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宋の皇帝を驚愕させた日本の僧

奝然(ちょうねん)
凡人だからこそ出来ること


 本頁は、月刊『歴史街道』2004年6月号(PHP研究所)に寄稿した拙文をアップしたものです。
 アップにあたり、原載誌のルビは大幅に、写真は全部割愛しました。
2004年4月27日記


 日本の天台山たる比叡山延暦寺に対し、日本の五台山をつくりたい−−。
 仏教界の構造改革を志した奝然(ちょうねん)は、熱い思いを胸に中国へ渡ろうとする。
 渡航の夢がかなったのは、十一年後。帰国後、天才でも思想家でもない奝然がしたこととは。
Kato Toru 加藤徹 ◎広島大学助教授◎

仏教に新風を吹き込まねば

 歴史は小説よりも奇なり。八方ふさがりの行きづまった時代に風穴をあけたのは、天才でも英雄でもない一人の地味な男だった。
 彼の名を、奝然という。日本ではあまり知られていないが、中国の歴史書では阿倍仲麻呂とならび最も有名な日本人として扱われている。
 
 奝然は、平将門と藤原純友の乱のさなかの天慶元年(九三八)、下級貴族である秦氏の家に生まれ、少年時代から東大寺で仏教を学んだ。
 奝然が生きた平安中期、日本社会は行きづまっていた。政治は藤原氏の、宗教は比叡山延暦寺の「ひとり勝ち」だった。すでに律令制の破綻は明らかで、民衆は末法思想の不安におののいた。が、一極集中化で硬直化した政治も、儀礼化した宗教も、未来への明確なヴィジョンを描けなかった。
「仏教に新風を吹き込まねば、世の中は救われない」
 気骨ある僧侶たちは、仏教界の構造改革のために行動を起こした。空也(九〇三ー七二)は常に市中に立って庶民に念仏をすすめ、源信(九四二ー一〇一七)は地獄や極楽のありさまを生々しく説いた。同時代の奝然も、そうした構造改革派僧侶の一人であった。
「私は、空海や最澄のような天才ではない。だが、そんな私にもできることがあるはずだ」
 奝然は考えた。沈滞している仏教界に、かつての奈良時代のような競争の気風を取り戻すためには、比叡山延暦寺の「ひとり勝ち」状態を緩和しなければならない。比叡山は「日本の天台山」として絶大な権威をふるっている。ならば、比叡山のカウンターパワーとして、新たに「日本の五台山」をつくればよい(天台山と五台山は、中国仏教の二大霊場)。
 奝然は三十四歳のとき(満年齢。以下同じ)、同志の僧・義蔵とともに「現当二世結縁状」を書き、京都北西の愛宕山に新しい寺をつくることを誓い合った。そして、自分が中国にわたり、五台山に巡礼する決意をひそかに固めた。
 だが、当時の日本の国情では、海外渡航は不可能だった。
 遣唐使廃止(八九四)以来、日本は鎖国を国是とした。朝廷は、日本人の海外渡航を法令で厳禁。宋の商船の来日にも、きびしい制限枠を設けていた。中国で宋王朝が成立した(九六〇)あとも、日本は使節を送らず、無国交状態が続いていた。
 そもそも日本仏教界の「抵抗勢力」が、奝然の大それた夢を許すわけがない。
「あせらずに、時機が来るまで、じっくりと力を蓄えよう」
 奝然は、雄志を胸の奥底に秘めたまま、来たるべき渡宋の日に備えて勉学を積んだ。

宋の皇帝・太宗の驚き

 愛宕山の寺院建立を誓ってから十年後の、天元五年(九八二)。四十四歳になった奝然は、ついに行動を起こした。彼は朝廷に、宋に渡って霊場を巡礼したいむねを申告した。
「私は凡庸で愚鈍ですが、分をわきまえております。もし宋人から遠路巡礼の意図をたずねられたら、私は『日本国の無才無行の三流僧侶が修行のために参ったのです。決して求法のためではありません』と答えます。さすれば、わが日本国の恥とはなりますまい」
 奝然は言外で、自分が第二の空海や最澄になる野心をもたぬことを述べたのである。
 結局、朝廷は奝然の渡航を、特例として黙認することにした。
 翌、永観元年(九八三)八月一日。四十五歳の奝然は、弟子の嘉因・盛算らとともに宋の商船に便乗して、九州を出発した。十七日後、船は中国の台州に到着。九月に天台山を巡礼したあと、蘇州・楊州などの大都会を経て、十二月に宋の首都・開封に到着した。
 奝然は一私人の資格で渡宋したが、宋の第二代皇帝・太宗(初代皇帝・趙匡胤の弟)は、彼を国賓として待遇し、皇宮で引見した。奝然は、日本の『職員令』や『日本年代記』、そして中国の古典『孝経』の豪華本などを献じ、太宗を喜ばせた。
 太宗は、日本の風土・歴史・地理・物産に興味をもち、奝然にたずねた。奝然は中国語会話はできなかったが、筆談で漢文をすらすらと書いて答えた。太宗が日本の王制についてたずねると、奝然は答えた。
「わが国の天皇は一姓伝継であり、臣下もみな世襲です。易姓革命は、一度もありません」
 太宗は驚嘆し、宰相をかえりみて、羨望の言葉を漏らした。
「日本は島国の未開人だとばかり思っていたのに、王統は一姓伝継で、臣下もみな世襲とは! 中国のいにしえの理想の道を実現しているのは、われらではなく、なんと、彼ら日本人のほうではないか」
 太宗は関係各省庁に命じて、奝然の五台山参詣の便宜を図らせた。そして奝然に、国家が僧侶に与える最高の栄誉である「紫衣」と、「法済大師」の称号、印刷されたばかりの『大蔵経』五千四十七巻などを与えた。
 寛和二年(九八六)七月、四十八歳の奝然は、宋の商船に便乗して、太宗からもらったみやげとともに、九州に帰着した。

時を静かに待つ

 日本の仏教界は、大騒ぎになった。一私人の資格で渡宋した奝然が、かつての空海や最澄をしのぐ厚遇を中国の皇帝から受けた。しかも奝然は、仏典のみならず、インド伝来の「生身の釈迦像」(釈迦の生前に、姿形を寸分たがわず写しとったという伝説の仏像)まで持ち帰ってきた。この仏像は、奝然が中国で作らせた精確な模刻(コピー)であった。が、日本の民衆は、
「あの生身の釈迦像は、実は本物だ。御仏の奇跡で、中国で模刻品と本物が入れ替わり、本物のほうがわが国に伝来したのだ」
 という噂をつくり、それを信じた。
 いよいよ、長年の夢を実現するときがきた。
 永延元年(九八七)二月、奝然は平安京にもどると、さっそく朝廷に、
「愛宕山に清涼寺を建立し、宋から将来した生身の釈迦像を安置したく存じます」
 と奏請し、天皇の許可を得た。清涼寺とは、五台山の別名「清涼山」にちなむ命名である。
 比叡山側は仰天した。
「奝然は、愛宕山に『日本の五台山』をつくり、わが比叡山と張りあうつもりだったのか!」
 比叡山は朝廷に対して、清涼寺建立反対の工作をおこなった。その結果、いったんは天皇の許可を得た清涼寺建立計画は、白紙にもどされた。
 奝然は、ゴリ押しをせず、清涼寺建立を取り下げた。弟子たちが、
「清涼寺建立は、勅許を得ています。なぜ、あっさりと諦められたのですか」
 と言うと、四十九歳の奝然は、静かに答えた。
「諦めたわけではない。道はすでに開けた。いずれ時がくれば、ならぬことはならず、なることはなるだろう。御仏の思し召しのままに」
 永祚元年(九八九)、五十一歳の奝然は、東大寺の別当(トップ)となり、三年間在任した。退職後は後進の育成などに専念。長和五年(一〇一六)、藤原道長が摂政になった年に、満七十八歳で入寂した。

弟子によってかなえられた夢

 奝然の没後、入宋にも同行した弟子の盛算は、嵯峨の栖霞寺(光源氏のモデルとなった源融の邸宅跡)の境内に「生身の釈迦像」を安置し、その場所を「清涼寺」と命名することを朝廷に奏請し、天皇の許可を得た。比叡山の対抗拠点をつくる、という奝然の夢は、彼の死後、部分的に実現したわけである。
 奝然のあと、平安から鎌倉にかけて、寂照・成尋・戒覚・重源・栄西などの日本僧が入宋巡礼を果たした。鎌倉時代の元寇のとき、この「僧侶ルート」で宋から得た貴重な情報が、日本を救った。このルートの最初の開拓者が、奝然だった。
 奝然が将来した「生身の釈迦像」(釈迦如来立像)は、美術史上「清涼寺式」と呼ばれ、後世に大きな影響を与えた。浄土宗の開祖・法然も、若いとき、清涼寺の釈迦如来立像の前に七日間参籠したという。昭和二十九年(一九五四)、この釈迦如来立像を解体修理した際、仏像の体内から、内臓の精巧な模型や、奝然自筆の文書など、貴重な文物がタイムカプセルのように千年ぶりに発見され、話題となった。これらはすべて国宝に指定されている。

*  *  *
 先行きが見えぬ閉塞した時代に生を享けた奝然は、天才でも思想家でもなかったが、あわてず焦らずの着実な人生を送り、未来のためのレールを敷いて残した。現代のわれわれが彼の生きかたから学べるものは、多い。

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