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中国史の五人の僧侶―アジアと日本をつなぐ仏教の歴史 春講座 加藤 徹(明治大学教授)
曜日 火曜日 時間 10:40〜12:10 日程 全5回 ・05月20日 〜 06月17日
(日程詳細) 05/20, 05/27, 06/03, 06/10, 06/17
目標
・中国史に対する理解を深める。
・仏教に対する見方を広げる。
・日本とアジアのつながりを再認識する。
講義概要
紀元前のインド北東部で誕生した仏教が、6世紀の日本に伝来して定着するまで、アジアを横断する壮大なリレーがありました。本講座では、中国で活躍し日本仏教にも大きな影響を与えた五人の僧侶、鳩摩羅什(くまらじゅう)、達磨(だるま)、玄奘(げんじょう)、慧能(えのう)、鑑真(がんじん)の生涯を取り上げ、豊富な図版を使いながら、予備知識のないかたにも、わかりやすく解説します。
※参考図書についてはホームページでご確認ください。
中国人は儒教・仏教・道教を「三教」と呼びます。中国発の儒教や道教は漢民族の民族宗教という色彩が強い。それに対して、中国人にとって外来の宗教であった仏教は、当初は全く中国社会に広がりませんでした。しかし4世紀の五胡十六国時代、少数民族(「胡」)と漢民族の連合政権である「胡漢融合国家」が成立すると、民族の枠を超えた世界宗教が必要となりました。胡漢融合国家が求めた人材が、西域(シルクロード)出身の天才的訳経僧・鳩摩羅什(344年?-413年?)でした。鳩摩羅什は単なる訳経僧ではなく、インドとシルクロードの仏教から「中国仏教」を導き出した布教者でもありました。彼が漢訳した『法華経』『阿彌陀経』『般若経』『維摩(ゆいま)経』など三百余巻の漢訳仏典は、中国仏教のみならず、朝鮮半島、日本列島、ベトナムなど、漢字文化圏の各地で大乗仏教が広まる起爆剤となったのです。
せかい‐しゅうきょう ‥シュウケウ【世界宗教】
[名] 人種・民族・国籍・性別・階級などを超えて、ひろく世界で信じられている宗教。仏教・キリスト教・イスラム教は三大世界宗教とされるが、その他にも儒教・ヒンドゥー教・ユダヤ教・ゾロアスター教・道教は世界宗教的性格をもつとされたことがある。普遍宗教。
シルクロード仏教が中国仏教に変格していった。※注:ここでは、仏教史上かつて教団として存在した一派「説一切有部」(せついっさいうぶ。Sarvāstivāda)の教説を指す。現存する上座部仏教や南伝仏教を指して「小乗仏教」という貶称で呼ぶべきではないことは、 1950年6月にスリランカのコロンボで開催された世界仏教徒連盟(WFB、World Fellowship of Buddhists)第1回世界大会で決議され、この決議には日本からの代表も参加した。
ユダヤ教からキリスト教が出陣していったほどの事件だ。
その画期的プロセスを用意したのは、
パルティア(安息)の安世高、クシャーン(大月氏)の支謙、
敦煌の竺法護、そしてクチャ(亀茲)の鳩摩羅什だった。
ただのバイリンガル漢訳者なのではない。
驚くべき言語編集力と構想力の持ち主たちである。
とくに鳩摩羅什において中国仏教が着床し、
その先で朝鮮・日本の仏教装置が起爆した。
くまらじゅう クマラジフ【鳩摩羅什】
(Kumārajīva) 中国の六朝時代の仏典の翻訳家。インド人を父として亀茲(クチャ)国に生まれ、インドで仏典を学び、帰国後西域諸国に仏教を普及。さらに国師として後秦の都長安に迎えられ、仏教思想の普及と仏典の翻訳に従事して、維摩(ゆいま)経、法華経、阿彌陀経、般若経など三五部三百余巻を漢訳。その系統に三論(さんろん)、成実(じょうじつ)学派が形成され、中国仏教の基礎を築いた。羅什。(三四四‐四一三)
仏法・漢土にわたりて二百余年に及んで月氏と漢土との中間に亀茲国と申す国あり、彼の国の内に鳩摩羅えん三蔵と申せし人の御子に鳩摩羅什と申せし人・彼の国より月氏に入り・須利耶蘇磨三蔵と申せし人に此の法華経をさづかり給いき、其の経を授けし時の御語に云く此の法華経は東北の国に縁ふかしと云云、此の御語を持ちて月氏より東方・漢土へはわたし給いしなり。
漢土には仏法わたりて二百余年・後秦王の御宇に渡りて候いき、日本国には人王第三十代・欽明天皇の御宇治十三年・壬申十月十三日辛酉の日・此れより西・百済国と申す国より聖明皇・日本国に仏法をわたす、(以下略)
クマーラジーヴァのお迎えには長安から僧肇(そうじょう 374〜414)が出向いた。のちに有能な愛弟子になる。長安に入ったクマーラジーヴァのことは、これまたのちに愛弟子になる僧叡(378〜444)が「ついに歳(ほし)は星紀に次(やど)る。豈に徒らに即ち悦ぶのみならんや」と書いている。招致を待ち望んでいた道安はもとより、遥かに廬山にいた慧遠もこの入閣をよろこんで、親書を送った。この慧遠とのその後の質疑応答記録こそ『大乗大義章』として知られる有名な3巻18章になる。
かくてクマーラジーヴァは、姚興が用意した国立仏典翻訳研究所ともいうべき訳場を「逍遥園」(もしくは西明閣)の所長に迎えられた。すぐさま漢訳団が結成され、僅か5年で次の仏典群が訳出された。
大品般若経24巻。小品般若経7巻。
妙法蓮華経7巻。
賢劫経7巻。華首経10巻。
維摩詰経3巻。
首楞厳経2巻。
十住経5巻。思益義経4巻。持世4巻。自在王経2巻。
仏蔵経3巻。菩薩蔵経3巻。称揚諸仏功徳経3巻。
無量寿経1巻。
弥勒下生経1巻。弥勒成仏経1巻。
金剛般若経1巻。
諸法無行経1巻。菩提経1巻。遺教経1巻。
十二因縁観経1巻。菩薩呵色欲1巻。
禅法要解2巻。禅経3巻。
雑譬喩経1巻。
大智論100巻。
成実論16巻。十住論10巻。
中論4巻。十二門論1巻。百論2巻。
十誦律61巻。十誦比丘戒本1巻。
禅法要3巻。
なんと35部294巻にのぼる。これは西晋の竺法護の154部309巻や、のちの玄奘の75部1335巻より劣るものの、その内実において遜色がない。それよりなにより、その流麗な翻訳力や言語編集力こそ画期的だった。中国仏教はここに開闢したと言ってよい。
(中略)
クマーラジーヴァの言語編集力はたんなる漢訳力・翻訳力にとどまっていなかった。今日では漢訳仏典の歴史をクマーラジーヴァ以前を「古訳」、クマーラジーヴァ以降を「旧訳」、玄奘以降を「新訳」と区分けする慣わしになっているが、それほどにクマーラジーヴァの翻訳編集は時代を画期した。自在きわまりなかった。
すでに竺法護が『正法華経』でどんなふうに訳経をしたのか、その手順がわかっている。本人が「経記」としてのこしている。たいへん興味深い。それによると当時の訳業は、@執本、A宣出、B筆受、C勧助、D参校、E重覆、F写素、の7段階に分けられていた。
まずは@胡本を執り、A口述によって『法華経』を宣出し、これをB数人の優婆塞(うばそく)たちに授けて共に筆受させ、さらにC数人の目を通して勧助勧喜させて、ここからD文字に強い者たちの参校が加わって、Eいよいよこれらを重覆(トレース)して、最後にF素(きぬ)に写して解(おわ)る、という手順だ。
いったいクマーラジーヴァがどんな手順をとったのかはぴったりした記録がないのだが、ほぼこれに近かったろう。(中略)クマーラジーヴァはこれらの分業手順をもっと集約して一人で何役も担当していただろう。本書では、胡本(原典)を手にするとクマーラジーヴァ自らが漢語でただちに口訳し、これをすぐに弟子たちが筆録していただろうと推測している。ぼくもそんなふうだったろうと思う。
「祖師西来意」は禅の公案で「禅の祖師である達磨がわざわざ西のインドからやってきた真意は何か?」という意味です。伝承によれば、南インド出身の僧・達磨は、西暦527年、海路で中国にやってきて、南北朝時代の梁の武帝と会見しました。日本の浄土真宗では高く評価される梁の武帝ですが、禅宗の伝承では武帝の仏教理解は表面的でした。その後の達磨の「面壁九年」などの伝説から、日本では手足がない「だるま像」がつくられました。達磨のモデルとなった渡来僧は実在したようですが、達磨についての伝承や記録は伝説的なものが多い。達磨非実在説さえあります。ただ、伝説にいどられた達磨の説話を分析すると、6世紀当時の中国人の仏教理解の限界や、インド、中国、日本の禅の違いなど、興味深い事実が見えてきます。
禅 ぜん zen
サンスクリット語dhyānaの音写で禅那とも書かれる。「禅」の原義は,(天子が) 神を祀る,(位を) 譲る,などで,これを仏教がかりたのである。 姿勢を正して坐して心を一つに集中する宗教的修行法の一つ。インドでは古くから行われていたが,仏教の基本的修行法に取入れられて中国に伝わり,禅宗として一宗派を形成した。 宗祖はインド僧菩提達磨とされるが,宗派として成立したのは6祖慧能からで,その跡を継ぎ中国禅宗五家が成立。 このうち宋代には臨済,雲門の2宗が栄え,臨済宗は公案を手段とする看話禅を鼓舞し,雲門の系統をひく曹洞宗は正身端坐の坐禅を重視する黙照禅を説いた。 日本には鎌倉時代に栄西により臨済宗,道元により曹洞宗が伝えられ,江戸時代には中国僧隠元により明代の念仏禅,黄檗宗が伝えられた。 また江戸時代の白隠は公案を整理し,現在の臨済宗諸派の修行の基礎を築いた。 禅思想はインド仏教の般若,空の思想が老荘思想を精神的風土とする中国で変容され定着したもので,坐禅の実践による人間の本性の直観的な把握を主張し,華道,茶道,書道,絵画,造園,武芸などの日本文化にも影響を与え,さらに最近は急速に海外からの関心を集めつつある。
達磨 だるま [生]? [没]大通2 (528)
禅宗の初祖。6世紀初頭にインドから中国に渡り,『楞伽経(りょうがきょう)』を広めた菩提達摩 Bodhidharmaと同一人物とされているが,伝記中の事跡はかなり潤色,神秘化され,その実在すら疑われている。 しかし現代では敦煌出土(→敦煌莫高窟)の資料から『二入四行論』ほかを説いたことなどが明らかにされている。 『続高僧伝』によれば,達磨は南インドのバラモンの家に生まれ,大乗仏教に志し,海路から中国に渡り,北方の魏に行った。梁の武帝に召されて金陵に赴き,禅を教えたが,機縁がまだ熟していないのを知ってただちに去り, 洛陽東方の嵩山の少林寺に入り,壁に向かって坐禅した(壁観)。 慧可が来て教えを求め,腕を切り取ってその誠を示したので,ついに一宗の心印を授けたという伝説がある。 壁観の面壁九年の伝説から,後世日本では手足のないだるま像がつくられ,七転び八起きの諺となった。
『伝灯録』の原漢文 帝問曰:「朕即位已來。造寺寫經度僧不可勝紀。有何功德。」師曰:「並無功德。」帝曰:「何以無功德。」師曰:「此但人天小果有漏之因。如影隨形,雖有非實。」帝曰:「如何是真功德。」答曰:「淨智妙圓,體自空寂。如是功德,不以世求。」帝又問:「如何是聖諦第一義。」師曰:「廓然無聖。」帝曰:「對朕者誰。」師曰:「不識。」帝不領悟。 |
達磨安心 だるまあんじん 無門関 第四十一則 達磨面壁。二祖立雪。断臂云、弟子心未安、乞師安心。磨云、將心来為汝安。祖云、覓心了不可得。磨云、為汝安心竟。 【読み下し】 達磨、面壁す。二祖、雪に立つ。斷臂(だんぴ)して云く「弟子、心、未だ安んぜず、乞う、師、安心せしめよ。」と。磨云く「心を將(も)ち來れ、汝の爲に安(やす)んぜん。」と。祖云く「心を覓(もと)むるも了(つひ)に得べからず」と。磨云く「汝の爲に、安心、竟(をは)んぬ。」と。 【訳】 達磨は、岩の壁にむかって座禅した。二祖、すなわち中国禅の第二代目の高僧となる慧可(えか)が、雪の中に立ち、自分の腕を切断して言った。 「先生、わたしの心は不安でどうしようもないのです。どうか、私の心を安んじてくださいますよう」 「では、心をここに出しなさい。安んじてやろう」 「え? 心? ・・・心を探しましたが、取り出せません」 「ほれ、おまえさんの心を安んじてやったぞ」 |
『伝灯録』より 迄九年已,欲西返天竺。乃命門人曰:「時將至矣。汝等蓋各言所得乎。」時門人道副對曰:「如我所見。不執文字不離文字而為道用。」師曰:「汝得吾皮。」尼總持曰:「我今所解。如慶喜見阿閦佛國。一見更不再見。」師曰:「汝得吾肉。」道育曰:「四大本空,五陰非有。而我見處無一法可得。」師曰:「汝得吾骨。」最後慧可禮拜後依位而立。師曰:「汝得吾髓。」 |
『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せっていた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くなりました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。
このように、聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。
これが、聖徳太子が飢人のためにつくったお墓、すなわち達磨大師の墓とされ、鎌倉時代にその上にお堂が建てられて、本尊として道内に聖徳太子像と達磨大師像が安置されました。
日本人が読む『般若心経』の訳者である玄奘(600年-664年)は、『西遊記』の孫悟空の師匠・三蔵法師のモデルです。史実の玄奘も陸路で中国とインドを往復し、詳細な旅行記『大唐西域記』を残しました。日本の日蓮も『大唐西域記』の説話を引用するなど、玄奘の日本への影響は絶大でした。玄奘がインドに留学した理由は、それまでの中国のお経が鳩摩羅什など中央アジア出身者を経由したものであったため、直接インドで原典を研究し、新たな「仏教東漸」を図るためでした。中国に戻った玄奘は訳経事業に精力的に取り組み、日本から来た若い僧・道昭(629年-700年)を熱心に指導しました。玄奘という人物を介して、インド、中国、日本の仏教が、リアルタイムでつながったのです。その玄奘の遺骨の一部は、今、日本にあります。『西遊記』の三蔵と史実の玄奘の違いも含めて、わかりやすく解説します。
不東(ふとう) 「インドに行くまでは東の中国に戻らない」という意味の、玄奘の決意の言葉。 『大唐大慈恩寺三藏法師伝』によると、玄奘は長安をたち、瓜州(甘粛省安西県)をへて草原に入った。ひとりの老齢の胡人から「中国に戻ったほうがよいですよ」と言われた玄奘は、「私は大いなる法を求めるため西に出発したのです。もしバラモンの国に至るまでは、決して東に帰りません(終不東帰)。途中で死んでも後悔しません」と言った。 その後、玄奘が玉門関の軍事施設で身柄を官憲に一時的に拘束されたとき、また砂漠で水の入った皮袋を落として水を失ったときも、「不東」の決意を述べた。 日本国総理大臣をつとめた細川護熙氏の「不東庵」は、玄奘のこの言葉にちなむ。 |
中国禅宗の開祖である達磨は非実在説もある伝説的な人物ですが、禅の六祖こと六代目の祖師である慧能(638年-713年)は実在した高僧です。慧能は貧しい母子家庭の出身で、幼少期に教育を受けられず、生涯、文字の読み書きができませんでした。しかし修行の末、東アジアの禅宗系仏教の「六祖」こと第六代の共通祖師となりました。彼の説法集『六祖壇経』は、中国人の著作としては唯一、釈迦の説法集と同等の価値をもつ「お経」として扱われました。日本の曹洞宗・臨済宗・黄檗宗(おうばくしゅう)を始め、中国・韓国・ベトナムの禅宗の「共通祖師」である慧能の、ドラマチックな生涯を紹介します。
慧能 えのう(638―713)
中国、唐代の僧。中国禅宗の第六祖。俗姓は盧(ろ)氏。諡号(しごう)は大鑑真空普覚円明(だいかんしんくうふかくえんみょう)禅師。六祖(ろくそ)大師ともいわれる。新州(広東(カントン)省)に生まれ、3歳で父を失い、市に薪(まき)を売って母を養っていたが、ある日、客の『金剛経』を誦(じゅ)するのを聞いて出家の志を抱き、蘄州(きしゅう)(湖北省)黄梅(おうばい)の東山に禅宗第五祖、弘忍(こうにん)を尋ね、仏性(ぶっしょう)問答によって入門を許された。8か月の碓房(たいぼう)(米ひき小屋)生活ののち、弘忍より大法を相伝し、南方に帰って猟家に隠れていたが、676年(儀鳳1)南海法性寺(ほうしょうじ)にて印宗(いんしゅう)(627―713)法師の『涅槃経(ねはんぎょう)』を講ずる席にあい、風幡(ふうばん)問答によって認められ、印宗によって剃髪(ていはつ)、受具した。翌677年、韶州(しょうしゅう)(広東省)曹渓(そうけい)の宝林寺に住し、禅法を発揚し、多くの信奉者を得た。705年(神龍1)中宗(ちゅうそう)の招きにも病と称して行かず、先天2年8月3日新州にて寂した。説法集『六祖壇経』があり、その禅法は南頓(なんとん)(南宗の頓悟(とんご)禅)とよばれ、神秀(じんしゅう)の北漸(ほくぜん)(北宗の漸悟(ぜんご)禅)と並び称された。門人に南岳懐譲(なんがくえじょう)、青原行思(せいげんぎょうし)、南陽慧忠(なんようえちゅう)(?―775)、司空本浄(しくうほんじょう)(667―761)、荷沢神会(かたくじんね)などを輩出し、後の五家(ごけ)七宗はすべてこの門より発展した。
[田中良昭 2017年1月19日]
『駒沢大学禅宗史研究会編『慧能研究』(1978・大修館書店)』
六祖壇経 ろくそだんぎょう
中国、唐代の禅宗語録。禅宗第6祖慧能(えのう)が韶州剌史(しょうしゅうしし)韋拠(いきょ)の要請にこたえ、大梵寺(だいぼんじ)の戒壇(かいだん)で行った授戒説法を、弟子の法海(ほうかい)が記録したものとされているが、後人の付加部分も混入している。禅宗語録に仏陀(ぶっだ)の説法の呼称である「経」の字が用いられている例はほかになく、南宗禅の祖としての慧能に、仏陀と同等の地位と権威を与えようとした撰者(せんじゃ)の意図がうかがわれる。内容は慧能一代の行実とその説法を集録したもので、南宗禅の基本的立場とその特質を示す根本資料としてきわめて重視されている。テキストには現存最古で一巻本の敦煌(とんこう)本をはじめ、二巻本の恵マ(えきん)本系統や一巻本の徳異本や宗宝本の系統などがあり、異本間相互の異同も著しい。
[田中良昭]
奈良時代の仏教界の顔ぶれは、中国出身の道?(どうせん 702年-760年)、インド出身の菩提僊那(ぼだいせんな 704年-760年)、ベトナム出身の仏哲(ぶってつ 生没年不詳)など国際色豊かでした。唐の高僧・鑑真(688年-763年)は、752年の大仏開眼(だいぶつかいげん)には間に合いませんでしたが、何度も失敗した末に第六回目の渡海で753年に来日に成功しました。鑑真は、日本初の本格的な戒壇を設けたほか、日本の律宗と天台宗の成立にも決定的な影響を与えました。21世紀の今も日中友好の象徴として語られる鑑真の生涯を追いながら、中国仏教と日本仏教の違いや、日本仏教の戒律の特殊性についても、わかりやすく解説します。
中国仏教の僧侶の読経は音楽的ですね。日本の寺と違って床は石なので、声の反響もいい。江蘇省泰州市の南山寺にて。 pic.twitter.com/zAhrY7nXek
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) October 24, 2024
がんじん【鑑真】
唐の帰化僧。揚州江陽県の人。日本律宗の祖。天平勝宝五年(七五三)、失明の身で仏像、律天台の経典を携えて来朝。東大寺にはじめて戒壇を設け、聖武天皇、孝謙天皇らに戒を授けた。のち大僧都となり、大和上の称号をうけ、天平宝字三年(七五九)唐招提寺を建立。来日の際の事情は、淡海三船(おうみのみふね)の「唐大和上東征伝」に詳しい。(六八八‐七六三)
鑑真 がんじん (687―763)
中国唐代の僧。日本の律宗(りっしゅう)の祖。過海(かかい)大師、唐大和上(とうだいわじょう)などと尊称される。揚州(江蘇(こうそ)省)の人。俗姓は淳于(じゅんう)。揚州大雲寺の智満(ちまん)について出家、南山律(なんざんりつ)の道岸(どうがん)(654―717)によって菩薩戒(ぼさつかい)を受け、その後、長安の実際寺で恒景(こうけい)を戒和上(かいわじょう)として具足戒(ぐそくかい)を受けた。洛陽(らくよう)、長安に住すること5年、その間に三蔵(さんぞう)を学び、道宣(どうせん)の弟子融済(ゆうさい)、満意の門人大亮(たいりょう)らに律学の教えを受け、また天台も兼学した。揚州に帰ったのちは大明寺にあって律を講じ、江准(こうわい)の化主(けしゅ)と仰がれ、その名声はとどろいた。そのころ733年(天平5)に日本僧の栄叡(ようえい)(?―749)、普照(ふしょう)(生没年不詳)が授戒伝律の師を求めて入唐(にっとう)していたが、742年に二人が鑑真を訪れ、弟子のなかに日本に渡って律を伝える人がいないか、募ってもらうよう請うた。それが機縁となり、鑑真は弘法(ぐほう)のため不惜身命(ふしゃくしんみょう)の思いに燃え、自ら弟子を率いて来朝した。来朝まで5回も渡海に失敗し、あるときは同行の僧の密告や弟子の妨害によって未然に終わり、あるときは海に乗り出してから風浪にもてあそばれて難破し、あるときは遠く海南島に流される労苦を味わい、12年の歳月を要して来朝した。その間、栄叡や弟子祥彦(しょうげん)の死に会い、自らも失明するに至っており、海路、陸上の旅で世を去ったもの36人、望みを放棄して彼のもとを去ったもの200余人に及んだ。しかし渡海の失敗が重なる間も、鑑真は各地で伝道教化(きょうげ)に励んだ。鑑真の伝記には在唐中の活動が総括されており、百数十遍の各種律典を講じ、寺舎を建立し、十方(じっぽう)の衆僧を供養し、さらに、仏像をつくること無数、一切経(いっさいきょう)を書写すること30部、戒を授けること4万有余に及んだ、と伝える。
753年(天平勝宝5)薩摩(さつま)(鹿児島県)坊津(ぼうのつ)に到着、翌754年入京した。聖武(しょうむ)上皇はその労をねぎらい、詔(みことのり)して鑑真に授戒伝律の権限を委任し、自ら鑑真を戒師として東大寺大仏の前で登壇受戒した。また従来の僧も旧戒を捨てて受戒し、ここに、かつて日本で行われたことのない10人の僧による三師七証(さんししちしょう)の受戒が成立した。翌755年には戒壇院(かいだんいん)もつくられ、それまでの度牒(どちょう)にかわって戒牒(かいちょう)を授ける制度が確立された。上皇崩御(ほうぎょ)後の756年(天平勝宝8)には大僧都(だいそうず)に任じられたが、老齢のためその任を解かれ、戒律の教導に専念することとなり、大和上(だいわじょう)の称が与えられた。759年(天平宝字3)、かねて与えられていた新田部(にいたべ)親王の旧宅をもって寺とし、これを唐招提寺(とうしょうだいじ)と称し、戒律研鑽(けんさん)の道場として衆僧に開放する制をたてた。また官寺における布薩(ふさつ)のための経済的裏づけを行うことと相まって、仏教の協同体意識を養い、いわゆる教団(僧伽(そうぎゃ)、サンガ)が初めて名実ともに確立するに至った。彼が将来したもののうち、天台典籍(てんせき)はのちに最澄(さいちょう)の天台宗開創の基盤となり、王羲之(おうぎし)父子の真蹟(しんせき)は書道の興隆に多大の影響を与えた。ともに来朝した弟子に法進(はっしん)(709―778)、思託(したく)(生没年不詳)などがあり、法進は戒壇院を継ぎ、思託は鑑真の伝記『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』(略称『大和上伝』)3巻を書いた。この書は現存しないが、これを略述した真人元開(まひとげんかい)(淡海三船(おうみのみふね))の『東征伝』1巻が現存する。鑑真の墓所は唐招提寺にあり、開山堂には国宝の鑑真像を安置する。
[石田瑞麿 2017年1月19日]
『安藤更生著『鑑真』(1967/新装版・1989・吉川弘文館)』▽『石田瑞麿著『鑑真――その戒律思想』(1974・大蔵出版)』
以下、『唐大和上東征伝』の一部を引用。 参考 「鑑真の伝記といわれる「唐大和上東征伝」はどのような資料か。現代語訳があれば読みたい。」https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000253648&page=ref_view 参考 国書データベース https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100183117/13?ln=ja |
日本天平五年、歳次は癸酉。沙門の栄叡と普照等は、遣唐大使・丹墀真人広成に随ひて唐国に至り留学す。是の年、唐の開元二十一年なり。
唐国の諸寺の三蔵大徳は、皆、戒律を以て入道の正門と為す。若し不持戒者が有らば、僧中に歯せず。是に於いて方に知る、本国に伝戒の人無きことを。
仍りて東都大福先寺の沙門道璿律師に請ひ、副使中臣朝臣名代の舶に附して、先に本国に向かひ去りて、伝戒者と為すことを擬す。 栄叡と普照は唐国に留学して已に十載を経。使を待たずと雖も而も早帰を欲す。是に於いて西京安国寺の僧、道航・澄観、東都の僧徳清、高麗僧如海を請し、又、宰相李林甫の兄・林宗の書を請得し、揚州の倉曹たる李湊に与へ、大舟を造り糧を備へて送遣せしむ。 又、日本国の同学僧たる玄朗・玄法の二人と倶に下りて揚州に至る。是の歳、唐の天宝元載冬十月、日本の天平十四年、歳次は壬午なり。 時に大和尚は揚州の大明寺に在り。衆の為に律を講ず。栄叡と普照とは大明寺に至り、大和尚の足下に頂礼して具さに本意を述べて曰く 「佛法は東流して日本国に至る。其の法有りと雖も、而も伝法の人無し。日本国に昔、聖徳太子といふ人あり。曰く『二百年後に、聖教は日本に興らむ』と。今、此の運に鍾る。願くは大和上は東遊して興化せよ。」 と。大和上は答へて曰く 「昔聞く、南岳思禅師は遷化の後に倭国の王子に託生して佛法を興隆し衆生を済度す、と。又、聞くならく、日本国の長屋王は佛法を崇敬し、千の袈裟を造りて此の国の大徳衆僧に棄施し、其の袈裟の縁の上に四句を繍著して曰く 『山川は域を異にすれども、風月は天を同じくす。諸の仏子に寄せて、共に来縁を結ばん』 と。此を以て思量するに、誠に是れ佛法興隆有縁の国なり。今、我が同法の衆中に、誰か此の遠請に応じて、日本国に向ひて伝法する者有らんや」と。 時に衆は黙然として一も対ふる者無し。良や久しくして、僧・祥彦といふもの有り、進みて曰く 「彼の国は太だ遠く性命は存し難し。滄海はE漫として百に一も至るものなし。人身は得難くして中国に生まるるは難し。進修して未だ備はらず。道果も未だ剋せず。是の故に衆僧は咸く黙して対ふる無きのみ」と。 大和上は曰く 「是れ法事の為なり。何ぞ身命を惜しまんや。諸人が去らざれば我が即ち去くのみ」と。 祥彦は曰く 「大和上が若し去かば、彦も亦た随ひ去かん」と。 爰に僧の道興・道航・神頂・崇忍・霊粲・明烈・道黙・道因・法蔵・法載・曇静・道翼・幽巖・如海・澄観・徳清・思託等二十一人が有りて、願ひて同心して大和上に随ひて去らんとす。 |
【原漢文】 日本国天平五年歳次癸酉。沙門栄睿・普照等、随遣唐大使丹墀真人広成、至唐国留学。是年唐開元廿一年也。 唐国諸寺三蔵大徳、皆以戒律為入道之正門。若有不持戒者、不歯於僧中。於是方知本国無伝戒人。 仍請東都大福先寺沙門道璿律師、附副使中臣朝臣名代之船、先向本国去、擬為伝戒者也。 栄睿・普照留学唐国、已経十載。雖不待使、而欲早帰。於是、請西京安国寺僧道抗・澄観、東都僧徳請、高麗僧如海、又請得宰相李林甫之兄林宗之書、与楊州倉曹李湊、令造大舟、備粮送遺。 又与日本同学僧玄朗・玄法二人、倶下至楊州。是歳唐天宝元載冬十月。日本天平十四年歳次辛巳也。 時大和上在楊州大明寺、為衆僧講律。栄睿・普照至大明寺、頂礼大和上足下、具述本意曰 「佛法東流、至日本国。雖有其法、而無伝法人。本国昔聖徳太子曰『二百年後、聖教興於日本』。今鍾比運。願和上東遊興化。」 大和上答曰 「昔聞、南岳恵思禅師遷化之後、託生倭国王子、興隆佛法、済度衆生。又聞、日本国長屋王、崇敬佛法、造千袈裟、棄施此国大徳衆僧、其袈裟縁上、繍著四句曰 『山川異域。風月同天。寄諸佛子。共結来縁』。以此思量、誠是佛法興隆有縁之国也。今我同法衆中、誰有応此遠請、向日本国伝法者乎。」 時衆黙然、一無対者。良久、有僧祥彦、進曰 「彼国太遠、性命難存。滄海E漫、百無一至。人身難得、中国難生。進修未備、道果未尅。是故衆僧咸黙無対而已。」 和上曰 「是為法事也、何惜身命。諸人不去、我即去耳。」 祥彦曰 「和上若去、彦亦随去。」 爰有僧道興・道杭・神項・崇忍・雲粲・明烈・道黙・道因・法蔵・老静・道翼・幽巖・如海・澄観・徳清・思託等廿一人、願同心随和上去。 |