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中国の易姓革命

最新の更新 2022年2月3日    最初の公開 2022年2月3日

以下、朝日カルチャーセンター・新宿教室のサイトより自己引用。引用開始。
 西洋の「革命」は、17世紀の英国の「市民革命」以来、圧政から自らを解放し、自由と民主主義を獲得する戦いでした。 中国の「革命」は「易姓革命」であり、新王朝が「天命の更新」を口実に圧政を正当化する大義名分でした。紀元前1600年ごろの「夏商革命」や前11世紀の「殷周革命」も、20世紀の孫文や毛沢東の「革命」も、中国の「革命」は中国を「持続の帝国」(Ein Reich der Dauerヘーゲル史観の用語)」たらしめるための「回春の劇薬」でした。21世紀の中国で西洋的な「市民」や「多党制」が育たない理由も、「易姓革命」の呪縛にあります。中国4千年の革命の歴史を、豊富な図版を使い、予備知識のない人にもわかりやすく説明します。(講師・記)


○ポイント
  1. 「革命」の定義や意味用法については、現在も論者ごとに見解が分かれていることに注意。
     例えば、明治維新を革命と見なす人もいれば、革命ではなかったと見なす人もいて、それぞれに一理ある。  また革命 Revolution と改革 Reformation の差異の線引きも、時として曖昧になる。
  2. 漢語「革命」の語源は古代中国の儒教の経典。
     儒教的な「革命」は「易姓革命」であり、revolutionではない。易姓革命は「天命」「功徳」「放伐」などの思想と結びついていた。
  3. 西洋語の revolution (回転。後に「革命」の意味になる)の語源は、天文学者のコペルニクスの「地動説」についての学術書。
     revolution が政治用語として「革命」の意味に転じたのは、1688年の英国の名誉革命から。
  4. 現代語の「革命」は、近代の日本人が revolution の訳語として考案した  「日本漢語」(新漢語)の一つで、これが近代以降、東アジアに広まった。
     日本漢語「革命」が中国でも普及したことで、旧来の儒教的な革命は「易姓革命」というレトロニム(再命名)で呼ばれるようになった。
  5. 日本史では中国的な意味での「易姓革命」も西洋的な意味での revolution もなかったとされる(cf.明治維新を「労農派」はブルジョア革命、講座派は「不徹底なブルジョア革命」 と規定)。
     一方、中国は20世紀以降、何度もrevolutionを経験した。
     ただし、中国には、西洋的な意味での「市民」(Bourgeoisie)が昔も今も存在しないため、近代中国の「革命」は真の意味での revolution は将来も起きない 可能性がある。
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-m81vuK2ADRJtmzfeLqtTo3
○ Revolution (西洋的な意味での「革命」)の略史
  1. 1543年、ポーランド出身の天文学者ニコラウス・コペルニクスが死去の直前、 地動説の論文「天球の回転について」(Nicolai Copernici Torinensis De revolutionibus orbium coelestium, Libri VI)を出版。
     西洋では、物事の見方が180度がらりと変わることを「コペルニクス的転回」 Copernican Revolution と呼ぶようになった。
  2. 1642年、英国で「清教徒革命」が起きる。これが、日本の世界史の教科書に登場する世界初の革命。
     ただし英語ではこの歴史的事件の呼称は「Wars of the Three Kingdoms(三王国戦争)」とか「British Civil Wars(英国内戦)」と呼ぶのが普通。
  3. 1688年、英国で「名誉革命」Glorious Revolution。これは英語でも「革命」と普通に呼ばれる。
     清教徒革命とあわせて「イギリス革命」とも呼ばれる。
    ブルジョワジーの訳語について
     フランス語 Bourgeoisie は、語源から「市民」とも、無産階級やプロレタリアートに対して「中産階級」「有産階級」「資産階級」「資本家階級」とも訳される。
     17世紀から19世紀にかけて西洋で頻発した革命の主体は、ブルジョワジーという社会階層であった(当初は必ずしも「金持ち」ではなかったことに注意)。
     ブルジョワジーの語源は、中世ヨーロッパの「城壁の中に住む人々」(市民)であり、王や貴族、農民とは違う自由民の階層を指した。
     西洋中世史の格言「都市の空気は自由にする」(ドイツ語 Stadtluft macht frei. 英訳は Urban air makes you free.)は有名。
     フランス語 Bourgeoisieは、後期ラテン語 burgus(城砦・城塞)の派生語である。中世ヨーロッパの都市は周囲を防御用の城壁で囲んでいた。 西洋史の都市名には、ハンブルク Hamburg とか サンクトペテルブルクSaint Petersburg とか、「ブルク」が多いのは、城壁都市時代の名ごり。
     ブルジョワジー、略してブルジョワは、金持ちとか、労働者階級の敵、という意味ではなかったが、昭和期の日本では 左翼的な思潮の影響もあり、純粋に中立的な学術用語ではなく、政治的な色のついた言葉として使われた。
     中国にも城壁都市は古代からあったが、西洋的な意味での「市民」は育たなかった。
  4. 1776年、アメリカ独立革命 American Revolution。
     以来、米国は1度も国体(Constitution 憲法の意味もある)を変革せず、21世紀現在「世界最古の国家」となっている。
  5. 1789年、フランス革命 French Revolution
     フランスのファンは「フランス大革命」The Great French Revolution と呼ぶ。
  6. 1837年、フランスの経済学者ジェローム・アドルフ・ブランキが「産業革命」Industrial Revolution という呼称を使用。
     当初は1760年代から1830年代の英国の産業革命を指す言葉であった。
  7. 1917年、ロシアで二月革命 February Revolution。ロシア革命。
  8. 1934年、「ドイツ革命」(当時の呼称。現在は廃語あつかい)。
     国民投票により国家元首の地位を手に入れたアドルフ・ヒトラーは、権力事態としての国家社会主義革命(The National Socialist Revolution)の終了を宣言し、今後千年のあいだドイツに次の革命は起きないだろう、と豪語した。cf.千年王国 Millenarianism
○中国の「革命」略史
  1. 紀元前5世紀、孔子(紀元前551年‐前479年)が儒教の事実上の創始者となる。
     儒教は「古人主義」「天命」「仁」「義」「徳」「礼楽(れいがく)」を重視し、人間の救済手段として学問と政治を重視した。
  2. 儒教の経典のうち、最も重要で権威のある「詩・書・礼・楽・易・春秋」を「六経」と呼ぶ。「経」の原義はタテ糸。
     「革命」の語源は、『書経(尚書)』と『易経(周易)』である。
  3. 儒教は「古人主義」の立場から、歴史の解釈を重んじた。
     儒教の聖人は、堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)・湯(とう)・文王・武王・周公・孔子の8人である。孟子は「亜聖」。
     Cf.参考 [中国権力者列伝 太古の堯と舜 「昭和」の出典になった伝説の聖天子 2022年1月13日]
     このうち帝王は「堯舜三代」(聖天子である堯と舜、および、夏・殷・周の三代の王朝の開祖である禹王、湯王、文王・武王)で、周公旦は諸侯、孔子は「素王」であった。
     堯・舜・禹の天子の地位の継承は「禅譲」(ぜんじょう)で、血縁のない有徳の人物に平和的に権力を委譲した。
     殷の湯王と、周の武王は、前王朝の最後の暗君を攻め滅ぼして、新しい世襲王朝を始めた。これは「放伐」(ほうばつ)であり、「易姓革命」(えきせいかくめい。天子の姓を代え、天命をあらためる)である。
  4. 孔子の言行録『論語』堯曰第二十には、儒教の革命観をまとめている。
     儒教的な易姓革命のコンセプトは、マックス・ウェーバーのいわゆる「永遠なる昨日的なもの」das ewig Gestrige (英訳は the eternal yesterday 永遠の昨日)の復興を目的として、儒教的な「いにしえの理想の世」の復活を目指すものであった。
     以下、下村湖人(1884−1955)『現代訳論語』(青空文庫でも読めます)より引用。引用開始。
     堯帝が天子の位を舜帝に譲られたとき、いわれた。――
    「ああ、汝、舜よ。天命いまや汝の身に下って、ここに汝に帝位をゆずる。よく中道をふんで政を行なえ。もし天下万民を困窮せしめることがあれば、天の恵みは永久に汝の身を去るであろう」
     舜帝が夏の禹王に位を譲られるときにも、同じ言葉をもってせられた。
     夏は桀王にいたって無道であったため、殷の湯王がこれをうち、天命をうけて天子となったが、その時、湯王は天帝に告げていわれた。――
    「小さき者、履【り。自分の名前――加藤】、つつしんで黒き牡牛をいけにえにして、あえて至高至大なる天帝にことあげいたします。私はみ旨を奉じ万民の苦悩を救わんがために、 天帝に罪を得た者を誅しました。天帝のみ心に叶う臣下はすべてその徳が蔽われないよういたしたいと思います。私は天帝のみ心のまにまに私の進むべき道を選ぶのみであります」
     さらに諸侯に告げていわれた。――
    「もしわが身に罪あらば、それはわれひとりの罪であって、万民の罪ではない。もし万民に罪あらば、それは万民の罪でなくて、われひとりの罪である」
     殷は紂王にいたって無道であったため、周の武王がこれをうち、天命をうけて天子となったが、その時、武王は天帝に誓っていわれた。――
    「周に下された大きな御賜物を感謝いたします。周にはなんと善人が多いことでございましょう。いかに親しい身内のものがおりましょうとも、仁人の多きには及びませぬ。 かように仁人に恵まれて、なお百姓(ひゃくせい)に罪がありますならば、それは私ひとりの罪でございます」
     武王はこうして、度量衡を厳正にし、礼楽制度をととのえ、すたれた官職を復活して、四方の政治に治績をあげられた。 また、滅亡した国を復興し、断絶した家を再建し、野にあった賢者を挙用して、天下の民心を帰服せしめられた。とりわけ重んじられたのは、民の食と喪と祭とであった。
     このように、君たる者が寛大であれば衆望を得、信実であれば民は信頼し、勤敏であれば功績があがり、公正であれば民は悦ぶ。これが政治の要道であり、堯帝・舜帝・禹王・湯王・武王の残された道である。
    引用終了
    『論語』原漢文
    堯曰:「咨!爾舜!天之曆數在爾躬。允執其中。四海困窮,天祿永終。」舜亦以命禹。曰:「予小子履,敢用玄牡,敢昭告于皇皇后帝:有罪不敢赦。帝臣不蔽,簡在帝心。朕躬有罪,無以萬方;萬方有罪,罪在朕躬。」周有大賚,善人是富。「雖有周親,不如仁人。百姓有過,在予一人。」謹權量,審法度,修廢官,四方之政行焉。興滅國,繼絕世,舉逸民,天下之民歸心焉。所重:民、食、喪、祭。寬則得眾,信則民任焉,敏則有功,公則說。

     21世紀現在の中国共産党は「中華民族の偉大な復興」や「共同富裕」を掲げて、自政権の正統性の根拠としている。儒教と立場は違うが、大本のコンセプトは同じであることに注意。
  5. 中国の権力者の人気は「功」と「徳」で決まる。
     功と徳の両方があれば理想だが、現実はなかなかそうはいかない。三国志の物語で言えば、魏の曹操は「有功薄徳」、蜀の劉備は「中功大徳」の英雄として描かれ、曹操は悪役、劉備は善玉とされた。
     中国史の王朝交代では、しばしば「易姓革命」が口実とされた。新王朝の開祖は、前王朝末期の君主は無能な暴君で「天命」が離れたため、自分が天下万民の困窮を救うために立ち上がり「放伐」を行い、 天命を得て新王朝を創始したのだ、と主張した。
  6. 中国の戦国時代には、孟子が「王道政治」を主張し、放伐や易姓革命を積極的に肯定した。
     『孟子』尽心下の「悉く書を信ずれば則ち書無きに如かず(ことごとくしょをしんずればすなわちしょなきにしかず)」という言葉は有名。
     周の武王が、殷の紂王を討伐した「殷周革命」のとき、両軍はたいへんな激戦となり血の海になった、という記事が『書経』に書いてある。 孟子は、民心を失った「匹夫・紂」の軍隊は、正義の王者である武王の軍隊を見ただけでガタガタになり決戦はあっさり決着がつき、 激戦にはならなかったはずだ、と強弁した。
     孟子は身分や秩序を重んじたが、同時に、暴君の放伐や易姓革命も積極的に肯定した。
     昔の日本では、万世一系の天皇がいる日本には孟子の革命思想はふさわしくないと考えられ、孟子の本を積んだ船は日本に到着する前に神罰で転覆する、という俗信があった。 この俗信は中国にも伝わり、明代の随筆集『五雑俎』には「有携其書往者舟即覆溺」(其の書、は『孟子』を指す)とある。
     NHKの大河ドラマ『黄金の日々』1978年の第33話「海賊船」や第34話「大洪水」、第36回「伴天連追放」にも、当時の日本で不人気だった「孟子の古書」が出てくる。
    『黄金の日々』第34話「大洪水」(初回放送1978年8月27日)の台詞より。
    孫七(常田富士男):『孟子』か。
    呂宋助左衛門(市川染五郎。当時):へえ。
    孫七:孟子は評判が悪かけんねえ。
    助左:いや、あの、堺までの船賃と飯代に少々、色をつけてくれれば、それでいいんで。 なんとかしてつかわさい。
    孫七:どこで手に入れたと、こげん難しか書物ば。
    助左:かたみで。父親の。
    孫七:かたみねえ。ま、五百文だったら引き受けてもいいが、それ以上、出せんね。
    助左:いや、それでけっこうです。それで、けっこうです。
  7. 戦国時代には、儒教の主要な経典が出そろった。それらの大半は、孔子以前の古い時代から伝わったもの、という建前であった。
     「革命」の語源は『易経』「䷰革」の卦の彖伝(たんでん。孔子の作と伝えられる)の、
    「天地革而四時成。湯武革命、順乎天而応乎人。革之時大矣哉」
    という語句である。
     漢文訓読は「天地あらたまりて四時成り、湯武、命を革むるや天に順ひて人に応ず。革の時は大なるかな」
     大意は、天地が改まって四季の循環と調和が完成する。同様に、殷の湯王や周の武王が「革命」をなしとげたことで、 天命にさからわず民意にもかなう世の中ができあがった。「革」の時は偉大であることよ。
     ䷰(革。沢火革とも)は易の六十四卦の1つ。格言「君子は豹変す」の出典もこの「革」である。
     易姓革命のキーワードは「天命」と「民心」であった。
     そもそも「易」は「交易」「貿易」のエキと同じで、チェンジする、というのが原義。「容易」のイとは意味が違う。
    NHK「テレビで中国語」テキスト 2021年12月号に掲載した拙稿「大人虎变,君子豹变,小人革面(Dà rén hǔ biàn, jūn zǐ bào biàn, xiǎo rén gé miàn)」の一部を自己引用。
     中国文明は占いから始まった。現在知られている最古の漢字は、紀元前14世紀ごろの殷王朝の甲骨文字である。 いにしえの政治は「まつりごと」だった。殷王は神霊をまつり、占卜(せんぼく)をおこなって神意を占い、それに従って政策を実行した。殷の時代の遺跡から出土した甲骨文字の内容は、どれも占いの記録である。
     占いが好きな中国人は、手相占いや人相占い、夢判断、姓名判断、風水など、さまざまな占いを発明してきた。中でも、陰陽思想と古典の書物にもとづいて事柄の吉凶を判断する「易」は、中国の伝統文化を代表する占いである。
     易が誕生した歴史は謎だ。伝説では、易の発明者は伏羲(ふっき)という太古の人物とされる。 彼の上半身はヒトで下半身は蛇だった。その後、歴代の聖人が手を加え、 易の聖典《易经》Yìjīng (『易経』。 古くは『易』とか『周易』と呼ばれた)が完成した。 特に孔子は易を熱心に研究して“韦编三绝” wéi biān sān jué(韋編(いへん)三絶(さんぜつ)) したほどだった。以上は儒教での伝承である。歴史的事実ではなかろう。 実際には紀元前3世紀ごろ、儒教の教団が、周王朝の神官が占いで使ったコードブック(暗号辞書)を 哲学的なテキストとして再解釈して『易経』が成立した、という説が有力だ。
     儒教の経典『易経』は、東アジア各国に大きな影響を与えてきた。
     韓国の国旗「太極旗」のデザインも『易経』をふまえる。太極旗の中央部は、赤と青の勾玉(まがたま)のような模様がくみあわさって円となり、ぐるぐる回っている。赤は陽、青は陰の象徴で、この回転紋様は宇宙生成の根本原理「太極」を象徴する。太極のまわりには4つの「卦(け)」が並ぶ。左上が乾(けん)、右上が坎(かん)、右下が坤(こん)、左下が離(り)の卦だ。「当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦」と言うとおり本来は八卦だが、太極旗ではそのうち4つを描く。
     『易経』にちなむ命名も多い。中国の王朝名「元」(1271年−1368年)は『易経』の言葉 “大哉乾元, 万物资始” dà zāi qiān yuán, wàn wù zī shǐ (大(だい)なるかな乾元(けんげん)。万物、資(と)りて始む)から採った。 日本の会社「資生堂」の社名の由来は『易経』の “至哉坤元, 万物资生” zhì zāi kūn yuán,wàn wù zī shēng (至(いた)れるかな坤(こん)元(げん)。万物、資りて生ず)。 私が通っていた高校の名前も『易経』の “开物成务” kāi wù chéng wù (開物成務。物を開き務めを成す)が出典だった。 日本の歴代の元号の出典も『易経』が多い。 明治は『易経』の“嚮明而治” xiàng míng ér zhì (明(めい)に嚮(むか)いて治む)が、大正は “大亨以正” dà hēng yǐ zhèng (大(おお)いに亨(とお)りて以(もっ)て正し)が出典である。
  8. 前漢(紀元前206年−8年)の初代皇帝となった劉邦は農民出身で、これは前代未聞だった。
     劉邦のブレーンたちは、儒教的な易姓革命の思想を漢王朝の正当化に活用した。 前王朝である秦の始皇帝は暴君、二世皇帝は暗君とされた。cf.[献上された権威装置 前漢の高祖・劉邦]
  9. 以後も易姓革命は、歴代の権力者の政権奪取の口実として利用された。
     前漢末の王莽や、三国志の曹丕(そうひ。曹操の息子)は「禅譲」を口実に新王朝を創始したが、 政敵からは「簒奪(さんだつ)」と非難された。
     歴代王朝末期の反乱者たちは「放伐」を口実としてみずからの「下剋上」の正当化を図ったが、 おおむね「反逆」「弑逆(しいぎゃく)」の悪名を浴びて失敗した。
     安定的な新王朝の確立に成功した元・反乱者は、易姓革命を口実とした。
     農民出身の劉邦、
     異民族出身の君主、例えば五胡十六国時代や南北朝時代の非漢族系皇帝や、 遼・金・元・清など征服王朝の非漢族系皇帝が漢民族に君臨できた一因も、 易姓革命の思想の活用にあった。
  10. Revolution の訳語を「革命」としたのは、幕末維新期の日本人(複数。誰が最初かは諸説あり)のアイディアである。
     福沢諭吉『西洋事情』(1866年−70年)に「兵乱に由て俄に政府の革まるを革命と云ひ」云々とある。福沢は西洋の Revolution の 訳語として、漢文古典の漢語「革命」をあてた。福沢は、本来の「革命」の意味用法とは違うことを承知のうえで、あえて「革命」 という語を使用したのである。
     なお福沢は liberty を日本語に訳す難しさを『西洋事情』の中で愚痴っており、自分でも適訳ではないことを承知のうえで あえて「自由」(本来は、勝手放題のわがまま、という悪い意味だった)と訳す、と弁解した。liberty の訳語の候補は他にも自主・自尊・自得・自若・ 自主宰・任意・寛容・従容などいろいろあったが、どれもピッタリではなかった。
     革命も自由も、本来は100点満点で65点くらいの訳語であったが、いつのまにか日本語として定着し、それが東アジア各国に輸出された。
  11. 孫文(1866-1925)が「革命」という言葉を使用するきっかけも、日本語だったという説がある。
    cf.[大元帥になった国際人・孫文]
     以下、NHKテレビ「知るを楽しむ 歴史に好奇心」テキスト(2007)より自己引用。
     一八九五年、清朝打倒をめざして活動していた孫文は、広東での蜂起に失敗し、「広島丸」という船で日本に逃げました。神戸に上陸して日本の新聞を見ると、カナ文字はわからなかったものの、 漢字の「支那革命党孫文日本に来たる」という見出しが、孫文の目に飛び込んできました。「革命」という日本漢語を見て、孫文は、衝撃を受けました。
     もともと中国の漢文では、「革命」という語は、「易姓革命」の意味でした。ある王朝が倒れ、前の皇帝とは別の姓をもつ英雄が「天命」を受けて、新王朝を創始すること。伝統的な中国の「革命」は、王朝の交替を指す言葉にすぎませんでした。
     しかし日本漢語の「革命」は、レボルーションの訳語でした。社会体制を根底から変える、という新しい意味がありました。「革命」という日本漢語から霊感を得た孫文は、興奮して、同志の陳少白にこう語りました。
    「日人称吾党為革命党、意義甚佳。吾党以後即称革命党可也」(日人、吾が党を称して「革命党」と為す。意義、甚だ佳なり。吾が党は以後、即ち「革命党」と称して可なり)
     日本人から「革命家」と呼ばれたことは、孫文は、自分たちの使命をより明確に自覚しました。これ以後、中国語でも「革命」は日本語と同じ意味で使うようになりました。
  12. 「革命」だけでなく、日本漢語である「共産主義」「共産党」「人民」「共和国」もそのまま中国語に採り入れられた(ただし発音と字体は中国化した)。
    「共産」という言葉は、明治時代のはじめに、コミュニズムという言葉の日本語訳として紹介されたことがきっかけで、使われるようになりました。
    日本共産党公式サイトの「2004年4月21日(水)「しんぶん赤旗」」より。
  13. 毛沢東は1966年から死去する76年まで「文化大革命」(略称は「文革」。正式名称は「無産階級文化大革命」。英語訳は Cultural Revolution )を発動した。中国は大混乱となった。毛沢東は中国の革命を外国に輸出しようとした。
     cf.[中国式ポピュリズムの栄光と悲惨 毛沢東]]。
     ケ小平は「改革開放」を行い、「改革」(革命の婉曲な否定でもある)により中国を超大国に押し上げる道筋をつけた。
     cf.[21世紀の中国をデザイン ケ小平]。
     現在の習近平政権は、毛沢東とケ小平という2人の巨人の遺産で、「改革」と「革命」のはざまで試行錯誤を続けている。

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