ブルジョワジーの訳語について
フランス語 Bourgeoisie は、語源から「市民」とも、無産階級やプロレタリアートに対して「中産階級」「有産階級」「資産階級」「資本家階級」とも訳される。 17世紀から19世紀にかけて西洋で頻発した革命の主体は、ブルジョワジーという社会階層であった(当初は必ずしも「金持ち」ではなかったことに注意)。 ブルジョワジーの語源は、中世ヨーロッパの「城壁の中に住む人々」(市民)であり、王や貴族、農民とは違う自由民の階層を指した。 西洋中世史の格言「都市の空気は自由にする」(ドイツ語 Stadtluft macht frei. 英訳は Urban air makes you free.)は有名。 フランス語 Bourgeoisieは、後期ラテン語 burgus(城砦・城塞)の派生語である。中世ヨーロッパの都市は周囲を防御用の城壁で囲んでいた。 西洋史の都市名には、ハンブルク Hamburg とか サンクトペテルブルクSaint Petersburg とか、「ブルク」が多いのは、城壁都市時代の名ごり。 ブルジョワジー、略してブルジョワは、金持ちとか、労働者階級の敵、という意味ではなかったが、昭和期の日本では 左翼的な思潮の影響もあり、純粋に中立的な学術用語ではなく、政治的な色のついた言葉として使われた。 中国にも城壁都市は古代からあったが、西洋的な意味での「市民」は育たなかった。 |
『論語』原漢文 堯曰:「咨!爾舜!天之曆數在爾躬。允執其中。四海困窮,天祿永終。」舜亦以命禹。曰:「予小子履,敢用玄牡,敢昭告于皇皇后帝:有罪不敢赦。帝臣不蔽,簡在帝心。朕躬有罪,無以萬方;萬方有罪,罪在朕躬。」周有大賚,善人是富。「雖有周親,不如仁人。百姓有過,在予一人。」謹權量,審法度,修廢官,四方之政行焉。興滅國,繼絕世,舉逸民,天下之民歸心焉。所重:民、食、喪、祭。寬則得眾,信則民任焉,敏則有功,公則說。 |
『黄金の日々』第34話「大洪水」(初回放送1978年8月27日)の台詞より。 孫七(常田富士男):『孟子』か。 呂宋助左衛門(市川染五郎。当時):へえ。 孫七:孟子は評判が悪かけんねえ。 助左:いや、あの、堺までの船賃と飯代に少々、色をつけてくれれば、それでいいんで。 なんとかしてつかわさい。 孫七:どこで手に入れたと、こげん難しか書物ば。 助左:かたみで。父親の。 孫七:かたみねえ。ま、五百文だったら引き受けてもいいが、それ以上、出せんね。 助左:いや、それでけっこうです。それで、けっこうです。 |
NHK「テレビで中国語」テキスト 2021年12月号に掲載した拙稿「大人虎变,君子豹变,小人革面(Dà rén hǔ biàn, jūn zǐ bào biàn, xiǎo rén gé miàn)」の一部を自己引用。
中国文明は占いから始まった。現在知られている最古の漢字は、紀元前14世紀ごろの殷王朝の甲骨文字である。 いにしえの政治は「まつりごと」だった。殷王は神霊をまつり、占卜(せんぼく)をおこなって神意を占い、それに従って政策を実行した。殷の時代の遺跡から出土した甲骨文字の内容は、どれも占いの記録である。 占いが好きな中国人は、手相占いや人相占い、夢判断、姓名判断、風水など、さまざまな占いを発明してきた。中でも、陰陽思想と古典の書物にもとづいて事柄の吉凶を判断する「易」は、中国の伝統文化を代表する占いである。 易が誕生した歴史は謎だ。伝説では、易の発明者は伏羲(ふっき)という太古の人物とされる。 彼の上半身はヒトで下半身は蛇だった。その後、歴代の聖人が手を加え、 易の聖典《易经》Yìjīng (『易経』。 古くは『易』とか『周易』と呼ばれた)が完成した。 特に孔子は易を熱心に研究して“韦编三绝” wéi biān sān jué(韋編(いへん)三絶(さんぜつ)) したほどだった。以上は儒教での伝承である。歴史的事実ではなかろう。 実際には紀元前3世紀ごろ、儒教の教団が、周王朝の神官が占いで使ったコードブック(暗号辞書)を 哲学的なテキストとして再解釈して『易経』が成立した、という説が有力だ。 儒教の経典『易経』は、東アジア各国に大きな影響を与えてきた。 韓国の国旗「太極旗」のデザインも『易経』をふまえる。太極旗の中央部は、赤と青の勾玉(まがたま)のような模様がくみあわさって円となり、ぐるぐる回っている。赤は陽、青は陰の象徴で、この回転紋様は宇宙生成の根本原理「太極」を象徴する。太極のまわりには4つの「卦(け)」が並ぶ。左上が乾(けん)、右上が坎(かん)、右下が坤(こん)、左下が離(り)の卦だ。「当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦」と言うとおり本来は八卦だが、太極旗ではそのうち4つを描く。 『易経』にちなむ命名も多い。中国の王朝名「元」(1271年−1368年)は『易経』の言葉 “大哉乾元, 万物资始” dà zāi qiān yuán, wàn wù zī shǐ (大(だい)なるかな乾元(けんげん)。万物、資(と)りて始む)から採った。 日本の会社「資生堂」の社名の由来は『易経』の “至哉坤元, 万物资生” zhì zāi kūn yuán,wàn wù zī shēng (至(いた)れるかな坤(こん)元(げん)。万物、資りて生ず)。 私が通っていた高校の名前も『易経』の “开物成务” kāi wù chéng wù (開物成務。物を開き務めを成す)が出典だった。 日本の歴代の元号の出典も『易経』が多い。 明治は『易経』の“嚮明而治” xiàng míng ér zhì (明(めい)に嚮(むか)いて治む)が、大正は “大亨以正” dà hēng yǐ zhèng (大(おお)いに亨(とお)りて以(もっ)て正し)が出典である。 |
以下、NHKテレビ「知るを楽しむ 歴史に好奇心」テキスト(2007)より自己引用。
一八九五年、清朝打倒をめざして活動していた孫文は、広東での蜂起に失敗し、「広島丸」という船で日本に逃げました。神戸に上陸して日本の新聞を見ると、カナ文字はわからなかったものの、 漢字の「支那革命党孫文日本に来たる」という見出しが、孫文の目に飛び込んできました。「革命」という日本漢語を見て、孫文は、衝撃を受けました。 もともと中国の漢文では、「革命」という語は、「易姓革命」の意味でした。ある王朝が倒れ、前の皇帝とは別の姓をもつ英雄が「天命」を受けて、新王朝を創始すること。伝統的な中国の「革命」は、王朝の交替を指す言葉にすぎませんでした。 しかし日本漢語の「革命」は、レボルーションの訳語でした。社会体制を根底から変える、という新しい意味がありました。「革命」という日本漢語から霊感を得た孫文は、興奮して、同志の陳少白にこう語りました。 「日人称吾党為革命党、意義甚佳。吾党以後即称革命党可也」(日人、吾が党を称して「革命党」と為す。意義、甚だ佳なり。吾が党は以後、即ち「革命党」と称して可なり) 日本人から「革命家」と呼ばれたことは、孫文は、自分たちの使命をより明確に自覚しました。これ以後、中国語でも「革命」は日本語と同じ意味で使うようになりました。 |
「共産」という言葉は、明治時代のはじめに、コミュニズムという言葉の日本語訳として紹介されたことがきっかけで、使われるようになりました。 日本共産党公式サイトの「2004年4月21日(水)「しんぶん赤旗」」より。 |