1999.2
捧印(ほういん)Peng-yin

 これから見ていただくのは、捧印、司令官の印を皇帝からいただく、という芝居です。
 『楊家将演義』(ようかしょうえんぎ)の一節(いっせつ)。軍人一家である楊(よう)一族の男たちは、国を守るための戦いで、ほとんどが戦死し、女ばかりが生き残っていました。しかし、国のために尽くした楊一族は、十分にむくわれていませんでした。
 楊一族にとついだ嫁・穆桂英(ぼくけいえい)は、若いころは男まさりの女武者(おんなむしゃ)でしたが、今は家庭の主婦となっていました。しかし、祖国を守るため、彼女は久しぶりに軍服を着て、軍隊の最高司令官として、戦場へとおもむきます。
 軍人一家の愛国心に燃える女性たちの姿を、どうぞこの京劇の舞台で御堪能ください。

(青年団:40分)

 穆桂英が登場して、ゆっくりと歌います。
「戦争が起きたので、わたしの息子と娘は様子をさぐりに都(みやこ)にのぼりましたが、まだ帰りません
 やしきの奥で、わたくしはひとり、暗い気持ちに沈んでいます
 まさか、政府のずるがしこい大臣たちが、またもや陰謀をめぐらして
 わたしたち楊一族に危害をくわえようと狙っているのでは?」

 子供たちが、手に何か大事な荷物をかかえて帰ってきます。
 穆桂英の息子・楊文広が歌います。
「都から、軍隊の最高司令官の印を勝ちとってきたぞ」
 妹の楊金花が歌います。
「家にかえって、お母さまを説得し、早く出陣しましょう」

 楊文広・楊金花の姉弟(きょうだい)は、穆桂英にむかい「母上、いま帰りました」と挨拶します。

 穆桂英は子供たちに、戦争の様子をたずねます。
 姉の楊金花が答えます。
「外国の王がわが国を侵略してきたので、政府は軍隊を派遣することになりました。軍隊の司令官に適任者が見当たらないため、皇帝陛下は武術の試合を開催なされ、優勝者を軍司令官に任じることになりました」
 弟の楊文広が言います。
「武術の試合で、ぼくはひいおじいさまの形見である五百石の強さの鉄の弓を見事に引っぱり、みんなを驚かせました」
 楊金花も「わたしは弓矢で、遠くに置いた金のコインを見事に射おとしました」と言います。
 穆桂英は「ふたりとも、わが家の名に恥じぬ結果を出しましたね」と言います。

 楊文広は言います。
「あの王倫(おうりん)の野郎は、わたしたち兄妹が試合で優勝するのをおそれていました。武術の試合のとき、わたしは王倫のやつを刀で切り捨ててやりました」

 穆桂英は「なんと、あなたは試合で人を殺してしまったですのか。殺された王倫の身内である、あの悪い大臣は黙っていないでしょう。大変なことをしましたね」と怒ります。

 楊文広は「母上、御心配は無用です。試合での死亡事故は罪を問われないと、王倫の身内の大臣も言ってくれました」と言います。穆桂英は、深いため息をつきます。
 楊文広は言います。
「皇帝陛下は、姉さんとぼくの腕前をお褒めくださいました。しかし、ぼくたちはまだ若すぎるので、皇帝陛下は代わりに母上を防衛軍最高司令官に任じられました」
 楊文広は、召使(めしつかい)が持っていた司令官の印を、穆桂英に渡します。
「母上、どうぞ最高司令官の印をお受け取りください」

 穆桂英は怒りに震え、司令官の印を投げ捨て、息子と言い合いをします。

 穆桂英は歌います。
「試合の場で、王倫を刀で斬り殺すとは、言語道断(ごんごどうだん)
 軍の司令官の印をこの家の中に持ち込むとは、なおさらです
 一体だれが軍司令官になると言うのですか」

 穆桂英は、召使にむかって、息子を縄でしばるように命令します。

 穆桂英は歌います。
「この親不孝者め、母親に苦労ばかりかけて
 手に縄を取り、息子をしばりあげましょう」

 穆桂英は楊文広を縛り、外に連れて行こうとします。


 姉の楊金花は、楊一族の長老・[人/示]太君(しゃたいくん)を、やしきの奥から連れてきます。([人/示]は、「人」の下に「示」と書く一文字。一見すると「余」によく似た字です)

 [人/示]太君は、穆桂英の義理の祖母にあたり、年齢は九十歳にもなります。

 [人/示]太君は、楊文広の縄を解かせます。
 穆桂英は、楊文広が、最高司令官の印をもらってきたことを[人/示]太君にいいます。
 [人/示]太君は複雑な気持ちになります。なぜなら、むかし、楊一族がこの最高司令官の印を皇帝からおしいただいたばかりに、[人/示]太君の夫と息子たちは戦死したからです。
 [人/示]太君は最高司令官の印を手にとって、感慨にふけります。
「(せりふ)ああ、司令官の印よ。幾年月(いくとしつき)を経て、あなたはふたたびこの楊一族のやしきにもどってきたか。嬉しくもあり、悲しくもあり、悲喜こもごも。司令官の印よ。・・・
(歌)司令官の印を見れば、心は悲しみで張り裂けそうになります
 喜びと悲しみが、ないまぜになった複雑な気持ち
 もう、われら軍人一家に、この司令官の印が戻ってくるとは思っていませんでした
 この印はずっと政府にあり、われらは民間でひっそりと暮らし
 二十年ぶりに、突然またこの印が戻ってきました
 楊一族の代々の男たちは、この司令官の印を手に取りました
 しかし今、印だけが残り、男たちは死に絶えました
 みんな、この司令官の印のせいで・・・」
[人/示]太君は、司令官の印を投げ捨てようとしますが、思い返します。
「わたしたちは楊一族、手をこまねいて、国が滅びるのを見ている訳にはゆきません
 夫や息子たちは国に裏切られて無念の最期(さいご)をとげましたが、それも水に流しましょう
 忠義こそすべて、手柄などは二の次です」

 [人/示]太君は、ひまごである楊文広と楊金花の姉弟にむかい「おまえたちはすぐに太鼓をならし、楊一族の武将たちを集め、出陣の支度をせよ」と命令します。

 姉弟は、[人/示]太君の命令を聞いて、喜び勇みます。そして穆桂英が止めるのも聞かず、走り去ります。

 穆桂英は、義理の祖母である[人/示]太君にむかって歌います。
「わたしとて、祖国の危機を手をこまねいて傍観している訳ではありません
 しかし、この司令官の印を見ると、むかしのくやしさが胸にこみあげてくるのです
 楊一族の武将たちは、命をささげて国のために戦いました
 戦争に勝って帰ってきた人たちだけが褒美をもらい、わが家には新しいお墓が増えただけ
 政治家たちは、平和なときは、醜い政権あらそいにあけくれるているくせに
 戦争になったときだけ、わたしたち楊一族を思い出し、司令官の印を送ってきます
 皇帝陛下もまた、平和なときは、ずるがしこい大臣たちを信任なさっています
 わたくしはもう、とっくの昔に、腐った政府に見切りをつけました
 皇帝陛下のために出陣するのは、とりあえず見合わせましょう
 今回の出陣にあたっては、別の司令官を選んでもらいましょう」

 [人/示]太君は歌います。
「穆桂英、そなたが政府を恨む気持ちはよくわかります
 皇帝陛下は、忠臣と悪い大臣の区別がおわかりでない
 しかし外国がわが国を侵略してきたいま
 われら楊一族のほかに、国を守れる者はいません
 侵略者を撃退するのは、手柄のためではありません
 国民の平和な暮らしを守るためなのです」

 穆桂英は言います。
「おばあさま。わたくし穆桂英も、いまは年をとり、昔のようにはまいりませぬ。まして、わが楊一族のかつての精鋭たちも、死んだり年をとったりで、昔の力はありません。やはり他をあたっていただきましょう」

 [人/示]太君は歌います。
「あなたはまだ、その年齢なのに何を言うのですか
 わたくしはもう九十歳ですが、気持ちだけは昔の若いころのまま
 昔の精鋭たちは、みないなくなってしまいましたが
 いまは、そなたの娘と息子が、一人前の武将になっています
 さあさあさあ、司令官の任務を引き受けなさい」

 穆桂英は、[人/示]太君に、考え直してくれるように頼みます。
 [人/示]太君は歌います。
「あなたが、それでも出陣をしぶるつもりなら
 えい、ままよ、あなたではなく、わたくしが司令官になって出陣しましょう」

 穆桂英は歌います。
「おばあさまの国を愛する気概に胸を打たれました」

 穆桂英は、自分が司令官の任務を引き受けることを承知します。
 [人/示]太君は喜び、穆桂英のために、太鼓を叩いて楊一族の武将たちを呼び集めることにします。

 穆桂英は歌います。
「さすがは軍人一家、国家の危険を聞くといてもたってもいられません
 わたくしは国を守るため、もう一度、戦場に立ちましょう
 二十年のあいだ、鎧(よろい)兜(かぶと)を身につけず、戦場を離れていましたけれども
 わたしにも、国のため、人民のため、戦う気概はあるのです」

 穆桂英は踊ったあと、歌います。
「武将たちを集める太鼓が鳴り響きます
 天門陣(てんもんじん)の戦いのときの気概が、いまよみがえります
 若いころは、女だてら馬にまたがり威風堂々
 たおした敵の返り血を浴びて、服が赤く染まったほど
 命あるかぎり責任を果たしましょう
 たとえわずかな領土でも、外国の侵略者には渡せません
 外国の王などは取るにたらぬ相手
 わたしは剣(つるぎ)一本で、百万の敵と戦います
 司令官になるのは、わたししかいません
 軍隊を指揮するのは、わたししかいません
 わたしの軍服を、早くととのえさせましょう
 司令官の印を手にかかえて、練兵場(れんぺいじょう)で三軍(さんぐん)を指揮しましょう」

 穆桂英はこうして再び、国のために大活躍することになりました。

(完)


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