈り物まで頂戴し、感激のきわみです。当方からも感謝のしるしに、つまらぬ物で恐縮ですが、お返しの品をお送りしますので、ご笑納くだされば幸いです。それでは、残暑が厳しいので、どうぞご自愛下さいますよう。不一
乙酉年六月○日
    礼曹参議李徳沫 (出典は『異国日記』)


以下、それぞれの書簡文の語注と、書き下し文を示す。
【書き下し文】
日本国対馬州太守拾遺平義成、書を
朝鮮国礼曹大人足下に奉ず
客歳の初冬、貴国の民の漁猟を生業とする者四名、漂ひて本邦の石州の辺浦に到る。州主、為に糧服を給し、 舟楫を補し、遠く使价をして達馬島まで送らしむ。茲に又、其の之く所に済り、回使の便に附して以て護還せしむ。 只、使舌に在り。謹しみて炳愿ならんと冀ふ。不宣、頓首。
乙亥 義 成
【語注】
○日本国対馬州太守拾遺平義成・・・対馬府中藩の第二代藩主、宗義成(一六〇四〜一六五七)のこと。「対馬藩」「藩主」「宗義成」は日本語的な表現なので、漢文的に改めてこう名乗っている。なお「宗」は苗字であり、姓は「平」(桓武平氏)である。江戸時代までは、姓と苗字は別のものだった。また、中国や朝鮮には、姓はあっても苗字はなかった。日本人は、日常生活では苗字を使ったが、正式な場合(京都の朝廷から官位をもらうとか、漢文で外国人に手紙を送る、などの場合)には姓を使った。例えば徳川家康も、正式には「源家康」である。明治に入り、西洋の戸籍制度の影響で、苗字と姓と氏が統合され、現在に至っている。 ○奉書・・・お手紙を差し上げます。 ○(擡頭。タイトウ)・・・書簡文では、相手や貴人に関する語があれば、その直前で改行し、次の行の行頭にその字句が来るようにして、書き手の敬意を示す。敬意によっては、通常の行頭と同じ高さにそろえる場合、行頭より一字高くする場合、二字高くする場合、など、いろいろある。この手紙でも、相手の宛名「朝鮮国礼曹大人足下」が行頭に来るようにする。もし書簡文中に、相手よりも偉い「朝鮮国王殿下」(朝鮮は冊封国なので、王の継承は「陛下」より一つ下の「殿下」)を書く場合は、通常の行頭より一文字ぶん高くあげて書いてもよい。 ○礼曹・・・儀礼を司る役人。国によって外交を担当する官署は違った。当時の朝鮮は中国(明王朝)の冊封国で、独自の外交権を持てなかったため、中国の手前「外務省」にあたる役所を建てられず、「礼曹」等が外交の実務を担当した。 ○大人・・・たいじん。立派な人。敬語。 ○足下・・・敬語。玉机下、足下、閣下、殿下、陛下、と、相手の身体からの距離が遠くなるほど、敬意が高まる。 ○客歳・・・昨年 ○石州・・・日本語「石見国」(現在の島根県東部)の漢文的表現 ○州主・・・日本語「藩主」の漢文的表現 ○舟楫・・・シュウシュウ。舟と「かじ」(楫は、かじ、かい、櫓などを漠然と広く指す)。 ○使价・・・シカイ。使節のこと。 ○回使・・・朝鮮から対馬に渡り、また朝鮮に戻る使節。 ○使舌・・・使者が口頭で申し上げる言葉。 ○「謹冀炳愿」「不宣」「頓首」・・・書簡文の最後の決まり文句。「謹冀」は、謹みて冀ふ。「炳」は、明らか。「愿」は、きまじめで実直。「不宣」は、「まだ十分に述べ尽くしておりません」の意で、「不一」「不悉」「不尽」より少し改まった言い方。「頓首」は、本来の意味は「頭を地面にすりつけるように低く下げて拝礼する」だが、書簡文では「敬具」「再拝」「謹言」「恐惶謹言」と同じく末尾を示す語。 ○乙亥・・・六十干支の十二番目。干支は、年にも日にも使うが、ここでは「乙亥年」の意で、一六三五年である。一六三五年は、中国では「崇禎八年」、 日本では「寛永十二年」である。朝鮮は中国(当時の明王朝)の冊封国だったため、独自の元号を使うことを中国から許されず、中国の暦をそのまま使い「崇禎八年」と書くか、干支で「乙亥」等と書くしかなかった。対馬側は、朝鮮側の立場を配慮して、干支を使ったのである。
【書き下し文】
朝鮮国礼曹参議李徳沫、
日本国臣従四位下侍従対馬州太守平公閤下に奉復す。槎使来たるや、順ひて漂民を付す。幸甚に勝へず。浜海の漁氓、利を冒して軽がるしく出でて、颶漂し深入し、理として生全し難きに至る。乃ち貴国の疑似の迹を明辨し、厚く完恤を加へ、登時に解送するをするを蒙る。但だ、小民の偏へに拯済の仁を被るのみならず、朝廷も益ます貴大君の信義の篤きを知る。感喜、何ぞ量るべけんや。貴州、誠を致して護還す。重ねて用て歎服す。珍品を恵するを承け、更に切に感戢す。仍ほ薄物を将て、聊か謝忱を表す。莞領を是れ希ふ。余は祝る、夏を慎しみ、自玉せよ。不宣
乙酉年六月日
    礼曹参議李徳沫
【語注】
○礼曹参議・・・儀礼の役所の役人のトップ。事実上の外務次官にあたる。 ○李徳沫・・・朝鮮の人名。 ○閤下・・・「閣下」と同様の敬語。 ○槎使・・・海外派遣使節。「槎」は「いかだ」。 ○氓・・・ボウ。故郷を離れて浮浪する、悪い民。 ○颶・・・颶風(グフウ)。「暴風」のこと。 ○疑似之迹・・・漢文古典『呂氏春秋』慎行の「疑似之迹、不可不察」をふまえた表現。 ○恤・・・「救恤」(キュウジュツ。困ってる人をあわれみ、金品をめぐんで救う)、 「賑恤」(シンジュツ。被災者や貧民をあわれみ、金品をめぐんで助ける)の意。 ○登時・・・即座に。 ○解送・・・護送(する)。 ○拯済・・・救済(する)。 ○貴大君・・・貴国(日本を指す)の大君(タイクン。徳川将軍の対外的な呼称) ○感戢・・・感激。「戢」は音シュウ、訓ヲサむ、意味は「集めて中にしまいこむ」。 ○謝忱・・・感謝と、誠の心。 ○莞領・・・莞爾(カンジ)と笑って、領収する。朝鮮漢文的な言い方。 ○余祝・・・「自余只祝〜」(それ以外ではただ〜を祈ります)の略で、書簡文の結びの常套句。朝鮮漢文的な言い方。 ○自玉・・・自愛する。自分の健康に気をつける。
「礼失而求諸野」「中国失礼、求之四夷」
李海応『薊山紀程』十四日
清簟樓台絳帳垂,城南大路匝胡兒,王風委地求諸野,禮樂衣冠盡在斯。
清簟の楼台、絳帳垂る。城南の大路に胡児匝る。王風は地に委てられ諸を野に求むれば、礼楽と衣冠とは尽く斯に在り。
セイタンのロウダイ、コウチョウたる。ジョウナンのおおじにコジめぐる。オウフウはチにすてられ、これをヤにもとむれば、レイガクとイカンとはことごとくここにあり。
【注】『漢書』芸文志:仲尼有言「礼失而求諸野」。
 『三国志』巻三十・東夷伝;雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。


徳川家康とベトナムの漢文の書巻
『通航一覧』巻百七十一 四百八十二頁〜四百八十三頁より

当時、中部ベトナムにあった事実上の半独立国・阮氏政権「広南国」の事実上の君主から、日本の「大相国」にあてた漢文の手紙。
弘定二年五月初五日
慶長六年
【原文】 安南国天下統兵都元帥瑞国公、致書于日本国兄大相国家康公。書曰、『孟子』七篇曰「交隣」、『中伝』九経曰「柔遠」。此古今之常典、天下之通義。且我与大相国前約已定、結為兄弟之邦、永為万年之好。曩因我国有事、徴我還京。不意、大相国人、白浜顕貴、招商往販、到順化処。奈天時不順、風蕩舡破、致使順化。大都堂官与顕貴商客、事皆已誤。我不之知、至茲我復臨巨鎮、因見顕貴尚在我国、我想及前由更加厚寵、欲遣帰国以尋旧約。幸見上国商船復到、顕貴招入、陳達情由。我欣然曰「誠千載之奇逢也」。爰具菲儀於筐篚 、聊表寸忱、敬憑尺楮於封函、略申大義。儻大相国暁知此義復遣使通、一則因産国利、助其軍器(生塩漆幷器械)、日以克用。一則急賜示下予、還顕貴以宝善人、直第一之好事、両国之洪福也。茲書
弘定二年五月初五日
【語注】
大相国・・・日本の「太政大臣」の唐名。『通航一覧』の解説文では、この書簡は、豊臣秀吉宛とする異本もあったという。豊臣秀吉は1586年から死去した1598年まで太政大臣であり、当時のベトナム側に秀吉死去の情報が伝わっていなかった可能性もある。当時の徳川家康は内大臣であり(1596−1603)、家康が征夷大将軍になったのは1603年〜1605年、太政大臣となったのは最晩年の1616年、死去する直前の一ヶ月間だけである。 弘定二年・・・西暦1601年、日本では慶長六年。弘定は、ベトナム後黎朝の敬宗が使用した元号。
安南国天下統兵都元帥瑞国公・・・当時、中国の三国志のような分裂状態にあったベトナムの半独立国家「広南国」(1558ー1777)の王(コーチシナ国王)であった阮潢(げんこう。グェン・ホアン。1525年 - 1613年)の自称。阮潢は弘定七年まで毎年、家康に手紙を贈った。ちなみに、1728年に東南アジアから日本にわたり、徳川吉宗に献上されたゾウ「広南従四位白象」は、この広南国出身とされる。
孟子七篇曰交隣・・・『孟子』梁恵王下。斉宣王問曰「交隣国有道乎」。孟子対曰「有。惟仁者為能以大事小(以下略)」。
中伝九経曰柔遠・・・『中庸』「凡為天下国家有九経、曰:修身也、尊賢也、親親也、敬大臣也、体群臣也、子庶民也、来百工也、柔遠人也、懐諸侯也。(略)柔遠人則四方帰之」。(天下を治める九つの途経(道)がある。身を修め、賢を尊び、親に親しみ、大臣を敬い、群臣と交わり、庶民を子とし、百工を招来し、遠人を柔らげ、諸侯をなつけることだ)
白浜顕貴・・・しらはま・あきたか。日本人の海賊兼海商。
菲儀・・・粗品。
筐篚・・・竹の器に入れた贈り物。
尺楮・・・ちょっとした手紙。
寸忱・・・ささやかながら、誠の気持ち。
【書き下し】【大意】工事中。


徳川家康からベトナム側への返書=「朱印船貿易」の開始
慶長六年十月
【原文】 日本国源家康、復章安南国統兵元帥瑞国公。信書落手、巻舒再三。自本邦長崎所発之商船、於其地逆風破舟、凶徒殺人者、国人宜教誡之、足下至撫育舟人者、慈恵深也。貴国異産如目録収之。夫物以遠至罕見為珍。今也吾邦四辺無事、郡国昇平也。商人往返、滄海陸地、不可有逆政、可安心矣。本邦之舟、異日到其地、以此書印可為證據、無印之舟者、不可許之。敝邦兵器、聊投贈之、実千里鵝毛也。維時孟冬、保嗇珍重。
慶長六年辛丑小春日
  御印

【語注】
慶長六年辛丑小春日=慶長六年は西暦1601年で、干支は辛丑。小春は陰暦十月の異称。
時実質的に中部ベトナムを領有していたフエの阮氏政権、広南国のこと。その主な交易港はホイアン(会安)及びダナンであった。 御印=ここに家康の印鑑が押してある、の意。家康への敬意をこめて「御印」と書いてある。
【書き下し】【大意】工事中。


松雲大師 惟政(いせい/ゆいしょう、유정、ユ・ジョン、1544年 - 1610年)
 朝鮮の高僧、僧将。生まれは朝鮮国・慶尚南道の密陽。俗姓は任(임)、俗名は応奎(응규)、字は離幻、号は松雲、堂号は泗溟堂、別号は鍾峯。
※僧侶なので本当は呉音で「ゆいしょう」と読むべきだが、普通の人名と同様に漢音で「いせい」と読む読み方も日本では広まっている。

『芝峰類説』(下)
朝鮮群書大系.
續々第22輯
朝鮮古書刊行会
大正4年
(近代デジタル
ライブラリーの
こちらの頁
)
芝峰類説,松雲,惟政,加藤清正
(『芝峰類説』巻十八より引用)
僧惟政号松雲壬辰変後為義僧将陣于嶺南倭将清正要与相見松雲入倭
営賊衆列立数里槍剣如束松雲無怖色見清正従容談笑清正謂松雲曰
貴国有宝乎松雲答曰我国無他宝惟以汝頭為宝清正曰何謂也答曰我
国購汝頭金千斤邑万戸非宝而何清正大笑或曰是時清正兵衛甚盛松
雲僅一見而退必不敢出此言疑是誇伝也後十年松雲以通和又入日本
倭奴厚待以送之

(加藤徹が句読点を施したもの)
僧惟政、号松雲、壬辰変後、為義僧将、陣于嶺南。倭将清正、要与相見。松雲入倭営、賊衆列立数里、槍剣如束。松雲無怖色、見清正、従容談笑。清正謂松雲曰「貴国有宝乎?」。松雲答曰「我国無他宝。惟以汝頭為宝」。清正曰「何謂也?」。答曰「我国購汝頭金千斤邑万戸。非宝而何?」。清正大笑。或曰「是時、清正兵衛甚盛。松雲僅一見而退。必不敢出此言。疑是誇伝也」。後十年、松雲以通和又入日本。倭奴厚待、以送之。

(加藤徹による訓読と書き下し)
 僧・惟政、号は松雲、壬辰の変の後、義僧の将と為り、嶺南に陣す。倭将清正、与に相見えんことを要む。松雲、倭営に入るに、賊衆列立すること数里、槍剣束の如し。松雲、怖るる色無く、清正に見え、従容として談笑す。清正、松雲に謂ひて曰く「貴国、宝有りや」と。松雲、答へて曰く「我国に他の宝無し。惟だ汝が頭を以て宝と為す」と。清正曰く「何の謂ぞや」と。答へて曰く「我が国、汝が頭を金千斤邑万戸もて購ふ。宝に非ずして何ぞや」と。清正、大笑す。或は曰く「是の時、清正の兵衛は甚だ盛んなり。松雲、僅かに一見して退く。必ずや敢て此の言を出さじ。疑ふらくは是れ誇伝ならん」と。後十年、松雲、通和を以て又日本に入る。倭奴厚く待し、以て之を送る。

(加藤徹が原漢文をもとに再構成したもの)
 僧・惟政、号は松雲。壬辰戦争の後、僧侶の義勇軍の将となり、嶺南の地に布陣した。  敵将の清正が「会見したい」と申し出た。松雲は倭軍の陣営に入った。清正は倭軍の強大さを示して松雲を威圧するため、兵隊たちに鋭い槍や剣を束のように抱えさせ、数里の長きにわたってずらりと立ち並ばせた。だが松雲は少しも怖がる顔色を見せない。清正に会い、ゆるやかな雰囲気で談笑した。清正は松雲に言った。
「貴国に、何か宝物があるか」
 松雲は答えた。
「ある。他でもない。おまえの頭こそ宝だ」
「どういう意味だ」
「賞金首だよ。わが国は、おまえの首を、千斤の黄金と万戸の領地と引き替えにしても買い取る。これが宝でなくて何だね」
 清正は呵々大笑した。
 以上は痛快な逸話だが、作り話だと言う人もいる。「この時、清正の軍隊は強大で、松雲はちょっと会見しただけですぐに退出した。こんな危ない言葉を口にするはずがない。きっと誇張だろう」という説もある。
 この十年後、松雲は講和のため日本に乗り込んだ。日本の連中は、松雲が帰国するまで厚くもてなした。

仲尾宏・ソウ(曹のたて棒一本)永禄(編)『朝鮮義僧将・松雲大師と徳川家康』(明石書店、2002)ISBN 9784750315874から引用
p237-p238  李元植「講和使僧松雲大師と日朝善隣外交」より引用
 松雲大師と清正との会見において交わされたという「説宝和尚」の話は興味深い。『奮忠舒難録』所収「密陽表忠祠松雲大師影堂碑銘并序」に「入倭諭意清正、三往三返、尽得要領、正問朝鮮有宝乎、曰無、有宝在日本、若頭是也、正色沮」とある。また、「芝峯類説中記松雲事蹟」によれば「松雲入倭営、賊衆列位数里、槍剣如束、松雲無怖色、見清正従容談笑、清正謂松雲曰貴国有宝乎、松雲答曰我国無他宝、唯以汝頭為宝、清正曰何謂也、答曰我国購汝頭金千斤、邑万家、非宝何、清正大笑」。
 また、「於于野談中記松雲事蹟」にも「嘗入賊陣倭将清正。清正曰爾国何宝最貴、政曰我国無所宝。所宝惟将軍之首也、清正強笑而中実憚之」。とある。すなわち、清正が貴国にはどんな宝があるかとたずねると、松雲は別に宝というものはないが、あなたの首が宝になるでしょうというと、清正はなぜなのかとただした。すると松雲は、あなたの首は金千斤に値するので、それをもって村の家万軒を購うことができるから宝でなくて何でしょうかと問い返すくだりは面白い。
(加藤徹注:上記文中の「芝峯類説中記松雲事蹟」は独立した書名ではなく、 李晬光・著『芝峰類説』(峯は峰の異体字)の中の松雲の事蹟を記したくだり、の意。この漢文の原文「我国購汝頭金千斤、邑万家、非宝何」を正しく訳すと「我が国はあなたの首に賞金をかけています。千斤の黄金と、一万戸の領地です。これが宝でなくて何でしょうか」となる)
p184 金栄作「松雲大師の加藤清正との外交談判」より引用
 加藤清正は、西生浦に到着した後、朝鮮の王子が日本に渡来して、謝罪すれば、日本の軍隊が撤退するという噂をまき散らした後、松雲大師に面談を要請した。松雲大師が加藤清正の営中に入った時、完全武装した倭兵たちが四方を幾重にも囲む中で会談を行った。加藤清正は、松雲大師を脅かすつもりであった。しかし、松雲大師は、少しも臆する気配もなく、堂々と会見に臨んだ。その対話の中に、次のようなものがあったと言われる。

加藤清正「帰国には宝物があるか」
松雲大師「ある」
加藤清正「何か」
松雲大師「あなたの首だ(77)」

 上のエピソードから松雲大師に「説宝和尚」という別号が付いた(78)。
p193 (77)『再造藩邦志』。
p355-p356 米谷均「松雲大師の来日と朝鮮被虜人の送還について」より引用
 松雲大師とともに帰国した被虜人のうち、その後の消息を知ることができる者は二名に限られる。一人は朴守永(朴寿永)で、先述したように、帰国後、乱時における「附賊叛国の罪」を糾弾されて処刑された。もう一人は宋象賢の妾で、こちらは乱時における節義保持の誉れ高く、帰国後これを遠近に喧伝されたという(慶七松『海槎録』下)。しかし彼ら以外の一、三八九人の被虜人の消息については判然としない。被虜人を乗せた船が釜山に到着した直後の情景を、趙慶男は左記のように記している。

【史料12】趙慶男『乱中雑録』四、乙巳(一六〇五)四月条
 正(*松雲大師)は刷還した被虜人を(統制使の)李慶濬に託し、彼を通じて随時分送してもらおうとした。李慶濬は配下の船団に命じて、事後処理を委ねた。船将たちは、(被虜人の)男女を受領する時になると、先を争って彼らを捕縛してしまった。その有様は略奪より甚だしかった。(被虜人が)自分の係累を問われて返答することができなければ――幼少の時に連行された者は(出身地が)朝鮮であることを知るのみで、係累や父母の名を知らない者が多かったのである――、全て自分の奴とした。(被虜人が)美女であれは、その夫を縛って海に投げ捨て、自分の物にしてしまった。こうした所業は、けっして一、二の例外ではなかった。(しかし)天は高く卑を聴いて、この事は(朝廷に)報知された。ただちに李慶濬は罷免され、代わりに李雲龍を(統制使に)充てた。よって各道の水使に命じて辺将の横暴を摘発し、事を正そうとした。(しかし)水使たちは(これを)見て報告書を出したが、ついに(辺将の横暴を)告発することはなかった。   (『大東野乗』六)
 これによれば、松雲大師は被虜人に対する処置を統制使の李慶濬に委ねたが、彼の船将たちは被虜人を争って捕縛し、被虜人が身分係累を返答できなかった場合は、ほしいままに彼らを自己の奴や妾にしてしまう者が続出したという。後に李慶濬はこの一件の責任を問われて統制使の職を罷免され、狼藉を働いた軍官の摘発が後任の李雲龍によって試みられたが、結局うやむやになってしまったようである。受け入れ体制を整えないまま、大量の被虜人が一挙に帰国したことが、このような混乱を招いたものと考えられるが、その責を松雲大師に問うのはいささか酷な話であろう。被虜人帰還後の事後処理の不手際は、以後の回答兼刷還使の場合においても散見されるからである。しかし遺憾ながら、松雲大師が帯同した千を越す被虜人たちが、おのおの無事に故郷へ帰ることができたかどうかは、杳としてわからないのも事実なのである。

趙慶男『乱中雑録』四,乙巳(1605)条
朝鮮群書大系「大東野乗 五」朝鮮古書刊行会,明治43年(1910)6月刊
(
近代デジタルライブラリーのこちらの頁の122コマ目 2015-5-19閲覧) 乱中雑録,松雲,惟政,加藤清正


夏四月惟正還自日本刷還我国男婦三千余口初正渡海致日本托以
盤遊諸国玩賞山川倭人益奇之肩輿邀請殆無虚日及至大坂首言交
和寧国之事次言刷還我人之言家康以為壬辰之役吾実未知両国無
事相安太平不亦可乎即令刷出被擄人物使与倶還但以要時羅事帰
曲惟正曰我国与日本雖是万世不忘之讐而交隣之約素不負汝一倭
有無何関勝敗而兵退之後謀殺往来之使乎某年某月要酋回自中原
我国如前接待同年某月日護送于釜山今已累年日本以此帰咎必是
諱隠要開釁隙不然扁舟滄海応有漂溺之患耳倭酋等猶以為然更不
言及要正再来惟正将還先送探舡歴報 朝廷兼陳渡海之日令舟師
諸将屯聚釜山以壮軍容俾厳率倭之瞻視云云是日統制使李慶濬領
舟師赴釜山風遅未及竟誤師期正以刷還人付李慶濬使之随便分送
慶濬分付諸舡聴其所之舡将等逢授男女争先恐後縶之維之甚於搶
掠或問所係而不能答則■■■■■■■■■■■并称己奴美女則
縛投其夫于海而任為己物如此者非一天高聴卑事乃聞焉即罷李慶
濬以李雲龍代之因令各道水使摘発辺将之恣行是事者水使等視為
文具竟不発告
※■■■■■■■■■■■=割り注
少時被搶者徒知朝鮮而不
知其所係及父母名字者多

(加藤徹が句読点を打ったもの↓)
 夏四月。惟正還自日本、刷還我国男婦三千余口。初正渡海致日本、托以盤遊諸国、玩賞山川。倭人益奇之、肩輿邀請、殆無虚日。及至大坂、首言交和寧国之事、次言刷還我人之言。家康以為「壬辰之役、吾実未知。両国無事、相安太平、不亦可乎」。即令刷出被擄人物、使与倶還。但以要時羅事帰曲。惟正曰「我国与日本、雖是万世不忘之讐、而交隣之約、素不負汝。一倭有無、何関勝敗。而兵退之後、謀殺往来之使乎。某年某月、要酋回自中原、我国如前接待。同年某月日、護送于釜山。今已累年、日本以此帰咎、必是諱隠、要開釁隙。不然、扁舟滄海、応有漂溺之患耳」。倭酋等猶以為然、更不言及。要正再来。
 惟正将還、先送探舡、歴報朝廷、兼陳「渡海之日、令舟師諸将屯聚釜山、以壮軍容、俾厳、率倭之瞻視」云云。是日、統制使李慶濬、領舟師赴釜山、風遅未及、竟誤師期。正、以刷還人付李慶濬、使之随便分送。
 慶濬分付諸舡。聴其所之。舡将等逢授男女、争先恐後、縶之維之、甚於搶掠。或問所係而不能答、則(少時被搶者、徒知朝鮮、而不知其所係及父母名字者、多)并称己奴。美女、則縛投其夫于海、而任為己物。如此者非一。
 天高聴卑、事乃聞焉。即罷李慶濬、以李雲龍代之。因令各道水使、摘発辺将之恣行是事者。水使等視為文具、竟不発告

(加藤徹による訓読、書き下し)
 夏四月。惟正、日本より還り、我が国の男婦三千余口を刷還す。初め正の海を渡り日本に致(到)るや、托して以て諸国を盤遊し、山川を玩賞す。倭人、益ます之を奇とし、肩輿邀請し、殆んど虚日無し。大坂に至るに及び、首め交和寧国の事を言ひ、次に我人を刷還するの言を言ふ。
 家康、以為らく「壬辰の役は、吾、実に未だ知らず。両国に事無くして、相安んじて太平なるは、亦た可ならざらんや」と。即ち被擄の人物を刷出せしめ、与に倶に還らしむ。但だ要時羅の事を以て帰曲す。
 惟正曰く「我国と日本と、是れ万世不忘の讐なりと雖も、而も交隣の約は素より汝に負かず。一倭の有無、何ぞ勝敗に関はらん。而して兵退くの後、往来の使を謀殺せんや。某年某月、要酋、中原より回らば、我が国は前の如く接待せん。同年某月日、釜山に護送せん。今已に年を累ぬるに、日本は此を以て咎を帰さば、必ずや是れ諱隠にして、釁隙を開くことを要むるならん。然らずんば、扁舟滄海、応に漂溺の患ひ有るべきのみ」と。倭酋等は猶ほ以て然りと為し、更に言及せず。正の再び来らんことを要む。
 惟正、将に還らんとす。先に探舡を送り、歴びらかに朝廷に報じ、兼ねて陳ぶらく「渡海の日、舟師の諸将をして釜山に屯聚し以て軍容を壮ならしめよ。厳そかならしめば、倭を率ゐて之きて瞻視せしめん」云云と。是の日、統制使の李慶濬、舟師を領して釜山に赴くも、風遅くして未だ及ばず、竟に師期を誤る。正、刷還の人を以て李慶濬に付し、之をして便に随ひて分送せしむ。
 慶濬、諸舡に分付し、其の之く所を聴く。舡将等、男女を授かるに逢ひ、先を争ひ後るるを恐れ、之を縶し之を維し、搶掠するよりも甚し。或は係る所を問ひて答ふる能はざれば則ち(少き時に搶められし者、徒だ朝鮮と知りて其の係る所及び父母名字を知らざる者、多し)并せて己の奴と称す。美女なれば則ち其の夫を海に縛投し、任せて己の物と為す。此の如き者、一に非ず。
 天は高きも卑を聴き、事乃ち聞こゆ。即ち李慶濬を罷め、李雲龍を以て之に代ふ。因りて各道の水使をして、辺将の恣ままに是の事を行ふ者を摘発せしめんとす。水使等、視て文具と為し、竟に発告せず。

(『乱中雑録』四、乙巳四月条の記述をもとに加藤徹が再構成した「大意」)
 惟正。ありゃあ、たいした男だよ。わが朝鮮国では賤民扱いされている僧侶の身分だけどね。惟正が日本に乗り込んで、わが朝鮮国から日本に連行されていた男女三千人を、連れて帰ってきたのは、1605年の旧暦四月だった。
 惟正が日本に渡ったのは、その前の年だ。秀吉のやつが死んであの戦争が終わってから、まだ6年目だった。戦争の傷跡も生々しかった。日本軍がわが半島から撤退して戦闘は終わっていたけれど、わが朝鮮国も明国も、日本と講和は結んでいなかった。
 あの戦争で、われわれと日本のあいだを行き来した使者の運命は、悲惨だった。中国人の沈惟敬は外交で大ウソをついたのがバレて死刑になり、日本人の要時羅(後述)もスパイと見なされ死刑になった。惟正はあの戦争で英雄となっていたけど、講和の任務に失敗したら、帰国後、責任を問われたかもしれない。いや、そもそも日本の連中は血の気が多い。惟正はスパイと疑われただけで、斬り殺されたろう。
 でも、惟正は死生を達観した禅僧だ。敵地である日本に渡ったあとも、悠然と日本各地の美しい自然の風景を鑑賞した。倭人どもは「噂は聞いていたが、ここまですごい人だったとは」と感心した。日本に滞在中、惟正のもとには倭人の貴顕から「ぜひ一目お目にかかりたいと存じます」という要請がひっきりなしに届き、休む日もなかった。
 で、大坂に着いた惟正は(加藤注―正しくは京都。漢文の原資料の「大坂」は誤り)、徳川家康と会った。家康は、前年に日本の「征夷大将軍」になったばかりの、最高権力者。惟正はまず「両国は戦争状態を終わらせ、平和な関係を結ぶべきです」と言い、次に「被虜人、すなわち戦争中にわが朝鮮国から強制連行された同胞を、返してください」と言った。
 家康は思った。あの戦争は、秀吉がやったこと。自分に責任はない。両国が平和になって悪いことは何もない、と。――まあ、俺は家康から直接聞いたわけじゃないけど、きっとそう考えたのだろうね。なぜなら意外にも、日本側はあっさりと、惟正が被虜人の在日同胞たちを連れ帰ることに合意したからだ。でも、やはり彼らは姑息な日本人だ。そのあと例の件を蒸し返した。
「わが日本国は、貴公と被虜人たちの安全を保証し、貴国まで安全に送り届けることを約束する。しかし、要時羅の一件が残っている。彼が不当逮捕され理不尽に処刑された件について、貴国はその責任をどうとるのか」
みたいなことを言ったのだ。……え? あんた、要時羅(朝鮮語の発音で「ヨシラ」)を知らないのか? あの戦争の最中、和平工作を行っていた対馬の日本人だよ。やつが本当に日本のスパイだったのか、それとも心から戦争終結を願っていたのか、今となってはもうわからないがね。戦争中、小西行長からの極秘のメッセージをわが朝鮮国に伝え、加藤清正の軍隊がわが国に上陸する場所と時期を事前に密告し、主戦派の清正を討ち取るよう働きかけたのも要時羅だった。わが李舜臣も、この要時羅の情報リークのせいであやうく死刑になりかけたんだが――おっと、話がそれた。で、結局、要時羅はあの戦争が終わる直前、明の将軍との会見中に逮捕された。戦後の1599年、北京で行われた戦勝式典のとき、明の皇帝に献上された61名の降倭(日本人投降兵に対する明・朝鮮側の呼称)が処刑された。斬られた中に要時羅もいた。要時羅の日本名? 知らないよ。対馬の「梯七大夫」とか、日本の「弥二郎」という名前の発音を漢字で写したとか、いろんな説があるらしいけどね。
 日本側は、惟正の堂々たる立派な態度を見て、皮肉もこめて「わが日本国はあんたを生きて返す。でも、あんたら朝鮮国と明国は外交の使者である要時羅を殺した。さあ、これをどう考える」と、恩着せがましく言ってきたのだ。
 惟正は、日本側に言った。
「日本はわが国にとって、万世忘れることのできない仇の国である。だが、交隣(友好関係を保つこと)の約束を交わした以上、おまえたちとの約束は守るから安心しろ。倭人の一人がどうのこうのと、戦争中のことを今さら蒸し返しても、あの戦争の勝敗の結果は変わらないぞ。日本軍がわが国から撤兵した現在、両国のあいだを行き来する和平の使者を逮捕処刑することは、もはやありえない。もし仮に、要時羅が今も生きていて明からわが国に送還されたらならば、わが国は戦前と同様の待遇で迎え、その年のうちに日本に最も近い釜山まで安全に送り届けるだろう。要時羅の一件はもう何年も前のことで、しかも彼を処刑したのは明国の判断だ。日本側はなぜ今それを蒸し返して問題化するのか。それを口実に、わが国との関係を意図的に悪化させる企みがあるか。さもなくば、目撃者がいない海の真ん中で、私を船から海に突き落として殺すつもりか。私は、日本側の誠意を疑わざるを得ない」
 惟正の言葉を聞いて、日本の野蛮人どもも「なるほど」と思い、要時羅の件にはもう触れず、「ぜひまた日本にお越しください」と言った。
 こうして惟正は、講和の端緒を開くという大任を果たした。彼は帰国する直前、日本から朝鮮国の朝廷に使いを送り、仕事の首尾を詳しく報告した。また、こう要請した。
「私はこれから帰国します。何月何日に釜山港に着く予定です。それにあわせて、釜山港にわが朝鮮国の水軍の船を集結させてください。私たちと釜山まで同行する日本人は、朝鮮水軍の威容を見て、『もしまた戦争になったら日本に勝ち目はない』と恐れおののくでしょう」云々。
 統制使の李慶濬が、朝鮮水軍の軍船を集めて釜山に赴いた。あいにくと風に恵まれず、期日に遅れてしまった。日本人をビビらせる計画は失敗。まあ、よくあることだ。  ともあれ、朝鮮各地から、たくさんの船が釜山に集まっていた。惟正は、日本から連れ帰った三千人あまりの刷還人の身を、李慶濬に預けたのさ。
「彼らを、それぞれの故郷まで船で送ってあげてください」
「わかりました。彼らはあの戦争の不幸な犠牲者です。必ず故郷まで送り届けます」
 惟正は安心して去った。で――本当は、ここで筆をやめておけば美談で終わるのだが、事実は事実として書き残すことにしよう。刷還人の大半は文字の読み書きができぬ庶民なので、私が書かねば、誰も書かないだろうからね。
 李慶濬は部下たちに、刷還人の男女三千名余りの護送を割り当てた。それが悲劇の始まりだった。
「おまえの故郷はどこだ? 親類縁者に、有名な人や偉い人はいるか?」  そう聞かれて、答えられない刷還人も多かった。無理もない。戦時中に日本に連行されたときはまだ子供で、自分の係累はおろか親の名前も知らぬ者も少なくなかった。
 朝鮮水軍の将兵は、目の色が変わった。天涯孤独の社会的弱者たちが、突然、大量に目のまえに現れた。将兵は先を争って刷還人を縛りあげ、自分の奴隷にした。顔が美しい女がいると、その夫を縄で縛って海に投げ捨てて、女だけを奴隷とした。こういう例が続出した。戦場での奴隷狩りよりもひどかった。
 そんな噂は朝鮮国の朝廷にも届いた。李慶濬は監督責任を問われて更迭された。新たに着任した李雲龍は、朝鮮国各道の水使に命令をくだし、
「地方の将兵でこのような悪いことをする者がいたら、どしどし摘発せよ」
と命じた。でも、しょせんはお役所仕事。この件で告発された軍人は、結局、ひとりもいなかったのさ。



鄭杜煕・李[王景][王旬]編著、金文子監訳、小幡倫裕訳
『壬辰戦争 16世紀日・朝・中の国際戦争』明石書店、2008
鄭杜煕「李舜臣に関する記憶の歴史と歴史化」より引用(引用開始)
pp253-254
 壬辰戦争の戦争史の中で李舜臣にのみ視線を集めようというのは、この戦争で侵略者日本に大いに匹敵するだけの人物として前面に押し出せる人物が、李舜臣しかいないからだといってもいい。そうした過程を通じて壬辰戦争は、実際は朝鮮王朝をほとんど滅亡に至らしめた戦争だったにもかかわらず勝利した戦争として想像された。そして、このような想像が厳しい現実を忘れさせた。さらに、植民地支配の恐ろしい経験が、壬辰戦争で経験した凄惨な敗北に重なり合い、韓国人の潜在意識の中に、日本あるいは日本の侵略が大いなる恐怖あるいは傷跡として深く残ることになった。このような常識的な次元で考えてみると、韓国人にとっては日本とはあまりにも恐ろしい傷を残した相手だったため、その傷に対峙する勇気がまだ足りないのではないかと思う。それが日本に対する誇張された優越感として表現されたり、あるいは日本を実際よりも低く見ようとする誤った意識として表出するのである。
 これまで李舜臣に対する記憶の歴史をたどる中で、韓国での李舜臣論はいわゆる韓国の民族主義と不可分の関係にあるということがわかった。しかし筆者は、韓国と日本の関係で民族主義的接近を試みることは非常に危険であるという点を強調したい。李舜臣と壬辰戦争はすでに四百年前の事実であり、さらには植民地時代ですら半世紀以上が過ぎている。(中略)これを韓国民族と日本民族の問題としてアプローチしていたら、破局だけが待っているという点を強調したい。(下略)(引用終了)

第4章 米谷均「朝鮮侵略後における被虜人の本国送還について」より引用(引用開始)
p117
 来日した朝鮮使節によって帰還を遂げた被虜人の場合はどうであろうか。例えば一六〇五年に惟政一行と同行した被虜人たちは、釜山到着後、以下のような扱いを受けたという。
 (中略)
p118
 すなわち、被虜人たちの移送をまかされた水軍兵士たちが、彼らを保護するどころか先を争って捕縛してしまい、身元をはっきりと答えることのできなかった被虜人を、自分の奴婢や妾にしてしまう光景が多々見られたという。(中略)
 一六二四年次使節は、被虜人の李成立と金春福から、「朝鮮は被虜人を刷還しても(帰国後の)待遇は甚だ薄いといいます。捕虜となったのはもともと彼らの意思によるものではございません。すでに刷還しておきながら、どうしてそのように冷遇するのですか(19)」と問い詰められている。また李文長という被虜人は、「朝鮮の法は日本の法に劣り、生活するのに難しく、食べていくのが容易ではない。本国に帰っても少しもいいことはないぞ(20)」と吹聴し、使節の招募活動を妨害したという。
p123
 朝鮮側が被虜人の刷還に執着したのは、あくまでそれが国家の体面に関わる問題だったためであり、単に被虜人を憐れむがゆえに執着したわけではなかったのである。
p125
(19)姜弘重『東槎録』天啓四年(一六二四)十一月二十三日条
(20)姜弘重『東槎録』天啓四年(一六二四)十一月二十七日条
(引用終了)


「朝鮮国礼曹俘虜刷還諭告文」(佐賀県立名護屋城博物館・蔵)[
こちらのサイトに画像あり]
 万暦45年旧暦5月(1617年。日本では元和3年)の日付のある漢文。
 以下、上記のサイトより引用。(引用開始) 万歴45(光海君9・元和3・1617)年5月日付 掛幅2幅装 各101.7×66.1cm 江戸時代初期に来日した回答兼刷還使が持参した諭告文。文禄・慶長の役に際して日本国内に連行された人々へ帰国するよう呼びかけている。慶長12(1607)年に1200人余りの人々が帰国したときの処遇を記し、帰国者には前例にならって特典を与えると述べている。礼曹とは朝鮮国にて外交や祭祀を担当した機関のこと。 (引用終了)
加藤徹がパソコンの画面を見ながら文字に打ち直したので、漢字に間違いがあるかもしれません…(^^;;
 朝鮮国礼曹為通諭事
国家不幸猝被兵禍八路生霊陥於塗炭其僅免鋒刃者又皆係
 累迄今二十余年矣其中豈無思恋父母之邦以為首丘之計而
 未見有襁負道路而来者此必陥没既久無計自出其情亦可
 憐也
国家於刷還人口特施寛典丁未年間使臣率来被虜人口並令免
 罪至於有役者免役公私賤則免賤完復護恤使之安挿本土其
 所刷還之人亦皆得見親党面目復為楽土之氓在
日本者亦必聞而知之矣況今
日本既已殲滅我
国讐賊尽改前代之所為致書求款
国家特以生霊之故差遣使价被擄在
日本者生還本土此其時也若一斉出来則当依往年出来人例
 免賤免役完復等典一一施行諭文所到劃即相伝依諭文通
 告使价之回一時出来庶無疑畏遷延免作異域之鬼事照験施
 行須至帖者
 右帖下被擄士民准此
(以下の日付、印判、署名欄などは略)
※朝鮮国の礼曹が、自国を指す「国家」「国」だけでなく、「日本」に対しても「一字擡頭」(いちじたいとう)して敬意を示している点に留意。ちなみに、古文書では「闕字・平出・擡頭」の順に敬意があがり、同じ擡頭でも一字擡頭より二字擡頭、というふうに上にあがるほど高い敬意を表した。
【語注】★八路=朝鮮八道(鶏林八道)を指す。★迄今二十余年矣=1617年は文禄・慶長の役(1592-1598)の開始から満25年。★首丘之計=成語「狐死首丘」。襁負=『論語』子路第十三「上好信。則民莫敢不用情。夫如是。則四方之民。襁負其子而至矣。焉用稼」。★丁未年間=朝鮮国から初の「回答兼刷還使」が来日した1607年(明・万暦35年、日本・慶長12年)を指す。後世、第一回の江戸期「朝鮮通信使」とカウントされる。★国讐=国家民族のかたき。豊臣秀吉とその勢力を指す。 (以下の書き下し文等はまだ工事中)
 朝鮮国礼曹、為通諭事
 国家不幸、猝被兵禍、八路生霊、陥於塗炭。其僅免鋒刃者、又皆係累迄今二十余年矣。其中、豈無思恋父母之邦、以為首丘之計。
 而未見有襁負道路而来者。此必陥没既久、無計自出。其情亦可憐也。
 国家於刷還人口、特施寛典。丁未年間、使臣率来被虜人口、並令免罪。至於有役者免役、公私賤則免賤、完復護恤、使之安挿本土、其所刷還之人、亦皆得見親党面目、復為楽土之氓。在日本者、亦必聞而知之矣。
 況今日本既已殲滅我国讐賊、尽改前代之所為、致書求款。
 国家特以生霊之故、差遣使价。被擄在日本者、生還本土、此其時也。若一斉出来、則当依往年。出来人、例免賤免役、完復等典、一一施行。諭文所到劃、即相伝依諭文通告、使价之回、一時出来。庶無疑畏遷延、免作異域之鬼。事照験施行、須至帖者。右帖下被擄士民、准此。

 朝鮮国礼曹、通諭の事の為にす。
 国家不幸にして、猝かに兵禍を被り、八路の生霊、塗炭に陥つ。其の僅かに鋒刃を免るる者も、又皆係累して今に迄るまで二十余年なり。其の中、豈に、父母の邦を思恋し以て首丘の計を為すこと無からんや。而も未だ道路に襁負して来たる者有るを見ず。此れ必ずや、陥没すること既に久しく、計として自ら出づる無きならん。其の情、亦た憐れむべきなり。
 国家の人口を刷還するに於けるや、特に寛典を施す。丁未年間、使臣、被虜人口を率ゐ来り、並びに罪を免かれしむ。役有る者は役を免じ、公私の賤は則ち賤を免じ、護恤を完復し、之をして本土に安挿せしむるに至る。其の刷還する所の人、亦た皆、親党の面目を見、復た楽土の氓と為るを得。日本に在る者も亦た必ずや聞きて之を知るならん。
 況んや今、日本は既已に我が国讐賊を殲滅し、尽く前代の為す所を改め、書を致し款を求む。
 国家、特に生霊の故を以て、使价を差遣す。擄されて日本に在る者、本土に生還するは此れ其の時なり。若し一斉に出で来れば、則ち当に往年に依るべし。出で来る人は、例として賤を免じ役を免じ、完復等の典、一一施行せん。諭文の到劃する所、即ち相ひ伝へ、諭文の通告に依りて、使价の回るに一時に出で来れ。庶はくは疑ひ畏れて遷延すること無く、異域の鬼と作ることを免かれよ。事は験に照らして施行し、須らく帖に至れ。右帖下の被擄の士民、此を准す。


HOME > 明清楽資料庫 > このページ