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中国後宮の事件簿
内廷と外廷に君臨した皇帝の孤独

最新の更新2026年1月18日   最初の公開2026年1月18日

  1. 01/20 北宋の後宮
  2. 01/27 南宋と周辺民族の後宮
  3. 02/03 明の後宮の栄光と悲惨
  4. 02/10 明の後宮の怪事件
  5. 02/17 清の後宮

以下、https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/66433/より引用。引用開始
曜日 火曜日  時間 10:40〜12:10
日程 全5回 ・01月20日 〜 02月17日
(日程詳細)  01/20, 01/27, 02/03, 02/10, 02/17
目標
・歴史の真実を知る面白さを学ぶ。
・現代と近未来の問題を歴史をヒントに考える。
・中国社会の特徴を理解することで、日本社会への教訓を得る。
講義概要
 国家は、国と家と書きます。中国の君主にとって、大臣や官僚とともに政治を行う外廷と、后妃とともに暮らす内廷すなわち後宮は、国家経営の両輪でした。外廷の政治は儒教とか科挙とか論理的な計画設計が可能であり、古代から近代にかけて改革と改良が試みられました。内廷すなわち後宮は、国家安定のため君主の男系子孫を安定供給する「宗族製造インフラ」でしたが、妊娠という偶然に左右される生理現象が頼りでした。そのため后妃や宮女、宦官を巻き込んだ後宮の騒動は、しばしば国家をゆるがしました。本講座では、後宮から見た10世紀から20世紀までの中国史を、豊富な映像資料を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。
引用終了
北宋の後宮
 北宋(960年-1127年)は、文治主義のしっかりとした王朝で、皇帝の後宮もそれまでにくらべるとしっかりとしていました。それでも、様々な事件が起きました。初代皇帝・太祖こと趙匡胤の急死にまつわる疑惑。呪術を理由に皇后が廃された陰謀「掖庭の獄(えきていのごく)」。北宋を滅亡させた「靖康の変」では、後宮の女性たちは悲惨な運命に見舞われました。後宮から見た中国史を、わかりやすく解説します。

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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明

○北宋の時代の有名人


○宋の初代皇帝
 唐末五代の時代は、日本の戦国時代に似た武断主義の時代であり、軍閥や職業軍人出身の支配者が天下を争った。しかし彼らは民政や財政運営を不得手とし、国家の安定には文官官僚の力が不可欠であった。その結果、武断主義が徹底されるほど、かえって文治的官僚機構の重要性が高まった。五朝八姓十一君に仕え、二十年も宰相を務めた馮道は、その象徴的存在である。
 五代十国を終結させた宋王朝は、徳川幕府が戦国時代を終わらせたのと同様、武断主義から文治主義へと国家の方向性を大きく転換した。初代皇帝の趙匡胤(太祖)は職業軍人出身でありながら、科挙官僚を中心とする高度な官僚制を整備し、軍閥や外戚、内廷勢力が国政を壟断する余地をなくした。これにより宋の後宮は政治的陰謀の場ではなくなり、内廷としての本来の機能を果たす「まともな」存在となった。
 太祖の政治姿勢の根底には、母・杜氏(昭憲杜太后)の教えがあった。即位を祝われても彼女は喜ばず、「天子となるのは難しく、統治に失敗すれば後戻りはできない」と戒めた。太祖はこれを深く胸に刻み、徳による政治を志した。彼は功臣を粛清せず、「杯酒もて兵権を釈く」の故事に示されるように、穏やかに引退させて余生を保障した。また前王朝柴氏の子孫を厚遇し、知識人や言論人を殺さぬことを遺訓として石碑に刻ませた。
 宋には建国時の大規模な粛清や言論弾圧がなく、歴代皇帝もこの遺訓を守り続けた。中国人が宋に特別な温かさと懐かしさを感じるのは、太祖趙匡胤の人徳と、彼を導いた母の教えが、国家のあり方として文治主義と寛容さを定着させたからである。
 961年、重病の杜太后は太祖・趙匡胤に、「おまえが即位できたのは後周に成年の皇族がいなかったからだ」と諭し、「死後は皇位を幼子ではなく弟に譲れ。国家のためには成年男子の継承が望ましい」と命じた。太祖は涙ながらに従うと誓い、趙普に誓約書を書かせて宮中の金匱に納めた。これを「金匱の誓い」という。まもなく太后は六十歳で没した。『宋史』后妃伝に記される史実である。

○宋の後宮の特徴
 宋の後宮は、歴代王朝の中では比較的まともで、暴君や皇統簒奪を狙う外戚、皇帝を操る宦官はいなかった。唐の武后や楊貴妃のような存在も見られない。私見では、北魏四十点、唐五十点に対し、宋は八十点ほどと評価できる。
 とはいえ、満点ではなかった。怪事件や変な人物も現れた。

○初代皇帝の謎の急死
 976年、太祖・趙匡胤は後宮の萬歳殿で急死した。その夜、弟の趙光義と密室で酒宴を開き、「燭影斧声」と呼ばれる不気味な情景が伝えられている。死因は不明で、急病説のほか、弟による暗殺説もあり、この疑惑は「千載不決の議」と呼ばれる。
 太宗(趙光義)は兄の死直後に改元するという異例の行動をとり、さらに太祖の二人の息子、趙徳昭と趙徳芳はいずれも若くして死んだ。病死や自殺とされるが、太宗による排除だったとの説が根強い。
 日本の天智・天武兄弟と似た関係だが、宋では太宗が兄の系統を皇統から排除した点が異なる。皮肉にも、南宋では逆に太祖系が皇位を継ぐことになった。

○宋儒と濮議
 宋代は文治主義と儒教倫理が社会に定着し、知識人の間で厳格な道徳論が重視された時代である。 これを担ったのが周敦頤や朱熹らの「宋儒」であった。 英宗即位後、実父である濮王の扱いをめぐり、儒教的な「嫡父・実父」の解釈をめぐって官僚たちが激しく対立した事件が「濮議」である。司馬光や欧陽修らが二派に分かれて論争し、政治は停滞した。結局、英宗が在位四年で死去すると議論も自然消滅し、彼の治世は宋儒的な空論に空費された形となった。

○宋の簾聴政
 宋では皇太后の垂簾聴政がしばしば行われたが、呂后や武則天のように皇位を簒奪する女性は現れなかった。これは文治主義と宋儒的な科挙官僚社会が確立し、男尊女卑の儒教倫理が政治を強く拘束していたためである。宋の后妃には女傑が多くいたが、時代の枠組みが彼女たちの野心を抑え込んだ。
 代表例が仁宗の嫡母・劉太后である(「大宋宮詞 〜愛と策謀の宮廷絵巻〜」https://www.bs11.jp/drama/daisougushi/ モデル)。 彼女はもとは民間人で、真宗に寵愛され、侍女の李氏に産ませた皇子(後の仁宗)を自分の子と偽って皇后となり、真宗の死後は垂簾聴政で実権を握った。 仁宗は彼女を実母と信じて育ち、本当の生母・李宸妃は名乗れぬまま生涯を終えた。劉太后の死後に真相を知った仁宗は深く嘆き、李氏を皇太后に追尊した。
 この宮廷秘話は後に「狸猫換太子」などの物語として脚色され、京劇やドラマの人気題材となった。宋の後宮は「まとも」な制度に縛られつつも、実は濃密なドラマ性を秘めていたのである。
「狸猫換太子」(フィクション)のあらすじ
 北宋の真宗皇帝の時代、李妃が妊娠。 劉妃は宦官と共謀し、李妃が産んだばかりの皇子を、皮をはいだ狸猫(ヤマネコ)とすり替え、わが子と偽る。 李妃は追放され、流浪する。 皇子は成長し、皇帝(仁宗)となる。 「中国の大岡越前」とも言うべき包拯(包公)は、流浪して失明した李妃と出会い、真相を知る。 包拯は劉妃を追い詰め、李妃は皇帝の実母として認められ、宮中に迎え入れられる。


○坤寧宮の変と曹皇后
 一〇四八年、仁宗は、皇后の曹氏(慈聖光献皇后。以下、曹皇后)と、後宮の坤寧宮で休んでいた。突然「謀反です!」という急報が来た。 仁宗は外に逃げようとした。曹皇后は「むやみに出ないほうが安全です」と引きとめ、扉を閉めて仁宗を守り、 人をやって侍衛長の宦官・王守忠に衛兵を連れて駆けつけるよう命じた。 やがて、女性の悲鳴が仁宗のところまで響いた。 宦官が「乳母が若い宮女にお仕置きをしているのでは」と言うと、 曹皇后は「賊が人を殺しながら近づいているのです。何をばかなことを言ってるの」と叱りつけた。 そして周囲の者に「賊はきっと、宮殿に放火するでしょう」と言い、水を用意させた。 果たして反乱者たちは放火したが、用意した水のおかげで延焼を食い止めることができた。  この夜、曹皇后は、宦官や侍女たちに命令を下すたびに「報賞は明日。これを証拠に」と言って、自分の黒髪を切って渡した。 皇后の機転のおかげで、近侍の者たちは全員、死力を尽くして防戦した。やがて反乱者は捕殺された。数名の衛兵しわざであった。
 欧陽修は別資料で、捕えた賊を宦官が口封じのように殺したことを記し、黒幕の存在を示唆した。 あまりに曹皇后の対応が周到だったため、仁宗は彼女を疑い、寵妃の張氏(温成皇后)を重用するようになった。 結果的に事件の最大の受益者は張氏だったとされ、黒幕説も彼女に向けられることが多い。
 一〇六三年、仁宗は夜、突然に崩御した。曹皇后は宮中の諸門の鍵を集めて自分の前に置かせ、誰も出入りできぬようにして、趙曙を召し出した。 夜が明けると、宰相の韓gらがやってきた。趙曙は第五代皇帝(英宗)となり、曹皇后は皇太后に繰り上がった。 彼女はの機転のおかげで、仁宗の死について噂や疑惑は生じなかった。  一〇六六年、英宗が死去し、長男が十九歳で即位した(神宗)。曹皇太后は、曹太皇太后に繰り上がったが、神宗に適切な助言を与えた。

○曹太皇太后と東坡肉
 神宗の時代、外廷の官僚政治家は、王安石ら新法党と、欧陽脩・韓g・司馬光・蘇軾ら旧法党に分かれ、熾烈な党争を行った。 神宗は王安石を信頼した。
 一〇七九年、旧法党の蘇軾は、漢詩の中で国政を誹謗した罪で、獄に下った。曹太皇太后は、すでに体調が悪化していたが、神宗に説いた。
「仁宗さまが生きていらしたころ、科挙の最終試験で、蘇軾兄弟を合格させられました (井上靖の歴史小説『敦煌』の冒頭部で描かれたように、宋の科挙の最終試験である「殿試」は、皇帝みずからが試験官となって行った)。 仁宗さまが『私は子孫のために、未来の宰相を二人も得たぞ』と嬉しそうに言われたのを、昨日のことのように、はっきり覚えております」
 その後、曹太皇太后は、息をひきとった。享年六十四。 蘇軾は出獄し、田舎の黄州への左遷、という軽い処分で済んだ。 彼は左遷先の黄州で「東坡居士」を名乗り、詩作に精を出した。彼が考案した豚肉料理「東坡肉」は、今も中華料理の人気メニューとなっている。

○掖庭の獄と元祐皇后
 宋は垂簾聴政が頻繁に行われたが、全体としては比較的健全に機能していた。1085年に神宗が死去すると、9歳の哲宗が即位し、祖母の宣仁太后が垂簾聴政を行った。彼女は多くの名家の女子を後宮に入れ、その中から孟氏を選び、後に皇后(元祐皇后)とした。宣仁太后の死後、哲宗は親政を開始したが、皇后よりも侍女出身の劉氏を寵愛し、劉氏は皇后の座を狙って露骨な挑発を繰り返した。
 1096年、元祐皇后の姉が病気平癒の呪符を後宮に持ち込んだことをきっかけに、「呪詛」をめぐる疑獄が発生した。皇后は禁忌を理解しており、呪符を隠し、哲宗にも説明して処分したが、劉氏一派はこれを利用して皇后が呪殺を行ったとの噂を広めた。やがて皇后の養母らが祈祷を行ったことを口実に大規模な捜査が始まり、宦官や宮女三十人近くが逮捕・拷問された。
 判決文を作成した董敦逸は、事件が劉氏一派の捏造であり、背後には劉氏を皇后にしたい哲宗自身の意向があると察したが、身の危険を恐れて有罪判決を提出した。その後、良心の呵責から再度上奏し疑問を呈したが、哲宗の怒りを買い左遷された。最終的に元祐皇后は廃され、瑤華宮に送られて道士とされ、養母ら三人は死刑となった。この事件は「掖庭の獄」「瑤華の秘獄」と呼ばれる。
 背景には、外廷での新法党と旧法党の激しい対立があった。宣仁太后と元祐皇后は旧法党寄りであり、哲宗は新法党を信任していたため、宰相章惇らが後宮の混乱を利用した面が大きい。後年、哲宗は「章惇、わが名節をやぶれり」と嘆き、自らの判断を悔いたという。内廷の事件と外廷の政争は密接に連動していたのである。

○徽宗皇帝の即位と劉氏の自死
 劉氏は邪魔者を退けて賢妃、さらに皇后に昇進し、1096年から二人の帝姫と1099年に待望の皇子趙茂を産んだ。だが皇子は生後二か月で夭折し、帝姫も相次いで亡くなる。悲嘆に沈んだ哲宗は体調を崩し、1110年、二十四歳で嗣子を残さず死去した。
 次の皇帝選びをめぐり、宰相章惇は異母弟の趙似を推したが、神宗皇后の向氏(欽聖皇后)は趙佶を推し、後者が即位して徽宗となった。向氏が垂簾聴政を行い、旧法党が復権し、元祐皇后も名誉回復した。一方、章惇は失脚し左遷された。
 徽宗は劉氏を皇太后に昇格させたが、劉氏は野心を捨てず政争に関与し続けた。1113年、廃位が決まると、側近に迫られ自害し、三十五歳で生涯を閉じた。

○靖康の変
 徽宗は、江戸時代の将軍「遊王」こと徳川家斉と同じく政治を部下に任せ、趣味と贅沢に生きた君主だった。 治世の評価は低いが、文化が大きく花開いた時代を現出した。 徽宗はとくに芸術家として傑出し、「桃鳩図」に代表される名作を残している。彼の時代の政治腐敗と格差社会の空気は、古典小説『水滸伝』にもよく表れている。
 しかし徽宗は不運にも、北宋滅亡の責任を負うことになった。北宋は遼・西夏など強大な周辺国に囲まれていたが、徽宗朝は新興国・金と結んで遼を倒した後、さらに遼と密約して金を討とうとするという二枚舌外交を行った。これが露見して金の怒りを買い、1125年に大軍が侵攻、宋軍は敗北した。
 徽宗は退位して太上皇となり、後を継いだ欽宗の交渉も失敗する。1126年、金軍は首都開封を占領し、北宋は事実上滅亡した。これが「靖康の変」である。

○金軍の戦利品と化した北宋の後宮
 金軍は靖康二年(1127年)、徽宗・欽宗以下三千人以上(実際は一万人超とも)を捕虜として北方へ連行し、南宋は康王(高宗)が継いだ。 女真族の金は土地よりも人間や財宝を戦利品として重視した。後宮の女性も例外ではなかった。
 『靖康稗史箋證』(偽書説あり)には、后妃・皇女・宮女から民間女性までが大量に連行され、道中で暴行を受け、多くが自殺に追い込まれたことが記される。 金国到着後、女性たちは兵士に分配されたり、「洗衣院」と呼ばれる実質的な国営娼館に収容された、とも記されている。皇族や高官の妻娘も例外ではなかった。
 稗史の記録の真偽には限界があるが、正史が伝えない悲惨な現実を多く含む。女性が戦利品として扱われる光景は、古代の「縷」の字源(女奴隷たちを紐で通して引っ張るさまを描いた文字)の時代から繰り返されており、靖康の変もその一例であった。

○孟氏のカムバックと南宋の成立
 靖康の変は多くの関連書がある。青木朋氏の漫画作品『天上恋歌』も金の視点を取り入れた優れた作品である。ここでは、この事件で運命が激変した皇后たちに注目する。
 徽宗は結果的に金軍に献上するための巨大な後宮を築いたようなものであったが、七十人もの子女をもうけたことは王朝存続の保険でもあった。 徽宗・欽宗一族が連行された際、九男の康王趙構だけは難を逃れたが、生母の韋氏や妻の邢氏、娘は金に連れ去られた。
 金は当初、領土支配に執着せず、北宋の宰相張邦昌を皇帝とする傀儡国家「大楚」を残して撤退した。張邦昌はすぐに帝位を返上し、都を離れて無事だった元祐皇后孟氏を迎え、垂簾聴政を依頼した。孟氏は康王趙構を皇帝に指名し、彼は南宋の初代皇帝・高宗となった。孟氏は実母ではなかったが皇太后として尊ばれた。
 張邦昌は復国に尽くしたが、金の下で帝位を称した罪を問われ自殺を命じられた。靖康の変がなければ、孟氏が皇太后として復権することもなかったであろう。

[一番上]


南宋と周辺民族の後宮
 南宋(1127年-1279年)は、日本人の一般的な印象では地味な時代に思われますが、後宮には強烈な傑物が何人も現れました。いったん滅亡した宋を復活させたのは、北宋末に廃された皇后でした。軍服を着た女傑の皇后や、悪女とされる李鳳娘など、前漢の呂后や唐の武則天に匹敵する人物もいました。南宋と同時代に存在した異民族の王朝でも、個性的な後宮が存在しました。金の海陵王の乱脈ぶりや、モンゴル帝国のチンギス・カンの簡素な後宮は、南宋と対比的でした。

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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明

南宋
○南宋の成立
 靖康の変は、皇后や皇族女性の運命を大きく変えた。廃后であった元祐皇后孟氏は難を逃れ、趙構を皇帝に指名して南宋建国を導くという奇跡の復活を遂げた。 一方、高宗の生母韋氏や正妻邢氏、側室や娘たちは金に連行され、洗衣院(出典は偽書説あり)で屈辱的な生活を強いられた。 娘三人は途中で死亡し、邢氏も金国で病没したが、高宗は長くその死を知らされなかった。紹興の和議後、韋氏は帰国し、皇太后として厚遇されて天寿を全うした。
 高宗の二番目の皇后となった呉氏は女傑である。即位前から高宗を支え、逃亡中は軍服を着て同行し、機転と学識で彼を励ました。 やがて皇后となり、高宗から寧宗まで四代五十五年にわたり后位を保ち、南宋を陰から支え続けた。

○南宋の皇統返還
 南宋の初代皇帝・高宗は、父の徽宗と違って子女が少なく、五人の娘はいずれも幼くして金軍に連行された。 一一二七年に潘賢妃が男子を産んだが、病弱で三歳で夭折し、その後は子に恵まれなかった。
 宋の皇帝は代々、太祖の弟・太宗の系統で続いてきたが、高宗は自分を最後に皇統を太祖の子孫に戻すことを決意した。 高宗は太祖の第四子・趙徳芳の六世孫を養子に迎え、資質を見極めたうえで帝位を譲った。こうして一八六年ぶりに皇統は太祖の系統へ戻った。
 南宋第二代皇帝・孝宗は、三人の皇后を立てたが、制度と礼を重んじた節度ある後宮を築いた。 孝宗の後宮は「まとも」であった。 また高宗と孝宗は、中国史では珍しく、退位後も実権を握った上皇である (中国では上皇は失脚者である場合が多く、実権を保った例は高宗・孝宗と、清の乾隆帝の三人だけ)。 南宋は孝宗の時代に最盛期を迎えた。日本の平清盛が日宋貿易を進めたのも、この繁栄に注目したからであった。

○悪女・李鳳娘
 南宋は第三代で大きくつまずいた。孝宗には四人の男子がいたが、有能な三人は早世し、暗愚で病弱な三男だけが残ったため、やむなくこれを即位させた。これが第三代皇帝・光宗である。光宗の皇后となった李鳳娘は、嫉妬深く残忍な性格で知られ、南宋後宮では異例の「悪女」とされた。
 李鳳娘は若くして皇族に入り、占いによって将来皇后になると予言され、高宗の意向で趙惇(光宗)と結婚した。皇后となってからは、義父である孝宗や太皇太后呉氏と対立し、孝宗に嘉王(のちの寧宗)を皇太子に立てるよう迫って拒まれると、讒言を用いて光宗と孝宗の親子関係を断絶させた。彼女は嫉妬心が極端で、美しい宮女の手を切り落として光宗に送ったという残虐な逸話も伝えられる。
 さらに李鳳娘は、光宗が寵愛していた黄貴妃を殺害し、他の妃嬪も宮中から追放した。これを機に光宗の健康は悪化し、政務不能となり、実権は李鳳娘が握った。彼女は一族や家臣を大量に登用し、宮中よりも自家の勢力を誇示するなど、政治を私物化した。
 光宗は父・孝宗への孝養を断ち、孝宗が崩じても葬儀すら十分に行えなかった。これを見かねた重臣趙汝愚は、太皇太后となっていた呉氏と連携し、光宗を退位させ、嘉王を即位させた。 これが第四代皇帝・寧宗であり、この政変は「宋光宗内禅」と呼ばれる。
 退位後の光宗は実権を持てず、李鳳娘も皇太后の地位だけで失脚した。李鳳娘は一二〇〇年に五十六歳で死去し、光宗もその二か月後に五十四歳で没した。南宋は、李鳳娘の専横と光宗の無能によって、第三代にして深刻な政治的混乱に陥ったのである。

○南宋の外戚
 韓侂冑は、名臣韓gの曾孫で、高宗皇后呉氏の姪の子という外戚の立場にあり、科挙に合格しないまま蔭位で官界に入った人物である。 宋光宗内禅の際、趙汝愚が呉氏の支持を得るために彼を利用し、無血クーデターは成功したが、論功行賞で冷遇されたため趙と対立し、寧宗の信任を得て政権を掌握した。
 韓侂冑は、趙汝愚と結んだ科挙士大夫勢力を排除し、朱熹を中心とする学派を「偽学」として弾圧した(慶元偽学の禁)。 やがて要職を独占し、ついには宰相格の「平章軍国事」にまで昇り、外戚として異例の権力を握った。これは、孝宗・寧宗が科挙官僚の力を抑え、皇帝権力を強めようとした路線にも合致していた。
 一方で韓侂冑は岳飛の名誉回復などの功績もあったが、国力を過信して金への無謀な北伐を開始したのが致命的だった。 ちょうどモンゴルが台頭する時代に、金との和約を破って戦争を始めた結果、宋軍は惨敗し、金は講和の条件として韓侂冑の処刑を要求した。 南宋はこれを受け入れ、彼は一二〇七年に殺され、その首は金に送られた。
 韓侂冑は専横した外戚ではあったが、簒奪者ではなく、結局は寧宗の権力構造の中で動いていた存在ともいえる。 彼の死後、南宋は反動で再び「文」に傾き、軍は官僚化して士気を失い、武の活力を失った。この文弱化こそが、やがて南宋がモンゴルに滅ぼされる遠因となった。

○皇統は再び断絶
 南宋では孝宗・光宗・寧宗と父子継承が続いたが、寧宗は九人の男子すべてを夭折で失い、皇統は再び断絶した。 そこで即位した理宗は、太祖趙匡胤の別系統の子孫で、実に二四八年ぶりに皇帝を出した家系であった。理宗を擁立したのは、権臣の史弥遠である。
 理宗は朱子学に傾倒し、文官を重んじたが、モンゴル帝国が急成長する時代にあって理想論では国難を防げなかった。 治世後半には政治への意欲を失い、実権は外戚の賈似道に移った。 賈似道は姉が理宗の側室という縁で出世し、国政を専断したが、南宋はすでにモンゴルの侵攻を防げない末期状態にあった。
 理宗の実子も夭折し、死後は甥の度宗が十五歳で即位した。だが政権は引き続き賈似道が握り、度宗自身は酒色に溺れて一二七四年に三十五歳で死去した。 こうして南宋の皇統と政治はともに衰退の一途をたどった。

○南宋の滅亡
 度宗の死後、四歳の恭帝が即位したが、実権はなお賈似道が握っていた。しかし元軍の猛攻で南宋軍は壊滅し、賈似道は失脚して暗殺された。 一二七六年、首都臨安は無血開城し、恭帝と母・祖母は捕らえられて北へ連行された。
 その後も南宋の残存勢力は皇子を奉じて南へ逃れ、まず端宗が即位したが十歳で病死、続いて祥興帝が立てられた。 だが一二七九年、崖山の戦いで元軍に追いつめられ、忠臣陸秀夫は八歳の祥興帝を背負って入水自殺し、後宮や臣下も多数殉死した。 『宋史』によれば、海には十万人以上の遺体が浮かんだという。
 端宗の母であり皇太后となっていた楊氏も、「われ、死を忍んで艱関ここに至れるは、まさに趙氏一塊の肉のみ。今は望み無し」 (わたしが生き延びてきたのは皇室のただ一人の血筋のためだった。今は望みがない)と嘆き、海に身を投げた。この言葉から、唯一残った子を指す「一塊之肉」という語が生まれた。
 忠臣の張世傑は溺死し、文天祥は捕虜となり、ここに南宋は完全に滅亡した。南宋では最後まで、後宮もまた皇統を守る担い手として、国家存続と運命を共にしていたのである。

○後日談
 クビライは南宋に比較的寛大だった。文天祥を高く評価し帰順を勧めたが拒まれ、本人の望みどおり処刑した。 捕らえた恭帝・謝太皇太后・全太后の三宮は殺さず、汪元量も同行して北送され、その様子を漢詩に残した。 詩には、クビライと皇后チャブイが宋の三宮を宴でねぎらい、同じ食事をともにした情景が詠まれている。
 『新元史』によれば、宴の場で皆が喜ぶ中、皇后チャブイだけが沈んだ表情を見せ、
「妾聞自古無千歳之國,毋致吾母子及此幸矣」
(わらわは聞いております。いにしえより千年続いた国はない、と。私と息子がこのような亡国の悲運を味わうことがないようにしてくだされば、それだけで幸せでございます)
と語ったという。戦勝の中で滅亡を見据えた、賢明な言葉であった。 チャブイは全太后にも同情し、待遇改善に尽力した。全太后に仕えた宮人が自殺する事件もあり、帰郷を勧めたが、政治的理由で実現しなかった。ただし全太后への配慮は強まった。
 恭帝は各地を転々としたのち、クビライの意向でチベット仏教僧となり静かに暮らしたが、一三二三年、筆禍事件で自殺を命じられた。これで宋の歴史は終わる。


○日本的な後宮
 史上初の征服王朝は、契丹族が建てた遼である。九一六年、耶律阿保機が建国し、国号は「契丹」と「遼」を行き来したが、最終的には遼として定着した。 遼の皇帝は、第二代と第四代を除き、太祖の長男耶律突欲の直系子孫が継承し、後宮制度が安定して機能していたことがわかる。 一一二五年、遼は金に滅ぼされ、耶律大石は中央アジアに逃れて西遼(カラキタイ)を建てた。
 遼の皇后はほとんどが蕭氏であり、王族は耶律氏、后族は蕭氏という固定した構造があった。 これは、征服王朝が血統維持を重視し、皇帝の母系を特定の有力氏族に集中させる傾向をもっていたためである。
 この仕組みは、日本における藤原氏と天皇家、日野氏と足利将軍家の関係に似ており、外戚が権力を支えながらも皇位や将軍位を奪わなかった点で「日本的」ともいえる。 遼の後宮にも蕭太后のような女傑が現れ、国家を支えたが、呂后や武則天のように自ら君臨するのではなく、あくまで皇后・未亡人として夫の国家を守った。 征服王朝の後宮は、血統と政治秩序の両立という点で健全な制度であった。

○三代目までは簡素で健全
 金は女真族(後の満洲族)が建てた征服王朝で、一一一五年に建国し、遼と北宋を滅ぼして中国北半を支配したが、モンゴル帝国の侵攻を受けて一二三四年に滅亡した。 初代皇帝は完顔阿骨打(太祖)である。 金の皇位継承は遼より複雑で、兄弟・いとこ・叔父甥など横や斜めの継承が多かった。 生母の出身氏族も一つに集中せず多様である点が遼と異なる。ただし、皇帝の生母はいずれも非漢族で、皇室の血が漢族化することを避けた点は共通している。 章宗の末年からはチンギス・カンの台頭により国政が混乱し、末帝は即位後わずか数時間で戦死した。
 後宮制度は当初きわめて簡素で、太祖・太宗の時代には漢族王朝のような位階はなかった。 第三代熙宗の時に皇后・貴妃・賢妃・徳妃などが定められたが、まだ質素であった。

○第四代皇帝は廃帝の海陵王
cf.https://toyokeizai.net/articles/-/909912
 ところが第四代海陵王は好色で、後宮を大規模化し、元妃・姝妃・麗妃・温妃・柔妃など十二の位階を設け、女性の美や色香を強く意識した称号を多用した。 これは、金の後宮が漢族王朝化していく象徴的な変化であった。
 海陵王(1122―1161)は女真名をテクナイ(迪古乃)、漢名を「亮」といい、「完顔亮」「海陵王亮」とも呼ばれる。日本では駒田信二の小説『私本・荒淫王伝』で、その暴虐な生涯が描かれている。もとは第三代皇帝・熙宗の宰相だったが、クーデターで熙宗を殺し、第四代皇帝に即位した。
 幼少から中国の芸術と文学に憧れ、南宋の都・臨安を制圧する野望を抱き、臨安山水を詠んだ漢詩を残した。南宋攻略のため、金の都を会寧府から燕京(北京)に移し、皇帝独裁と軍事国家化を進める一方、大規模な粛清を行い、宗族・臣下・遼や宋の遺民を大量に殺害した。殺した者の妻や娘が美しければ後宮に入れたという。
 『金史』は、海陵王の後宮での淫虐ぶりを詳しく伝えている。即位後、後宮は急激に拡大し、十二の妃位と多数の女性を囲った。近親関係の女性や既婚女性にも手を出し、同性愛関係、密告と処刑、堕胎の強要など、残虐で倒錯的な行為が繰り返されたと記される。これらは史書が伝える事実だが、後代の政権による誇張も含まれる可能性がある。

モンゴル帝国・元
○チンギス・カンの後宮
 モンゴル族は遼や金と異なり、チンギス・カンの時代には純粋な遊牧民族であった。モンゴル帝国は中国史の枠を超えるユーラシア規模の国家で、中国はその東南の一部にすぎなかった。君主たちの生活様式や価値観も、漢族王朝の皇帝とは大きく異なっていた。
 チンギス・カンは生涯ゲルでの移動生活を好み、財産や妻妾も馬で運べる範囲にとどめた。 世界征服で多くの女性を得たが、妻妾は数十人ほどで、後宮の位階も「后(正妻)」と「妃(側室)」の二種類だけという簡素な制度だった。この気風は歴代モンゴル皇帝にも受け継がれた。
 『新元史』によれば、モンゴルではハーンの妻を可敦(ハトゥン)と呼び、上級側室も同様に可敦と称した。中国語に訳せばすべて「皇后」であり、一般の側室は「妃子」と呼ばれた。元代を通じて後宮の位号は皇后と妃子の二等級のみであった。クビライの時代、皇后チャブイにのみ中国式の冊封が行われ、これが中国的意味での最初の皇后となった。
 モンゴル皇帝たちは「元」を名乗った後も、文化的にはモンゴル人であり続け、中国文化に耽溺することはなかった。 また、皇位継承は兄弟・いとこ・甥など横方向が多く、儒教的な長子相続の観念は弱かった。 一方で、君主は必ずチンギス・カンの男系子孫でなければならないという原理があり、これは「チンギス統原理」と呼ばれる。男系血統の絶対性という点で、日本の天皇制の継承原理に似た側面をもっている。

○悪女は少なかった
 モンゴル帝国と元の後宮には有能な女性が多く、政治に影響を与えた者もいたが、漢の呂后や唐の武后のような「悪女」は現れなかった。皇帝は必ずチンギス・カンの男系子孫に限るという「チンギス統原理」があったため、外戚による王朝簒奪の余地がなく、後宮の規模も適正で、宦官の専横や后妃同士の過度な権力闘争も起きなかった。モンゴル王朝の後宮は健全であった。
 皇后の役割は、たとえて言えば「相撲部屋のおかみさん」で、家庭と組織を切り盛りする存在だった。 チンギス・カンの生母ホエルンは、夫の死後に子を育て上げ、その功で宣懿皇后と追尊された。四男トルイの妻ソルコクタニ・ベキも傑出した女性で、彼女の子からモンケ、クビライ、フレグ、アリクブケが出た。彼女の政治力により、皇統は本来継ぐはずだったオゴデイ家からトルイ家へ移った。
 クビライの皇后のうち、中国式の冊封を受けた正宮皇后はチャブイのみである。彼女は聡明で、朝廷に強い影響力を持ちながらも、あくまで「おかみさん」として夫を支えた。
 元代で「悪女」とされる存在を挙げるなら、ダギと奇皇后の二人である。正史『新元史』も、ホエルン、ダギ、奇皇后の三人を特に取り上げている。

○モンゴルの「妲己」
 ダギは名門コンギラト部族出身で、クビライの孫ダルマバラに嫁ぎ、武宗カイシャンと仁宗アユルバルワダを生んだ。漢字では「答己」と書き、「妲己」にもなぞらえられる悪女とされた。
 一二九二年に夫ダルマバラが死去、さらに一三〇七年に成宗が没すると後継争いが起き、武宗が即位してダギは皇太后となった。武宗は一三一一年に急死し、ダギと仁宗の謀殺説もある。
 その後、仁宗と孫の英宗はダギの傀儡となり、国政は彼女と側近が支配した。ダギ死後、英宗は暗殺され、元朝は泰然帝・天順帝の短命政権へと移り、混乱が続いた。この専横と混乱の時代に、朱元璋ら元末の群雄が相次いで生まれ、元の中国支配は衰退へ向かった。

○高麗出身の奇皇后
cf.韓国のテレビドラマ『奇皇后 〜ふたつの愛 涙の誓い〜』(韓国語の原タイトルは『기황후(奇皇后)』。韓国では二〇一三年から二〇一四年にかけて放送)  高麗はモンゴル帝国の属国となり、元寇では日本侵略にも協力した。高麗は人々を貢物として差し出し、男は宦官、女は宮女とされた。 奇皇后もその一人で、卑しい出身から元の恵宗トゴン・テムルに見初められ、皇太子アユルシリダラを産み、「次皇后」となった。 学問と政治感覚に優れ、儒教を重視し、救済活動で名声を得たが、やがて権力を握り、賞罰を左右する存在となった。
 元の衰退期、高麗では恭愍王が反元政策を進め、奇皇后の一族を殺害した。これに怒った奇皇后は元軍を派遣させたが、李成桂に敗れ失敗した。元国内でも反乱が相次ぎ、奇皇后は皇太子即位を画策したが未遂に終わった。
 一三六五年、正皇后の死により奇皇后はついに正皇后となったが、同年朱元璋が台頭し、元は急速に崩壊へ向かった。 一三六八年、明が成立し、大都(北京)が陥落すると、恵宗・皇太子・奇皇后は北へ逃亡した。 これが「元の北走」であり、中国におけるモンゴル支配は終わった。奇皇后の没年は不明で、『新元史』は一三六九年没とする。
 漢族から見れば元は滅亡し、モンゴル側から見れば北へ戻って「北元」として存続した。北元が最終的に滅ぶのは一六三六年で、モンゴル皇帝の地位は清のホンタイジに継承された。
講義のあと、受講者から以下の質問を受けました。
【質問】
(1)南宋の李鳳娘に関して。
a.高宗と孝宗は比較的早い時期に李鳳娘の悪女ぶりに気付いたようですが、説教するだけでなく別の有効な改善策を講じていないようです。 何か理由があったのでしょうか?
b.例えば、高宗か孝宗が配下でもある李鳳娘の父李道に、 娘の説得または再教育を示唆する事も有効だったのでは?
c.李鳳娘の問題で光宗は父孝宗を拒絶する挙に出ましたが、 上皇になった後も実権を握っていた孝宗に対して暗愚・病弱だった光宗がなぜ反抗できたのでしょうか?
(2)南宋の恭帝が自殺を命じられた1323年の舌禍事件の 内容を簡潔で構いませんのでご教示ください。
【加藤徹の回答】
(1)
a.宋という成熟した時代だったので説教など穏便な方法で済ませようとしたこと、高宗や孝宗は有能な人物で自制心があったこと、 南宋の皇統の正当性には潜在的な疑義があったため皇室として「家醜不可外揚」(家醜は外に揚ぐべからず)の意識が強かったこと、 南宋初期の内憂外患の状況下で万事に余裕がなかったこと、など複合的な要因があったと思われます。
 特に、宋の儒教的な文臣たちは、もし皇帝が強行手段を取ると、「父子・夫婦の倫を破る皇帝である」という非難をしかねません。 皇位継承の正当性に潜在的な疑義をもつ高宗や孝宗にとって、そのような儒教的な批判は避けたいところでした。
b.皇帝が「外戚」たる李鳳娘の父親にもめ事の解決を頼むのは、政治的に微妙なところがあります。
c.上皇と当今(現役の皇帝)の対立は、中国史ではあたりまえでした。光宗の「反抗」は、歴代の類似例から見れば、むしろおとなしいほうです。
(2)南宋の恭帝が元・英宗の至治三年(1323年)に自害を賜った理由については、明初の僧・釈無慍の『山庵雑録』によれば、僧となっていた恭帝は、なにげなく
  寄語林和靖、梅開幾度花。?金台上客、無復得還家。
という漢詩を詠みました。「語を林和靖に寄語す。梅は幾度の花を開く。黄金台上の客、また家に還るを得ること無し」。
 春を何度も迎えても、それなりの暮らしを保証されていても、私は結局、二度と故郷に帰ることはできない、という嘆きです。
 密偵から報告を受けた元の英宗は、南宋の故地である江南の人心を動揺させる詩であると警戒して、恭帝を逮捕し、死に追いやりました。 しかしその後、元の英宗は恭帝の命を奪ったことを後悔し、供養のため、内帑金を出し、江南の善書の僧儒を燕京に集めて大蔵経を書写させました。
[一番上]


明の後宮の栄光と悲惨
 明(1368年ー1644年)は、史上最後の漢族王朝でした。 ホームレスから身を起こして初代の皇帝となった洪武帝と、糟糠(そうこう)の妻である馬皇后は、いわば中国版の豊臣秀吉とねね(北政所)でした。 その後、明の後宮の組織は肥大化し「宦官は十万人にのぼり食料が行き渡らず餓死者も出た」「皇后選定の美人コンテストの競争率は五千倍」という状況になりました。 政治権力をふるった宦官の劉瑾や魏忠賢、悪女とされた万貴妃や乳母の客氏など、個性的な人物が輩出されました。
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
概要
○最後の漢族王朝・明と後宮の性格
 明は、北宋滅亡(1127年)以来241年ぶりに中原を回復した漢族王朝であり、清は征服王朝であった。袁世凱の中華帝国は短命に終わり、結果として明は史上最後の漢族王朝となった。
 明の後宮は、皇統維持と外戚専横の防止という点では成功したが、全体としては混乱が多く、評価は半分成功・半分失敗である。その背景には、初代皇帝・洪武帝朱元璋の強烈な個性があった。

○貧農出身の開祖・朱元璋と馬皇后
 明ほど初代の遺志が王朝末期まで貫かれた例は少ない。朱元璋は下層農民出身で、権力掌握後は臣下や民衆に厳しい引き締め政策を行い、それを死後も維持しようとした。
  参考記事 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/90959
 中国史で農民出身の皇帝は劉邦と朱元璋のみだが、両者は対照的である。豪放な劉邦は臣下に任せ、死後は呂后と外戚が権力を握った。 一方、朱元璋は有能かつ猜疑心が強く、誰も信じず、ただ一人、苦労を共にした妻・馬皇后のみを信頼した。
 朱元璋は1328年、安徽省鳳陽県の極貧農家に生まれ、17歳で家族を飢饉で失い、托鉢僧として漂泊生活を送った。元朝の圧政下で紅巾の乱が起こると、彼は自ら占い、反乱軍参加を決断する。 世の残酷さを身をもって知った彼は「信じられるのは自分だけ」という信念を抱くようになった。反乱軍の頭目・郭子興に見出され、その養女である馬氏(後の馬皇后)と結婚する。朱元璋と馬皇后の関係こそが、明朝後宮の性格を決定づけたのである。
 馬皇后は朱元璋より五歳年下の1332年生まれで、姓は馬だが本名は不詳である。芝居や小説では「秀英」と呼ばれるが史料的根拠はない。父は殺人犯として逐電し、任侠肌の郭子興に身を寄せた後に早世し、馬皇后は郭子興の養女となった。出自は低かったが、知性と人格に優れ、朱元璋を生涯支えた。 反乱軍時代、朱元璋は郭子興に疑われ飢えに苦しんだことがある。その際、馬皇后はこっそり餅を胸に隠して運び、やけどを負いながら夫の命を救った。二人は苦難を共にした夫婦だった。
 朱元璋は明を建国し洪武帝として即位すると、宰相を廃止して独裁政治を行い、功臣であっても容赦なく処罰した。激しい性格の皇帝に対し、馬皇后はたびたび諫め、仁政を勧めた。洪武帝が唯一頭の上がらなかった存在であり、彼女のおかげで救われた命も多い。 皇后となってからも馬皇后は質素倹約を貫き、側室の子を分け隔てなく育て、外戚登用を厳しく拒んだ。一方で情に厚く、早く亡くした両親を思っては涙を流した。1382年、病に倒れた際も国家的祈祷や名医の招請を断り、「医者を殺すことになるのは忍びない」と夫を思いやった。最期には、賢臣の諫言に耳を傾け、初心を忘れぬ政治を行うよう遺言して亡くなった。享年51。 洪武帝は深く嘆き、以後皇后を立てなかった。彼女の肖像は美人とは言い難く、纏足もしていなかった。 洪武帝は孝慈皇后の諡号を贈り、民衆は今も敬意をこめて彼女を「大脚馬皇后」と呼んでいる。

○初代が遺した祖訓には宦官への警戒が漏れていた
 洪武帝は即位六年目の1373年に、子孫に向けた統治の指針として『祖訓録』を定め、1395年に改訂して『皇明祖訓』とした。そこには後宮から外廷、内政・外交・祭祀・軍事・皇族処遇まで、明王朝の基本方針が詳細に記されていた。歴代皇帝に無能な者がいても、この祖訓に公然と背く者はなく、洪武帝は死後も強い影響力を保った。 『皇明祖訓』が守られた結果、明代を通じて外戚の専横は防がれた。しかし不思議なことに、宦官の政治介入禁止については触れられておらず、そのため中期以降、宦官が国政を乱す事態が繰り返された。原文から宦官が不利な条文を削除したという説もあるが、『永楽大典』所収の本文も同様であり、洪武帝自身が宦官の危険性を見落としていた可能性が高い。
 宋・元の約四百年間、宦官の害は目立たなかった。唐末五代を最後に大きな弊害がなかったため、洪武帝は宦官への警戒を緩めていたのかもしれない。

○後宮の肥大化
 明の後宮は、皇統維持という点では成功し、洪武帝から崇禎帝まで父子相続が多く、系図は安定していた。一方で、宗室人口は後期に数十万人に膨張し、その生活費が国政を圧迫した。 最大の問題は、後宮組織の過度な肥大化である。宮女や宦官が際限なく増え、悪逆な宦官の専横や、宮女による殺害事件などが頻発した。とくに宦官は「十万人」に達したとされる。
 清の名君・康煕帝は上諭の中で、明末の後宮は浪費と人員膨張が極端だったと回想し、明末には宮女九千人、宦官十万人がおり、飲食が行き渡らず餓死者が出るほどだった、と述べた。誇張の可能性はあるが、明の後宮が閉鎖的で、工事や用度を外注せず、清と比べて桁違いの人員と費用を要したことは史実である。
 宮女や宦官の多くは貧民出身で、城外に出られぬまま老病死し、紫禁城内で火葬・埋葬された。こうした環境のもと、劉瑾や魏忠賢のような宦官の専横や、奇怪な事件が続出した。 本来、後宮の秩序は皇帝の統率に左右される。だが明では凡帝・淫帝・怪帝が相次ぎ、皇帝の資質のばらつきが大きかった。その背景には、明王朝独特の后妃選定制度があった。

○選秀女――明代後宮の女性選抜制度
 日本の天皇や征服王朝の皇帝が血統や家柄を重視したのに対し、明の皇帝は貴族出身の女性を避け、外戚専横を防ぐため、家柄の高くない一般女性を后妃に選ぶ傾向があった。建前上は品徳重視だが、実際には容姿や若さが重視された。こうして選ばれた母と、それを好む父から生まれた皇帝が、必ずしも名君になるとは限らなかった。
 民間から后妃候補を募集する制度を「選秀女」という。明代の後宮女性は、后妃(皇帝の妻妾)、女官(事務・管理職)、宮人(雑役婦)に大別される。制度上、皇帝と関係を持てるのは后妃のみだが、例外もあった。後世ではこれらを総称して「宮女」と呼ぶことが多く、明末に「宮女九千人」と言われる数には、后妃や宮人も含まれる。
  参考記事 https://president.jp/articles/-/105170
 明末・天啓元年(1621年)、天啓帝は后妃選抜を実施した。13〜16歳の少女を全国から公募し、北京に集まった応募者は五千人。宦官による外見・体格・声・姿勢などの三段階選抜で千人に絞られ、その後、後宮での厳密な身体検査を経て三百人が上級宮女となった。さらに一か月の観察を経て、最終的に五十人が側室となり、その中からただ一人、張氏が皇后(懿安皇后)に選ばれた。競争率は五千倍であった。 しかし、これほど入念な選抜にもかかわらず、天啓帝と懿安皇后の結婚生活が幸福だったわけではない。その結末は、後に改めて語る。

○初代の息子の永楽帝は、甥の建文帝から帝位を簒奪した
 洪武帝は、本来は長男の皇太子・朱標に帝位を継がせるつもりだったが、朱標は1392年に早世した。 そこで洪武帝は、孫の朱允炆を後継者と定めた。允炆はまだ16歳であり、洪武帝は自分の死後に備えて、野心的な功臣を徹底的に粛清した。その苛烈さは、豊臣秀吉の晩年の粛清をはるかに上回るものであった。洪武帝は1398年、71歳で死去した。
 洪武帝はまた、古代以来廃れていた殉死制度を復活させ、死後に妃嬪46人を陵墓に葬らせた。建文帝となった朱允炆は、殉死者の遺族を優遇し、以後、后妃や宮女の殉死は明王朝で制度化された。
 洪武帝の死後、允炆は予定どおり即位し、元号を「建文」とした(翌年から施行)。即位後、建文帝は側近とともに、叔父にあたる諸王を粛清した。最大の脅威は、北平(北京)を拠点とする燕王朱棣であった。朱棣は実戦経験豊富な有力武将で、北方防衛の精鋭軍を掌握していた。
 建文元年(1399年)、朱棣は『皇明祖訓』を大義名分に挙兵し、「君側の奸を除いて主君を救う」と称して反乱を起こした。これが「靖難の変」である。戦乱は三年に及び、1402年、燕王軍は南京を陥落させた。宮廷は炎上し、建文帝は行方不明となり、後宮の妃嬪や宮女約40人が殉死した。建文帝生存説も、このとき生まれた。 朱棣は甥を救うという名目を翻し、帝位を簒奪した。建文帝は「存在しなかった」ことにされ、建文の年号も抹消された。朱棣は翌年から「永楽」と改元し、永楽帝として即位した。建文帝の二人の息子のうち、長男は行方不明、次男の朱文圭は幽閉され、55年後に釈放されたが、その年に死去した。

○永楽帝の闇
 南京で即位した永楽帝は、簒奪者として旧臣から強い反感を受け、もはや官僚を信頼できなかった。 彼は首都を北京に移し、父・洪武帝以上に皇帝独裁を強化する。その支えとして目をつけたのが宦官である。 洪武帝が宦官重用を明確に禁じていなかったことを背景に、永楽帝は靖難の変で内通した宦官を密偵として用い、 永楽十八年(1420年)には宦官が長官を務める諜報機関「東廠」を設置した。東廠は次第に権限を拡大し、官僚や人臣の言動を監視・逮捕する恐怖政治の中核となった。
 この宦官重用も遠因となり、後宮史上屈指の惨劇「魚呂の乱」を招く。
  参考記事 中国・明王朝の大事件「魚呂の乱」で約3000人が死刑に 発端は後宮での"女の恨み"、数百人は冤罪…残虐な殺害方法に怯えて自害する者も
 永楽帝の後宮には、朝鮮から献上された貢女・権賢妃と呂婕、がいた。権賢妃は美貌と才芸で帝の寵愛を受け、呂婕、はこれに強い嫉妬を抱いた。永楽八年(1410年)、親征中に権賢妃が急死すると、中国出身の呂氏側室が「呂婕、による毒殺」を密告し、永楽帝は宦官に調査を命じた。拷問による自白の結果、呂婕、と関係者数百人が残虐に処刑された。 永楽十九年(1421年)、今度はその中国出身の呂氏が魚氏とともに宦官との不義を疑われ、自殺する。再調査により、十一年前の毒殺事件が虚偽で、多数が冤罪だったことが判明したが、永楽帝は意に介さなかった。さらに「皇帝暗殺未遂」を口実に、後宮の大粛清が行われ、宮女・宦官あわせて二千八百人以上が処刑された。
 後宮という密室と、東廠・錦衣衛による厳重な言論統制の下で、この大惨劇は公式記録にほとんど残されなかった。その闇が後世に伝えられる経緯は、永楽帝の孫・宣徳帝の時代に明らかになる。

○朝鮮女性の悲劇
 明と朝鮮の関係は冊封体制に基づく主従関係であり、朝鮮国王は定期的に美女(貢女)や薬材を中国皇帝に献上する義務を負っていた。永楽帝は貢納の質を監視するため、有力宦官の黄儼をたびたび朝鮮に派遣した。貢女に対する家族の反応はさまざまで、栄達を期待して送り出す者もいれば、本人が強く拒む場合もあった。
 黄妃は中国行きを嫌がったが、強制的に永楽帝の後宮に入れられた。永楽帝が彼女を抱いたところ処女でなく、堕胎の痕跡が見つかる。厳しい詮議の末、黄妃は過去の不義を自供し、永楽帝は属国である朝鮮への裏切りとして激怒した。このとき、同じ朝鮮出身の名門女性・韓麗妃が、朝鮮国に罪はないと必死に弁明する。永楽帝は見せしめとして、韓麗妃に黄妃を鞭打たせたが、黄妃を追放はせず後宮に留め置いた。
 永楽十九年(1421年)、魚呂の乱を契機に後宮の大粛清が行われる。 朝鮮貢女のうち、任順妃は自殺し、黄妃と李昭儀は斬首された。韓麗妃と、南京で療養中だった崔恵妃だけが処刑を免れたが、 崔氏に仕える侍女たちは皆殺しとなり、乳母の金黒も投獄された。 永楽帝は五度のモンゴル親征の途上、永楽二十二年(1424年)に死去した。外廷においては、鄭和の遠征や北方政策によって明を超大国へ押し上げた名君であったが、内廷では魚呂の乱に象徴されるように惨憺たる状況を生んだ。
 永楽帝の死後、息子の洪熙帝は父の遺命に従い、後宮の宮女たちに殉死を命じた。別れの饗宴ののち、宮女と宦官は一斉に絞首された。その中には、魚呂の乱を生き延びた韓麗妃と崔恵妃も含まれていた。崔恵妃の乳母・金黒は免除されたが、その娘は殉死した。 洪熙帝は金黒を朝鮮に帰国させようとしたが、魚呂の乱という醜聞が朝鮮に伝わるのを恐れ、宗主国の体面を優先して中国に留め置いた。 金黒は殉死者遺族として「恭人」に封ぜられ、彼女が朝鮮に帰国できたのはずっと後になってからだった。

○名君・宣徳帝の誤算と宦官の横暴化
 明では、永楽帝以後、妃嬪の強制的殉死が慣行として受け継がれた。永楽帝は建文帝の存在を抹消し、自らを第二代皇帝としたため、以後の皇帝はすべてその子孫となった。洪熙帝は現在では第四代と数えられ、即位後わずか九か月で病死した名君である。
 洪熙帝の死後、郭貴妃ら五人の妃が殉葬された。郭貴妃は三人の親王を生んだ有力妃であったが、殉死の理由は不明で、当時から多くの憶測を呼んだ。一方、皇后張氏や、功臣の娘である張敬妃は殉死を免れた。
 洪熙帝のあとを継いだ宣宗宣徳帝は有能な皇帝で、「仁宣の治」と称される明の最盛期を築いた。叔父の漢王朱高煦の反乱を鎮圧・処刑し、皇族も臣下も信用できない状況のなか、宣徳帝は宦官を重用する道を選んだ。 洪武帝は宦官の害を警戒して識字を禁じていたが、永楽帝以後この方針は緩み、宣徳帝は宦官教育機関「内書堂」を設立した。宦官は儒教経典を学び、科挙合格者が教師となって高度な教育が施された。宣徳帝の治世では、金英ら忠実な宦官が活躍し、この政策は一時的に成功した。
 しかし正史『明史』は、宦官の識字教育こそが専横の原因となり、王振や魏忠賢に代表される宦官政治へとつながったと総括する。永楽帝と宣徳帝は、結果として明王朝を衰退へ導く宦官支配の道を開いてしまったのである。
 宣徳帝の皇后・孫皇后(孝恭章皇后)は、知的な美女で、後述の「土木の変」で明の皇位継承のキーパーソンとなり、テレビドラマでも人気がある。
  参考 中国歴史ドラマ「大明皇妃 -Empress of the Ming-」 https://www.ch-ginga.jp/detail/daiminkohi/episodelist.html

○五十七年間仕えた朝鮮出身女官・韓桂蘭
 宣徳帝が一四三五年に没すると、生母の張皇太后は側室十名を殉死させた。 皇后や皇子を産んだ側室が殉死を免れたのは通例であり、異色の存在が朝鮮名門出身の女官・恭慎夫人韓氏(韓桂蘭、一四一〇―一四八三)である。 彼女は、永楽帝に殉死させられた韓麗妃の妹で、後に朝鮮の大権力者となる仁粋大妃(インステビ)の叔母にあたる。
cf.https://kankokudoramaarasuji.com/insutebi-soukanzu/ 韓国ドラマ-インス大妃のキャスト&相関図
 宣徳帝は即位後、朝鮮王世宗に貢女の献上を命じた。韓桂蘭の兄・韓確は明との外交で出世を狙い、妹を貢女として差し出した。 当時の朝鮮ではこの行為を「生送葬」と呼び、同情と批判が向けられた。 韓桂蘭は宣徳帝の後宮で女官となり、皇帝の死後、「お手つき」でなかった貢女たちは帰国を許されたが、彼女は帰国を拒み、そのまま明に仕え続ける道を選んだ。
 朝鮮へ帰還した金黒らの証言を通じて、魚呂の乱や殉死の実態が『李朝実録』に記録された。一方、生還した貢女たちは「還郷女」と蔑まれ、静かな余生を送らざるを得なかった。
 韓桂蘭は宣徳帝から成化帝まで五代にわたり、勤勉で慎み深い女官として後宮の絶大な信頼を得た。成化十九年、七十四歳で北京にて死去。入宮から五十七年後であった。成化帝は彼女を悼み、国務大臣が墓誌銘を書くという異例の厚遇をもって葬った。

○宦官に振り回された英宗(正統帝・天順帝)
 明王朝は名君が続かず、皇帝の資質の当たり外れが激しかった。後宮の后妃選定制度も一因であり、愚帝の連鎖は第六代英宗から本格化する。
 英宗は宣徳帝の長子として生まれ、幼少で即位した。祖母の張太皇太后や母の孫皇太后、先代の重臣に支えられ、少年期の政治は安定していた。 しかし成人後、幼少期から仕えていた宦官・王振を深く信任したことで事態は一変する。王振は司礼監を掌握し、外廷政治にまで介入、反対者を弾圧した。英宗十四年(1449年)、王振の主張で親征を強行した結果、土木堡でオイラート軍に大敗し、英宗は捕虜となった(土木の変)。王振は敗兵に殺され、国家は存亡の危機に陥った。
 この危機を救ったのが于謙と孫皇太后である。于謙は北京死守を主張し、英宗の異母弟を即位させ(景泰帝)、英宗は太上皇とされた。明軍はオイラート軍を撃退し、翌年英宗は解放された。 だが帰還後も帝位は戻らず、景泰帝の病を機に英宗派がクーデターを決行(奪門の変)。英宗は復位し、景泰帝派の于謙らを処刑、景泰帝も幽閉の末に急死した。英宗は改元して天順帝となった。
 英宗は暗君の側面が強かったが、功績もある。幽閉されていた建文帝の子を赦免し、また自らの死後、妃嬪の殉死を禁じた。これにより、洪武帝以来続いた殉死の悪習は、英宗の代でようやく廃絶された。

○評価が難しい成化帝
 第九代憲宗成化帝は英宗の長男で、即位までの経緯は複雑だった。土木の変で父が退位させられた際、幼少の成化帝は叔父・景泰帝の皇太子とされたが、景泰帝は実子を立てようとして約束を破り、これが後の英宗の復位クーデター(奪門の変)の一因となった。復位後の英宗は景泰帝やその側近に厳しい処分を下したが、成化帝は即位後、父に処刑された于謙や叔父・景泰帝の名誉回復を進めた。成化帝は景泰帝を皇帝として部分的に復権させ、諡号を贈ったが、父への配慮から完全な復位にはしなかった。
 成化帝は暗君と評されることが多いが、無用な殺生を嫌い、善政を行う一面もあった。ただし政策を持続できず、道教に傾倒し、宦官を重用した点が批判された。とくに宦官の汪直を信任し、西廠という秘密警察組織を新設してその長とした。汪直は摘発を名目に専横をふるい、官僚や将軍を恐怖と賄賂で支配した。 しかし宮中の風刺劇や他の宦官の告発をきっかけに、成化帝は汪直を疑い、やがて西廠を廃止し、汪直を失脚させた。 汪直は王振・劉瑾・魏忠賢と並ぶ宦官として語られるが、被害は父英宗の時代ほど深刻ではなかった。
 成化帝が暗君とされる最大の理由は、宦官以上に、寵愛した万貴妃の専横にあった。
  参考 中国ドラマ「成化十四年」https://www.welovek.jp/seika/

○「明朝第一の悪女」万貴妃とその実像
 成化帝は即位後、正妻の呉氏を廃し、妃の王氏を皇后に立てたが、実際に後宮を支配したのは年長の万貴妃だった。 万氏は幼少期から成化帝に仕え、皇太子時代の不安な日々を支えた存在であり、帝は容貌よりも精神的安らぎを理由に彼女を深く寵愛した。成化元年、万氏は皇子を産んで貴妃となり、後宮の事実上の頂点に立った。
 しかし万貴妃は嫉妬深く、他の側室の妊娠を妨げ、皇子を毒殺したと伝えられる。とくに柏賢妃の子が夭折した事件は、万貴妃の犯行とされることが多い。 こうした中、ヤオ族出身の女官・紀氏が密かに成化帝の息子(朱祐樘)を産み、この子が後の弘治帝となった。 廃皇后呉氏や宦官張敏の庇護により、朱祐樘は極秘裏に育てられ、やがて皇太子に立てられる。紀氏はその直後に急死し、万貴妃による殺害説と自殺説が伝えられている。 万貴妃は晩年まで後宮に君臨し、宦官汪直らと結びついて奢侈を極めたが、皇太子廃立には失敗し、成化二十三年に急死した。 成化帝もほどなく没し、朱祐樘が即位して弘治帝となる。
 弘治帝は母の死の再調査や万貴妃の断罪を行わなかった。
 一方、万貴妃の悪行は正史『明史』にも記されるが、その多くは後世の野史や噂話に依拠しており、史料的信憑性には疑問がある。強制堕胎や殺害説は、万貴妃の死後かなり時代が下った伝聞に基づく可能性が高く、同時代史料には明確な裏付けが乏しい。乾隆帝もこうした悪女像を否定している。
 万貴妃は一方で優れた芸術的感性をもち、成化年間の官窯で作られた「成化瓷器」の洗練に深く関与したとされる。成化帝の後宮は、悪女伝説と史料批判が交錯する、謎に満ちた世界であった。

○最後の名君・弘治帝
 弘治帝は、生涯ただ一人、張皇后のみを愛し、他の妃嬪を立てなかった。自主的に一夫一妻を貫いた皇帝は中国史上きわめて珍しく、統一王朝の天子としてはほぼ例がない。張皇后は名門出身ではなく、父の張巒は学識はあるが家柄は平凡だった。成化二十三年(1487)、張氏は皇太子妃に選ばれ、弘治帝即位とともに皇后となった。
 外廷における弘治帝は勤政愛民の名君であり、正史『明史』でも、太祖洪武帝・成祖永楽帝を除けば、仁宗洪熙帝、宣宗宣徳帝と並ぶ高い評価を受けている。国勢が傾き始めた時代に、政治の立て直しに成功した点で、弘治帝は明王朝最後の名君とされる。 内廷では、弘治帝は良き夫であり家庭人だった。張皇后の母・金氏が入内した際、宮中の礼制により銀器が用意されているのを見て、帝は金器に替えさせ、宴後それをすべて下賜した。また張皇后の願いを聞き、義父や義弟を厚遇したため、外戚優遇として諫官から批判を受けたが、帝は強権に出ることなく、和解の宴を設けて事態を収めた。これは洪武帝や永楽帝の苛烈な統治とは対照的である。
 弘治四年(1491)、張皇后は皇太子朱厚照を出産した。 太子は一人っ子として育ち、乳母をめぐる興味深い逸話も伝わる(楊儀『明良記』)。
  参考記事 https://toyokeizai.net/articles/-/909917
 張皇后はその後、他の子を産んだが、いずれも夭折した。
 弘治十八年(1505)、弘治帝は軽い病をきっかけに、医療上の手違いで急死した。享年三十六。臨終にあたり、幼い皇太子の補佐を重臣に託した。名君は長命しないという明朝のジンクスを破れぬまま、弘治帝の一人息子朱厚照が十五歳で即位し、第十一代武宗正徳帝となった。
(以後、明王朝の後半については、次回)

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明の後宮の怪事件
 明の後宮は、世界史上最大の密室であり、奇怪な事件が続発しました。 三千人以上が死刑となった魚呂の乱は、中国の記録では抹消されましたが、朝鮮国出身の女性が祖国に伝えたことで歴史に残りました。 後宮の少女たちが夜中に皇帝を殺そうとした壬寅宮変や、女性が後宮に立てこもって居座る移宮案など、さまざまな事件も起きました。 明末の李自成の乱で、明は後宮もろとも悲惨な最期を迎えました。

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清の後宮
 清(1636年ー1912年)は、最後の東洋的王朝でした。満洲族出身の清の歴代皇帝の後宮は、明の後宮より簡素で、運営も健全でしたが、それでもいろいろな「疑惑」が生まれました。順治帝の母親であった孝荘文皇太后は、摂政王ドルゴンと秘密結婚したのか。順治帝は病死しておらず実は出家したという説は本当か。雍正帝は暗殺されたのか。乾隆帝の生母は実は漢民族だったのか。西太后があれほどの権力者になれた理由は何か。清が1912年に滅亡したあとも、ラストエンペラーこと溥儀は紫禁城に留まることを許され、後宮の歴史は続きました。

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