小説『楊家将演義』八巻八十五回 梗概

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第一世代

 宋の太祖・趙匡胤は皇帝になり、北漢を征伐したが、北漢の名将・楊継業に敗れた。太祖は崩御し、太宗が次の皇帝となって、再び征伐した。北漢の王は降伏したが、継業は降伏しなかった。北漢の王は降伏後、継業に宋に帰順するよう命じた。継業は、太宗に「法は三章のみ」と誓約させて、やっと降伏した。
 宋の太宗は、宋と遼の国境にある五台山に、満願の礼参をしに行った。遼は出兵し、宋の皇帝を幽州に囲んだ。楊継業父子は皇帝を守って包囲を突破した。長男の淵平は、遼の天慶王を射殺したが戦死した。二郎(次男)の延広は、矢で射られて落馬したところを敵に蹂躙されて戦死。三郎の延慶も乱戦のうちに敵の剣で戦死。四郎の延朗は、宋の皇帝の影武者となって敵を誘い、捕虜となる。五郎の延徳は消息不明。宋の太宗は都城に帰ると、勅令をくだし、「無佞府」という屋敷を建て、楊一族の武功をたたえた。
 遼の軍隊が南下し、宋を侵犯した。太宗は、潘仁美を総大将に、楊継業を先鋒に任命し、迎撃させた。潘仁美はかつて、北漢を攻略したとき、楊継業によって屈辱的な敗北を喫したことがあった。潘は楊一族に恨みを持ち、折あらば私怨を晴らそうと機会をうかがっていた。陳家谷の戦闘で、潘仁美は作戦に違反して勝手に撤兵し、楊継業父子を敵中に孤立させた。楊一族の七男である延嗣は、救援を求めるため敵の包囲を突破するが、味方であるはずの潘仁美によって捕縛されたうえ、矢で射殺される。楊継業は、李陵の廟の石碑に頭を打ちつけて自決した。楊一族の六郎(もともと延昭という名だったが、諱を犯すため、太宗の勅命で楊景と改名させられた)は、行方不明だった五郎(延徳)に助けられた。延徳は五台山で剃髪して僧となっていたのだった。六郎は都に帰ったが、聞けば楊一族はざん言のため一門ことごとく投獄されていたので、街頭を流浪する身になった。

第二世代

 遼は間者を宋に侵入させた。間者は王欽という偽名を名乗った。王欽は楊六郎に会い、冤罪を訴える告訴状を代筆してやった。寇準は勅命をうけてこの事件を捜査することになった。寇準は、潘仁美が飲酒して酔ったときに真相を聞き出し、また、証人や物証を探し出したので、真相が明らかになった。潘仁美の罪は斬刑にあたったが、彼の娘は太宗の妃であり、彼女が父のため助命嘆願したので、死一等を免ぜられ、雷州に追放となった。六郎もまた、勝手に前線を離脱した罪を問われ、鄭州に一年間の流罪となった。
 王欽は、七王の門下にもぐりこみ、七王に、弟の八王を毒殺して自分が皇帝になるよう唆した。暗殺計画が実現しないうちに、太宗は病気が重くなり、八王を次の皇帝にしようとした。八王は固辞し、ついに七王が皇帝となった。真宗これである。遼は、宋の政権交替の隙につけこみ、領土の奥深くにまで侵攻してきた。真宗は寇準の献策をいれ、楊六郎に軍隊を与え抗戦させることにした。しかし六郎は無佞府の屋敷に隠れて出ようとしない。遼と宋の両軍は、晋陽で会戦した。宋軍が敗北する寸前、楊六郎は、妹の楊八姐・楊九姐とともに戦場に駆けつけ、勝利を得た。真宗は六郎に辺境巡検の官位を授けた。六郎は、岳勝・孟良・焦賛などの武将を部下に得て、三関防衛の任にあたった。
 孟良は、楊継業の遺骨がいまだ敵国にあることを知り、ひそかに変装して遼に入り、紅羊洞(「洪羊洞」とも書く)で遺骨を入手し、遼の宮中の名馬を盗み出し、宋に向かった。遼の兵は追撃してきた。楊六郎は軍勢をひきいて迎え撃ったが、双竜谷で遼軍に包囲されてしまった。孟良そこで五台山に行き、楊五郎に、妹の九妹といっしょに出馬するよう要請した。九妹は、女だてらに男装し、胡元という偽名を名乗り、遼の宰相・張華のやしきに入り、内外で呼応して動こうとはかったが、事は露見し、牢獄につながれた。五郎は頭陀兵をひきいて幽州に入り、彼女を救出した。兄と妹は力をあわせて敵中を双竜谷まで進撃し、楊六郎とともに遼兵を破った。
 王欽は、楊六郎が遼の災いであると考え、寵臣である謝金吾と共謀して、六郎を除く陰謀をたくらんだ。謝金吾は、無佞府に来て、わざと刃傷沙汰を起こし、やしきの前の天波楼を撤去するよう皇帝に提訴した。六郎と焦賛は、ひそかに任地の三関をはなれ、都の母をたずねてきた。焦賛は怒って謝金吾を殺してしまった。王欽はこの機に乗じて、楊六郎と焦賛を「充軍発配」刑にさせたうえ、真宗をそそのかして二人を死刑にさせようとした。寇準らは、死刑囚を楊六郎の身代わりとした。六郎は無佞府に帰り、隠れた。三関の諸将は皇帝の措置に怒り、反乱をおこして太行山にたてこもった。
 遼の王は、魏府銅台でにせの瑞祥(めでたい品)を作り、宋の真宗らが君臣つれだって見に来たところを包囲した。八王は、楊一族のやしきに来て六郎の出馬を要請した。六郎は、三関の旧部下を集めて出陣し、皇帝を救出して、遼軍をやぶった。

第三世代

 八仙のうちの鐘離権と呂洞賓は、下界のことで言い争った。呂洞賓は怒り、椿樹の精を連れて遼を助けることとし、遼に「天門陣」という無敵の陣構えを伝授した。宋軍では誰もわからなかった。六郎の息子・楊宗保は、女神から兵法の書を授かり、天門陣の弱点を発見した。しかし、王欽はひそかに遼にこのことを連絡したので、遼軍は陣地の弱点を補い、再び不敗の陣構えになった。鐘離権はこのことを知ると、下界におりて宋を助けることとし、軍隊を整えた。楊五郎は、降竜木が入手できたら山をおりてもよい、と言った。宗保は木閣寨に木を取りに行くが、寨主の木桂英に捕まり、強引に結婚させられる。宗保が陣営に帰ると、父・六郎は怒って殺そうとする。木桂英が軍を率いて来て六郎を捕虜とし、後に誤解を解く。宋軍が各地から集結し、遼の天門陣を破る。鐘離権と呂洞賓は、天に帰還した。
 王欽は遼の国に入り、陰謀の作戦を具申した。蕭太后は宋に投降すると偽り、宋の朝廷の十大臣をおびき出し、飛虎谷に包囲した。楊家の五郎、六郎、八姐、九妹、宗保、桂英は、みな兵を率いて救援にかけつけた。遼の附馬(皇女の婿)木易は、実は楊四郎の仮名であり、彼は内外呼応して幽州を大いに破った。蕭太后は首をくくって自決し、王欽は凌遅の刑に処せられた。
 四郎は、昔、孟良が盗んだ楊令公の遺骨はにせものだと考えた。そこで、孟良は再び望郷台に行き、本物の遺骨を盗んだ。焦賛は手柄を横取りしたいと考え、こっそりあとをつけて行った。孟良は遺骨を入手したが、勘違いで焦賛を殺してしまい、自分も首を切って自決した。楊令公の遺骨は、警備隊の手で帰還した。八王、六郎は相次いで病没した。
 真宗が崩御し、仁宗が即位した。依智高が反乱を起こし、宋に攻め込んだ。仁宗は狄青に命じて迎撃させるが、負ける。大臣の包拯は、楊宗保を元帥に、息子の楊文広を先鋒にするよう推薦した。再度の出撃ののち、宋軍は柳州で苦戦するが、楊文広の姉・楊宣娘が駆け付け、依智高を殺して勝利する。

第四世代

 仁宗は神にお礼参りするため、大臣を東岳に派遣して供物をそなえさせるが、その宝物を焦山の杜月英に奪われてしまう。楊文広は皇帝の命を受け、焦山に宝物を奪還しに行くが、前後して杜月英・竇錦姑・鮑飛雲らと結婚する。楊文広は宝を得て、東岳に行き供えた。楊は天帝から仙桃を下賜され、これを食べると鶴に変身して空を飛べるようになった。楊文広は都に帰り、長善公主と結婚した。杜月英ら三人の女も一緒に楊の屋敷に入った。狄青は楊文広に嫉妬し、先に山賊の女と結婚し後から皇女と結婚した不遜を弾劾した。楊文広は鶴に変身して空を飛び、無佞府に隠れた。

第五世代

 宋の神宗の時代、新羅国の李王は「八臂鬼王」張奉国に軍隊を率いさせて宋に侵入した。神宗は、張茂を征西大元帥に任命した。楊文広はときに六十歳、四子・楊懐玉を従軍させ、先鋒の印を求めさせた。張茂は楊一族を軽く見ていたので、楊懐玉は十里長亭で軍兵をやっつけてしまった。張茂は怒って殺そうとする。楊文広が朝廷に出向くと、神宗は彼を大元帥に任じ、懐玉を先鋒にした。八臂鬼王は井戸水を毒化し、宋軍を撃退した。楊一族の十二寡婦は西に出陣した。楊宣娘は法術に精通していて、紙符で鬼王を破った。鬼王は妖怪変化の術で逃げようとした。楊宣娘らは天地に結界をめぐらして捕まえた。鬼王は殺しにくかったので、宣娘は丹薬で焼いたところ、鬼王は正体を現した。蟹の精だった。
 懐玉は、朝廷で奸臣・佞臣がはびこっているのを見て、一族をあげて太行山に逃げ込んだ。これより楊一族は歴史の表舞台から姿を消した。

参考サイト内リンク 対談 楊家将


                          
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