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中国史の五人の僧侶
―アジアと日本をつなぐ仏教の歴史

最新の更新2025年5月16日   最初の公開2025年5月8日

  1. 05/20 鳩摩羅什(くまらじゅう)――日本人も読むお経を訳したシルクロード出身の訳経僧
  2. 05/27 達磨(だるま)――本当は手も足もあったインドからの渡来僧
  3. 06/03 玄奘(げんじょう)――日本とも縁が深い「孫悟空のお師匠」
  4. 06/10 慧能(えのう)――日本・中国・韓国・ベトナムの禅僧の「共通祖師」
  5. 06/17 鑑真(がんじん)――日中友好の象徴として語り継がれる高徳の僧

以下、https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/64565/より引用。引用開始
ジャンル 世界を知る中野校【対面+オンラインのハイブリッド】
中国史の五人の僧侶―アジアと日本をつなぐ仏教の歴史 春講座  加藤 徹(明治大学教授)
曜日 火曜日  時間 10:40〜12:10  日程 全5回 ・05月20日 〜 06月17日
(日程詳細) 05/20, 05/27, 06/03, 06/10, 06/17
目標
・中国史に対する理解を深める。
・仏教に対する見方を広げる。
・日本とアジアのつながりを再認識する。
講義概要
 紀元前のインド北東部で誕生した仏教が、6世紀の日本に伝来して定着するまで、アジアを横断する壮大なリレーがありました。本講座では、中国で活躍し日本仏教にも大きな影響を与えた五人の僧侶、鳩摩羅什(くまらじゅう)、達磨(だるま)、玄奘(げんじょう)、慧能(えのう)、鑑真(がんじん)の生涯を取り上げ、豊富な図版を使いながら、予備知識のないかたにも、わかりやすく解説します。
※参考図書についてはホームページでご確認ください。


     
 第一回 鳩摩羅什(くまらじゅう)――日本人も読むお経を訳したシルクロード出身の訳経僧 
中国人は儒教・仏教・道教を「三教」と呼びます。中国発の儒教や道教は漢民族の民族宗教という色彩が強い。それに対して、中国人にとって外来の宗教であった仏教は、当初は全く中国社会に広がりませんでした。しかし4世紀の五胡十六国時代、少数民族(「胡」)と漢民族の連合政権である「胡漢融合国家」が成立すると、民族の枠を超えた世界宗教が必要となりました。胡漢融合国家が求めた人材が、西域(シルクロード)出身の天才的訳経僧・鳩摩羅什(344年?-413年?)でした。鳩摩羅什は単なる訳経僧ではなく、インドとシルクロードの仏教から「中国仏教」を導き出した布教者でもありました。彼が漢訳した『法華経』『阿彌陀経』『般若経』『維摩(ゆいま)経』など三百余巻の漢訳仏典は、中国仏教のみならず、朝鮮半島、日本列島、ベトナムなど、漢字文化圏の各地で大乗仏教が広まる起爆剤となったのです。
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表
○その他

     
 第二回 達磨(だるま)――本当は手も足もあったインドからの渡来僧 
「祖師西来意」は禅の公案で「禅の祖師である達磨がわざわざ西のインドからやってきた真意は何か?」という意味です。伝承によれば、南インド出身の僧・達磨は、西暦527年、海路で中国にやってきて、南北朝時代の梁の武帝と会見しました。日本の浄土真宗では高く評価される梁の武帝ですが、禅宗の伝承では武帝の仏教理解は表面的でした。その後の達磨の「面壁九年」などの伝説から、日本では手足がない「だるま像」がつくられました。達磨のモデルとなった渡来僧は実在したようですが、達磨についての伝承や記録は伝説的なものが多い。達磨非実在説さえあります。ただ、伝説にいどられた達磨の説話を分析すると、6世紀当時の中国人の仏教理解の限界や、インド、中国、日本の禅の違いなど、興味深い事実が見えてきます。
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表 ※達磨は歴史上、実在しなかった人物である可能性がある。

○その他

○付録 https://zh.wikisource.org/wiki/傳燈錄/03#中華五祖 菩提達磨 AIを使った現代語訳

 第二十八祖である菩提達磨は、南天竺国(南インド)の香至王の第三王子であり、刹帝利(王族)の姓に属し、本名は菩提多羅といった。のちに第二十七祖・般若多羅尊者に出会い、帰国して父王からの供養を受けていた。
 尊者は密かに彼を試すため、兄二人とともに宝珠をめぐって議論させたところ、心の本質を理解した様子が明らかとなった。それを見て尊者は「あなたは諸法に通達している。“達磨”とは“大いなる道に通ずる者”の意味である。ゆえに、あなたの名は達磨とするのがふさわしい」と語り、「菩提達磨」と改名した。
 達磨は尊者に尋ねた。「私は法を得ましたが、今後、どこの国に行って仏の事業を行えばよいでしょうか。どうかお教えください」。尊者は言った。「お前は法を得たが、すぐに遠くへ旅立つことはできない。しばらく南天竺にとどまるがよい。わたしの滅後67年を経て震旦(中国)へ渡り、大いなる法薬をもって上根(すぐれた素質を持つ者)を直接導くべし。ただし、急いではならぬ。衰退した時代ゆえに慎重に」と。
 さらに達磨は尋ねた。「その国に法を受け入れられるほどの器量の人物はいるでしょうか。千年後にも困難はありますか」。尊者は答えた。「お前が導けば、菩提を得る者は数知れぬ。だが、わたしの滅後60余年にしてその国に仏法への障害が起こる。水の中に文があるように隠れた障りが現れるが、柔和に対処せよ。そのときが来たら南方には長く留まるな。そこには功業(外面的な行為)を好む者が多く、仏理を理解しない。たとえ訪れても長居は禁物だ」。
 尊者はまた偈(詩)を唱えた。
  道を行けば水を越え羊に遭う
  ひとり寂しく闇に江を渡る
  日のもとに象と馬、二株の若き桂は永く繁る
(これは仏法の興隆と衰退をあらかじめ予見した詩であり、詳細は『宝林伝』や『聖冑集』に記されている)
 達磨はこの教えを敬い、約40年にわたって師の傍で学び、怠ることはなかった。尊者が世を去ると、達磨は本国での教化を開始した。
(途中省略)
 達磨大師は広大な海を越えて三年の歳月をかけ、南海(中国南部)に到達した。梁の普通八年(527年)9月21日のことである。広州の長官・蕭嚴が礼を尽くして迎え入れ、梁の武帝に上奏した。武帝は奏文を見て使者を派遣し、詔を携えて迎えに遣わした。 10月1日、大師は都・金陵(現在の南京)に到着した。
 梁の武帝が問うた。「朕は即位以来、多くの寺を建て、経を写し、僧を度(ど)してきたが、これらにはどれほどの功徳があるか。」
 達磨大師は答えた。「まったく功徳はありません。」
 武帝は言った。「なぜ功徳がないのか?」師は答えた。「それらはただ人天(人間界や天界)における小さな報い、煩悩に汚れた原因にすぎません。影が形に従うように、一見あるようでも、実体はありません。」
 帝は問うた。「では、真の功徳とは何か。」答えて言った。「清らかな智慧が円満で、その本体は空寂です。このような功徳は世俗の行いによって得られるものではありません。」
 帝はさらに問うた。「聖なる真理の第一義とは何か。」師は言った。「広々として、そこには聖もありません。」
 帝は言った。「今、朕の前にいる者は誰か。」師は答えた。「知らぬ。」
 帝にはその意味が理解できなかった。
 達磨大師は、武帝との問答によって悟りの機が熟していないと見て、その月19日、ひそかに江北へと去った。11月23日、洛陽に到着。当時は北魏・孝明帝の太和10年であった。 嵩山の少林寺に寓居し、壁に向かって坐禅を続け、終日黙して語らず、人はその内実をうかがうことができなかった。人々は彼を「壁観婆羅門」と呼んだ。
 そのころ、神光という僧がいた。度量が広く開けた人物で、長く伊洛に住み、あらゆる書物を博覧し、玄妙な理(玄理)を語るのに長けていた。彼はしばしばこう嘆いた。「孔子や老子の教えは礼法や風儀の域にとどまっている。荘子や易経の理も、真の妙理には至っていない。近ごろ、達磨大士が少林寺にいると聞いた。至人は遠くにあらず、玄妙の境地を求めるために行くべきだ。」
 そこで神光は毎日、朝夕に通って師に仕えた。だが達磨は常に壁に向かって端然と坐しており、教えを説く声も、励ます言葉も聞こえなかった。 神光は自ら省みて言った。
「昔の人は道を求めて骨を打って髄を取り、血を刺して飢えをしのぎ、髪を地に敷いて泥を覆い、身を崖から投げて虎に与えた。それほどまでにして求道した。私などが、どうして及ぼうか。」
 その年12月9日、夜に大雪が降る中、神光は微動だにせず立ち続けた。明け方には、膝まで雪が積もっていた。 師(達磨)はその姿に心を痛めて問うた。「そなたは長く雪中に立って、何を求めておるのか。」 神光は涙を流して言った。「ただただ和尚の慈悲を願うばかりです。甘露の門を開いて、広く衆生を済度していただきたいのです。」 師は言った。「諸仏の無上の妙道とは、遥かなる劫の間、精進を重ね、難行を行じ、忍びがたいことを忍んで得るもの。どうして小さな徳、小さな智慧、浅はかで慢心のある心で、真の乗り物(真乗)を望もうなどというのか。そんな心ではただ骨折るだけで終わる。」 神光はその教えを聞いて感銘を受け、密かに鋭い刀を取り出して自らの左腕を切り落とし、それを師の前に捧げた。 師はこの者が法を伝えるに足る器であると悟り、言った。「諸仏は最初、道を求めるために身をも忘れた。そなたがいま、このようにして求めるなら、法を得ることもできよう。」 そこで達磨は彼に法を与え、名を改めて「慧可」とした
 慧可は言った。「諸仏の法印(悟りの証し)は、拝聴できるでしょうか?」 師は言った。「諸仏の法印とは、人から得られるものではない。」 慧可は言った。「私の心はまだ安まっておりません。どうか師に安らぎをお授け願います。」 師は言った。「その心を持ってきなさい。そなたに安らぎを与えよう。」 慧可は言った。「心を探しましたが、ついに見つかりません。」 師は言った。「ほれ、そなたに安心を与え終えたぞ」
 後に孝明帝(北魏の皇帝)は達磨の不思議な行跡を聞き、使者を遣わして詔(みことのり)を伝え、招いた。前後三度の召し出しがあったが、達磨は少林寺から下ることはなかった。 帝はますます敬仰を深め、摩納(高僧用の)袈裟二領、金の鉢、銀の水瓶、織物などを贈った。達磨は固辞して三度にわたり辞退したが、帝の思いは固く、ついに受け取ることとなった。 これ以後、出家者・在家者(=緇白)問わず、達磨への信仰心はいっそう深まった。
 九年が過ぎて、達磨はインドへの帰還を望んだ。そして弟子たちに言った。「時は来た。おまえたち、それぞれに得たところを述べてみよ。」
 弟子の道副が答えた。「私の見解では、文字にとらわれず、かといって文字から離れずに道の働きをなすことが大切です。」 達磨は言った。「おまえは私の“皮”を得た。」
 比丘尼の総持(梁武帝の娘)が言った。「私は、かつて慶喜が阿?仏の国を一度だけ見て、再び見なかったように、一度見て決定的な理解を得ました。」 達磨は言った。「おまえは私の“肉”を得た。」
 弟子の道育は言った。「この世は地・水・火・風の四大も、五陰(色受想行識)も本来空であり、私の見解では一切の法は得るべきものがないと分かります。」 達磨は言った。「おまえは私の“骨”を得た。」
 最後に慧可が立ち上がり、無言で礼拝した。達磨は言った。「おまえは私の“髄”を得た。」 そして達磨は慧可を顧みて告げた。「昔、釈尊(如来)は正法眼蔵(仏法の核心)を迦葉尊者に授け、代々伝えられて私に至った。今私はおまえにこれを授ける。よく護り伝えよ。また、この袈裟も授ける。これは法の証しであり、それぞれに意味があることを知るべきである。」 慧可が言った。「どうか師よ、その意味を明らかにお示しください。」 師は言った。「内には“法印”を伝えて心を契証し、外には袈裟を与えて宗旨を明らかにするのだ。 師は言った。「内には“法印”を伝えて心を契証し、外には袈裟を与えて宗旨を明らかにするのだ。 後の世が荒廃すれば、人々は疑い深くなり、“あれは西天(インド)の人、これは中国の人だ。どうして法を得たのか。何を証拠とするのか”などと問うであろう。 今おまえはこの“衣”と“法”を受け取った。後に問難が起きても、この袈裟と私の偈(詩)を示せば、証明となり、仏法の広まりは妨げられない。 私が滅してから二百年後には、この“衣”は伝えることをやめる。しかし“法”は世界に広まる。道を明らかにする者は多く現れるが、実際にそれを行ずる者は少ない。理を説く者は多いが、深く通じる者は少ない。密かに契合し、法を証する者は、無数に現れるであろう。 おまえはよくこの法を広め、まだ悟っていない者を軽んじてはならぬ。一念で心が転ずれば、本来の悟りに達するのだから。」
 最後に達磨は偈を詠んだ。
 吾本来茲土,伝法救迷情。一花開五葉,結果自然成。
  われもとよりこの地に来たり
  法を伝えて迷情(まよえる心)を救う。
  一つの花が五枚の花びらを開き、
  自然にして果は成る。
 師(達磨)はさらに言った。 「私は『楞伽経』(りょうがきょう)四巻を持っている。これもお前に授けよう。これは如来(釈迦)が説いた心の本質に至るための重要な法門であり、衆生が開悟し、仏の道に入るためのものだ。」 私はここに来てから、五度毒を盛られた。だが私はその都度、毒を口に含んで外に出し、石の上に置いた。するとその石が裂けた。 私は本来、南天竺(インド)を離れてこの東土(中国)に来た。なぜなら赤県神州(中国)には大乗気象(大乗仏教を興すべき気運)があると見たからだ。 それで海を越え、砂漠を越え、法を求めてやって来たのだ。だが、これまでの縁は必ずしも思い通りに進まず、私は愚かで口も重いように見られてきた。だが、今ようやくお前(慧可)に意(こころ)を伝授でき、私の使命は終わった。」
 別の記録によると、師は初めて少林寺に住して九年、第二祖(慧可)に法を説いた。そのときただ一言だけ教えた。 「外には一切の縁(関心)を断ち、内には一切の思念を止める。心をまるで壁のように無心にせよ。そうすれば道に入ることができる。」 慧可は様々に心性の理(理論)を語ったが、道と契(かな)わなかった。 師は彼の誤りをただ遮るばかりで、「無念の心体」について明示はしなかった。 慧可が言った。「私はすでに一切の縁を絶ちました。」 達磨が問うた。「それは、断滅(何もない虚無)に陥ってはいないか?」 慧可が答えた。「断滅にはなっていません。」 達磨が重ねて尋ねた。「では、その証拠は?なぜ断滅ではないと言えるのか?」 慧可は言った。 「(断滅ではない証拠は)明らかに、つねに“知”があることです。だから、言葉では言い表せません。」 達磨は言った。「これこそが諸仏が代々伝えてきた“心の本体”である。もはや疑うな。」
 話が終わると、達磨は弟子たちを連れて禹門(山西省)の千聖寺に行き、三日間滞在した。 そこに期城(山西省の一部)の太守・楊啓之という人物がいた。彼は以前から仏教に帰依しており、達磨に尋ねた。 「西天(インド)の五印(五祖)を受け継ぐ者として祖師であられるが、その“祖の道”とはどのようなものですか?」 達磨は答えた。 「仏の心(仏心)を明らかにし、行と理解が一致している者、それを“祖”と呼ぶ。」 さらに啓之が問うた。「それ以外には、何が“祖”の条件ですか?」 達磨は言った。 「他者の心を明らかにし、過去と現在を見通すこと。 “有”や“無”を嫌わず、法(真理)に執着しないこと。 賢人にも愚人にもとらわれず、迷いや悟りの区別をしないこと。 これらを理解できる者をこそ、“祖”と呼ぶのだ。」 啓之はさらに言った。 「私は三宝(仏・法・僧)に帰依して久しいのですが、いまだに智慧は暗く、真理を理解できません。 いま師の言葉を聞いても、どうすればよいか分かりません。 どうかご慈悲で、禅宗の根本の趣旨をお示しください。」 師はその真剣さを知り、偈を授けた。
「悪を見ても嫌わず、善を見ても求めず、 智慧を捨てて愚に近づくこともせず、迷いを捨てて悟りを求めることもしない。 大道(仏の道)に達する者は、規格外である(過量)。 仏心を通じて、すでに彼岸に渡っている。 凡人や聖人と同じ道を歩まない。超越した存在、それが“祖”と呼ばれる。」
 偈を聞いた啓之は、感動のあまり悲しみと喜びが入り混じる気持ちになり、 「どうか師よ、世に長くとどまって衆生を導いてください」と願った。 師は答えた。 「私はもう間もなくこの世を去る。長くは留まれない。 (吾即逝矣、不可久留)。人々の根性(気質)は千差万別で、多くの苦難に満ちている。」
 啓之が言った。 「(師に危害を加える)その者が誰であるかお聞かせください。弟子である私が取り除きます。」 師は答えた。 「私は仏の奥義を伝え、迷える者に利益を与えている。 それを害して、自分が安らかになる者など、道理としてありえない。」 啓之はなおも願った。 「師が何も言わなければ、あらゆることを見通す“通変観照”の力が現れないではありませんか。」 師はやむなく、讖(しん)を与えた。
 江槎分玉浪。管炬開金鎖。五口相共行。九十無彼我。
「江(大河)のいかだが玉のような波を分け、 竹のたいまつが金の鎖を開く。 五つの口がともに進み、 九十にして彼と我とがない。」
 啓之はこの言葉の意味をすぐには理解できなかったが、心に深く刻み、礼をして去った。
 達磨大師が遺した予言は、当時は理解されなかったが、のちにその通りであったことが明らかになった。 当時の北魏朝廷では、仏教が盛んで、禅宗以外の宗派の高僧も多数いた。 その中でも、光統律師の流支三蔵(るしさんぞう)という僧侶は、鳳凰のように優れた存在とされていた。 彼は達磨が形相を否定し、心を直接指し示す教え(禅宗)を説くのを見て、 議論のたびに是非の鋒(きっさき)を交えた。 達磨は深遠なる禅風を広め、仏法の雨を広く降らせた。 しかし、偏狭な心をもつ者たちはそれに耐えきれず、競って害意を抱き、何度も毒を盛った。 第六回目の毒殺未遂のとき、達磨は 「教化の縁はすでに終わり、法を伝えるべき人(慧可)にも出会った」として、 自ら解毒せず、静かに座したまま入滅した。 これは、西暦525年(後魏の太和19年、干支で丙辰)の10月5日のことであった。 その年の12月28日に、熊耳山(現在の河南省嵩山付近)に葬られ、定林寺に塔(廟)が建立された。
 それから3年後、魏の使者・宋雲が西域(インド)からの帰路、?嶺(現在のパミール高原)で達磨に出会った。 彼は一隻の草履を手に持ち、悠々と一人で歩いていた。 宋雲が「どちらへ行かれるのですか」と問うと、 達磨は「西天(インド)へ戻るのだ」と答え、さらに「お前の主君(孝明帝)はすでにこの世に嫌気がさしている(=間もなく崩御する)」と語った。 宋雲は驚き、茫然とした。 宋雲は別れを告げ、帰国して任務を報告すると、果たして孝明帝はすでに崩御していた。 次の皇帝・孝荘帝に即位したとき、宋雲はこの不思議な出会いを報告した。 皇帝は驚き、墓を開かせた。すると、棺の中は空で、一足の革履のみが残されていた。(惟空棺一隻革履存焉) 朝廷中がこのことに驚き、感嘆した。


     
 第三回 玄奘(げんじょう)――日本とも縁が深い「孫悟空のお師匠」 
日本人が読む『般若心経』の訳者である玄奘(600年-664年)は、『西遊記』の孫悟空の師匠・三蔵法師のモデルです。史実の玄奘も陸路で中国とインドを往復し、詳細な旅行記『大唐西域記』を残しました。日本の日蓮も『大唐西域記』の説話を引用するなど、玄奘の日本への影響は絶大でした。玄奘がインドに留学した理由は、それまでの中国のお経が鳩摩羅什など中央アジア出身者を経由したものであったため、直接インドで原典を研究し、新たな「仏教東漸」を図るためでした。中国に戻った玄奘は訳経事業に精力的に取り組み、日本から来た若い僧・道昭(629年-700年)を熱心に指導しました。玄奘という人物を介して、インド、中国、日本の仏教が、リアルタイムでつながったのです。その玄奘の遺骨の一部は、今、日本にあります。『西遊記』の三蔵と史実の玄奘の違いも含めて、わかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mC50PQIXutRVAG-t9Hbg2s

○ポイント、キーワード
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○略年表

○その他


     
 第四回 慧能(えのう)――日本・中国・韓国・ベトナムの禅僧の「共通祖師」 
中国禅宗の開祖である達磨は非実在説もある伝説的な人物ですが、禅の六祖こと六代目の祖師である慧能(638年-713年)は実在した高僧です。慧能は貧しい母子家庭の出身で、幼少期に教育を受けられず、生涯、文字の読み書きができませんでした。しかし修行の末、東アジアの禅宗系仏教の「六祖」こと第六代の共通祖師となりました。彼の説法集『六祖壇経』は、中国人の著作としては唯一、釈迦の説法集と同等の価値をもつ「お経」として扱われました。日本の曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)を始め、中国・韓国・ベトナムの禅宗の「共通祖師」である慧能の、ドラマチックな生涯を紹介します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mgtyZYsCZPu_2DvmZLgp5A


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○辞書的な説明 参考

○略年表 ○その他


     
 第五回 鑑真(がんじん)――日中友好の象徴として語り継がれる高徳の僧 
奈良時代の仏教界の顔ぶれは、中国出身の道?(どうせん 702年-760年)、インド出身の菩提僊那(ぼだいせんな 704年-760年)、ベトナム出身の仏哲(ぶってつ 生没年不詳)など国際色豊かでした。唐の高僧・鑑真(688年-763年)は、752年の大仏開眼(だいぶつかいげん)には間に合いませんでしたが、何度も失敗した末に第六回目の渡海で753年に来日に成功しました。鑑真は、日本初の本格的な戒壇を設けたほか、日本の律宗と天台宗の成立にも決定的な影響を与えました。21世紀の今も日中友好の象徴として語られる鑑真の生涯を追いながら、中国仏教と日本仏教の違いや、日本仏教の戒律の特殊性についても、わかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nCSRAyWKOcrOAoaZDn9gDE
参考 中国・江蘇省泰州市の寺院 https://x.com/katotoru1963/status/1849421442708066526

中国仏教の僧侶の読経は音楽的ですね。日本の寺と違って床は石なので、声の反響もいい。江蘇省泰州市の南山寺にて。 pic.twitter.com/zAhrY7nXek

— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) October 24, 2024


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