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明清楽資料庫・附録

新井白石と外交 漢文資料

最初の公開2014ー0906 最新の更新 2014-9-6
[先哲叢談] [朝鮮通信使と雅楽(通航一覧より)] [江関筆談] [申維翰『海游録』より] [鄭任鑰]


「先哲叢談」で取り上げている白石の対朝鮮外交については[
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白石が朝鮮通信使に雅楽を見せた記事は[
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「江関筆談」 原漢文は[
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正徳元年(1711)来日にした第8回朝鮮通信使の正使・趙泰億(趙平泉)と、新井白石との間で交わされた筆談の一部。
 白石曰「当今西方諸国、皆用大清章服之制。貴邦猶有大明之旧儀者、何也」。平泉曰「天下皆左衽、而独我国不改華制。清国以我為礼義之邦、亦不加之以非礼。 普天之下、我独為東周。貴邦亦有用華之意否。今看文教方興、深有望於一変之義也」  白石曰く「今に当たりて、西方の諸国は皆、大清の章服の制を用ふ。貴邦のみ猶ほ大明の旧儀有るがごときは、何ぞや」と。平泉曰く「天下、皆、左衽す。 而るに独り我が国のみ華制を改めず。清国、我を以て礼義の邦と為し、亦た之に加ふるに非礼を以てせず。普天の下、我れ独り東周と為る。貴邦も亦た華を用いるの意、有りや否や。 今看るに、文教方に興る。深く一変の義に望むこと有り」。
【語注】左衽=『論語』憲問:子曰「微管仲、吾其被髪左衽矣」。一変=『論語』雍也:子曰「斉一変至於魯、魯一変至於道」。
 白石曰「僕嘗学詩。至於雅頌、則知殷人在周、服其故服而来也。始聘使之来、窃喜以謂朝鮮殷大師之国、况其礼義之俗於天性者、殷礼可以徴之。蓋在是行也、既而諸君子辱在于斯。僕望其儀容冠帽袍笏、 僅是明世章服之制。未嘗及見彼章甫与黼冔也。当今大清易代改物、因其国俗、創制天下。如貴邦及琉球、亦既北面称藩、而二国所以得免瓣髪左衽者、大清果若周之以徳而不以疆、然否。抑二国有仮霊我東方、 亦未可知也」  白石曰く「僕、嘗て『詩』を学ぶ。『雅』『頌』に至りて、則ち殷人、周に在るを知る。其の故服を服して而して来るなり。始め聘使の来るや、窃かに喜ぶ。以謂へらく『朝鮮は殷の大師の国なり、 况や其の礼義の俗は天性に出づる者をや。殷の礼、之を以て徴すべし』と。蓋し是の行に在るや、既にして諸君子の辱、斯に在り。僕、其の儀容の冠帽袍笏を望むに、僅かに是れ明世の章服の制なるのみ にして、未だ嘗て彼の章甫と黼冔を見るに及ばず。今に当たりて大清、代を易へ物を改む。其の国俗に因りて、天下に制を創る。貴邦及び琉球の如きも亦た既に北面して藩と称す。而るに二国の瓣髪左衽 を免るるを得たる所以の者は、大清、果して周の徳を以てして疆を以てせざるが若し、然りや否や。抑〻二国、霊を我が東方に仮ること有りや。亦た未だ知るべからず」と。
【語注】『詩』…=『詩経』大雅「文王」に「侯服于周、天命靡常。殷士膚敏、裸将于京。厥作裸将、常服黼冔。王之藎臣、無念爾祖」云々とある。  章甫・黼冔=殷王朝の冠と帽子。 他
【大意】新井白石:いま、日本より西のアジア諸国は、みんな大清国の満洲人的服装制度になっちゃった。でも、貴国(朝鮮)だけは、いまでも大明国の漢民族的礼儀が残っている。なぜだい?
趙泰億:清朝が世界を征服したから、世界中の人々が野蛮な遊牧民族風の服装を着るようになっちゃった。中国本土でも、中華文明の伝統は滅亡した。で、わがウリナラ朝鮮国だけが中華文明の正統派 を引き継ぎ、いにしえの理想的な文物制度を保っている。超大国の清国ですら、わが朝鮮国は礼と義の国である、と一目おいてるんだぜ。いまや全世界で、わが朝鮮国だけこそが「東周」すなわち東洋 文明の本家本元なのだ。どうだい。君たち日本人も、中華の制度を取り入れようとは思わないかね。君たちも最近は、われわれ朝鮮国のようになりたいとあこがれ、文化や教育に力を入れてるようだが。
新井白石:これから正直な感想を言うけど、気を悪くしないでね。君たち朝鮮通信使は、自分たちこそ中華文明の本家本元だ、と自慢しているけど、ぼくは君たちのそのファッションを見て、正直、ガ ッカリしているのだよ。…むかし漢文古典の『詩経』を学んだとき、殷王朝の人が昔の伝統的な服装で東周に来朝した、という内容の作品を読んだ。「三千年前の殷王朝の衣冠て、どんなものだったの だろう。きっと立派で優雅なんだろうなあ」とワクワクした。君たちの国は、今は朝鮮だが、三千年前は中国系の「箕子朝鮮」だったんだろ? 箕子は殷王朝の王族で、立派な人物だったので、殷 の滅亡後、周の武王によって朝鮮に封じられた。これは君らもよく知っている歴史だ。…で、ぼくは、君たち朝鮮通信使が日本に来ると聞いて、ワクワクしてた。君たち朝鮮民族は優秀で礼儀正しい民 族なんだから、きっと今も三千年前の理想的な古典時代の美風を残してるはずだ、と期待してた。君たちに会えば、東周よりも古い殷王朝の礼儀作法にじかに触れることができるぞ、と、とても楽しみ にしていた。…でもね、実際に君たちに会ってみると、失望したよ。君らのご自慢のその衣冠束帯の服装は、正直に言うと、みっともないね。たかだか百年前の、今は滅んだ明王朝の服装を、得意満面 に着てるだけだ。君たちは、中華文明の本家本元だと威張ってるわりには、服装の歴史は浅いんだね。そもそも、清王朝が君ら朝鮮に辮髪とか満洲風の服装を強制しなかった理由を、君たちはちゃ んと考えたことがあるかい? わが日本国は清国と対等の独立国だけど、君たち朝鮮国は、琉球王国と同様、清国の藩塀に成り下がっている。それなのに、清国は、朝鮮や琉球に辮髪とか満洲人の服装を 強制しない。その理由はなぜだろう。もしかすると、清国はさすがに大国だから、太っ腹なのかもしれない。彼ら清国のほうこそが古代中国の理想国家である東周と同様、領土欲より道徳を重んじている おかげかもしれない。ちなみに、わが日本国は神々のご加護もあって、今まで一度も中国の属国になったことはない。ひょっとすると君の国も琉球国も、わが国の神々のおかげで、服装についてはかろ うじて自由を確保できたのかもしれない。まあ真相はわからないけどね。 

申叔舟の話題で友好ムードが盛り上がる

白石曰、(中略)嘗聞、昔者貴邦申文忠公叔舟臨卒、成宗康靖王問其所欲言。対曰「請勿与日本失和」。申公於我前代干戈之際、其言若此。況今諸公憂国如文忠用心。則実是両国蒼生之福也。
平泉曰、申文忠公即僕外先也 臨終一言 誠出於睦隣好戒辺釁之意。而明公亦聞此言、勉戒至此。両邦千万之幸歟。可賀。
白石曰、前言以論善隣之誼耳。不図、申公之外孫、実来講両国之和。公世其徳、則豈唯僕所謂蒼生之福、公門亦有余慶焉。謹賀。
青坪曰、不侫常以為貴邦一尚武之国。今来見之、則文教甚盛。誠可奉賀。申文忠之言、千古格言。而即今両国主聖時平、隣好自然敦睦。何可一分相阻之念乎。客中悰、欲一見絶芸有所仰請。盛教如此。慚悚慚悚。
白石曰、両国和好、礼信而已。諸君於対州、亦是東道之主。唯其以密邇貴邦、未界微事、相失其驩心是懼。
平泉曰、誠然誠然。但恐、貴邦不如吾邦之尽誠信耳。
白石曰、自古敵国生隙、軽鋭好事之人、争長不相下、而開辺釁者多矣。老拙窃恐後生少年、必因交接節目、相失両国之驩心。諸公帰国之後、能為朝廷議焉。諸公国之重臣、敢布腹心。
青坪曰、細小節目、本来不為計較。何可有此過慮乎。然各尽在我之道、則隣好可以万世永固矣。(下略)
【書き下し】
白石曰く、(中略)嘗て聞く、昔者、貴邦の申文忠公叔舟、卒するに臨み、成宗康靖王、其の言はんと欲する所を問ふ。対へて曰く「請ふ、日本と和を失すること勿かれ」と。申公の我が前代の干戈の際に於けるや、其の言、此の若し。況んや今、諸公の国を憂ふること、文忠の心を用ふるが如きをや。則ち実に是れ両国蒼生の福なり、と。
平泉曰く、申文忠公は即ち僕の外先なり。臨終の一言は、誠に隣好を睦し辺釁を戒しむるの意に出づ。而して明公も亦た此の言を聞き、勉戒して此に至る。両邦千万の幸ひなるか。賀すべし、と。
白石曰く、前言は以て善隣の誼を論ぜるのみ。図らざりき、申公の外孫、実に来りて両国の和を講ずるとは。公の其の徳を世するは、則ち豈に唯だ僕の所謂蒼生の福なるのみならんや、公門にも亦た余慶有らん。謹みて賀す、と。
青坪曰く、不侫、常に以為へらく、貴邦は一に武を尚ぶの国なりと。今来りて之を見るに、則ち文教甚だ盛んなり。誠に奉賀すべし。申文忠の言は千古の格言なり。而して即今、両国の主は聖に時は平らかにして、隣好も自然に敦睦なり。何ぞ一たび相阻の念を分つべけんや。客中の悰しみ、絶芸を一見して仰請する所有らんと欲するなり。盛教、此くの如し。慚悚慚悚、と。
白石曰、両国の和好は礼と信のみ。諸君の対州に於けるや、亦た是れ東道の主なり。唯だ其の貴邦に密邇するを以て、未界の微事、其の驩心を相失はんことを是れ懼るるなり、と。
平泉曰く、誠に然り、誠に然り。但だ恐るらくは、貴邦の、吾が邦の誠信を尽すが如くならざらんことのみ、と。
白石曰く、古より敵国隙を生ずるは、鋭を軽んじ事を好む人、長を争ひて相ひ下らず、而して辺釁を開く者多し。老拙、窃かに恐るらくは、後生の少年、必ずや交接の節目に因りて、両国の驩心を相ひ失はんことを。諸公は帰国の後、能く朝廷の為に焉を議せよ。諸公は国の重臣なれば、敢て腹心を布べよ、と。
青坪曰く、細小の節目は本来、計較を為さず。何ぞ此の過慮の有るべけんや。然れども各〻我に在るの道を尽くさば、則ち隣好は以て万世永く固かるべきなり、と。(下略)
【大意】
白石:こんな話を聞いたことがある。その昔、貴国の政治家でわが国との外交でも活躍した申文忠公(申叔舟1417ー1475)が亡くなる直前、成宗(康靖王。1457-1495。朝鮮王朝第9代国王)が「最期に言い残したいことは?」と問うた。申文忠公は「くれぐれも日本との平和を失わないでください」と言い残したそうだ。申公が来日した(1443)時代、貴国とわが国は軍事的に敵対していた。貴国の軍隊がわが対馬を攻撃した応永の外寇(1419)、「倭寇」の活発化、嘉吉条約(1443年)の締結。……日朝両国の平和樹立に心血をそそいだ申公が残したこの遺言は、重い。いまは君たちの時代だ。君らは、かつての申文忠公に匹敵する憂国の忠臣だ。細心の注意で対日外交に臨んでくれている。これは日朝両国の民にとって大きな幸運だ。
平泉:(嬉しそうな顔をして)いやー、自分で言うのも何だが、実はね、ぼくは申公の子孫なのだ。申文忠公は、ぼくの母がたの祖先だ。ぼくの祖先の臨終の一言は、平和友好を大事にして国境での流血を避けねばならぬ、という決意の言葉だ。嬉しいね。きみもまた、わが祖先の言葉を聞き知って、戒めとして記憶してくれていたとは。いやあ、これは朝日両国にとって、大いなる幸いと言うべきか。めでたや、めでたや。
白石:ぼくはただ、平和友好が大事だと言いたいために申公の言葉を引用したんだけど、なんと目のまえにいるあなたが、あの申公のご子孫だったとは! しかもその子孫が、実際にこうして来日し、両国の平和友好の大切さを説かれるとは。すごい。さっき、両国の民にとっての幸運だと言ったけど、あなたのご一族にも、先祖代々徳を積み重ねてきたおかげで、今後、天が幸運を与えてくれるでしょう。あらかじめお祝い申し上げます。
青坪:ぼくはずっと、貴国はサムライの国だと思ってた。でも実際に来てこの目で見ると、漢文や儒教の学問もブームになってて、ビックリした。いやあ、参りました。お祝い申し上げます。申文忠公の言葉は、永遠に記憶されるべき名言です。いま、幸いなことに、われら両国の君主はともに名君である。戦争はなく、平和が続いている。自然に友好関係が続く状況にある。わざわざ両国にみぞを生じさせるような考えは、あってはならない。……さっきぼくが「日本刀のパフォーマンスを見たい」と言ったのは、ミーハー的な観光客の興味関心からの発言なので、お許しください。海外でも有名な日本刀の超絶パフォーマンスを見れたらいいな、と思ったわけで。でも、日本でも儒教や漢文がこんなに盛んだとは。いやはや、恐縮、恐縮。
白石:両国の友好は「礼」と「信」につきる。で、友好ムードに乗ってきたところで、またちょっとシビアな話題をしたい。諸君はわが対馬にたいして、わが国と同様主人のような地位にある。対馬は貴国のすぐ隣だ。距離が近すぎるがと、国境紛争とか些細なトラブルのタネになる。友好ムードが一気に冷める元凶になりはしないか。それが心配だ。
平泉:まったく、そのとおりだと思うよ。でも、ちょっと失礼なことを言わせていただくと、わが国は誠実でも、貴国はわが国ほど誠実じゃないんじゃないか、と心配だ。
白石:過去の歴史を見ると、国どうしにミゾができて敵対するようになる原因は、戦争の怖さを知らぬ好戦的な人間だ。謙譲の美徳を忘れ、俺の国のほうが格上だ、と言い張り続けると、それがエスカレートして国境紛争の流血騒ぎを引き起こす。そういうケースが多い。ぼくらは中高年で、いずれいなくなる。次の世代の若手たちが心配だ。格上とか格下とか、そんなつまらない争いが日朝外交のシコリになって、両国の友好ムードが冷めてしまうんじゃないか。心配でたまらない。君らは帰国後、朝廷で報告会をするだろう。そのとき、ぜひ、このことも問題提起してくれ。貴国の人臣の愛国心はとても熱いし、君らの立場上、言いづらいこととは思うが、朝鮮国の重臣である君らだからこそ、あえて本音を述べてくれ。
青坪:小さなシコリなんて、気にすることはない。日朝両国関係の未来は心配ないさ。でも、ぼくたちは、それぞれの国でがんばろう。がんばれば、友好は永遠にゆるがないはずだ。(以下略))


参考
新井白石,趙泰億,朝鮮通信使,江関筆談 『新井白石全集』巻4
明治39年=1906
江関筆談

辛卯十一月五日
日本 正徳元年
清朝(=朝鮮) 康煕50年

 申維翰『海游録』より。朝鮮側は、新井白石を手ごわい相手と認識していた。
 乞序於昆侖学士。公、時以病閣筆研。出架上、『白石詩草』一巻、示余曰「此乃辛卯使臣、所得来、日東源璵之作也。語多卑弱、差有声響。君今与此人相対、可以褊師敵之。然余意日東地広。聞其山水爽麗。必有才高而眼広者、不与使館酬唱之席、而得君文字雌黄之。有如葵丘盟、不無一二心背者、則是可畏已。君勿謂培婁無松柏而忽之。即千篇万什、驟如風雨、可使鉅鹿諸侯惴恐。不可使一孟獲心服」。余敬謝曰「甚愧無以奉斯言」。
※「褊師」…語義未詳。揙(手ヘンに扁 bian4/bian3 「搏」「撫」「撃」 の意。古くは「扁」に同じ)師、楄(木ヘンに扁 pian1)師に作る本もある。
 序を昆侖学士に乞ふ。公、時に病を以て筆研を閣く。架上、『白石詩草』一巻を出し、余に示して曰く「此れ乃ち辛卯使臣、得て来たる所のもの、日東の源璵の作なり。語に卑弱多きも、差や声響あり。君、今、此の人と相対すれば、以て褊師して之に敵すべし。然れども、余意ふに、日東の地は広く、其の山水の爽麗を聞く。必ずや才高くして眼広き者有らりて、使館の酬唱の席に与らずして而も君の文字を得て之を雌黄せん。葵丘の盟の如く、一二の心背する者無からずんば、則ち是れ畏るべきのみ。君、培婁に松柏無しと謂ひて之を忽せにすること勿れ。即ち千篇万什、驟かなること風雨の如くにし、鉅鹿の諸侯をして惴恐せしむべく、一の孟獲をして心服せしむべからず」と。余、敬謝して曰く「甚だ、以て斯の言に奉ずるなきを愧づ」と。
(大意)私は日本に出発する前、昆侖学士(崔昌大)に序文を書いてくれるよう依頼した。しかし当時、公は病気のため、筆を取れなかった。公は序文を書く代わりに、書架の上から『白石詩草』一巻を取り出して余に示し、次のように、はなむけの言葉をかけてくれた。
「この本は、新井白石の漢詩集だ。辛卯の年の朝鮮通信使が、日本で入手してきたものだ。白石の漢詩は、言葉づかいに卑俗で弱いところも多いが、すぐれた響きもないわけでなく、それなりに手ごわい。君がこれから朝鮮通信使の書記として日本に渡れば、この白石という人物と、漢詩の応酬や外交で、ガンガンやりあうことになる。君の文才があれば、互角に渡り合えるだろう。その点は心配していない。しかし、日本は土地が広い。山や川など自然も美しいと聞いている。きっと日本には、高い才能と広い見識をもつすぐれた人物もいるはずだ。わが朝鮮通信使と直接に会って、漢詩の応酬をする日本人は、日本の全人口のごく一部にすぎない。直接、君と漢詩の応酬はしないものの、間接的に君が書いた漢文や漢詩を入手して、あれこれ辛辣な批判を加えようとする手ごわい日本人が、きっといるはずだ。古代中国の葵丘の盟のとき、斉の桓公に面従腹背する諸侯が出てしまったが、外交では、このような心服しない者が一人、二人でも現れることを恐れるべきである。小さな丘には松柏のような立派な木は生えない、という意味のことわざもあるが、君は、日本は小さな島国だから大人物がいるはずはない、と見くびってはならない。君はわが国の知識人の代表として日本に渡り、千篇、万篇と、すばらしい漢詩を雨や風のようにどんどん量産してくれ。昔、三国志の諸葛孔明は、南方の蛮族の酋長である孟獲を何度も捉えてはまた逃がし、最後にようやく心服させた。しかし君は、孔明のような策をとってはならん。孟獲のような低レベルの、目の前の日本人を心服させることに気を取られ、大局的な使命を見失ってはならない。古代中国の項羽が鉅鹿で見事に戦い、天下の諸侯を畏怖させたように、君も、天下を相手に、わが朝鮮国の漢文のレベルの高さを輝かせてくれ」
 私は、うやうやしく感謝し「もったいないお言葉です。私の未熟な文才では、ご期待に添えないのが、恥ずかしいです」と申し上げた。
 白石の漢詩が中国の鄭任鑰から激賞されたことについて、朝鮮国の文人が書いた感想は未見。


清朝の鄭任鑰が白石の詩才を激賞した文章
 翰林院は、皇帝直属の秘書室で、文才に秀でた高級官僚が集められた役所。鄭任鑰については、吉川幸次郎『鳳鳥不至(論語雑記・新井白石逸事)』に詳しい記事がある(ただし、吉川が 引用した鄭任鑰の漢文には誤植がいくつかある)。  以下に鄭任鑰が書いた漢文の序文を転載する(原文は白文)。
 詩原以抒性情、発心志。凡有幽懐凄清、陫側激伉、則播之為詩歌。自三百篇啓風雅之伝、而後漢唐以来、比音叶律、駸駸而起矣。
 詩は原と以て性情を抒べ、心志を発す。凡そ幽懐凄清、陫側激伉、有れば、則ち之を播いて詩歌と為す。三百篇の風雅の伝を啓きてより、而して後の漢唐以来、音を比べ律を叶ふること、駸駸として起これり。
(大意)詩の本質とは何か。自分の自然な思いや心、志を外に出すことだ。胸にひめた静かな思いや、激しい感情などをあらわにすれば、詩や歌が生まれる。詩の伝統は、三千年前、最古の詩集『詩経』が風雅 の伝統を開いた時に始まる。それ以来、漢や唐など歴代の王朝をへて、詩の韻律のスタイルは洗練を加えられ、数々の名詩が生まれるようになった。

 我皇上、右文重道、雅意作人、英才輩出、詩教日隆。侍従之臣、鼓吹扢揚、於斯為盛、使薄海而外咸能慕化奮興。琉球素称守礼、則尤其傑出者矣。
 我が皇上、文を右びて道を重んじ、雅意もて人を作れば、英才輩出し、詩の教え日びに隆し。侍従の臣も、鼓吹し扢揚し、斯に盛んと為し、海に薄りて外なるものをして咸能く化を慕ひ奮ひ興らしむ。琉球は素より守礼と称すし、則ち尤も其の傑出せる者なり。
(大意)わが清朝の皇帝陛下(当時の皇帝は、聖祖・康熙帝)は、文学と道徳を重視され、風雅の御心をもって人材育成につとめられてきた。そのおかげで、わが清朝は英才が輩出し、詩の学問も日進月歩の勢いである。皇帝陛下にお仕えするわれら臣下も、文芸振興に力を入れてきた。かくて今日、文学の機運は高まり、近隣の海外諸国までもが、わが中華の感化を受け、中華の文化にあこがれ、文芸に熱を入れている。そんな海外諸国の中でも、昔から守礼の国を自称してきた琉球国のレベルは、特にすばらしい。

 新公、諱堪者、才学敏裕、博学能詩、世禄於国。所著「白石余稿」、托余叔父恪斎公、郵至京邸、求余為序。
 新公、諱は堪なる者は、才学敏裕、博学にして詩を能くし、世よ国に禄あり。著す所の「白石余稿」を、余が叔父なる恪斎公に托し、郵して京邸に至り、余に序を為らんことを求む。
(大意)新公、いみなは堪という人は、学才がすぐれ、博学であり、 詩を作るのがうまく、先祖代々、琉球国の禄を食んできた。彼は、自分が書いた漢詩集「白石余稿」の稿本を、私の叔父で外交担当の恪斎公に託し、北京まで送ってきて、私に序文を書くよう依頼してきた。

 予自丙戌歳、幸捷南宮、忝居翰苑、於茲七年。凡親友未及交接、文詞無暇応酬。
 予は丙戌の歳に、幸ひに南宮に捷ちてより、忝くも翰苑に居ること、茲に於て七年なり。凡そ親友も未だ交接するに及ばず、文詞は応酬するに暇無し。
(大意)私は丙戌の年(1706年。清・康煕45年、日本・宝永3年)に、幸運にも科挙の試験に合格し、翰林院で働くようになった。それから七年。毎日、仕事がとても忙しく、親戚や友人とつきあうひまも、詩文を作って互いに贈りあう時間もないほどだ。

 因新公跡隔海島、不憚数万里之遙、情意殷殷。閲其詩、雄思傑構、秀霊絶倫、蓋彬彬有三百篇之遺風焉。始知、新公胸次不群、樹幟海邦。於中幽沖而偏造者、昔之韋孟也。 宏暢而尚達者、昔之元白也。質而超於詣者、則陳杜之倫、藻而工於境者、則劉銭之属。
 新公の跡は海島を隔て、数万里の遙かなるを憚らざるに因り、情意殷殷たり。其の詩を閲するに、雄思傑構、秀霊絶倫にして、蓋し彬彬として三百篇の遺風有るなり。始めて知る、新公の胸次は不群にして、幟を海邦に樹つるを。中に於て、幽沖にして偏に造る者は、昔の韋孟なり。宏暢にして達を尚ぶ者は、昔の元白なり。質にして而も詣に超なる者は、則ち陳杜の倫なり。藻にして而も境に工なる者は、則ち劉銭の属なり。
(大意)本来、私は多忙で、他人のために序文を書く時間はない。し かし、新公の依頼だけは例外として引き受けた。なぜか。新公は、海の向こうの島国の人だ。数万里もの距離をものともせず、わざわざ私に序文の執筆を求めてきたのだ。その心意気に感じたのである。新公が作った詩を読んでみると、作品の境地は雄大で、構想は比類がないほど優れており、文質彬彬として古代の『詩経』のすぐれた遺風をよく継承している。新公の心と才能は非凡で、海外に燦然と輝いている。彼の詩の精神を分析すると、唐の時代の一流の詩人たちにくらべても、遜色がない。静かな個性の趣は、韋応物や孟郊と同じだ。のびのびとした達意の文体は、唐の元稹と白楽天に匹敵する。骨太で深い造詣に裏打ちされている点では、陳子昂と杜甫と同系だ。情感も技巧もすぐれている点では、劉禹錫と銭起の仲間である。

 余、不勝詫而異之。謂、造物鍾霊、乃有如是其出人意表者哉。新公浸淫乎風雅、沐浴乎詩書、而抒為金石之詞。余雖未得交接言笑而已、知其為人矣。喜以書之。
 余、詫りて之を異とするに勝へず。謂へらく、造物の霊を鍾むるや、乃ち是くの如く其れ人の意表に出づる者有るかな。新公は、風雅に侵淫し、詩書に沐浴し、而して抒べて金石の詞を為す。余は未だ交接して言笑するを得ざるのみなりと雖も、其の人と為りを知れり。喜びて以て之を書す。
(大意)私は、不思議でしかたがない。遠い島国に、これほどすばらしい詩人が現れたとは。天が生み出した不思議は多い。こんな思いがけぬ奇跡も、中にはあるのだろう。新公は、風雅の境地にひたり、詩書に没頭し、金石 の響きのようなすばらしい詩語をつむぎ出した。私は、遠い異国に住む彼と会って談笑する機会は得ていないが、彼の詩を読み、彼の人となりを理解することができた。そこで、喜んで序文を書かせていただいた次第である。






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