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孔子とイエス・キリストの比較 中国的知性の特長と限界

最新の更新2020-12-2   最初の公開 2020-12-2

朝日カルチャーセンター・千葉 2020年12月3日
 孔子の言行録『論語』は世界的な古典です。例えば英語でも単に Analects (「語録」の意)と書くだけで、ギリシャ哲学でもキリスト教でもなく Confucius(孔子)の語録すなわち『論語』を指すほどです。東洋と西洋の文明は、それぞれ儒教とキリスト教をぬきに語れません。本講座では、21世紀の今も多大の影響を与えている孔子とイエスを比較し、東洋と西洋の本質的違いをわかりやすく説明します。

★現代への影響
 孔子 → 儒教(志と学び) → エリート主義・「古人主義」は現代の中国の政治・経済・文化にも影響
 イエス → キリスト教(福音の信仰) → 普遍主義・個人主義は現代の科学、民主主義にも影響

★黄金律の比較
 孔子とイエスは似たことを言っている。
孔子の言葉
『論語』顔淵第十二の2節。衛霊公第十五の第23節にも重出。
己所不欲、勿施於人。 己の欲せざる所は人に施す勿れ。
オノレのホッせざるトコロはヒトにホドコすナカれ。

イエスの言葉
『新約聖書』「マタイによる福音書」7章12節より
 凡(すべ)て人に為(せ)られんと思ふことは、人にも亦(また)その如くせよ。(『舊新約聖書』 神戸英国聖書協会 1927年刊)

★伯牛を救えなかった孔子と、ラザロを復活させたイエス
孔子
 孔子の時代の漢字は篆書よりも古い字体だった。写真は『呉大澂 篆書 論語』

『論語』雍也第六より
【原漢文】伯牛有疾子問之自牖執其手曰亡之命矣夫斯人也而有斯疾也斯人也而有斯疾也
【訓読】金谷治訳注『論語』岩波文庫1963/2006 p.111より
 伯牛(はくぎゅう)、疾(やまい)あり。子、これを問い、牖(まど)より其の手を執(と)る。曰(のたま)わく、これを亡(ほろ)ぼせり、命なるかな。斯(こ)の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること。
【大意】伯牛が病気になった。先生が訪問し、窓から彼の手をとって言われた。 「終わりなのか。運命なのか、このような人がこのような病になるとは。運命なのか、このような人がこのような病になるとは」

イエス
『ヨハネによる福音書』第11章より(『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年)
11:1さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤの人であった。(中略) 11:17さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていた。(中略) 11:39 イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。 11:40 イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。 11:41 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。 11:42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。 11:43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。 11:44 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。 11:45 マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。

★死後の世界について
『論語』先進第十一より
【原漢文】季路問事鬼神。子曰「未能事人、焉能事鬼」。曰「敢問死」。曰「未知生、焉知死」
【訓読】季路(きろ)鬼神に事(つか)へんことを問ふ。 子曰く「未だ人に事ふること能(あた)はず、焉(いづ)くんぞ能(よ)く鬼(き)に事へん」。 曰く「敢(あ)へて死を問ふ」。曰く「未で生を知らず、焉くんぞ死を知らん」と。
【大意】弟子の子路が鬼神への仕えかたを先生に質問した。先生は「まだ人間に仕えることもできないのに、 どうして鬼神に仕えることができよう。いや、できない」と言われた。 子路は問うた。「敢て、死についてお伺いします」。先生は「まだ生についてもわからないのに、どうして 死についてわかるだろうか。いや、わからない」と答えられた。

★映画の比較

2004年のアメリカ映画『パッション』(原題:The Passion of the Christ
 監督はメル・ギブソン。主演はジム・カヴィーゼル(身長188センチメートル)
。  直訳は「キリストの受難」。受難を意味する passion は後世「情熱」の意にも転じた。
予告編 https://youtu.be/4Aif1qEB_JU
 俳優たちが使う言語はアラム語、ラテン語など二千年前の言語そのままを学者の監修のもとに復元(一部の発音は違う)。
 老若男女、政治家・宗教者・群衆など登場人物は多彩。
 流血シーン、奇跡などの見せ場も。

2009年の中国映画『孔子の教え』(原題:孔子 英語タイトル:Confucius)
 監督はフー・メイ。主演はチョウ・ユンファ(周潤発)(身長183センチメートル)。
予告編 https://youtu.be/E6LYWVPJzcs
 俳優たちが使う言語は21世紀の中国語(「普通話」。北京語)。二千五百年前の孔子が喋っていた「古代漢語」ではない。
 登場人物は中高年男性ばかり。女性は孔子の妻と、南子のみ。
 見せ場に乏しい。

★孔子とイエス(史的イエス)の比較
孔子イエス
本名氏は孔、名は丘、字は仲尼ヨシュア(יְהוֹשֻׁעַ‎, Yehoshuʿa)
後世の称号文宣王、至聖先師、他神の子、メシア、キリスト、INBI(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)、他
伝記資料『史記』孔子世家、他『新約聖書』福音書、他
身長九尺六寸(2m16cm)身長152センチ説(当時の人骨から推定)
178センチ説(トリノ聖骸布)
生没年前552年(前551年説も)−前479年前7年?…前4年?−30年頃
両親叔梁紇(下級武士)と顔徴在(巫女)ヨセフとマリア
先祖宋人(殷王朝の末裔)ダヴィデ王
母語中国語(古代漢語)アラム語? ヘブライ語?
「常師」無し洗礼者ヨハネ
職業公務員、政治家、教育者、校長、他修行者、宗教家、呪術医、革命家、他
弟子弟子三千人、高弟七十二人(「七十子」)、孔門十哲十二使徒
配偶者幵官(けんかん)氏(亓官or并官氏とも)。19歳で結婚生涯独身
子孫息子は孔鯉(字は伯魚)。
歴代の衍聖公。『孔子世家譜』2009年版では二百万人以上
無し
死因自然死。享年七十四刑死
墓所孔林聖墳墓教会、世界各地の「キリストの墓」
後継者による宗教儒教(Confucianism)キリスト教

★宗教の種類  「宗教」という言葉は、ラテン語religioや英語religionなど西洋語の訳語として幕末に考案され、明治に入ってから普及した新しい日本語である。
 religioの原義は「あらためて(re)」「結びつける(ligare)」である。日本語の「宗教」や「科学」は、実は実は良い訳語とは言えない。宗派に分かれていないものは宗教ではない、科に細分化していなければ科学ではない、という日本人特有の誤解を助長しかねないからである。
 佐藤信淵による奇書『宇内混同秘策』(うだいこんどうひさく。1823年)に出てくる「産霊(むすび)の法教」の「法教」は、宗教の意。
 宗教の定義はいろいろあるが、「至高の絶対的存在(神や真理など)と人間の関係を説く」「人間を内面と外面の両方から救済しようとする」「冠婚葬祭の自己完結性」「政治・経済・文化の側面をもつ」などの特長がある。この意味から見れば、中国の儒教は世界的に見ても強力な宗教である。
 江戸幕府は「儒学」を奨励する一方、「儒教」は弾圧し、「儒教徒」についてはキリシタン同様に警戒した。中国や朝鮮と違い、日本は、儒者にも仏式の葬儀を強要し、儒者もそれを受け入れるという異様な国だった。(cf.「儒者捨場」。拙著『本当は危ない『論語』』)。そのため日本では、21世紀の今も儒教は宗教ではないと誤解している人が多い。 例:国家神道は、天照大神を最高神とする選択的一神教である。
 キリスト教は一神教とされるが、マリア崇拝や守護聖人、天使崇拝など多神教的要素もある。
 儒教は客観的に見て宗教であるが、儒教自身はみずからを「儒学」「礼教」「名教」と自己規定する傾向がある。

★世界宗教になったキリスト教と、準世界宗教にとどまった儒教
 世界宗教になるための条件は、加藤徹が思うに、以下のとおり。 参考  岩生成一編『外国人の見た日本 1』(筑摩書房、1962)、サビエル(Francisco de Xavier)「神の国の開拓」p.130より引用
※現在は「ザビエル」が普通だが、原書では「サビエル」
 日本の信者には、一つの悲歎がある。それは私達が教えること、すなわち地獄へ堕ちた人は、もはや全然救われないことを、非常に悲しむのである。亡くなった両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に、彼等の悲しんでいる様子は、非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、あるいは施与、あるいは祈りをもって、死んだ人を助ける方法はないだろうかとたずねる。私は助ける方法はないと答えるばかりである。
 この悲歎は、頗る大きい。けれども私は、彼等が自分の救霊をゆるがせにしないように、また彼等が祖先と共に、永劫の苦しみのところへは堕ちないようにと望んでいるから、彼等の悲歎については、別に悲しく思わない。しかし、なぜ神は地獄の人を救うことができないか、とか、なぜいつまでも地獄にいなければならないのか、というような質問が出るので、私はそれに彼等の満足のゆくまで答える。彼等は、自分の祖先が救われないことを知ると、泣くことをやめない。私がこんなに愛している友人達が、手の施しようのないことについて泣いているのを見て、私も悲しくなって来る。(アルーペ神父・井上郁訳)

参考 西暦716年、聖ボニファチウス(Bonifacius 英 Saint Boniface)に向かって、フリース人の族長・ラードボード(ラッドボッド、レッドボッドとも。Radbod/Redbad)が述べた言葉。
「そうすると洗礼を受けずに死んだわしらの先祖には救いがないと言うわけじゃな。そして永遠の地獄に堕ちたままでいるというわけなのじゃな。そんならわしはキリスト教とやらはご免じゃ。わしはあんたがたのような一握りの乞食みたいな連中と一緒に天国に行くよりは、先祖と共にいたいのじゃ。そこがたとえあんたの言うような地獄であったとしてもじゃな」 渡部昇一『文科の時代』「天皇について <国体は何度も変わった>」より

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