朝鮮通信使の光と影 (後編)

     朝日カルチャーセンター・新宿  平成30年6月7日 講師 加藤 徹

 

1 5/31 ポスト豊臣秀吉の戦争と平和

2 6/7  朝鮮通信使からの教訓

 

★沈徳符(1578-1642)『万暦野獲編』巻三十

http://www.geocities.jp/cato1963/banrekiyakakuhen.html#02

【朝鮮国詩文】朝鮮俗最崇詩文、亦挙郷会試。其来朝貢、陪臣多大僚、称議政者即宰相、必有一御史監之、皆妙選文学著称者、充使介。 至闕、必収買図籍。偶欲『弇州四部稿』。書肆故靳之、増価至十倍。其篤好如此。天朝使其国、以一翰林一給事往、欲行者即乗四牡。 彼国濡毫以待唱和我之銜命者、才或反遜之。前輩一二北扉、遭其姍侮非一、大為皇華之辱。此後、似宜遴択而使。勿為元菟四郡人所笑可也

 朝鮮半島の習俗は、漢詩と漢文の才能を最も重んじている。(中略)やる気のない中国の知識人の来訪を、朝鮮国の文人たちは、手ぐすね引いて待っている。中国の使節が来ると、朝鮮人は立派な漢詩を作り、中国人に贈る。使節団の中国人は、お返しに漢詩を書いて朝鮮人に贈らねばならない。が、えてして、使節団の中国人が漢詩を作る才能は、朝鮮人よりおとっているともある。以前、わが中国のエリート文人であるはずの翰林学士が、朝鮮での漢詩の応酬で彼らの返り討ちにあい、朝鮮人から嘲笑と侮蔑を受け、わが中華文明の恥辱となったことは、一度ならずある。今後は、朝鮮国への使節団の人選は、慎重にとりおこなうべきように思う。漢の植民地だった土地の連中に笑われぬようにしなければならない。

☆参考挿話 アメリカ人のコートニー・ホイットニー(Courtney Whitney, 1897- 1969)が、GHQの民政局長だったとき、ケンブリッジ大学に留学経験のある白洲次郎(1902-1985)と交わした会話。

ホイットニー「きみの英語は本当にうまいね」

白洲「閣下の英語も、もっと練習したら上達しますよ」

 

★し‐そう【使僧】の意味  デジタル大辞泉(小学館)

使者として遣わす僧。「―に対面もなく、一言の返事にも及び給はねば」〈太平記・三六〉

 

★松雲大師 惟政(いせい/ゆいしょう、유정、ユ・ジョン、1544 - 1610)

朝鮮の高僧、僧将。生まれは朝鮮国・慶尚南道の密陽。俗姓は任()、俗名は応奎(응규)、字は離幻、号は松雲、堂号は泗溟堂、別号は鍾峯。

※僧侶なので本当は呉音で「ゆいしょう」と読むべきだが、普通の人名と同様に漢音で「いせい」と読む読み方も日本では広まっている。

http://www.geocities.jp/cato1963/singaku-32.html#06

 

☆『芝峰類説』巻十八より

僧惟政、号松雲、壬辰変後、為義僧将、陣于嶺南。倭将清正、要与相見。松雲入倭営、賊衆列立数里、槍剣如束。松雲無怖色、見清正、従容談笑。清正謂松雲曰「貴国有宝乎?」。松雲答曰「我国無他宝。惟以汝頭為宝」。清正曰「何謂也?」。答曰「我国購汝頭金千斤邑万戸。非宝而何?」。清正大笑。或曰「是時、清正兵衛甚盛。松雲僅一見而退。必不敢出此言。疑是誇伝也」。後十年、松雲以通和又入日本。倭奴厚待、以送之。

僧・惟政、号は松雲、壬辰の変の後、義僧の将と為り、嶺南に陣す。倭将清正、与に相見えんことを要む。松雲、倭営に入るに、賊衆列立すること数里、槍剣束の如し。松雲、怖るる色無く、清正に見え、従容として談笑す。清正、松雲に謂ひて曰く「貴国、宝有りや」と。松雲、答へて曰く「我国に他の宝無し。惟だ汝が頭を以て宝と為す」と。清正曰く「何の謂ぞや」と。答へて曰く「我が国、汝が頭を金千斤邑万戸もて購ふ。宝に非ずして何ぞや」と。清正、大笑す。或は曰く「是の時、清正の兵衛は甚だ盛んなり。松雲、僅かに一見して退く。必ずや敢て此の言を出さじ。疑ふらくは是れ誇伝ならん」と。後十年、松雲、通和を以て又日本に入る。倭奴厚く待し、以て之を送る。

僧・惟政、号は松雲。壬辰戦争の後、僧侶の義勇軍の将となり、嶺南の地に布陣した。  敵将の清正が「会見したい」と申し出た。松雲は倭軍の陣営に入った。清正は倭軍の強大さを示して松雲を威圧するため、兵隊たちに鋭い槍や剣を束のように抱えさせ、数里の長きにわたってずらりと立ち並ばせた。だが松雲は少しも怖がる顔色を見せない。清正に会い、ゆるやかな雰囲気で談笑した。清正は松雲に言った。

「貴国に、何か宝物があるか」

 松雲は答えた。

「ある。他でもない。おまえの頭こそ宝だ」

「どういう意味だ」

「賞金首だよ。わが国は、おまえの首を、千斤の黄金と万戸の領地と引き替えにしても買い取る。これが宝でなくて何だね」

 清正は呵々大笑した。

 以上は痛快な逸話だが、作り話だと言う人もいる。「この時、清正の軍隊は強大で、松雲はちょっと会見しただけですぐに退出した。こんな危ない言葉を口にするはずがない。きっと誇張だろう」という説もある。

 この十年後、松雲は講和のため日本に乗り込んだ。日本の連中は、松雲が帰国するまで厚くもてなした。

 

★趙慶男『乱中雑録』四,乙巳(1605)

朝鮮群書大系「大東野乗 五」朝鮮古書刊行会,明治43(1910)6月刊 より

夏四月。惟正還自日本、刷還我国男婦三千余口。初正渡海致日本、托以盤遊諸国、玩賞山川。倭人益奇之、肩輿邀請、殆無虚日。及至大坂、首言交和寧国之事、次言刷還我人之言。家康以為「壬辰之役、吾実未知。両国無事、相安太平、不亦可乎」。即令刷出被擄人物、使与倶還。但以要時羅事帰曲。惟正曰「我国与日本、雖是万世不忘之讐、而交隣之約、素不負汝。一倭有無、何関勝敗。而兵退之後、謀殺往来之使乎。某年某月、要酋回自中原、我国如前接待。同年某月日、護送于釜山。今已累年、日本以此帰咎、必是諱隠、要開釁隙。不然、扁舟滄海、応有漂溺之患耳」。倭酋等猶以為然、更不言及。要正再来。

 惟正将還、先送探舡、歴報朝廷、兼陳「渡海之日、令舟師諸将屯聚釜山、以壮軍容、俾厳、率倭之瞻視」云云。是日、統制使李慶濬、領舟師赴釜山、風遅未及、竟誤師期。正、以刷還人付李慶濬、使之随便分送。

 慶濬分付諸舡。聴其所之。舡将等逢授男女、争先恐後、縶之維之、甚於搶掠。或問所係而不能答、則(少時被搶者、徒知朝鮮、而不知其所係及父母名字者、多)并称己奴。美女、則縛投其夫于海、而任為己物。如此者非一。

 天高聴卑、事乃聞焉。即罷李慶濬、以李雲龍代之。因令各道水使、摘発辺将之恣行是事者。水使等視為文具、竟不発告

☆右の『乱中雑録』四、乙巳四月条の記述をもとに加藤徹が再構成した「大意」

 惟正。ありゃあ、たいした男だよ。わが朝鮮国では賤民扱いされている僧侶の身分だけどね。惟正が日本に乗り込んで、わが朝鮮国から日本に連行されていた男女三千人を、連れて帰ってきたのは、1605年の旧暦四月だった。

 惟正が日本に渡ったのは、その前の年だ。秀吉のやつが死んであの戦争が終わってから、まだ6年目だった。戦争の傷跡も生々しかった。日本軍がわが半島から撤退して戦闘は終わっていたけれど、わが朝鮮国も明国も、日本と講和は結んでいなかった。

 あの戦争で、われわれと日本のあいだを行き来した使者の運命は、悲惨だった。中国人の沈惟敬は外交で大ウソをついたのがバレて死刑になり、日本人の要時羅(後述)もスパイと見なされ死刑になった。惟正はあの戦争で英雄となっていたけど、講和の任務に失敗したら、帰国後、責任を問われたかもしれない。いや、そもそも日本の連中は血の気が多い。惟正はスパイと疑われただけで、斬り殺されたろう。

 でも、惟正は死生を達観した禅僧だ。敵地である日本に渡ったあとも、悠然と日本各地の美しい自然の風景を鑑賞した。倭人どもは「噂は聞いていたが、ここまですごい人だったとは」と感心した。日本に滞在中、惟正のもとには倭人の貴顕から「ぜひ一目お目にかかりたいと存じます」という要請がひっきりなしに届き、休む日もなかった。

 で、大坂に着いた惟正は(加藤注―正しくは京都。漢文の原資料の「大坂」は誤り)、徳川家康と会った。家康は、前年に日本の「征夷大将軍」になったばかりの、最高権力者。惟正はまず「両国は戦争状態を終わらせ、平和な関係を結ぶべきです」と言い、次に「被虜人、すなわち戦争中にわが朝鮮国から強制連行された同胞を、返してください」と言った。

 家康は思った。あの戦争は、秀吉がやったこと。自分に責任はない。両国が平和になって悪いことは何もない、と。――まあ、俺は家康から直接聞いたわけじゃないけど、きっとそう考えたのだろうね。なぜなら意外にも、日本側はあっさりと、惟正が被虜人の在日同胞たちを連れ帰ることに合意したからだ。でも、やはり彼らは姑息な日本人だ。そのあと例の件を蒸し返した。

「わが日本国は、貴公と被虜人たちの安全を保証し、貴国まで安全に送り届けることを約束する。しかし、要時羅の一件が残っている。彼が不当逮捕され理不尽に処刑された件について、貴国はその責任をどうとるのか」

みたいなことを言ったのだ。……え? あんた、要時羅(朝鮮語の発音で「ヨシラ」)を知らないのか? あの戦争の最中、和平工作を行っていた対馬の日本人だよ。やつが本当に日本のスパイだったのか、それとも心から戦争終結を願っていたのか、今となってはもうわからないがね。戦争中、小西行長からの極秘のメッセージをわが朝鮮国に伝え、加藤清正の軍隊がわが国に上陸する場所と時期を事前に密告し、主戦派の清正を討ち取るよう働きかけたのも要時羅だった。わが李舜臣も、この要時羅の情報リークのせいであやうく死刑になりかけたんだが――おっと、話がそれた。で、結局、要時羅はあの戦争が終わる直前、明の将軍との会見中に逮捕された。戦後の1599年、北京で行われた戦勝式典のとき、明の皇帝に献上された61名の降倭(日本人投降兵に対する明・朝鮮側の呼称)が処刑された。斬られた中に要時羅もいた。要時羅の日本名? 知らないよ。対馬の「梯七大夫」とか、日本の「弥二郎」という名前の発音を漢字で写したとか、いろんな説があるらしいけどね。

 日本側は、惟正の堂々たる立派な態度を見て、皮肉もこめて「わが日本国はあんたを生きて返す。でも、あんたら朝鮮国と明国は外交の使者である要時羅を殺した。さあ、これをどう考える」と、恩着せがましく言ってきたのだ。

 惟正は、日本側に言った。

「日本はわが国にとって、万世忘れることのできない仇の国である。だが、交隣(友好関係を保つこと)の約束を交わした以上、おまえたちとの約束は守るから安心しろ。倭人の一人がどうのこうのと、戦争中のことを今さら蒸し返しても、あの戦争の勝敗の結果は変わらないぞ。日本軍がわが国から撤兵した現在、両国のあいだを行き来する和平の使者を逮捕処刑することは、もはやありえない。もし仮に、要時羅が今も生きていて明からわが国に送還されたらならば、わが国は戦前と同様の待遇で迎え、その年のうちに日本に最も近い釜山まで安全に送り届けるだろう。要時羅の一件はもう何年も前のことで、しかも彼を処刑したのは明国の判断だ。日本側はなぜ今それを蒸し返して問題化するのか。それを口実に、わが国との関係を意図的に悪化させる企みがあるか。さもなくば、目撃者がいない海の真ん中で、私を船から海に突き落として殺すつもりか。私は、日本側の誠意を疑わざるを得ない」

 惟正の言葉を聞いて、日本の野蛮人どもも「なるほど」と思い、要時羅の件にはもう触れず、「ぜひまた日本にお越しください」と言った。

 こうして惟正は、講和の端緒を開くという大任を果たした。彼は帰国する直前、日本から朝鮮国の朝廷に使いを送り、仕事の首尾を詳しく報告した。また、こう要請した。

「私はこれから帰国します。何月何日に釜山港に着く予定です。それにあわせて、釜山港にわが朝鮮国の水軍の船を集結させてください。私たちと釜山まで同行する日本人は、朝鮮水軍の威容を見て、『もしまた戦争になったら日本に勝ち目はない』と恐れおののくでしょう」云々。

 統制使の李慶濬が、朝鮮水軍の軍船を集めて釜山に赴いた。あいにくと風に恵まれず、期日に遅れてしまった。日本人をビビらせる計画は失敗。まあ、よくあることだ。  ともあれ、朝鮮各地から、たくさんの船が釜山に集まっていた。惟正は、日本から連れ帰った三千人あまりの刷還人の身を、李慶濬に預けたのさ。

「彼らを、それぞれの故郷まで船で送ってあげてください」

「わかりました。彼らはあの戦争の不幸な犠牲者です。必ず故郷まで送り届けます」

 惟正は安心して去った。で――本当は、ここで筆をやめておけば美談で終わるのだが、事実は事実として書き残すことにしよう。刷還人の大半は文字の読み書きができぬ庶民なので、私が書かねば、誰も書かないだろうからね。

 李慶濬は部下たちに、刷還人の男女三千名余りの護送を割り当てた。それが悲劇の始まりだった。

「おまえの故郷はどこだ? 親類縁者に、有名な人や偉い人はいるか?」  そう聞かれて、答えられない刷還人も多かった。無理もない。戦時中に日本に連行されたときはまだ子供で、自分の係累はおろか親の名前も知らぬ者も少なくなかった。

 朝鮮水軍の将兵は、目の色が変わった。天涯孤独の社会的弱者たちが、突然、大量に目のまえに現れた。将兵は先を争って刷還人を縛りあげ、自分の奴隷にした。顔が美しい女がいると、その夫を縄で縛って海に投げ捨てて、女だけを奴隷とした。こういう例が続出した。戦場での奴隷狩りよりもひどかった。

 そんな噂は朝鮮国の朝廷にも届いた。李慶濬は監督責任を問われて更迭された。新たに着任した李雲龍は、朝鮮国各道の水使に命令をくだし、

「地方の将兵でこのような悪いことをする者がいたら、どしどし摘発せよ」

と命じた。でも、しょせんはお役所仕事。この件で告発された軍人は、結局、ひとりもいなかったのさ。

 

★鄭杜煕・李[王景][王旬]編著、金文子監訳、小幡倫裕訳『壬辰戦争 16世紀日・朝・中の国際戦争』明石書店、2008

4章 米谷均「朝鮮侵略後における被虜人の本国送還について」より引用(引用開始)

p117 来日した朝鮮使節によって帰還を遂げた被虜人の場合はどうであろうか。例えば一六〇五年に惟政一行と同行した被虜人たちは、釜山到着後、以下のような扱いを受けたという。(中略)p118すなわち、被虜人たちの移送をまかされた水軍兵士たちが、彼らを保護するどころか先を争って捕縛してしまい、身元をはっきりと答えることのできなかった被虜人を、自分の奴婢や妾にしてしまう光景が多々見られたという。(中略)

 一六二四年次使節は、被虜人の李成立と金春福から、「朝鮮は被虜人を刷還しても(帰国後の)待遇は甚だ薄いといいます。捕虜となったのはもともと彼らの意思によるものではございません。すでに刷還しておきながら、どうしてそのように冷遇するのですか(19)」と問い詰められている。また李文長という被虜人は、「朝鮮の法は日本の法に劣り、生活するのに難しく、食べていくのが容易ではない。本国に帰っても少しもいいことはないぞ(20)」と吹聴し、使節の招募活動を妨害したという。

p123朝鮮側が被虜人の刷還に執着したのは、あくまでそれが国家の体面に関わる問題だったためであり、単に被虜人を憐れむがゆえに執着したわけではなかったのである。

p125 (19)姜弘重『東槎録』天啓四年(一六二四)十一月二十三日条

(20)姜弘重『東槎録』天啓四年(一六二四)十一月二十七日条

(引用終了)

 

★あらい‐はくせき〔あらゐ‐〕【新井白石】  デジタル大辞泉の解説

16571725]江戸中期の儒学者・政治家。名は君美(きんみ)木下順庵の高弟6代将軍徳川家宣(いえのぶ)に仕えて幕政に参与し、朝鮮通信使の待遇簡素化、貨幣改鋳などに尽力。著に「藩翰譜」「読史余論」「西洋紀聞」「古史通」「折たく柴の記」など。

 

★朝鮮通信使と雅楽

正徳元年十一月五日(辛卯年、西暦1711/12/14)、江戸城内で朝鮮通信使に雅楽を見せた時の記録。『通航一覧』巻八十二

http://www.geocities.jp/cato1963/singaku-32.html#01

 新井白石 1657-1725

趙泰億 1675-1728(ちょうたいおく 조태억)

…高斉之楽、何以伝播於貴邦耶?【任】」天朝通問於隋唐之日所伝来也【美】」此等楽譜、雖非三代之音、隋唐以後音楽、独伝天下不伝之曲、誠可貴也【趙】」天朝与天為始、天宗与天不墜。天皇即是真天子、非若西土歴朝之君以人継天易姓代立者。是故、礼楽典章、万世一制。若彼三代礼楽、亦有其足徴者。何其隋唐以後之謂之哉【美】」有礼如此、有楽如此、乃不一変至華耶!?【趙】」手之舞之、足之踏之、無不中於其節者。最妙【崔】」奏是曲者、其先高麗人。因以「狛」為姓。其於声楽当代第一、其仮面亦数百年之物也【美】」

☆右の意訳。

 (正使、感心して)これらのメロディーは、三千年前の夏・殷・周の音楽ほどは古くないけど、千年前の隋や唐の音楽でさえとっくに滅んじゃってるから、 世界で唯一日本にだけこんな古い曲が伝わってるなんて、本当に貴重だよね

(白石、自慢げに)わが天朝の起源は、天と同じく古い。代々の天皇陛下の治世も、天と同様に絶えることなく続いてきた。 わが国の天皇こそ、本当の天子さまだ。君たち西の国(中国や朝鮮のこと)の歴代の君主は、しょせんは普通の人間だ。 西の国じゃ、天命を受けて王朝を始めても、せいぜい数百年で次の王朝に取って変わられる。 それに比べ、わが国の天皇家は、なにしろ神話の時代から続く万世一系だからね!  君らの国と違って、古式の礼楽も正しく伝わるのは、あたりまえなのだよ。 いや、隋唐の古い音楽だって、目じゃないのさ。孔子よりも古い、三千年前の古代の正しい音楽のなごりも、わが国には残ってるはずだ。

(朝鮮の正使)そんなに古くて正しい礼や音楽が残ってるなんて、日本くらいじゃね。見なおしちゃったよ。 おめえら日本人が、もうちょっと頑張れば、俺たち朝鮮人と同じ小中華のレベルになれるぞ。

(副使)あの踊り、手や足の動かしかたは、どれもピッタリ決まってるねえ。すばらしい。

(白石)あの俳優は日本人だが、先祖は高麗人なので、「狛」(こま)という姓を名乗っている。今の音楽界ではナンバーワンだ。 彼が使ってる仮面も、数百年前から伝わるアンティークだ。

 

★ 申維翰『海游録』より

http://www.geocities.jp/cato1963/araihakuseki.html#kaiyuuroku

【意訳】私は日本に出発する前、昆侖学士(崔昌大)に序文を書いてくれるよう依頼した。しかし当時、公は病気のため、筆を取れなかった。公は序文を書く代わりに、書架の上から『白石詩草』一巻を取り出して余に示し、次のように、はなむけの言葉をかけてくれた。

「この本は、新井白石の漢詩集だ。辛卯の年の朝鮮通信使が、日本で入手してきたものだ。白石の漢詩は、言葉づかいに卑俗で弱いところも多いが、すぐれた響きもないわけでなく、それなりに手ごわい。君がこれから朝鮮通信使の書記として日本に渡れば、この白石という人物と、漢詩の応酬や外交で、ガンガンやりあうことになる。君の文才があれば、互角に渡り合えるだろう。その点は心配していない。しかし、日本は土地が広い。山や川など自然も美しいと聞いている。きっと日本には、高い才能と広い見識をもつすぐれた人物もいるはずだ。わが朝鮮通信使と直接に会って、漢詩の応酬をする日本人は、日本の全人口のごく一部にすぎない。直接、君と漢詩の応酬はしないものの、間接的に君が書いた漢文や漢詩を入手して、あれこれ辛辣な批判を加えようとする手ごわい日本人が、きっといるはずだ。古代中国の葵丘の盟のとき、斉の桓公に面従腹背する諸侯が出てしまったが、外交では、このような心服しない者が一人、二人でも現れることを恐れるべきである。小さな丘には松柏のような立派な木は生えない、という意味のことわざもあるが、君は、日本は小さな島国だから大人物がいるはずはない、と見くびってはならない。君はわが国の知識人の代表として日本に渡り、千篇、万篇と、すばらしい漢詩を雨や風のようにどんどん量産してくれ。昔、三国志の諸葛孔明は、南方の蛮族の酋長である孟獲を何度も捉えてはまた逃がし、最後にようやく心服させた。しかし君は、孔明のような策をとってはならん。孟獲のような低レベルの、目の前の日本人を心服させることに気を取られ、大局的な使命を見失ってはならない。古代中国の項羽が鉅鹿で見事に戦い、天下の諸侯を畏怖させたように、君も、天下を相手に、わが朝鮮国の漢文のレベルの高さを輝かせてくれ」

 

★高嶋淑郎訳注『日東壮遊歌』東洋文庫662(1999)より

http://www.geocities.jp/cato1963/sentetusoudan.html

「一月二十二日 大坂城」の記述より (前略)人家もまた多く 百万戸ほどもありそうだ/我が国の都城の内は 東から西に至るまで/一里といわれているが 実際は一里に及ばない/富貴な宰相らでも 百間をもつ邸を建てることは御法度/屋根をすべて瓦葺きにしていることに 感心しているのに/大したものよ倭人らは 千間もある邸を建て/中でも富豪の輩は 銅を以って屋根を葺き/黄金をもって家を飾りたてている その奢侈は異常なほどだ/(中略)/北京を見たという訳官が 一行に加わっているが/かの中原[中国]の壮麗さも この地には及ばないという(下略)

 

【まとめ】

 日本史を研究するなら、漢文の史料も原文で読もう。

「日中韓()」のほろ苦い関係は、数百年前からの構造的な問題である。

「友好」は平和ではない。次の戦争までの時間を延ばすための終わりなき戦いである。

 

【宣伝】朝日カルチャーセンター・新宿教室 加藤徹担当

6月23日より 物と事と時間 文学で楽しむ東洋哲学  2回

6月25日   日本と中国の名前の謎  1回

7月9日より  「史記」刺客列伝を読む  2回

7月23日より 反乱者たちの中国史  3回

 

以上