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早稲田大学エクステンションセンター中野校

学び直しの中国古典

ジャンル 世界を知る 【対面+オンラインのハイブリッド】
最新の更新2022年6月12日   最初の公開2022年5月14日
火曜日 10:30〜12:00 全5回 2022年05月17日 〜 06月14日
(日程詳細) 05/17, 05/24, 05/31, 06/07, 06/14
詳細は、[オンラインはこちら] [対面(at中野校)はこちら]
 どちらでもご都合のよいほうでご受講いただけます。

  1. はじめに
  2. 第1回05/17 『論語』は東洋人のバイブル? むしろ無声映画の台本です
  3. 第2回05/24 『孫子』の兵法は戦争のテキスト? 実は日常の人間関係の哲理が満載です
  4. 第3回05/31 『老子』は世捨て人の思想? 本当は実用的な処世術の指南書です
  5. 第4回06/07 『三国志』の英雄たちは強い? 強いけど中国の英雄は努力も職人芸も嫌いです
  6. 第5回06/14 『西遊記』は子ども向け? もとはアダルトな成人向けエンターテインメントです

はじめに
以下、
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/54774/より自己引用。
目標
・私たちが生きている今の時代がこのようになった理由を考える。
・日本史と中国史という枠組みを取り払い、世界的な視野から東アジアを見直す。
・歴史の予備知識がない人にも、身近なことから考える楽しさを体験してもらう。
講義概要
 この講座では、日本人の教養となってきた中国古典のうち、漢文の「論語」「老子」「孫子」と、物語の「三国志」「西遊記」、あわせて5作品を取り上げ、わかりやすく説明します。中国人の世界観や価値観を読み解くのと同時に、日本人の祖先がこれらの作品から中国人とは一味違う知恵や教訓を引き出してきた歴史についても解説します。豊富な図版や映像資料を使い、わかりやすく具体的に説明します。「中国史も文学史も、予備知識がまったくない」「よく名前は聞くけど、どんな内容の本かは知らない」「ちょっと読んでみたけど、どこが面白いのか、わからない」というかたも、安心してこ受講いただけます。

第1回 『論語』は東洋人のバイブル? むしろ無声映画の台本です
キーワード・ポイント
 Confucianism(儒教と儒学) The Analects(『論語』) 古典 志縁 学縁 集約農業 持続可能社会 エントリーコスト
 『論語』は、国語の漢文の授業の教材でも出てくる有名な古典です。しかし、どこがどう面白いのか、さっぱりわからない、という日本人も多いと思います。実は『論語』は中国古典のなかでも抜群に古く、他の書物とは本質的に違うのです。『論語』は書物であるという思い込みを捨てて、白黒の無声映画の台本のようなものだ、と、原点回帰的な読み方をすると、『論語』は俄然、面白い本になります。

昔の日本人が手にした本の例 [
Google画像検索結果「和本 論語」]

YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kQBHSTmTAzAnrpoTAANPVS
○辞書的な説明 ○世界的な古典
 『論語』は世界各国語に翻訳されている。英訳は、例えば以下で読める。
 https://en.wikisource.org/wiki/The_Chinese_Classics/Volume_1/Confucian_Analects

 一言で言うと、孔子は中国文明の「古典」と「伝統」という発想を作った人です。
サイト内リンク[伝統と現代、それぞれの『論語』の読み方]

〇西洋の「クラシック」と東洋の「古典」
 クラシック(classic)の語源は、古代ローマのラテン語のクラシクス(classicus)で、「艦隊」を意味するクラシスの派生語。古代ローマでは、国家有事の際に艦隊を提供できる有力な階層の人々のこともクラシスと呼んだ。転じて、国家であれ個人であれ危機に瀕したときにそれを乗り越える力(教養、書物、芸術的作品、等々)を与えてくれるものをクラシクス(クラシック)と呼ぶようになった。「古さ」は無関係である。
cf.今道友信 ダンテ『神曲』 連続講義 第1回 序とホメ−ロス

〇古典
 「古」は「固」「個」の同系語。
 「典」は、机の上に置いた「冊」を描いた漢字。「典」のコアイメージは「ずっしりと重々しい」で、殿・敦と同系。また奠・鎮・定とも近縁。
 
〇中国文明の特徴は「繁文縟礼」
 富永仲基の指摘「中国は文、インドは幻、日本は絞」。
 孔子の実像は不詳。cf.ソクラテス以前の哲学者 Pre-Socratic philosophy
 本格的な中国史は「戦国時代」から。
 「伝統」の再創造を活用した。cf.『創られた伝統』ホブズボウム,エリック〈Hobsbawm,Eric〉/レンジャー,テレンス【編】〈Ranger,Terence〉/前川 啓治/梶原 景昭【ほか訳】、 藤井青銅『「日本の伝統」の正体 』

〇『論語』という書物の古代的性格
 近代的な書物と、古代的な書物の性格の違い。
 個人著作←→世代累積型集団著作
 自己完結書籍←→講師、註疏の存在を前提とする不完全書籍
 著作権←→仮託と偽作とオマージュの区別が曖昧
『論語』は孔子の言行録だが、孔子自身の著作ではない。それぞれの言葉は「いつ・どこで」という基本情報が欠落しており、文体も古拙で、「寸劇の台本」に近い。

〇『論語』というタイトルの謎
 通常なら『老子』『孫子』と同じく『孔子』となるはず。孔子の死後、門人たちが師の「語」を「論纂」してできた書物だから、という説もあるが、真相は不明。

〇現行の『論語』は2世紀ごろに成立か
 『論語』は孔子の死後、数百年をかけて出来上がった。オリジナルの『論語』は今とは内容が少し違っていた。今の形の『論語』は2世紀の末に学者の鄭玄(じょうげん)がまとめたものである。ちょうど、三国志の劉備や曹操が若いころである。

〇意外に低かった『論語』のステイタス
 『論語』は東洋人のバイブルであると言う人もいるが、『聖書』と違い、儒教における『論語』の地位は意外に低かった。孔子自身の筆ではなく、門人の筆になる書物だから、というのがその理由である。それゆえ「五経」のうちには『論語』は入っていない。経典の数を拡大した「十三経」では『論語』も数のうちに入れてもらえるが、その序列は十三種類中の十番目、と後ろから数えたほうが早い。

〇儒教の「バイブル」は『書経』
 世界各地の文明では、「本」という普通名詞を固有名詞化すると、その文明の根本を支配する最も神聖な書物のタイトルとなることがある。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教の文明圏で単に「本」と言えば、聖書やコーランを指す。いっぽう中国で単に「書」(漢文では、本のことを「書」と呼ぶ)と言えば、『書』別名『尚書』『書経』を指す。この意味で儒教の「バイブル」は『書』であり、『論語』ではない。

〇800年前から『論語』がナンバーツーに
 宋の朱子(1130-1200)は、儒教の数ある経典のうち、『大学』『論語』『孟子』『中庸』の四種類の書物を「四書」に指定した。いわゆる「四書五経」の書物の顔ぶれは、この朱子学において確定した。『論語』は晴れてナンバーツーの書物となった。ただし朱子は学習の順番を指定しただけで、『論語』を含む四書の格付けを逆転させたわけではない。
 しかし後世、特に日本の庶民層において、四書は五経より格上であるという誤解が広まった。同時に日本では『論語』を四書の筆頭に置くという誤認も広まっている。
 四書は『大学』『論語』『孟子』『中庸』
 五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』

〇日本には応神天皇のころに伝わった?
 『古事記』によると、応神天皇(5世紀ごろ?)の時代に、百済(くだら)の学者・王仁(わに)が日本に『論語』と『千字文』を伝えたとされる。史実かどうかは怪しい。ただし東アジア各国において、『論語』と『千字文』が長いあいだ子供の手習いの入門書であったことは史実である。

〇近代西洋にも影響を与えた
 『論語』を含む儒教思想は、イエズス会のマテオ・リッチ(1552-1610)のころから西洋に紹介され、近代西洋の啓蒙思想家たちにも大きな影響を与えた。西洋人は孔子をConfuciusと呼ぶが、これは「孔夫子」の中国語の発音をラテン語化したものである。また『論語』の英訳タイトルは伝統的にAnalectsもしくは the Analects of Confuciusである。

〇『論語』は「リンギョ」、孔子は「クジ」と読まれていた
 普通の日本人が『論語』に親しむようになったのは、400年前の江戸時代からである。日本語では、仏教の漢字は呉音読みし、儒教の漢字は漢音読みする、という習慣がある。江戸時代の日本人は「論語」を漢音で「リンギョ」と読んだ(現代日本語では、論の漢音はロン)が、呉音で「ロンゴ」と読む場合もあった。また「孔子」を呉音で「クジ」と読むこともあった。
 日本語で「ロンゴ」「コウシ」という読み方に一本化するのは意外に新しく、100年あまり前の明治時代からである。

○【選読】孔子は典型的な中国人だった。人生を楽しむ現実主義者で、食通だった。
学而第一
子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。
 子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍みず、また君子ならずや。 (先生は言われた。「学んだことを後で実習する。なんと楽しいじゃないか。友達が遠くから来る。なんと嬉しいじゃないか。他人に認めてもらえなくても恨まない。まことに君子じゃないか」)

雍也第六
子曰、知之者、不如好之者。好之者、不如楽之者。
子曰く「之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず」と。
穂積重遠(ほづみしげとお)『新訳論語』の訳文:孔子様がおっしゃるよう、「知る者より好む者が上、好む者より楽しむ者が上じゃ。」

雍也第六
伯牛有疾、子問之、自牖執其手、曰、亡之、命矣夫、斯人也而有斯疾也、斯人也而有斯疾也。
 伯牛(はくぎゅう)、疾(やまい)あり。子、これを問う。牖(まど)より其の手を執(と)りて曰く「之を亡(ほろ)ぼせり、命(めい)なるかな。斯(こ)の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること」と。
魚返善雄『論語新訳』の訳文:伯牛がライ病なので、先生は見舞いにゆかれ、窓からかれの手をとって ―― 「おわかれだ。運命だなあ…。こういう人でも、こんな病気になるのか…。こういう人でも、こんな病気になるのか…。」
『呉大澂 篆書 論語』より江戸時代の和本の『論語』より

金谷治訳注『論語』岩波文庫1963/2006 p.111
 伯牛(はくぎゅう)、疾(やまい)あり。子、これを問い、牖(まど)より其の手を執(と)る。曰(のたま)わく、これを亡(ほろ)ぼせり、命なるかな。斯(こ)の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること。

貝塚茂樹訳注『論語』中公文庫1973/2009 p.155
 伯牛(はくぎゅう)、疾(やまい)あり。子、これを問う。牖(まど)よりその手を執(と)りて曰(のたま)わく、これ亡(な)し、命なるかな。斯(こ)の人にして斯の疾あるや、斯の人にして斯の疾あるや。

※「これを亡ぼせり」→おしまいだ。「これ亡し」→こんな道理があるはずがない。
cf.Web漢文大系 http://kanbun.info/keibu/rongo0608.html
雍也第六
樊遅問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、子曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣。
 樊遅(はんち)、知を問う。子曰く「民の義を務め、鬼神(きしん)を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし」と。仁を問う。曰く「仁者は難(かた)きを先にして獲(と)るを後にす。仁と謂うべし」と。
下村湖人『現代訳論語』の訳文:樊遅が知について先師の教えを乞うた。先師がこたえられた。――
「ひたすら現実社会の人倫の道に精進して、超自然界の霊は敬して遠ざける、それを知というのだ」
 樊遅はさらに仁について教えを乞うた。先師がこたえられた。――
「仁者は労苦を先にして利得を後にする。仁とはそういうものなのだ」
先進第十一
季路問事鬼神。子曰。未能事人。焉能事鬼。曰。敢問死。曰。未知生。焉知死。
 季路(きろ)、鬼神に事(つか)うることを問う。子曰く「未だ人に事うること能(あた)わず、焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼(き)に事えん」と。曰く「敢えて死を問う」と。曰く「未だ生(せい)を知らず、焉んぞ死を知らん」と。
下村湖人『現代訳論語』の訳文:季路が鬼神に仕える道を先師にたずねた。先師がこたえられた。――
「まだ人に仕える道もわからないで、どうして鬼神に仕える道がわかろう」
 季路がかさねてたずねた。――
「では、死とはなんでありましょうか」
 すると先師がこたえられた。――
「まだ生がなんであるかわからないのに、どうして死がなんであるかがわかろう」
述而第七
子在斉、聞韶、三月不知肉味、曰、不図為楽之至於斯也。
 子、斉に在(いま)して韶(しょう)を聞く。三月(さんげつ)肉の味を知らず。曰く「図らざりき、楽(がく)を為すことの斯(ここ)に至らんや」と。
魚返善雄『論語新訳』の訳文:先生は斉(セイ)の国で、「韶(ショウ)の曲」を三つきも聞いてならい、肉の味もわからなかった。そして ―― 「はてさて、よい音楽はこうもなるものか。」
郷党第十
食不厭精、膾不厭細、食饐而餲、魚餒而肉敗不食、色惡不食、臭惡不食、失飪不食、不時不食、割不正不食、不得其醤不食、肉雖多不使勝食氣、唯酒無量、 不及亂、沽酒市脯不食、不撤薑食、不多食、祭於公不宿肉、祭肉不出三日、出三日不食之矣、……
 食(いい)は精(しらげ)を厭(いと)わず。膾(なます)は細きを厭わず。食の饐(い)して餲(あい)せると魚の餒(あさ)れて肉の敗(やぶ)れたるは食(く)らわず。色の悪(あ)しきは食らわず。臭いの悪しきは食らわず。飪(じん)を失えるは食らわず。時ならざるは食らわず。割(きりめ)正しからざれば食らわず。其の醤(しょう)を得ざれば食らわず。肉は多しと雖(いえど)も、食(し)の気に勝たしめず。唯だ酒は量なく、乱に及ばず。沽(か)う酒と市(か)う脯(ほじし)は食らわず。薑(はじかみ)を撤(す)てずして食らう、多くは食らわず。公に祭れば肉を宿(よべ)にせず。祭の肉は三日を出ださず。三日を出ずればこれを食らわず。……
下村湖人『現代訳論語』の訳文:米は精白されたのを好まれ、膾(なます)は細切りを好まれる。飯のすえて味の変ったのや、魚のくずれたのや、肉の腐ったのは、決して口にされない。色のわるいもの、匂いのわるいものも口にされない。煮加減のよくないものも口にされない。季節はずれのものは口にされない。庖丁のつかい方が正しくないものは口にされない。ひたし汁がまちがっていれば口にされない。肉の料理がいろいろあっても、主食がたべられないほどには口にされない。ただ酒だけは分量をきめられない。しかし、取乱すほどには飲まれない。店で買った酒や乾肉は口にされない。生姜(しょうが)は残さないで食べられる。大食はされない。君公のお祭りに奉仕していただいた供物の肉は宵越しにならないうちに人にわけられる。家の祭の肉は三日以内に処分し、三日を過ぎると口にされない。口中に食物を入れたままでは話をされない。寝てからは口をきかれない。粗飯や、野菜汁のようなものでも、食事には必ずまずお初穂を捧げられるが、その敬虔そのものである。
○【参考図書】 金谷治『論語』岩波文庫 改版版(1999/11) 840円
       加藤徹『貝と羊の中国人』『本当は危ない『論語』』『漢文力』『怪力乱神』


第2回 『孫子』の兵法は戦争のテキスト? 実は日常の人間関係の哲理が満載です
キーワード・ポイント
 The Art of War(『孫子』) 戦術と戦略 南轅北轍 不戦必勝 上兵伐謀 攻心為上
 中国文明の「文」を設計したのが孔子なら、「武」を大成したのは孫子(孫武)です。戦争の本質は心理的かけひきです。最良の勝利は不戦必勝、つまり、そもそも敵に戦争を起こす気を起こさせぬことだ、と喝破する孫子の軍事思想は、歴代の中国に受け継がれています。武田信玄をはじめ、歴代の日本人は『孫子』をどう受容してきたか。わかりやすく説明します。

昔の日本人が手にした本の例 [
Google画像検索結果「和本 孫子」]

YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-luDl9GvNklEdpkMp-eRifj
○辞書的な説明 ※呉王闔閭の在位は紀元前514年-前496年。彼は「呉越同舟」「臥薪嘗胆」などの故事成語でも有名な呉越の戦いの時代の王であり、孔子(前552年/前551年−前479年)と同時代人。

○世界的な古典
 『孫子』は世界各国語に翻訳されている。英訳は、例えば以下で読める。
 https://en.wikisource.org/wiki/The_Art_of_War_(Sun)/Section_I

○孫武の略伝
 孫武の出自や行跡についての一次史料は乏しく、後世の二次史料ばかりである。彼は天才的な軍事専門家として戦争で活躍したはずなのに、なぜか『春秋左氏伝』などの古い時代の歴史記述には見えない。孫武の時代から4百年ほども後に成立した司馬遷の『史記』に載せる孫子の伝記を読むと、例えば「孫子勒姫兵」(そんしろくきへい)の挿話は、架空の説話であるかのような印象を受ける。孫武の著とされる『孫子』の記述も、世代累積型集団創作である可能性がある。
 これらの理由から、一時期、孫武は歴史上に実在した人物ではない、という説すら唱えられた。

〇7百年かけて成立した『孫子』
 歴史上「孫子」(孫先生、の意)と呼ばれる人物は二人いる。孫武(紀元前535年? - 没年不詳)と、彼の子孫の孫臏(そんぴん)である。
 兵法書の古典『孫子』は孫武の著と伝えられ、これとは別に『孫臏兵法』という書物もある。孫武については非実在説もあったが、1972年に山東省臨沂(りんぎ)県で出土した銀雀山漢簡の中に『孫子兵法』と『孫臏兵法』の竹簡があったことから、現在では、孫武と孫臏はそれぞれ実在した人物であるという説が有力である。
 ただし、現在のいわゆる『孫子』のうち、どこまでが孫武自身の思想で、どの部分が後世の付会や仮託であるのかについては、研究者の説は分かれる。
 21世紀現在の有力な説は、現行の『孫子』はおよそ7百年の歳月をかけて完成した世代累積型集団創作である、というものである。
 まず紀元前5世紀の初めごろ、歴史に実在した人物である孫武が、『孫子』の原型を執筆した。それを、兵法の歴代の後継者たちが加筆し、世代累積型集団創作の常として、時代がくだるほど記述量が増えた。後漢の末、西暦200年ごろ、三国志の英雄のひとりである曹操が当時の『孫子』の本文を整理して注釈を施し、現在の私たちが読む『孫子』が一応の完成を見た。

〇武経七書(ぶけいしちしょ)『孫子』『呉子』『尉繚子(うつりょうし)』『六韜(りくとう)』『三略』『司馬法』『李衛公問対』
 現在は『孫子』だけが突出して有名だが、昔の日本語では「孫呉」「六韜三略」などもよく使った。
cf.芥川龍之介『侏儒の言葉』「のみならず「戯考」は「虹霓関」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と剣戟とを用ひた幾多の物語を伝へてゐる。」
 芥川龍之介『島木赤彦氏』「僕はその日の夕飯を斎藤さんの御馳走になり、六韜三略の話だの早発性痴呆の話だのをした。」

〇孫子の兵法は世界的にも評価が高い。
Sun Tzu's The Art of War』(一九六三年) =英訳『孫子』に、リデル・ハート(B.H. Liddell Hart)が寄せた序文より。
 Sun Tzu's essays on The Art of War form the earliest of known treatises on the subject, but have never been surpassed in comprehensiveness and depth of understanding. They might well be termed the concentrated essence of wisdom on the conduct of war. Among all the military thinkers of the past, only Clausewitz is comparable, and even he is more `dated' than Sun Tzu, and in part antiquated, although he was writing more than two thousand years later. Sun Tzu has clearer vision, more profound insight, and eternal freshness.
[注] 〇The Art of War=「(孫子の)兵法」の英訳名 〇Sun Tzu=孫子 〇Clausewitz=『戦争論』の著者、クラウゼヴィッツ。


〇田忌賽馬(でんき さいば)の故事 『史記』「孫子・呉子列伝」より。これは、子孫の孫臏の話。
斉使者如梁。孫臏以刑徒陰見、説斉使。斉使以為奇、窃載与之斉。斉将田忌善而客待之。忌、数与斉諸公子馳逐重射。孫子見其馬足、不甚相遠。馬有上、中、下輩。於是、孫子謂田忌曰「君弟重射。臣能令君勝」。田忌信然之、与王及諸公子逐射千金。及臨質、孫子曰「今以君之下駟与彼上駟、取君上駟与彼中駟、取君中駟与彼下駟」。既馳三輩畢、而田忌一不勝而再勝、卒得王千金。於是、忌進孫子於威王。威王問兵法、遂以為師。
 斉(せい)の使者、梁(りょう)に如(ゆ)く。孫臏(そんぴん)、刑徒を以(もっ)て陰(ひそ)かに見(まみ)え、斉使に説く。斉使、以(もっ)て奇と為(な)し、窃(ひそ)かに載せて与(とも)に斉に之(ゆ)く。斉将田忌(でんき)、善(よみ)して之(これ)を客待す。
 忌(き)、数(しば)しば斉の諸公子と与に馳逐重射(ちちくちょうしゃ)す。孫子、其(そ)の馬足を見るに、甚(はなは)だしくは相(あひ)遠からず。馬は上、中、下輩有り。是(ここ)に於(おい)て、孫子、田忌に謂(い)ひて曰(いは)く「君、弟(ひとへ)に重射(ちょうしゃ)せよ。臣、能(よ)く君をして勝たしめん」と。田忌、信じて之(これ)を然(しか)りとし、王及び諸公子と千金を逐射(ちくしゃ)す。質に臨むに及び、孫子曰(いは)く「今、君の下駟を以(もっ)て彼の上駟に与て、君の上駟を取りて彼の中駟に与て、君の中駟を取りて彼の下駟に与てよ」と。既(すで)に三輩を馳せ畢(おは)りて、田忌、一は勝たずして再勝し、卒(つひ)に王の千金を得(う)。  是(ここ)に於(おい)て、忌、孫子を威王に進む。威王、兵法を問ひ、遂(つひ)に以(もっ)て師と為(な)す。
 斉の国の使者が、魏の都・梁に行った。孫子(孫武)の孫で兵法家の孫臏(そんぴん)は、当時、受刑者の身分だったが、こっそり使者と会見して、自説を披露した。斉の使者は彼を「奇才だ」と評価して、こっそり自分の馬車に乗せて斉に帰った。斉の将軍・田忌も彼の才能を評価し、優遇した。  田忌はよく、斉の王族の子弟たちと大金をかけて馬車競走をした。孫子(孫臏(そんぴん))が馬車のスピードを調べてみると、互いにそれほどの大差はなく、上中下の三ランクに分かれることがわかった。そこで孫子は田忌にアドバイスした。「今日はひたすら大金をかけてください。殿を勝たせてさしあげます」。田忌は信頼して、斉王(威王)とその子弟たちとの勝負に千金をかけた。(レースは、王族側と田忌側の馬車が三回対戦し、勝つ数をきそうものだった)。試合開始の直前、孫子は言った。「三回あるレースのうち、第一回は殿の最低の馬車を、相手の最高の馬車にぶつけてください。第二回は、殿の最高の馬車を、相手の二番目の馬車にぶつけてください。第三回は、殿の中堅の馬車を、相手の最低の馬車にぶつけてください」。三回のレースが終わった結果は、田忌は一回捨て石的に負けただけで二回勝つことができ、とうとう王の千金をせしめた。
 これを機に、田忌は孫子を威王に推薦した。威王は彼に兵法についてたずね、軍師とした。

〇孫臏にはこの他「囲魏救趙(いぎきゅうちょう)の計」や「増兵減竈(げんそう)の計」などの話が伝わる。

〇日本人で孫子を学んだ有名な例。

〇『孫子』選読
兵とは詭道(きどう)なり 『孫子』計篇第一
兵者詭道也。故能而示之不能、用而示之不用、近而示之遠、遠而示之近、利而誘之、乱而取之、実而備之、強而避之、怒而撓之、卑而驕之、佚而労之、親而離之。攻其無備、出其不意。此兵家之勢、不可先伝也。
 兵とは詭道(きどう)なり。ゆえに能(のう)なるもこれに不能を示し、用(よう)なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利(り)にしてこれを誘い、乱(らん)にしてこれを取り、実(じつ)にしてこれに備え、強(きょう)にしてこれを避け、怒(ど)にしてこれを撓(みだ)し、卑(ひ)にしてこれを驕(おご)らせ、佚(いつ)にしてこれを労し、親(しん)にしてこれを離す。その無備(むび)を攻め、その不意に出(い)ず。これ兵家の勢(せい)、先(さき)には伝うべからざるなり。
 戦争とはペテンの道である。ゆえに、本当はできる時はできぬように見せかけ、必要な時は必要としないように見せかけ、実は近づく時は遠ざかるように見せかけ、遠ざかる時は近づくかのように見せかける。敵が利益を欲する時は利益を餌におびきだし、敵が乱れていればそのすきをつき、敵が充実している時は防禦を固める。敵が強い時は戦いを避け、敵が感情的な時はわざと挑発して乱し、敵が謙虚ならこちらはもっと下手(したで)に出て相手を驕らせ、敵が休んでいたら疲労させ、 敵どうしの仲が良いなら仲違いさせる。敵の無防備なところをつき、敵の意表をつくのだ。兵家の作戦は臨機応変で千変万化なので、あらかじめ伝授することはできない。

敵を知り己(おのれ)を知らば・・・ 『孫子』謀攻篇第三
知彼知己者、百戦不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戦必殆。
 彼(かれ)を知り己(おのれ)を知る者(もの)は、百戦、殆(あや)ふからず。彼を知らず己(おのれ)を知れば、一勝一負す。彼を知らず己(おのれ)を知らずんば、戦ふ毎(ごと)に必ず殆ふし。
 戦争するとき、相手のことも自分のこともよく知っている者は、百回戦っても危なくない。相手のことはよく知らぬが、自分のことは知っている場合は、勝敗の率は半々だ。相手を知らず、自分のことも知らぬなら、戦うごとに危険である。

算(さん)少(すくな)きは敗(やぶ)る 『孫子』計篇第一
夫未戦而廟算勝者、得算多也。未戦而廟算不勝者、得算少也。多算勝、少算敗。況無算乎。吾以此観之、勝負見矣。
 夫(そ)れ未(いま)だ戦はずして廟算(びょうさん)して勝つ者(もの)は、算を得(う)ること多ければなり。未(いま)だ戦はずして廟算して勝たざる者(もの)は、算を得ること少ければなり。算多きは勝ち、算少きは勝たず。況(いはん)んや算無きをや。吾(われ)此(こ)れを以(もっ)て之(これ)を観るに、勝負見(あら)はる。
 実戦の前に彼我の能力を冷徹に計算するシミュレーション能力がすぐれている者は、実戦でも勝利する。シミュレーション能力が弱い者は、実戦の前にすでに敗北している。シミュレーション能力が優れている者は勝ち、劣っている者は勝てない。まして、シミュレーション能力がゼロの者の運命にいたっては、言うまでもない。私はシミュレーションにより、戦争の勝敗を予測することができる。

其(そ)の下(げ)は城(しろ)を攻(せ)む 『孫子』謀攻第三
故上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵、其下攻城。
 故(ゆゑ)に上兵は謀を伐(う)ち、其(そ)の次は交を伐ち、其(そ)の次は兵を伐ち、其(そ)の下は城を攻む。
 最高の戦略とは、敵にそもそも戦争する気を起こさせぬことである。次善の上策は、敵を外交的に抑えることである。その次の策は、敵の軍事力を叩くことである。最低の下策は、敵の本拠地を攻撃することである。

百戦百勝よりも不戦必勝を 『孫子』謀攻第三
孫子曰、凡用兵之法、全国為上、破国次之。全軍為上、破軍次之。全旅為上、破旅次之。全卒為上、破卒次之。全伍為上、破伍次之。是故百戦百勝、非善之善者也。不戦而屈人之兵、善之善者也。
 孫子曰(いは)く、凡(おほよ)そ用兵の法は、国(くに)を全(まった)うするを上(じょう)と為(な)し、国を破るは之(これ)に次(つ)ぐ。軍を全うするを上と無し、軍を破るは之(これ)に次ぐ。旅(りょ)を全うするを上と無し、旅を破るは之(これ)に次ぐ。卒(そつ)を全うするを上と為(な)し、卒を破るは之(これ)に次ぐ。伍(ご)を全うするを上と無し、伍を破るは之(これ)に次ぐ。是(こ)の故(ゆゑ)に、百戦百勝は、善の善なる者(もの)に非(あら)ざるなり。戦はずして人の兵を屈す、善の善なるものなり。
 戦争の原則。国の保全が最高で、国を破るのは二番目である。軍(軍隊の編成単位。周の制度では兵力一万二千五百人)の保全が最高で、軍を破るのは二番目である。旅(五百人)の保全が最高で、旅を破るのは二番目である。卒(百人)の保全が最高で、卒を破るのは二番目である。伍(五人)の保全が最高で、伍を破るのは二番目である。それゆえ、百戦百勝は最高の勝利とはいえない。戦わずに敵の戦意をねじふせることこそ、最高の勝利である。

囲師(いし)には必ず闕(か)く 『孫子』軍争篇第七
故用衆之法、高陵勿向、倍丘勿迎、佯北勿従、囲師遺闕、帰師勿遏。此用衆之法也。
 故(ゆゑ)に衆(しゅう)を用(もち)うるの法(ほう)は、高陵(こうりょう)には向(むか)ふ勿(なか)れ、倍丘(ばいきゅう)には迎(むか)ふる勿(なか)れ、佯(いつは)り北(に)ぐるには従(したが)ふ勿(なか)れ、囲師(いし)には闕(か)くるを遺(のこ)し、帰師(きし)には遏(とど)むる勿(なか)れ。此(こ)れ衆を用うるの法なり。
 軍隊を動かすときの原則。高地に陣取る敵は攻撃するな。高地を背に陣取る敵は迎撃するな。敗走するふりをする敵を追撃するな。敵を包囲するときは、わざと敵に逃げ道を残しておけ。帰国途上の敵を阻止しようとするな。これらが、軍隊を動かす原則である。

〇おまけ 『三国志・蜀書』馬謖伝より
用兵之道、攻心為上、攻城為下。心戦為上、兵戦為下。
 用兵の道は、心を攻むるを上となし、城を攻むるを下となす。心戦を上となし、兵戦を下となす。
 用兵の道は、相手の心を攻めるのが上策で、城を攻めるのは下策。心を動かす戦いは上策で、軍を動かす戦いは下策である。
 諸葛孔明が南征したとき、馬謖が述べた意見。

○その他
 かつて武術や武道の原型は殺人の技術だったが、現代では別の意義を見いだされ、老若男女や外国人も含めて、万人に学ばれている。
 孫子の兵法も、Art of War(戦争の技芸)だが、現代の日本では「かけひきの哲学を学ぶための教養書」としても人気がある。
 武術家で、合気道の塩田剛三(しおだ ごうぞう 1915-1994)の挿話。
 ある時、弟子に「合気道で一番強い技はなんですか?」と聞かれた塩田は、「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と答えたという。塩田自身は『日常、それ即ち武道』を信条としており、普段普通に道を歩いている時でも一切の隙が無かったと言われているが、生前弟子に対して「人が人を倒すための武術が必要な時代は終わった。そういう人間は自分が最後でいい。これからは和合の道として、世の中の役に立てばよい」と語り、護身術としての武道の意義を説いていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/塩田剛三 閲覧日2022年5月22日

第3回 『老子』は世捨て人の思想? 本当は実用的な処世術の指南書です
キーワード・ポイント
 Taoism(道家思想、道教) Tao Te Ching(道徳経=『老子』) 無為自然 無用の用 小国寡民 処世術
 日本人の多くは、『老子』を、世捨て人的な心の安らぎを説く本だと誤解しています。しかし、すなおに『老子』を読むと、「弱者が強者に負けない方法」を説く処世術や、無為自然による政治の有効性を主張する人間くさい書物であることがわかります。古来、中国人は、庶民も権力者も、建前では『論語』的な繁文縟礼を尊びつつ、本音では「老子の兵法」にあこがれ、これを実践してきたのです。『論語』と並ぶ世界的な古典『老子』のエッセンスを、わかりやすく紹介します。

昔の日本人が手にした本の例 [
Google画像検索結果「和本 老子」]

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○辞書的な説明
○世界的な古典
 『老子』は世界各国語に翻訳されている。英訳は、例えば以下で読める。
 https://en.wikisource.org/wiki/Tao_Te_Ching

○老子は姓は李、名は耳(じ)、字(あざな)は耼(たん)ないし伯陽。実在説と非実在説があり、仮に前者であっても複数の説がある。
 ある説話によると、老子は前六世紀の末ごろ、春秋時代の周の王室図書館の役人であった。若き日の孔子も老子に面会し、教えをこうたことがある。後に老子は、乱世を避けて中国を去り、隠遁することを決意した。関所を通過するとき、関所役人の尹喜(いんき)に請われ『老子道徳経』二巻、略して『老子』を書き残して去った。
 老子のその後の消息は不明だが、一説に、インドに行き現地の人々のために仏教を創始したと主張する人もいた(老子化胡説)。
 思想家としての老子は、中国の道教では「太上老君」として神格化された。『西遊記』の始めのほうの「八卦炉」の場面で孫悟空と絡んだりしている。

○『老子』は、『荘子』『列子』と並ぶ道家思想の古典。二巻、八一章、約五〇〇〇字で、それほど長くない。語彙も文体もやさしいが思想的には深い。また、南方の大河を示す「江」という単語を除き、固有名詞が出てこないのも特徴である。
 説話では老子の著とされるが、実際には、戦国時代の世代累積型集団創作的な道家思想の言説を、前漢の始めのころにまとめたものとされる。
 内容理解の鍵となる言葉は、以下のとおりである。形而上学的な思考と、世俗的な処世術がつながっているのが特徴である。

○参考語彙
三聖・・・老子・孔子・釈迦の3人の聖人を指すことが多い。三教(儒教・仏教・道教)の開祖。
道・・・英語ではTaoと言う。日本語では「みち」。老子の「道」は、宇宙的な天然自然の理法であり、自然の一部である人間もそれに従うべきだ、と考えられている。
足るを知る・・・欲望に歯止めをかけ、自分を他人と比較せず、世の中に絶対的なものはなく相対的なものばかりであることを諦観する。
無為自然・・・「有為」や「人工」の対概念。あるがままがよい、人間の浅知恵や作為で介入するのはよくない、という考え方。
処世術・・・「韜光養晦(とうこうようかい)」「卑弱謙下」を旨とし、水のように柔軟でへりくだる処世術を推奨する。
逆説・・・しばしば逆説的なレトリックを好む。
小国寡民・・・大きな政府を否定し、原始的で素朴な小規模村落共同体を理想とする。
黄老思想・・・神話伝説の太古の黄帝と老子を結びつけた、前漢初期の政治思潮。後漢には仏教と融合して「黄老浮図(こうろうふと)」という宗教信仰となった。

○一般的には、孔子の儒教はエリート主義的・現実主義的だが、老子は弱者に寄り添う隠遁者的だ、と思われている。しかし、よく読むと『老子』も非常に中国的であり、以下の点では『論語』と共通する。
・「神」ではなく「聖人」が出てくる
古来、中国が乱世になると、庶民は救世主たる聖人が登場して、民たち全員を食べさせてくれることを願った、と司馬良太郎は指摘する。文革末期の中国を旅した司馬は、毛沢東の権力構造の基礎に共同幻想としての聖人待望論を見た(『長安から北京へ』)。
・死後の世界や宇宙論への関心は薄い
・形式論理よりも具体的な比喩を多用
・政治のあり方や処世術について積極的に提言
・レトリック的には『荘子』や『韓非子』ほどには巧みではない。

○老子の影響を受けた人々
〇『老子』選読
第一章
道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
 道(みち)の道とすべきは、常(つね)の道に非(あら)ず。名(な)の名とすべきは、常の名に非ず。名無きは天地の始めにして、名有るは万物(ばんぶつ)の母なり。故に常に無(む)は以(もっ)て其(そ)の妙(みょう)を観(み)んと欲(ほっ)し、常に有は以て其の徼(きょう)を観んと欲す。此の両者、同じきより出(い)でて名を異(こと)にす。同じきは之を玄(げん)と謂(い)う。玄の又玄、衆妙の門なり。
 「道」とみなせる道は、本当の道ではない。名づけることのできる「名」は、本当の名ではない。名が無い状態が天地の始めであり、名が有る状態が万物の母である。まことに「永遠に欲望が無い者には『妙』が見えるが、永遠に欲望にしばられる者には末端しか見えない」。この両者は同じものから出てくるにもかかわらず、名を異にする。この同じものを「玄」と言う。玄のまた玄なるものは、衆妙の門である。
cf.Taoism、非即の論理・即非の論理

第二章
天下皆知美之爲美、斯惡已。皆知善之爲善、斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。
 天下、皆、美(び)の美為(た)るを知る、斯(こ)れ悪(あく)なるのみ。皆、善(ぜん)の善為るを知る、斯れ不善なるのみ。故に有無(うむ)相(あい)生(しょう)じ、難易(なんい)相成り、長短相形(あらわ)れ、高下相傾き、音声相和し、前後相随う。是(ここ)を以て聖人は、無為の事に処(お)り、不言の教えを行なう。万物作(おこ)りて辞せず、生じて有せず、為(な)して恃(たの)まず、功成りて居らず。夫(そ)れ唯(ただ)居らず、是を以て去らず。
 天下の人がみな美が美であることを知る。これこそ、みにくいことだ。みなが、善が善であると知る。これこそ、不善なことだ。まことに、有無は互いに生じ、難易は互いに生まれ、長短は互いにあらわれ、高下は互いにはっきりし、音声は互いに和し、前後は互いにくっついている。それゆえに聖人は、無為の事におり、不言の教えを行うので、万物は働かされても労苦を厭わない。聖人は作っても所有せず、為しても恩を着せず、功を立てても居座らない。そもそもはじめから居座らぬからこそ、その地位を去ることもないのだ。
第六章
谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門。是謂天地根。綿綿若存、用之不勤。
 谷神(こくしん)は死せず。是(こ)れを玄牝(げんぴん)と謂(い)う。玄牝の門、是れを天地の根(こん)と謂う。綿綿として存するが若(ごと)く、之(これ)を用うれども勤(つ)きず。
 谷神(こくしん)は死なない。これを玄牝(げんぴん)と言う。玄牝の門、これを天地の根と言う。綿々と存続するようであり、いくら用いても尽き果てることはない。

第八章
上善若水。水善利萬物而不爭。處衆人之所惡。故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤。
 上善(じょうぜん)は水の若し。水は善く万物を利して争わず。衆人の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に幾(ちか)し。(以下略)
 上級の善は水のようだ。水は万物に利益を与えてくれるが、万物と功を争わない。みながにくむ、低い場所へ、低い場所へと居続ける。だから道に近い存在と言える。

第九章
持而盈之、不如其已。揣而鋭之、不可長保。金玉滿堂、莫之能守。富貴而驕、自遺其咎。功成名遂身退、天之道。
 持(じ)して之を盈(み)たすは、其の已(や)めんに如(し)かず。揣(きた)えて之を鋭くするは、長く保つべからず。金玉(きんぎょく)堂(どう)に満つれば、之を能(よ)く守る莫(な)し。富貴(ふうき)にして驕れば、自(みずか)ら其の咎(とが)を遺(のこ)す。功成り名遂げて身退くは、天の道なり。
 満ちた状態を持続させるのは、やめた方がよい。刃を鋭くしても、その状態は長くは保てない。黄金や宝玉が堂宇に満ちれば、守りきれない。富貴で傲慢になれば、おのずと咎(とが)を残すことになる。功名を遂げたら身を退けるのが、天の道である。

第十八章 
大道廢、有仁義。智惠出、有大僞。六親不和、有孝慈。國家昬亂、有忠臣。
 大道(だいどう)廃(すた)れて、仁義有(あ)り。智恵出(い)でて、大偽(たいぎ)有り。六親(りくしん)和(わ)せずして、孝慈有り。国家昏乱して、忠臣有り。
 大道が廃れ、仁義があらわれる。知恵が出て、大偽があらわれる。六親が不和のとき、孝子があらわれる。国家が混乱するとき、忠臣があらわれる。
cf.「英雄がいない国は不幸だ」・・・「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸だ」(ブレヒト)

第二十五章
有物混成、先天地生。寂兮寥兮。獨立而不改、周行而不殆。可以爲天下母。吾不知其名。字之曰道。強爲之名曰大。大曰逝。逝曰遠。遠曰反。故道大。天大。地大。王亦大。域中有四大、而王居其一焉。人法地、地法天、天法道、道法自然。
 物有り、混成し、天地に先だちて生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり。独立して改めず、周行して殆(とど)まらず。以て天下の母為(た)るべし。吾、其の名を知らず。之に字(あざな)して道という。強(し)いて之に名づけて大と曰(い)う。大を逝(せい)と曰い、逝を遠と曰い、遠を反(はん)と曰う。故に道は大なり。天は大なり。地は大なり。王も亦た大なり。域中に四大あり、而うして王はその一に居る。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。
 ある「物」が混成し、天地に先だって生じた。それは寂寞(せきばく)寥々(りょうりょう)として、独立不変、周行しても力が衰えることはなく、この世界の「母」となることができた。私たちはその名前を知らないが、仮に「道」というあざなを付ける。しいて名前をつければ「大」と言う。「大」は「行く」ことであり、「行く」ことは「遠ざかる」ことであり、「遠ざかる」ことは「反る」ことである。それゆえ、道は大、天も大、地も大、「王」も大である。世界に四つの「大」があり、「王」はその一つを占めている。人は地にのっとり、地は天にのっとり、天は道にのっとり、道は「自然」にのっとる。
第四十七章
不出戸、知天下、不闚牖、見天道。其出彌遠、其知彌少。是以聖人不行而知、不見而名、不爲而成。
 戸を出でずして天下を知り、牖(まど)より闚(うかが)わずして天道を見る。其の出づること弥いよ遠ければ、其の知ること弥いよ少し。是を以て聖人は行かずして知り、見ずして名(あきらか)に、為さずして成る。
 戸外に出ることなく天下を知り、窓からのぞかずに天道を見る。出てゆくことが遠ければ遠いほど、知ることは少なくなる。それゆえ聖人は行かずに知り、見ずして名づけ、為さずして成る。

第六十三章
爲無爲、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。圖難於其易、爲大於其細。天下難事必作於易、天下大事必作於細。是以聖人終不爲大。故能成其大。夫輕諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之。故終無難。
 無為を為(な)し、無事(ぶじ)を事とし、無味を味わえ。小を大とし少を多とし、怨(うら)みに報ゆるに徳を以てす。難きを其の易(やす)きに図(はか)り、大を其の細に作(な)す。天下の難事は必ず易きより作(おこ)り、天下の大事は必ず細より作る。是を以て聖人は終(つい)に大を為さず。故に能く其の大を成す。それ軽諾(けいだく)は必ず信寡(すくな)く、易きこと多ければ必ず難きこと多し。是を以て聖人すら猶(なお)之(これ)を難(かた)しとす。故に終に難きこと無し。
 無為を為せ。無事を事とせよ。無味を味わえ。小を大とし少を多とせよ。怨みに報いるのに徳をもってせよ。困難は安易なところで解決を図れ、大事は細部で成し遂げよ。天下の難事は必ず簡単なことから起り、天下の大事は必ず些細なことから始まる。それゆえに聖人は、最後まで大事を為そうとせず、だからこそ大事を成し遂げる。およそ軽々しく承諾する者は必ず信用が少なく、安易に考えることが多いと必ず困難が増す。それゆえ、聖人でさえ困難とすることがらはある。かつ、だからこそ、最後は困難がなくなるのである。

第七十六章
人之生也柔弱、其死也堅強。草木之生也柔脆、其死也枯槁。故堅強者死之徒、柔弱者生之徒。是以兵強則滅、木強則折。強大處下、柔弱處上。
 人の生(い)くるや柔弱(じゅうじゃく)、其の死するや堅強(けんきょう)。草木(そうもく)の生くるや柔脆(じゅうぜい)、其の死するや枯槁(ここう)。故に堅強は死の徒(と)、柔弱は生の徒なり。是を以て兵強ければ則(すなわ)ち滅び、木強ければ則ち折らる。強大は下に処(お)り、柔弱は上に処る。
 生まれたばかりの人は柔弱であり、死ぬと堅強である。生きている草木は柔脆(じゅうぜい)であり、死ぬと枯れて固まる。ゆえに堅強なものは死の仲間であり、柔弱なものは生の仲間である。これゆえに、兵器は強すぎると勝てないし、木は強すぎると折れる。強大なものは下にあり、柔弱なものは上にある。

第八十章
小國寡民、使有什伯之器而不用。使民重死而不遠徙。雖有舟轝、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使民復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、樂其俗。鄰國相望、雞犬之聲相聞、民至老死不相往來。
 小国寡民(しょうこくかみん)には、什伯(じゅうはく)の器(うつわ)ありて而(しか)も用いざらしむ。民をして死を重んじて遠くに徙(うつ)らざらしむ。舟轝(しゅうよ)有りと雖(いえど)も之に乗る所無く、甲兵有りと雖も、之を陳(つらぬ)る所無し。民をして復(ま)た縄を結びて之を用いせしめ、其の食を甘しとし、その服を美とし、その居に安んじ、その俗を楽しましむ。隣国(りんごく)相望み、鶏犬(けいけん)の声相聞(あいき)こゆるも、民は老いて死するに至るまで相往来せず。
 国を小さくし民も少なくしよう。軍隊の兵器はあっても使わないようにさせ、民に死を重んじて遠くに移動させぬようにしよう。舟や車はあっても乗ることがなく、鎧や兵器があっても陳列する機会もないようにしよう。結縄(けつじょう)を復活させ人間を無文字時代に帰らせ、自分の食事をうまいと思い、自分の服を美しいと思い、自分の居場所に満足し、自分の日常を楽しむようにさせ、隣の国どうしが互いに見えて鶏や犬の声が互いに聞こえても、民が死ぬまで国境を往来することがないようにさせよう。
cf.丁抒(著)・森幹夫(訳)『人禍 1958~1962―餓死者2000万人の狂気』(学陽書房、1991)第21章 pp.280-281 安徽省の72歳の老人と、雲南省の中国残留日本人孤児の実例


第4回 『三国志』の英雄たちは強い? 強いけど中国の英雄は努力も職人芸も嫌いです
キーワード・ポイント
 Romance of the Three Kingdoms(『三国志演義』) 分久必合、合久必分 商人気質 漢・侠・士 天時・地利・人和 雅俗共賞
 『三国志』には、漢文古典の『正史三国志』と通俗小説の『三国志演義』の2種類があります。三国志は、日本でも江戸時代から大人気ですが、その理由は、三国志の英雄たちの人間関係が、日本にはないものだからです。日本人は宮本武蔵でも星飛雄馬でも、苦労して修行をつむ自己研鑽(じこけんさん)型の英雄豪傑を好みます。中国人は逆です。関羽も張飛も諸葛孔明も、修行はしません。彼らは生まれつきの超人であり、努力や自己研鑽はしません。どんな主人に仕えるか、どんな仲間と組むか、という人間関係のフォーマットで、勝負が決まります。日本人は職人気質。中国人は商人気質。三国志から見る、日本人と中国人の本質的な違いを、近現代の現実の事例を具体的にあげつつ、わかりやすく説き明かします。

昔の日本人が手にした本の例 [
Google画像検索結果「和本 三国志」]

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○辞書的な説明  こちらの頁も参照[三国志の人間観――古典からサブカルチャーまで――][京劇「三国志」のヒーロー 諸葛孔明と曹操][三国志 個性豊かなヒーローたち][初心者にもわかる「三国志」の世界 日本人と中国人を知るための教養講座][『三国志』の世界を愉しむ――古典からサブカルチャーまで――][『十八史略』の「三国志」の部分][横山三国志と京劇三国志][京劇「三国志」のヒーロー 諸葛孔明と曹操]

○三国志の見所
〇三つの三国志
 正史系:陳寿(233年-297年)が書いた漢文の正史『三国志』
 演義系:羅貫中が書いたとされる古典小説『三国志演義』(14世紀ごろ成立)。中国では『三国演義』と呼ぶほうが普通。
 アレンジ系:『三国志演義』以前の作品や、吉川英治の小説『三国志』など
※書籍としての『三国志』と、過去から現代に至るまでのコンテンツの総称としての「三国志」を区別する必要がある。
 現代日本語で単にサンゴクシと言うと、後者の、三国志系コンテンツの総称になる。平成世代はアニメやゲームの三国志から入る人が多い。書籍の『三国志』は、「正史三国志」「三国志演義」「吉川三国志」のように言う。

〇吉川英治(1892-1962)の小説『三国志』
 戦時中に新聞に連載。演義系の三国志を土台に独自のアレンジを数多く加え、日本の三国志文化に多大の影響を与えた。
 現在は、青空文庫でも全文を読める(こちら)

〇三国志の時代の略年表
 三国志の物語の大半は、三国時代が始まる前までの話である。
 後漢末から西晋建国までの約百年の物語。ただし、実質上は諸葛孔明が死ぬまでの前半の五十年間で、しかもその大半はまだ後漢の時代だった。
184年 黄巾の乱。
208年 赤壁の戦い。
220年 後漢、滅亡。三国時代の開始。
234年 蜀の諸葛孔明、五丈原で陣没。
239年 邪馬台国の女王・卑弥呼が、魏に遣使。
280年 西晋が中国を再統一。

〇ことわざや故事成語の宝庫
白波(しらなみ)・・・山西省の白波谷にたてこもった黄巾賊の残党が語源。
月旦(げったん)・・・許劭が曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評した話から。
髀肉之嘆(ひにくのたん)・・・荊州の劉表に身を寄せた、不遇時代の劉備の故事から。
三顧の礼・・・劉備が、20歳も年下の諸葛孔明のもとを三度も訪れた故事から。
水魚の交わり・・・劉備が、自分と諸葛孔明の関係をたとえて。
苦肉の策・・・「赤壁の戦い」直前の、周瑜と黄蓋の話から。
危急存亡の秋(とき)・・・出典は諸葛孔明の「出師表(すいしのひょう)」。
泣いて馬謖(ばしょく)を斬る・・・諸葛孔明が馬謖を罰した故事。
死せる孔明、生ける仲達を走らす・・・諸葛孔明の最後の作戦から。

〇人間の分類
階層 リーダー、スタッフ、ライン、フロント、フリーランス
特長 知、情、意
社会 雅、雅俗共賞、俗
※三国志には全てのタイプの人物が登場する。蜀グループについては以下のとおり。
孔明関羽
雅俗劉備
張飛
リーダーは劉備、スタッフは諸葛孔明、ラインは関羽と張飛、フロントは趙雲。劉備の前半生は、国を持たぬ傭兵軍団の長であり、フリーランサー(語源は、槍だけをもって自由に渡り歩く傭兵)であった。
〇「友情、努力、勝利」
 漫画週刊誌『少年ジャンプ』の、昔の「三本柱」。昭和・日本的な価値観。
 三国志も「友情、努力、勝利」の物語であるが、中国版では「努力」の方向性が違う。
 日本のヒーローは、宮本武蔵も星飛雄馬も、自分の心身を鍛えることで運命を切り開く、自己研鑽型である。修行や鍛錬が、物語の面白さになっている。
 中国のヒーローは、自分がすでに持っている才能を引き出してくれる人物を探し求めることで運命を切り開く、転職型である。出会いと流浪が、物語の面白さになっている。
 三国志には、関羽や張飛が武術の修行をするシーンも、諸葛孔明が苦学するシーンもない。関羽や張飛は、最初に登場した時点ですでに超人的な武芸者であったし、孔明も最初から天才である。彼らは、劉備という雅俗共賞型のヒーローと出会ったことで、運命が変わった。

〇三国志の三大勢力
★魏グループ 曹操をリーダーとする。最大勢力だが三国志コンテンツでは曹操は悪役ないしダーティーヒーロー。曹操の父親は宦官の養子で金持ちだった。
★呉グループ 孫権をリーダーとする。孫権は父と兄から地盤を受け継ぐ。
★蜀グループ 劉備をリーダーとする。劉備は前漢の景帝の末裔を自称。三国志コンテンツでは蜀グループを正義の主役とすることが多い。
 「天の時、地の利、人の和」。曹操は天の時を、孫権は地の利を、劉備は人の和をもってリーダーとなった、とされる。

〇主人公になる条件

○吉川英治の小説『三国志』の名場面
参考 青空文庫・吉川英治 https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1562.html
 
第5回 『西遊記』は子ども向け? もとはアダルトな成人向けエンターテインメントです
キーワード・ポイント
 Journey to the West(『西遊記』) 知情意 三教文化(儒道仏) 予定調和 クローズドエンド セレンディピティー
 日本人は『西遊記』を、孫悟空、猪八戒、沙悟浄が三蔵法師のお供をして天竺にお経を取りに行く子どもむけのファンタジー物語だと思っています。原作である中国の古典小説『西遊記』は実はオトナ向けの物語で、エロ・グロの設定が多々ある、オトナ用娯楽作品だったのです。オトナの視点で『西遊記』を見直すと、現代に至るまで中国人を呪縛する「予定調和的世界観」とか、中国人が理想とする人間関係のフォーマットなど、面白い発見がたくさんあります。手塚治虫のテレビアニメ『悟空の大冒険』(1967)や、堺正章主演のテレビドラマ『西遊記』(1978)など、日本化した西遊記との決定的な違いについても、わかりやすく解説します。
Cf.武田雅哉『西遊記:妖怪たちのカーニヴァル』2019/2/23

昔の日本人が手にした本の例 [
Google画像検索結果「和本 西遊記」]

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○ポイント、キーワード

○辞書的な説明 〇略年表
〇『西遊記』の虚構の背後にある史実
 玄宗皇帝等の「道先仏後」と則天武后「仏先道後」。
 玄奘三蔵がインドに向かった本当の理由。単に「お経」を入手するだけなら、必ずしも留学する必要はなかった。中国人は、外向的形式知や内省的暗黙知、外向的暗黙知は得意だったが、インド哲学やギリシア哲学が得意とする「内省的形式知」は不得意だったので、玄奘三蔵もそれを学ぶためにわざわざインドにまで向かった。
 富永仲基(1715〜1746)『出定後語』『翁の文』インドは「幻」、中国は「文」、日本は「絞」と概括した。 cf.[中国人の知恵][中国的思考法の限界と特長]
 昔の日本人が神仏習合であったように、中国の民間信仰も「仙仏融合」「道仏習合」であった。
 西洋人はオープンエンドの未知の冒険譚を好むが、中国人はクローズエンドの既知の冒険譚を好む。コロンブスと、鄭和の違い。『ガリバー旅行記』と『西遊記』の違い。
 『西遊記』の世界観では、セレンディピティはありえない。中国で、西洋的な意味での近代科学が誕生しなかった理由と同源である。

〇西遊記の世界観
 宇宙や世界は無限ではなく有限。全ては「お釈迦様の掌」の中。
 「九九八十一難」をクリアすれば目標達成。
 目的地はインド。「セレンディピティ」はありえない。
 西遊記は虚構の作品だが、これらの世界観は、中国人の歴史観や政治観、宗教観とも通底する。
 日本のSF作品は、西遊記インスパイア系が多い。『キャプテンウルトラ』『宇宙戦艦ヤマト』など。

〇西遊記のキャラクター配置 「知・情・意」と「雅・雅俗共賞・俗」で分類。
三蔵
雅俗共賞孫悟空白龍
猪八戒沙悟浄
 三蔵法師は雅知。孫悟空は、最初は知・俗、後に知・雅俗。猪八戒は情俗。沙悟浄は意・雅俗。
 白龍(玉龍とも。三蔵法師が乗る馬の正体)は、出番は少ない。
 「建前キャラ」と「本音キャラ」で分けると、三蔵法師は建前キャラ。孫悟空は、最初は本音キャラ、後に建前キャラ。孫悟空が建前キャラになったあと、猪八戒が登場して本音キャラを担当する。
 本音キャラは、読者や視聴者と、作品世界の超人的存在のあいだの距離を埋めるキャラクター。

毛沢東(1893-1976)が詠んだ漢詩「和郭沫若同志」一九六一年十一月十日
※毛沢東が、「孫悟空、天宮で大暴れ」と「孫悟空、三たび白骨の精を打つ」の話をふまえ、みずからを孫悟空にたとえ、後の「文化大革命」の発動をほのめかした漢詩。

一従大地起風雷、  一たび大地に風雷の起こりてより
便有精生白骨堆。  便ち精の白骨の堆きより生ずる有り
僧是愚氓猶可訓、  僧は是れ愚氓なるも猶ほ訓ふべし
妖為鬼蜮必成災。  妖は鬼蜮と為りて必ずや災を成さん
金猴奮起千鈞棒、  金猴 奮起す 千鈞の棒
玉宇澄清万里埃。  玉宇 澄清す 万里の埃
今日歓呼孫大聖、  今日 孫大聖を歓呼するは
只縁妖霧又重来。  只に妖霧の又重ねて来るに縁る

 ヒトたびダイチにフウライのオコりてより、スナワちセイのハッコツのウズタカきよりショウずるアり。ソウはコれグボウなるもナおオシうべし。ヨウはキイキとナりてカナラずやワザワイをナさん。キンコウ、フンキす、センキンのボウ。ギョクウ、チョウセイす、バンリのホコリ。コンニチ、ソンタイセイをカンコするは、ヒトエにヨウムのマタカサねてキタるにヨる。

 大地に嵐と雷が起きてから、白骨の山からとんでもない妖怪が生まれた。三蔵法師は愚かだがまだ再教育できる。妖怪は陰険な化け物なのできっと災厄をもたらすだろう。金色のサルが、千鈞の重さの如意棒を勢いよく振り回す。天上界の神々の宮殿の万里のほこりは、綺麗にはらわれる。今こそ、斉天大聖・孫悟空を歓呼の声で迎えるべきだ。その理由は、妖しい霧がまたぞろただよっているからに他ならない。

吉川英治(1892ー1962)『小説のタネ』「西遊記の面白さ」
 雑誌「文藝春秋」1957(昭和32)年11月号
 僕の読書ですか、読書といっても、くつろぎの気持で手を伸ばす本は、きまって美術書だとか、平易な科学書とか旅行記みたいな物ですね。この頃は怠けぐせになったんでしょうか、勉強のためになんて、読みませんな、ひとの小説もよほどでないとめったに読まない。以前は、暇さえあると、神田、本郷の古本屋街を日課のように歩いては買い集めましたがね、またその当時は片っ端から買って来るとすぐ読んだものですが、近年は買ってもすぐには読まんですな。読まないくせに、古書目録を見るとつい買いこんで、それがだんだん溜っちゃうんで、いまでは書庫に困ってますよ。けれど唯、カードだけは頭にあるんで、必要にせまると、もちろん役に立つわけです。ともかく、雑書雑然というやつです。
 最近、ちょっと思い寄りがあって、「西遊記」に関する本を大分集めましたよ。あの中の、孫悟空ってものは実におもしろい。少年時代から「西遊記」は三、四回ぐらい読んでいますね。今年は軽井沢で暇があったので、孫悟空研究ってほどじゃないけど、ひとつ、おさらいをしてみようと思って、もう一回全編を読んでみました。そして「西遊記」の作者の空想力にあらためて驚嘆したですよ。いかに僕が空想家だと云っても、あれにはとてもかなわない。日本の古典とおなじように、「西遊記」の作者も誰なのか、よく分ってませんが、魯迅の説だと、明代の呉承恩だといってますね、ま、それはとにかく、あの雄大な空想力というものは、島国に生れた作家の小ッさい空想などとはてんでケタが違うんだな。まったく天衣無縫ですよ。
 けれど、あの「西遊記」も、今日読んでみると、おもしろいのは、全編の五分の一ぐらいのところ迄でしょうか。あとはどうも面白くない。然し、その空想力の逞しさは、たとえば今日の科学者が電子、量子へ向って、挑みかけている夢とも匹敵するほどなもんですよ。東洋の四大奇書の一つといわれるわけですね。惜しむらくは、前半以後になると、悪魔外道の出没とおなじ手法のくり返しになっちゃって、退屈を感じ出させますが、少年時分によくも克明にあんな大部な物を読んだもんだと、幼い頃の読書慾にも、われながら、つくづく感心しちゃったな。
 ところで、その「西遊記」は、今日までに幾たびも翻訳翻案されてますが、これを現代にとって書いたらどうなるかなんて、ついまた空想をほしいままにしてみたんです。
 悟空というあの半人半猿の性格は、現代人のたれの中にもいる一種の怪物ですからね。三蔵法師が天竺に経を求めにゆく願望を、今にすれば、さしずめ、人類の浮沈にかかわる原水爆のことになるでしょうな。人類が原水爆を使うか使わないかというのがラストでいいでしょう。悟空がよく駈けつける観世音菩薩は、真理の象徴とか、愛の具現とかになりますね。猪八戒と沙悟浄とは、われわれ仲間の現代人です。そういった仮設で、あの悟空を現代に用いて、二十世紀の三千世界を舞台にする。地球はもちろん、地軸から地上、天上から九天までを大舞台として現代を書けば今のあらゆる世態が書けると思う。思想、政治諷刺、小さくは銀座から汚職までね、飯茶碗の中まで書けるんじゃないですか。僕の空想癖でやれば……いや今は書きはしませんよ、もし書くとすればですね、悟空が自分の毛を抜いて、ふッと吹きさえすれば、変身の術を行うから、彼を用いて、一度は女体の子宮にも入れてみたいなんて思いますね、悟空という半人間の生命を一ぺん精子に戻して、そこから再出発させてみたい。まだ世に出ない子宮の中で、篤と、人間っていうものの出発を考え直さしてみたいような気がしますね。そして現行の政治方式というものやら何々主義などと絶対的に思われているものが、果してほんとに人間の社会の暮し方に好適なものか、どうかなんてことを、悟空に考えさせてみるわけです。
 いや、そんなことを云っても、やっぱり書くのはむずかしいな。一朝一夕にはやれないな。空想ってやつは、孫悟空が何万里を一瞬に駈けるようなもんで、とめどもないが、われに返ッてみたら、如来の手のヒラを駈けていたに過ぎなかったっていうようなもんですな。……しかしこの夏は「西遊記」を手に悟空と共に宏大無辺を遊びましたよ。
 「西遊記」には、後代に書かれた「後西遊記」もあるけれど、「後西遊記」はつまらない。「続金色夜叉」の類で、いけないですね。また、小説の「西遊記」には、史実の種本があるんですよ。千三百年の昔、大唐の長安から、その頃の中央亜細亜を通って、十八年がかりで印度へ行った玄奘三蔵法師の旅行記がそれなんです。その「大唐西域記」は三蔵自身の記録といわれてるから、ほとんど史実ですからね、そんな厳然たる史実をとって、あんな奔放きわまる空想を書いたんですから、じつに自由無礙な想像力です、いわゆる大陸文学というもんでしょう、とても小国作家の頭脳ではありませんね、敬服しますな。

中谷宇吉郎(1900-1962)「『西遊記』の夢」
「文藝春秋」1943(昭和18)年1月1日
 子供の頃読んだ本の中で、一番印象に残っているのは、『西遊記』である。
 もう三十年も前の話であり、特に私たちの育った北陸の片田舎には、その頃は子供のための本などというものはなかった。(中略)
 漸く振仮名を頼りに読めるようになった時に、最初にとっついたのが『西遊記』であった。この頃になって、久しぶりで手にしてみると、劈頭から、南贍部洲(なんせんぶしゅう)とか、傲来(ごうらい)国とかいうようなむつかしい字が一杯出て来る。こういう画(かく)の多い字が一杯並んで、字づらが薄黒く見えるような頁が、何か変化(へんげ)と神秘の国の扉のように、幼い心をそそった。
 面白さは無類であった。学校から帰ると、鞄(かばん)を放り出して、古雑誌だの反故だののうず高くつまれた小さい机の上で『西遊記』に魂をうばわれて、夕暮の時をすごした。昼でも少し薄暗い四畳半の片隅には、夕闇がすぐ訪れた。その訪れにつれて、本を片手にだんだん窓際に移って行った。ふと顔をあげると、疲れた眼に、すぐ前の孟宗籔の緑が鮮やかにうつった。
 仏教の寓意譚であるという『西遊記』が、これほど魅魔的に感ぜられたのは、雰囲気のせいもあった。その頃の加賀の旧い家には、まだ一向一揆時代の仏教の匂いが幾分残っていた。
 一番奥の六畳間(ま)が、仏壇の間になっていた。仏壇の間は昼でも薄暗かった。家に不相応な大きい仏壇は旧くすすけていて、燈明の灯がゆるくゆれると、いぶし金の内陣が、ゆらゆらと光って見えた。(中略)
 時々燈明がぼうっと明るくなると、仏壇の中の仏像だの、色々な金色(こんじき)の仏様の掛軸だのが、浮いて見えた。そして孫悟空のいた時代がそう遠い昔とは感ぜられなかった。

○呉承恩の古典小説『西遊記』の名場面。
 以下の【原文】は https://zh.wikisource.org/wiki/西遊記 を使用し、字体や句読点などは加藤徹が改変した。【大意】は拙訳。

  1. 呉承恩『西遊記』第7回より
     八卦炉中逃大聖  老子の八卦炉から逃げ出した悟空は
     五行山下定心猿  如来の五行山の下に封じ込められる
    (その昔、下界のサルの妖怪であった孫悟空は、みずから「斉天大聖」(せいてんたいせい。天にひとしき偉大で神聖な存在)と名乗り、天界になぐりこみをかけた。悟空は、暴れん坊の子どものように単純な性格だったが、神通力は強大で、天宮の神々すらも歯が立たない。神々は、西天の釈迦如来に助けを求めた。釈迦如来は、悟空をさとした)

    【原文】仏祖聴言、呵呵冷笑道「你那廝乃是個猴子成精、焉敢欺心、要奪玉皇上帝尊位? 他自幼修持、苦歴過一千七百五十劫。毎劫該十二万九千六百年、你算他該多少年数、方能享受此無極大道? 你那個初世為人的畜生、如何出此大言? 不当人子、不当人子、折了你的当算。趁早皈依、切莫胡説。但恐遭了毒手、性命頃刻而休、可惜了你的本来面目。」
    【大意】お釈迦様は孫悟空の言葉を聞くと、ハハハ、と冷笑なさり、
    「おまえごとき化け猿が、天帝の位を奪うとは笑止千万。天帝は幼少から1750劫もの修行を積んで天帝になったのじゃ。1劫は12万9600年だ。何年かかったか計算してみよ。おまえのような、人になったばかりの畜生が大口をたたきおって。人でなしめ、人でなしめ。命を縮めることになるぞ。さっさと、おとなしく帰順しなさい。お仕置きを受けたら、おまえはたちまち命も何もかもなくすことになるぞ」

    【原文】大聖道「他雖年幼修長、也不応久占在此。常言道:『皇帝輪流做、明年到我家。』只教他搬出去、将天宮譲与我、便罷了;若還不譲、定要攪攘、永不清平。」
    【大意】悟空は「天帝が子どものころからどれだけ修行しようと関係ねえ。いつまでも地位を独占するだなんて。ほれ、『皇帝はまわりもち、来年はうちがなる』って言うだろ。やつを引越しさせて、天宮は俺がもらうぜ。ぐすぐすしやがると、また大暴れするぞ」

    【原文】仏祖道「你除了長生変化之法、再有何能、敢占天宮勝境?」
    【大意】お釈迦様は「おまえは長生変化の法術のほかに、どんな技能がある? 天宮を占拠する資格があるというのか?」

    【原文】大聖道「我的手段多哩:我有七十二般変化、万劫不老長生;会駕觔斗雲、一縦十万八千里。如何坐不得天位?」
    【大意】悟空は「俺さまの技は多いぜ。72とおりの変身術に、1万劫にわたる不老不死、それに觔斗雲に跳び乗りゃあ10万8千里をひとっ飛びだ。どうだ、これでも俺様が天帝になれねえ、ってか?」

    【原文】仏祖道「我与你打個賭賽:你若有本事、一觔斗打出我這右手掌中、算你贏、再不用動刀兵、苦争戦、就請玉帝到西方居住、把天宮譲你;若不能打出手掌、你還下界為妖、再修幾劫、却来争吵。」
    【大意】お釈迦様は「では、私とおまえとで勝負しよう。もしおまえが、觔斗雲の術で私の右手の手のひらの中から飛び出すことができたら、おまえの勝ちとしよう。いくさをするまでもなく、天帝には西天に引っ越してもらい、天宮をおまえに譲らせる。だがもし、おまえが私の手のひらの外に出られなかったら、おまえは下界に戻り、修行をやり直して、出直してこい」

    【原文】那大聖聞言、暗笑道「這如来十分好獃。我老孫一觔斗去十万八千里、他那手掌方円不満一尺、如何跳不出去?」急発声道「既如此説、你可做得主張?」
    仏祖道「做得、做得。」伸開右手、却似個荷葉大小。
    【大意】孫悟空はこれを聞いて、心のなかでせせら笑いました。「如来のやつはバカだねえ。俺様の觔斗雲は10万8千里をひとっ飛びだ。やつの手のひらのサイズは一尺にも満たない。飛び出せないわけはない」。悟空はすぐに「よっしゃ、じゃ、勝負だな」と答えました。
     お釈迦様は「では、いざ勝負だ」と右手を開くと、ハスの葉くらいの大きさでした。

    【原文】那大聖収了如意棒、抖擻神威、将身一縦、站在仏祖手心裏、却道声「我出去也。」你看他一路雲光、無形無影去了。仏祖慧眼観看、見那猴王風車子一般相似不住、只管前進。
    【大意】孫悟空は、如意棒をしまうと、神通力でサッと身をひるがえし、お釈迦様の手のひらの中心に立ち「じゃ、行くぜ」と言いました。悟空は、みるみるうちに雲か光のような速さで進み、影も形も見えなくなりました。お釈迦様が慧眼でご覧になると、悟空は風車みたいにクルクル回転しながら進んでゆきます。

    【原文】大聖行時、忽見有五根肉紅柱子、撐著一股青気。他道「此間乃尽頭路了。這番回去、如来作證、霊霄宮定是我坐也。」又思量説「且住、等我留下些記号、方好与如来説話。」
    抜下一根毫毛、吹口仙気、叫「変!」、変作一管濃墨双毫筆、在那中間柱子上写一行大字云:「斉天大聖、到此一遊。」
    写畢、収了毫毛。又不荘尊、却在第一根柱子根下撒了一泡猴尿。
    【大意】悟空は進むうちに、五本の肉色の柱が目に入りました。青い気が立ち上っています。「さしずめ、ここが宇宙の果てだな。戻ったら、如来を保証人にして霊霄宮を俺のもんにしてやる」と思った悟空は「まてよ。如来と話をつけやすいように、ここまで来た印を残しとくか」
     悟空は毛を一本抜き「変われ」と仙気を吹きかけ、墨をたっぷり含んだ筆にすると、5本の柱の真ん中の柱に「斉天大聖、ここに一遊す」と大書し、ついでに1本目の柱の根元に向かって立ち小便をしました。

    【原文】翻転觔斗雲、径回本処、站在如来掌内道「我已去、今来了。你教玉帝譲天宮与我。」
    如来罵道「我把你這個尿精猴子、你正好不曾離了我掌哩。」
    大聖道「你是不知。我去到天尽頭、見五根肉紅柱、撐著一股青気、我留個記在那裏、你敢和我同去看麼?」
    如来道「不消去、你只自低頭看看。」
    那大聖睜円火眼金睛、低頭看時、原来仏祖右手中指写著「斉天大聖、到此一遊」。大指丫裏、還有些猴尿臊気。
    【大意】悟空は觔斗雲をひるがえし、如来の手のうちに戻り、
    「さあ、戻ってきたぜ。約束どおり、天帝が俺様に天宮を譲るよう、天帝に言いな」
    お釈迦様は怒って「この小便ザルめが。おまえは私の手のひらから出ておらん」
     悟空は「俺が天の端っこまで行ってきたのを知らねえのか。肉みてえな赤い色の柱が5本立って、青い気が立ち上ってたぞ。証拠の印をつけてきた。いっしょに見に行くかい」
    「見に行くまでもない。下を見よ」
     悟空が火眼金睛を見開いて下のほうを見ると、あれれっ? お釈迦様の手のひらの中に「斉天大聖、ここに一遊す」と書いてあるじゃありませんか。親指の付け根からは、アンモニア臭がたちのぼっています。

    【原文】大聖吃了一驚道「有這等事? 有這等事? 我将此字写在撐天柱子上、如何却在他手指上? 莫非有個未卜先知的法術? 我決不信、不信。等我再去来。」
    【大意】悟空はびっくりして「ありえねえ、ありえねえ。天をささえる柱に書いた字が、なんでやつの指の上に? まさかこれって、未卜先知の法術、かよ。ウソだ、ウソだ。もういっぺん行ってくる」

    【原文】好大聖、急縦身又要跳出。被仏祖翻掌一撲、把這猴王推出西天門外、将五指化作金、木、水、火、土五座聯山、喚名「五行山」、軽軽的把他圧住。
    衆雷神与阿儺、迦葉一個個合掌称揚道「善哉、善哉!」
    【大意】悟空がパッと身を躍らせて飛び出ようとすると、お釈迦様は手のひらをパンとひっくりかえし、悟空を西天の門の外に押し出しました。5本の指はそれぞれ金、木、水、火、土の5つの山となりました。この一連の山脈、人呼んで「五行山」は、悟空を軽々と下敷きにしたのです。
     雷神たちや、仏弟子の阿難や迦葉は、みな合掌して「よきかな、よきかな」と賛美しました。

    (山の下に封じ込められた孫悟空は、五百年後、通りかかった三蔵法師の弟子となり、いっしょに天竺まで取経の旅のお供をすることになる)

  2. 呉承恩『西遊記』第72回より
     盤糸洞七情迷本  盤糸洞の七美女は妖しい力で
     濯垢泉八戒忘形  濯垢泉で八戒を動けなくした
    (三蔵法師の一行は田舎を進む。三蔵は、斎(とき)をもらうため、孫悟空・猪八戒・沙悟浄を道で待たせて、自分はひとり鉢をもって一軒家をたずねた。屋敷の中には7人の美女がいた。屋敷の奥は岩の洞窟なっていた。)

    【原文】此時有三個女子陪著、言来語去、論説些因縁。那四個到廚中撩衣斂袖、炊火刷鍋。你道他安排的是些甚麼東西? 原来是人油炒煉、人肉煎熬:熬得黒糊充作麺觔様子、剜的人脳煎作豆腐塊片。両盤児捧到石卓上放下、対長老道「請了。倉卒間、不曾備得好斎、且将就吃些充腹。後面還有添換来也。」
    【大意】女子たちのうち3人は、三蔵と仏法の因縁についておしゃべりし、残りの4人は厨房へ行き着物の袖をまくって、鍋で料理をはじめました。何を料理してるのか、わかりますか? なんと、人間の油で、人間の肉を炒めた料理だったのです。黒く焦がして麺筋みたいにしたり、人間の脳みそをえぐり出して豆腐のかたまりみたいにしたり、いやはや、その料理をふたつの皿に盛って石のテーブルの上に置き、三蔵に向かって、
    「急いで作りましたので、たいした精進料理ではございませんが、どうぞお召し上がりください。おかわりは、いくらでもございますよ」

    【原文】那長老聞了一聞、見那腥膻、不敢開口、欠身合掌道「女菩薩、貧僧是胎裏素。」
    衆女子笑道「長老、此是素的。」
    長老道「阿弥陀仏! 若像這等素的啊、我和尚吃了、莫想見得世尊、取得経巻。」
    衆女子道「長老、你出家人、切莫揀人佈施。」
    長老道「怎敢、怎敢。我和尚奉大唐旨意、一路西来、微生不損、見苦就救;遇穀粒手拈入口、逢糸縷聯綴遮身。怎敢揀主佈施?」
    衆女子笑道「長老雖不揀人佈施、却只有些上門怪人。莫嫌粗淡、吃些児罷。」
    長老道「実是不敢吃、恐破了戒。望菩薩養生不若放生、放我和尚出去罷。」
    【大意】三蔵が料理のにおいをかぐと、なまぐさい。口をつけずに身をかがめて合掌し、
    「女菩薩どの。貧道は生まれてこのかた肉は食べませぬ」
     女たちは笑い「これは精進料理ですわ」
     三蔵は「南無阿弥陀仏! もし、かような精進料理を、わたくしのような和尚が食べたなら、世尊にまみえお経をいただくことができなくなります」
     女たち「まあ、あなたのような出家のおかたが、布施のよりごのみをなさるのですか」
     三蔵は「いえいえ、わたくしは僧侶として大唐国の命を奉じ、西へと向かう身です。どんな小さな命も傷つけず、苦しむ人を救いつつ、一粒の穀物を得られればすぐ口にし、質素なボロ着で旅をする身。お布施のえり好みだなんて、ぜいたくは申しませぬ」
     女たちは笑い「お布施をえり好みなさらぬのはけっこうですが、どうやら、お疑いのお心がちょっとおありのようですね。さあ、なにもございませんが、どうぞお箸をおつけくださいましな」
     三蔵は「無理です。破戒僧になってしまいます。『養生は放生にしかず』です。どうぞ私を帰らせてください」

    (途中略。7人の娘たちは暴力的な本性をあらわして、三蔵をつかまえて縛り上げ、上から吊した)

    【原文】那長老雖然苦悩、却還留心看著那些女子。那些女子把他吊得停当、便去脱剥衣服。長老心驚、暗自忖道「這一脱了衣服、是要打我的情了。或者夾生児吃我的情也有哩。」 原来那女子們只解了上身羅衫、露出肚腹、各顕神通:一個個腰眼中冒出糸縄、有鴨蛋粗細、骨都都的、迸玉飛銀時下把荘門瞞了不題。
    【大意】三蔵は困難のなかでも、娘たちの様子をしっかり観察し続けます。娘たちは、三蔵を縛りあげて吊すと、服を脱ぎ始めました。三蔵はびっくりして、心のなかで「服を脱いで、私を欲情させる気か。もしや、私をなぶって私の精をゴックンするつもりなのか」と思いました。
     さて娘たちは上半身だけ裸になってトップレスになると、おなかをむき出しにし、それぞれ神通力をあらわしました。娘らのへその穴から、アヒルの卵ほども太いクモの糸の縄が、ゴボゴボと、宝玉や銀のようにキラキラ輝きながらほとばしり出てきて、それが屋敷の門をびっしりと覆いかくしたのです。

    (途中省略。悟空と猪八戒、沙悟浄は、外の道で待っていたが、三蔵はいつまでも帰ってこない。悟空が代表して探りに行った。悟空は地元の土地神を呼び出し、事情を聞く。ここの盤糸洞という名の洞窟には7人の女の妖怪が住んでおり、その昔、天上の七仙姑が湯あみしたといういわれがある伝説の温泉「濯垢泉」で毎日3回も入浴する。土地神から情報を仕入れた孫悟空は、変身して羽虫となり、門から出てきた謎の7人娘を追跡した。)

    【原文】那些女子見水又清又熱、便要洗浴、即一斉脱了衣服、搭在衣架上、一斉下去。被行者看見:
     褪放紐扣児、解開羅帯結。
     酥胸白似銀、玉体渾如雪。
     肘膊賽氷鋪、香肩疑粉捏。
     肚皮軟又綿、脊背光還潔。
     膝腕半囲団、金蓮三寸窄。
     中間一段情、露出風流穴。
    那女子都跳下水去、一個個躍浪翻波、負水頑耍。
    【大意】7人娘は、温泉の湯が澄みきっていい湯加減だとみると、一斉に服を脱いで衣紋掛けに掛け、そろって脱ぎ続けました。その様は悟空にのぞき見されました。
     服のボタン(紐扣児)をときはなち、シルクの帯をゆるめると
     銀のように白い胸、雪のような玉の肌
     すらりと氷のような腕、おしろいをかためたような肌
     おなかはすべすべと柔らかく、背中はきれいでつやつやと
     膝や腕はむっちりと、きれいな素足はキュッとしまり
     その間にはそそられる、風流の穴が丸見えだ
    娘らは湯に飛び込み、それぞれ波しぶきを立てて、泳ぎまわりました。

    (途中省略。悟空は、女たちが掛けていた衣類をかっさらって、八戒と沙悟浄のもとに戻る。悟空は、妖怪とはいえ相手は女だから打ち殺すのは気がひける、と言う。八戒は、それなら俺が、とひとりで向かう。八戒は、温泉の7人の美女たちに「俺も混浴させてくれ」と言って湯にとびこみ、女たちの股ぐらのあいだを泳ぎまわる。女たちは全裸で逃げ出す。八戒は追いかける。女たちは腹からクモの糸を吐き出して地面をおおい、八戒はネバネバした糸に足を取られる)

    【原文】那怪物却将他困住、也不打他、也不傷他、一個個跳出門来、将糸篷遮住天光、各回本洞。到了石橋上站下、念動真言、霎時間、把糸篷収了、赤条条的跑入洞裏、侮著那話、従唐僧面前笑嘻嘻的跑過去。
    【大意】化け物どもは猪八戒を動けなくすると、それ以上は傷つけず、それぞれ外へと跳び出して、クモの糸を日よけにして洞窟まで駆け戻りました。女どもは、石の橋のたもとに来るとムニャムニャと真言をとなえ、クモの糸の日よけをスルスルッと体内に収め、ヌードのまま洞窟に駆け込むと、吊した三蔵の目の前を、キャッキャッと笑いころげながら駆け抜けました。

    (以下省略。悟空らの活躍により、三蔵は救出され、西への旅を続ける。)

  3. 呉承恩『西遊記』第99回より
     九九数完魔剗尽 99、81難をクリアして魔は全て消え去り
     三三行満道帰根 33が9の行は満ちて修行の道は大団円に
      (全100回の99回目。無事に天竺に到達し、お釈迦様からお経をもらった三蔵法師の一行は、東の唐をめざして帰路につく。道中をずっと見守っていた観音菩薩は、あることに気がつく)

    【原文】菩薩将難簿目過了一遍、急伝声道「仏門中九九帰真。聖僧受過八十難、還少一難、不得完成此数。」即命揭諦「趕上金剛、還生一難者。」
    【大意】観音菩薩は、苦難のリストに目を通すと、すぐ大声で「仏門で真如に帰依するには99、81難が必要。三蔵どのは80難はクリアしたが、あと1難足りぬ。未完成だ」と言い、即座に揭諦に「すぐに八大金剛を追いかけ、1難を追加させなさい」と命じました。

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