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漢民族の歴史と現在

早稲田大学エクステンションセンター 中野校 講座 ジャンル 世界を知る
最初の公開2018-7-10 最新の更新2018-7-31

火曜 13:00〜14:30 全4回 2018/07/10, 07/17, 07/24, 07/31

★目標
・歴史の真実を知る面白さを学ぶ。
・現代と近未来の問題を歴史をヒントに考える。
・今も昔も変わらぬ中国社会の特徴を理解することで、日本社会への教訓を得る。
参考ビデオ

★講義概要
 地球人類の人口の2割をしめる漢民族は、歴史も古く、生活欲に満ちたパワフルな民族集団です。その反面、漢民族とは何なのか、世界も、「漢民族」を自称する人々自身もよくわかっていない面があります。そもそもなぜ「漢」民族か?「漢」の語源は?歴代の漢民族系王朝から見る漢民族の特長と弱点とは?漢民族の起源は本当にそんなに古いのか?映像資料も使いつつ、漢民族の歴史と現在をわかりやすく解説します。
★各回の講義予定
  1. 07/10 漢民族はいつ生まれたか…漢民族の本当の「年齢」
    1980年代は「中国四千年」だったのに、いつのまにか「中国五千年」になりました。戦前の日本が神武紀元2600年を祝ったように、今の中国も「夏商周年表プロジェクト」など自国の歴史を古いほうに伸ばすことにやっきになっています。その精神構造の背景を解説するとともに、プロパガンダとは別の、漢民族の本当の「年齢」を考察します。
  2. 07/17 漢民族の本当の名前は…漢の劉邦の勝利から
     紀元前3世紀、楚の項羽と漢の劉邦が戦い、たまたま後者が勝利したので「漢」民族という名前になりました。漢民族という名前の類義語には華夏、諸夏、唐人、華人、中国人などがあります。彼らが「漢民族」という自称を肩をいからせて使うようになるのはアヘン戦争以後です。漢民族の自意識の歴史を解説します。
  3. 07/24 漢民族系王朝の栄光と悲惨…特長と構造的弱点
     中国の歴代王朝を見ると、純粋な「漢民族」が創始した漢民族系王朝より、むしろ非漢民族系王朝のほうが領土も広く、国内統治もうまくいっていたケースが多々見られます。漢民族は、しばしば自分たちの人口の1パーセントていどの少数民族に征服されました。宋や明などの漢民族系王朝はなぜ少数民族に敗れ去ったのか。漢民族系王朝の特長と構造的弱点を解説します。
  4. 07/31 世界史の中の漢民族…漢民族はどこに向かう
     現代の世界では民族という概念自体がゆれています。「アーリア民族」という概念は否定されましたが、「漢民族」という概念は21世紀の中国ではむしろ強化されています。漢民族と呼ばれる人々自身は、どう考えているのか。漢民族はどこに向かうのか。日本民族など世界の他の民族と比較しながら解説します。
★参考図書 加藤徹『貝と羊の中国人』(新潮新書)(ISBN:978-4106101694)
★第一回 07/10 漢民族はいつ生まれたか…漢民族の本当の「年齢」
〇そもそも民族とは何か?
「民族」という概念は、実はあやふやである。
 人為選択的集団としてのnation(ネーション)。
 自然選択的集団としてのethnic groupe(エスニック・グループ)。
 「国家」「民族」という概念は、西洋では、ナポレオン時代の前と後では大きく変化した。
 東洋でも、「民族」という漢語は古くから存在した。しかし、近代西洋(ナポレオン時代以後の西洋)の概念の翻訳としての新漢語「民族」は、明治時代以降に広まった新しい概念である。
〇現代中国語では、漢民族を「漢族」と呼ぶ。
〇中華人民共和国(以下「中国」)の法律では、中国の民族を56集団と定めている。中国人にとって、自分の民族は、日常生活と密着した法律上の概念である。
〇中国では20世紀の末から、満16歳以上の公民は「居民身分証カード」の携帯を義務づけられている。本人の顔時写真のほか、姓名、性別、民族、出生年月日、住所、有効期限、発行機関名、公民身分番号(二歩本のマイナンバーに相当)が記録されている。
〇居民身分証の「民族」は自分で勝手に選べない。例えば、日本人がもし中国に帰化すると、特段の理由がない限り、自動的に「漢族」に分類される。「俺は大和民族だ」と主張しても、中国の法律では「中華民族」として「漢族と、55の『少数民族』」しか認めていないため、身分証に「大和民族」と記載することはできない。
〇中国の法律では、違う民族どうしのあいだに生まれた子は、父か母の民族のどちらかを選択できる(実際は親が決める)。そのため、民族的な「血の濃さ」と法律上の民族は一致しないのが普通である。
 例えば、次のようなケース。漢族とA族のあいだの子(F1)が、漢族を選択する。その子が成長してA族と結婚し、子ども(F2)が生まれ、その子がやはり漢族を選択する。「漢族の血の濃さ」から見ると、F1は1/2、F2は1/4だが、法律的には「純粋な」漢族と区別されない。
 このようなケースは過去、数千年間、普通に繰り返されてきた。例えば、清朝の歴代皇帝は、日本では「満洲人」と認識されることが多いが、DNA的に見ると「漢軍八旗」などを通して漢族の血が濃厚に入っている。

漢民族はいつ生まれたか?
〇漢民族の「誕生日」は特定できない。
新石器時代説(約1万年前)
黄帝説(約5千年前)
殷周融合説(約3千年前)
漢の劉邦説(約2千2百年前)
清末ナショナリズム説(約120年前)
などがある。
〇黄河文明(石器時代から青銅器時代まで)をになった「華夏族」は、漢族(以下「漢民族」)の中核的な先祖。
〇神話・伝説では、漢民族の祖は、「三皇五帝」の一人で、今から約4千5百年前の人物とされる「黄帝」である。黄帝についての伝承は異説が多く、実在したかどうかもわからない。また、20世紀前半までは黄帝は漢民族の祖先のシンボルだったが、現在では非漢民族以外の少数民族も含む全ての「中華民族」の共通祖先とされる。
cf.中華人民共和国の国歌「義勇軍進行曲」の歌詞
(拙訳)立て、奴隷になりたくない人々よ。われらの血と肉で、われらの新しい長城を築こう。中華民族が最も危険に瀕したいま、めいめいが最後の雄叫びを迫られている。立て、立て、立て。われら万衆一心、敵の砲火をものともせずに進め。進め。進め、め。
参考 https://www.youtube.com/watch?v=ji4M8OHIqO8
〇中華民族発祥の地は?
 伝説上は約5千年前の「涿鹿」。
cf.「重要な中華民族始祖の発祥地:河北省涿鹿県」発信時間: 2011-07-04 | チャイナネット
 黄帝を祀る陵墓「黄帝陵」がある中華人民共和国陝西省延安市黄陵県を、中華民族発祥の地と見なす説もある。
〇中国の歴史学界では、考古学的知見と伝世史料をもとに「夏王朝」(紀元前1900年頃 から前1600年頃)を中国最古の王朝と見なすが、日本も含む国外の学界では、出土史料で実在を確認できる最古の王朝は「殷王朝」(商王朝)であると見なす。
 殷王朝後期(前14世紀頃から前11世紀頃)の遺跡「殷墟」(河南省安陽市)から出土した「甲骨文」に記録された言語は、現代中国語(中国語では「現代漢語」)に直接つながる言語である。
〇「殷」は、司馬遷の『史記』など後世の呼称で、殷人自身はみずからの王朝を「商」と呼んでいた。現代中国でも「商」と呼ぶほうが普通。
 紀元前11世紀頃、商人の国は、西の周人の勢力(姫姜連合)によって滅ぼされた。東方系の商と、西方系の周(それまですでに商の影響を長年、受けていた)が融合して、漢民族が形成された。
 大和民族の起源が「縄文人と弥生人の融合」ないし「神武東遷」、アングロ・サクソン(アングリアのサクソン人)の起源が西遷と現地人との混血、とされるのと似ている(拙著『貝と羊の中国人』)。
〇漢民族の文化の聖人である孔子(前552?から前479)は、古代の周人の文化や価値観を理想としたが、血統的には殷人の子孫であると自覚していた(司馬遷『史記』)
〇楚漢戦争(前206から前202)で、漢の劉邦が楚の項羽に勝利し「漢王朝」を開いた。「漢民族」という呼称の起源は、この時代からあである。
〇岡田英弘氏(1931-2017)は、漢民族の人口は三国志の時代に激減し、事実上、古代の漢民族はこの時代に滅亡したという主旨の見解を披露した。が、学界の主流の説とはなっていない。
〇漢民族優位の意識は、前近代においても散見された。春秋時代の「尊王攘夷」や、『論語』八佾第三の孔子の言葉「夷狄之有君、不如諸夏之亡也」、南北朝時代の「夷夏論」、等々。ただし、近代的な意味での「ナショナリズム」は、19世紀末、清朝末期の魯迅らの時代に始まる。  
★第二回 07/17 漢民族の本当の名前は…漢の劉邦の勝利から

〇中国の王朝名
封地名系・・・開祖の最初の「封地」の地名を全国的に拡大して、王朝名として使用する。
追随系・・・過去の偉大な王朝の後継者であることをアピールする。「後漢」「後唐」「後周」など。
理念系・・・元、明、清。
【受験勉強用の替え歌】
殷、周、東周、春秋戦国(アルプス一万尺)
秦、前漢、新、後漢(こやりのうえで)
魏、蜀、呉、西晋、東晋(アルペン踊りを)
宋、斉、梁、陳、隋(さあ踊りましょ)
五胡十六、北魏、東魏(らんららんらん)
西魏、北斉、北周(らんらんらんらん)
隋、唐、五代十国(らんららんらん)
宋、金、南宋、元、明、清(らんらんらんらんらん)
〇「中国」の代名詞的に使われる王朝名はごく一部
秦・・・訓読みは「はた」。日本の「秦氏」(はたうじ)は、秦の始皇帝の末裔で、秦韓(辰韓)経由で日本に渡来したとされる。秦はChinaの語源とも言われる。
漢・・・訓読みは「あや」。日本の「漢氏」(あやうじ)は後漢の霊帝の子孫と称する阿知使主を開祖とする。
唐・・・訓読みは「から」(語源は古代朝鮮半島南部の小国群の総称「伽羅」から)。
契丹・・・北宋時代のモンゴル系の征服王朝「遼」を建国した民族の名前。英語Cathayの語源。

〇地名「漢」について。
 本来は、長江に合流する川の名前。「漢水」「漢江」。「漢」は「(乾期には)水が無い川」が原義という説がある。天の川のことを「天漢」「銀漢」と呼ぶのも、星の川は水がないから。
 水源は、陝西省漢中市(島根県出雲市と姉妹都市。トキやパンダでも有名)の山。
 漢中盆地の一帯の地名も「漢」と呼んだ。
 秦の滅亡後、楚の項羽は、劉邦を漢中盆地に封じた。劉邦が「漢」に居住した時期は短かったが、彼の勢力は「漢」と称した。「楚漢戦争」で劉邦が勝利して皇帝に即位すると、封地の地名をそのまま王朝名として「漢」と称した。
 劉邦の「漢」は後世、レトロニム(再命名)によって「前漢」ないし「西漢」と呼ばれる。
参考内部リンク [京劇「覇王別姫」を楽しむための講座] [湖北省京劇院 来日公演 「項羽と劉邦 覇王別姫」]
〇民族名の「漢」について
 漢の時代に中国軍と戦った北方民族(匈奴など)は、漢王朝の兵士を指して「漢」と呼び、それが中国に逆輸入され、ナイスガイやタフガイを「漢」と呼ぶようになった。「好漢」「熱血漢」などの「漢」はこの意味である。
 また「漢人」は本来、漢王朝の支配下にある人間を指す言葉だったが、漢王朝の滅亡語も、漢民族を指す言葉として使われるようになった。
cf.「痴漢」は本来「馬鹿な男」の意味で、中国の正史『北史』裴謁之伝にも出てくる(北朝の北斉の初代皇帝・文宣帝が、直言した臣下・裴謁之を処刑するときに罵る言葉)。「痴漢」「悪漢」などの言葉は、漢民族と北方民族の力関係が逆転した五胡十六国時代から南北朝時代に生まれたとも言われる。

(以下、続く)。
★第三回 07/24 漢民族系王朝の栄光と悲惨…特長と構造的弱点

「中華思想」・・・日本人などが使う語。中華人民共和国の学界では使うことを避けている。
「華夷秩序」・・・中国の学界での用語。少数民族の民族感情を刺激しないよう配慮した用語。

古代中国の世界観
 世界文明の中心・・・中原、中国、上国の「華夏」「諸夏」
 世界文明の周辺・・・東夷、南蛮、西戎、北狄
 上記の地域分類は観念的で「言葉の綾」の部分も多い。

『論語』八佾第三の孔子の言葉「夷狄之有君、不如諸夏之亡也」。解釈には二つの説がある。
(孔子は夷狄を見下したという説)夷狄(いてき)の君有(きみあ)るは、諸夏(しょか)の亡きに如(し)かざるなり=君主がいる夷狄の国と、君主が不在の中国の文明国をくらべると、やはり後者のほうがまさっている。
(孔子は今の中国は夷狄にすら及ばぬと嘆いたとする説)夷狄にも之れ君有り。諸夏の亡(な)きが如くならず。=夷狄にさえ君主がいる。君主がないに等しい下克上のわが中国の諸国とは、違う。夷狄のほうがましなくらいだ。


漢民族と周辺民族の勢力逆転の主な歴史。★は、特に大きな事件。
  1. 前8世紀 周の東遷。申侯(漢民族)が異民族「犬戎」軍と連合して、周の幽王(前781年-前771年)に反乱を起こした。東周時代(春秋戦国時代)の乱世の幕開け。井上靖の短編小説『褒姒の笑い』参照
  2. 前7世紀 尊王攘夷。語の初出は『春秋公羊伝』。斉の桓公(前685年-前643年)は「尊王攘夷」すなわち周の王室を助けて異民族から「中国」を守ることを標榜し、天下の覇者となった。
     『論語』憲問第十四に載せる孔子の言葉。「微管仲、吾其被髪左衽矣。」管仲(かんちゅう)微(な)かりせば、吾(われ)其(そ)れ被髪(ひはつ)左衽(さじん)せん。=もし(斉の桓公を支えた名政治家の)管仲がいなかったら、中国は野蛮人によって征服され、わたしも野蛮人の髪型と服装をさせられていたろう。
  3. ★前307年 趙の武霊王の「胡服騎射」。「胡」は中国の北や西の異民族を指す。
  4. 前200年 白登山の戦い。漢の高祖劉邦が、匈奴の大軍に包囲される。
  5. ★304年 五胡十六国時代の開始。五胡は匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つの異民族を指す。その後の南北朝時代の「北朝」の諸帝はもちろん、隋の皇帝であった楊氏、唐の皇帝なども「北族」の系統であったという説がある。
  6. 755年、唐の玄宗皇帝の時代に「安史の乱」が勃発。乱の中心人物達は突厥系・ソグド系であり、唐は回鶻(ウイグル)の援軍を得て8年後に乱をようやく鎮圧した。
  7. ★916年、契丹人が、史上初の「征服王朝」である遼を建国(当初の国号は「大契丹国」)。あとに続く征服王朝は金、元、清である。
  8. 1126年、靖康の変。征服王朝である金は、北宋の首都を攻略し、皇帝の徽宗・欽宗はじめ数千人を北方に連行した。「北族」の征服王朝が中原を支配した最初の例。
  9. 1279年、崖山の戦い。元(モンゴル帝国)が南宋を滅ぼす。「北族」の征服が中国最南端まで支配した最初の例。
  10. 15世紀から16世紀にかけて「北虜南倭」が明王朝を悩ませる。
  11. ★1644年、明の滅亡と「清の入関」。「華夷変態」(語源は日本で1732年に編纂された同名書籍)
  12. ★1840年、アヘン戦争勃発。「屈辱の百年」の始まり。
  13. 1894年、日清戦争勃発。
  14. 1912年、中華民国の建国。孫文ら革命派は、従来の「滅満興漢」から、五族共和(漢族、満州族、モンゴル族、回族、チベット族)に路線を変更。
     なお、満洲国の「五族協和」(日本人、漢人、朝鮮人、満洲人、蒙古人の五族)との違いに注意。
 漢族の本来の勢力圏である「中原」は、当初は狭い範囲であった。春秋時代の諸国のうち、南方の楚や呉、越は「中国」ではなかった。
 漢族の勢力圏は、ふくらんだりちぢんだりを繰り返す風船のように変化したつつ、時代がくだるにつれて拡大して行った。
 漢族の周辺民族のうち、北方系遊牧民族(北族)は軍事的に強大で、しばしば漢族を支配した。
 中国の領域は、唐、元、清など北族色が強い時代に大いに拡大した。現代の中華人民共和国の領土が比較的広大である理由は、征服王朝であった清末の領土を(外モンゴル等を除いて)継承しているからである。
 漢族は、周囲の異民族との混血を繰り返してきた。また漢族の文明は周囲の「夷狄」に影響を与えてきたが、逆に周囲の「夷狄」も漢族に影響を与えてきた。

日本漢語と「精日」
   「中華人民共和国」という国名のうち、「人民」「共和国」は近代の日本人が考案した新漢語(日本漢語)である。「人民」「共和」という漢語自体は昔の中国にもあったが、peopleの意味で「蒼生」「百姓」でもなく「人民」という漢語を選んで当てたのも、republicの意味に「共和」という当てたのも、日本のほうが中国よりも先であると言われる。同様に「社会」「共産主義」「共産党」などの単語も、日本と中国では同じ漢字を使っているが(ただし字体と発音は違う)、近代日本語から中国に輸出された日本漢語である。
 また近年、中国では若い世代に「精日」(精神的日本人)が増えていることが問題視されている。参考記事【「精日(精神的日本人)」が急増中…中国若者の日本愛はここまで深い 「艦これ」で日本に惚れました 古畑康雄 2018.4.11】(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55184?page=2)

★第四回 07/31 世界史の中の漢民族…漢民族はどこに向かう
キーワード ネイション エトノス エートス(エトス)

日本人と中国人の人口比
〇日本の人口は中国の約1割
例 奈良時代
 755年(玄宗皇帝、天宝14年)の戸籍登録人口は5291万9309人
 750年(日本は天平勝宝2年)の日本の推定人口は560万人(Biraben 1993,2005年)
〇昭和初期は日本の人口が中国の3割まで増える。
 中華民国の人口は1936年の調査では4億7124万6千人。海外在住の華僑や台湾の人口は含まない。
 大日本帝国の人口は1940年の国勢調査で1億522万6202人(内地7311万4308人、台湾587万2084人、樺太41万4891人、朝鮮2432万6327人、関東州136万7334人、南洋諸島13万1258人)。満洲国の人口(1940年10月1日で4108万907人とされる)は含まない。
 大日本帝国(内地+植民地)+満洲国の人口は、中華民国の総人口の約3割であった。
〇近い将来、日本の人口は中国の十数分の一にまで激減する見込み
2017年に生まれた子どもの数(出生数)
日本は94万6060人
中国は1758万人
 2017年に生まれた日本人は、自分たちより18倍も多い中国人と競争して生きてゆかねばならない。

「民族」の両義性
 現代の日本人や中国人が使う「民族」は、ナポレオン戦争後の西欧で広まったネイションの概念と、本来のエトノスの意味の両方が混淆している。
 昭和期の日本語でいえば、同じ「オクニ」という単語に、「御国のために」という時の「御国」(おくに/みくに。国家)の意味と、日本人どうしで「お国はどちらですか?」と言うときの郷国(きょうこく。出身地域)の意味の両方があった状況と似ている。

〇ネイション(nation)=民族、国民、国民国家、種族・・・ cf.ナショナリズム
〇エスニック・グループ(ethnic group)=民族、エスニック集団、「族群」・・・。術語ではギリシャ語由来の単語「エトノス」(ethnos)を使うことも。

 近代化とは、エトノスのネイション化である。西欧ではナポレオン戦争から、日本では幕末維新期から、中国ではアヘン戦争から第二次世界大戦にかけての「屈辱の百年」から、エトノスのネイション化が進んだ。昭和期までは「国語、国民、国軍」の三点セットをもつことが近代化だと世界的に信じられており、「民族」という言葉もその文脈で使われることが多かった。
 しかし21世紀の今日、日本を含む先進国では、過度のネイション化に対する反省が進んでいる。いっぽう、後発の中国や朝鮮半島では、今もネイション化(ナショナリズム。愛国主義とも訳す)が熱いままである。
 中国の場合、中央政府が中央集権的な「漢族ナショナリズム」を進めると、その照り返し的影響でチベット、ウイグル、モンゴル等の分離独立的ナショナリズムも燃え上がってしまう、という構造的な矛盾がある。例えば、テレビのいわゆる「抗日ドラマ」を見る視聴者の反応も、実は、同じ中国人でもエトノスによって大きく異なる可能性がある。
 21世紀の漢民族はどこに向かうか。日本人は、漢民族とどうつきあうべきか。それを考えるためには、ネイションとしての「人為的漢民族」と、エトノスとしての「自然的漢民族」を区別したうえで、漢民族のエートス(ethos 思考や行動の習慣的特徴)を把握しておく必要がある。
 簡単に言い換えると、全体的な「中華人民共和国のお国柄」と、個別的な「李さん(王さんでも張さんでも陳さんでも可)の出身地の郷国柄(くにがら)」の両方をわきまえるのが、中国人とつきあうコツである。

 エートスは、形式知(explict knowledge)よりも暗黙知(tacit knowledge)の部分が大きい。美意識、倫理観、趣味嗜好、など。
参考 特別講演「学問のネタは日常のなかにある」http://www.geocities.jp/cato1963/20160521.html

中国的思考法の特徴(「特長」に非ず)
〇人間主義(商業、政治、歴史文学、…) ←集約農業、人口稠密
〇枠組主義(華夷序列思想、五行思想、漢字への固執、…) ←中国文明の孤高性、「競合的協力者」の欠如
〇直感主義(中国哲学の思想化傾向、座禅、看経、…) ←孤立語、漢字、儒教の非布教主義

中国人とのつきあいかた(一例)
(1)ホンネとタテマエを一致させた「大義名分」。cf. 「?」 > 愛国心 > 共産党
(2)現場中心の「浸透戦術」。cf.「電撃戦」「人海戦術」「包囲攻略戦」
(3)顔の見える「拙誠」の物語。cf.「英雄」と「ヒーロー」の違い

参考 「中国を理解するために」 ビジネスマンとして知っておくべき基本知識 http://www.geocities.jp/cato1963/20160708.html
参考 中国人の人間関係学〜中国人の本音と価値観〜 http://www.geocities.jp/cato1963/20150116.html

 日本人と漢民族の、文化的・倫理的な「共通祖先」の活用法。
参考 共通祖先を探せ http://www.geocities.jp/cato1963/20140308.html
【宣伝】
〇テレビ番組 NHK BSプレミアム 偉人たちの健康診断「西太后 悲しき悪女のアンチエイジング」
2018年8月22日水曜 午後8時00分〜 午後9時00分 放送
【出演】関根勤 カンニング竹山 かたせ梨乃 【司会】渡邊あゆみアナウンサー
http://www4.nhk.or.jp/ijin-kenko/x/2018-08-22/10/66052/1800029/
〇早稲田EXT中野校 講座 コード330314
「日本と中国の伝統演劇 東洋人の人間観と芸術の根源」 講師 加藤徹
全4回 10/09, 10/16, 10/23, 10/30  火曜日 13:00〜14:30
目標
・卑近な日常の事例から出発して真理を発見する「下学上達」の学問の面白さを満喫する。
・自分は伝統とは無縁だと思っている現代人の思考や行動も、実は伝統に縛られていることに気づく。
・外国と比較することで、日本人と日本文化の本当の姿を認識する。
詳細はhttps://www.wuext.waseda.jp/course/detail/43620/をどうぞ。

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