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人物で知る中国〜士大夫とは
最新の更新2024年7月21日 最初の公開2024年7月21日
2024年7月23日火曜15:30-17:00 朝日カルチャーセンター千葉にて。対面+オンライン(見逃し配信つき)。
以下、朝日カルチャーセンターの公式サイト https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7190704 より自己引用。引用開始
「士大夫」は、紀元前11世紀から20世紀初頭まで、3千年にわたり旧中国社会の政治・軍事・学問・文芸をささえた中流実務階層です。儒教の開祖・孔子も、三国志の諸葛孔明も、唐の詩人で紫式部や清少納言にも影響を与えた白居易も、みな士大夫でした。中国史の真の支配者は皇帝ではなく、大臣や官僚を輩出した士大夫階層だったかもしれません。日本史にも多大の影響を与えた「士大夫」という存在について、豊富な図版を使いながら、予備知識のないかたにもわかりやすく説明します。(講師・記)
引用終了
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kIQdocFN78ijPSg60cuC5d
○ポイント、キーワード
- 「士」と「漢」
士大夫は「士」、つまり座学系エリート知識人。君主を支え民を統治する中間支配階層であり、頭脳や技術によって社会に貢献する中理由実務階級でもある。
「漢」は、血や汗を流して働く熱き男たちの意で、「侠」(きょう。おとこぎ)で結びつく。
中国の歴代王朝の開祖は「漢」だが、建国後の王朝の永続性と安定化をもたらすのは「士」であった。
歴代の権力闘争は、おおむね、「士」vs「それ以外(宗室、門閥貴族、宦官、軍閥、etc)」という図式であった。
参考 加藤徹著『貝と羊の中国人』新潮新書、加藤徹「男がほれる男の条件 中国編」(月刊『歴史街道』2004年5月号)
- 士大夫
したいふ、と読む。
古代中国の周王朝の社会身分は、天子(王)・諸侯(公・侯・伯・子・男)・卿・大夫・士・庶民・奴婢、などと分かれていた。
江戸時代の武家社会にたとえると、諸侯は大名、卿は家老、大夫は奉行、士は武士にあたる。
士大夫は諸侯の下、庶民の上の中間支配階層であった。
古代中国の「四民」は「士農工商」(『管子』匡君小匡)ないし「士商農工」(『春秋穀梁伝』成公元年)であり、大夫までを支配層、士以下を被支配層とする考え方もあった。また中国でも日本でも、近代初期までは人民を「士民」と呼ぶことがあった。
士大夫は約三千年の歴史をもつ由緒ある言葉であるが、その言葉が指し示す意味用法は時代や地域によって大幅に変わってきたので、注意が必要である。
- 士 し
東アジアの伝統社会の中間支配階級。中国の士大夫階級(読書人階級)、朝鮮王朝の両班、近世日本の武士などは「士」であり、儒学を典範とした。cf.asahi20230413.html#01
士の字源には諸説あり「地面にまっすぐに立てた武器の形」ないし「男性器」説があるが、一人前の男性を示す象形文字であるという点では一致している。「仕」も同系の漢字。
なお「志」は、現在の書体では「士」の下に「心」だが、古代文字の書体では「足」=「之」(ゆく)の下に「心」であった。
- 大夫 たいふ
本来は古代中国の、中級以上の官人を指す。
日本史では、古代の律令制で一位以下五位までの者を「大夫」と呼んだが、特に五位の官人の通称として「大夫」が多く使われた。
古代日本の宮中における宗教儀礼の運営や芸能の上演は、「大夫」こと五位の官人がになうことが多かった。そのため日本に限って、後世、宗教関係者や芸能者の一部を「大夫」と呼び、「たいふ」という発音から「太夫」とも書くようになった。
「山椒大夫」(山椒太夫9、高尾太夫(たかおだゆう)、義太夫(ぎだゆう)、毒蝮三太夫(どくまむしさんだゆう)の「大夫/太夫」は、語源的には古代中国の士大夫と関連があるものの、意味用法としては関連が薄い。
日本では、漢文古典由来の「大夫」のほうが、「太夫」より由緒正しい表記であるとする意見もあるが、近年はあまり気にされなくなっている。
参考 日本経済新聞「文楽の芸名「太夫」に戻します 「大夫」から60年ぶり」2016年3月14日 21:23
咲寿大夫「太夫は何故たゆうとだゆう?文楽の咲寿太夫がお答えします。」2020-03-28 22:44:37
- 漢文古典と東アジア
日本、中国、朝鮮半島など漢字文化圏では、漢文古典の「士大夫」像の影響が、近世まで残っていた。
日本では江戸時代以降、武士が儒教を学び文武両道の「日本版士大夫」となろうとした。
中国では北宋以降、科挙官僚が狭義の士大夫となった。
朝鮮半島では、両班(りょうはん。ヤンバン)と呼ばれる貴族層が「朝鮮版士大夫」を形成した。
○辞書的な説明
- 『日本大百科全書(ニッポニカ) 』より引用
士大夫 したいふ
一般に、旧中国社会で上流階級をさす語。古代には天子、諸侯、大夫、士、庶民の5階級があったと伝えるが、天子、諸侯は大小の君主で特別なものであるから除外すると、大夫と士が支配階級であり、被支配階級の庶民と対立した。統一国家、漢の下で士と庶民の別がなくなったが、新たに官吏と人民との別が生じ、官吏の地位が世襲的となり、士族と称せられ、六朝(りくちょう)を中心とする貴族政治の時代が出現した。宋(そう)代以後になると世襲貴族が没落し、かわって科挙による官僚階級が形成され、士大夫、読書人などと称せられた。彼らの間では学問とともに高雅な趣味が尊ばれ、たとえば彼らが余技として描く絵画は士大夫画(文人画)とよばれ、職業画家の絵よりも高く評価された。この形勢は清(しん)末まで続いた。
[宮崎市定]
- 『山川 世界史小辞典 改訂新版』より引用
卿・大夫・士(けい・たいふ・し)
周王や諸侯の臣下を卿・大夫・士といい,その下の庶人と区別された。『礼記』(らいき)によれば,天子(周王)には三公,九卿,二七大夫,八一元士が並び,諸侯には上大夫卿,下大夫,上士,中士,下士の5等があった。諸侯には公,侯,伯,子,男の5等があったが,戦国時代以降は庶民にも爵が与えられて20等爵にふえた。公士,大夫などの名称が残り,士大夫も有職者のことをいう。
○略年表
- 前11世紀ごろ、西周王朝が成立。天子、諸侯、大夫、士、庶民など身分制による封建社会が始まった。
- 前6世紀後半、士を父に巫女を母にもつ孔子(asahi20230413.html#01)は、学問と道徳にすぐれた「士君子」(しくんし)のための教養学問大系としての儒教を創始した。
孔子は「文」を重んじたが、父ゆずりで「武」にもたけており、古代中国の「士」は座学と実技の双方を重視する文武両道だった。
士の必修科目であった六芸(りくげい)は「礼・楽・射・御(ぎょ)・書・数」であり、このうち射と御は戦争の技術でもあった。
- 前202年、前漢王朝が成立。
初代皇帝の劉邦(「漢」タイプの人物で、「侠」の親分肌)は、戦後の論功行賞で、補給などの後方を担当した蕭何(しょうか asahi20211014.html#03)を戦功第一に選んだ。
蕭何は、無名時代は劉邦と同郷の田舎の役人だったが、士大夫肌の人物だった。
- 前136年、前漢の武帝(asahi20220120.html)の時代、学者の董仲舒(とうちゅうじょ)の献策により儒教が漢の「国教」(国家教学)となった。
ただし、漢はまだ軍事優先の時代だったため、漢の「士大夫」は軍隊の将校や士官を指すことも多かった。
- 184年、後漢の末に「黄巾の乱」が起き、三国志の英雄たちが活躍する時代が始まる。
後漢から三国時代にかけては士大夫の上層である「名士」階層が活躍した。
曹操(そうそう。asahi20230125.html)は実力者だったものの、「名士」層を心服させられず、後世の三国志の物語では悪役をふられた。
諸葛孔明(しょかつこうめい asahi20230718.html)は対照的に、後世からも「士大夫の典範」とされた。
- 220年、魏王朝が成立。文帝(曹丕(そうひ)。曹操の息子)は、新しい官吏登用制度「九品官人法」を採用し、官位の高下に家柄が反映するようにした。これが中国の貴族制度の淵源となり、魏晋南北朝時代においては「士大夫」が世襲貴族的な意味で使われるようになった。
- 227年、諸葛孔明が、蜀の後主・劉禅に上奏文「出師表」(すいしのひょう)を提出。これは「諸葛孔明の出師の表を読みて涙を堕さざれば、その人、必ず不忠」と激賞され、後世の士大夫の必読の文献とされた。
以下、昭和の戦時下の新聞連載小説であった、吉川英治『三国志』出師の巻、より引用。引用元はhttps://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52418_51069.html(青空文庫)。引用開始
加うるに、劉備も孔明も、いささか関羽の勇略をたのみすぎていた。忠烈勇智、実に関羽は当代の名将にちがいなかった。けれどそれにしても限度がある。ひとたびその荊州の足場を失っては、さすがの関羽も、末路の惨(さん)、老来の戦い疲れ、描くにも忍びないものがある。全土の戦雲今やたけなわの折に、この大将星が燿(よう)として麦城(ばくじょう)の草に落命するのを境として、三国の大戦史は、これまでを前三国志と呼ぶべく、これから先を後三国志といってもよかろうと思う。「後三国志」こそは、玄徳の遺孤(いこ)を奉じて、五丈原頭に倒れる日まで忠涙義血に生涯した諸葛孔明が中心となるものである。出師(すいし)の表を読んで泣かざるものは男児に非ずとさえ古来われわれの祖先もいっている。誤りなく彼も東洋の人である。以て今日の日本において、この新釈を書く意義を筆者も信念するものである。ねがわくは読者もその意義を読んで、常に同根同生の戦乱や権変(けんぺん)に禍いさるる華民の友国に寄する理解と関心の一資(し)ともしていただきたい。
- 482年、南斉(南北朝時代の南朝の斉)の武帝が即位。
南北朝時代の士大夫は世襲貴族であり、国家が滅び皇帝の家が滅ぼされてもしたたかに生き残り、強固なステイタスを築きあげていた。
武帝の寵臣・紀僧真は、低い身分の出身であったが、士大夫らしい風格はあった。紀僧真が武帝に「陛下のお力で、私を士大夫にしてください」と懇願したところ、武帝は「自分で有力士大夫のもとに行って、相談しなさい」と答えた。皇帝といえども、士大夫のステイタスはコントロールできなかったのだ。紀僧真は有力士大夫のもとへ行った。当時のこしかけは「床榻」(しょうとう。寝台もしくはこしかけ)で、大きいものが「床」で、細長いものが「榻」だった。紀僧真は、武帝の側近の寵臣ではあったものの、身分は低かったので、遠慮して榻に座った。どうぞ上座へ、という言葉を士大夫である主人からかけてもらえることを期待したが、主人は左右の者に「私の床(大きなこしかけ)を運んできて、座らせてあげなさい」と命じただけだった。紀僧真はがっかりして退出すると、武帝に「士大夫はもとより、天子のご命令でなったものではありませんので、しかたありませんなあ」と言った。(出典:「先是中書舍人紀僧真幸于武帝,稍暦軍校,容表有士風。謂帝曰:「臣小人,出自本縣武吏,邀逢聖時,階榮至此。為兒昏,得荀昭光女,即時無復所須,唯就陛下乞作士大夫。」帝曰:「由江斅、謝淪,我不得措此意,可自詣之。」僧真承旨詣斅,登榻坐定,斅便命左右曰:「移吾床讓客。」僧真喪氣而退,告武帝曰:「士大夫故非天子所命。」時人重斅風格,不為權幸降意。」)
- 598年、隋の時代に、官吏登用試験である「科挙」が始まる。
- 638年、唐の太宗(asahi20201008.html#04)は『貞観氏族志』(じょうがんしぞくし)を配布し、貴族(士大夫)より格下だった自分の家柄を天下一に格上げしようとしたが、成功しなかった。以下、内藤湖南「概括的唐宋時代觀」(青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1736_21420.html)より引用。
かくの如き名族は、當時の政治上の位置から殆ど超越して居る。即ち當時の政治は貴族全體の專有ともいふべきものであつて、貴族でなければ高い官職に就く事が出來なかつたが、 しかし第一流の貴族は必ず天子宰相になるとも限らない。ことに天子の位置は尤も特別のものにて、これは實力あるものゝ手に歸したるが、 天子になつても其家柄は第一流の貴族となるとは限らない。唐太宗が天子になれるとき、貴族の系譜を調べさせたが、 第一流の家柄は北方では博陵の崔氏、范陽の盧氏などにて、太宗の家は隴西の李氏で三流に位するといふことなりしも、此家柄番附は、天子の威力でもこれを變更する事が出來なかつた。
- 690年、武則天(則天武后。asahi20210408.html#04)が皇帝に即位。中国史上、唯一の女帝。
彼女は、新興の科挙官僚(地方の低い身分の出身者が多く、新しいタイプの士大夫)と結ぶことで、旧来の門閥貴族と対抗した。
- 712年、玄宗皇帝(asahi20210114.html#01)が即位。武則天の孫。
彼は、宗族、門閥貴族、外戚、科挙官僚、宦官、軍閥(節度使、外国出身者)などを互いに競わせることで権力を維持しようとしたが、最終的に「安史の乱」で破綻した。
- 772年、唐の中期、白居易(白楽天 asahi20230713.html#04)が誕生。
白居易は、科挙官僚(新しいタイプの士大夫)。地方官吏の次男に産まれ、800年に科挙の最終試験に合格して「進士」となった。
彼は、儒教・仏教・道教の「三教」を教養のバックボーンとする知識人であり、官は刑部尚書(司法省の長官)に至ったほど実務能力にもたけたうえ、漢詩の名作を多数、発表し、同時代の日本でも絶大な人気を得た。
香炉峰のもと、新たに山居を卜し、草堂初めて成り、偶たま東壁に題す
日高睡足猶慵起 日高く睡(ねむ)り足りて なお起くるに慵(ものう)し
小閣重衾不怕寒 小閣に衾(しとね)を重ねて 寒きを怕(おそ)れず
遺愛寺鐘欹枕聴 遺愛寺の鐘は 枕を欹(そばだ)てて聴き
香炉峰雪撥簾看 香炉峰の雪は 簾(すだれ)を撥(かか)げて看る
匡廬便是逃名地 匡廬(きょうろ)は便ち是れ 名を逃るるの地
司馬仍為送老官 司馬はなお 老(おい)を送るの官為(た)り
心泰身寧是帰処 心泰く 身寧きは 是れ 帰する処
故郷何独在長安 故郷 何ぞ独り 長安に在るのみならんや
この漢詩は、清少納言の挿話でも有名。
以下『枕草子』第299段より引用。
雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子(みこうし)まゐりて、炭櫃(すびつ)に火おこして、物語などしてあつまりさぶらふに、「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾(みす)を高く上げたれば、笑はせたまふ。人々も「さる事は知り、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ。なほこの宮の人にはさべきなめり」と言ふ。
- 907年、唐が滅亡し、五代十国時代が始まる。
半世紀の乱世のあいだに、中国の貴族制は完全に消滅した。
この乱世にあって、「五朝八姓十一君」に仕えた馮道(ふうどう。asahi20221013.html#04)は、地方出身の文人政治家であり(すぐれた漢詩をたくさん読み、乱世であったにもかかわらず儒教の経書の木版印刷事業にも注力した)、士大夫の底力を後世に示した。
- 960年、趙匡胤(ちょうきょういん。asahi20200625.html#04)が北宋を建国。
彼は「太祖碑誓」(たいそひせい。石刻遺訓)で、歴代の子孫に対して、士大夫を殺してはならぬ、という秘密の遺言を残し、文治国家を目指した。北宋以降、新しいタイプの士大夫である科挙官僚が、中国の政治と文化の主軸をになうようになった。
以下、asahi20240423.html#01より自己引用。
10世紀後半から20世紀初頭までは、科挙官僚を輩出する社会階層「士大夫」が、国家の屋台骨を支えた。
宋からは、科挙による官僚階級が「士大夫」「読書人」などと称せられた。その多くは地方の地主の家の出身者だった。士大夫は政治だけでなく、漢詩や音楽(琴学)、絵画など文化芸術でも中国の雅の文化を支えた。士大夫が描く「文人画」は、職業画家である「画工」の絵より芸術的に高く評価された。宋に始まる新士大夫時代は、20世紀初頭の清末まで続いた
- 1036年、蘇軾(そしょく。asahi20240411.html#05が誕生。
彼は、地方の小地主階層の出身の科挙官僚で、「赤壁(せきへき)の賦(ふ)」はじめ数多くの漢文学の名作と、書道作品の傑作を残した。
- 1510年、明の正徳帝に仕え、国政を壟断した宦官の劉瑾(りゅうきん asahi20220714.html#05)が処刑される。
科挙官僚(士大夫)勢力と、それ以外の勢力が対立抗争し、両者のバランスのうえに皇帝が君臨するという中国政治権力史の構図のひとつ。
- 1644年、清(しん)の入関。
- 1840年、アヘン戦争が勃発。「清末」(しんまつ。中国語では「晩清」)が始まる。
清末の中国をささえた林則徐(asahi20240111.html#06)、曽国藩(asahi20230112.html#04)、李鴻章(20210708.html#05)は科挙に合格した「士大夫」であり、太平天国の乱を起こした洪秀全(asahi20231012.html#05)は科挙に合格できなかった、いわば「士大夫くずれ」であった。
- 1905年、清は科挙を廃止。
中国の優秀な若者は、海外留学を「洋科挙」と見なすようになった。
- 1912年、清が滅亡。中華民国元年。
革命によって、士大夫という社会階層は消滅した。
ただし、その後も、士大夫的な気風をもつ人々は中国社会に存在しつづけた。
○その他
- 毛沢東(asahi20200625.html#06)は清末の生まれで、漢詩を詠み、独特の字の書をあちこちに揮毫するなど、士大夫の気風をもっていた。
- 中国社会で「士大夫」という中間支配層が長く存在した一因は、「民は『眠』である」「民は由らしむべし。知らしむべからず」つまり人民大衆は物事が見えない愚民であるというのが中国社会の「常識」だった(である)ことにある。それゆえ、思想的に目覚めたエリート「士大夫」および士大夫的な階層が社会を統治しなければならない、という発想が、中国では根強かった(根強い)。
例えば、横山宏章『中国の愚民主義 「賢人支配」の100年』平凡社新書の内容は以下のとおりである。以下、http://naxos.ex.nii.ac.jp/book/9784582857290.htmlより引用。
民主化の課題が相変わらず放置されつづける中国。中国共産党はこれまでも民主化を口にしながら、人民を政治から排除した国家建設を推し進めてきた。その根底には伝統的な支配形態として、人民大衆を愚民と決めつけ、彼らに政治的権利を与えない「愚民思想」がある。
- 過去の中国権力闘争史で往々にして見られた「士大夫 vs それ以外」という対立は、形を変えて、20世紀以降も続いた。
仮に、エリート的な知識分子を「士」、紅衛兵もふくむ「愚民」的な大衆を「漢」と呼ぶなら、
毛沢東時代は「漢 > 士」
ケ小平時代は「士 > 漢」
習近平時代は「漢 > 士」
と、潮流が変わってきた。次の逆転はもう始まりつつある、という観測もある。
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