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日中演劇交流・話劇人社/シアターΧ 共催
中国演劇ヴィジュアル講座
第8回『京劇と呪術感覚』 講師:加藤徹(明治大学教授)
日時:2008年3月7日(金)18時〜
会場:コミューンΧ(カイ) 東京都墨田区両国2-10-14 電話03-5624-1181
参加費:1,000円(資料代含む) 詳細は[こちらのページ]。


【要旨(予定)】 中国の舞台空間の設計思想は、コックリさんと同じであった。

 コックリさんの源流は、西洋の霊応板(霊応盤。ouija boards)である。ボードを舞台、占板(指示器。planchette)を俳優に見立てて、これを中国の古式舞台と比較すると、両者のコンセプトの意外な共通点が見えてくる。
 中国伝統の四角形の開放式舞台では、舞台空間は現世に見立てられ、舞台背後の空間「後台」は冥界に見立てられた。漢語では亡霊のことを「鬼」と言う。俳優が舞台に登場・退場する出入口は「鬼門道」と呼ばれた。実際、中国の初期演劇の作品は、英霊や怨霊が主人公であるものが多い。劇作家の過去帳である鍾嗣成『録鬼簿』(1330年前後に成立)が、当時まだ存命であった人物までをも「鬼」として収録した事実は、象徴的である。

 中国に限らず、世界の初期演劇の基本コンセプトは「擬似再出生体験」であった。仮面を着用した俳優はヨリマシ(尸童)であり、相手役はサニワ(審神者)であり、伴唱者や楽人はカンナギ(娯神者)であり、観衆は信徒集団であった。呪術的演出によって、冥界から「この世ならざる者」を一時的に舞台空間に招き、観衆がこれと時空を共有することでマジカルなパワーを得る、という神人交会の感覚は、世界の初期演劇に共通する。

 京劇は近世の演劇であるが、その演出の根底には、いわゆる革命現代京劇も含め、初期演劇の呪術感覚が残っている。京劇の声楽、器楽、言語、身体表現などの演出を分析すると、模倣呪術(imitative magic)、類感呪術(sympathetic magic)、感染呪術(contagious magic)などの要素が、隠し味として、巧妙に使われていることがわかる。
 現代演劇も、実は呪術感覚を継承している。現代は、いまだ呪術の時代なのだ。
cf.元の雑劇の初期の作品は、鎮魂演劇の名残を残している『関張双赴西蜀夢』→関羽、張飛の亡魂が劉備の枕元に立つ。『地蔵王證東窓事犯』→地蔵王が岳飛の霊の告訴を受け秦檜を断罪。『昊天塔孟良盗骨』→楊継業の遺骨奪還と仇討ち。『竇娥冤』→冤罪で処刑された女性の裁判のやり直し。


【参考図】
 左の図は、加藤徹著『京劇』(中央公論新社 2001)より。
 演技者は上場門から登場し、九龍口でいったん立ち止まって名乗りをあげたあと、演技をする。最後は下場門から後台に入る。
 日本の能舞台とくらべると、橋懸(はしがかり)が無いなどの違いはあるが、設計思想はよく似ている。
 後台では、中国演劇の守護神である「祖師爺」なども祭られていた。
 今日では、中国演劇も西洋式のプロセニアム劇場で演じられることが多いが、「九龍口」「小辺」「大辺」などの旧来の呼称は多少ニュアンスを変えつつ今も使われている。

 下の写真は、英語用のウィジャボード(霊応板/霊応盤)。右下のハート型の板はプランシェット(占板/指示器)。

 霊が降りてくると、術者が持つ占板がひとりでに板上の「hello」の位置に動いて到来を告げ、次いで占板が板上の文字や数字を移動してメッセージを伝え、最後に「good bye」の位置に戻って冥界に去る。
 helloは「上場門」、good byeは「下場門」と同様の役割を果たしている。
 写真の出典はウィキペディア(説明はこちら)。

 19世紀、ウィジャボードは日本につたわって「コックリさん」になった。
 日本ではコンパクト化し、板は紙に、占板は硬貨となり、マークも鳥居が描かれるなど、独特のアレンジが加えられた。
 右の絵は江戸時代の『長崎名勝図絵』の「館内唐人躍之図」。唐館(唐人屋敷)における舞台上演の様子である。
 舞台の内場の位置(上場門と下場門のあいだ)に、楽隊が並んですわっている。
 楽器は笛・銅鑼・拍板・喇叭・小銅鑼(俗称はチャンチャン)・太鼓・胡弓・三絃であった。
 右下の落款には「己卯冬日石崎融思照写」とある。己卯すなわち文政2年(1819)の冬に、画家の石崎融思(1768〜1846)が描いたもの。

 長崎の唐館では毎年春二月二日を祭祀の日として、館内の土神堂(右側に描かれている)の前に高大な舞台を設営して、前後、二、三日のあいだ演劇を奉納した。
 出演者や演奏者は、在館の唐人たちである。演目は中国本土と同じだった。なかでも「目連救母」は、演技が難しく、やりこなせる者が少なかったという。
 唐館内には「霊魂堂」などの施設もあり、怪談や心霊現象も多かったことが、日本人によって記録されている。
 日本人もしばしば唐館で観劇した。大田南畝(蜀山人)の『瓊浦雑綴』の観劇記は有名。
 筒井政憲(1778〜1859)も、長崎奉行だったとき観劇し、その感想を漢詩に詠んだ。

     唐館看戯    トウカンにてギをみる
           鎮台 筒井君(和泉守号鑾渓)
   酒気満堂春意深  シュキ ドウにみち シュンイふかし
   一場演劇豁胸袗  イチジョウのエンゲキ キョウシンをひらく
   同情異語難暢達  ドウジョウ イゴ チョウタツしがたし
   唯有咲容通欵心  ただショウヨウ(=笑容)のカンシン(=款心)をツウずるあるのみ

長崎の唐人についてはこちらもどうぞ

【キーワード等】
明器感覚 招魂儀礼 擬似再出生体験

magicの訳語  人類学や宗教学での学術用語としては「呪術」←→「魔法」「魔術」「奇術」「手品」等
imitative magic 模倣呪術
sympathetic magic 類感呪術
contagious magic 感染呪術・接触呪術
psychological magic 心理呪術
high magic 高次呪術
manifest magic 明白呪術
black magic 黒魔術
apotropaic magic 厄除け呪術
←→
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illusionary magic 幻影呪術
low magic  低次呪術
subtle magic  玄妙呪術
white magic 白魔術
evil eye 邪眼 魔眼 邪視

congregation会衆(ユダヤ教・キリスト教の信徒団)←→church 教会 cf.『聖書』訳本
séance交霊術(降霊術) (中国語:降神会)
medium霊媒(中国語:霊媒)
channelingチャネリング(中国語:導霊)
ouija boardsウィジャボード(中国語:霊応板/霊応盤) →中国の「扶乩」、日本の「コックリさん」
shamanismシャーマニズム  ecstasy 脱魂←→possession 憑依

区分神霊の例
属人霊ハムレットの父
浮遊霊行逢神(ゆきあいがみ)
地縛霊吊死鬼
不浄霊餓鬼
念縛霊テケテケ、カシマ
時節霊サンタクロース
運搬霊座敷童子
守護霊
祖 霊
怨 霊お岩さん
悪 霊
御 霊火雷神(菅原道真)
英 霊
生き霊六条御息所
自然霊キジムナー
動物霊ピノキオのコオロギ
器物霊付喪神
模倣呪術 死の三徴候:心臓の拍動停止・呼吸停止・瞳孔散大
      →拍動は打楽器で、呼吸は気鳴楽器・声楽で、瞳孔は照明や目の演技で再現する。
厄除け呪術 跳加官、武場(打楽器)、武功、目の演技、衣装の色彩、etc.
  例)『三堂会審』の「紅」
感染呪術 神人交会の感覚、ライブ感覚

呪術における類比的思考(アナロジカル・シンキング)の例
・神霊は高いところにいる。→高い声で唱えば神霊に届く。
・地母神のパワーは地下にある。→足で地面を踏みしめて霊力を奮い立たせる。
・神霊は目に見えない。→神霊は後に残らぬ供物を嘉賞する。
  例)音楽・演劇などの再現芸術、香の煙、紙銭、焚化。
・神霊は冥界からやってくる。→擬似再出生体験。
  例)能管・石笛=呼吸 地謡=産声 太鼓=心臓の鼓動


すべての根源は「明器感覚」にあり
『大辞林』より:【明器(めいき)】 死後の生活にそなえ、墓に副葬するために作った模型の器物。中国、漢・唐代に盛行。石・木・陶磁器などで作り、宋代以後、紙製品が漸増。動物・人物像を含めていう。神明の器。
→泥象(でいしよう)

中国演劇の三つの特徴「綜合性・虚擬性・程式性
 綜合性:演出における視聴覚的要素の総合的活用 < 生と死、恐怖と快楽、静と動、など相反する感覚の奇妙な混在
 虚擬性:「不像不成戯、真像不是芸(蕭長華)」。それらしくなければ芝居じゃない、そのまんまだったら芸じゃない。
 程式性:型にはまった約束事の活用

『礼記』檀弓下第四より──孔子は言った。「明器を発明した人は、喪の道をよく知っている。死者への供え物は、わざと実用不可能に作るべきである。悲しいことだ。もし死者に、生きている人が使うのと同じ実用品を使うなら、それは生きた人間を殉死させるのと、ほとんど同じことになってしまうではないか」。そもそも、死者に供えるための非実用品を「明器」と呼ぶのは、死者を「神明」の存在と見なすからである。色を塗った模型の車や、草で作った人形を死者に供えることは、昔からある正しいやりかたで、明器の道にかなっている。孔子は、死者に供えるための草で作った人形を考案した者については「良い」と評価したが、死者に供えるために生きた人間そっくりの人形を考案した者については「不仁である。生きた人間を殉死させるのと、ほとんど同じじゃないか」と批判した。(原文:孔子謂「為明器者、知喪道矣。備物而不可用也。哀哉、死者而用生者之器也、不殆於用殉乎哉」。其曰明器、神明之也。塗車芻霊、自古有之、明器之道也。孔子謂為芻霊者「善」、謂為俑者「不仁、殆於用人乎哉」。)

『荀子』礼論篇第十九より──もとより装飾と粗悪、鳴り物と哭泣、歓喜と哀悼は、それぞれ互いに相反するものである。しかし喪礼においては、これらを兼ね合わせて活用し、かわるがわる用いることで、コントロールするのである。装飾と鳴り物と歓喜は、平常心を維持して幸運を呼び込むための方策である。粗悪さと哭泣と哀悼は、危機意識を持って凶事に対処するための方策である。(原文:故文飾、麤悪、声楽、哭泣、恬愉、憂戚。是反也。然而礼兼而用之、時挙而代御。故文飾、声楽、恬愉、所以持平奉吉也。麤悪、哭泣、憂戚、所以持険奉凶也。)
 喪礼の本質とは、死者を、生きている人のように装飾することである。死者が生きていたときと全く同じ態度で、その死を送ってあげるのである。つまり、この人は死んでいるようでもあり生きているようでもあり、ここに居るようでもありここに居ないようでもある、という態度を、始終つらぬくことである。(原文:喪礼者、以生者飾死者也。大象其生、以送其死也。故如死如生、如存如亡、終始一也。)
 死者の前にすすめる明器については、実用性を排除する。冠は頭にかぶる部分はあっても髪つつみはないようにし、酒を入れるカメは空っぽのままにして中身をつめてはならず、竹で編んだムシロはあっても寝台やスノコはつけず、木製の器はわざと仕上げを荒いままにしておき、陶器はわざとプロポーションを狂わせて作り、竹やアシで編んだ器もわざと中身を入れられぬようにし、死者に供える楽器についても、笙や竽はわざと調律せず、琴や瑟も弦は張っても調弦はわざと狂わせておき、ひつぎを運ぶ車は墓に埋めるが、車を引っぱる馬は埋めずに帰ってくるようにする。これらはすべて、実用品ではない、ということを明示するための措置なのである。(原文:薦器、則冠有鍪而毋縰、罋廡虚而不実、有簟席而無床笫、木器不成斲、陶器不成物、薄器不成内、笙竽具而不和、琴瑟張而不均、輿蔵而馬反、告不用也。)

【参考図書】呪術的思考やアナロジカル・シンキングについては拙著『
怪力乱神』を、ロジカル・シンキングについては拙著『漢文力』をどうぞ。

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