1999.2
捉放曹(そくほうそう)Zhuo-fang-cao

 これから見ていただくのは、捉放曹(そくほうそう)、という芝居です。
 登場人物は、みなさまよくご存じの曹操(そうそう)です。
 『三国志』(さんごくし)のはじめの方の物語。まだ若く無名の青年だった曹操は、悪い大臣である董卓(とうたく)を暗殺をはかりますが、失敗します。曹操は逃げますが、暗殺未遂犯として指名手配され、ある田舎町で逮捕されます。しかし、その町の役人・陳宮(ちんきゅう)は、曹操のことを天下をうれう立派な人物と思いこみ、曹操を助け、自分も一緒に逃げ出します。
 逃げ出した曹操と陳宮の二人は、曹操の父親の親友である呂伯奢の家に身を寄せます。呂伯奢の家族は曹操と陳宮をもてなすため、台所でブタ肉料理を作ろうとします。疑い深い曹操は、包丁(ほうちょう)を研(と)ぐ音や、ブタを屠殺(とさつ)するための準備の物音を、てっきり自分たちを殺すためと誤解し、呂伯奢の一家を皆殺しにしてしまいます。
 陳宮は、曹操が実は冷酷無比な人物であることを悟り、曹操を助けたことを後悔します。
 曹操と陳宮は旅館に泊まります。曹操はすぐに眠りますが、陳宮は「自分は人を見る目が無かった」と後悔のため息をつき、夜通(よどお)し後悔の歌をうたいます。この陳宮の後悔の歌が聞きどころの芝居です。
 それでは『三国志』の物語のはじめの方の名場面を、どうぞこの京劇の舞台で御堪能ください。

 曹操が馬に乗って登場し、セリフと歌で自己紹介します。
「私は、天下を奪おうとする董卓のやつめを、天にかわって成敗(せいばい)してくれようと思った。しかし残念ながら暗殺は失敗。わたしは警察に追われる身となり、こうして都を逃げ出した。見れば、ここはもう田舎の町だ」
 京劇では、馬のきぐるみは使わず、俳優の演技や手に持っている小道具によって馬に乗っていることを表わします。

 また、曹操の顔は真っ白ですね。これには京劇独特の意味があります。
 京劇では「くまどり」をする役柄を「浄(じょう)」と言います。「浄」は「くまどり」のデザインや色によって、その登場人物の性格や運命をあらわします。
 曹操の顔が白く塗られているのは、彼が冷たく悪い人間であることをあらわしています。

 田舎の町の役人たちが登場します。
 暗殺未遂犯である曹操を逮捕するため、すでに全国に非常警戒網がしかれていたのです。
 曹操は、田舎の町の中に入ろうとして、役人に見とがめられます。
 曹操は「自分は行商人(ぎょうしょうにん)である」とウソを言いますが、身分証明書の提示をもとめられ、行きづまります。
 曹操は、この田舎町の役所の長官が、陳宮という人物であることを思い出します。陳宮は人情にあつい立派な人物であると、曹操は噂で聞いていました。
 曹操はウソをつきおおせないことを悟り、作戦を考えます。とりあえずこの町で逮捕され、この町の長官である陳宮に直接話しをすることができれば、相手は人情にあつい陳宮のこと。曹操は陳宮を口車(くちぐるま)に乗せ、丸めこむ自信がありました。
 曹操は、町の門を守る小役人に自分の正体を明かし、みずから進んで逮捕されます。


 場面かわって、こちらは町の役所のなか。
 町の役所の長官である陳宮が登場し、自己紹介します。
「わたしの名前は陳宮。大臣の董卓閣下(とうたくかっか)の暗殺をはかった曹操という男を逮捕せよと、緊急の指令が都からはいった。わたしは部下たちに命令し、街道(かいどう)の検問(けんもん)を強化させた」
 部下の小役人が入ってきて、曹操を逮捕したことを報告します。
 陳宮は、曹操に会うことにします。
 曹操は手錠(てじょう)をつれられ、陳宮の部屋に連れてこられます。
 曹操は歌で「陳宮がどんな人物か、見てやろう」とひとりごとを歌います。
 陳宮は歌で「曹操は、暗殺未遂犯と聞いていたが、顔を見ると意外におだやかな人物のようだ」とひとりごとを歌います。
 曹操は、陳宮が正義の心を持った善良な人物であることを見抜きます。善良な人物なら、曹操は、口車に乗せて丸め込む自身があります。
 曹操と陳宮は、お互いに歌で自分の主張をぶつけあいます。陳宮が「大臣の董卓閣下は、天下の平和のために政治をなさっているのだ」と歌うと、曹操は「董卓のやつは自分ひとりの私利私欲(しりしよく)のために天下を狙っている大泥棒だ。その董卓をやっつけようとした自分は無罪だ」と歌で主張します。
 陳宮は次第に、曹操のペースに乗せられます。
 曹操は歌で説得をつづけます。「陳宮どの。あなたの官職は、しょせんは田舎町の役所の長官にすぎません。あなたはわたしを逃がし、わたしと一緒に地方に逃げ延び、天下のために働くべきです。われわれが力を合わせて悪者の董卓を打倒すれば、あなたの名前は歴史に残ります。このままわたしを董卓に差し出せば、あなたは多少の褒美(ほうび)がもらえるだけで、一生、歴史に名前を残すこともありますまい」
 陳宮は次第に曹操の考えに傾きます。
 陳宮はとうとう、曹操を逃がして、自分も一緒に逃げ出す決意をかためます。
 陳宮は部下を呼び出し「これから郊外の視察(しさつ)のため出張旅行に出る」とウソを言います。そして曹操とふたりで、田舎の町の役所を逃げ出します。


 呂伯奢(りょはくしゃ)が登場します。
「わたしの名前は呂伯奢。腹黒い大臣である董卓が悪い政治を行っているため、天下はいま乱れておる」
 呂伯奢は、曹操の父親の親友でした。実はゆうべ曹操の父親たち一家が、まるで夜逃げするようにやってきて、呂伯奢の家に一晩泊まっていったのです。
 曹操の父親は、息子が全国指名手配の重罪人になったので、累(るい)が及ぶことを恐れて、逃げ出したのです。

 呂伯奢は、天下の乱れを嘆く歌をうたいます。

 曹操と陳宮が馬をとばしてやってきます。
 呂伯奢は、曹操の姿を見つけ「おお、これは奇遇だ。曹操じゃないか」と声をかけます。
 曹操は「お人ちがいです」と言いますが、呂伯奢は「わしは、そなたの父の親友・呂伯奢である」と名乗ります。
 曹操は、相手が父の親友であることを知り、安心して、自分たちの正体を打ち明けます。そして、自分が暗殺に失敗して追われる身になったこと、いったんは逮捕されたものの陳宮のおかげで助けられたこと、など、今までの経緯を歌で説明します。
 呂伯奢は「どうりでゆうべ、そなたの父上(ちちうえ)が、夜逃げしたわけだ。そなたの父上はゆうべ、わしの家に泊まっていったぞ」と言います。
 曹操は父親の安否(あんぴ)を気づかって、涙ながらに歌います。
 呂伯奢は二人に、自分の家に泊まるようすすめます。天下の重罪犯人である曹操をかくまう、というのは、大変な勇気です。
 曹操と陳宮は、呂伯奢の言葉に甘えることにします。

 場面は変わって、呂伯奢の家のなかです。
 呂伯奢は「お酒がないので近所の村まで行って買ってくる」と言い、部屋のなかに曹操と陳宮をのこし、外に出て行きます。
 曹操は、妙な物音を聞きつけて、陳宮に言います。
「しずかに! あっちの方から、刀を研(と)ぐ音がする」
 陳宮は「呂伯奢どのは、あなたの父上の親友。われらに害を加えるはずがない」と言います。
 曹操はまた「しずかに! 何か、奥でヒソヒソ話しをしているのが聞こえる・・・『手足を縛ってから殺そう』と言っているぞ」と言います。
 曹操は「呂伯奢のやつめ、酒を買いに行くというのは口実で、実は俺たちのことを役所に密告しに行ったにちがいない」とひとり合点(がてん)します。
 曹操は「やられる前に、やるまでだ。先手を打って呂伯奢の家族を皆殺しにしよう」と歌います。
 陳宮は「呂伯奢は、悪者には見えない。様子をみよう」と歌います。
 曹操は陳宮の止めるのも聞かず、刀をもって、奥に飛び込みます。

 奥では、呂伯奢の家族が、地面を逃げ回るブタを追いかけています。
 曹操が登場し「思い知れ」と歌いながら、呂伯奢の家族を刀で切り殺します。
 陳宮があわてて登場します。しかしもう、手遅れです。
 曹操は、呂伯奢の家族を刀で皆殺しにしただけでなく、家を火で焼こうとします。
 陳宮があたりを見ると、手足をしばられたブタの姿が見えます。陳宮は「曹操どの、あなたは間違えて、無実の人たちを殺してしまったのですぞ」と言います。
 呂伯奢の家族は、曹操と陳宮をもてなすため、ブタ肉の料理を作ろうとしていたのでした。曹操は自分自身が腹黒い人間だったので、てっきり相手も悪い人間だと勘違いしたのです。刀を研ぐ音も、「手足を縛ってから殺そう」という言葉も、すべて料理の準備のためのものだったのです。
 曹操は、自分が思い違いをしていたことに気付いても顔色ひとつ変えず「面倒なことになった、はやく逃げよう」と言い、その場を逃げ出します。
 陳宮は「ああ、自分は人を見る目が無かった。曹操は天下を救う英雄だと思ったが、実は、ただの悪党だった」と嘆きの歌を歌いながら、退場します。


 場面はかわって、道のうえ。
 呂伯奢が酒を持って登場します。
 陳宮と曹操が、道のむこうからあわててやって来ます。
 呂伯奢が「どうしてあわてているのか」とたずねると、曹操は「おたずねもののわたしがお邪魔していると、ご迷惑をおかけしますので」とウソを言い、逃げるように立ち去ろうとします。
 呂伯奢は「曹操の態度はおかしいし、陳宮は涙を流していた。きっと、わたしの家族と何かいざこざがあったのだろう。家に帰ってたずねることにしよう」と歌います。

 曹操はふと思い出したように馬を止めます。
 曹操は陳宮に、
「うっかりしていた。呂伯奢どのに、用事がある」
と言い、馬を返し、呂伯奢を呼び戻します。
 呂伯奢が戻っきます。曹操は呂伯奢に
「おや、あなたの後ろから来るのは誰ですか?」
とウソを言います。
 呂伯奢が後ろを振り向いた一瞬、曹操は刀で呂伯奢を斬り殺してしまいます。
 陳宮はあまりのむごたらしさに、嘆きの歌をうたいます。曹操は高笑いし「この老いぼれに、あとで密告されてはかなわないからな」と言います。
 陳宮は曹操の残酷な態度を責めます。曹操は「人をだますほうが、人にだまされるよりもましだ」と言います。
 陳宮は曹操の冷酷な性格を知り、慄然(りつぜん)として、歌います。
 この歌は、京劇のなかでも特に有名な歌です。
「曹操の言葉を聞き、わたしの心は慄然とふるえおののく
 ひそかに後ろをふりかえり、わたしは自分のした行為の愚かさを後悔する
 わたしはてっきり、彼のことを大きな人物であると思っていたが
 実は、彼は極悪非道(ごくあくひどう)の悪党にすぎなかったのだ
 馬は狭い小道にはいりこんでしまい、もう方向転換はできない
 わたしは曹操に利用された、そのことに気付いても、もう引き返せない
 いましばらく、心を鬼にして、彼についてゆき
 彼に、苦言(くげん)と忠告(ちゅうこく)を与えよう」

 陳宮は曹操に苦言を呈(てい)します。
「わたしのことをうるさいと、思わないでください
 あなたも天下の行く末をうれう大義(たいぎ)の人、しかし間違いをおかしました
 呂伯奢はあなたの父上の親友であったのに
 どうして呂伯奢の心を疑い、彼の家族を皆殺しにしてしまったのですか
 彼の家族を殺してしまったそのうえに
 どうして、道で出会った呂伯奢どのまで、殺してしまったのですか」

 曹操は歌で「いくら呂伯奢が父の親友でも、家族を殺されたらわたしを恨むにちがいない。災いは芽のうちに摘んでおかねば。所詮(しょせん)は大事(だいじ)のまえの小事(しょうじ)、気にやむことはない」と反論します。
 陳宮は「馬の耳に念仏」と、ため息をつきます。


 曹操と陳宮は、宿屋に泊まります。
 ふたりは酒を飲みながら語ります。
 曹操は陳宮に「酒がすすまないようだな。昼間、わたしが呂伯奢とその一家を殺してしまったことを、まだ気にやんでいるのだろう」と言います。
 陳宮は「あなたは人を疑いすぎる」と言います。
 曹操は「わたしは生まれつき、他人が信じられないのだ」と言い、さきに眠ってしまいます。

 陳宮はひとり、眠れぬまま歌います。この歌は、京劇でも特に有名なうたです。
「(せりふ)後悔さきに立たず!!
(歌)丸く明るい月が窓辺(まどべ)を照らす
 わたしの心のなかは、麻のように乱れている
 わたしは後悔する、自分の気持ちで軽はずみな行動をしてしまったことを
 深く後悔する、曹操といっしょに呂伯奢の家に行ったことを
 呂伯奢は、恩義(おんぎ)にあつい立派な人物だった
 彼は家畜のブタをつぶして、わたしたちをもてなそうとしてくれた
 思ってもみなかった、悪党の曹操めは、とても疑い深く
 刀を抜いて、呂伯奢どのの家族を皆殺しにしてしまった
 家族全員が曹操の刀で殺されてしまっただけでなく
 年おいた呂伯奢までもが、血で大地を赤く染めた
 恨みをのんで死んだ者たちの魂よ、どうぞ許しておくれ
 悪いのは誰か、お天道(てんとう)さまがご存じであるにちがいない」

 夜はますます更けてゆきます。陳宮は続けて歌います。
「二更(にこう)のときを告げる鐘(かね)の音(ね)が聞こえてきた
 考えれば考えるほど、わたしは間違っていた
 わたしは後悔する、大事な家族を犠牲にしてまで
 町の役所の長官の職を捨ててまで、この悪党を助けるべきではなかった
 わたしはてっきり、この悪党が大人物であると思い込んでいた
 いつかきっと、この悪党は、わが漢王朝の滅亡のもととなるだろう」

 夜はますます更けて、真夜中になりました。陳宮は続けて歌います。
「この悪党は、いますやすやと眠りこんでいる
 まるで井戸の底のなかの蛙(かえる)みたいに眠っている
 この悪党は、いまはまだ、ウロコが生えそろっていないドラゴンのようだ
 この悪党は、いまはまだ、キバがのびきっていない若いトラのようだ
 わたしはオリの中のトラを殴ることはしないが
 もし、このトラを山(やま)の中に逃がしたらきっと・・・
 人をつかまえて食べるに違いない!!
 刀を抜いて、眠っているこやつの首を切り離したら・・・
 いや、あぶないあぶない、わたしはまた道を誤(あやま)るところだった」

 陳宮はひとりごとを言います。
「もしいま、この悪党の寝首(ねくび)をかいたら、世間(せけん)の人々はわたしを董卓(とうたく)の仲間だと誤解するだろう。・・・よし、机のうえにちょうど、筆と墨(すみ)がある。わたしは曹操の自省(じせい)をうながすため、詩(し)を書き残して行こう」
 陳宮は筆を取り、詩を書きます。もう時間は、真夜中をすぎて、明け方も近い「四更(よんこう)」になっています。
「詩の題名は『四更(よんこう)』としよう。
(詩)鼓(こ)は四更(よんこう)を打ち、月(つき)、正(まさ)に濃(こ)し
 心猿(しんえん)意馬(いば)、旧宗(きゅうそう)に帰(き)す
 呂家(りょけ)を殺(ころ)し死(し)なしむること、人(ひと)数口(すうこう)
 方(まさ)に知る曹(そう)・・・
 方に知る曹操は是(こ)れ奸雄(かんゆう)なり」

 陳宮が書いた詩の意味は「夜中をすぎ、夜明けも近いというのにまだ眠れない。曹操が呂伯奢の一家を殺し、わたしはやっと彼の正体が『乱世(らんせ)の奸雄(かんゆう)』であることを知った」というものです。

 もはや、夜明け近い「五更(ごこう)」のときを知らせる鐘(かね)の音が聞こえます。
 陳宮は歌います。
「わたし陳宮も、間違っていたのだろう
 こんな悪党と一緒に、逃げ出そうとしていたなんて
 散った花びらは、川の水と一緒にどこまでも流れて行こうとするけれど
 川の水の方は、散った花びらにおかまいなく、勝手に流れてゆく」
 陳宮は、眠る曹操をおいて、こっそり自分だけ宿を出発します。

 夜明けになりました。
 曹操は目を覚まします。陳宮の姿が見えません。
 曹操は、机のうえに、陳宮が書き残していった詩があるのを見つけ、手にとって、声を出して読みます。
「なになに、『鼓は四更を打ち、月、正に濃し。心猿意馬、旧宗に帰す。呂家を殺し死なしむること人数口、方に知る曹操は是れ奸雄なり』だと・・・小癪(こしゃく)な陳宮め!! いつか俺が天下を取ったあかつきには、必ず殺してやるからな」

 曹操は、宿屋の主人に宿代を払うと、そのまま逃げて行きました。

(完)


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