KATO's HOME > 授業教材集 > このページ

朝鮮通信使の光と影

朝日カルチャーセンター・新宿教室 2018/5/31月曜 6/7月曜 10:30-12:00 2回
最初の公開2018-5-31 最新の更新2018-5-31

ポイント
〇現在の日韓関係・日朝関係の原点のような時代である。
〇窮屈な国際的な枠組み(「鎖国という外交」「冊封体制」の中での「通信」)
〇「国格」をめぐる日韓中の意地の張り合い
〇東アジアの「漢字圏」の特殊性
〇純粋な地域呼称がない不便さ(韓国と朝鮮)
〇冊封体制・国格意識と現在の国際情勢の類似性

 以下、朝カルのサイトより自己引用。
 ユネスコの世界記憶遺産への登録が決まった江戸時代の「朝鮮通信使」は、友好や善隣外交の文脈で語られることが多いようです。しかしその実態は「過去の戦争責任を永遠に責めたてる朝鮮側」と「友好を掲げつつ幕府の権威の誇示に利用した日本側」という図式の始まりでもありました。当時の日朝双方が残した「肉声」と挿話の数々は、ほろ苦く、また思わず笑ってしまうほど面白い。意地を張り合いながらも、江戸時代を通じて外交的破綻を回避した先人の苦心と知恵を、わかりやすく紹介します。(講師記)
1 5/31 ポスト豊臣秀吉の戦争と平和
2 6/7 朝鮮通信使からの教訓

配布プリント 第一回 [WORD 縦書き][簡略HTML
第二回 [WORD 縦書き] [簡略HTML
「朝鮮通信使」google画像検索結果

辞書・事典の説明
大辞林 第三版
 朝鮮通信使 江戸幕府の将軍の代替わりなどに際し、朝鮮国王から派遣された祝賀使節。1607年から1811年にかけて、一二回来日。朝鮮使節。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
朝鮮通信使 ちょうせんつうしんし
 李氏(りし)朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。1404年(応永11)足利義満(あしかがよしみつ)が日本国王として朝鮮と対等の外交(交隣(こうりん))関係を開いてから明治維新まで、両国は基本的にその関係を維持した。それを具体化したのが両国使節の往来による国書の交換である。義満以来かなり両国使節の往来があったが、徳川将軍は直接使節を送らず、朝鮮も釜山(ふざん)以外への日本人の入国を禁じたので、近世では朝鮮使節が来日するのみとなり、国書の交換もその際にまとめて行われた。近世の朝鮮使節は1607年(慶長12)から1811年(文化8)まで12回来日した。日本側はこれらをすべて通信使と考えたが、朝鮮側は、初めの3回は徳川将軍からの国書(対馬(つしま)藩宗(そう)氏の偽作)への回答と、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役で日本に拉致(らち)された被人(ひりょにん)の刷還(さっかん)を目的とする回答兼刷還使を名目とした。この齟齬(そご)は柳川一件(やながわいっけん)を契機に修正され、以後9回は名実ともに通信使となった。
 通信使一行は正使以下300人から500人で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路をとった。一行が日本国内を往来する際の交通宿泊費や饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であったが、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢(ごうしゃ)を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれた。近世中期以降の通信使は将軍の代替りごとに来日するのが例となっていたが、12回目は天明大飢饉(てんめいだいききん)のために延期され、行礼場所も対馬に変更されて、1811年にようやく実施された。その後はたびたび計画されながら財政難や外圧のために延期され、実現しないままに明治維新を迎えた。朝鮮側の通信使派遣には日本の国情偵察という目的もあり、来日のたびごとに詳しい観察記録が残されていて、外国人による近世日本についての貴重な記録の一つとなっている。なお1711年(正徳1)、新井白石(あらいはくせき)は、朝鮮側国書にある将軍の呼称を従来の「日本国大君(にっぽんこくたいくん)」から「日本国王殿下」に改めさせ、また使節の接遇を簡素化したが、白石失脚後はすべてもとの形態に戻された。[荒野泰典]
『申維幹著、姜在彦訳『海游録――朝鮮通信使の日本紀行』(1974・平凡社・東洋文庫) ▽中村栄孝著『日鮮関係史の研究 下』(1969・吉川弘文館) ▽映像文化協会編『江戸時代の朝鮮通信使』(1979・毎日新聞社) ▽宮崎道生著『新井白石の研究』増訂版(1966・吉川弘文館)』


サイト内リンク

KATO's HOME > 授業教材集 > このページ