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人物で知る中国〜 前漢の武帝

教室+オンライン併用講座 朝日カルチャーセンター・千葉教室
最新の更新2022年1月17日    最初の公開2022/01/17

漢の武帝
 以下[朝日カルチャーセンター・千葉教室のサイトの頁]から引用。引用開始。
 2千年前の漢は強大な帝国でした。 今も漢民族の誇りです。「漢字」「漢民族」の語源も、漢王朝です。前2世紀、前漢の最盛期に君臨した武帝は 日本を含む東アジアの歴史に大きな影響を残しました。領土を拡張し、儒教を国家教学化し、元号の制度を始めるなど。武帝の生涯と、現在の日本や朝鮮半島にまで残る彼の影響について解説します。
日時 2022年1月20日木曜 15:30−17:00
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別名:廟号(びょうごう)は世宗。姓名は劉徹
生没年:前156年−前87年(享年七十) 在位は前141年−前87年(足かけ55年)
主な事蹟:高祖劉邦の曽孫、前漢第7代の皇帝。儒教の国家教学化を公認、政治や文物の制度を強化、四方への外征を盛んに行った。
評価:武帝の時代の中国の国力は、ざっくり見積もって始皇帝の時代の二倍になっていた。武帝は政治・経済・文化の面で強大な中華帝国を作ることに成功したが、国庫の蓄積を蕩尽したり、専売制により民生を圧迫するなど、その功罪をめぐる評価は今も論議が尽きない。

○ポイント
 武帝の時代は前漢の最盛期で、国力は秦の始皇帝の時代のざっと2倍になった。
 物量で満ち足りた武帝は、質を目指し、権威装置としての文化、を活用した。
 彼は、いわゆる「文化威信スコア」的な価値を理解しており、モノとしての威信財だけでなく、文化威信スコアの高いコト(文化イベント)やソフトパワーの創造に力を入れた。
 武帝は、
  泰山で「封禅」(ほうぜん)の儀式を行い、
  儒者・董仲舒の献策をいれて儒教の国家教学化を承認し(異説もある)、
  文人の司馬相如を出仕させて自分の栄光を「上林の賦」に詠ませ、
  歴史家の司馬遷(司馬相如とは赤の他人)を太史令や中書令(宦官の職掌)に任じ、
  柏梁台という豪華な箱物を築いて群臣に詩句を作らせる(柏梁体)
など文化活動にも力を入れた。武帝は、権威装置としての「サロン」の効用を理解した最初の帝王だった。

○キーワード
○略歴
〇さまざまな「武帝」
 「武帝」という諡号(しごう)を死後におくられた帝王は多い。
 単に武帝と言うと「漢武」こと前漢の武帝(劉徹)を指すことが多いが、魏の武帝(曹操)、西晋の武帝、梁の武帝、その他を指すこともある。

〇武帝に関連する成語
★傾城傾国(けいせいけいこく)、傾国の美女・・・李夫人の故事
★歓楽極まりて哀情多し(かんらくきわまりてあいじょうおおし)・・・武帝が詠んだ漢詩「秋風辞」の一節「歓楽極兮哀情多」から。楽しみ尽きて哀しみ来る。
★張騫鑿空(ちょうけん さくくう)・・・武帝が張騫(ちょうけん ?−前114年)を西域に派遣した故事
★星槎を泛かぶ(せいさをうかぶ)・・・俗世間を離れること。張騫が筏(いかだ)に乗って天の川まで至った、という説話に基づく。
★汗血の馬(かんけつのうま)・・・汗血馬(かんけつば)。武帝が、寵愛している李夫人の兄・李広利を「弐師将軍」に封じて西域の大宛国に遠征させて獲得した駿馬の種類。血のように赤い汗を流し、一日に千里を走ったという。
cf.坂崎紫瀾(さかざき しらん)の伝記小説『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)・・・坂本龍馬が有名人になるきっかけとなった小説 ★反魂香(はんごんこう)・・・武帝が李夫人と死別したあと、道士に命じて霊薬を金の炉で焚き上げさせ、煙の中に夫人の姿を見たという故事。日本の歌舞伎の『傾城反魂香』や落語『反魂香』の元ネタ。
★立子殺母(りっしさつぼ)・・・外戚(がいせき)の専横を未然に防ぐ目的で、息子を後継者に指名するのとあわせて、その生母を始末すること。武帝はその先例を開いた。

〇日本への影響

〇武帝の政治的事蹟
★内政 知識人の活用と中央集権
 「郷挙里選」という官吏任用法を採用し、各地の有能な人材を推挙させ、中央集権を強化した。
 「推恩の令」を出し、遺産相続の兄弟平等化をすすめることで、諸侯王の領土を細分化して諸侯王の権勢を弱め、中央集権を強化した。
 董仲舒の献策をいれて五経博士を設置、儒教を官学とする道をつけた。
 商人あがりの政治家・桑弘羊の献策をいれて、均輸法・平準法や、塩・鉄・酒の専売制を始めて国家の財源を確保したが、民生や民間の自由な商業を圧迫した。cf.『塩鉄論』
★外征 積極的な軍事行動
 北方遊牧民族の国・匈奴(きょうど)への外征。衛皇后の弟である衛青と、その甥の霍去病(かくきょへい)の両将軍に匈奴を攻めさせた。
 対匈奴軍事作戦の一環として、張騫を西域の大月氏国に派遣し、シルクロードの交易にも多大の影響を与えた。
 南越国(現在の広東省、広西省、ベトナム北部)に大軍を派遣して前111年に征服し、南越九郡(南海九郡とも。南海郡、蒼梧郡、合浦郡、鬱林郡、交阯郡、九真郡、日南郡、珠崖郡、儋耳郡)を置いた。
cf.いわゆる「魏志倭人伝」の一文「有無する所、儋耳・朱崖と同じ」。
 紀元前109年、武帝は現在の雲南省東部にあった滇(てん)を征服し、益州郡を置いた。
 前108年、朝鮮半島に遠征し「漢の四郡」を置いた。

〇武帝と女性たち
 武帝が登場するまでの前漢は、始皇帝の秦にくらべても、地味な王朝だった。高祖劉邦の建国、未亡人である呂后の専権、文景の治(文帝と景帝の治)、など、宮廷内の波風は民間の生活に悪影響を与えることはなく、人民は休息し、国庫は豊かになった。
 景帝の十男(九男説もある)で「彘」(てい、ブタの意)という幼名を与えられた劉徹は、本来なら、ただの皇子として平凡な生涯を送るはずだった。しかし、祖母である竇氏(文帝の皇后)の強い意向で、先に皇太子に立っていた異母兄を押しのけて、前141年、数え十六歳の若さで即位した。皇后になったのは、竇氏の孫娘でいとこである陳皇后だった。
 気位の高いセレブであった陳皇后との夫婦仲は悪かった。武帝は、姉の平陽公主のやしきのコーラスガールで、私生児であった衛子夫を見初めた。衛子夫は武帝の長男を産み、衛皇后となり、一族もとりたてられたが、最晩年は「巫蠱の乱」で息子ともども悲惨な最期をたどった。
 その他にも、武帝は生涯で数多くの女性を寵愛した。なかでも「傾国の美女」「傾城」の由来となった李夫人は有名。
 武帝が生涯で最後に寵愛した鉤弋夫人(こうよくふじん)、別名、趙ul(ちょうしょうよ)または拳夫人は、武帝の末子でのちに第八代皇帝・昭帝となる劉弗陵(前94年-前74年)を生んだ。武帝は、劉弗陵を後継者に指名するにあたり、鉤弋夫人を殺害させた(史学界ではこのようなやりかたを「立子殺母」「子貴母死」と呼ぶ)。


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