HOME > 授業教材集 > このページ

出土品が語るリアルな「三国志」

最新の更新2019-7-13  最初の公開 2019-7-13

 以下、朝日カルチャーセンター・新宿教室のサイトより。
 7月9日(火)から9月16日(月・祝)まで東京国立博物館で特別展「三国志」が開催されます。近年、曹操(155年-220年)の墓とされる「曹操高陵」の発掘をはじめ、三国志の時代の研究に新しい展開が見られます。本講座では「三国志」展にも出展される発掘成果の出土品をいくつか紹介しつつ、時代背景と、昔の生活の実像をリアルに再現する面白さと困難さについて解説します。「曹操高陵」の真偽をめぐる論争や、中国の名人芸レベルの贋作や盗掘の技、歴史学者と考古学者の仲の悪さなど、裏話にも言及します。中国史の予備知識のないかたも理解できるよう、映像資料も使ってわかりやすく解説します。
2019/7/13 土曜 10:30〜12:00
参考サイト
Twitter 【公式】特別展「三国志」
公式サイト 特別展「三国志」

参考動画 YouTube

「歴史」の難しさと危うさ
〇文学系と歴史学系と考古学系
 文学系は伝承を、歴史学系は史実を、考古学系は事実を重視。
 文学者は「伝世品の文芸作品」を優先。「思ったこと」を重視。
 歴史学者は「伝世品の文献」を優先。「書かれたこと」を重視。
 考古学者は「出土品の文物」を優先。「書かれなかったこと」を重視。
 実はそれぞれ一長一短。
参考 以下、中島敦の小説「文字禍」(青空文庫のこちら)より引用。
(前略)若い歴史家は、次のような形に問を変えた。歴史とは、昔、在った事柄をいうのであろうか? それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?
 獅子狩と、獅子狩の浮彫うきぼりとを混同しているような所がこの問の中にある。博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次のように答えた。歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌しるされたものである。この二つは同じことではないか。
 書洩らしは? と歴史家が聞く。
 書洩らし? 冗談ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。(引用終了)

〇三国時代の問題点
 後世の人気が高すぎること。一般の三国志ファンは、
  現代の「三国志」アレンジ系・インスパイア系コンテンツ
  古典小説『三国志演義』
  正史「三国志」
  出土文物
の順に、三国志のマニアックな世界にはまってゆく傾向があるが、これは2世紀から3世紀当時の史実の距離から見ると真逆である。
 『演義』も相当、史実をねじ曲げて話を盛っているが、三国時代を研究対象とする歴史学者の多くは『演義』ファンでもある。
関尾史郎『三国志の考古学』副題「出土資料からみた三国志と三国時代」 (東方選書 52、2019/6/24)より引用
「はしがき」より引用。引用開始。
 三国時代は、『三国志演義』とそのもとにもなった「正史」の『三国志』の存在感があまりに大きいためもあってか、出土資料への注目度はなかなか高くならない。本書はそのような傾向に抗って、副題に示したように、走馬楼呉簡をはじめとする出土資料を紹介しながら、それらを手がかりとして『三国志』と三国時代について考えてみたものである。取り上げた出土資料には三国時代(220〜280年)のものと断定できないものや、明らかに後代のものも含まれているが(略)、『三国志』と三国時代を考えるための史料としたことには変わりない。また主題にはあえて「考古学」の三文字を入れたが、取り上げた出土資料は全て考古学の発掘調査により出土したものばかりであるという理由によっている(一部に盗掘品を含む)。
「あとがき」より引用。引用開始。
 というわけで、私の三国時代へのアプローチは、「正史」→出土資料→『演義』という順序をたどっている。これは歴史研究者のなかでも、『演義』→「正史」(→出土資料)というアプローチ派が多数を占めているようなので(近年は『演義』以前にさらにさまざまなメディアが用意されているようだが、残念ながらそれは私の理解を超えている)、まさしく少数派、それこそ異端である。だからであろう、歴史研究者の著作も、「正史」を含む編纂史料と出土資料も含む一次史料とを悉皆的に博捜した上でこの時代を論ずるのではなく、文学研究者のそれと同じように、「正史」と『演義』だけで論じて事足れりとするような風潮には(それが販売戦略であるにせよ)以前からひじょうに不満であった。手元にある渡邉義浩『三国志事典』を開いても、『演義』は出てくるが、走馬楼呉簡は出てこない。高陵の写真はあるが、朱然墓への言及はない(引用終了。以下省略)。

〇場所の特定の困難さ
 昔の有名な場所も、実はあやうい。日本でも「桶狭間古戦場」が、名古屋市と豊明市(国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地)の二箇所ある。「仁徳天皇陵」が本当に仁徳天皇の古墳かどうかもあやふや。高千穂論争、邪馬台国論争も。
 中国史でも、史跡の場所の特定は意外と難しい。
 「赤壁の戦い」の赤壁は「武赤壁」と、蘇軾の「赤壁賦」で有名な「文赤壁」の二箇所がある。
 「魯粛の墓」は各地に複数、存在する。湖北省武漢市亀山公園、湖南省岳陽市(人民解放軍のゴム製品工場敷地内にあった)、江蘇省鎮江市北固山などが有名。
 曹操の墓「曹操高陵」の場所も、長いあいだ謎だった。
〇西高穴2号墓は本当に曹操の墓なのか
 河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村にある墓。2009年12月27日、河南省文物局により発見が公表された。2010年4月、中国秦漢史研究会と中国魏晋南北朝史学会は安陽で合同会議を開き、西高穴2号墓は曹操高陵であるという結論をくだした。しかしその後も、学界の一部では反論が続いている。
 その最大の理由は、ここが曹操の墓であってもおかしくない、という「状況証拠」ばかりで、「ここが曹操の墓だ」という決定的な証拠がまだ見つかっていないからである。
参考記事 三国志 曹操(そうそう)の遺骨と断定 更新日:2018年03月27日

〇厚葬と薄葬
 出土品の量は、時代によって大きく異なる。
 人口が少ない時代でも、墓に副葬品を多くいれる「厚葬」の時代なら、出土品は豊富である。逆に、人口が多い時代でも、「薄葬」の時代なら、副葬品は激減する。
 後漢までは厚葬の時代だったが、曹操あたりから薄葬へと移行する。
曹操の遺令 正史『三国志』魏書武帝紀より
 天下尚未安定、未得遵古也。葬畢、皆除服。其将兵屯戍者、皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服、無蔵金玉珍宝。
 天下はなおいまだ安定せず。いにしえの礼を守ることはできない。私の葬儀が済んだら、みなすぐに喪服を脱げ。基地で働いている将兵は、持ち場を離れるな。役人は、平常どおり働け。遺体は平服で十分。黄金や宝石を副葬品とするな。
cf.「葬式無用。弔問供物辞すること。生者は死者のため煩わさるべからず。平成9年2月26日 太宰久雄」「本職が哨戒飛行より帰還せざりし場合、第六飛行中隊のラインハルト中尉が戦闘の指揮をとること。1918年3月10日 騎兵大尉 フォン・リヒトホーフェン」

〇偽物、贋作の横行
 清華簡…清華大学が2008年に取得した2000枚あまりの戦国時代の竹簡。 盗掘によって中国国外に流出したものを、実業家の趙偉国が買い戻して母校の清華大学に寄贈。戦国時代中期から晩期の楚の竹簡とされる。
 浙江大学蔵戦国楚簡…2008年に香港の闇市場に出たものを、翌年に浙江大学OBが中国に買い戻し、現在は浙江大学が所蔵。
 学術的な根拠のある発掘作業ではなく、盗掘された出土資料については、贋作を疑う声がつきまとうことが多い。

HOME > 授業教材集 > このページ