夏姫(前600年前後) 衰えぬ美貌で多くの君臣と関係した美魔女
夏姫は前7世紀後半から前6世紀前半にかけて波乱の人生を送った女性です。春秋時代は、日本の戦国時代に似た乱世でした。彼女は、小国ながら中原の先進国である鄭の穆公(ぼくこう)の娘として生まれました。その美貌と血筋ゆえ、乱世の中、次々と男性と結婚ないし親密な関係を結びました。彼女と関係をもった男たちは破滅し、それぞれの国は傾いたと伝えられます。古代中国の伝説の美魔女について、わかりやすく解説します。
『株林野史』は清代に成立した全6巻16回の白話長篇艶情小説で、何度も禁書に指定されたことがある問題作。
春秋時代の鄭の国の姫であり、絶世の美女として知られた夏姫の数奇で奔放な生涯を中心に、貴族たちの愛欲と権力闘争を描く。
夏姫はまだ処女だったとき、夢の中で仙人と情交した。仙人は、
「私は花月という。終南山で千五百年修行して仙人となり、道号を普化真人という。私は男女の交わりを楽しんでも精気を失うことはない。 また、人と交わって精気を導き、互いに歓びを尽くす術や、男の陽気を採って女の陰気を補い、若さを保つ『素女採戦の法』を修めている。今日はその法をあなたに授けよう。」 と言い、不老をもたらす「房中術(仙道などに由来する性愛術)」を伝授した。 夏姫は陳の国の大夫・夏御叔(かぎょしゅく)に嫁いだ。御叔の死後、夏姫はその比類ない美貌と房中術によって、陳の君主である陳霊公や、大夫の孔寧・儀行父ら権力者たちと次々に関係を結ぶ。 こうした君臣の度重なる乱倫の振る舞いに激怒した息子の夏徴舒(か ちょうじょ)は、ついに陳霊公を殺害する。 この事件を契機として、物語は楚の国を巻き込む政治劇へと発展し、さらに夏姫をめぐる愛欲と権力をめぐる新たなドラマが展開する。
後半では、神仏の裁きや転生といった要素も加わり、登場人物たちに訪れる因果応報の結末が描かれる。
卿・大夫・士(けい・たいふ・し)
周王や諸侯の臣下を卿・大夫・士といい,その下の庶人と区別された。『礼記』(らいき)によれば,天子(周王)には三公,九卿,二七大夫,八一元士が並び,諸侯には上大夫卿,下大夫,上士,中士,下士の5等があった。諸侯には公,侯,伯,子,男の5等があったが,戦国時代以降は庶民にも爵が与えられて20等爵にふえた。公士,大夫などの名称が残り,士大夫も有職者のことをいう。
かきしゅんじゅう〔カキシユンジウ〕【夏姫春秋】
宮城谷昌光の歴史小説。中国の春秋時代の美女、夏姫をモデルとした作品。平成3年(1991)刊行。同年、第105回直木賞受賞。
|
春秋五覇のひとりである楚の荘王(在位前614年 - 前591年)が、鄭にスッポンを贈ってきた。 霊公は、スッポン料理を家臣たちにふるまうことにした。 公子である子家と子公も宴に招かれた。宴会場にむかう道々、子公の指のうち一本がビクビクとふるえた。彼は「この指が動くのは、珍味にありつけるきざしだ」と言った。はたして、宴会場では、スッポンのごちそうがあったので、二人は顔を見合わせて笑った。 霊公は、二人が笑った理由を問いただすと、意地悪をして、子公にのみスッポン料理を出さなかった。子公は怒り、スッポンの鍋に指を突っ込んでペロリとなめて、退出した。(霊公は親楚路線、子公は親晋路線で、外交政策の対立もあり二人の仲はもともと悪かったともいう) 霊公は、子公の無礼に怒り、彼を討伐しようとした。子公は子家を誘って挙兵し、霊公を殺した。 |
|
『春秋左氏伝』(左伝)成公二年の条 楚之討陳夏氏也、莊王欲納夏姫。申公巫臣曰 「不可。君召諸侯、以討罪也。今納夏姫,貪其色也。貪色為淫、淫為大罰。周書曰『明コ慎罰』。文王所以造周也。明コ、務崇之之謂也。慎罰、務去之之謂也。若興諸侯以取大罰、非慎之也。君其図之」。王乃止。 子反欲取之。巫臣曰「是不祥人也。是夭子蛮、殺御叔、弑靈侯、戮夏南、出孔・儀、陳國,何不祥如是? 人生實難、其有不獲死乎? 天下多美婦人、何必是?」子反乃止。 王以予連尹襄老。襄老死于邲,不獲其尸。 其子K要烝焉。 |
呂后(前241年−前180年)夫と息子のために鬼になった残虐な皇后
呂后は、中国史の「三大悪女」に数えられる、史上初の皇后です。金持ちの令嬢として生まれましたが、性格は男まさりでした。父親の命令で、農民出身の田舎の顔役である劉邦に嫁ぎました。その後は、いわば「劉邦組」のあねごとして、夫の天下取りを助けました。夫が前漢の初代皇帝となると、彼女は皇后となり、功臣の謀殺や粛清に辣腕をふるいました。夫の死後は、息子の恵帝を支え、最高権力者として天下に君臨しました。夫が生前に愛した戚姫の息子を殺し、戚姫の手足を切断して生きたままトイレに落とすなど、残酷な所業も伝わります。後世、残虐な悪女という批判と、同情論の両方に分かれる人物です。
りょ‐こう【呂后】
[ 一 ] 中国前漢の高祖(劉邦)の皇后。二代恵帝の生母。 高祖を補佐して秦末漢初の国難を処理したが、高祖の死後、実権を掌握して劉氏一族を圧迫したために、その死後呂氏の乱を招いた。紀元前一八〇年没。
[ 二 ] 謡曲。呂后に、韓信・彭越(ほうえつ)や戚夫人の怨霊がとりつき、病気が重くなる。文帝は剣を抜き、これらの怨霊と戦い退散させる。廃曲。
呂后 (りょこう) Lǚ hòu 生没年:?-前180
中国,前漢の高祖劉邦の皇后呂雉(りよち)。もと山陽単父(ぜんほ)(現,山東省単県)の出身。恵帝と魯元公主の生母。 人となりは剛毅で,劉邦の覇業をよく助け,とくに韓信,彭越,黥布など異姓の諸侯王の謀殺に辣腕を振るった。 のち高祖は戚(せき)姫を寵愛し,戚姫の生んだ趙王如意を太子に立てようとしたが,呂后の画策により実現しなかった。 高祖の死後,生子の恵帝が即位し,みずからは皇太后となり,恵帝の姉魯元公主の女を皇后とした。 これ以後,16年にわたって漢朝の実権を掌握した。趙王を毒殺し,戚姫に対しては残忍な仕打ちをおこなった。手足を切断し,眼をえぐり取り,聾啞にして,厠中に捨てた。便所にはブタを飼うのにちなんで人彘(じんてい)と号した。 これを見た恵帝は発病し,淫楽にふけって朝政を顧みなくなった。 前188年即位後7年で恵帝が崩ずると,皇后に子がなかったので後宮の美人(女官)の子を取って3代皇帝(少帝恭)となし,幼少の少帝に代わって臨朝して万事を裁決した。 兄の子の呂台と呂産に南軍と北軍とを率いさせ,呂台,呂産など四人を諸侯王に封建した。 少帝恭が成長して皇后の実子でないことを知ると,これを宮中の永巷に幽閉し,代わって恒山王を4代皇帝(少帝弘)とした。 呂太后の死後,高祖の遺臣周勃,陳平と劉章など劉氏一族が結束して呂氏を族誅し,代王を迎えて文帝とした。
執筆者:上田 早苗
|
至陽城、番須中,逢大雪,坑谷皆滿,士多凍死,乃復還,發掘諸陵,取其寶貨,遂汙辱呂后屍。凡賊所發,有玉匣殮者率皆如生,
〈《漢儀注》曰「自腰以下,以玉爲札,長尺,廣一寸半,爲匣,下至足,綴以黄金縷,謂之爲玉匣」也。〉故赤眉得多行婬穢。
至陽城、番須中において、大雪に遭い、谷や坑(くぼ地)はすべて雪で満たされ、兵士たちは多くが凍死した。そこで軍は引き返し、諸陵(皇族の陵墓)を発掘し、その財宝を奪った。 そして呂后の遺体を汚辱した。 賊が発掘した中には、玉の匣(ひつぎ)で?(せん:死体をおさめる)されていたものがあり、そうした遺体はたいてい生前と変わらぬ様子であった。 〈『漢儀注』にはこうある:「腰から下を玉で作った札(たてふだ)で覆い、それは長さ一尺、幅一寸半のもので匣を作り、足元まで覆い、金の糸で綴っていた。これを玉匣と呼ぶ」〉 このため赤眉軍は、数多くの陵墓で淫らな行為を行うことができたのであった。 |
|
母后(呂后)が政務を執るようになると、その嫉妬と害意を存分に振るったため、世間の人々は彼女を武則天と並べて語った。しかし、これは公平な評価とは言えない。 武則天は年号を改めて新たな王朝を起こし、一族の武氏をことごとく王に封じ、唐の皇子たちをほぼ皆殺しにし、さらには自分の子孫さえ数人を殺して、淫らな欲望をほしいままにした。その悪事は、古今未曾有のものであった。 一方、呂后は高祖(劉邦)が危篤の際、蕭何に「後継者は誰が適任か」と問い、国家の安定を第一に考えていたことがわかる。孝恵帝が即位した後は、呂后が政務を執ったが、起用したのは曹参・王陵・陳平・周勃ら、いずれも高祖が国家の安定を託した人物ばかりである。これは、孝恵帝が帝位を守れないことを恐れてのことであり、武則天のように嫉妬から太子・弘や太子・賢を殺したのとはまったく異なる。 呂后が産んだ子は孝恵帝と魯元公主だけであり、その他はすべて側室の子であった。もし孝恵帝が長生きしていたならば、彼とともに政治を考え、長期の治世を図っていたであろう。高祖が太子を廃そうとしたとき、呂后は張良に策を求め、周昌が諫めたときには跪いて感謝したという話からも、母子の絆がいかなるものであったかがわかる。 孝恵帝が崩じた後、呂后は後宮の子を立てて帝位につけたが、これも恨みから廃位した。そして、呂后自身の子孫がいなくなると、側室の子が権勢を握って呂氏をないがしろにするよりは、呂氏の勢力を先に固めておくほうが良いと考えたのである。だから、孝恵帝の生前には呂氏を王に封じることはなく、それは彼の死後に行われた。これは呂后の私情と近視眼的な判断であった。 そもそも嫉妬は女性にありがちな感情である。ただ、呂后が最も嫉妬したのは戚夫人とその子である。それは、戚夫人がかつて寵愛を受け、太子の地位を奪いかけたためであり、高祖の死後、すぐに彼女らを殺した。 それ以外の側室の子については、たとえば文帝(劉恒)は代に封じられた際、母の薄太后をともに行かせているし、淮南王の劉長は母がいなかったため呂后に依って立ち、最後まで無事であった。斉悼恵王は孝恵帝の異母兄で呂后の機嫌を損ねたため毒殺されそうになったが、城陽郡を魯元公主の封地として献上すると、再び呂后は彼を元通りに遇した。彼の子の朱虚侯・劉章が宴に参加し、軍法で酒を注ぐ役を自ら願い出て、呂氏の者で酒を逃れた者を一人斬っても、呂后は罪を問わなかった。 趙王劉友が幽閉されて死に、梁王劉恢が自殺したのは、妃が呂氏と不仲だったためである。ただし、趙王の妃も呂産の娘、梁王の妃も呂氏の娘であった。また、少帝の皇后や朱虚侯の妻も呂祿の娘である。呂氏の娘たちは他家に嫁がせることなく、必ず劉氏の男子に嫁がせていたことからも、呂后が劉氏と呂氏の親密を願っていたことが分かる。 これに比べ、武則天は周を建てて唐を滅ぼした。両者の違いはまさに天地の開きがある。 呂后が辟陽侯(寵臣)を左丞相として宮中を監督させたのも、彼がかつて項羽の軍中で呂后と苦難を共にしたためである。多少の私情はあったが、当時すでに老齢であり、家の古い召使のようなもので、後宮で女性たちの世話をさせる程度の存在で、なお親しくしていたというわけではない。 『史記』の劉澤伝には「太后は張子卿を寵愛していた」とあるが、『漢書』では「張卿」とされ、如淳の注には「宦官である」と記されている。したがって、これも肉体関係のある愛人というわけではない。 これに比べ、武則天が薛懷義や張易之兄弟を寵愛し、恥も知らずにふるまったこととは雲泥の差がある。 武則天のような禍は、後魏の文明皇后・馮氏や胡氏などに多少似た例があるが、それでも世の人が呂后と武則天を並び称するとは、まさに公平な評価とは言えないのである。 |
|
院の思しのたまはせしさまの、なのめならざりしを思し出づるにも、「よろづのこと、ありしにもあらず、変はりゆく世にこそあめれ。
戚夫人の見けむ目のやうにはあらずとも、かならず、人笑へなることは、ありぬべき身にこそあめれ」
など、世の疎ましく、過ぐしがたう思さるれば、背きなむことを思し取るに、
春宮、見たてまつらで面変はりせむこと、あはれに思さるれば、忍びやかにて参りたまへり。
【與謝野晶子訳】 院が自分のためにどれだけ重い御遺言をあそばされたかを考えると何ごとも当代にそれが実行されていないことが思われる。 漢の初期の戚(せき)夫人が呂后(りょこう)に苛(さいな)まれたようなことまではなくても、 必ず世間の嘲笑を負わねばならぬ人に自分はなるに違いないと中宮はお思いになるのである。 これを転機にして尼の生活にはいるのがいちばんよいことであるとお考えになったが、 東宮にお逢いしないままで姿を変えてしまうことはおかわいそうなことであるとお思いになって、目だたぬ形式で御所へおはいりになった。 |
馮太后(442年−490年)中華帝国をデザインした事実上の女帝
南北朝時代は、異民族系の北の王朝と、漢民族系の南の王朝が天下統一をかけてしのぎをけずった乱世でした。北魏の馮太后は、胡太后もしくは文明太后とも呼ばれます。彼女は戦乱の時代に、事実上の女帝として中国の北半分を統治しました。もともとは、鮮卑族の王朝である北魏の第4代文成帝の皇后でした。夫の死後、自殺未遂を図りますが、助けられました。その後は独裁政治を敷き、強力な帝国を作りました。第5代皇帝を毒殺し、寵臣と淫らな関係を結ぶなど醜聞もありましたが、人材を登用し、均田制や租庸調など律令国家の制度を作るなど、後の唐王朝や日本にも多大の影響を残しました。
武則天(624年−705年)東アジアの「女帝の世紀」の到来と終焉
武則天は、中国史上唯一の女帝となりました。2人の皇帝(太宗と高宗の父子)の妻となり、3人の皇帝(義宗、中宗、睿宗)を生んだのは、歴史上、彼女だけです。最初は、唐の第2代皇帝・太宗の側室の一人でした。太宗の死後、第3代高宗の皇后となり、4男2女を生みました。武則天は高宗の死後、皇族や功臣らを滅ぼし、身内を重用し、自ら皇帝となり、唐を滅ぼして周王朝(武周)を打ち立てました。血なまぐさい政治闘争を行う一方、新興の科挙官僚を積極的に登用するなどすぐれた政治も行い、唐の最盛期を準備しました。また武則天と日本には、意外な関係もありました。
西太后(1835年−1908年)想定外の連鎖が生んだ絶対権力者
西太后は、本来なら無名のまま生涯を終えていたはずでした。北京の中堅官僚の娘として普通の家庭に生まれた彼女は、父親の地方への赴任という偶然によって、咸豊帝の後宮に入りました。さらに偶然にも、咸豊帝の唯一の男子を産んだおかげで、咸豊帝の死後、幼帝(同治帝)の生母として実権を握りました。同治帝が子を作らぬまま若死にすると、西太后は自分の甥(光緒帝)を養子として、強引な手段で政権を握り続けました。西太后は、清の衰退と滅亡を決定づけた悪女なのか、それとも嫁として家と国を守ろうとした傑物か。21世紀の今も評価は定まっていません。