(前略)中国では儒教の語はあまり用いられず、学派を意味する儒家、その学問をいう儒学の語によってこれを示すことが一般的である。儒教の語は、外来の仏教に対して300年ごろに生じたものであるらしく、後世に至るまで主として儒仏道三教を並称するような場合に使用されていた。(中略)ところが明治以後の日本では、学派、学問、教化のすべてを含んで広義に儒教と称するようになった。おそらくは世界史的視野にたってキリスト教、仏教、イスラム教などと並称する場合、やはり儒教とよぶことがもっとも便宜であったのであろう。儒教は宗教ではないが、その中国に果たしてきた役割からすると、欧米のキリスト教に匹敵するからである。(引用終了)
儒教(じゅきょう)は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に亘り強い影響力を持つ。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教(中国語版)ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。
じゅ‐きょう〔‐ケウ〕【儒教】 孔子が唱えた道徳・教理を体系化したもの。その学問内容を儒学という。儒教は、その国家教学としての規範性・体系性を強調した称。→儒学
【コア】柔らかい【初義】学問を修め、教養のある人【語源】古人は「儒は濡なり、柔なり、弱なり」と語源を捉えている。教養によって身を潤す人、あるいは、たけだけしい武人に対して、柔弱な文人が儒という解釈。これは正当な語源説である。
時代 | 有名な人物など |
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漢儒 | 漢の武帝に儒教の「国家教学」化を献策した董仲舒(とうちゅうじょ 前176?-前104?)など。 先秦時代の漢文古典に注釈を施し、古典を古典として読むようになるのは、漢代から。 |
唐儒 | 唐の皇帝に『論仏骨表』を奉った気骨の儒者・韓愈(かんゆ 768-824)など。彼は「推敲」の故事でも有名。 儒教では韓愈を「韓子」という敬称で呼ぶため、そのとばっちりで、戦国時代末の法家・韓非は「韓子」ではなく「韓非子」というイレギュラーな呼称で呼ばれる。 |
宋儒 | 「居敬窮理(きょけいきゅうり)」を重んじる朱熹(1130-1200)の朱子学など。近世東アジアの官学の基本となった。 |
明儒 | 「知行合一」を重んじる王陽明(1472-1529)の陽明学など。儒教の大衆化が進んだ。 |
清儒 | 「中国のルソー」とも呼ばれる黄宗羲(1610-1695)など(ちなみに「東洋のルソー」と呼ばれたのは日本の中江兆民)。黄宗羲は明王朝の滅亡(1644)後、清には仕えなかったので、本人の気骨を尊重し「明儒」にカウントするほうがむしろ多い。黄宗羲以降の清儒は「考証学」の傾向が強い。 |
新儒家 | 中華民国および中華人民共和国の時代に、私学化した儒教。 政治協商会議の場で毛沢東に自己批判するよう求めた気骨の知識人・梁漱溟(りょうそうめい 1893-1988)など |
本来の仏教の目指した最低限のことは、@徹底して平等の思想を説いた。A迷信やドグマを徹底的に否定した。B絶対神に対する約束事としての西洋的倫理観と異なり、人間対人間という現実において倫理を説いた。C「自帰依」「法帰依」として自己と法に基づくことを強調した。D釈尊自身が「私は人間である」と語っていたように、仏教は決して人間からかけ離れることのない人間主義であった――などの視点である。 |
大乗仏教圏 | 漢訳仏典を所依経典とする。北伝仏教。南はベトナムや東南アジア(の華人社会)、北は中国北端までの漢字文化圏が中心。日本や朝鮮半島も含む。 |
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上座部仏教圏 | パーリ語仏典を所依経典(しょえきょうてん)とする。南伝仏教。スリランカや、ベトナムを除く東南アジアが中心。 |
チベット仏教圏 | チベット語仏典を所依経典とする。北伝仏教。チベットとモンゴルが中心。 |
インド | 釈迦の母語はマガダ語であったが、所依経典はサンスクリット語とパーリ語。インドの仏教は13世紀までに衰微し、いったんは事実上、絶滅した(細々とは残っていた)。20世紀から、カースト制度に反対する人々を中心として、少しずつ復興しつつあり、日本からの「仏法西還(ぶっぽうせいかん)」運動も行われている。これは、古代インドから東方諸国への「仏法東漸(ぶっぽうとうぜん)」と対になる概念。 |
その他 | 欧米などの仏教徒は、日本人やチベット人の布教活動をきっかけに入信した人も多い。 |
植木雅俊『今を生きるための仏教100話』(平凡社新書、2019年)pp.340-341より引用
本来の仏教の目指した最低限のことは、@徹底して平等の思想を説いた。A迷信やドグマを徹底的に否定した。B絶対神に対する約束事としての西洋的倫理観と異なり、人間対人間という現実において倫理を説いた。C「自帰依」「法帰依」として自己と法に基づくことを強調した。D釈尊自身が「私は人間である」と語っていたように、仏教は決して人間からかけ離れることのない人間主義であった――などの視点である。 |
2014年のある統計によれば、中国の成人人口のうち仏教信者の割合は約16パーセントで、増加傾向にある。 無宗教:73.56% No religious belief 仏教 :15.87% Buddhism プロテスタント :2.19% Protestantism 道教:0.85% Daoism 民俗宗教 :0.81% Popular belief イスラム教 :0.45% Islam カトリック :0.34% Catholicism その他 :5.94% 出典 Religions & Christianity in Today's China, Vol. VII, 2017, No. 2, p.27 |
この宗教管理体制のもと、政府が宗教として認めた道教、仏教、イスラム、カトリック、プロテスタントの五宗教はそれぞれ 1950 年代に愛国宗教組織を設立した 2)。愛国宗教組織とは、共産党の指導の下で組織された、各宗教を統括・指導する団体であり、統一戦線工作部に属する。その役割は、政府と宗教組織の間の橋渡しであり、時に政府に代わり末端の宗教活動を管理する役割を持つ。現在では活動が合法であると認められるには、基本的にはそれらの愛国宗教組織に属し、なおかつ活動場所を各地方政府の宗教事務部門に登録する必要がある。その結果プロテスタントやカトリックでは政府の公認を受けた合法教会とその他の非合法教会とが並存している。本稿では、前者を「公認教会」、後者を「非公認教会」と便宜的に呼称する。(引用終了)
龍 | 鳳 | |
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姿 | 融合的・混沌 角は鹿、頭は駱駝、眼は兎、胴体は蛇、腹は蜃、鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛。 | 排他的・純粋 鳥そのもの |
人物 | 道家の祖・老子 『史記』老子列伝に載せる、孔子の言葉(現代語訳)。「走る動物は網を張れば捕えられる。泳ぐ動物は釣り糸で釣れる。飛ぶ動物は矢で狩れる。だが龍は違う。龍が風雲に乗じ天に昇る姿は、わからない。私が今日、会った老子は、龍のごとき人物だった。」 | 儒家の祖・孔子 『論語』微子篇「楚狂接輿、歌而過孔子。曰、鳳兮鳳兮、何徳之衰」 |
後世 | 皇帝の象徴 | 皇后の象徴 |
人往往憎和尚,憎尼姑,憎回教徒,憎耶教徒,而不憎道士。懂得此理者,懂得中国大半。 人は往々にして坊主を憎み、尼を憎み、ムスリムを憎み、クリスチャンを憎む。が、道士は憎まない。この理屈がわかれば、中国のことは大半わかる。 |
道教がカバーする範疇は、これを広く見れば中国呪術や陰陽五行やタオイズムの全般に及び、そこには神仙道から風水までが、易や漢方から導引術までが入る。狭くとれば教団道教の信仰具合や道士の祈祷だけになる。(中略)神農さんも錬丹術の葛洪も仙人たちも、老子(太上老君)も泰山府君も関羽(関帝)も、孫悟空が神格化した斉天大聖も日本では端午の節句に飾られる鍾馗(しょうき)さまも、いまでは漁業関係者や華僑たちから娘娘(ニャンニャン)と親しまれている「媽祖」(まそ)だって、みんな道教の神々なのでる。 (中略) @老荘思想を道教の源とみなす。 A老子を神格化して太上老君・元始天尊などとする。 Bそれゆえ「道」(タオ)を思想する。また「気」の身体への出入りを重視する。 C深山幽谷に住む仙人のイメージをふくらませて、長生長寿昇天を主たる教旨とする。 D古来の「卜占」「蠱術」や「鬼道」(シャーマニズム)を利用する。 E陰陽五行説や占星術や「易」を援用する。 F長生のための養生術を衣食住に及ぼし、さらに房中術(男女の性愛術)にも及ぼす。 G消災滅禍のための「方術」「道術」をつかう。またその訓練をする。 H錬丹術や錬金術を追求し、金丹などの薬物生成に長じる。 I独自の護符(霊符)を多用して、ときに調伏もする。 J神仙道と天師道を混合する。 Kしだいに教団をもつ「成立道教」(教会道教)と民間信仰として広がる「民衆道教」に分かれていく。 Lどんどん道教の神々をふやしていく。 M偽経も平気でどんどんつくる。 N風水も気功も、武術も漢方もとりいれる。 こんなふうに、いろいろなものが混じってタオイズムや道教になっていったわけだった。 おそらくは不老不死をキャラクタライズした神仙(仙人)を憧れる者たちの思いが根本の背景にあって、そこに老荘思想や陰陽五行説がまじっているうち、仏教が中国本土に入ってきたことをきっかけに独自の様相を呈するようになったのであろう。 |
どう‐きょう〔ダウケウ〕【道教】 中国、古代の民間信仰を基盤とし、不老長生・現世利益を主たる目的として自然発生的に生まれた宗教。のち、仏教への対抗上、神仙説など道家の思想、および仏教の教理儀礼が取り入れられた。5世紀前半、北魏の寇謙之(こうけんし)が教祖を黄帝・老子とし、張道陵を開祖として道教教団を形成した例もあるが、多くは民間信仰として発展。
道教 どうきょう Dao-jiao; Taoism
中国三大宗教 (儒教,仏教,道教) の一つ。道家,道学ともいう。中国古代の神仙思想を母体に,陰陽五行説,道家思想を加え,さらに仏教の影響をも受けて組織化された。後漢末 (2世紀末) ,張陵や張角によって創始された五斗米道や太平道は,呪術的な治病を中心とし,民衆に信仰されたが,六朝時代になると,仏教との抗争を通じて上記の各種思想をその体系内に組入れて教義を確立し,貴族間にも信仰されるようになった。5世紀,北魏の寇謙之の新天師道にいたって教団組織が確立され,儒仏二教に対抗して「道教」という術語が成立した。唐代には王室と結んで栄え,やがて全真教に代表される新道教も誕生した。現在はおもに台湾や東南アジアの中国人の間で信仰されている。
中元とはもともとは道教の習俗の1つで、旧暦7月15日のことです。この日に行われていた祭りに仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)が混ざり祖先の霊を供養する日とされるようになり、江戸時代以降は盆の礼として親類やお世話になった人に贈りものをする習慣へと発展して、現在のような形になりました。 |
お札は「神札」(神符とも)が正式名。お守りは「守札」が正式名です。両者を「護符」と総称します。これらの護符は、日本古来の信仰と外来宗教の風習が合わさることで生まれました。(中略) 外来宗教とは道教のことです。道教は中国の民衆宗教です。道教では寺院が発行する護符(呪符、霊符、秘符などさまざまな呼び名がある)を貼り、災厄をのがれるという風習が一般的でした。この道教の風習が、日本古来の信仰と合体し、新名・御姿・記号などを記した「お札」「お守り」が生まれました。 |
ユダヤ教 ユダヤきょう Judaism
ヘブライ(ユダヤ)人が信仰する民族的一神教
前6世紀,“バビロン捕囚”から解放された人びとがイェルサレムに神殿を建てて成立させたもの。その特色は,シナゴーグ(教会堂)を中心に唯一絶対の神ヤハウェ(ヤーヴェ)を礼拝し,いっさいの偶像を否定する。『旧約聖書』を聖典とし,モーセの十戒 (じつかい) を基礎とする律法主義に立つ。自分たちが神に選ばれた民であるとする選民思想や,終末思想・メシア待望などを特色とする。紀元後1−2世紀に起こした反乱がローマ帝国によって鎮定されてからは,ユダヤ人は追放されて他郷を放浪することになるが,6世紀にはタルムード(儀式・日常生活の規定)ができ,ユダヤ教徒としての民族的団結は維持された。その唯一神観はキリスト教出現の母体となり,またイスラームの成立にも影響を与えている。
キリスト‐きょう〔‐ケウ〕【キリスト教】
仏教・イスラム教と並ぶ世界三大宗教の一。イエスをキリストすなわち救世主と信じる宗教。神の国の福音を説き、人類の罪を救済するために自ら十字架につき、復活したイエス=キリストを信仰の中心とする。ユダヤ教を母体として1世紀中ごろパレスチナに起こり、4世紀末ローマ帝国の国教となる。欧米を中心として世界各国に広まっている。ローマ‐カトリック教会・東方正教会・プロテスタント諸教会の三つの流れがある。耶蘇(やそ)教。
イスラム‐きょう ‥ケウ【イスラム教】
[名] 七世紀前半、アラビア半島の西部、ヒジャーズ地方のメッカの人マホメットが、メッカ郊外のヒラー山中の洞窟でアラーの啓示を受けたことにより始まった宗教。啓示を集録したコーランを教典とする。教義の内容は信仰(イーマーン)と義務(イバーダード)に分けられ、前者はアラーを唯一全能の神と信ずること、天使の存在、啓示の真実、預言者の正統性、終末と来世の存在、最後の審判を信ずることであり、後者はイスラム教の五柱と呼ばれる信仰告白、礼拝、断食、救貧税、メッカへの巡礼の五つの義務を守ることである。偶像崇拝を認めない。預言者マホメットの死後もハリーファ(カリフ=預言者の代理者の意)たちにより布教活動が続けられ、死後一〇〇年ほどの間に世界宗教となった。現在では、西南アジア、北アフリカ、東アフリカ、インド、中央アジア、東南アジア等に広まる。回教。マホメット教。フイフイ教。
かいきょう【回教 Huí jiào】
イスラムに対する中国の称呼。日本でも用いられた。中国でイスラムを回回教(回教)と呼ぶようになったのは明代(1368‐1643)である。その由来は,遼代(10〜11世紀)に中央アジアの民族を呼ぶ回回という語があり,これは回紇(ウイグル)の語音の転じたもので,回紇が住んでいた中央アジアにイスラム教徒が多かったことによる。元代には回回は広くイスラムを指す語になった。中国の回民(回族)はイスラムを伊斯蘭と呼び,その教徒を穆斯林(ムスリム)と呼ぶ。
幕末期、最初にキリスト教を受け入れた人々の中には旧武士階級が多かったようである。これらの人々にとって、慣れ親しんだ<読み言葉>のひとつは漢文であった。また中国ではすでに早くからキリスト教が伝えられ中国語聖書の翻訳もなされていた。関西学院の創立者たちも上海から転任してきた宣教師たちが中心であり、したがって漢訳聖書に返り点をうった「訓点聖書」が明治期初頭のキリスト教伝道活動においても積極的に用いられるようになった。現在一般化されているキリスト教用語は、この漢訳聖書〜訓点聖書によって日本語化されたものである。聖書の日本語訳は新約から進められたので、旧約の部分はまずこの訓点聖書が最初に出版されたようである。その意味でもここに紹介する創世記は、日本最初に出版された旧約書であったと言える。