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前近代東アジアの戦争と平和
4つの戦闘から見る日本人と中国・朝鮮の関係

最新の更新2019-11-15 最初の公開 2019-10-17

全4回 金曜 13:00〜14:30  10/18, 10/25, 11/08, 11/15
以下、早稲田大学エクステンションセンター・中野校のサイトより引用。引用開始。
目標
・平和を守るために戦争を知る。
・日本史を中国史、朝鮮史、世界史と結びつけて学び直す。
・戦闘という極限状態で現れる民族性を冷静に見つめなおす。

講義概要
 防災のためには、津波や地震、その他の歴史を学ぶ必要があります。平和を守るためには、過去の戦争の歴史を知る必要があります。本講座では、7世紀から16世紀まで、日本と外国が戦った戦争を取り上げます。戦争には、視点の大きさから見て「交戦・戦闘・作戦・戦争」の4つのレベルがあります。本講座では、日本とアジアの歴史の流れに大きな影響を与えた4つの「戦闘」をとりあげ、現場の兵士たちの交戦の実態、作戦のレベルから見た戦闘の意味、戦争が起きた政治的理由や歴史的背景を解説します。映像や図版を多用して、アジア史や日本史の予備知識のないかたにも、わかりやすく解説します。

  1. 第1回 10/18 白村江の戦い
  2. 第2回 10/25 鳥飼潟の戦い
  3. 第3回 11/08 糠岳の戦い
  4. 第4回 11/15 碧蹄館の戦い

白村江の戦い
 663年、朝鮮半島の白村江で行われた、日本と百済残存勢力の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦いで日本側は陸戦で勝利を重ね、海戦で敗北する。

 663年、朝鮮半島の白村江で行われた、日本と百済残存勢力の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦いを解説します。陸戦で勝利を重ねた日本側は海戦で敗北しましたが、その戦いの様相や結果については諸説があり、判然としません。井上靖の歴史小説『額田女王』や漫画『天智と天武 ―新説・日本書紀―』など、白村江の戦いを描いた創作作品についても言及します。

いつ:西暦(ユリウス暦)663年10月4日から10月5日
どこで:白江(現在の韓国・錦江と推定)の河口一帯の海上
誰が:倭軍約5万・百済軍5千 vs 唐軍・新羅軍(総数不明)
原因:百済の復興を支援する倭(日本)と、新羅を支援する唐の衝突
結果:唐・新羅側の勝利
影響:新羅による半島統一、倭の律令国家化

『日本書紀』天智天皇2年3月条
 前将軍(まへのいくさのきみ)上毛野君稚子(かみつけの の きみ わかこ)、間人連大蓋(はしひと の むらじ おほふた)、
 中将軍(そひのいくさのきみ)巨勢神前臣訳語(こせのかむさき の おみ をさ)・三輪君根麻呂(みわ の きみ ねまろ)、
 後将軍(しりへのいくさのきみ)阿倍引田臣比羅夫(あへのひけた の おみ ひらぶ)、大宅臣鎌柄(おほやけ の おみ かまつか)
を遣(つかは)して、二万七千人(ふたよろづあまりななちたり)を率(ゐ)て、新羅(しらぎ)を打たしむ。

 生還 間人連大蓋 阿倍比羅夫? 河辺百枝 他
 戦死 朴市秦田来津 安曇比羅夫(阿曇比羅夫) 他
 史書に記載なし 狭井檳榔 上毛野君稚子 巨勢神前訳語 三輪根麻呂 大宅臣鎌柄 他

人物

特徴
 古い時代の戦闘ゆえ、信頼に足る記録が少ない。
 近現代のナショナリズムでもよく引き合いに出されるため、客観公平な評価は今も難しい。
 日本側の「敗北度」については諸説あり、第二次大戦の敗戦に匹敵する深刻なショックだったと見る説がある一方、「敗戦史観」を見直す説(遠山美都男『白村江』講談社現代新書、1997年)もある。


鳥飼潟の戦い
 1274年、元寇の文永の役のとき、博多の鳥飼潟で行われた、鎌倉時代の武士とモンゴル・高麗の連合軍との戦いで、鎌倉武士の合理的な集団戦を解説する。

 1274年、元寇の文永の役のとき、博多の鳥飼潟で、鎌倉時代の武士とモンゴル・高麗の連合軍が戦いました。この戦闘に参加した肥後の武士・竹崎季長が描かせた絵巻物『蒙古襲来絵詞』は、どの日本史の教科書にも載っているほど有名です。鎌倉武士の戦いかたは、旧説とは違って実は合理的な集団戦であり、元軍が撤退した理由も「神風」ではありませんでした。歴史小説の虚実にも言及します。
いつ:文永11年10月20日(ユリウス暦1274年11月19日、グレゴリオ暦1274年11月26日)
どこで:筑前国早良郡(現在の福岡市)
誰が:九州御家人 vs 蒙古・高麗連合軍
原因:「赤坂の戦い」の追撃戦
結果:日本側の勝利
影響:同時代史料である絵巻物『蒙古襲来絵詞』や、で戦後二、三十年後に書かれた作者不明の『八幡愚童訓』等の史料によって「蒙古襲来」(元寇)の典型的なイメージに

〇ポイント
 国と国との戦争というより、九州御家人(の一部)と、中国北部(蒙古・漢軍)+朝鮮半島(高麗軍)の戦いであった。
 「神風」は吹かなかった。
 弘安の役にくらべると、戦いの期間も規模も小さかった。
 鎌倉武士の文筆能力が低かったため、日本側の良質の一次史料が少なく、日本側史料である『八幡愚童訓』は九州御家人の戦闘能力を過小評価する傾向が強い。
 文永の役の戦闘で、現存している当時の古文書で記録があるのは、鳥飼潟の戦いのみである。

〇元寇
 「蒙古襲来」。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)。
 文永の役の経緯。

〇文永11年10月20日の戦いの流れ
 日本本土での戦いはたった一日だけ。
 日本軍の主力が博多に到着する以前に元軍が海上に逃げたため、結果的に、九州の一部地方の御家人の独力で元軍を撃退したことになる。
 この日の戦死者の数は不明だが、双方とも千名未満か。
 『朝師御書見聞 安国論私抄』 によると「又十一月九日ユキノセト云フ津ニ死タル蒙古ノ人百五十人、又總ノ生捕二十七人、頭取事三十九、其他数ヲシラズ、又日本人死事百九十五人、下郎ハ数ヲ不知有事云云」。 〇史料と制作者の思惑
日本側史料
★『蒙古襲来絵詞』(竹崎季長絵詞)
 弘安の役で軍功を挙げて多大の恩賞をもらった竹崎季長が、永仁元年(1293年)に描かせ、甲佐大明神へ奉納した絵巻物。
 竹崎は、文永の役で恩賞をもらえなかったため、1275年に馬などを処分して旅費を調達して鎌倉へ赴き幕府に「先駆けの功を認めて欲しい」と直訴したことがある。
 竹崎の奮戦を描いている。描かれている武士は、合理的な集団戦・騎射戦法に徹しており、また元軍の姿や装備も正確に描かれている。
 後世、元軍側を強く見せるため、反撃する三人の弓兵が加筆された。
★『八幡愚童訓』
 八幡神の霊験・神徳を説いた、作者不明の寺社縁起。成立年代は不明だが、戦後、二十年ていどたってからの二次資料である。
 元軍を撃退したのは、出火した筥崎宮から飛び出した八幡神の化身とおぼしき白装束の30人ほどの謎の戦士である、とする。八幡神をもちあげるため、鎌倉武士の戦闘力を故意に低く描写している。
 『八幡愚童訓』によると、元軍は、軽い鎧で馬に乗り、鼓を打って整然とした集団戦闘を行い、退くときは「てつはう」を爆発させて追撃を妨害し、矢には毒がぬってあった、云々と実際よりも強く描かれている。
 逆に、鎌倉武士は名乗りを上げての一騎討ちや少人数での先駆けを試みたため、元軍に殺され、博多を放棄して逃げた。武士は日本の国防の役に立たなかったが、八幡大菩薩による霊験によって元軍が撃退されたとする。
★『元史』日本伝
 元が滅亡したあと、元に対して遺恨を含む明王朝が作った正史。文永の役について「冬十月、元軍は日本に入り、これを破った。しかし元軍は整わず、また矢が尽きたため、ただ四境を虜掠して帰還した」とする。
★『高麗史』
 李氏朝鮮時代の1451年に完成した高麗の歴史書。高麗軍の強さを、実際以上に持ち上げる傾向がある。
 高麗軍は、元軍と共に戦った。元軍は激戦で疲弊し、左副都元帥・劉復亨が流れ矢を受け負傷して船へと退避するなど、苦戦を強いられ、日が暮れたのを機に撤退した。
  『高麗史』金方慶伝に、この夜の軍議を載せる。
高麗軍司令官・都督使・金方慶「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』という。本国を離れ敵地に入った軍は、志気が上がり戦闘能力が高まる。我が軍は少いが敵地に入っており、おのずと戦うことになる。これは秦の孟明の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事と同じ状況だ。再度戦わせて頂きたい」
元軍総司令官・都元帥・クドゥン(忽敦)「孫子の兵法に『小敵の堅は大敵の擒なり』という。少数の軍勢が頑強に戦えば、かえって多数の兵力の捕虜になる。疲弊した兵力で、日増しに増える敵軍に立ち向かうのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきだ」
 日本軍は日増しに増える大軍で、元軍は増援のない少数だと認識していた。

糠岳の戦い
 1419年、朝鮮王朝軍が日本の対馬(応永の外寇)に侵攻。600人程度の戦力しかない対馬側が、約30倍の1万7千余の朝鮮軍の撃退に成功する。

 1419年、李氏朝鮮(朝鮮王朝)の軍が日本の対馬を侵攻しました。いわゆる「応永の外寇」です(朝鮮側呼称は「己亥東征」기해동정)。対馬在住の武士と、朝鮮軍が戦いました。対馬側の戦力は600人程度、朝鮮軍は約30倍の1万7千余。145年前の「文永の役」のときと違い、対馬の数百の武士団は地の利を生かして、日本本土からの援軍が来る前に、数十倍も多い朝鮮軍を撃退することに成功します。朝鮮側では、朝鮮軍の惨敗を目撃してしまった中国人の扱いが議論にのぼったほどでした。韓国のテレビドラマ「大王世宗」(テワンセジョン 대왕 세종)で描かれた、対馬と朝鮮の戦いのシーンについても言及します。
いつ:応永26年6月29日(1419年7月21日)
どこで:対馬の糠岳(ぬかだけ)
誰が:朝鮮国の李従茂 vs 対馬の宗貞盛(第九代当主)
原因:前期倭寇、日明断交。
結果:日本側の勝利、朝鮮軍の撤退。
影響:前期倭寇の沈静化、朝鮮への通行権を対馬の宗氏が独占。


 2008年の韓国のテレビドラマ「大王世宗」(テワン セジョン 대왕 세종)40話-48話は対馬との戦争を描いているが、朝鮮側の勝利として描いている。日本語版公式サイト
https://www.bs-tbs.co.jp/sejong/に載せる第48話のあらすじを参照。

〇時系列
〇朝鮮側の記録の例
『朝鮮王朝実録』世宗元年7月22日。左議政朴訔啓「左軍節制使朴実、対馬島敗軍時、所護漢人宋官童等十一名、備知我師見敗之状、不可解送中国、以見我国之弱」。
 左議政の官にある朴訔が王に申し上げた。「わが左軍節制使の朴実が対馬島の戦いで敗北したとき、わが軍が保護した中国人・宋官童ら十一名は、わが軍が敗北するさまをつぶさに目撃してしまいました。彼らを中国に帰すとわが国の弱さが知れてしまうので、彼らを送還してはなりません」。

〇日本側の記録の例
『宗氏家譜』応永二十六年己亥六月廿日、朝鮮将李従茂率戦艦二百二十七艘、卒一万七千二百八十五人、到対馬州与良郡浅海浦。州兵拒之海浜不利。朝鮮兵到仁位郡、分道下陸、竟進屯糠獄。貞茂率州兵、到糠嶽下。侵矢石攻之。連戦数日、七月初一日、与左軍朴松戦大破之。朝鮮兵狼狽走海浜乗船、貞茂使海人放火。以焼賊船。斎藤、立石等発兵撃之。賊兵大潰而還。我兵戦死者百二十三人。斬賊二千五百余級。
 応永二十六年己亥六月廿日、朝鮮の将・李従茂率戰艦二百二十七艘、卒一萬七千二百八十五人、到對馬州與良郡淺海浦。州兵拒之海濱不利。朝鮮兵到仁位郡、分道下陸、竟進屯糠獄。貞茂率州兵、到糠嶽下。侵矢石攻之。連戰數日、七月初一日、與左軍朴松戰大破之。朝鮮兵狼狽走海濱乘船、貞茂使海人放火。以燒賊船。齋藤、立石等發兵撃之。賊兵大潰而還。我兵戰死者百二十三人。斬賊二千五百餘級。
(書き下し)
 応永二十六年己亥六月廿日、朝鮮の将・李従茂、戦艦二百二十七艘、卒一万七千二百八十五人を率い、対馬州与良郡浅海浦に到る。州兵、之を海浜に拒むも不利なり。朝鮮兵、仁位郡に到り、道を分けて陸に下り、竟に進みて糠獄(ママ)に屯す。貞茂、州兵を率いて糠嶽の下に到り、矢石を侵して之を攻む。連戦すること数日、七月初一日、左軍・朴松と戦いて大いに之を破る。朝鮮兵、狼狽して海浜に走りて乗船す。貞茂、海人をして放火せしめ、以て賊船を焼く。斎藤・立石等、兵を発して之を撃つ。賊兵、大いに潰えて還る。我が兵、戦死する者百二十三人。賊を斬ること二千五百余級なり。

〇宗氏について
 「宗」は、中国や朝鮮の姓「宋」とは違う漢字である。
 中世以降、対馬国(つしまのくに)を支配した宗氏(そううじ)は、秦氏(はたうじ)の末裔とされる惟宗氏(これむねうじ)の支族である。本家から「宗」の一字を賜って「宗」という苗字を名乗りだした、とされる。
 1274年の文永の役のときは、対馬国の地頭代で第二代当主の宗助国が、わずか80余騎で元の大軍3万人に立ち向かい、息子を含む全員が討ち死にした。
 対馬の宗氏は明治維新まで改易されることもなく続き、明治時代には伯爵となった。


碧蹄館の戦い
 1593年、豊臣秀吉の朝鮮出兵の文禄の役のとき、朝鮮半島のソウル郊外の碧蹄館で、日本遠征軍は、明・朝鮮連合軍を迎え撃ち奇跡的な逆転勝利を収める。

 1593年、豊臣秀吉の朝鮮出兵の文禄の役のとき、朝鮮半島のソウル郊外の碧蹄館で、日本遠征軍は、明・朝鮮連合軍を迎え撃ちました。日本軍は歩兵主体で劣勢、明軍は精強な騎兵主体で優勢でした。戦国時代に敵どうしとして戦い、また後の関ヶ原の戦いでも東西に分かれて戦うことになる日本の武士団は、碧蹄館では一致団結し、奇跡的な逆転勝利を収めます。後世への影響についても言及します。
いつ:文禄2年1月26日(1593年2月27日)
どこで:碧蹄館/벽제관(ピョクチェグァン)(大韓民国高陽市徳陽区碧蹄洞。
Google地図)
誰が:宇喜多秀家(総大将)・小早川隆景(先鋒大将)・立花宗茂ら vs 李如松(明)・高彦伯(朝鮮)
原因:平壌戦での日本側の敗北
結果:日本側の勝利
影響:文禄の役の講和への動き


〇戦争全体の呼称
 2019年現在の日本では「文禄・慶長の役」が最も普及。その他、左翼的および右翼的な色を帯びた呼称も。
 秀吉の戦争目的は、朝鮮国王への国書によると「予願無他、只顕佳名於三国而已」(予の願いは他無し、只、佳名を三国に顕わさんのみ。『続善隣国宝記』に載せる天正18年の国書の言葉。画像はこちら)。 ★日本側
 豊臣秀吉(1537年-1598年)と同時代「唐入り」「大明へ御道座」「唐御陣」「高麗陣」「朝鮮陣」等
 江戸時代「朝鮮征伐」「征韓」「征明」
 昭和以降「朝鮮出兵」「朝鮮侵略」「文禄・慶長の役」
★中国側
 「萬暦朝鮮之役」「抗倭援朝」「萬暦東征」等
★韓国・朝鮮側
 「倭乱」「壬辰倭乱・丁酉倭乱」「壬辰戦争」「壬辰祖国戦争」等

文禄の役 1592年5月24日-1593年7月
慶長の役 1597年1月-1598年12月

〇時系列

〇朝鮮側から見た日本軍の戦いかた
『朝鮮王朝実録』1593年1月
「賊先伏大兵於峴後、只数百人拠峴示弱。提督即麾兵進、賊自峴而下、兵未交、賊兵猝起於後、結陣山上、幾万余。天兵短剣、騎馬、無火器、路険泥深、不能馳騁。賊奮長刀、左右突闘、鋒鋭無敵。提督麾下李有升及勇士八十余人被砍死。提督使査大受殿後、奪路而出、大軍繼至、賊望見還走。」
 日本軍に大敗した李如松は、朝鮮側の強い要望にもかかわらず、日本軍との戦いを嫌がった。文禄の役は講和に向かった。

〇参考記事
 童門冬二「文禄の役・碧蹄館の戦い 戦国の漢たちはなぜ迎撃を決断したのか」(『歴史街道』 2015年9月号) https://ironna.jp/article/2015
 菊池寛の小説「碧蹄館の戦」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1362_36749.html

 
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