北宋の後宮
ほく‐そう【北宋】
中国の王朝(九六〇‐一一二七)。宋朝が靖康の変で金の圧迫により江南に移るまでをいう。 趙匡胤(太祖)が五代のあとをうけて建国。首都は汴(べん)(=開封)。第二代太宗が中国を統一。 集権的官僚制を樹立したが、遼・西夏・金の台頭により対外的にはふるわず、内政でも新旧両法党の党争により疲弊。 士大夫・庶民の新文化が誕生した時代として重要。宋。
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「狸猫換太子」(フィクション)のあらすじ 北宋の真宗皇帝の時代、李妃が妊娠。 劉妃は宦官と共謀し、李妃が産んだばかりの皇子を、皮をはいだ狸猫(ヤマネコ)とすり替え、わが子と偽る。 李妃は追放され、流浪する。 皇子は成長し、皇帝(仁宗)となる。 「中国の大岡越前」とも言うべき包拯(包公)は、流浪して失明した李妃と出会い、真相を知る。 包拯は劉妃を追い詰め、李妃は皇帝の実母として認められ、宮中に迎え入れられる。 |
南宋と周辺民族の後宮
【後宮の実態????】前編【李皇后】
— JBpress - ニュースの真相と深層がわかる ? 世界情勢・政治・経済・ビジネス (@JBpress) October 12, 2025
嫉妬から宮女の両手を切り落とし、重箱に入れて夫の光宗に届けた李皇后
南宋をつまずかせた悪女の所業《加藤 徹》 @katotoru1963 @kadokawashinsho… pic.twitter.com/qDK7fKIXfn
12世紀の中国金王朝四代の海陵王=迪古乃は、先帝の重臣百余人を虐殺、叔父の妻阿里虎を寵愛した。がその娘重節が成長するや心を移し、阿里虎は縊死した。女を手に入れるためには、謀叛の罪で一族を滅ぼしもした海陵王、だが曹国公烏禄の夫人烏林答だけは王の意に従わない。王は腹心の宦官と謀り罠をしかけた…。荒淫に耽る王と20余名の妃嬪たち、その運命と渦巻く愛欲の世界を描く長篇傑作。
南宋(なんそう) Nansong 1127〜1279
靖康(せいこう)の変の直後,高宗が宋朝を再建し,宋州→揚州→杭州と遷都し,金と対峙して153年間続いたが,元の世祖クビライの軍に滅ぼされた。
りょうレウ【遼】
契丹族の耶律阿保機が建国した征服王朝(九一六‐一一二五)。蒙古・満州・華北の一部を支配した。 燕雲一六州を奪って国号を大遼とし、北宋と争い澶淵(せんえん)の盟を結んで和睦。一一二五年、女真族の金に滅ぼされたが、一族の耶律大石が中央アジアに逃れて西遼(カラキタイ)を建国。遊牧民と農耕民を別々に支配する二重体制を採用し、契丹文字を制定。中国文化の影響も受け、仏教が栄えた。
きん【金】
女真(じょしん)族完顔部の首長阿骨打(アクダ)が1115年に建てた国。遼(りょう)を滅ぼし、宋を南方に追って、中国東北地区・蒙古(もうこ)・華北を征服。 都は会寧、後に燕京、汴京(べんけい)。1234年、モンゴルに滅ぼされた。
元 げん
モンゴル帝国第5代皇帝フビライが建国した中国の王朝(1271?1368) 中国本土・満州・蒙古・チベットにわたる大帝国を形成。都は大都(現北京)。東西交通路が整備され,東西文化が交流したが,1368年明に滅ぼされた。フビライの時代の日本来襲(元寇 (げんこう) )は失敗したが,その後日本との通商はとだえず,建長寺船・天竜寺船の派遣,僧一山一寧 (いつさんいちねい) の渡来などがあった。
講義のあと、受講者から以下の質問を受けました。
【質問】 |
明の後宮の栄光と悲惨
みん【明】
中国の王朝の一。1368年、朱元璋(しゅげんしょう)(太祖洪武帝)が元を倒して建国。都は当初南京であったが、永楽帝の1421年、北京に遷都。 南海諸国を経略、その勢威は一時アフリカ東岸にまで及んだ。中期以降は宦官(かんがん)の権力増大による内紛、 北虜南倭(ほくりょなんわ)に苦しみ、1644年、李自成に国都を占領され、滅亡。
しゅ‐げんしょう‥ゲンシャウ【朱元璋】
中国、明朝初代皇帝(在位一三六八‐九八)。字(あざな)は国瑞。廟号は太祖。諡(おくりな)は高皇帝。在位年号により洪武帝(こうぶてい)ともいう。 濠州(安徽省鳳陽県)の貧農出身。紅巾軍の部将となり、群雄を降して長江一帯を平定、一三六八年応天(南京)で即位。 里甲制を施行し六諭(りくゆ)を定め、中国史上最強の独裁体制を確立した。(一三二八‐九八)
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<質問内容> 先日の質問に丁寧な回答をいただきありがとうございました。とても分かり易かったです。 講座も面白いです。 改めての質問ですが、中国の歴史に関する読み易い概説書があればご教 示いただけますか? 加藤先生著・後宮にも載っていた「中国の歴史・陳舜臣氏著」は良いで しょうか? できれば「後宮・加藤先生著」のように知識が少ない者でも読み易い書籍だと助 かります。 次回講義時で大丈夫です。度々お手数をおかけし申し訳ありませんが、宜しくお 願い致します。 |
明の後宮の怪事件
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受講生からのご質問 【質問内容】 (1)明の泰昌帝が即位後急死した「紅丸の変」に関して。 宮廷医師の存在感が希薄だったり、鄭皇貴妃が関与を疑われたりしましたが、幼少から英明で久々の名君誕生を期待されていた泰昌帝、反対勢力から新皇帝を守る為、提言したり宮廷の名医を招聘するような忠実且つ機智に富む群臣や一族はいなかったのでしょうか?先帝の喪が明けないうちに新帝が亡くなる、という事は対外的にもマイナスが大きいと思うのですが・・・? (2)清の乾隆帝とナラ氏の夫婦仲が破綻した理由について。 後宮(加藤先生著)を拝読すると、真相は不明、との事ですが 可能であれば、加藤先生の見解をお聞きできますか?また、その後史料他の新事実や手掛かりは出ているでしょうか? (3)乾隆帝が奸臣といわれる和坤を信頼し重用してしまったのはどんな理由からでしょうか?宮女の生まれ変わりという 話しは別にして、暗君ではなく疑心が強いイメージのある乾隆帝の判断にしては不思議に感じます。 質問は上記(1)?(3)になります。(2)(3)は次回講座の清に関する 内容になります。差し支えなければ、次回講座か次回送付資料内で回答をいただけると助かります。次回で最終回を迎えてしまうのは残念ですが、過去4回有意義で面白い講義なので次回も楽しみにしています。 【加藤徹の回答】 (1) 泰昌帝の急死(紅丸の変)について。 泰昌帝が即位した時点で明の朝廷は、長年の党争(東林党 vs 非東林系)や万暦帝の怠慢で制度疲労を起こしていました。 新皇帝を守るために一致団結する政治的体力が、当時の朝廷には残っていませんでした。 また、ヒトラーが「藪医者」であるテオドール・モレルを妄信したように、権力者が藪医者を名医だと信じ込んで重用してしまう例もあります。 (2)乾隆帝とナラ氏の夫婦仲が破綻した理由 謎です。ナラ氏が、夫の浪費(江南への巡行)を批判したから、という説もあります。 (3)乾隆帝が奸臣といわれる和坤を信頼し重用してしまったのはどんな理由からでしょうか? これは、乾隆帝本人にきいてみないと真相はわかりません。 ただ、豊臣秀吉が石田三成を見いだし、徳川綱吉が柳沢吉保を重用したように、権力者は自分が気にいった人物を取り立て、それを世間に見せつけることで自己顕示欲を満たす傾向があります。 |
清の後宮
しん【清】
一六一六年から一九一二年まで続いた中国最後の王朝名。 建州女真出身のヌルハチ(太祖)が満州族を統一し後金を建国、子のホンタイジ(太宗)が一六三六年に国号を清とした。 世祖(順治帝)のとき明の滅亡に乗じて中国にはいり北京に遷都。版図は台湾・外蒙古・チベット・ジュンガル・カシュガルにおよび、漢・唐をしのいだ。 康熙・雍正・乾隆時代に最盛期に達したが、一八世紀末から国内に反乱が続発、欧米列強の外圧も加わって衰退し、 一九一一年の辛亥革命により翌一二年宣統帝が退位して滅亡した。
「孝荘下嫁」は、順治帝の生母・孝荘太后が、夫の死後にその弟ドルゴンと密かに再婚していたのではないか、という疑惑である。このうち最後を除く三つだけを「清初三大疑案」と呼ぶこともあり、また「雍正奪位」の代わりに「雍正被刺(暗殺説)」を入れる場合もある。
「順治出家」は、若くして亡くなった順治帝は実は死んでおらず、愛妃の死をきっかけに帝位を捨てて出家し、僧として長生きしたのではないかという噂である。
「雍正奪位」は、康熙帝が本来予定していた後継者を差し置き、雍正帝が不正な手段で帝位を奪ったのではないか、という疑惑である。
「乾隆身世」は、乾隆帝の生母が実は江南の漢民族名門の出身だったのではないか、という噂である。