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日本と中国の伝統演劇
東洋人の人間観と芸術の根源

最初の公開2018-10-08 最新の更新2018-10-30
補助教材 YouTubeビデオ
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lGKzINhtUjLCjxraxYIcTh



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火曜日 13:00〜14:30  全4回 10/09, 10/16, 10/23, 10/30
目標
・卑近な日常の事例から出発して真理を発見する「下学上達」の学問の面白さを満喫する。
・自分は伝統とは無縁だと思っている現代人の思考や行動も、実は伝統に縛られていることに気づく。
・外国と比較することで、日本人と日本文化の本当の姿を認識する。

講義概要
 「演劇は、ちょっとね」と身を引いてしまう人がいます。しかし実は、演劇ほど身近でわかりやすい芸術はない、と言ってもよいのです。東洋の伝統演劇は、中国の京劇も、日本の能楽や歌舞伎も、一見するととっつきにくい感じがします。しかし、東洋的な人間観と芸術のコンセプトさえ理解すれば、京劇も能楽も面白いドラマとしてすんなり楽しめます。この講義では、予備知識ゼロのかたもわかるよう、映像資料を使いながら東洋のドラマの面白さを解説します。
各回の講義予定
  1. 10/09 死と再生の儀礼と演劇芸術:古代人の死生観や世界観と、古代ギリシャ、中国の昔の舞台、日本の能舞台の宇宙観
    演劇の起源は、古代の招魂儀礼にあります。演劇芸術のコンセプトの根底にある、古代人の死生観や世界観について、映像資料を使いながらわかりやすく説明します。古代ギリシャの劇場が円形だった理由は、ギリシャ人は地球が丸いことを知っていたからです。舞台設計は宇宙観の縮図です。では、日本の能舞台の形や、中国の昔の舞台の形の根底にある宇宙観とは?[こちら
  2. 10/16 今でも伝統演劇にしかできないこと:東洋の伝統演劇である京劇や能楽、歌舞伎にみる東洋人の「人間」表現
    テレビや映画、ネット動画が発達した現代でも、舞台演劇は滅びずに残っています。なぜでしょう? 舞台演劇、特に東洋の伝統演劇である京劇や能楽、歌舞伎には、今もテレビや映画では絶対に不可能な「人間」表現があるからです。それは何か? 現代の映画やアニメと比較しつつ、東洋の伝統演劇のコンセプトを、わかりやすく説明します。そのコンセプトは演劇だけではなく、私たち東洋人が19世紀まで共有していた社会的な常識でもありました。[こちら
  3. 10/23 東洋演劇のドラマの実例(1):千年にわたって語り継がれてきた異類婚姻譚「白蛇伝」にみる、越えがたい男女の溝
    東洋の伝統演劇の特徴は、世代累積型集団創作です。千年にわたって語り継がれてきた異類婚姻譚「白蛇伝」を例に、男と女の越えがたい溝を、日本人や中国人は演劇としてどう描いてきたかを解説します。ちなみに「白蛇伝」は、中国の京劇の代表的な演目の一つであると同時に、昭和の日本の特撮映画やアニメ映画の記念碑的な作品でもあります。[こちら
  4. 10/30 東洋演劇のドラマの実例(2):東洋の伝統演劇のコンセプトや俳優術、作劇法が外国に与えた影響
    東洋の伝統演劇は、コンセプトも俳優術も作劇法も、西洋演劇とは違うユニークさがありました。20世紀のドイツの劇作家ブレヒトは、日本の能楽の「谷行」や、中国の京劇俳優・梅蘭芳の舞台から多大の刺激を受けました。このような事例は枚挙にいとまがありません。東洋の伝統演劇が外国に与えた影響を、映像資料を使いつつ、わかりやすく解説します。[こちら
紅雷紋紅雷紋

第1回 10/09 死と再生の儀礼と演劇芸術:古代人の死生観や世界観と、古代ギリシャ、中国の昔の舞台、日本の能舞台の宇宙観

演劇は文明の縮図、舞台は社会の鏡。
日本能楽 歌舞伎 他・・・音楽劇→せりふ劇ガラパゴス化何代目●●、家元、・・・新旧の劇種が共存
中国崑劇(昆劇) 京劇 他・・・全て音楽劇コモディティ化非世襲、輩字制、・・・古い劇種は消滅
古代ギリシア人の世界観・・・大地球体説(地球球体説)。舞台も劇場も円形。
古代中国人の世界観・・・「天円地方」説。演技は円潤、舞台は方形。
日本人の世界観・・・「みんな違って、みんないい」。舞台は左右非対称でガラパゴス化。

西洋演劇のコンセプトは「個人」と「演説」。
東洋演劇のコンセプトは「〇〇」と「〇〇」。
 ↑〇に何が入るか、お考えください。

 世界各地の初期演劇、例えばギリシア悲劇(前6世紀後半に成立)、元雑劇(中国。13世紀に成立)、能(日本。14世紀に成立)は、国も時代も違うのに、不思議な共通点がある。仮面の使用、笛を使い弦楽器を使わぬこと、呪術的な演出、等。
 芸術は、時間芸術(コトの芸術)と空間芸術(モノの芸術)などに分かれる。演劇は、人間(俳優)を素材として「人間」(登場人物がヒト以外でもその「人間性」がテーマ)のドラマを描く、という特殊な総合芸術である。
 演劇、特に初期演劇は「芝居じみている」。なぜ初期演劇は写実的ではないのか? なぜ「あの世」的な演出とか、迷信がかった単純なドラマが多いのか? その理由を解説します。

死と再生の儀礼と演劇の起源
京劇と呪術 宗教から初期演劇へ 中国演劇を中心に ★「弱喪(じゃくそう)」という考えかたと東洋の初期演劇の「幼児性」。
「弱喪者」は、若くして故郷を失った人。出典は『荘子』斉物論。
遠藤周作『万華鏡』(朝日新聞社,1993)「命のぬくもり」p.96-p.97より引用
 どなたかが書いておられた。
「夜なかに街では街路樹がたがいに連絡しあったり、話しあったりしています」
 それを読んだ日から私は夜ふけの静寂な路(みち)をポケットに手を入れて歩きながら、昼の排気ガスや乾いた地面で痛めつけられた街路樹や邸宅の庭の樹々が話しあっているのを感じた。
 幼年の頃に信じていたこと、動物も樹々も話をするという童話の世界は、少年になって失われ、それが長く続いた。そして老いた今、ふたたびそのように失った世界を私はせつに欲している。なぜだろう。
 シュタイナーという思想家がこう言っていた。人間は青年時代は肉体で世界を捉(とら)え、壮年の時は心と知で世界を捉えるが――老年になると魂で世界をつかまえようとすると。そして私もその三番目の魂の年齢になったからだ。


第2回 10/16 今でも伝統演劇にしかできないこと:東洋の伝統演劇である京劇や能楽、歌舞伎にみる東洋人の「人間」表現


第3回 10/23 東洋演劇のドラマの実例(1):千年にわたって語り継がれてきた異類婚姻譚「白蛇伝」にみる、越えがたい男女の溝
[
白蛇伝 授業用メモ]を参照。
 「白蛇伝」は、約千年の歴史をもつ世代累積型集団創作の異類婚姻譚。中国では、語り物や古典小説、芝居などに仕組まれてきた。日本でも、
その他の作品によって、影響を与えてきた。 Cf.成願寺(中野区本町二丁目)
以下、「なかの物語 其の四 中野長者伝説を御存じですか?」http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/102500/d020156.html より引用。引用開始。
 今は昔、応永の頃(1394〜1427)、紀州熊野から鈴木九郎という若者が中野にやってきました。九郎はある日、総州葛西に馬を売りにいきましたところ、高値で売れました。信心深い九郎は仏様の功徳と感謝して、得たお金はすべて浅草観音に奉納しました。
 さて、中野の家に帰ってみたところ、我があばら家は黄金に満ちていたのです。観音様のごほうびでした。それから九郎の運は向き、やがて「中野長者」と呼ばれるお金持ちになりました。その後、故郷の熊野神社を移して熊野十二社を建てたり、信心深い生活は続いていました。ところが、あふれる金銀財宝が屋敷に置ききれなくなった頃、九郎に邪念が生じたのです。
 金銀財宝を隠そうと人を使って運ばせて、帰りにその人を亡き者にするという悪業を働きはじめたのです。村人たちは、「淀橋」を渡って出掛けるけれど、帰りはいつも長者一人だということから、いつしかこの橋を「姿見ず橋」と呼ぶようになりました。
 しかし、悪が栄えるためしなし、やがて九郎に罰があたります。九郎の美しい一人娘が婚礼の夜、暴風雨とともに蛇に化身して熊野十二社の池に飛び込んでしまったのです。九郎は相州最乗寺から高僧を呼び、祈りを捧げました。すると暴風雨はおさまり、池から蛇が姿を現し、たちまち娘に戻りましたが、にわかに湧いた紫の雲に乗って天に昇っていってしまったのです。以来、娘の姿は二度とこの世に現れることはなくなったのです。
 九郎は嘆き悲しみ、深く反省して僧になりました。そして、自分の屋敷に正歓寺を建て、また、七つの塔を建てて、娘の菩提を弔い、再び、つましく、信心深い生活に戻りました。めでたし、めでたし・・・(引用者―以下省略)



第4回 10/30 東洋演劇のドラマの実例(2):東洋の伝統演劇のコンセプトや俳優術、作劇法が外国に与えた影響
関連YouTubeビデオ
https://www.youtube.com/playlist?list=PL8E9C2EFDA1AA5AD1
★東洋の芸術が西洋に与えた影響
 表層的な技法だけでなく、根底にあるコンセプトが大きな刺激を与えた点に注意。
★日本大百科全書(ニッポニカ)の解説  戯曲 ぎきょく
(引用開始)舞台で観客を前にして俳優が演じる劇的内容(筋の展開)を、登場人物の対話・独白(台詞(せりふ))を主とし、演出・演技・舞台の指定(ト書)を補助的に加えて記したものをいう。俳優、観客、舞台とともに演劇の基本的構成要素の一つである。一般には脚本、台本とほぼ同じ意味で使われるが、それが直接上演を目ざした、舞台に直結した作品をいうのに対し、戯曲は作者(劇作家)の書いた作品の思想性を重視し、文学作品としても鑑賞できるような芸術性を保った作品をさしていう場合が多い。この語は、中国で宋(そう)・元の時代から用いられ、もとは雑劇や雑戯(歌が中心で庶民に好まれた大衆的な芸能)の歌曲を意味していた。日本の歌舞伎(かぶき)では台帳、正本(しょうほん)などとよばれていたが、明治初年にヨーロッパのドラマdramaの訳語として戯曲の文字があてられ、明治末以降演劇の劇的内容を文字で記し活字にした劇作品を広く戯曲と呼び習わすようになった。ドラマは、ギリシア語の「行う・行為する」を意味するドランdranを語源にもち、俳優が自分の肉体で観客に、あるできごとを演じてみせる、その人物の行為(できごとの事柄、筋の展開)をさしていう。[藤木宏幸](引用終了)

★略史
作者不明の謡曲「谷行(たにこう)」金春禅竹(こんぱるぜんちく 1405-1471?)の作か?
 ↓
Arthur Waley(1889-1966)による脚本の英訳 The No plays of Japan,London,1921 (日本語の原本とかなり違う自由訳)
 ↓ (翻案)Bertolt Brecht(1898-1956)の戯曲 Der Jasager. Der Neinsager(1930)
[
こちらも参照]

 15世紀の日本の能楽の戯曲「谷行」は、1921年にアーサー・ウェイリー(1889-1966)によって自由訳され欧米に紹介された。1930年、ドイツの劇作家ブレヒトが翻案し、クルト・ヴァイルに作曲を依頼して学校オペラ「イエスマン・ノーマン」を作った。[こちらも参照]

能楽「谷行」(たにこう) 作者不明 金春禅竹(こんぱるぜんちく 1405-1470ころ 世阿弥の女婿)説が有力

★ブリタニカ国際大百科事典  谷行 たにこう
(引用開始)能の曲名。五番目物。作者未詳。少年松若 (子方) は,母の病気平癒を祈るため,師匠の阿闍梨 (ワキ) 一行の峰入り修行に加わり,母 (前シテ) の見送りを受けて出発する (中入り) が,葛城山で病気になる。山伏たち (ワキツレ) から谷行 (峰入りの途次発病した者を谷へ落し生埋めにする修験道の掟) の実行を迫られ,師匠もやむなく同意し,谷行が行われる。夜が明けて出発の時刻となるが,師匠は悲しみに沈み,自分も谷行に処してくれと言う。同情した山伏たちが蘇生の祈りをすると,役行者 (ツレ) が現れ,伎楽鬼神 (後シテ) を呼出して松若を助け出す。ワキが主役格となり,ワキツレも多数出演するため,上演の機会が少い。ドイツの劇作家 B.ブレヒトの教育劇『イエスマン』『ノーマン』はこの能の翻案である。(引用終了)

★比較対照のポイント
 日本版の本来のテーマは「衆生一子」「示現(じげん)」「通過儀礼」「擬似再出生体験」
 西洋版のテーマは「律法と契約」「受難と復活」
[こちらも参照]

★以下、野上豊一郎『解註・謡曲全集』第五巻(昭和26年版、中央公論新社)より引用(原文は総ルビ)
【地謡】 葛城山の名も高き、役の優婆塞(えんのうばそく)まのあたり、来現も孝行ゆゑ。あらありがたやの御事や。もとより衆生一子にて、もとより衆生一子にて、愛愍(あいみん)あれば親心、仏の慈悲にかくばかり、今顕(あら)はさん待てしばし、使者の鬼神の伎楽伎女(ぎがくぎにょ)よ、とくとく参拝、申すべし。 【後ジテ登場。地謡】伎楽鬼神(ぎがくきじん)は飛び来たり、伎楽鬼神は飛び来たつて、行者のお前に膝まづいて、首(コーベ)を傾け仰せを受けて、谷行に飛び翔けり、上に蔽(おお)へる土木磐石、押し倒し取り払つて、上なる土をばはらはらと静かに翻(かえ)して彼(か)の小童(しょうどう)を、恙(つつが)もなく抱きあげ、行者のお前に参らすれば、行者は喜悦の色をなし、慈悲の御手に髪を撫で、善哉善哉(ぜんざいぜんざい)孝行切なる、心を感ずるぞとて、則ち師匠に与へ給ひ、帰らせ給へば伎楽も共に、御先(みさき)を払つてさがしき路を、分けつくぐつつ登るや高間の雲霧つたふ(ツトー)や葛城の、人の目にこそかからざれどもまことは渡せる岩橋を、大峯かけて遙遙(はるばる)と、大峯かけて遙遙と、虚空を渡つて失せにけり。(留拍子)
これで今回の講座は全部終了です。
ありがとうございました。
紅雷紋紅雷紋
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