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中国の後宮 王朝をささえた内廷の歴史

最新の更新2025年10月26日   最初の公開2025年10月26日

  1. 10/28 古代の後宮
  2. 11/04 漢の後宮
  3. 11/11 南朝の後宮
  4. 11/18 北朝の後宮
  5. 11/25 隋唐の後宮
早稲田大学エクステンションセンター中野校
火曜日10:40〜12:10 全5回 2025・/10/28, 11/04, 11/11, 11/18, 11/25
 以下、https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/65953/より引用。引用開始

目標
・私たちが生きている今の時代がこのようになった理由を考える
・日本史と中国史という枠組みを取り払い、世界的な視野から東アジアを見直す
・歴史の予備知識がない人にも、身近なことから考える楽しさを体験してもらう

講義概要
 国家は、国と家と書きます。中国の君主にとって、大臣や官僚とともに政治を行う外廷と、后妃とともに暮らす内廷すなわち後宮は、国家経営の両輪でした。外廷の政治は儒教とか科挙とか論理的な計画設計が可能であり、古代から近代にかけて改革と改良が試みられました。内廷すなわち後宮は、国家安定のため君主の男系子孫を安定供給する「宗族製造インフラ」でしたが、妊娠という偶然に左右される生理現象が頼りでした。そのため后妃や宮女、宦官を巻き込んだ後宮の騒動は、しばしば国家をゆるがしました。本講座では、後宮から見た殷王朝から唐までの中国史を、豊富な映像資料を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。
★参考図書 book.html#koukyuu 加藤徹『後宮 殷から唐・五代十国まで』角川新書、2025年9月10日
 KADOKAWAの公式サイト
https://www.kadokawa.co.jp/product/322409000459/
「試し読みをする」で、本文60頁まで読めます。

10/28 古代の後宮
 中国の有史時代は紀元前14世紀ごろ、殷王朝の後期に始まります。文字による歴史記録は、史実というより説話であり、ヒストリーというよりストーリーでした。 殷王の妻で将軍だった婦好、紂王の説話に出てくる妲己、西周の滅亡のもととなった褒姒、多くの君臣と関係した美魔女とされる夏姫、など、 いわゆる先秦時代の人物たちは、多くの謎に包まれています。 しかし、戦国時代に成立した儒教の経典『礼記』で君主の後宮の后妃の定員が定められるなど、後宮の制度が始まったのも先秦時代でした。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-loJskwNRhG3fRPPQWgxv64

○ポイント、キーワード
★後宮とは何か
 中国の後宮は、歴代王朝においてきわめて特異な空間だった。皇帝の妻妾である后妃を中心に、膨大な宮女と宦官が居住し、その規模は小都市に匹敵した。「後宮佳麗三千人」「三宮六院七十二妃」といった常套表現は、その巨大性を象徴している。例えば西晋の武帝・司馬炎は、一万人規模の後宮を羊車で巡り、女性たちは皇帝が立ち寄るよう塩を盛って誘った。この逸話が日本における「盛り塩」習俗の起源とされる。
 後宮の主は天子=皇帝であり、秦の始皇帝以降に確立した称号である。始皇帝から清末の宣統帝(溥儀)の退位まで約二千年、数百人の皇帝が出現した(皇帝の総数には自称皇帝を含むかで諸説あり)。こうした皇帝の多くは後宮で生まれ、権力争いに翻弄され、あるいは夜の営みに溺れて後宮で命を終えた。後宮は皇帝の家庭であると同時に、政治と密接に連動する危険な権力の温床でもあった。
 世界史的に見ると、オスマン帝国のハレムや日本・朝鮮の後宮など、中国と似た制度は存在する。しかし中国の後宮は規模、概念、運営ノウハウの点で突出していた。そもそも「皇后」や「後宮」という明確に制度化された概念は、漢字文化圏特有の現象と言える。
 ヨーロッパ世界には、中国的な後宮は存在しなかった。古代ローマの皇帝(カエサルやネロなど)は多くの愛人を持ったが、制度化された後宮は持たなかった。ローマ皇帝は世継ぎに恵まれず、五賢帝の多くは養子を後継とした。このことは王権の不安定を生み、暗殺や不慮死を招いた側面もある。後宮が不在のため、血統に対する疑義が生じる余地も大きかった。実際、英国王リチャード三世のDNA調査では、家系図に存在しない父系の混入が指摘されるなど、血統問題が歴史学を揺るがした。
 一方、中国の後宮は女性の貞操管理を徹底し、血統の純粋性を保証する「悪魔の知恵」とも形容されるほど高度にシステム化されていた。皇帝の子が他人の血を混じえる余地はほぼ排除されていたのである。
 儒教の経典『礼記』昏義には後宮組織を次のように記載している。
古者天子後立
六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻、
以聴天下之内治、以明章婦順、故天下内和而家理。天子立
六官、三公、九卿、二十七大夫、八十一元士、
以聴天下之外治、以明章天下之男教、故外和而国治。
故曰、
天子聴男教、後聴女順、
天子理陽道、後治陰徳、
天子聴外治、後聴内職。
教順成俗、外内和順、国家理治、此之謂盛徳。

 これは、儒家が理想化した「いにしえの理想的な後宮」像で、後世の歴代王朝の後宮のモデルになった。
 内治の組織は六つの宮殿からなる「六宮」であり、外治の組織は六つの官公庁からなる「六官」である。それぞれのメンバーの階級は、
  六宮の女性は上から順に「三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻」
  六官の男性は上から順に「三公、九卿、二十七大夫、八十一元士」
である。一階級下がるごとに定員は三倍づつ増える。  天子のつとめは国家、すなわち朝廷と家庭を治めること。天子は、プライベートな後宮でもオフィシャルな朝廷も、道徳的に模範となる態度で治めねばならない。そうすれば、天下の男女は教化され、人民に対する政治も良くなり、人民の家庭生活も円満になり、世界の平和と繁栄が約束される。
 アジアでも制度は異なる。オスマン帝国のハレムは君主の私的空間であったが、女性の多くは奴隷であり、世継ぎを産む器として扱われた。「腹は借り物」という価値観が徹底していた点は中国と似るが、女性が皇帝の正式な妻となる制度は稀であった。また日本の平安後宮は管理が緩く、宦官も存在せず、自由な出入りが可能だった。『源氏物語』などは、もし中国並みの厳格管理があれば成立しえなかった物語である。
 中国後宮史は神話的時代に遡る。黄帝は一夫多妻だったと伝えられ、夏・殷の王朝にも後宮的装置は存在したとされるが、史実性は不明確である。確実な記録に基づく後宮制度は、春秋戦国期に儒家思想が西周の制度を理想化し、整備の基盤が形成された点に求められる。その後、秦漢以降の中央集権国家体制の確立とともに後宮は制度化が急速に進んだ。
 以後、後宮は「皇帝の子を産む装置」「政治権力の延長」「血統維持機関」として、中華帝国と運命を共にした。後宮の女性たちは華麗な衣装をまといながらも、極度に管理された閉鎖空間で一生を過ごした。皇后を頂点とする厳格な序列、宦官という去勢男性による監視とサービス体系、そして後宮内部の争いがしばしば天下の趨勢を左右した。後宮を制する者は皇帝を動かし、国家を動かすという現実があった。
 このように中国の後宮は、単なる男女の情愛の場ではない。統治の中枢と血統維持を担う「国家機関」であり、皇帝権力の核心を占めた特異なシステムである。

★歴史学と考古学
 歴史学は文献を、考古学は遺物を重視し、時に主張が矛盾する。神武天皇の即位年を根拠にした建国記念日も、考古学的には当時国家が存在せず、戦後はその記述が疑問視された。中国では今も共産党の統治正当化のため、政治的歴史観が優勢で、都合の悪い物証は無視される。
★黄帝と神武天皇
 日本が神武天皇の「皇紀」を使ったように、中国も自国の古さを示すため「黄紀」を設けた。黄帝は神話上の帝王で、文明を開いたとされるが実在は確認されない。現在は中華民族の始祖として政治利用され、中国医学の祖ともされる。
★一夫多妻と嫫母
 黄帝は一夫多妻で、醜女とされた嫫母もその一人。才徳を重んじた黄帝は彼女を評価し、嫫母は鏡を発明したと伝えられる。これは史実ではないが、女性を徳で見るべきという後世の理想を反映する。黄帝の時代像は、後宮文化や房中術の原型ともなった。
★最初の世襲王朝と後宮
 古代中国の王位継承には、禅譲・世襲・放伐の三形があり、世襲が始まったのは夏王朝からとされる。夏の桀王は暴君で、殷の湯王に放伐されて滅んだ。以後、中国史は王朝が堕落し新王朝に取って代わられる「易姓革命」を繰り返す。禅譲時代には不要だった後宮は、世襲体制の確立とともに後継者確保のため生まれた。
 夏王朝の実在は中国では公認されるが、同時代資料がなく国際的には未確定である。桀王の妃・末喜は伝説的悪女として知られ、『列女伝』などで描かれる。彼女は美貌だが無徳で、桀王とともに酒と快楽に溺れ、池を酒で満たして人を死なせ、それを笑って喜んだとされる。これらは後世の創作で、暴君と悪女の象徴として道徳的教訓に用いられた。結局、桀王は湯王に討たれ、末喜とともに滅亡した。
★殷王朝の後宮
 殷(商)は、紀元前1600〜前1100年頃に栄え、文字資料が残る最古の実在王朝である。甲骨文字の発見により「有史時代」が始まった。王・武丁の妃「婦好」は実在が確認される最古の女性で、軍を率いた司令官でもあった。墓の発見で高い地位が裏付けられたが、後世には忘れられた。
 甲骨文字には男性去勢を示すとみられる文字もあり、殷代にすでに宦官的存在がいた可能性がある。ただし、当時の「宦官」は必ずしも去勢男性ではなく、単に宮仕えを指す言葉だった。
 最後の王・紂王は妃の妲己に溺れて「酒池肉林」などの逸話を残し、暴政で周に滅ぼされたと伝えられる。しかし考古学的には宗教的祭祀の大量消費が誤解された可能性が高い。妲己は後世、「悪女」の代名詞として語り継がれ、日本でも九尾の狐伝説に転化した。
★西周も美女で滅んだ
 殷を滅ぼした周は西安西部に都を置き、これを西周という。孔子はこの時代の制度を理想とし、後世の東アジア文化に影響を与えた。周王朝では、王の死後に徳行を評価して諡号(おくり名)を与える制度があり、文王・武王・成王などは名君、脂、・幽王は暗君として伝わる。
 第十二代の幽王は美女・褒姒を寵愛し、后と太子を廃してまで彼女を喜ばせようとした。褒姒はなかなか笑わなかったが、幽王が非常警報の「のろし」をいたずらに上げて諸侯を空集させると笑ったという。のちに本当に異民族が侵攻したとき、誰も援軍に来ず、幽王は殺され、褒姒は捕虜となった。
 これにより周は滅び、都を東の洛陽に移した平王の時代から東周が始まる。美人に惑い国を失う「褒姒の笑い」は、桀の末喜・紂の妲己と並ぶ亡国の象徴として語り継がれた。

★春秋時代の孔子と悪女
 古代の後宮は史実が乏しく、宦官の存在も語られないが、美女に溺れて国を滅ぼす王や、后妃による混乱という説話は、のちの則天武后や楊貴妃などに通じる「後宮の教訓」として語られた。
 西周滅亡から約二百年後、春秋時代の魯に孔子が生まれる。『論語』には謎めいた記述が多く、たとえば「国君の妻の呼称」に関する説明や、「禘の祭り」についての発言がある。前者は君主の格付けに関わるもので、のちの史家・陳寿も『三国志』で蜀の劉備らの妃を「皇后」と称し、蜀の正統性を暗に主張した。称号の序列は、後宮や国家の格にも直結する問題だった。
 孔子が「禘の祭り」について「知らない」と答えた理由には、彼が儀礼の専門家でありながら礼の乱れを目撃し、それを避けたという「孔子韜晦説」がある。魯では祖先の木主の並びが嫡庶を無視しており、孔子は礼の乱れを嫌って「それ以上見たくない」と語ったとされる。
 この「嫡庶の序」の問題は、後宮制度と密接であり、庶子にも王位継承を認める儒教社会では、妻妾の地位が政治的な争いを生み、唐の則天武后などに象徴される陰謀の温床となった。
 また『論語』には、衛の霊公の妻・南子という悪女が登場する。孔子は彼女との面会を嫌ったが、招かれて会見した。南子は霊公と愛人・宋朝との関係で国を乱し、孔子は衛を去った。南子を巡る騒動は「色に溺れる王」と「乱れた后妃」の典型であり、孔子の理想とする「礼の秩序」との対比として描かれる。
 南子は後世、淫乱な悪女として非難される一方、現代ではマグダラのマリアのように哀しみを帯びた女性として再評価されてもいる。
★中国古代四大美女
 中国では、西施(春秋末)、王昭君(前漢)、貂蝉(後漢末、伝説上)、楊貴妃(唐)の四人を「四大美女」と呼ぶ。 その美しさを「沈魚落雁・閉月羞花」の成語で形容する。
 四大美女の筆頭・西施は越国の美女で、范蠡に見出され、呉王夫差の後宮へ「美人計」として送り込まれた。夫差は政務を怠り、越王勾践は「臥薪嘗胆」の末、紀元前473年に呉を滅ぼした。
 西施の末路には、処刑説と范蠡と逃亡して幸せに暮らしたという説がある。伝説的存在となり、李白の詩や芭蕉の俳句にも詠まれた。
 芭蕉は『奥の細道』の旅で秋田の象潟(現在の秋田県にかほ市の一部)に来たとき、その光景を次のような俳句を詠んだ。
  象潟や雨に西施がねぶの花

参考 「「美女は人間兵器」、女性を使ってライバル国を内部から崩壊させてきた中国伝統の策略」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/90456
★秦の後宮
 春秋時代は東周が形式上の「王」として存続しつつ、覇者が「尊王攘夷」を唱えて抗争した。だが戦国時代に入ると諸侯が勝手に「王」を称し、富国強兵で領土・人口を急増させた。文化も勃興し、後世の故事成語も多く生まれた。
 前221年、秦王嬴政が中国を統一し、王号の権威低下を踏まえて「皇帝」を新設、自ら始皇帝を称した(当時39歳)。だが正妻=初代皇后の記録はなく、後宮は不明点が多い。
 始皇帝の前史には、後宮の寵愛と皇位継承が密接に関わった。曾祖父昭襄王は武功を挙げ、母である宣太后が垂簾聴政を行い領土拡張を主導した。一方、祖父安国君(孝文王)は凡庸だが側室が多く、公子=世継ぎ候補を多数生んだ。しかし寵妃・華陽夫人には男子がなく、人質に出されていた末位の息子・異人(子楚)が、商人呂不韋の工作で養子かつ太子に抜擢された。
 昭襄王死後、安国君→荘襄王(子楚)と相次ぎ即位するも短命で、趙で生まれた13歳の子が王位継承。のちの始皇帝である。もし華陽夫人に男子がいれば、始皇帝は登場しなかった。
 さらに『史記』は、始皇帝の実父は呂不韋だとする説を記す。呂不韋の妾が妊娠中に子楚へ献上され、生まれた子が嬴政=始皇帝とされた可能性である。
 『史記』呂不韋列伝によれば、始皇帝(嬴政)は呂不韋の子とする疑いがある。趙に人質だった子楚(異人)に対し、呂不韋は莫大な投資を行い、邯鄲で同棲していた美しい妾(後の趙姫)が妊娠中にもかかわらず、彼女を献上した。その後に生まれたのが嬴政であり、妊娠期間の不自然な長さが父子関係をめぐる疑惑を生んだ。
 荘襄王(子楚)死後、趙姫は呂不韋と密通を復活させたが、成人しつつあった政に察知されることを呂不韋は恐れ、趙姫の情欲処理役として嫪毐を「偽宦官」に仕立てて後宮に潜入させた。趙姫は嫪毐の子を密かに産み、嫪毐は巨富と権勢を得た。
 秦王政9年(前238)、嫪毐の乱が発覚し、クーデターは失敗。嫪毐とその一族は処刑、隠し子も殺害された。呂不韋も関与が露見し失脚、蜀へ流され自殺した。 太后趙姫は政によって直接罰せられなかったが雍に幽閉され、十年後に死去。夫荘襄王と合葬された。

 統一後、始皇帝は度量衡・文字統一、大土木事業(長城・阿房宮・直道)を推進したが、労役の怨嗟を招き、死後16年で秦は滅亡。
 また始皇帝の死後、二世皇帝を操り政権を壟断した「宦官」の趙高は、後世のような去勢宦官ではなかった、という説もある。
 概して秦の後宮は、よくわからないことが多い。
始皇帝は国家統合の英雄であると同時に、後宮と血統の政治に翻弄された統治者でもあった。
 始皇帝がもうけた子女はあわせて三十人余りだったらしい。司馬遷の『史記』始皇本紀や李斯列伝の記述からみると、始皇帝の息子は二十人余り、娘は十人くらいだった。秦末の動乱で記録が失われたこともあり、正確な数はわからない。
参考 「秦の始皇帝も「後宮問題」に一生ふりまわされた 人気漫画『キングダム』の呂不韋はどう「相国」に上り詰めたのか」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/90460
[一番上]


11/04 漢の後宮
220年からの中国史における分裂時代で中国史上初の帝国は、始皇帝の秦でしたが、短命で滅びました。始皇帝の正妻「始皇后」が誰であったのか、秦の「宦官」趙高が去勢宦官であったのかどうか、秦の後宮は謎だらけです。劉邦が建てた漢帝国の後宮は、規模は大きかったものの、なにぶん歴史に前例がなかったため、想定外の事態の連続でした。中国の三大悪女に数えられる初代皇后・呂后、書類上のうっかりミスでシンデラレになった竇皇后、60代で公然と美少年を愛人にした館陶公主、腹上死疑惑の皇帝と趙飛燕姉妹、など破天荒な人物を輩出しました。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nj6GSJOUmjW8nGyHdfrYxN

○ポイント、キーワード

 漢王朝は「漢字」「漢民族」の語源にもなった大帝国で、前漢と後漢を合わせて四百年以上続いた。 「秦漢帝国」「漢魏六朝」と並称されることも多く、『三国志』の舞台となるのも後漢末から魏の滅亡までの「漢魏」の時代である。

○前漢の初期
 前漢の創始者・劉邦(高祖 asahi20200625.html#03)は紀元前202年に即位し、前漢は約200年続いた。人口は秦の三倍に増え、国力の充実とともに後宮制度も拡大した。 初期の后妃の序列は「皇后、夫人、美人、良人、八子、七子、長使、少使」の八階級であったが、後に、
  皇后、昭儀、婕、、娙娥、容華、美人、八子、充衣、七子、良人、長使、少使、
  五官、順常、無涓、共和、娯霊、保林、良使、夜者
 となった。正妻である皇后は別格として、側室の階級は「昭儀」以下の十四等まで増えた(「順常」は十三等で、「無涓、共和、娯霊、保林、良使、夜者」はまとめて第十四等)。 前漢の首都は長安だったが、後漢は、より小さな古都・洛陽に遷都した。光武帝は後宮も縮小した。  
皇后、貴人、美人、宮人、采女
の五階級になった。
 劉邦は庶民出の豪傑で、のちに漢王朝を創った。もと亭長という小役人にすぎなかったが、秦末の乱に乗じて頭角を現した。彼は自らの力だけでなく、人を使う才覚にすぐれていた。蕭何・張良・韓信らを登用し、ついに楚の項羽を破って天下を取った。
 劉邦には多くの妻妾がいたが、正妻の呂雉(呂后 asahi20250410.html#02)は気丈な女であった。彼女は夫の出世を支え、戦乱の苦難をともにした。しかし天下を取ると、劉邦の愛は若く美しい戚夫人に移る。呂后は冷遇され、恨みを胸に秘めた。
 劉邦は死に臨み、跡継ぎをめぐって一時は戚夫人の子・如意を皇太子にしようとした。だが張良と四人の老臣が諫め、呂后の子・劉盈が継ぐ。呂后は彼らの忠言に感謝しつつ、心の奥に怨念を宿した。
 劉邦の死後、呂后は政権を掌握し、宿敵戚夫人に復讐する。彼女を捕らえ、「人間ブタ」にしてトイレの地下に幽閉した。恵帝は母の所業に心を痛め、「自ら政治を見ることができない」と嘆き、まもなく病死した。それでも呂后は権力を離さず、呂氏一族を次々と重職につけた。彼女の死後、功臣たちが一斉に蜂起し、呂氏を誅滅。こうして再び劉氏の天下が回復され、やがて文帝の治世へと続いていく。
【参考記事】前漢皇帝・劉邦の正妻に「人間ブタ」にされた美しき側室の悲劇 2025.9.11
https://courrier.jp/news/archives/412424/
 司馬遷は『史記』において、呂后の伝記を「呂后本紀」として立て、彼女を天子と同格の最高権力者と認めた。呂后のせいで、劉邦の八人の息子のうち、生き残っていたのは二人だけだった。そのうちの一人が諸臣により長安に呼び戻され、第五代皇帝になった。中国の歴代の皇帝のなかでも名君の誉れが高い、文帝である。
 文帝の母・薄姫は、劉邦に召されることがまれだったため、呂后の嫉妬の対象外となり、息子ともども命を長らえることができたのである。
 文帝の皇后で、景帝の母親となった竇姫(前二〇五年―前一三五年 asahi20250109.html#02)は偶然に翻弄された女性だった。竇姫は呂太后に仕える宮女だった。諸国の王に宮女を下賜する際、趙への配属を望んだが、文書係の記入ミスで代国へ送られ、そこで代王劉恒の寵愛を受けた。娘と二人の息子を生み、やがて劉恒が即位して文帝となると、竇姫は皇后となった。文帝の死後、息子が景帝として即位し、竇姫は太后となる。彼女は孫の武帝の初期まで生き、政治にも影響を及ぼした。
 景帝の後宮も偶然が支配した。ある夜、景帝は酔っ払い、お気に入りの程姫を召し出したが、彼女は月経中だったので、自分の侍女の唐氏を送り込んだ。唐氏が妊娠したあと、景帝は初めて事実を知った。生まれた皇子・劉発も子だくさんで、後漢の初代皇帝・光武帝もその子孫だった。

○前漢の最盛期から後期にかけて
 景帝の死後、武帝 asahi20201008.html#02 が即位したのも、竇姫ら女性たちの差し金であった。武帝は十六歳の若さで皇帝となり、七十歳で崩御するまで全盛期の漢帝国に君臨した。数多い后妃のうち、特に、陳皇后(正式には孝武陳皇后)、衛皇后、李夫人、鉤弋夫人の四人は劇的な運命をたどった。
 母がたのいとこであった陳皇后は、不妊治療のため九千万銭を使った(今の九十億円くらい)も使ったが子供はできず、皇后から降格させられた。
【参考記事】漢の武帝に愛された皇后は「100人から選ばれた幼女」と「歌手から大出世したシンデレラガール」だった…不妊治療に90億円、本気すぎる妊活も 2025/09/24 13:00
https://toyokeizai.net/articles/-/905535
 武帝の二番目の皇后は、コーラスガールあがりの衛子夫で、彼女が最初に武帝と関係を持ったのは「更衣」だった。彼女の身内である衛青や霍去病は、漢の名将となった。
 「傾城」「傾国」「反魂香」などの由来となった美女・李夫人も、芸能人の妹という身分であった。
 武帝は晩年、後継者を心の中で決めたあと、その生母である鉤弋夫人を殺した。「国の主が幼く、その母親が若くて強ければ、国はどうなる。おまえたちも呂后のことは知っていよう」というのが、臣下に対する武帝の言い訳だった。
 中国史上、女性権力者が公然と愛人をもった最初の例は、武帝の父親の同母姉、すなわち武帝の伯母である館陶長公主こと劉嫖である。劉嫖は夫と死別したとき、すでに六十代だった。彼女は、孫ほども年が離れた董偃という美少年を、公然と愛人とした。武帝は董偃を婉曲に「主人翁」(ご主人さま)と呼んだ。「主人翁」は情夫の異称の一つになった。劉嫖は「董君が使うお金が、一日あたり黄金百斤、銭百万、絹千匹までなら、私に報告する必要はない」と言った。今の日本円で一億数千万円にあたる金額である。このような逆ハーレムは、その後、三十人の「面首」を囲った南朝の宋(四二〇年―四七九年)の山陰公主こと劉楚玉や、宦官や仏僧との淫楽に溺れた北斉の胡皇后(胡太后。六世紀)、次々と愛人をもった唐の武則天(則天武后)など、飛び石的に歴史に現れる。
【参考記事】イケメン30人囲っても飽き足らず、情夫に1日4億円の浪費を許可…中国史に残る「逆ハーレム」の実態
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/90461 2025.9.13(土)
 ちなみに、男の権力者が囲う同性愛的男妾を漢文では「男寵」と呼ぶ。男寵関連の故事成語に「龍陽君」「分桃」「断袖」などがある。武帝が十代のころ起居をともにした韓嫣や、前漢の第十二代皇帝である哀帝(在位前七年―前一年)と容姿端麗な官人である董賢の「断袖」の故事など、漢では皇帝の同性愛も見られた。
 前漢の後宮の美女として有名なのは、元帝の時代の王昭君と、成帝の時代の趙飛燕姉妹 asahi20240111.html#01 である。
 趙飛燕は貧しい生まれで、捨てられかけたが生き延び、長安で宮人となった。のちに陽阿公主の屋敷で歌舞を学び「飛燕」と名乗る。成帝が遊びに訪れた際に見初められ、後宮に入り、妹もともに寵愛を受けた。やがて許皇后が廃され、成帝は反対を押し切って趙飛燕を皇后、妹を昭儀とした。外戚の力を避けたかった可能性もある。趙姉妹は十数年にわたり成帝の寵愛を独占したが、子は生まれず、成帝は甥の劉欣を皇太子とした。紀元前7年、成帝は突然死し、趙昭儀の関与が疑われた。彼女は自殺し、真相は不明のまま。後世には、成帝は媚薬の過剰摂取による「性交死」で亡くなったという説が流布し、民間伝承では今もそう信じられている。 稗史『趙飛燕外伝』は、日本でも広く読まれた。僧正遍昭(八一六年−八九〇年)が詠んだ和歌、
  あまつかぜ雲のかよひぢ吹きとぢよ乙女のすがたしばしとどめむ
も『趙飛燕外伝』の一場面をふまえる。
 趙皇后こと趙飛燕は、妹の趙合徳に成帝の寵愛を奪われ、悲しみにくれ、馮無方という臣下との火遊びにふけった。ある日、成帝は宮中の太液池で、豪華な宴会を開いた。広大な庭園の中の人工の池に、千人乗りの巨船を浮かべた。皇后は、昔取ったきねづかで、船の上で軽やかに舞った。成帝は壷を叩き、馮無方は笙を吹いて伴奏した。皇后は袖をひるがえして軽やかに舞い、いまにも風に乗って空に飛んでゆきそうに見えた。成帝はあわてて「無方よ、皇后が飛んでゆかないよう、おさえてくれ」と命じた。風がおさまると、皇后は「私は仙女になって飛び去りたいのに、陛下はお許しくださらないのですね」と泣いた。成帝は、皇后をいっそういとおしく思い、無方に千金を与え、皇后の寝室に出入りさせた、と『趙飛燕外伝』は伝える。
 前漢の末、成帝、哀帝、平帝と、三代の皇帝が世継ぎを残さずに死去した。外戚である王莽が、儒教思想を悪用して帝位を簒奪し、前漢は滅びた。

○後漢
 漢の後宮が「劉氏」という宗族を量産してきたおかげで、漢は復興した。
 王莽に反旗をひるがえした劉玄(更始帝)も、赤眉の反乱軍が奉戴した劉盆子も、最後の勝利を収め後漢を創始した光武帝こと劉秀 asahi20201008.html#03 も、その先祖は漢の後宮で生まれた。
 後漢は、前漢にくらべると人口も経済規模も小さな国になった。光武帝は「小さな政府」を作り、民の負担を減らしたが、その結果、自然と側近政治という形になる。具体的には、外戚と宦官が権力を振るうようになった。
 後漢は二百年近い命脈を保ったのち、宦官・曹騰の子孫で外戚となった臣下、曹操 asahi20210408.html#01 によって壟断され、滅亡を迎えることになる。 曹操のライバルであった劉備 asahi20220113.html#02 は、前漢の景帝の第九子、中山靖王劉勝の末裔を自称し「蜀漢」を建国した。劉備は、荊州の劉表(前漢の景帝の子孫)や、益州の劉璋(同じく景帝の子孫)のもとに身を寄せるなど、劉氏の宗族のブランドをフルに活躍して、三国志の戦いを生き抜いた。

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11/11 南朝の後宮
中国史の「魏晋南北朝時代」は、西暦220年に魏王朝が成立してから、589年に隋王朝が天下を統一するまでの、数百年にわたる慢性的な分裂時代を指します。 この時代、南京を首都とした呉、東晋、南朝(宋・斉・梁・陳)では漢民族的な貴族社会が形成され、優雅な「六朝文化」が花開きました。 同時に、フランス革命前の貴族社会のような淫靡な退廃も広がりました。 吉田御殿の話の元ネタとなった西晋(南朝の東晋の前身)の皇后・賈南風、南朝宋の皇帝の姉として逆ハーレムをかまえた山陰公主、 両性愛者であった南朝斉の皇帝と寵臣と三角関係を楽しんだ皇后・何婧英、亡国の暗君である陳の後主に愛された張麗華、など、この時代の後宮は乱脈でした。
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○ポイント、キーワード


○貴族的退廃の時代
 『三国演義』の冒頭句「分久必合、合久必分」が示す通り、中国史は統一期と分裂期の繰り返しである。 後漢霊帝以降、魏・呉・蜀の三国、西晋、五胡十六国、南北朝と約四百年にわたる分裂期が続いた。 この間、漢族系王朝は南部に逃れ文化的には高い水準を保ったが、支配階層は貴族化し、天下統一には至らなかった。 一方、北の異民族(北族)が勢力を伸ばし、隋・唐の王朝も鮮卑系の血筋を引く。
 魏晋南北朝時代の後宮は、退廃と贅沢の象徴であり、貴族化がその一因だった。 漢時代の地方豪族出身の士人が中央官僚となる「郷挙里選」に対し、魏以降は家柄に基づく九品官人法が導入され、血統が地位を保証するようになった。 貴族は学問や政治実務にかかわらずステータスを享受し、刹那的・耽美的な生き方も目立った。 曹操(後漢末)の漢詩が骨太なら、その息子である曹植(魏晋南北朝時代の最初)の『洛神賦』は貴族的耽美の典型である。

○西晋の挿竹灑塩の故事
 司馬仲達の孫・司馬炎(西晋の武帝)は三国時代を終わらせ、280年に天下を統一したが、貴族化した彼は政治に飽き、後宮に興味を移した。 呉を滅ぼした翌年、孫皓の後宮の女子五千人を取り込み、自身の後宮は一万人に膨れ上がった。 武帝は羊に引かせた車で後宮を回り、停まった女性と夜を共にする遊戯を行った。 宮女たちは竹の葉や塩水で羊の進路を誘導した。この「挿竹灑塩」は、日本の「盛り塩」の起源ともされる。
 前漢・劉邦や後漢・光武帝劉秀が後宮を節制したのに対し、司馬炎は貴族的享楽に耽り、国家の健全化を怠った。 二代皇帝・司馬衷は暗愚で、西晋の政治力は衰えた。

○賈皇后の逸話
 前漢の呂后は史書上、稀代の悪女とされるが、不倫も再婚もせず、政治的権力を手にした一方で、私生活は節度を保っていた。 これに対して、西晋の恵帝・司馬衷の二人の皇后、賈皇后(賈南風)と羊皇后は、魏晋南北朝時代の後宮の退廃を象徴する存在である。 賈南風は257年に生まれ、父の賈充は魏の司馬氏に仕えた名士で、武力と策略で権力を握った人物である。
 西晋建国後、太子である司馬衷の妃選びに際し、 武帝・司馬炎は賈充の家系の女性は「嫉妬深く、男子を産みにくい、背が低く醜い、色黒」と評価し、衛氏の娘を望んだ。 しかし、外戚として賈氏を取り入れることになり、まだ幼かった賈南風が太子妃に冊立されることとなった。
 彼女の妹の賈午には、韓寿との恋愛逸話がある。賈午は宴会を覗き見し、下女を通じて思いを伝えた。 夜、韓寿は賈午のもとを訪れ、誰にも気づかれず関係を結んだ。 賈午は父・賈充から下賜された貴重な香を韓寿に贈った。 これが「韓寿窃香」と呼ばれる逸話で、親の目を盗んでの恋愛、夜這い、香を用いた恋愛操作など、日本平安貴族の恋愛文学を連想させる話としても知られる。 後に賈午と韓寿の間に生まれた男子は、母方の家系を継ぐため、父系を改姓して養子とされ、武帝も特例として認めた。 この異姓養子制度は中国では珍しく、宗族制度や皇統継承の観点からも特別な扱いであった。
 賈南風は、皇太子・司馬衷が暗愚であることを見抜き、事前に手を回して彼を支えることで太子の地位を維持させた。 これにより、賈南風は一見すると頼れる女性としての評価を得た。 しかし彼女は嫉妬深く、暴虐でもあり、自ら妊娠した側室を戟で打ち、胎児を地面に落とすほどの残虐行為も記録されている。 武帝は賈南風を太子妃から廃位しようとしたが、周囲の取りなしにより実行されなかった。 十年後、武帝が没すると、司馬衷が皇帝(恵帝)となり、賈南風は皇后に繰り上がった。
 賈皇后は政治的野心も強く、男子を産めなかった焦りもあって権力の集中を図った。 甥の賈謐や郭彰と結び、政権を実質的に掌握した。反対する臣下は次々と粛清され、暗愚な恵帝はそれを止められなかった。 賈皇后の荒淫・放恣ぶりも有名で、太医令・程拠との醜聞も公然の秘密であった。 また『晋書』には、洛陽の下級官吏が賈皇后に召され、豪華な宮殿で入浴・食事・宴会に招かれた逸話もある。 外界の人々はその後、口封じのために殺されることが多かったが、この小吏だけは無事に戻れたという。
   参考 田中貢太郎「賈后と小吏」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000154/files/1626_11965.html
 こうした逸話は、後宮の退廃ぶりを象徴するものであり、日本の吉田御殿伝説や平安貴族の恋愛譚に影響を与えたとも考えられる。
 賈皇后が本当に淫乱だったかは不明だが、残虐性は確かである。 武帝の死後、外戚の楊駿・楊太后をクーデターで殺害し、嫁が姑の一族を根こそぎにした。 この血の惨劇が後の「八王の乱」(291-306年)の発端となった。
 皇太子司馬遹は賈皇后と血のつながりがなく、互いに憎み合った。 賈皇后は陰謀で司馬遹を殺害するが、その翌月、趙王司馬倫がクーデターを起こし、賈皇后一族を捕縛・処刑した。
 司馬倫は翌301年、恵帝から帝位を簒奪し、恵帝は中国史上初の上皇となった。

○羊皇后
 羊献容(286年―322年)は、西晋の混乱期を象徴する女性であり、その生涯は波乱に満ちていた。 彼女は恵帝司馬衷のもう一人の皇后として即位したが、八王の乱のさなか、何度も皇后の座から追われ、奇跡的に復位を果たした。 司馬倫が恵帝を傀儡とした際、羊献容は趙王の腹心孫秀の縁者として皇后に立てられたが、司馬倫即位後には一度目の廃后となる。 ほどなく地方の諸王の反乱で司馬倫が滅び、恵帝が復位すると、羊献容も皇后に返り咲いた。 しかしその後も八王の乱は続き、諸王の勢力争いのなかで廃后と復位を繰り返し、304年から306年の間に五回廃后、六回復位を経験した。
 恵帝の急死(306年)により、羊献容は現役の皇后の座を失ったものの、前皇后として尊号を与えられ、比較的良好な待遇を受けた。 西晋の貴族は八王の乱の混乱のなかで、匈奴や鮮卑など異民族を自軍に取り込み、戦力として利用していた。 この状況を利用して、匈奴の王族の一人である劉淵は、304年に左国城で自立し国号を「漢」(五胡十六国のひとつ)と定め、五胡十六国時代の幕開けとなった。
 その後、西晋は混乱と分裂が続き、307年以降の永嘉の乱で洛陽は劉淵の子孫、漢の軍に陥落した。
 懐帝司馬熾や羊献容も捕虜となり、司馬熾は処刑された。
 しかし羊献容はその美貌と才覚により、漢の将軍劉曜の目に留まり、彼の妻となって男子を産む。
 劉曜は後に前趙(五胡十六国のひとつ)の皇帝となり、羊献容は七度目の皇后として再び君臨した。彼女の息子劉煕が皇太子となり、彼女は前趙の皇后としてその生涯を全うした。
 正史『晋書』は、皇帝劉曜と皇后羊献容の、睦言めいた会話を載せる。
「わたしと、司馬家の息子をくらべたらどうか」
「くらべものになりません。陛下は、国の基を開かれた聖主であらせられます。あちら(元・夫の恵帝司馬衷)は、亡国の暗夫です。妻一人(羊献容じしんのこと)、子一人(賈南風に殺された廃太子司馬遹)、自分自身の三人すら、かばいきれなかった甲斐性なしです。帝王という尊貴の身なのに、妻子を凡人の手に辱めさせた情けない男です。当時は、生きる希望もありませんでした。今の幸せな日々は、想像もつきませんでした。わたくしは名門の生まれで、世間知らずで、男とはみなああいうものだと思っておりました。陛下にお仕えするようになって、はじめて、天下に本当の男がいることを知ったのです」
 322年、羊献容は豪壮な陵墓に葬られた。
 儒教的倫理では「忠臣は二君に事えず、貞女は二夫を更えず」とされるが、彼女の例はその理想が、八王の乱と異民族の台頭という混乱期に大きく揺らいだことを物語る。 彼女は二人の皇帝の皇后となった中国史上唯一の女性である。

○南朝
 南朝は、宋、斉、梁、陳の四つの王朝が交替した。
 南朝は、建康(現在の南京)に都を置いた宋・斉・梁・陳の4王朝を指す。
国名開祖年代
宋(劉宋)劉裕(武帝)420年 - 479年
斉(南斉)蕭道成(高帝)479年 - 502年
梁(蕭宋、南朝梁)蕭衍(武帝)502年 - 557年
陳霸先(武帝)558年 - 589年
 乱世は「武帝」だらけになりがちなことに注意。
 最後の陳は北周と北斉に圧倒され、宋・斉・梁に比べると領土が縮小していた。南朝のうち「北伐」に成功した強力な王朝は、武帝の梁が最後だった。
参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/南北朝時代 (中国) に載せる中国の歴史地図

 南朝宋の後宮は、血族や宗族の権力を増幅するためのインフラとして機能していたが、しばしば流血の温床となった。
 宋の孝武帝の二十八人の息子が全員殺されたのはその象徴的な例である。
 宋の第三代文帝は名君と評される人物だったが、皇太子・劉劭の残忍さを心配し、ひそかに廃位を考えていた。 これに気づいた劉劭は先手を打ち、実父を殺して皇帝となり、いとこを含む多くの親族を粛清した。 しかし、わずか三ヶ月で弟の劉駿に討たれ、首と胴体を切り離され、妻子も処刑された。 正妻で皇后の殷氏は死に臨んで獄吏に向かい、「家の骨肉の争いに、どうして罪なき人間まで殺されねばならぬのか」と訴えたが、獄吏は「皇后に任じられたのだから当然」と答え、殷氏は悔し涙を流しつつ自殺した。
 劉駿は第四代・孝武帝として即位し、後宮でせっせと男子を生み、二十八人をもうけた。彼は病的な酒癖と残虐性を併せ持つ暴君で、兄弟や市民を殺すこともあった。 十六歳の皇太子・劉子業が即位すると、孝武帝の弟である劉ケが帝位を奪い、明帝として即位した。明帝は兄の二十八人の息子のうち十六人を殺害した。 さらに明帝の死後、十歳の皇太子・劉cが即位すると、少年皇帝は自らのいとこである孝武帝の生き残りの息子たちをすべて殺し、十五歳で将軍・蕭道成に討たれた。
 蕭道成は、九歳の弟・劉準を皇帝(順帝)に据えたが、二年後に禅譲させ、自身が皇帝として斉を建国した。『資治通鑑』によれば、順帝は禅譲の際、涙を流しながら指を弾き、
「願わくば後身、世世、復た天王の家に生まるる勿からんことを」
 と述べ、いかに天子の家の運命が恐ろしく、無常であるかを嘆いた。順帝と弟たちは後に殺され、斉の歴史はわずか二十三年に過ぎなかったが、血族間の惨劇は絶えなかった。
 斉の第六代・昭粛帝(東昏侯)は、潘貴妃を寵愛したが、足フェチであり、黄金で作った蓮の花を敷き、その上を潘貴妃に裸足で歩かせた。 この故事から、後世に美女の足を「金蓮」と呼ぶ習慣が生まれた。しかし昭粛帝も反乱で殺され、潘貴妃は自殺した。
 南朝の貴族後宮は、血と権力の工場であると同時に、悲劇を生む運命の象徴でもあったのである。

○劉楚玉

 南朝宋(420年-479年)の山陰公主こと劉楚玉は、南朝貴族社会の退廃ぶりの代表例である。
 名門の何戢と結婚した。父・孝武帝の死後、弟の劉子業(前廃帝)が16歳で皇帝になると、劉楚玉は弟に抗議した。
「陛下の後宮は万の美女、私には駙馬が一人だけ。こんな不公平はありません」
 皇帝は姉のために三十人の「面首」(男妾)を用意し、湯沐邑二千戸や専用の楽団・武士も与えた。

 しかし劉楚玉は満足せず、官吏の褚淵を自分の側に置こうとした。褚淵は断り続けた末、十日後に放免された。
 弟の劉子業は即位から1年半でクーデターにより廃帝となり、殺された。 劉楚玉も自尽を強いられ、享年は20歳前後と推定される。現代の女子高校生くらいの年齢で、逆ハーレムを構えたことになる。
 後年、何戢の娘・何婧英(か せいえい)は南朝斉の廃帝・蕭昭業の皇后となり、劉楚玉を嫡母として尊びつつ、自身も同等以上の淫蕩ぶりを示した。

○何婧英
 何戢と側室ののあいだに生まれた。484年、まだ皇帝になる前の蕭昭業(南朝斉の第3代皇帝)にとついで南郡王妃となった。 493年に蕭昭業が即位すると、皇后に立てられた。 後宮にあって蕭昭業の側近の楊a之と夫婦も同然の関係になった。楊a之は蕭昭業とも関係を持っており、蕭昭業はこの三角関係を楽しんだ。

○張麗華
 南朝の陳の後主の寵妃で、皇太子の母親。
 十歳で侍女として宮中に入ったが、たいへん美少女であった。後に陳叔宝(陳の後主)は妃として迎え入れた。 582年、陳叔宝が即位すると、張麗華は貴妃となった。 当時は南北朝時代の末期で、陳は北朝の猛攻の前に亡国寸前であったが、陳の後主は張麗華に溺れ、ぜいたくと酒色に溺れた。 陳の後主は皇帝としては暗君だったが、音楽家としては一流で、張麗華のために「玉樹後庭花」や「春江花月夜」を作曲した。
 隋の文帝が息子の楊広(後の煬帝)を司令官として陳を攻めると、張麗華は陳の後主と共に宮中の井戸に逃れた。 井戸は狭く、張麗華は、陳後主と孔貴嬪の三人で密着して井戸に隠れた。結局、隋軍によって引き上げられた。 楊広は張麗華の美貌に心を動かしたが、部下に諫められた。結局、張麗華と孔貴嬪は斬首され、首は橋にさらされた。享年三十。
参考 http://www.kangin.or.jp/learning/text/chinese/k_A3_108.html
 秦淮に泊す 唐 杜牧
煙は寒水を籠め 月は沙を籠む
夜 秦淮に泊して 酒家に近し
商女は知らず 亡国の恨みを
江を隔てて猶唱う 後庭花

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11/18 北朝の後宮
中国の南朝と対峙した北朝(439年 - 589年)は、華北に興亡した五つの王朝、北魏、東魏、西魏、北斉、北周の総称です。北朝はいわゆる「拓跋国家」(たくばつこっか)でした。支配層は、北方遊牧民であった鮮卑(せんぴ)の中の部族集団「拓跋部」の血を引く、質実剛健かつ荒々しい気風の人々でした。事実上の女帝となった北魏の馮太后、「子貴母死制」の廃止で命を拾ったあと国を傾けた北魏の霊太后、亡国後も売春業で生き残った北斉の胡皇后、皇后でありながら裸にされむち打たれた北斉の李祖娥、など、北朝の後宮は荒々しさに満ちています。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-l2ebOFgI4x70k76F8uWr9i

○ポイント、キーワード

○北魏の子貴母死制
 北魏の初代・道武帝(371-409)は、鮮卑拓跋氏の出で決断力に富む一方、残虐な性格で知られた。北魏は平城(山西省大同市)を都にした北族色の強い国家である。道武帝は美しい叔母・賀夫人を得るため、その夫を殺して奪い、拓跋紹を生ませた。やがて道武帝は賀夫人を殺そうとしたため、十六歳の拓跋紹は宦官らと謀って父を殺害した。 皇太子であった拓跋嗣は急ぎ帰還して異母弟を誅し、第二代・明元帝として即位した。道武帝は拓跋嗣を太子に立てる際、外戚の干渉を防ぐため、太子の生母・劉貴人を殺した。これが北魏における「子貴母死」制の起源とされる。初代から孝文帝に至るまで八人の皇太子の生母が知られるが、史料に明記される三例(明元帝・献文帝・廃太子恂)以外にも、この制度が広く実行された可能性が高い。
 道武帝の皇太子・拓跋嗣は、母の死を悲しみ、昼も夜も号泣し続けた。道武帝は息子の軟弱ぶりに激怒し、参内するよう命じた。皇太子も側近も、道武帝の異常な性格を知っていたので、ほとぼりがさめるまで都の外に逃げた。そのおかげで、道武帝が殺害される事件が起きたとき、皇太子は異母弟の魔手から逃れることができたのである。

○二人の皇帝を殺した宦官
 北魏第三代・太武帝(408-452)は華北を統一し、五胡十六国時代を終わらせた名君だが、宦官・宗愛(401-452)に殺されるという最期を迎えた。
cf.asahi20221013.html#03
 宗愛は皇太子・拓跋晃の側近と対立し、讒言によって彼らを処刑させたが、その結果、皇太子は憂悶死。太武帝が後悔の色を見せると、宗愛は自らの罪を恐れ、先手を打って太武帝を弑した。 さらに宗愛は皇位継承を操ろうとし、東平王・拓跋翰を擁立しようとした一派を殺し、太武帝の末子・拓跋余を皇帝に立てて実権を独占した。しかし皇帝が専横を嫌ったため、宗愛はまた先手を打って皇帝まで殺害した。だが直後に廷臣らに討たれ、皇太子の遺児・拓跋濬が第四代・文成帝として即位し、廃仏を改めて仏教復興を進めた。 皇帝を二人も殺した宦官は中国史上ほぼ例がなく、強大な北魏も後宮政治は混乱の極みにあったことを示している。

○北魏の馮太后
cf.asahi20220714.html#03
 北魏では皇帝が短命で、幼帝が続いたため外戚の専横が起こりやすく、「子貴母死」を敷いても完全には防げなかった。馮太后(442-490)はその典型で、中国でもドラマ化されるほど有名な女傑である。彼女は北燕の名門に生まれ、14歳で文成帝の貴人となり皇后になった。子はなかったが、文成帝の死後、12歳の献文帝の嫡母として政権を握った。 献文帝が成長して親政を始めると対立が深まり、馮太后は再び実権を奪取し、476年には献文帝を毒殺して独裁を確立した。幼い孝文帝の政治を主導し、その治世に有名な「均田制」を開始した。孝文帝は父を殺されたにもかかわらず馮太后を慕い、彼女の政策を受け継いで北魏の最盛期を築いた。馮太后は悪評もあるが、卓越した政治家だった。

○北魏の孝文帝
 献文帝と孝文帝の年齢差はわずか十三歳で、孝文帝は馮太后と寵臣・李弈の子、あるいは馮太后と少年皇帝・献文帝の「隠れレビラト婚」の子だと推定する説がある。もし孝文帝の生母が馮太后なら、形式上の母・李夫人は「子貴母死」で身代わりに殺されたことになり、史書の矛盾が自然に説明できるため、この説を支持する研究者も多い。 いずれにせよ、馮太后と孝文帝は優れた政治家で、北魏を鮮卑族中心の国家から多民族国家へと転換させた。馮太后は三長制・均田制を導入し、負担の公平化と貧富差の縮小を図った。孝文帝は漢化政策を徹底し、平城から洛陽への遷都や、宗室姓を拓跋から元へ改める改革を進めた。彼は仏教にも寛容で、龍門石窟の造営を始めた。 加藤徹が中学の授業で臨書した「牛橛造像記」も、孝文帝期の作品である。
 ヨーロッパの貴族社会では民族より家格が重視され、同等の家格なら国境を越えた婚姻が行われた。北魏の孝文帝も洛陽遷都後、同様の家格秩序を整備し、家格の異なる婚姻を禁じ、胡族と漢族の同家格間の通婚を奨励した。皇室と通婚できる漢族名門として、盧・崔・鄭・王の「四姓」と、隴西・趙郡の李氏が認められた。 この隴西李氏こそ、のちに唐王朝(618-908)の皇室となる家である。唐の繁栄の基盤を整えたのは、北魏の政策だったとも言える。

○実子を殺した霊太后
 宣武帝(孝文帝の子、即位時17歳)は敬虔な仏教徒で、残酷な子貴母死の制度を廃止した。しかしこの英断は、皮肉にも悲劇を招いた。後宮の女性たちは本来、制度ゆえに皇子を産むことを恐れたが、胡氏だけは皇子誕生を願い、その息子がのちの孝明帝(510-528)である。宣武帝の死後、胡氏は皇太后(霊太后)として幼帝を補佐し、事実上の独裁を行った。 霊太后は皇族の元懌と関係し、反発した勢力に幽閉されるが後に復帰。やがて息子の孝明帝と対立し、孝明帝は実父代わりの武将・爾朱栄とクーデターを企図したが、直前に霊太后に毒殺されたとされる。さらに霊太后は、孝明帝の娘を男子と偽って皇帝に立てるという奇行に及ぶも即日露見。その後、わずか3歳の元サを帝位につけた。 挙兵した爾朱栄が洛陽を制圧し、霊太后・幼帝・皇族ら約2000人は黄河に沈められた(河陰の変)。北魏はその後分裂し、統一中国の再登場は半世紀遅れることとなった。
 宣武帝の「子貴母死」廃止は、結果として最大の悲劇を呼んだと言える。

○北斉の胡太后
 北斉(550-577)も北魏と同じ鮮卑系王朝で、後宮の乱れは甚だしかった。第四代武成帝(537-569)は贅沢な暴君で、32歳で死んだ。皇后の胡氏(胡太后)は、安定の胡延之と、名門盧氏の娘との間に生まれ、天保初年に高湛(武成帝)の妃となり、後主・高緯を生んだ。出産の夜にフクロウが鳴くという不吉な兆しがあった。 武成帝の即位後、胡皇后は宦官と通じ、寵臣・和士開と戯れつつ淫蕩に耽った。武成帝が死ぬと皇太后となり、和士開は処刑されたが、胡太后の奔放さは止まらなかった。彼女は西域僧・曇献と深い関係となり、金銀宝玉を費やして寵愛し、皇宮に百人の僧を侍らせて情事を隠した。僧たちは曇献を「太上皇」と囁いた。 この噂が息子の後主に届いたが、後主は信じなかった。しかし、胡太后の侍僧に化けた若い尼僧が実は男であることが露見し、不倫は明らかとなった。関係者は処罰され、後主は母を幽閉した。 のちに北斉は北周に滅ぼされ、後主と皇族は皆殺しにされたが、胡太后は生き延びた。『北斉書』は「周に入り、恣まに姦穢を行う」とだけ記す。民間伝承では、北周以後は長安で娼婦として生き、隋の開皇年間(581-600)に没したという。

○北斉の李祖娥
 李祖娥は生没年不詳。六世紀の北斉の皇后で、漢族。
 名門の家に生まれた絶世の美女であった。胡族の有力者である高洋(526-559)の妻となり、高殷(廃帝)と高紹徳(太原王)を生んだ。 高洋(文宣帝)が北斉を建国して帝位に就くと、正妻であった李祖娥は皇后に立てられた。 彼女は漢族だったので反対する声もあったが、 文宣帝は祖娥を皇后に立てた。文宣帝は嗜虐趣味があり、前王朝の皇族や臣下らを大量虐殺したほか、後宮の妃嬪に鞭をふるい殺害に及ぶこともあったが、李祖娥だけは大切にした。
 559年、文宣帝が死ぬと、李祖娥が産んだ長男の高殷が即位した。文宣帝の実弟であった高湛(後の武成帝)らが、帝位を狙って権力闘争を繰り広げた。 結局、高殷は退位させられたあと賜死。あとをついだ孝昭帝も急死し、武成帝が即位した。
 武成帝は、李祖娥が運だ次男の高紹徳(武成帝にとっても甥)を殺すと脅し、李祖娥に関係を迫り、妊娠させた。 高紹徳が母・李祖娥に会おうとすると、李祖娥は妊娠を恥じて断った。 高紹徳は怒り「会ってくれないのは妊娠したからだな」となじった。李祖娥は女児を出産したが、取り上げなかった。 武成帝は激怒し、李祖娥に「お前が私の娘を殺した。私はお前の子を殺す」と言い、祖娥の前で高紹徳を殺した。 武成帝は号泣する李祖娥を裸にして鞭打った。血まみれになって失神した彼女は絹の袋に入れられ、堀の水に投げ込まれた。 彼女は死ななかった。粗末な牛車で姪のいる妙勝尼寺に送られ、そのまま尼となった。北斉の滅亡後も生き残り、隋の時代に故郷の趙郡に戻った。
cf. 草の実堂「中国史上「最も惨めな辱め」を受けた絶世の美人皇后」2025/6/7 https://kusanomido.com/study/history/chinese/nanboku-chinese/108385/

○北斉と日本
 日本人にとって、北斉と遠くて近い王朝だ。日本の中高生が国語の漢文の授業で習う漢詩の一つに「敕勒歌」がある。
   敕勒川        勅勒の川
   陰山下        陰山の下
   天似穹廬       天は穹廬に似て
   籠蓋四野       四野を籠蓋す
   天蒼蒼        天は蒼蒼
   野茫茫        野は茫茫
   風吹草低見牛羊    風吹き草低れて牛羊見わる
参考 http://www.kangin.or.jp/learning/text/chinese/k_A4_191.html

 日本の雅楽に「蘭陵王」という曲目がある。北斉の皇族であった蘭陵王こと高長恭(五四一年―五七三年)は、勇猛な武将だったが、女性と見まごうほどの美男子だった。 彼は、敵である北周の将兵が自分の美貌を見てあなどられないよう、木を彫刻して恐ろしげな仮面を作り、それを着用して出陣した。そのさまを表現する舞楽は、遣唐使によって日本に伝えられた。 愚かな北斉の後主は、高長恭の名望を恐れ、彼に死を賜った。

 唐の文人・李商隠が詠んだ漢詩「北斉二首」は、日本でも有名である。

   一笑相傾国便亡  一笑 相傾けば 国 便ち亡ぶ
   何労荊棘始堪傷  何ぞ労せん 荊棘 始めて傷つくに堪ふるを
   小憐玉体横陳夜  小憐の玉体 横陳する夜
   已報周師入晋陽  已に報ず 周師 晋陽に入ると
参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/馮小憐

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11/25 隋唐の後宮
南朝と北朝を統一した隋 (581年-618年) と、そのあと超大国として栄えた唐(618年-907年)は、北朝の後継国家でした。 後宮の気風も北朝に似ていました。 事実上の一夫一婦制を皇帝にしいた隋の皇后・独孤伽羅、中国史上唯一の女帝となった武則天、実権をにぎるため夫である皇帝を毒殺した韋后、玄宗皇帝が息子から略奪して寵愛した楊貴妃、など、 この時代の後宮はドラマチックでした。唐の後宮の制度は、遣唐使を通じて日本にも影響を与えました。
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○ポイント、キーワード

○隋 ずい
 大分裂時代を終わらせたのは、隋の文帝・楊堅である。彼は独孤伽羅との間に八人の子をもうけた。長女の楊麗華は北周最後の皇帝・宇文贇の皇后となったが、宇文贇は酒色にふけり、皇帝号まで勝手に変えた人物だった。北周が滅ぶと楊堅は隋を建国し、宇文氏を滅ぼした。娘の麗華は父の簒奪に反対し、再婚を拒んだ。
 楊堅は政治家として優れ、律令や科挙の制度を整えた。後宮の変化をもたらしたのは皇后・独孤伽羅である。彼女は読書好きで気性が強く、結婚の際に夫・楊堅に「他の女性を寵愛しない」と誓わせたという。文帝が即位してからも皇后は政治に参与し、皇帝と皇后は「二聖」と称された。
 しかし皇后の嫉妬は激しく、文帝が好きになった宮女を暗殺させたこともある。怒った文帝は一人で宮中を脱走し、「天子になっても自由がない」と嘆いた。重臣の高熲に諫められて戻ったが、この事件以降、皇后は高熲を恨み、その失脚を画策した。
 皇太子・楊勇は女好きで側室が多く、皇后はこれを憎み、彼を廃して幽閉した。代わりに次男の楊広(後の煬帝 asahi20220714.html#04)が皇太子となった。楊広は本心では女好きだったが、母に配慮して一夫一婦制のふりをし、皇太子の地位を得た。
 602年に独孤皇后が亡くなると、文帝は再び美女を寵愛した。604年、文帝の病気の際には「皇后が生きていれば」と語ったという。文帝の死には楊広の関与が疑われ、『隋書』は煬帝が父の後宮の女性と関係した話や、文帝が激怒した話などを記すが、どこまでが史実かは不明である。 確かなのは、独孤皇后の一夫一婦主義が時代に早すぎたということだ。文帝の政治改革は後世に受け継がれたが、皇后の理想は彼女の死とともに消え去り、隋が短命に終わる一因ともなった。
 隋では各地で反乱が続き、618年、煬帝は十三歳の息子が目前で殺され、その後自らも絞殺された。五十歳であり、これをもって隋は滅亡した。 煬帝は奢侈と放縦で国を滅ぼした暴君と伝えられるが、後世の誇張も多い。后妃は十人ほど、子供も五人(息子三・娘二)と、むしろ少ない部類である。煬帝の娘たちは隋滅亡後も生き延び、そのうち一人は唐の太宗の妃となった。

○唐の概観
  後漢末からの大分裂時代は隋・唐の統一で終わったとされるが、後宮に目を向けると南北朝から唐にかけて北族的な乱脈が連続しており、国家の危機を招いた。
 名君とされる唐の太宗 asahi20201008.html#04 も、兄の未亡人を皇后にしようとするなど北族的な振る舞いがあった。 太宗の死後、高宗は父の後宮の武照(則天武后 asahi20210408.html#04)を皇后とし、父の妻妾を受け継ぐ北族風を示した。
 武后はついに690年に皇帝となり国号を周に改めた(武周)。彼女は南北朝以来の北族系後宮の伝統の延長上にあり、突然の例外ではない。武周は15年で終わり、705年に武后は退位し、中宗が復位した。
 中宗は710年、正妻の韋后と娘に毒殺され、孫の李隆基(玄宗 asahi20210114.html#01)がクーデターで彼女らを討った。その後睿宗が即位し、続いて玄宗が皇帝となった。
 755年、玄宗が楊貴妃に溺れて政治を疎かにしたことも一因となり安禄山の乱が勃発した。玄宗は都を捨て、三男が宦官に擁立されて粛宗となり、以後唐では宦官の擁立が頻発した。前半の唐は后妃による国難が多発し、後半は宦官の専横が深刻化した。
 皇位継承も異常で、嫡長子が継いだのは順宗のみである。順宗は宦官に退位させられ死去、憲宗・敬宗らも宦官や后妃による暗殺が疑われる。835年には宦官排除策(甘露の変)が失敗し、皇帝は幽閉された。900年には昭宗が宦官に退位させられるなど混乱が続き、903年には朱全忠が宦官五千人を虐殺。朱は唐の皇帝・哀帝を殺し、907年に禅譲を受けて後梁を建てた。唐は滅亡し、五代十国の時代が始まった。
 唐の三百年の歴史にうち、本章ではタイプが異なる三人の女性に焦点をあて、唐の後宮の特色を述べることにしよう。唐の第二代皇帝・太宗の長孫皇后(六〇一年−六三六年)と、太宗の側室で第三代・高宗の皇后となった武則天、そして今も美女の代名詞である第六代・玄宗皇帝の寵妃・楊貴妃である。

○賢夫人・長孫皇后
 長孫皇后は鮮卑系名門の出身で、謙虚で才知に優れた理想の皇后とされる。ただし、夫の太宗(李世民)が史書で美化されているため、長孫皇后についても多少誇張がある可能性がある。兄の長孫無忌は太宗の最有力功臣で、皇后は三男四女を産み、のちの高宗・李治の実母である。
 彼女は聡明だったが「牝鶏晨す」の故事を理由に政治には関与せず、一族が過度な恩寵を受けることにも反対した。三十六歳で早逝し、太宗は深く悲しんだ。高宗となる李治は、母の追善のため大慈恩寺を建立した。皇后の存命中、太宗の家庭も国家も安定していたが、死後は乱れが生じる。

○太宗の子どもたち
 長孫皇后の三人の息子はいずれも問題を抱えていた。長男の皇太子・李承乾(618−645)は聡明ながら素行不良で、足の病を気にして突厥風の生活に耽り、美男子の「称心」を寵愛した。彼は、自分が廃され弟の李泰に殺されるのではと怯えていた。
 その背景には、父・太宗が玄武門の変(626年)で兄弟を殺して帝位を奪った血塗られた過去がある。李承乾は、弟李泰を恐れるあまり、母亡きあと疑心暗鬼が強まり、称心を殺されたことも契機となってクーデターを企てたが失敗。643年に廃太子となり、流罪の地で亡くなった。
 本来なら次男の李泰が皇太子になるはずだったが、太宗は温厚で病弱な三男・李治を選んだ。李泰は自分に似ており、皇帝になれば兄弟を殺す恐れがあると判断したためである。長孫無忌も李治を支持した。こうして李治が皇太子となり、649年に高宗として即位した。

○武則天
 高宗の皇后だった武則天(624?-705)は、中国史でしばしば「悪女」の代表とされるが、その生涯には不明点が多い。生年も624年説のほか630年頃とする説があり、伝わる逸話の多くは北朝の后妃譚と似ており、史実かどうか判別しにくい。
 彼女の姓は武、名は照、字は媚娘。父は山西の裕福な材木商で、唐建国に貢献した人物ではあるが名門貴族ではなかった。幼少期に占い師が将来を予言したという話もあるが、後世の創作の可能性が高い。
 武則天は十四歳で美貌を見込まれ、太宗の後宮に入った。
 唐の後宮の階層制は、儒教の経典『礼記』の「三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻」という三進制を、ほぼ踏襲していた。
 皇帝の正妻である皇后は、別格の存在であり、後宮の主人だった。皇帝と皇后に仕える妃嬪として、上から順に、
四夫人(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃) 九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛。正二品) 二十七世婦(?、、美人、才人がそれぞれ複数名) 八十一御妻(宝林、御女、采女がそれぞれ複数名)
とランク付けされていた。この下にはさらに、おびただしい宮女がいた。
 武照は太宗の後宮で「才人」という下位の身分で、特別な寵愛は受けなかったらしい。太宗の死後、慣例により他の妃たちと尼寺に入れられたが、剃髪の有無や寺の種類など細部は史料が一致せず不明である。
 確実なのは、第二代皇帝・高宗(李治)が、父の側室だった年上の武照を尼寺から呼び戻し、自分の後宮に入れたという点だけである。二人がいつ親しくなったのかは史実でははっきりしない。
 武照は才知と美貌に恵まれていたが、その出世には偶然の要素も大きい。高宗にはすでに王皇后がいたが、夫の寵愛が蕭淑妃に移っていたため、王皇后は牽制として武照を後宮に迎えるよう勧めた。高宗は王皇后の承認を得て武照を「昭儀」とした。
 しかしこれは王皇后の誤算だった。高宗は武昭儀を寵愛し、蕭淑妃だけでなく王皇后自身も疎まれるようになった。やがて王皇后と蕭淑妃が協力して武昭儀を排除しようとしたときには、すでに武昭儀の権勢が二人を上回っていたのである。
 武照の幸運は、子種に恵まれたことだ。彼女は高宗とのあいだに四男二女をもうけた。
義宗(李弘) 章懐太子(李賢) 安定思公主 中宗(李顕) 睿宗(李旦) 太平公主
である(公主は「天子の娘」の意)。
 中国史の「三大悪女」のうち、前漢の呂后と、清末の西太后は、それぞれ男子は一人しか生まれず、しかも若くして亡くなった。それにくらべ、武照は、皇太子や皇帝になった男子を四人も産んだ。しかも唐の滅亡までの歴代皇帝は全員、彼女の子孫だった。自分の息子の直系を残せなかった呂后や西太后とは、大きく違っていた。もし、高宗とのあいだに男子が生まれていなかったら、武照の人生はかなり違っていたかもしれない。

○高宗
 高宗の側近や建国の功臣たちは、伯父の長孫無忌を含め、武照の立后に反対した。しかし功臣の李勣は「これは陛下の私事」と逃げ、反対派は結束できなかった。もし臣下が一枚岩で反対していれば、気弱な高宗が押し通せたかは不明である。
 結果として王皇后は廃され、武照が皇后(則天武后)となった。武后は反対した臣下を追放・自殺に追い込み、王皇后と蕭淑妃をも庶民に落として逮捕させた。二人は無実を訴えたが、武后は激怒し、残酷な処刑を行ったと伝えられる。ただし酒がめに投じたなどの細部は誇張の可能性がある。これに基づき武則天を「ねずみ年生まれ」と推測する説もあるが、根拠は薄い。
 武則天が権力を握れたのは、夫・高宗が病弱で優しい性格だったためである。しかし高宗もついに専横に堪えかね、宰相・上官儀と廃后を図ったが事前に露見して失敗し、かえって武后の権勢は強まった。 『資治通鑑』に載る「百忍治家」の故事は象徴的である。九世同居で知られた張公芸が「家を保つ秘訣は忍の一字」と記し、高宗は深く感心した。父や兄弟が互いに殺し合った家に育ち、また自分の家庭も不和だった高宗は、この「百忍」に惹かれたのだろう。
 高宗は実権を武后に奪われつつも病弱の身で50代半ばまで生き、683年に没した。

○即位と逆ハーレム
 高宗の死後、武后は実子の中宗を帝位につけたが従わなかったため廃し、従順な弟・睿宗を立てた。武后は武氏一族を重用し、密告を奨励する恐怖政治を行い、各地の皇族の反乱も鎮圧された。唐の李氏王族も民衆からの支持が必ずしも厚くなく、武則天と大差ないと見られていた。
 恐怖政治の一方で彼女は人材登用に積極的で、身分に関係なく能力本位で抜擢した。名相・狄仁傑もその一人である。六九〇年、武則天は国号を「周」とし、自ら皇帝となった。北魏の例外を除けば、中国史上唯一の女帝であり、唐は一時的に簒奪された。
 女帝となった武則天の治世十五年間、後宮は従来の機能を失い、彼女は複数の愛人を持ったため、後世「淫虐な悪女」とされた。
 最初の愛人は薬売り出身の馮小宝(出家して薛懐義)。彼は武后に寵愛され、白馬寺の寺主となり、偽経典を作るなど帝位簒奪に協力した。 武則天は六十代後半で即位したが、四十歳ほどに見えたともいう。のちに宮廷医師・沈南璆を寵愛したため、薛懐義は明堂に放火して失脚・殺害された。沈南璆も過労で早死したという。
 晩年には美貌で知られた張昌宗・張易之兄弟を寵愛した。こうした事実をもとに、後世の『控鶴監秘記』『如意君伝』などが彼女の性愛を誇張して描き、「悪女」イメージを決定づけた。『如意君伝』は江戸日本でも翻案され、称徳天皇と道鏡の物語の下敷きにもなった。
 正史『旧唐書』巻七十八の記載によると、諫言官である右補闕の朱敬則は、武則天にむかって、こんな主旨の苦言を呈したことがあるという。 「臣が聞くところによりますと、欲望や快楽の追求にはてはありませんが、賢者は節度を守れるものです。陛下には内寵として、すでに薛懐義や張易之、昌宗がいますが、それで十分ではないでしょうか。近頃の朝廷は風紀が乱れております。上舍奉御の蝟ヘが『うちの子は色白で眉目秀麗だがどうだろうか』と申したり、左監門衛の長史の侯祥が『俺の持ち物は薛懐義よりすごい。自薦して、陛下のおそばにお仕えしたい』などとうそぶいたり、聞くに堪えません。私めは諫言が仕事ですので、申し上げないわけにはゆきません」  武則天は、 「卿の直言に非ざれば、朕は此れを知らず」(そなたが直言してくれなければ、朕は気づかぬところであった)  と朱敬則をねぎらい、「綵百?」を賜った、という。が、その後、武則天が行いをあらためたという記述はない。

○武則天の晩年
 武則天は、自分の次の皇帝を誰にするか、後継者指名に悩んだ。武姓の甥か、李姓の実子か。結局六九九年、李顕は、武則天により皇太子に立てられた。  ひそかに唐の復興をもくろむ勢力は、武則天の自然死を待てばよかった。
  七〇三年、日本の遣唐使が長安に到着し、女帝・武則天に謁見した。山上憶良も随行していた。当時の中国の国号は「周」であり、遣唐使の大使・粟田真人は学識と品位を高く評価され、名誉称号として周の司膳員外郎を授けられた。武則天は日本に友好姿勢を示し、日本側は国号を「倭」から「日本」へ改めたことを正式に伝えた。武則天も特に異議を唱えず、これが「日本国」の対外的な初登場となった。
 七〇五年、武則天は病で衰え、張柬之ら唐復興派がクーデターを決行。彼女の寵愛する張兄弟を誅殺し、皇太子への譲位を迫った。これにより、十五年ぶりに李顕が唐の皇帝として復位した。同年、武則天は崩御。遺言で帝号を返上し「則天大聖皇后」として高宗の陵に合葬されたが、この遺言が本人の真意だったかは不明である。
 唐王朝は第六代皇帝・玄宗(李隆基、685-762)の時代、いわゆる「開元の治」で最盛期を迎える。玄宗の父・睿宗は武則天の実子であり、開元の治を支えた名臣の多くも、若い頃に武后が才能を見抜き登用した人物である。史家の趙翼は武則天を「女性の中の英主」と高く評価した。 武后の没時、孫にあたる李隆基は二十一歳で、祖父母や太宗の気質をよく受け継いでいた。その資質は後に楊貴妃の寵愛や国政の混乱をも生むことになる。

○武韋の禍
 唐の第四代皇帝・中宗(李顕)は684年に即位したが、実権は母・武則天が握っていた。中宗は韋氏を重用して実権回復を図るも、武后によって在位54日で失脚し、地方に流された。21年後、705年の武則天退位により再び皇帝となった中宗は、韋后と娘の安楽公主を国政に参加させたが、二人は野心を抱き、710年に中宗を毒殺した。この事件は「武韋の禍」と呼ばれる。
 中宗の死後、甥の李隆基(後の玄宗)は太平公主と協力してクーデターを起こし、韋后母子やその一族を滅ぼした。712年、太上皇となっていた睿宗(李旦)から皇位を譲られ、玄宗が即位。713年、宮中での反乱(武則天の娘である太平公主の派閥)を自ら鎮圧し、太平公主に自害を命じた。 これにより、626年の玄武門の変以降、断続的に続いた唐宮廷の流血は、玄宗の手で87年ぶりに終結した。

○楊貴妃
 玄宗の在位は足かけ四十四年に及んだ。前半は「開元の治」とたたえられる善政を行い、唐の最盛期をもたらした。後半は政治に倦み、楊貴妃を寵愛して、安史の乱を招いた。
 玄宗と楊貴妃の「悲恋物語」は、後世の文芸作品の格好のテーマとなった。白楽天が詠んだ長編の漢詩『長恨歌』は有名である。
 日本の紫式部も、『長恨歌』を話の枕として『源氏物語』を書いた。『源氏物語』は、帝が、数多くいる側室のなかの一人だけに夢中になり、周囲が困惑するところから始まる。
高官たちも殿上役人たちも困って、御覚醒になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどの御寵愛ぶりであった。唐の国でもこの種類の寵姫、楊家の女の出現によって乱が醸されたなどと蔭ではいわれる。今やこの女性が一天下の煩だとされるに至った。馬嵬の駅がいつ再現されるかもしれぬ。 (與謝野晶子訳『源氏物語』)
楊貴妃を主人公とする演劇作品も、中国の京劇『貴妃酔酒』や日本の能楽『楊貴妃』などがある。一九五五年の日本・香港合作映画『楊貴妃』で京マチ子が演じた楊貴妃や、二〇一八年の日中合作映画『空海―KU-KAI―美しき王妃の謎』で台湾の女優チャン・ロンロン(中国人とフランス人のハーフ)が演じた楊貴妃も印象的であった。
 江戸時代の古川柳でも楊貴妃は格好の題材だった。
 やうきひを湯女に仕立てるりさんきう (九・14)
 湯あがりは玄宗以来賞美する (柳籠裏三・21)
 玄宗はおむくちう王はきやんが好き (八・14)
 飛燕すうわりに楊貴妃はむつちり (柳筥一・8)
 美しひかほで楊貴妃ぶたを食い (四・23、拾遺四・18)
 美しひ顔でれいしをやたらくい (十二・31)
 やうきひはろくな一ッ家は持たぬ也 (十八・23)
 一チ女出世して九ウそくうかむ也 (十四・20)
 七月の八日玄宗づつうする (十二・37)
 八日には楊国忠へ加増なり (十三・36)
 おかあさんなどとろく山きひにいひ (十五・13)
 国忠を伯父さんとろくさんはいひ (十九・17)
 むごい死にやうやうきひと高尾也 (二十二・15)
 唐の人魂を日本でめつけ出し (拾遺四・31)
 よし原に居るのにへきらくまでたづね (拾遺四・30)
 あっちからは玉藻こっちからは貴妃 (二十・8)
 日本にはかまいなさるなと貴妃はいひ (二十・25)
 三千の一は日本のまわしもの (柳筥二・24)


 楊玉環は719年、蜀州(現在の成都近郊)の楊玄琰の娘として生まれた。家はごく普通の家庭で、父は地方都市の戸籍管理官だった。成長後、735年に玄宗皇帝の第十八子・寿王(李瑁)の妃となる。李瑁の母・武恵妃は玄宗の寵愛を独占していた。武恵妃は最も寵愛され、皇后と同等の待遇を受けたが、野心を抱き政治工作を行ったものの、738年に四十歳前後で病死した。玄宗は深く悲しみ、皇后の号を追贈し手厚く弔った。
 皇太子は李瑁ではなく、別の側室が生んだ三男・李璵(後の粛宗)が立てられた。悲嘆にくれる玄宗に、宦官の高力士は楊玉環の美貌を伝え、玄宗は内縁関係を結んだ。楊玉環は一時的に道士として「太真」と名乗り、玄宗が息子の妻を後宮に迎える形を整えた。これにより、楊貴妃の入内が成立した。
 七四〇年、二十二歳の楊玉環が初めて玄宗の寵愛を受けたときの様子を、白居易の『長恨歌』は次のように詠んでいる。

 春寒賜浴華清池  春寒くして浴を賜う 華清の池
 温泉水滑洗凝脂  温泉 水滑らかにして凝脂を洗う
 侍児扶起嬌無力  侍児 扶け起こすに 嬌として力無し
 始是新承恩沢時  始めて是れ 新たに恩沢を承くるの時
 
 七四五年、楊玉環は貴妃に冊立された。彼女は寵愛の度合いはナンバー1だったが、地位も皇后に次ぐナンバー2となったのである。 楊貴妃の姉妹や兄弟は爵位をもらって出世した。楊貴妃は政治的野心を持たなかったが、贅沢を満喫した。また栄達した彼女の親族の評判は、族兄の楊国忠をはじめ、必ずしもよくなかった。
 正史『旧唐書』によると、七四六年と七五〇年の二回にわたり、楊貴妃が一時的に宮中から追い出され、楊家の屋敷にさがったことがある。二回とも、玄宗はすぐに楊貴妃を呼び戻して仲直りしたが、喧嘩の原因は謎である。七月七日、牽牛と織女が年に一度いっしょになるというロマンチックな説話をもつ七夕の夜。宮廷の奥深くで、高力士のお膳立てで仲直りした玄宗と楊貴妃は、ふたりだけの愛の秘密の合い言葉を決める。
  在天願作比翼鳥  天にありては 願わくば 比翼の鳥となり
  在地願為連理枝  地にありては 願わくば 連理の枝とならん
 この合言葉はフィクションであるが、今の日本語でも故事成語「比翼連理」として使われる。

○安禄山と楊貴妃
 北宋時代に編纂された歴史書『資治通鑑』巻二百十六には、後宮での楊貴妃と安禄山による「赤ちゃんプレイ」の逸話が記されている。安禄山の誕生日、楊貴妃は高価な錦布のおむつを安禄山にはかせ、輿に乗せて宮女にかつがせた。玄宗は後宮を訪れ、この光景を喜び、楊貴妃と安禄山に金銀を下賜した。 この出来事をきっかけに、安禄山は後宮に自由に出入りするようになり、楊貴妃と「対食」するなどの事実婚的関係もあったと『資治通鑑』は記す。「対食」とは、向かい合って食事をすることのほか、宮仕えの者同士が勝手に夫婦関係を持つことを指す場合がある。この「赤ちゃんプレイ事件」は、子供向け漢文学習書『十八史略』にも収録され、日本でも知られている。
 755年、安禄山の反乱が勃発。玄宗は長安から脱出したが、悲劇は続いた。馬嵬の駅にさしかかると、近衛軍が反乱を起こし、楊国忠とその息子たちを殺した。安禄山の反乱は以前から予兆があったが、楊国忠の無能と怠慢で防げなかった。近衛軍は玄宗に圧力をかけ、やむなく楊貴妃は処刑された。縊死説、絹で首を絞められた説、近衛軍に惨殺された説など諸説があるが、正確な状況は不明である。数え三十八歳であった。
 史実ではないが、明の時代の笑話集『笑府』では楊貴妃が馬嵬駅で殺されたあと、頭蓋骨が身元不明の「野ざらし」として長らく地面に転がっていた、ということになっている。これが日本の古典落語「野ざらし」の元ネタである。
 その後、唐は長安を回復した。長安に戻った玄宗は、楊貴妃をしのびつつ、失意のうちに七六二年に亡くなった。享年七十八。
○楊貴妃と日本
 楊貴妃は日本に渡って生き長らえた、という「貴妃東渡」説話も日本にある。山口県長門市の二尊院には「楊貴妃の墓」が現存する。
 楊貴妃の正体は日本のスパイだった、という説話もある。唐の日本侵略を未然に防ぐため、名古屋の熱田神宮の神は、唐の美女に転生し、玄宗を骨抜きにした。楊貴妃の肉体は馬嵬で滅したが、その魂は日本の熱田神宮に戻った。今も熱田神宮には「楊貴妃の墓」と称される場所がある。

○その後の唐王朝
 唐王朝の後半は、後宮の宦官が権力をふるうようになり、政治が乱れた。
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