KATO's HOME > 授業教材集 > このページ ジャンル 世界を知る 早稲田大学EXT中野校

初心者にもわかる「三国志」の世界 日本人と中国人を知るための教養講座

最初の公開2019-2-6 最新の更新2019-2-26

早稲田EXTの頁 https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/44740/
2/6 邪馬台国の卑弥呼も正史『三国志』の登場人物だった
三国志の時代の歴史と、漢文の歴史書である正史『三国志』について解説します。いわゆる「魏志倭人伝」は、邪馬台国とか卑弥呼について書かれていますが、実は『三国志』の一部です。三国志の物語のコアの部分にある歴史について、中国史の予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。また陳舜臣『秘本三国志』や北方謙三『三国志』など「正史インスパイア系」の文芸作品にも言及します。

2/13中国の古典小説『三国志演義』と芸能における三国志
中国では、三国志の物語は、昔から語り物や謡い物、芝居など芸能の人気のネタでした。中国の明代に書かれた古典小説『三国志演義』は、娯楽系三国志説話群の集大成です。中国人は、三国志の物語をどのようにして楽しんできたのか。中国の京劇の三国志の名場面や、漢詩など文芸作品に詠みこまれた三国志の名場面などを紹介しつつ、三国志の魅力と教訓をわかりやすく解説します。

2/20江戸時代から続く三国志ブーム
中国の古典小説『三国志演義』より遅れること約三百年、元禄時代の日本で湖南文山の『通俗三国志』が刊行され、三国志は日本の大衆文化の一部となりました。講談や歌舞伎、浮世絵でも三国志は格好のネタでした。昭和の国民的作家・吉川英治の小説『三国志』は、『三国志演義』の自由訳ですが、今も日本で大きな影響をもっています。注意すべきは、中国の作品が全て日本人に受けたわけではないことです。また、信長や信玄などが活躍した戦国時代ではなく、平和な江戸時代になってはじめて三国志が大衆の人気を得た理由を考えることも重要です。なぜ三国志は日本の大衆に絶大な人気を得たのか。日本社会の歴史とからめて、わかりやすく解説します。

2/27今も進化し続ける三国志のキャラクター
三国志の「進化」は今も続いています。現代の日本人は、江戸時代の日本人と同様、さまざまな三国志の楽しみかたを工夫しています。三国志の漫画・アニメ・ゲーム、三国志のキャラクターをロボット(正確にはモビル・スーツ)化した商品、三国志の登場人物を美女にしたアレンジ作品(三代目・市川猿之助の歌舞伎『新・三国志』や、アダルトゲーム『『恋姫†無双』』など)等々。一見ゲテモノのようですが、現代日本の若者の三国志の楽しみかたを学者の目で分析すると、日本人と中国人の感性の違いや、日本人が無意識に受け継いでいる江戸時代以来の「伝統」、日本人の可能性などが見えてきます。

参考サイト
三国志の人間観――古典からサブカルチャーまで――
http://www.geocities.jp/cato1963/20131116.html
京劇「三国志」のヒーロー 諸葛孔明と曹操
http://www.geocities.jp/cato1963/20110309.html
三国志 朝日カルチャーセンター
http://www.geocities.jp/cato1963/sangokushi20160704.html
変面と三国志
http://www.geocities.jp/cato1963/20130219.html


第一回 2/6 邪馬台国の卑弥呼も正史『三国志』の登場人物だった
キーワード 歴史認識 正閏論(せいじゅんろん) 蜀漢正統論
三つの「三国志」
正史系 【例】漢文の正史『三国志』陳寿(233年-297年)の著。「魏志倭人伝」も含む。
通俗系 【例】古典小説『三国志演義』14世紀ごろ。作者は羅貫中or施耐庵?
アレンジ系(自由訳、翻案) 【例】吉川英治『三国志』、横山光輝の漫画『三国志』など。
その他

中国の乱世
春秋・戦国、秦末・楚漢、前漢末、三国時代、…
後の時代の乱世になるほど「進化」してゆく。三大勢力の鼎立(ていりつ)は珍しい。

中国の歴代王朝の記憶法 「アルプス一万尺」の替え歌で
殷、周、東周、春秋戦国 いん・しゅう・とうしゅう・しゅんじゅう・せんごく
秦、前漢、新、後漢 しん・ぜんかん・しん・ごかん
魏、蜀、呉、西晋、東晋 ぎ・しょく・ご・せいしん・とうしん 
宋、斉、梁、陳、隋※ そう・せい・りょう・ちん・ずい
五胡十六、北魏、東魏 ごこじゅうろく・ほくぎ・とうぎ
西魏、北斉、北周 せいぎ・ほくせい・ほくしゅう
隋※、唐、五代十国 ずい・とう・ごだいじっこく  ※二つの「隋」は同一の王朝。
宋、金、南宋、元、明、清 そう・きん・なんそう・げん・みん・しん
魏、蜀、呉=三国時代(184/220-280)とも言う
呉、東晋、宋、斉、梁、陳=六朝時代(222-589)とも言う
北魏から隋による統一=南北朝時代(439-589)とも言う
 「魏、蜀、呉」の三国時代から、隋による中国統一までのあいだの王朝名がぐちゃぐちゃであることに注意。約四百年に及ぶ慢性的な大分裂時代。

中国の王朝の名前 元より前は初代の君主の封地の地名、元からは理念的名称
三国時代の魏、呉、蜀もそれぞれ本来は地名である。

「三国志」の乱世の物語の半分は、実は後漢の末。略年表
 184年 黄巾の乱。
 208年 赤壁の戦い。
 220年 後漢、滅亡。魏王朝。三国時代の開始。
 234年 蜀の諸葛孔明、五丈原で陣没。
 239年 邪馬台国の女王・卑弥呼が、魏に遣使。
 280年 西晋が中国を再統一。

「正史」とは?
国家が編纂ないし追認した「紀伝体」の公刊の歴史。民間の学識者による歴史書である「外史」や、通俗的な「野史」「稗史(はいし)」などと対になる概念。前の王朝が滅亡したあと、後の時代の王朝が国家事業として刊行することが多い。
最初の正史は司馬遷の『史記』で、2019年現在、清朝時代の正史『明史』までの「二十四史」が正史と認定されている。二十四史に、中華民国時代の『新元史』と『清史稿』を加えて二十六史、あるいは、どちらか一つだけを加えて二十五史とカウントする場合もある。

※日本の正史「六国史」(りっこくし)
 奈良時代から平安時代前期にかけて成立した漢文による正史。
中国と違い、正史の作成は途中で放棄された。
日本書紀 続日本紀 日本後紀 続日本後紀 日本文徳天皇実録 日本三代実録
 『古事記』は正史ではないことに注意。

正史『三国志』について
 陳寿(233-297?)の撰(「撰」は文献を選んで編纂したり、詩文を作る意。「杜撰」の「撰」も同じ)。「三国のこころざし」ではない。この場合の「志」は「誌」の意。
二十四史のなかでも、出来栄えは上位に入ると評価されている。『魏書』『呉書』『蜀書』からなる。後漢末から西晋の初めまでの歴史を紀伝体で描く。いわゆる「魏志倭人伝」など、周辺民族についての記録も含む。
 陳寿は蜀漢の臣だったが、祖国の滅亡後、西晋に仕え『三国志』を編纂した。陳寿は、西晋の前身である魏の旧敵国の出身で、しかもまだ前王朝の生き残りが現役で働いている時代に正史を書く、という、歴代の正史の作者とくらべても不利な条件のもとにあった。が、その中でも最大限、公平な立場で歴史を書こうとした。
 陳寿の『三国志』は、当初「私撰」ないし準「官撰」の歴史書だったが、後に正史として追認された。
 『三国志』本文の記述は簡素であるため、六朝時代の宋の裴松之(はい・しょうし、372-451)が「注」の形で、さまざまな異伝や余説を補った。通常『三国志』と言うと、陳寿の本文と「裴松之注」(「裴注」とも)をあわせて呼ぶ。後世の三国志の物語の元ネタは、裴松之注の記述であることが多い。
 中国古典の書籍の現存最古の底本は往々にして千年前の「宋版」(宋本)だが、正史『三国志』も、現存最古の版本は、南宋はじめの紹興年間(1131-1162年。地名の「紹興」とは別)に刊行された『百衲本』である。原著者の陳寿の時代から900年近くもあとの本なので、誤字や脱漏もある。例えば「邪馬臺国(邪馬台国)」も、実は現存最古の版本では「邪馬壹国」である。
 他の古い書籍に引用された『三国志』の文章や、近現代に発見された古い『三国志』の断片など、部分的には宋本よりも古い形の『三国志』を知ることが可能である。「邪馬壹国」も、10世紀に成立した『太平御覧』の『三国志』引用文では「邪馬臺国」と表記されているため、現代の学者の多くは陳寿が書いた原本でも「邪馬臺国」であったと推定している。  なお日本でも、宋本の『三国志』の現物は、宮内庁書陵部や、世田谷区の静嘉堂文庫に所蔵されている。

正史『三国志』の現代日本語訳
 ちくま学芸文庫から『正史 三国志』全8巻セットが出ている。

「三国志」は、ことわざや故事成語の宝庫
白波(しらなみ)・・・山西省の白波谷にたてこもった黄巾賊の残党が語源。
月旦(げったん)・・・許劭が曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評した話から。
髀肉之嘆(ひにくのたん)・・・荊州の劉表に身を寄せた、不遇時代の劉備の故事から。
三顧の礼・・・劉備が、20歳も年下の諸葛孔明のもとを三度も訪れた故事から。
水魚の交わり・・・劉備が、自分と諸葛孔明の関係をたとえて。
苦肉の策・・・「赤壁の戦い」直前の、周瑜と黄蓋の話から。
危急存亡の秋(とき)・・・出典は諸葛孔明の「出師表(すいしのひょう)」。
泣いて馬謖(ばしょく)を斬る・・・諸葛孔明が馬謖を罰した故事。
死せる孔明、生ける仲達を走らす・・・諸葛孔明の最後の作戦から。


第二回 2/13 中国の古典小説『三国志演義』と芸能における三国志
キーワード 世代累積型集団創作 地域軸・時代軸・社会軸

 清代の学者・章学誠(1738-1801)の『三国志演義』(『三国演義』)評「七分実事、三分虚構」。
 現代中国では『三国演義』『水滸伝』『西遊記』『紅楼夢』を四大著作と呼ぶ。

280年ごろ 陳寿による正史『三国志』成立
429年 裴松之が『三国志』に注を加える。裴松之注
 民間では三国志にまつわるさまざまな説話が誕生して流布していたと思われるが、残存する資料が少ないため実態は不明。
 劉義慶(403-444)による「志人小説」の書『世説新語』にも、三国志の人物にまつわる小説的な挿話がいろいろ収録されている。

 「講唱文芸」=語り物や謡い物の総称。

 唐(618-907)の時代、寺院の俗講が発達。杜牧や李商隠の漢詩を読むと、民間の講唱文芸で三国志の物語も語られていたらしいことがわかる。また杜甫も諸葛孔明を漢詩に詠んだ。

 北宋(960-1127)の首都・開封や、南宋の首都・臨安(杭州)では「瓦子」と呼ばれる盛り場ができ、「勾欄」と呼ばれる寄席で、庶民むけの講唱芸能が盛んとなった。三国志の物語『説三分』は人気の出し物であった。
 北宋の文人政治家・蘇東坡が『東坡志林』には、講釈師を呼んで三国志の物語をやってもらうと、座って聞いている子供たちは劉備が負けたと聞くと涙を流し、曹操が負けたと聞くと大喜びする、とある。

 元(1271-1368)の時代、講唱文芸の三国志ものを土台に挿絵をつけて読み本にまとめた『三国志平話』が作られる。また元の雑劇(元曲)においても三国志ものが作られる。

「演義」=歴史をもとに通俗的に面白く脚色して創作を交えた小説。元・明代に盛んになった。

 明(1368-1644)の時代の初め、最初の『三国演義』が成立。作者は「羅貫中」という人物とされるが、真相は不明。cf.矢立肇(やたてはじめ/やだてはじめ)
 その後、いくつかの改編・改訂が行われて、現在の形の『三国演義』になった。

 中国古典の通例どおり、『三国演義』も最初のオリジナルの本は散佚してしまった。現在の流布本も含めて、さまざまな版本が作られた。主要な幹線のみを示すと、以下のとおり。
 羅貫中版→李卓吾本『三国演義』※→毛宗崗本『三国演義』(現在の流布本)
※李卓吾本→江戸時代の日本の『通俗三国志』→吉川英治の小説『三国志』

 現存最古の『三国演義』刊本は、嘉靖元年(1522)の『三国志通俗演義』、通称「嘉靖本」である。

 清(1636-1912)の時代は、崑曲や京劇をはじめとする「地方劇」が興隆し、三国志ものは人気演目となった。

三国志の主要登場人物
 『三国演義』の登場人物は総計1192人で、男性が大多数を占める。史実の人物が多いが、『三国演義』ではかなり脚色されている

蜀グループ 劉備(りゅうび) 関羽(かんう) 張飛(ちょうひ) 趙雲(ちょううん) 諸葛孔明(しょかつこうめい)
魏グループ 曹操(そうそう) 夏侯淵(かこうえん) 夏侯惇(かこうとん) 許褚(きょちょ) 張遼(ちょうりょう) ・・・
呉グループ 孫権(そんけん) 周瑜(しゅうゆ) 魯粛(ろしゅく) ・・・

 主要な登場人物の「ニッチ」は、史実だけでなく、作劇上の要請によって脚色されている。
 ニッチの基準となる枠組みは、以下のとおり。
階層 リーダー、スタッフ、ライン、フロント
特長 知、情、意
品格 雅、雅俗共賞、俗

 劉備グループを例に取ると、リーダーは劉備、スタッフは諸葛孔明、ラインは関羽と張飛、フロントは趙雲。
 劉備は「知・雅俗共賞」、関羽は「意・雅」、張飛は「情・俗」、諸葛孔明は「知・雅」。
 張飛は史実と違い、猪八戒と同様に「観客と主人公の距離を埋める本音キャラ」として描かれる。劉備も史実と違い、三蔵法師と同様に「部下が能力を発揮して見せ場を作るための、無能な建前キャラ」となっている。[こちらの頁]


第三回 2/20 江戸時代から続く三国志ブーム
キーワード  近世 芸術における次元 ニーズ・シーズ・ウォンツ

〇近世 early modern period
 西洋史ではルネサンスから市民革命の頃まで。日本史では安土桃山時代から幕末維新期まで。中国史は宋・元・明・清。ただしいずれも諸説がある。
 古代、中世、近世、近代、現代。

〇唐の長安と日本の平安京は政治都市で公的な「盛り場」「悪所(遊里や芝居町)」「不夜城」はなかった。
 中国では北宋から、日本では江戸時代から、大都市に、庶民が一年中、娯楽や芸能を楽しめる盛り場が出来るようになった。

〇ニーズは、顕在的需用。シーズは、作り手の技術革新から生まれる需用。ウォンツは、消費者が「こういうのを待ってたんだ」と目から鱗になるような潜在的需用。

〇日本の庶民がさまざまな「次元」の娯楽を楽しめるようになったのは、江戸時代から。落語も講談も説教節も義太夫も歌舞伎も浮世絵も貸本も、全部、江戸時代。cf.「日本の伝統芸能と寄席芸能
 遊びたい、楽しみたい、というニーズ。江戸時代に誕生した新しい形式の庶民の娯楽、というシーズ。江戸時代の百姓町人は、自分たちが楽しめる新しいコンテンツを求めた。しかし、急に新しいコンテンツをそろえることは難しい。そこで、日本より早く近世化していた中国の通俗的コンテンツを、日本に移植した。
 江戸時代の日本人が輸入した中国の文芸作品の中でも、特に『三国志』『西遊記』『水滸伝』は大人気を得て、日本に定着した。一方、中国国内では大人気の作品でも、日本に定着しなかったものも多い。これは、欧米で高い評価を得た映画でも、日本ではしばしば「劇場未公開」になるのと同じ理由で、「ニッチ」という概念を理解する必要がある。
 cf.『楊家将演義』→日本にはすでに楠木正成の物語があった。『紅楼夢』『西廂記』→日本にはすでに『源氏物語』など恋愛文学の膨大な蓄積があった。
 例えば、昭和中期の日本で「テレビ」という新しいシーズが誕生したとき、日本国内ではテレビやアニメ(当初は単に「まんが」ないし「テレビまんが」と呼ばれた)の新作が足らず、アメリカから大量に番組を輸入した。昭和後期から日本国内でテレビやアニメをじゅうぶんに作れるようになると、外国製の番組の放送は激減した。

〇演義系『三国志』作品群(以下、単に「三国志」)に相当するジャンルの文芸作品は、それまでの日本に存在しなかった。
 日本の軍記物は「諸行無常」であり、登場人物の人間関係も「親分子分」的な主従関係が中心で、血筋がものを言った。
 三国志は智謀学的エンターテイメントであり、天下取りという壮大なゲームのもと、漢・侠・士のさまざまなタイプの「おとこ」たちが自分の個性を生かして競いあった。人間関係も「義兄弟」的な関係も多い。
 もし劉備が日本人だったら、関羽や張飛とは「親分子分」の関係になったろう。しかし劉備は中国人だったので、義兄弟となった。
 三国志で劉備グループが正義の主人公になった理由は、
〇日本人の三国志の受容
 正史『三国志』は、遣唐使の時代には日本に伝わっていた。
 通俗小説『三国志演義』の本は、漢文に近い中国語で書いてあったので、近世の日本人も従来の漢文訓読によって読解することができた。江戸時代初期の漢学者・林羅山(1583-1657)も、若いころに三国志を読了していた。
 元禄前後、日本では庶民向けの新しい文芸娯楽産業が続々と誕生した。コンテンツ不足を埋めるため、中国の古典や通俗文学を輸入したり、翻案する動きがあった。松尾芭蕉は李白や杜甫の漢詩文の趣向を俳句に取り入れた。
 元禄2年から5年(1689−1692)にかけて、湖南文山訳の読本(よみほん)『通俗三国志』全50巻が刊行された。これは李卓吾系の『三国志演義』の日本語訳で、日本初の翻訳書のベストセラーであり、近代まで長く読み継がれた。訳者の湖南文山は京都の天竜寺の僧、義轍と月堂の兄弟のペンネームであったらしい。
 文字文芸として受容された三国志は、語り物、芝居、浮世絵、その他のコンテンツのネタともなった。

青空文庫「吉川英治」https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1562.html
『三国志』序 吉川英治
(前略) 原本には「通俗三国志」「三国志演義」その他数種あるが、私はそのいずれの直訳にもよらないで、随時、長所を択(と)って、わたくし流に書いた。これを書きながら思い出されるのは、少年の頃、久保天随氏の演義三国志を熱読して、三更四更まで燈下にしがみついていては、父に寝ろ寝ろといって叱られたことである。本来、三国志の真味を酌むにはこの原書を読むに如(し)くはないのであるが、今日の読者にその難渋は耐え得ぬことだし、また、一般の求める目的も意義も、大いに異(ちが)うはずなので、あえて書肆の希望にまかせて再訂上梓することにした。
※「久保天随氏の演義三国志」→[国会図書館デジタルコレクション・久保天随 (得二) 著『新訳 演義三国志』大正元年](三国志 : 新訳演義) 永続的識別子 info:ndljp/pid/915980
cf.『更級日記』物語・源氏の五十余巻』より
 はしるはしる、わづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人も交じらず、几帳の内にうち伏して、引き出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ。昼は日ぐらし、夜は目の覚めたる限り、灯を近くともして、これを見るよりほかのことなければ、おのづからなどは、そらにおぼえ浮かぶを、いみじきことに思ふに、夢に、いと清げなる僧の、黄なる地の袈裟着たるが来て、
「法華経五の巻をとく習へ。」
 と言ふと見れど、人にも語らず、習はむとも思ひかけず、物語のことをのみ心にしめて、
「我はこのごろわろきぞかし。盛りにならば、容貌も限りなく よく、髪もいみじく長くなりなむ。光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめ。」
 と思ひける心、まづいとはかなくあさまし。
(現代語訳はこちら)



第四回 2/27 今も進化し続ける三国志のキャラクター
キーワード 見立絵 メディアミックス 2.5次元

〇江戸時代と現代の連続性
 日本人の趣味、嗜好、発想は江戸時代からそれほど変わっていない、という説。
矢立(やたて)系文芸:俳句、短歌、紀行文→ツイッター、ブログ
浮世絵、「漫画」→アニメ、漫画

〇見立絵(みたてえ)
 徳川家康を描いた「顰像(しかみぞう)」や、英一蝶(はなぶさ・いっちょう)が描いた「見立業平涅槃図(みたてなりひらねはんず)」など。「時空のうえではかけ離れていても、姿形を似せることで、霊的な意味づけやパワーのつながりを持たせることができる」という類感呪術のテイストを生かした芸術作品。
「煩悩即菩提、生死即涅槃」
江戸時代の錦絵の「見立三国志」:当時の相撲取りを三国志の豪傑に見立てて描く。

〇現代の「見立絵的創作」:三国志の世界観やキャラクターをふまえて、新しい作品を創作する。「三国志」を前面に打ち出す「見立三国志系」作品もあれば、あえて明示しない「三国志インスパイア系」作品もある。
cf.外部リンク「定番からおすすめまで!いま読みたい三国志漫画7選
★三国志漫画化作品
★見立三国志系
★三国志インスパイア系
〇コンテンツとしての三国志
イベント:「三国志フェス」「三国志サミット」「三国志感謝祭」「三国志祭」・・・




KATO's HOME > 授業教材集 > このページ