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明清楽とは?(明清楽資料庫)

最新の更新 2013-6-8
[中国伝来の日本音楽]  [明清楽の概説]
[近世日本音楽の階層感]  [移民・士人・商人、三つの伝播ルート]
[中国音楽の分類(案)]

勝山繁太郎の版画「六月 梅雨の曲」明治25年(1892)6月1日印刷

梅雨のある日、座敷で清笛と月琴の合奏をたしなむ二人の婦人。
版権所有(印) 画作兼発行人 京橋区銀座壱丁目十番地 勝山繁太郎
明治廿五年六月一日印刷出版 六月 梅雨の曲 美術着色会社製造

中国伝来の日本音楽──「邦楽」「洋楽」に次ぐ第三の日本音楽
 遣唐使の時代に唐から雅楽が輸入されたことは、一般にはよく知られている。
 しかし江戸時代、いわゆる鎖国の時代にも、中国から日本に盛んに音楽が伝来した事実は、現代の日本では忘れられている。 日本音楽史の概説書等でも、江戸期の伝来音楽については、ほとんどスルーされている。 「日本音楽は、江戸時代までは邦楽オンリーで、明治から洋楽が流入した」という誤った認識が、一般に浸透してしまっている。
 幕末までの日本音楽は、邦楽と中国伝来音楽の二本立てで、明治から洋楽が加わった、というのが歴史の実態に近い。 中国伝来の音楽は、以下のように分けられる。
ジャンル
伝来経路
本 流
別 伝
階 層
結 末
琴学杭州→長崎→全国東皐心越禅師の系統別伝・我流の琴学
文人
明治末に断絶
御座楽福建→琉球(→薩摩→江戸)琉球王国
−−
宮廷音楽
明治前期に断絶
路次楽福建→琉球(→薩摩→江戸)琉球王国
−−
儀礼→民間
農村芸能化
明楽明王朝→長崎→関西魏氏明楽
別伝の明楽
文人
幕末までに衰亡。
一部は明治初年に清楽に吸収
清楽寧波→長崎→全国化政・天保の清楽(*)
別伝の清楽
文人→大衆
明治末年までに衰退。
大衆音楽として発展的解消
*「化政・天保の清楽」の伝承の主な流れは、以下のとおり。
(化政期)金琴江遠山荷塘(僧侶)
曽谷長春(医師)→
 
平井連山(1798-1886)・長原梅園(1823-1898)
(天保期)林徳建三宅瑞蓮→
頴川連(唐通事)→
小曽根乾堂(1828-1885)
鏑木渓庵(1819-1870)
 伝来ルートについて、もう少し詳しく書くと、以下のようになる。

江戸時代・鎖国下における中国音楽の日本流入
  1. 文人ルート 例:東皐心越(とうこうしんえつ)の琴楽 杭州→薩摩→水戸→全国
  2. 支配層ルート 例:明楽 福建→長崎→京都・姫路→各地          例:琉球王朝の御座楽 福建→琉球(那覇)→薩摩〜江戸(江戸上り) 
  3. 中層ルート 例:清楽(しんがく) 寧波→長崎→上方〜江戸→各地
  4. 下層ルート 例:かんかんのう(唐人踊) 寧波→・・・→長崎→上方〜江戸→各地
  5. 漂着ルート 例:漂着船「萬勝號」 寧波→(長崎)→遠州(静岡) 

鎖国時代の江戸で琉球人が上演した中国演劇。
説明はこちら
 鎖国時代でも、長崎では中国人による中国語の伝統演劇が恒常的に上演され、日本人もこれを観劇して記録を残している(こちら)。
 江戸城や江戸の薩摩藩屋敷でも、琉球の「江戸上り」の使節団が、「御座楽」の一部として中国劇を上演した。(参考HP:鶴田啓氏による『「通航一覧(琉球国部)」)
 長崎の唐人屋敷で上演されていた中国劇は、汪鵬や大田蜀山人の記録を見ると、福建人(当時、長崎に来た唐船の船主の多くは蘇杭系だったが、下級船員は福建人が多かった)による福建系の演劇が多かったようである。
 また、琉球使節が江戸で上演した中国劇は、福州(福建省)の琉球館で学んだものが多かった。江戸時代、北京に行った琉球人たちが、清代中期の北京で活躍した京劇の名優・米応先(米喜子。1780 ?〜1832)に識見を求めた、という断片的な記録が中国側に残っている。すなわち、李登斉『常談叢録』(『清代燕都梨園史料』所収『北京梨園掌故長編』「米伶有名」の項に引く)に「毎登場、声曲臻妙、而神情逼真、輒傾倒其坐、遠近無不知有米喜子者、即高麗、琉球諸国之来朝貢或就学者、亦皆知而求識之。」とある。
 清朝の首都であった北京は、演劇や俗曲文化の先進地域でもあった。琉球人が、福州の琉球館(中国・福建省)のみならず、北京でも滞在中に中国の芸能文化の情報を収集したことは、大いに考えられる。

写真 御座楽と琉球舞踊のコラボ。長く廃絶していた御座楽は、近年の沖縄で、再評価と復元が進められている(参考:Wikipedia)

 明治の前半まで、月琴音楽は、俗曲の中では比較的上品な家庭音楽とされ、女性の師匠も多かった。
 その後、法界節の流行や日清戦争等でイメージが低下した。

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長原梅園『月琴俗曲今様手引草』より
明治22年(1889)5月24日印刷・出版
この本の説明はこちら
 田仲一成氏の中国演劇研究において、地方劇の伝播ルートは社会の階層構造に応じて三つに分けられるが(こちらを参照)、近世日本の中国伝来音楽においても、これと似た伝播の階層差が認められる、というのが筆者の説である。
 すなわち、士人ルートで日本に広まった琴学や明楽、御座楽は、社会上層の降替とともに消滅したが、商人ルート・移民ルートで伝わった清楽や路次楽は土着の芸能と混合しつつ、明治以降もしたたかに生き残った。
 沖縄を例にとると、宮廷音楽であった御座楽が琉球王朝の消滅と「日本化」政策のもとで消滅したのと対照的に、沖縄の農村に入った路次楽や「伊集の打花鼓」は今日も郷土芸能としての生命を保っている。
 日本本土でも、士人ルートの琴学や明楽にくらべ、より庶民的な清楽のほうが大衆音楽として長い生命を保った。
 特に清楽は、近世・近代の日本の大衆が潜在的に抱いていた階層的ウォンツ(佐々木隆爾氏の用語を借りれば「戦取的感性」)に形を与え、現代の大衆歌謡のニッチを切り開いた点で、単なる伝来音楽の枠を越えた存在感をもっている、と筆者は考える。


明治の清楽合奏。『風俗画報』100号(1895年)の挿図より。
クリックすると拡大。
 江戸期の中国伝来音楽のうち、最も広く民間に普及したのは、「明清楽」である。
 明治27年(1894)〜28年の日清戦争まで、一般大衆レベルにおいては、洋楽より明清楽のほうがポピュラーであった。 明治期に刊行された一般大衆向けの楽譜、例えば手風琴(アコーディオン)や吹琴(ハーモニカ)の譜を見ても、邦楽の曲にならんで、 江戸時代に伝来した「算命曲」「九連環」「茉莉花」など明清楽のレパートリーが、ほぼ必ず収録されていた。
 軍楽隊なども、邦楽や洋楽の曲と並んで、明清楽の曲を演奏した。日清戦争で戦地に赴いた軍楽隊が、地元住民の宣撫のため明清楽の曲を得て 意外な好評を得たこと、日清戦争後に日本に凱旋した軍楽隊が明清楽を演奏して日本の大衆の人気を得たこと、などの事実も、現代では忘れられている。
 日清戦争後、洋楽曲や唱歌のレパートリーが増えるのに反比例して、日本音楽における中国伝来音楽の比重は急速に低下した。 中国に対する蔑視感情が高まったことも、その一因である。だがより大きな原因としては、明治の学校教育から生まれた「唱歌」など新しい 音楽ジャンルが、従来の明清楽のニッチを奪ったためと考えられる。
 明治末年には明清楽は衰えたが、それでも大正期までは民間で明清楽の旋律が歌い継がれ、街頭演歌の原曲になるなど、大衆音楽としての生命を保っていた。
 また明清楽は、見方によっては、日本音楽のなかで「発展的解消」をした、と見ることもできる。

明治の彩色写真(筆者蔵・色彩調整済み)
月琴,清楽,明清楽,明治,古写真
E・S・モースの写真より。1880年
月琴 清楽 明清楽 gekkin
 明清楽における先行研究は、少なくない。それらは主に、
(1)上演史研究。日本音楽研究者、日本漢学・中国文学研究者などによる歴史的研究。
(2)音楽的興味からの研究。日本音楽研究者や中国音楽研究者などによる、旋律の変化の分析など。
(3)文学・語学的観点からの研究。中国語学・中国文学研究者などによる、歌詞の発音や意味内容の研究など。
(4)社会学的角度からの研究。日本史研究者などによる、上演者の社会階層等や伝播ルートを分析した研究。
の四つに大別できる。もちろん、上記の四要素は完全に独立しているものではない。
 筆者の明清楽研究は、文部科学省の特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成 ―寧波を焦点とする学際的創生―」(略称「にんぷろ」) の一部として行っているものである。(1)〜(4)の先行研究の成果をふまえつつ、「海域交流」「日本伝統文化の形成」について、 新しい理論づけ、ないしモデルの提示をすることが、とりあえずの目標である。


明清楽の概説
研究の意義
 明清楽(みんしんがく)とは、江戸時代に中国から日本へ伝来した音楽で、明王朝の廟堂音楽であった明楽と、清朝時代の民間の軽音楽であった清楽との総称である。

 明楽と清楽は、同じ中国音楽ではあるものの、全く違う音楽ジャンルである。流行時期も、楽曲の風格も、伝承のルートも、演奏した社会階層も異なる。

 明清楽は、近世日本社会の潜在的需要(ウォンツ)に合致し、サロン音楽・家庭音楽として日本で流行した。明治期までのコンサートでは、邦楽と洋楽に混じってほぼ必ず明清楽のレパートリーが演奏されていたほどポピュラーな音楽ジャンルであった。 日清戦争(1894〜95)を契機に衰退したが、日本の大衆音楽にも大きな影響を与えた。現代の日本人は忘れているが、「梅ヶ枝の手水鉢」「法界節」「サノサ節」「復興節」「野球拳」などの俗曲は、いずれも明清楽と関連がある。

 明清楽それ自体も音楽として興味深い研究対象であるが、明清楽が日本社会で受容された状況はいっそう興味深い。
  • 鎖国時代であったにもかかわらず、日本国内で急速に普及した。
  • 身分制が厳しかった江戸時代で、俳諧や茶会と同様に、身分階級・性差を超えた音楽ジャンルとなった。
  • 明治の開国後、清国との通交が自由になっても、清国からの新曲の補充や教師の招聘は低調であった。
  • 明楽や琴学(琴楽とそれにまつわる学問の総称)、御座楽など他の中国伝来音楽が絶えたなかで、清楽だけは庶民階層の大衆歌謡の世界で形を変えて生き延びた。
 一般に、日本の近代文芸史は「脱亜入欧」の文脈で捉えられる傾向がある。しかし、明清楽の受容という観点から日本の近世・近代社会を見直すと、 庶民階層における「Sanskritisation」(M. N. Srinivas氏の用語)や「戦取的感性」(佐々木隆爾の用語)など、新しい学術的視点を導入することができる。


用語の解説
↓クリックすると拡大。解説はこちら
 明楽は明王朝の廟堂音楽で、声楽を主体とし、楽器伴奏や舞いを伴う荘重な音楽である。
 明末清初の動乱期、明の商人で福建省出身の魏之琰(ぎしえん 1617年?-1689年)は長崎との交易で財をなした。 彼は音楽にも造詣が深く、一族郎党を使って長崎で明楽を演奏した。 彼は願いでて京都にのぼり、延宝元年(1673年)には内裏で明楽を演奏し、その後、日本に帰化して「鉅鹿」(おおが)という姓を名乗った。
 魏之琰から四代目にあたる魏皓(ぎこう。魏君山、鉅鹿民部規貞とも。1728年?-1774年)は、長崎の自分の家で伝承されていた明楽を天下に広めたいと考え、 京にのぼって諸侯の前で明楽を演奏し、評判となった。姫路藩主の酒井雅楽頭は魏皓のパトロンとなった。 魏皓は京都を中心に百人もの弟子を抱えるまでになり、彼の明楽は公家や武士、市儒など、上流階層に支持された。 明和5年(1768)、魏皓は明楽の教科書『魏氏楽譜』を刊行した。 こうして明楽は明和年間に最盛期を迎えたが、魏皓の没後、清楽の流行におされて衰退した。
 長崎の魏氏明楽とは別に、朱舜水が伝え梁川藩で伝承されていた音楽のような「別伝の明楽」も存在していたようであるが、世に広まらなかった。 そのため単に明楽と言えば、もっぱら魏氏明楽を指す。(→明楽のページ)

 清楽は、長崎に来航した「唐人」すなわち中国商人がもたらした遊びの軽音楽で、唐通事(中国語通訳)や役人、丸山の遊女などを介して世に広まり、庶民から文人階層まで幅広く愛好された。
 明楽と違い、清楽は特定の個人がもたらした音楽ではなく、歴代の来舶唐人によって何度も伝えられた。中でも大きな波は、
  享保年間(1716-1735)の朱佩章や沈燮庵ら
  文化年間(1804-1818)の金琴江(1825-27長崎滞在)や江芸閣(こううんかく)、朱柳橋、李少白、沈萍香ら
  天保年間(1830-1843)の林徳建
であった。
 江戸から明治にかけて、邦楽については身分や社会階層ごとに使う楽器も音楽ジャンルにも、階層感からくる制約があった。 しかし中国伝来の清楽については、例外的に、身分や性別、年齢の差を問わず、誰でも一緒に器楽演奏や歌唱を楽しむことができた。 この意味で、清楽は日本の近代大衆音楽のルーツの一つであると見なす学説もある。

 江戸時代の後期には衰退したが、明楽の楽曲の一部は清楽に吸収される形で演奏され続けた。
 清楽は江戸時代後期から明治にかけて大いに流行し、日本の大衆音楽にも多大の影響を与えた。 一例をあげると、清楽の「九連環」という曲が元歌となって、「かんかんのう」「法界節」「さのさ節」「復興節」など、日本の歌謡曲のさきがけとなる歌が生まれた。(→「かんかんのう」)

 明楽と清楽をあわせて「明清楽」と称するようになったのは、明治5年(1872)の平井連山著『明清楽譜』(内題「声光詞譜」)のころからであるが、一般に「明清楽」と総称されるようになったが、単に明清楽と呼ぶと事実上、清楽だけを指す場合も多いので、注意を要する。
 明清楽は、日本の大衆音楽の重要な一部であったが、日清戦争のあと急速に衰えた。

 中国本土では、明の時代の音楽資料は意外に乏しい。日本には、明楽の楽譜や楽器の現物など貴重な資料が残っており、中国人の音楽研究者にとっても第一級の資料となっている。
 清楽の曲目については、現在の中国でも民謡として生命を保っているものも多いが、日本の清楽譜は古い時代の旋律や歌詞を記録しているため、やはり貴重な資料となっている。 例えば「九連環」「茉莉花」「銀紐糸」など、現在の中国各地に分布している伝統歌曲の伝播ルートを推定するうえでも、日本の清楽譜は必須の研究資料となっている。

 明清楽は、現在でも長崎や東京などで時折、演奏されている。

E・S・モースの写真より。笛、箏、月琴、三味線。1890年
月琴 清楽 明清楽 gekkin
拡大。障子に「胡琴」が立てかけてある。
月琴 清楽 明清楽 gekkin

参考 近世日本音楽の階層感
『別冊太陽』No.75(1991年秋号)「日本の音楽」p.68-72より要約

 太宰春台は音楽をランクづけし、一番いいのは雅楽で、次が猿楽、その次が箏曲、続いて尺八などがあって、最も良くないのが三味線、浄瑠璃とした。
 武家は藩校で雅楽を演奏した。雅楽は正楽で他は淫楽だ、三味線などもってのほかといって、武家は表だっては三味線を使わなかった。
 東京の練馬区は、昔は練馬大根で有名な農村だったが、結婚式のとき「高砂」ぐらい歌えないと恥ずかしいとされた。意味はわからなくても、謡をうたえないと恥ずかしいという感覚が、あちこちの農村にはあった。
 同じ町人の音楽でも、階層差があった。
 池田彌三郎(1914-1982)の母親は娘時代に箏を習っていたが、天ぷら屋に嫁入りしたところ、箏を弾くことを許されず、一生飾ったままであった。その天ぷら屋は伝統のある有名な店であったのに「うちでは箏は弾くものじゃない」という認識だった。それで池田彌三郎の姉妹が「常磐津節を習いたい」と言ったところ、父親に「常磐津、清元節は車夫馬丁の音楽だから、許すことはできない」と言われて、長唄を習ったという。大正や昭和の戦前までは、そういう階層感が残っていた。
清元節や常磐津と比較した明清楽の階層感

「この頃頻りに月琴が流行して、浅草の奥山や池の端辺では毎夜合奏して居り升が、清元や常磐津と違い品行も正しく、実に雅な遊びであります」(「月琴流行」『諸芸新聞』1881.8.15。塚原康子『十九世紀日本における西洋音楽の受容』に引く)


田仲一成『中国地方戯曲研究 ─元明南戯の東南沿海地区への伝播─』(汲古書院、2006年)
「序論」「一 中国地方戯曲の階層構成」より要約

 中国の地方戯曲は、地方社会の階層構造に対応して、次の三つの階層に分化しているが、他の地域に伝播する場合はそれぞれ異ったルートをとる。
(1)郷村演劇の戯曲=移民ルート
 郷村の制度としての演劇であり、郷村の秩序を保つ道徳を鼓吹する忠孝節義の内容が多い。この種の戯曲は郷村地域で自足しており、方言で上演されるから、方言地域を越えての移動は難しい。ただ郷民が集団的に大量に移住する場合などは移住先に伝播することはありうる。
(2)宗族演劇の戯曲=士人ルート
 宗族の家演や文人社交の場で上演された演劇であり、洗練された文辞の伝奇昆曲が流行した。文人の共通語である官話で上演され、宗族の通婚関係・社会関係のネットワークを通じて、社会の上層部に広く急速に拡大するが、社会上層の隆替に応じて消滅するのも早い。
(3)市場演劇の戯曲=商人ルート
 商業地区としての農村市場では、下層民の要求により自由な新作戯曲が盛行した。商人の影響が大きく、商業圏の内部では容易に伝播する。地域共通方言で上演されるので、狭い方言の壁は乗り越えやすい。


中国音楽の分類(案)
 いわゆる明清楽の楽曲のうち、明楽は廟堂音楽、清楽は民間音楽という基本的性格をもつ。
 ただし、それぞれのジャンルの個々の楽曲は、以下の複数のジャンルにまたがるものも多い。

中国音楽の分類(案)
1.現代音楽  (分類はおおむね日本と同じ)
2.伝統音楽文人音楽
廟堂音楽
民間音楽
琴学、等
雅楽、燕楽、等
民歌、民間歌舞、民間器楽、説唱、戯曲、等

以下、清楽と関連の深い民間音楽の分類について、あらためて詳しく取り上げる。
中国民間音楽の分類(案)br>
1.民間歌曲(民歌) ★号子(労働号子):黄河船夫曲、…etc
★山歌:信天遊、山曲、花児、雲南山歌、…etc
小調(小曲、俗曲、時調):小白菜、孟姜女、繍荷包、茉莉花、…etc
2.民間歌舞音楽 ★秧歌
★花鼓(打花鼓、地花鼓、花鼓小鑼、扇子鼓、…)
★花灯
★采茶(茶歌、灯歌、采茶灯)
3.民間器楽糸竹楽:江南糸竹、広東音楽、福建南曲、…etc
★吹打楽:
  北方;西安鼓楽、晋北鼓楽(山西「八大套」)、冀中管楽(河北吹歌)、山東鼓吹、…
  南方;十番鑼鼓、浙江吹打(浙東鑼鼓)
4.説唱音楽(曲芸) ★鼓詞:京韻大鼓、梅花大鼓、西河大鼓、温州鼓詞、揚州鼓詞、…etc
★弾詞:蘇州弾詞、揚州弾詞、長沙弾詞、…etc
★道情:晋北説唱道情、江西道情、湖北魚鼓…etc
★牌子曲:北京単弦、河南大調曲子、四川清音、広西文場、…etc
★琴書:北京琴書、山東琴書、四川揚琴、貴州琴書、…etc
5.戯曲音楽 曲牌体(楽曲系)
★高腔、★崑腔
板腔体(詩讃系)
★梆子腔、★皮黄腔

日本に伝来した長崎清楽曲の大半は、上記の「小調」と「糸竹楽」に分類される。
例えば「九連環」「算命曲」「茉莉花」などは、典型的な小調である。
鳳陽調(鳳陽花鼓)は、中国本土では歌舞音楽であったが、長崎清楽では「舞」と「歌」を分離して歌の部分だけ「小調」として輸入された。
この他、長崎清楽曲に多い「〜流水」は、糸竹楽である。
長崎清楽には、説唱系の楽曲(「三国志碧破玉」「桐城歌」等)もあったが、小調系や糸竹楽系ほどポピュラーではなかった(清楽学習者の上級者用であった)。

琉球清楽の楽曲は、小調系・糸竹楽系(御座楽など)に加えて、吹打楽(路次楽など)、民間歌舞音楽系(「
伊集の打花鼓」など)や戯曲系(江戸上りでの演劇など)もあり、長崎清楽よりもジャンルが豊富だった。
その一因は、琉球王朝時代の琉球人は、直接、中国人から歌舞音曲を習う機会に恵まれていたことにもある。


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