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【対面+オンラインのハイブリッド】五大古都から見る中国文明の歴史

最新の更新2023年11月18日 最初の公開2023年10月21日

以下、https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/59376/より自己引用。引用開始。
曜日 火曜日   時間 10:40〜12:10  日程  全5回 ・10月24日 〜 11月21日
(日程詳細) 2023/10/24, 10/31, 11/07, 11/14, 11/21
目標
・私たちが生きている今の時代がこのようになった理由を考える。
・日本史と中国史という枠組みを取り払い、世界的な視野から東アジアを見直す。
・歴史の予備知識がない人にも、身近なことから考える楽しさを体験してもらう。
講義概要
中国史で首都となったことがある古都――長安、洛陽、開封、南京、北京は、それぞれ長い歴史をもつ個性的な都市です。この5つの古都の地理的条件はバラバラです。なぜ中国の首都はダイナミックに移動してきたのか。紀元前11世紀から21世紀まで、中国文明の変遷の歴史と、それぞれの古都の魅力を、豊富な映像資料を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。
自己引用終了。
  1. 10/24 長安 ――前漢と唐の世界帝国の首都
  2. 10/31 洛陽 ――歴史と文化の落ち着いた古都
  3. 11/07 開封 ――中国人がもっともなつかしさを感じる古都
  4. 11/14 南京 ――ここに首都を置く王朝は短命というジンクス
  5. 11/21 北京 ――中国を越えた東ユーラシアの首都

第1回 長安 ――前漢と唐の世界帝国の首都
 長安は、紀元前3世紀に前漢の初代皇帝・劉邦が築かせた首都でした。以来、歴代の王朝や政権の首都として栄えました。唐の時代の長安は人口100万の国際都市であり、日本の平城京や平安京をはじめ東アジアの都市設計に大きな影響を与えました。しかし11世紀以降は地方都市に戻り2度と首都になることはありませんでした。玄宗皇帝や楊貴妃、李白、杜甫、空海らも暮らした世界都市・長安の歴史と魅力を、豊富な映像資料を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lQJSEMNPTgl-gpZ3lKRlvr
Google画像検索 [長安] [长安](中国語の簡体字)
ポイント・キーワード
長安の歴史
  1. 西周の都・鎬京(こうけい)。今の西安市南西郊。
  2. 秦の咸陽(かんよう)。宮址は西安の北西方の渭河(いが)北岸で、阿房(あぼう)は西郊にあった。
  3. 前漢の長安城は、初代皇帝・劉邦が設置。
    劉邦の出身地は東方で洛陽を首都にしたかったが、宰相の蕭何の意見で、咸陽の近くに巨大な新都を造営。秦のインフラを流用しやすかったことが一因。
    名前を「長安」とし、蕭何の意見で面積は咸陽の4倍に拡大し、「威信財」的な建築をふんだんに 採用し、漢王朝の永続性を天下にアピールした。
    前漢の長安城(中国では、城壁で囲まれた都市全体を「城」と呼ぶ)は、現在の西安市の北西郊、渭河の南に位置。
    周囲に高い城壁を巡らし、城門の数は12、城内には長楽宮や未央宮(びおうきゅう)など 壮麗な宮殿を造営し、市民のために市場や居住区も作られた。
    前漢長安城の総面積36平方キロメートル。武帝の時代に完成をみた。
    前漢の諸帝の陵墓は、渭水の北の渭北丘陵と、西安市南東の白鹿原に造営された。
  4. 後漢は首都を、東野洛陽に置いた。「東漢」とも呼ぶ。
  5. 五胡十六国や、南北朝時代の北朝の諸王朝は、 漢代長安城の場所に宮都を構えた。
  6. 中国を再統一した隋の文帝は、582年、 土木建築の技術官僚・宇文ト(うぶん・かい)に命じて、 新都・大興城(だいこうじょう)を造営させた。
  7. 唐長安城は、隋の大興城を修築したもの。
    東西9.7キロメートル、南北8.6キロメートル、と東西方向のほうが長い四角形だった。
    都市設計は、北辺の中央に宮城と皇城を置いた。
    城内の中心軸には南北に幅150メートルの幹線道路を作り、 大小の道路を東西・南北に碁盤の目状に作った。
    長安城内は109の「坊」に分かれ、それぞれの坊には住宅、仏寺、道観、イスラム寺院などが点在していた。 その様子は陳舜臣の歴史小説『曼陀羅の人―空海求法伝』に描かれている。
    太宗と高宗は長安城外北東に大明宮を造営。
    則天武后こと武則天は、唐の国号を中断して「周」と改称し洛陽に遷都。その後、また長安に戻る。
  8. 長安の最盛期は、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の時代。
    玄宗は長安城内に興慶宮を造営。南東隅の曲江池は遊宴の地。
    城内の「東市」「西市」は商店や人混みにあふれ活気に満ちていた。その様子は 映画『空海−KU-KAI−美しき王妃の謎』2017年で活写。
    長安には、日本の遣唐使も含め、世界中から人材・物材が集まった。
    755年、安禄山の乱が起き、長安は荒廃。杜甫の漢詩「春望」が有名。「国、破れて山河、在り。 城、春にして草木、深し」。
    907年、唐が滅亡。その後、長安が再び中華帝国の首都となることはなく、地方都市に転落した。
  9. 明王朝の建国の翌年、1369年、明は元朝の奉元路を廃止して「西安府」を設置した。 「西安」という地名の初見。
  10. 清末の1900年、義和団事件で、西太后らが西安に逃げる。
  11. 1936年、西安事変。蒋介石が、張学良らによって、西安郊外の華清池温泉で監禁される。
名所旧跡
 京都やローマなどと違い、唐の時代からの伝世の建築はあまり残っていない。 漢詩
子夜呉歌・李白  しやごか りはく
長安一片月長安 一片の月ちょうあん いっぺんのつき
萬戸擣衣声萬戸 衣を擣つの声ばんこ ころもをうつのこえ
秋風吹不尽秋風 吹きて尽きずしゅうふう ふきてつきず
総是玉関情総て是れ玉関の情すべてこれ ぎょっかんのじょう
何日平胡虜何れの日か 胡虜を平らげていずれのひか こりょをたいらげて
良人罷遠征良人 遠征を罷めんりょうじん えんせいをやめん


故事成語
 推敲(すいこう)



第2回 洛陽 ――歴史と文化の落ち着いた古都
 洛陽は、紀元前8世紀の東周から10世紀の唐末まで、2千年間にわたりたびたび中国の首都となった古都です。西の長安が栄華を誇る政治都市だったのに対して、東の洛陽は落ち着いた感じの文化都市でした。長安を首都とした唐の時代も、武則天(則天武后)の時代は洛陽が首都でした。芥川龍之介の『杜子春』や司馬遼太郎の「洛陽の穴」など日本人の洛陽観にも触れつつ、洛陽の歴史と魅力を、豊富な映像資料を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-m0v8EkVt382qcuCMJPZbVn
Google 写真検索 「洛陽」「洛阳


○ポイント、キーワード
○辞書的な説明

○洛陽のあらまし
 現在の河南省洛陽市。河南省西部で、黄河の支流・洛水の北側にあるので「洛陽」と呼ぶ。
 東に虎牢関、西に函谷関がある。三国志のはじめのほうの、191年の「虎牢関の戦い」は有名。
 北京・南京・西安・洛陽は、中国の四大古都。
 この中でも洛陽は約4千年の歴史をもち、歴代王朝の累計105人の帝王がここに都を置き、東周から五代十国時代まで九つの王朝の首都となった(カウントのしかたには諸説あり)。
 中華人民共和国の都市のランク付けは、上から、直轄市(北京市、上海市、重慶市、天津市)、副省級市(省都など)、地級市(南京市、西安市、洛陽市はこれ)、副地級市・省直管市、県級市、鎮、・・・。

略年表
  1. 紀元前1800年頃の「二里頭遺跡」は、河南省洛陽市にある。
    cf.https://ja.wikipedia.org/wiki/洛陽市#歴史の地図
  2. 前11世紀、西周の第二代・成王は、東へのおさえとして洛邑を置く。
    一説に、紀元前1050年頃、洛水を挟んで南側に成周、北側に王城が建てられ、東周の時代には両都市を合わせて洛邑と呼ばれるようになっという。
  3. 前771年、周の第十三代・平王は洛邑に遷都し、「東周」時代が始まる。
  4. 戦国時代の秦、自国の都・咸陽と、周の都・洛陽を結ぶ街道上に「函谷関」(かんこくかん)を建設。
  5. 渭水流域の軍事力と結びついた咸陽や長安に対して、洛陽は華北平原の経済力と結びついた物資の集積地として発展してゆく。
  6. 1世紀、後漢の光武帝(在位25-57年)が首都を洛陽に遷す。漢王朝は「火徳」とされたので洛陽のサンズイを嫌って雒陽と改名した。
    『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に
    「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
    (建武中元二年=西暦57年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う)
    とあり、江戸時代に出土した金印「漢委奴国王印」(かんのわのなのこくおういん)は、洛陽で、倭(日本)の使者が光武帝から与えられたものであるとされる。
  7. 後漢の末、「土徳」をモットーとする三国志の曹操が実権を握ると洛陽に戻した。
  8. 493年、北魏は第6代孝文帝の時代に洛陽に遷都。洛陽郊外に龍門石窟を造営。
  9. 唐の武則天の「武周」(690年−705年)は一時的に「神都」と改名され首都となった。
  10. 宋の時代、物資の集積地としての地位がより東の開封にうつった。また元以降は「北族」の軍事力を背景に北京が首都となることが増えた。
    宋以降、洛陽は副首都としての歴史的機能を他の大都市にゆずった。
  11. 1944年、日中戦争末期の大陸打通作戦で、日本軍が洛陽を占領。
  12. 2000年、ユネスコ世界遺産に洛陽市郊外の龍門石窟が登録された。

○日本人が見た洛陽

司馬遼太郎『長安から北京へ』(中央公論社、昭和51年=1976年)127頁-137頁より引用。引用開始。
 洛陽というのは、宋において衰微するまでは、大した町であった。唐代では首都が長安であったとはいえ、なお副首都の位置を保っていたとされる。
 唐の長安は世界都市として当時、遠く西方にまで光芒を放っていたが、その背後地である「関中」は秦漢時代ほどの農業生産力をもたなくなり(長安の消費人口が大きすぎたために)、食糧その他の物資は洛陽にあおがざるをえなかった。このため洛陽が副首都とされ、長安なみとまではゆかなくても相当な規模の宮殿や官衙が備えられていた。
 日本史でできた先入主では信じがたいことだが、皇帝でさえ長安で食糧不足になると、めしを食うために(ごく具体的な意味で)洛陽まで出てきて長期滞在した。百官を連れてきた。当然後宮の女どももきた。みな洛陽で、数万人の支配階級とその寄生者たちが、箸をうごかしてめしを食った。
 星斌夫(ほしあやお)氏の『大運河』(近藤出版社)によれば、玄宗皇帝などは洛陽にやってきてめしを食うことがしばしばで、それより前、盛唐のころの高宗などは、在位三十三年のうち十一年もこの洛陽で暮らしたという。江南の穀倉地帯から大運河などの水路をへて食糧が洛陽まではこばれてくる。洛陽から長安への輸送は険阻な陸路が多く、難渋をきわめた。その輸送を待つより、いっそ口を洛陽に持って行って食物を食うほうが手っとりばやく、そういう発想で洛陽への行幸が営まれた。その移動は百官や後宮の女たち、宦官たちをふくめると、一万数千人になったであろう。かれらが洛陽に移って最初の食卓で箸をとりあげることを想像するとき、一万数千人のはげしい咀嚼音がきこえそうである。江南から洛陽への食糧輸送は、経費も労働も、すべて農民たちの負担によった。その輸送は、挙げて政治都市長安の政治組織にめしを食わせるためだったことを思うと、支配と被支配の関係がひどく簡単なような気がする。
(中略)中国においては日本の奈良朝以前から洛陽(あるいは塩の揚州もふくめて)という大きな商業機能が存在し、これによって中国人が洛陽の機能を通じ、物価、交通、輸送、需給の相関といういきいきした商業的思考法を身につけたということである。この刺激は経済を知るだけでなく、モラルの点でも多くのものを中国思想に加えたかと思える。
(中略)
「この含嘉倉の穴の中に、二十五万キログラムから三十万キログラムまでの穀物を入れることができます。保存の能力は、粟なら九年、米なら五年です」  と、説明者がいった。
 ともかくも、洛陽には現在発見されているだけで二百六十一個というおびただしい穀物収蔵用の窖(あなぐら)の跡があるということから想像すると、隋唐時代におけるこの副首都がどんな機能をもっていたかが、具体的にわかってくるような気がする。


瀬戸内寂聴『美と愛の旅2――敦煌・西蔵・洛陽』(講談社、1983年)138頁-143頁
 洛陽は、東周、後漢、曹魏、晋、北魏、隋、唐、後梁、後唐の九つの王朝の首都であったので、「九朝王都」と呼ばれている。
 最も栄えたのは、隋、唐の時代であったが、それぞれの王都の時代は、華々しく栄えていた。
 後漢時代、明帝がある明け方夢を見た。金色に光り輝く人が項(うなじ)から白光を出し、空から宮廷に飛び降りてきた。
(中略)
 中国に仏教が伝来した最初の伝説である。
 明帝は、洛陽の郊外に寺を建て、二人のインド僧はそこで終生暮した。寺は、経典を運んだ馬にちなんで白馬寺と名づけられた。
 仏教が最初に根を下したのが洛陽であるということは見のがすことが出来ない。
(中略)
 洛陽の街はどこへ行っても静かだった。
(中略)
 殷賑を極めた古都の大建築も、胡人の朝貢の列の鳴らす異域の音楽の旋律も、凱旋を告げる軍鼓のひびきも、夢のまた夢の中に幻の影をたゆたわせているだけで、現実の洛陽の木もれ陽は、絹糸のようにやさしく、靴の下の土には、匂いとやわらかさを千古のままに伝えて、生きていた。


  芥川龍之介『上海游記・江南游記』雑信一束
十 洛陽
 モハメット教の客桟の窓は古い卍字の窓格子の向うにレモン色の空を覗かせている。夥しい麦ほこりに暮れかかった空を。

麦ほこりかかる童子の眠りかな

芥川龍之介『杜子春』
 詳しくは加藤徹のサイト「日本と中国、二つの「杜子春」」を参照。
 或春の日暮です。
 唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでゐる、一人の若者がありました。  若者は名は杜子春とししゆんといつて、元は金持の息子でしたが、今は財産を費ひ尽くして、その日の暮しにも困る位、憐れな身分になつてゐるのです。
 何しろその頃洛陽といへば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来にはまだしつきりなく、人や車が通つてゐました。門一ぱいに当つてゐる、油のやうな夕日の光の中に、老人のかぶつた紗の帽子や、土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾つた色糸の手綱が、絶えず流れて行く容子は、まるで画のやうな美しさです。
 しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を凭(もた)せて、ぼんやり空ばかり眺めてゐました。空には、もう細い月が、うらうらと靡いた霞の中に、まるで爪の痕かと思ふ程、かすかに白く浮んでゐるのです。
「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行つても、泊めてくれる所はなささうだし――こんな思ひをして生きてゐる位なら、一そ川へでも身を投げて、死んでしまつた方がましかも知れない。」
 杜子春はひとりさつきから、こんな取りとめもないことを思ひめぐらしてゐたのです。

※原作である唐代伝奇『杜子春伝』の冒頭は、
「杜子春は、蓋(けだ)し周・隋の間の人なり。少(わか)くして落拓にして、家産を事とせず。然して志気間曠(かんくわう)にして酒を縱(ほしいまま)にして間遊するを以て、資産蕩尽す。親故に投ずるも、皆事に事(つか)へざるを以て棄てらる。
 冬に方(あた)り、衣破れ腹空しくして、長安の中を徒行す。日晩(く)れて未だ食せず、彷徨して往く所を知らず。東市の西門に於いて、饑寒の色掬すべく、天を仰ぎて長吁(ちやうく)す。」

香川県・井原九八「私の青春記 戦車第一師団防空隊」、平和祈念展示資料館『労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編) 第19巻』48頁より引用
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/19/O_19_047_1.pdf
 洛陽攻略戦は機動砲兵隊が部隊の掩護をしつつ、敵軍に包囲された洛陽を見下ろす三山村の台上に陣地を構築しました。昼間、洛陽より撃ち出す砲弾が陣地周辺に落下し気味が悪かったものですが、夕方、軍砲兵隊が敵の発射光を目標にして三発目で制圧したのには、その精度の良さに感服しました。
 洛陽の十キロほど手前の竜門峡の隘路の戦闘や白沙鎮の戦闘では戦死者が出ました。この竜門峡は山全体に何万と知れない多くの石仏の彫刻があり、それを見ることが出来ましたが、戦争中であり平和になったらぜひ今一度と思っておりました。戦後に二度ほど行きましたがここは中国の観光地として有名です。
 河南作戦である中国の古都洛陽に対する総攻撃は、四月二十日、火蓋が切って降ろされ、五月二十五日に陥落しました。


○世界の古代都市との比較
 人口の変遷 https://ja.wikipedia.org/wiki/歴史上の推定都市人口

 ターシャス・チャンドラー (1987年)による世界の「人口上位十大都市」。
 紀元前1千年・・・成周(洛陽の前身)の推定人口は5万人で、テーベ、鎬京と並び世界のトップ3の大人口(当時として)。
 前650年・・・人口7万で世界第3位をキープ。
 前430年・・・人口10万人だが世界第5位まで落ちる。
 前200年・・・人口6万人で世界21位に転落。同年の1位は人口40万人の長安。
 100年・・・後漢の首都となり人口42万、僅差で世界2位。同年の1位は人口45万人のローマ。
 500年・・・北魏の首都。20万人で世界3位。
 622年・・・唐の副都。20万人で世界4位。1位は50万人のクテシフォン、2位は40万人の長安、3位は35万人のコンスタンティノポリス。
 800年・・・唐の副都。30万人で世界4位。1位はバクダード、2位は長安。
 900年・・・唐の副都。15万人で世界7位。20万人の平安京(世界第4位)にも負ける。
 司馬遼太郎が述べたとおり、960年、北宋の建国以降、洛陽が世界の都市ランキングの上位に顔を出すことはなくなった。

○李白の七言絶句「春夜洛城聞笛」
  春夜 洛城に笛を聞く
 誰家玉笛暗飛声  誰が家の玉笛か 暗に声を飛ばす
 散入春風満洛城  散じて春風に入りて 洛城に満つ
 此夜曲中聞折柳  此の夜 曲中 折柳を聞く
 何人不起故園情  何人か故園の情を起こさざらん

シュンヤ、ラクジョウにフエをキく。リハク。
タがイエのギョクテキか、アンにコエをトばす? サンじてシュンプウにイりて、ラクジョウにミつ。コのヨ、キョクチュウ、セツリュウをキく。ナンピトかコエンのジョウをオこさざらん?
※日本では詩吟のほか、明清楽(みんしんがく)の「紗窓」(さそう)の歌詞としても有名。#singaku-07.html#jion


第3回 開封 ――中国人がもっともなつかしさを感じる古都
 中国の中央部に位置する開封は、紀元前4世紀、戦国時代の魏が首都・大梁をこの地に置いて以来、五代十国の諸王朝や北宋の首都が置かれました。特に北宋時代の開封は、活気に満ちた商業都市としても繁栄し、庶民文化が花開きました。開封の繁栄ぶりは、『東京夢華録』や『清明上河図』などの歴史資料でも描かれています。また、古典小説『水滸伝』や井上靖の歴史小説『敦煌』、日本でも放送された中国の歴史ドラマでも開封は物語の舞台として登場します。開封の歴史と魅力を、豊富な映像資料を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nTiYQZVyiDeaHy3V9DDt4d

○開封市について
歴史的都市名としては「かいほう」と読むが、現代日本では「かいふう」と読む人も多い。
河南省の東部に位置する地方都市で、人口は527万、総面積は6444平方キロメートル(ちなみに千葉県の人口は628万人で面積は5,157平方キロ)。市街地の人口は90万人(ちなみに千葉市の人口は97万人)。
全国を統治した統一王朝の首都となったのは、北宋の時代だけだが、11世紀から12世紀にかけて世界最大級の都市であった。
日本では、埼玉県戸田市と姉妹都市。
cf.戸田市公式サイト 「中国・開封市(かいふうし)と友好都市締結35周年」 https://www.city.toda.saitama.jp/koho-toda/190701/topics04.html ★歴史的な都市としての開封が登場する作品
井上靖の小説『敦煌』 時代設定は北宋。映画化もされた。
中国の古典小説『水滸伝』 時代設定は北宋末期。北方謙三氏の「大水滸伝シリーズ」など、水滸伝ものの創作作品は多い。
中国のテレビドラマ『中国ドラマ 開封府〜北宋を包む青い天〜』 https://www.bs-tvtokyo.co.jp/kaihofu/
漫画家の青木朋氏による歴史漫画『天上恋歌〜金の皇女と火の薬師〜』(連載中)
他多数


○ポイント、キーワード
○辞書的な説明

○略年表 ○その他


第4回 南京 ――ここに首都を置く王朝は短命というジンクス
 南京は、中国四大古都(西安・北京・南京・洛陽)の1つです。西暦229年「三国志」の孫権が呉の都「建業」を現在の南京に置いて以来、六朝時代(呉・東晋・宋・斉・梁・陳)や、明王朝の初期、清末の太平天国、20世紀の中華民国は、南京を首都としました。日本との距離も比較的近く、5世紀の「倭の五王」の遣使や、近現代の日本語「南京錠」「南京玉すだれ」「南京そば(ラーメンの原型)」の語源にもなるなど、距離感の近さが伺えます。古都・南京の歴史と魅力を、豊富な映像資料を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。

YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-k8CFq--UsDK8kYzhhCEeJF

現在の南京市について。以下、「名古屋姉妹友好都市協会」のサイトの「南京市」http://nsca.gr.jp/sistercities/nanjing/ より引用。閲覧日2023年11月12日。引用開始。
南京市概要
南京市は江蘇省の省都で、長江下流の南部に位置する江南の政治・経済の中心地です。都市の歴史は約2400年前の戦国時代中期に始まり、呉や明など10の王朝の都が置かれてきました。明の永楽帝が北京に都を移したため、「南の都」として南京と呼ばれるようになりました。長い歴史を持つ南京市は古代から現代までの様々な歴史遺産があり、中国国内では観光地として有名です。
(中略)
地理
南京市は、中国の物産豊かな長江下流平野にあり、長江の両岸にまたがり、市内は山と水、城壁と樹林に囲まれ、北部の雄大さと南部の美しさを兼ね備えています。南京市の東に紫金山があり、西に石頭城があり、長江の支流である秦淮河が市内を流れています。
歴史
南京市の歴史は古く、2500年前の春秋時代にさかのぼります。紀元前472年に越の王、勾践が呉を滅ぼした後、現在の中華門の南西地点に城を築いたのが、この街の起源となりました。3世紀に入ると、三国志で知られる呉の孫権が再び都を置きました。以後、東晋、南朝の宋、斉、梁、陳(以上を六朝と称する)及び南唐、明、太平天国、中華民国の10の王朝と政権の都として栄えてきました。
北京、西安、洛陽と並び「中国四大古都」の一つに数えられるこの街で、最も印象的なのが、街を取り囲む城壁です。14世紀江南を統一した朱元璋はこの地で明朝を興し、1368年初代皇帝、洪武帝に即位しました。朱元璋は幕僚からの「高い壁を築いた方が良い」という提案を受け、城壁の工事に着工、21年の歳月をかけ、1386年に街を取り囲む城壁が完成しました。城壁の全長は35.276kmに及び、今もその3分の2以上が街の中に残っています。
(中略)
文化・観光
2500年の歴史を誇る南京市は古代から現代までの様々な歴史遺産があり、中国国内でも観光地として有名です。代表的なものには、中国革命の父として今も尊敬を集めている孫文の陵墓である中山陵、明の建国者・朱元璋(洪武帝)の陵墓である明孝陵、中国を代表する巨大鉄橋の長江大橋などがあります。また南京市は「緑の都」として知られており、緑化率は街全体の40%以上を占め、国内の都市の中でトップに立っています。
引用終了。
○ポイント・用語

○辞書的な説明
「精選版 日本国語大辞典」より引用。引用開始。
なんきん【南京】(「きん」は「京」の唐宋音) [1][一] 中国、江蘇省の省都。揚子江下流の曲流点の江浙デルタの頂点に位置する。水陸交通の中心地で、名産の南京繻子などのほか重化学工業も発達している。 戦国時代の楚の金陵にあたり、三国の呉および南朝諸王朝では都の建康の地にあたる。明の永楽帝の時北京に対して称した。近世、このあたりの地一帯、ひいては中国のことをもいった。
※浮世草子・日本永代蔵(1688)五「こまかに心を付てみしに、是も南京(ナンキン)より渡せし菓子」
引用終了。中国の都市名のうち、長安や洛陽はふつうの音読みなのに、北京・上海・南京・香港・青島など一部の都市名は唐宋音で読むことに注意。

○略年表

○その他

第5回 北京 ――中国を越えた東ユーラシアの首都
 北京は今から三千年前、春秋戦国時代の燕の首都となって以来、漢民族の農耕圏と北族の遊牧圏を結ぶ東ユーラシアの主要都市として、独特な歴史を歩んできました。13世紀、元の時代の北京の繁栄はマルコ・ポーロを驚嘆させました。 以来、一部の例外的時期を除き、明王朝や清王朝、そして現代の中国でも、北京は中国の首都であり続けています。 欧州の都市を見慣れた洋画家の梅原龍三郎も、北京の美しさに魅了され、作品を残しました。 北京の歴史と魅力を、豊富な映像資料を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。
梅原龍三郎(1888-1986)は洋画家。 若き日にパリで洋画を学び、1939年に満洲からの帰途はじめて北京を訪れて感動。 「雲中天壇」(1939年、京都国立近代美術館蔵)、「紫禁城」(1940年、大原美術館蔵)、「北京秋天」(1942年、東京国立近代美術館蔵) を描く。 パリと北京の対比は横光利一と共通(後述)。

本棚の整理がなかなか進まない。昔、学生時代に愛読した本を、ついつい読んでしまう。鐘ケ江信光(1912年- 2012年)著『中国語のすすめ』講談社現代新書もその一つ。ことばの勉強は「暗記、根気、年期」の3つの「き」が大事、というくだりには、いまも納得。 pic.twitter.com/mW9WL0toko

— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) March 23, 2021

※不肖・加藤徹は1990年9月から1年間、北京大学に留学していました「当時の写真」。その後も何度も北京に通っています。


参考動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nRXkLeMswOlDMcQoi_J_co


○古都・北京を理解するためのポイント
  1. 北京の前史は長いが、現在の北京の直接の前身はモンゴル帝国・元(1271年-1368年)の大都。
     漢民族だけではなく、モンゴル、満洲、チベット、回族などの都。
    ★「居庸関」(きょようかん。北京市街から北西に約50km)で「内陸アジア世界」とつながる。
      cf.明治大学和泉キャンパスの隣の、カルピス創業者・三島海雲翁顕彰碑は居庸関を模している。
    ★「積水潭」(せきすいたん。北京市内に運河の終着駅として作られた市内港)で海のシルクロードとつながる。
  2. 「北京」ペキンという呼称の定着は15世紀初頭、明の永楽帝の時代から。
  3. 東アジアと東ユーラシア(東部ユーラシア、ユーラシア東部)
    ★東アジア・・・現在の日本、中華人民共和国、台湾、モンゴル国、大韓民国、 朝鮮民主主義人民共和国などの地域。通常シベリアは含まない。
     新疆ウイグル自治区のウイグル人独立派など、自分たちは東アジア人ではなく中央アジア人である、と主張する人々もいる。
    ★東ユーラシア・・・ユーラシア大陸の東の三分の一。東アジアだけでなく、中央アジアやシベリア、東南アジアまで含む。
     cf.「内陸アジア」
  4. 国土の中央ではなくて「辺縁」にある地政学的理由。
     中華帝国のアキレス腱。cf.加藤徹著『貝と羊の中国人
    北京と東京、同一縮尺による比較
    東京と北京の比較,皇居と紫禁城の比較
  5. 四角形と左右対称の美意識。
     儒教の経典『周礼』冬官考工記の「世界首都」のコンセプト。
     宇宙の「紫微垣」と地上の「紫禁城」の関係。芥川龍之介は紫禁城を「夢魔」と形容(後述)。  東京は非相称。東京-中京-(西京?) 上野-中野-(下野?)
     北京は対称性を尊ぶ。東単-西単。天壇公園-地壇公園。日壇公園-月壇公園。北海公園-中南海。
     なお、新宿区と中野区は、それぞれ北京市東城区と西城区と友好都市の関係を結んでいる。
  6. 自己相似形の美意識。
     四合院と紫禁城の設計思想が同じである理由。
     東西南北の四角い壁で囲んだ瓦葺きの建物で、サイズだけ違う。


○北京の概略
★デジタル大辞泉の「北京」の項より。引用開始。
 中華人民共和国の首都。華北平原の北部に位置し、中央政府直轄市。遼・金・元・明・清の都として繁栄。 明代になって北京となり、1928〜1938年は国民政府が成立して北平(ペイピン)とよばれた。 旧内城中心の紫禁城は故宮博物院となり、その南に人民大会堂・天安門広場がある。人口、行政区1151万(2000)。ペイチン。
引用終了

★東京圏と北京圏
 http://www.demographia.com/db-worldua.pdfによると、 2020年の北京都市圏(行政区分ではない)の人口は19,433,000人で世界12位。世界第1位は「東京-横浜」都市圏の37,977,000人。
 この統計によると、「東京-横浜」都市圏の面積は8,230平方キロメートル。北京都市圏は4,172平方キロメートル。
 広さも人口規模も、北京都市圏は東京の半分くらい。
 なお、中国最大の都市圏は上海で、人口22,120,000人(世界第6位)、面積4,068平方キロメートルである。
 

世界の大都市圏人口ランキング、2020。世界第1位は日本の首都圏の約3800万。・・・こんなに集中して、大丈夫かな??? ちなみに中国の首都圏は世界第12位。韓国の首都圏は世界第8位。欧米のいわゆる先進国の首都圏の人口はどこも意外と少ないのは、示唆的。https://t.co/6Re4UyvYfg pic.twitter.com/ep6JRtSNtY

— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) March 19, 2021

○北京の歴史
【原型】
・春秋戦国時代の燕国の首都「薊(けい)」「燕」
「先ず隗より始めよ」マずカイよりハジめよ:燕の昭王の故事成語。参考 https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kotowaza49
「傍若無人」ボウジャクブジン / 傍に人無きが若し=カタワラにヒト、ナきがゴトし:司馬遷『史記・刺客列伝』の荊軻(けいか)の故事成語。参考 http://www.fukushima-net.com/sites/meigen/179
・秦漢時代の「北平」(北の国境を守る要衝)
・隋唐時代の「幽州」
 陳子昂(ちんすごう。661-702)の漢詩「登幽州台歌」。
  登幽州臺歌 陳子昂
前不見古人
後不見來者
念天地之悠悠
獨愴然而涕下

  幽州の台に登れる歌 陳子昂
前に古人を見ず / 後に来者を見ず / 天地の悠悠たるを念ひ / 独り愴然として涕下る
ユウシュウのダイにノボれるウタ チンスゴウ
マエにコジンをミず / シリエにライシャをミず / テンチのユウユウたるをオモい / ヒトりソウゼンとしてナミダ、クダる
 唐王朝に反逆した安禄山の根拠地。
・征服王朝・遼の「南京」
 モンゴル系の遼から見れば「南京」であったことに注意。
・征服王朝・金の主都「中都」
 女真族(満洲人の前身)の国の首都となる。
【統一王朝の首都に】
・征服王朝・元の「大都」
「もともとクビライの冬営地だった場所を城壁で囲んだものであり、モンゴルの遊牧民と 中国の定住民の風習が融合した性格をもつものだった。」(古松崇志『草原の制覇 大モンゴルまで』p.194、岩波新書、2020年)
【現在の北京の基礎】
・明の「北平府」「順天府」「北京」
 明王朝の首都は南京だった。燕王・朱棣が第3代皇帝(永楽帝。在位1402-1424)になると、 北平を北京と改称して1403年に首都と定めた。実際に移ったのは1421年である。
・清の「順天府」「北京」
 現在の北京の古い建築はほとんど清朝時代のもの。
・中華民国の「北平」
 1928年に蒋介石の国民政府は南京を首都に定め、北京は「北平」と改称。
・日本占領期1937-1945
 北京に改称。
・第二次大戦後
 蒋介石、北京を北平に戻す。
・中華人民共和国成立1949
 北平を「北京」と改称して首都とする。現在に至る。
※上記以外にも北京の呼称の細かい変遷があったが、省略。

○「北京」の読み方
「北京」を「ペキン」と読むのは英語Pekingの影響。
明の永楽帝より前の「北京」は、日本語では漢音で「ほくけい」と読む。
もともとは「五京制」をしいた王朝の都市名として使われた。具体的にどの場所を指すかは時代ごとに違った。
唐の北京太原府は現在の山西省太原市。
宋の北京大名府は現在の河北省邯鄲市。
金の北京大定府は現在の内モンゴル自治区赤峰市寧城県。
「北京」が現在の北京を指す地名として定着するのは、6百年前の明の永楽帝からで、これ以前の「ほくけい」と区別するため「ぺきん」と読むのが日本語の習慣である。
ある。
遼の「南京」(現在の南京市とは違う)時代以降、ペキンは、非漢民族系の王朝の都市であった時期が長く続く。
中華帝国の世界首都としてのペキンは、元の時代に始まる。
明の初期や中華民国時代には、首都でなくなった時期もあった。
現在の故宮(紫禁城)は、明の永楽帝が建築したもの

北京・紫禁城関連の画像 紫禁城 北京の地図 長安街 北京

○日本人が見た昔の蠱惑(こわく)的な北京
 北京は、庶民目線で自然発生的に発展した都会ではない。 ヒトラーが構想した「世界首都ゲルマニア」を、数十倍の規模で 実現した古都である。日本の知識人は、そこに魅かれた。
芥川龍之介(1892−1927)「北京日記抄」より。「青空文庫」より引用。
 今日も亦中野江漢君につれられ、午頃より雍和宮(ようわきゅう) 一見に出かける。喇嘛寺(らまでら)などに興味も何もなけれど、否、寧ろ喇嘛寺などは大嫌いなれど、 北京名物の一つと言えば、紀行を書かされる必要上、義理にも一見せざる可らず。(このあと、詐欺めいた挿話がある。中略)
 天壇。地壇。先農壇。皆大いなる大理石の壇に雑草の萋々(せいせい)と茂れるのみ。
 天壇の外の広場に出ずるに、忽(たちま)ち一発の銃声あり。何ぞと問えば、死刑なりと言う。
 紫禁城。こは夢魔のみ。夜天よりも厖大なる夢魔のみ。


横光利一(1898-1947)「北京と巴里(覚書)」より。「青空文庫」引用
 (前略)北京は消費の街だという。なるほどこの街では生産というものをかつてしたことのない人物が、 代々かかってどれほど人間が消費を出来るものかと、あらゆる智慧を絞って工夫に工夫をこらせた有様が歴然と現れている。 (中略)北京へ行くものは悪徳と戦うつもりで行かない限り、身につけた現世の健康なものはすべて無くなってしまうかもしれぬ。 ここには精神のある美よりも詐術の美を美とする精神がある。 もし疲労と孤独のために難なくこれに襲われたら、恐らく北京ほど美しく見える都会はないだろう。 死体に色づけ客間に置き放したまま嫣然と笑わせたようなこの都会の女性的な壮麗さは、 たしかにどこの国にも類例はあるまい。
 (中略)数世代も続いた都を他民族に征服され、またそれが崩れると次の民族が交代するという肉体の死滅して来た累積層 の中には、残るものはこのように頓狂なものばかりかと思って私は茫然とした。かつて有ったに相違ない良いものは、 殆ど演劇だけを残して死んでしまっていて、尨大な駄作ばかりが本尊となりすまし、樹の海がひとり祭壇をめぐっている。 ここで一番人心に感動を与えているものは、今は小唄のような哀れな歌調をもった節廻しだけである。しかし、大衆というものは駄作ほど喜ぶ。駄作が傑作となって永久に残るというこの地の特種な機構は、何かこの北京に限り他国とは比較にならぬ犯罪の深さを物語ってやまぬものがある。
 北京に遊ぶ知識人はよく前から、ここは全くパリに似ているというのを私は聞いた。あるフランス人は北京はパリ以上だとも言ったという。(以下略)


○参考 中国の都城制
 古来、漢民族は「天円地方」という宇宙観を持っていた。大地は方形(四角形)であり、「囲」「国」などの漢字も方形であり、都城も家屋も麻雀卓も東西南北の四角四面に作るのを好んだ。
「内城外郭」「城郭都市」「条坊制」・・・

儒教の経典『周礼』(しゅらい)「冬官考工記」
「匠人営国、方九里、旁三門。国中九経九緯、経涂九軌。左祖右社。面朝後市、市朝一夫。」
匠人が「国」(都城)を造営するにあたっては、1辺の長さを9里として、それぞれの1辺に城門を3箇所ずつ作る。都城の中には、南北方向に9本、東西方向にも各9本の街路を作る。街路の幅は、馬車の軌道の9倍とする。左に祖先を祀る祖廟を、右に土地神を祀る社稷を建てる。前方に朝廷、後方に市場の区域を設けるが、市場も朝廷も面積は1夫とする。
※「9」が多いことに注意。『易』の陰陽思想の影響もある。
※古代中国の長さの単位 6尺=1歩(現代人の感覚では2歩。約 1.35 m) 300歩=1里
※古代中国の面積の単位 1歩=1歩(6尺)4方 1畝(ほ、ムー)=100歩 1夫=100畝(距離の百歩四方=1万歩)  1里(面積の単位としての里。井田)=300歩(長さとしての歩)4方=9万歩
※度量衡は時代による差が大きいので注意。ちなみに現代中国の「市制」の1畝は約6.67アールであるが、それを百倍した約6.67ヘクタールが古代中国の1夫だったわけではない。
『周礼』は、西周初期の理想的かつ理念的な文物制度を述べているとされる書物で、儒教の経典の一つだが、その中の「冬官考工記」は内容から見て戦国時代に成立したらしい。中国の歴代王朝の都城の設計思想は、「冬官考工記」をベースとしているが、規模やデザインを完璧に実現した都城はなく、現実にそってアレンジしている。
cf.日本史上、条坊制による初めての都である藤原京が短命に終わった理由は「日本人の祖先が『冬官考工記』のコンセプトを鵜呑みにして騙されたから」という説がある。

「風水」と都城
伝・郭璞(かくはく)『葬書』「気乗風則散、界水則止。古人聚之使不散、行之使有止。故謂之風水」(気は、風に乗れば則ち散り、水に界せられば則ち止る。古人は之を聚めて散らしめず、之を行かせて止るを有らしむ。故に之を『風水』と謂ふ」
 良い「気」が集まるような場所が、都城を作るのにふさわしい。
「背山面水」・・・北側が山、南側が川などが良い。
「蔵風聚水」・・・良い気を散らしてしまう風を防ぎ、良い気をとめるのに役立つ水があるような場所。
「四神相応(しじんそうおう)」・・・東に流水(青竜)、西に大道(白虎)、南にくぼ地(朱雀)、北に丘陵(玄武)が備わる土地(異説もある)。

中国人の宇宙観「天地人」「天文地文人文」「天人感応」・・・
 古代中国のアステリズム「星官」←→西洋の「星座」と根本的な発想の違い。
 古代中国人は、「地」は地上の天子が支配する王国(帝国)、「天」は天上の天帝が支配する帝国であると考えていた。古典小説や京劇の「孫悟空 天宮で大暴れ」の話を見ると、天上の星々はそれぞれ天帝に仕える官僚組織になっている。
 星々のまとまり「三垣」、木星とかかわりの深い「十二次」、天の赤道をもとにした「二十八宿」・・・
 三垣は「紫微垣」「太微垣」「天市垣」の3つがある。北京の「紫禁城」は、理念的には天上の「紫微垣」をモデルとしている。

○その他
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