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紅雷紋紅雷紋
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 2008.6.1 加藤徹

清楽 資料庫
九連環と「かんかんのう」

2007.3.6 up 最新の更新 2008.5.14

 本頁は、自分の研究(科研。詳しくはこちら)のための備忘録用に資料やメモをアップしているものなので、雑然としております。



九連環  「かんかんのう」の歌詞  長崎・唐館  坂本竜馬と長崎の月琴  萬勝號(万勝号)
楽器  紗窓  茉莉花  銀紐糸  清楽の曲目  おまけ  参考文献・参考サイト

明清楽って、とりあえずこんな音楽です。クリックすると聴けます(^^;;
(下記のうち「かんかんのう」は日本の俗曲で、清楽ではありません)。
曲名編曲(MIDI)編曲(WAVE)←五線譜単旋律(MIDI)←ABC譜詳細
九連環 こちら こちら こちら (1) (2) こちら こちら
かんかんのう こちら こちら こちら
茉莉花 こちら こちら こちら こちら こちら こちら
算命曲 こちら こちら こちら
紗窓 こちら こちら こちら こちら こちら こちら
清平調(傅士然伝) こちら こちらの頁
陽関曲(傅士然伝) こちら こちらの頁
平蕃曲(傅士然伝) こちら こちらの頁
関雎(詩経) こちら こちら こちらの頁
秋風辞(漢の武帝) こちら こちら こちらの頁


江戸時代・鎖国下における中国音楽の日本流入
  1. 文人ルート 例:東皐心越(とうこうしんえつ)の琴楽 杭州→薩摩→水戸→全国
  2. 支配層ルート 例:琉球王朝の御座楽 福建→琉球(那覇)→薩摩~江戸(江戸上り) 
  3. 中層ルート 例:清楽(しんがく) 寧波→長崎→上方~江戸→各地
  4. 下層ルート 例:かんかんのう(唐人踊) 寧波→・・・→長崎→上方~江戸→各地
  5. 漂着ルート 例:漂着船「萬勝號」 寧波→(長崎)→遠州(静岡) 

琉球王国の御座楽(参考:Wikipedia)


清朝時代の中国→江戸・明治期の日本→江戸~昭和の日本
俗曲「九連環」 清楽「九連環」 ○江戸時代の「かんかんのう」・唐人踊 cf.落語「らくだ」死人(しびと)のかんかん踊り
 ↓替え歌
○明治時代「ホーカイ節」「さのさ節」「むらさき節」「くれ節」「鴨緑江節」「満州節」「とっちりちん」「梅ケ枝節」
○昭和12年「もしも月給が上ったら」(林伊佐緒、新橋みどり・歌)
○昭和29年「野球拳」

参考 江戸時代の中国語ブーム(3) 中国語のナンセンス・ソング
「かんかんのう」(聴いてみる(MIDI))のメロディー(ABC譜)
X:1
T:kankannoo
M:4/4
L:1/8
K:A
B2 B>A B4 | c>B A>F E2 z2 | F>A F>E F2 z2 | F>A F>E F2-F>A | B2-B>A B4 | B>c A>F E2 z2 |
  歌詞は後述のように様々だが、一例を示す。
かんかんのー、きゅーのれす、きゅーわきゅれんす、さんしょならえー、さーいほー、しーかんさん。




『月琴楽譜』明治十年刊より
看看也。
賜奴的九連環。
九呀九連環。
双手拿来解不開。
拿把刀児割。
割不断了也也呦。

誰人也。
解奴的九連環。
九呀九連環。
奴就与他做夫妻。
他門是个男。
男子漢了也也呦。

以下、略


カン カン エエ
スウ ヌ テ キウ レン クワン
キウ ヤ キウ レン クワン
シャン シュ ナア ライ キャイ ポ カイ
ナア バア タウ ルウ カ
カ ポ ドワン リャウ エエ エエ ユウ

ジュイ ジン エエ
キャイ ヌウ テ キウ レン クワン
キウ ヤ キウ レン クワン
ヌ ジウ イュイ タア ツヲ フウ ツイイ
タア メン ズウ コ ナン
ナン ツウ ハン リャウ エエ エエ ユウ
「カンカンノー」の歌詞
 (落語「らくだ」他)

かんかんのう
きうれん
きゅうはきゅうれん
さんしょならえ さあいほう

にいかんさんいんぴんたい
やめあんろ
めんこんふほうて
しいかんさん
もえもんとわえ
ぴいほう ぴいほう
「九連環」の歌詞


カン カン エエ スウ  テ
キウ レン クワン
キウ ヤ キウ レン クワン
シャン シュ ナア ライ キャイ ポ カイ
ナア バア タウ ルウ カ
カ ポ ドワン リャウ エエ エエ ユウ

「九連環」の楽譜(工尺譜)と歌詞。
工尺譜って何? ABC譜って? → 参考サイト:Wikipediaの「工尺譜」と「ABC記譜法」の項。
工尺譜
上上工尺。ドドミレ
工四上尺工上四合々。ミラ,ドレミドラ,ソ,ー
上'上'合四。ド'ド'ソラ
四上'四上'四上'合々。ラド'ラド'ラド'ソー
四上'四上'合々。ラド'ラド'ソー
工々尺工六五六工尺上尺上。ミミレミソラソミレドレド
   (最後の一行はリフレイン)

リズムや絶対音高を補い、ネット上の世界標準である「ABC記譜法」でメロディーを示すと、右のようになる。
参考サイト:ABC言語 - テキストで「楽譜」を表現するための言語
左の工尺譜を「ABC譜」に直したもの

X: 1
T:kyuurenkan(1)
M:2/4
L:1/4
K:D
D D/F/ | E2 | F B,/D/ | E/F/ D/B,/ | A,3/2 z/ |
d d/A/ | B2 | B/d/ B/d/ | B d | A3/2 z/ | B/d/ B/d/ |
A3/2 z/|: z/ F F/| E/F/ A | B/A/ F/E/ | D3/2 E/ |D2 :|
[聴く(MIDI)]
伴奏を弾くときは適宜、装飾音等を追加する。
X: 1
T:kyuurenkan(2)
M:2/4
L:1/8
K:D
D>E FA | E-E/F/ E/F/ E/D/ | F F/D/ B,D | E E/F/ D/E/ D/B,/ | A,>F A/F/ A/B/| d>d dA | B B/d/ F/E/ F/A/ | B d B d | B/B/ A/B/ d/e/ d/B/ | A A,/A,/ AA | BA Bd | A A, A A/A/ |: z F2 D| EF A d/d/ | BA FE| D>D D E |D3 z :|
[聴く(MIDI)]

また、五線譜に直し、コードや装飾音などをアレンジすると、このようになる(
WAVファイルで聴く)。

↑クリックすると拡大します。


九連環の歌詞のさまざまなバージョン(歌詞の1番のみを比較)

日本・清楽
明治10年刊『月琴楽譜』
看看也賜奴的九連環九呀九連環双手拿来解不開拿把刀児割割不断了也也呦備考
楽譜有り
日本『唐舶漂着雑記』 我的吓
感郎的、呀呀呦
呀吓、呀呀呦
看看吓
送奴個九連環九呀九連環双手拿来解不開奴把刀児割割不断了、呀呀呦呦備考
楽譜無し
日本・滝沢馬琴
『著作堂一夕話』
我的吓、
感郎的、呀呀有
呀吓、呀呀有
看看吓
送奴個九連環九吓九連環双手拿来解不開奴把刀児割割不断了、呀呀有有備考
楽譜無し
日本・俗謡
かんかんのう
かんかんのーきうのれすきゅーわきゅれんすさんしょならえーさーいほーしーかんさん備考
楽譜有り
中国・北京
李家瑞編『北平俗曲略』
<乾隆年間『百本張抄本』
奴的[口夜]干郎児、
[口亦]呀児喲、
[口亦][口亦]呀児喲、
情人児喲
送了奴把九連環九哇九連環双双手児解不開拿把刀児割割不断児来[口亦]呀児喲備考
工尺譜有り
中国・浙江省(1)金華市
『中国民間歌曲集成・浙江巻』1993年384頁
親哥哥送奴一根九連環九連環([口阿])十指尖尖解不開拿把刀児割 割也割不動、(呀、[口伊]得児[口阿]・・・[略])備考
数字譜
中国・浙江省(2)麗水市
『中国民間歌曲集成・浙江巻』1993年384-5頁
情哥哥贈把奴九連環九[口伊]九連環([口阿])十指尖尖解不開拿把刀来割 割呀割不断、(呀、呀得児・・・[略])備考
数字譜
中国・浙江省(3)楽清県
『中国民間歌曲集成・浙江巻』1993年385-6頁
到春来又到春上来牡丹花開一朶花児開紫燕成双飛 飛来飛去成双、作対飛。備考
数字譜
中国・福建省
『中国民歌集成・福建巻』1996年1112頁
有情人送奴麽一把九連環九呀九連環([口阿])十指尖尖解不開拿把刀来割 割(也)不断、(呀[口那]呀[口那]呀)備考
数字譜/五線譜
中国・陝西省
歌手:杜錦玉、採録:1961年
『声音博物館』2005年1月刊
情人喲哎哎送奴一个九哇連的環九呀九連環双双手児解不的開拿上把刀児割哎 割呀哎哎、
割呀哎哎、
割呀割不断来麼呀得児咿得月得児月
備考
数字譜有り
江蘇民歌 九連環
 張前『中日音楽交流史』
胡蝶呀 飛来又飛去呀 飛来又飛去呀 飄飄蕩蕩進花園呀 小妹妹上前撲 撲呀撲勿到呀
咿得児呀得児喲哎、
得児喲哎、
得児咿得児呀得児喲哎、
得児喲哎
備考
五線譜有り
 この他、潮劇(地方劇)の九連環(数字譜。歌詞無し)、『月琴新譜』塚原1991(五線譜)、江蘇省無錫『九連環』(「胡蝶飛来又飛去」、楊桂香2002所引五線譜)、江蘇省無錫『九連環』(「情人呀送我九連環」。李白英1928。楊桂香2002所引五線譜)など。


「九連環」の歌詞
原本の旧字体は、常用漢字体に直しました。例:雙→双
異体字の一部は、原本のままにしてあります。例:皷=「鼓」の異体字)
ネット上で表示しにくい一部の漢字は、合成字で表しています。例:[口禁]←噤




 明治10年(1877)刊『月琴楽譜』より

1.看看也。賜奴的九連環。九呀(*1)九連環。双手拿来解不開。拿把刀児割。割不断了也也呦。
カン カン エエ。スウ ヌ テ キウ レン クワン。キウ ヤ キウ レン クワン。シャン シュ ナア ライ キャイ ポ カイ。ナア バア タウ ルウ カ。カ ポ ドワン リャウ エエ エエ ユウ。

2.誰人也。解奴的九連環。九呀九連環。奴就与他做夫妻。他門(*2)是个男。男子漢了也也呦。
ジュイ ジン エエ。キャイ ヌウ テ キウ レン クワン。キウ ヤ キウ レン クワン。ヌ ジウ イュイ タア ツヲ フウ ツイイ。タア メン ズウ コ ナン。ナン ツウ ハン リャウ エエ エエ ユウ。

3.情過河(*3)。在岸的妹住船。妹呀妹住船。雖然与他隔不遠。閉了城門難。難得見了也也呦。
ジン コウ ホウ。ヅアイ ガン テ ムイ ジユイ チヱン。ムイ ヤ ムイ ジユイ チヱン。スイ ジヱン イユイ タア ケ ポ ヱン。ピイ リヤウ ジン メン ナン。ナン テ ケン リヤウ エエ エエ ユウ。

4.変个兮。鳥児的飛上天。飛呀飛上天。[口其][口梨][口古][口盧]落下来。還有一个春。同相会了也也呦。
ペン コ ヒイ。ニヤウ ルウ テ フイ ジヤン テン。フイ ヤ フイ ジヤン テン。ギ リ ク ル ロ ヤア ライ。ワン ユウ イ コ チユン。ドン スャン ホイ リヤウ エエ エエ ユウ。

5.雪花兮。飄下的三尺高。三呀三尺高。飄下一个雪美人。落在懐中把。懐中把了也也呦。
シ フハア ヒイ。ピヤウ ヤア テ サン チヱ カウ。サン ヤ サン チヱ カウ。ピヤウ ヤア イ コ シ マイ ジン。ロ ヅアイ ワイ チヨン バア。ワイ チヨン バア リヤウ エエ エエ ユウ。

6.一更兮。奴的也也呦。也呀也呀呦。二更等你不来了。三更皷児敲。敲不断了也也呦。
イ ケン ヒイ。ヌ テ エエ エエ ユウ。エエ ヤ エエ ヤ ユウ。ルウ ケン テン ニイ ポ ライ リヤウ。サン ケン クウ ルウ キヤウ。キヤウ ポ ドワン リヤウ ユユ(ママ) エエ ユウ。

7.四更兮。金鶏報暁天。報呀報暁天。五更三点(*4)天明了。
 錦繍被。鴛鴦枕。枕辺思。枕辺想。害得奴家相。害得奴家思。
 相思病枕也也呦。
スウ ケン ヒイ。キン ケイ パウ ヒヤウ テン。パウ ヤ パウ ヒヤウ テン。ウウ ケン サン テン テン ミン リヤウ。キン スイ ピイ。ヱン ヤン チン。チン ペン スウ。チン ペン スヤン。ハイ テ ヌ キヤア スヤン。ハイ テ ヌ キヤア スウ。スヤン スウ ピン リヤウ エエ エエ ユウ。

*1:原本の字は[口ト](「口へん」の右横に「卜」の一字)。以下、すべての「呀」の字について同様。
*2:現代中国語では「他們」(彼ら、の意)と書くべきところ。
*3:おそらく「情過河」は、近音の「情哥哥」の間違い。
*4:五点、とする歌詞もある。

歌詞の大意(拙訳)
1.見やしゃんせ、わらわがもろうた九連環(中国の知恵の輪)。九よ、九連環。もろ手でいじれど、解けませぬ。刀で切っても、ええい、切れませぬ。
2.どなたか、わらわの九連環を解いてちょうだいな。九よ、九連環。解けたらその人と夫婦になりましょう。ええい、よき殿方たちよ。
3.いとしいお方は岸にいて、わらわは船にいる。わらわは、わらわは船にいる。ふたりのあいだは遠くはないが、町の大門が閉まれば、ええい、逢い引きもままならぬ。
4.鳥になりたや、空を飛びたや。空を飛び、飛びたや。ピーピーヒョロヒョロと落ちてきて、ええい、ともに春の夜長を楽しみたや。
5.雪ぞふる、三尺もふりつもる。三も、三尺も。思いぞ降り積む雪美人。胸に抱かれて、ええい、とろけたや。
6.夜の一更、わらわは・・・えい、ああ、ううん、二更になれども、なぜ来てくださらぬ。三更の鼓は深夜に響く、ええい、いつまでも。
7.四更、夜明けの空にとりが鳴く。とりが、鳴く。 五更、三時、夜が白む。
 錦のふとん、おしどりの枕。枕べに思い、枕べに恋いこがれる。恋こがれて、ため息。恋の病の、ええい、枕かな。





 河副作十郎編選『清楽曲牌雅譜』明治10年(1877)刊より

1.看看兮ママ。賜奴的九連環。九呀九連環。双手拿来解不開。拿把刀児割。割不断了也也呦。
カン カン ヱママー。スウ ヌ テ キウ レン クワン。キウ ヤー キウ レン クワン。シワン シウ ナア ライ キヤイ ポフ キヤイ。ナア バ タウ ルウ カア。カア ポ ドワン リャウ エ エ スママウ。

2.誰人兮ママ。解奴的九連環。九呀九連環。奴就与他做夫妻。他們是个男。男子漢了也也呦。
ヂウイ ジン エー。キヤイ ヌウ テ 8字分ルビ無シ ヌ ズイウ イ タア ツオ フウ ツイ。タア メン ズウ コ ナン。ナン ツウ ハン リヤウ エ エ ユウ。

3.情過兮ママ。在岸的妹住船。妹呀妹住船。雖然与他隔不遠。閉了双ママ門難。難得見了也也呦。
ズイン コフ エ。ズアイ ガン テ ムイ ジイ ジエン。ムイ ヤ ムイ ジイ ジエン。スイ セン イ タア ケ ポ エン。ピ リヤウ シワン メン ナン。ナン テ ケン リヤウ エ エ ユウ。



長崎・唐人について

唐人屋敷のなかで中国の三弦を弾く丸山遊女
長崎で日本文化を学んだ唐人。
【林有官】日本語に通じ、小哥をよく唄ったので、小哥八兵衛と渾名された。(『長崎名勝図絵』)
【陸明斎】乍甫の居宅も日本風につくり、食器や料理も日本風を学んで客をもてなし、大町という遊女から学んだ忠臣蔵の浄瑠璃を口ずさんだ。(『長崎名勝図絵』)
【孟涵九】日本のいろは仮名を学び、古歌などを臨模し、書を乞う者があれば書いて与えた。(『長崎名勝図絵』)
【陳驥官】小川町に仮居していたが、仮名を学び三十六人歌仙古歌集などを書き写した。(『長崎名勝図絵』)
【高山輝】遊女たちと日本三味線の演奏を楽しんだ。(『長崎唐人屋敷』)
比較参考 『江戸の英吉利熱』読書メモ

 右の絵は江戸時代の『長崎名勝図絵』の「館内唐人躍之図」。唐館(唐人屋敷)における舞台上演の様子である。
 舞台の内場の位置(上場門と下場門のあいだ)に、楽隊が並んですわっている。
 楽器は笛・銅鑼・拍板・喇叭・小銅鑼(俗称はチャンチャン)・太鼓・胡弓・三絃であった。
 右下の落款には「己卯冬日石崎融思照写」とある。己卯すなわち文政2年(1819)の冬に、画家の石崎融思(1768~1846)が描いたもの。

 長崎の唐館では毎年春二月二日を祭祀の日として、館内の土神堂(右側に描かれている)の前に高大な舞台を設営して、前後、二、三日のあいだ演劇を奉納した。
 出演者や演奏者は、在館の唐人たちである。演目は中国本土と同じだった。なかでも「目連救母」は、演技が難しく、やりこなせる者が少なかったという。
 唐館内には「霊魂堂」などの施設もあり、怪談や心霊現象も多かったことが、日本人によって記録されている。
 日本人もしばしば唐館で観劇した。大田南畝(蜀山人)の『瓊浦雑綴』の観劇記は有名。
 筒井政憲(1778~1859)も、長崎奉行だったとき観劇し、その感想を漢詩に詠んだ。

     唐館看戯    トウカンにてギをみる
           鎮台 筒井君(和泉守号鑾渓)
   酒気満堂春意深  シュキ ドウにみち シュンイふかし
   一場演劇豁胸袗  イチジョウのエンゲキ キョウシンをひらく
   同情異語難暢達  ドウジョウ イゴ チョウタツしがたし
   唯有咲容通欵心  ただショウヨウ(=笑容)のカンシン(=款心)をツウずるあるのみ

参考:『長崎オランダ商館日記 第9巻』(雄松堂出版・全10巻)によると、1820年10月に出島でフランス喜劇『性急者』、オペレッタ『二人の漁師とミルク売り娘』、歌と踊りを混ぜたパントマイムなどを上演し、二人の長崎奉行(筒井和泉守政憲と間宮筑前守信興)や唐通詞らも観劇した。 筒井政憲は当時の日本人には珍しく、中国演劇と西洋演劇の双方を見比べる機会をもった。オランダ人の記述によると、筒井らは「彼ら自身(日本人)の見世物や中国人の見世物への自負が失われた」ほど、西洋演劇を絶賛したという。
cf.中村洪介「<最終講義>文政3年出島上演の阿蘭陀芝居二題」,『中央大学論集』Vol.23(20020300) pp. 73-83。
 宮永孝「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について」,法政大学『社会志林』Vol.52, No.2(20050900) pp. 148-48

←上の絵図の右下に描かれた「土神堂」の、現在の姿。
長崎市館内町にて、2008.3.9撮影。
かつての唐人屋敷の跡地は、現在は普通の町並みになっている。
旧唐人屋敷門→
興福寺(長崎市寺町4-32)にて、2008.3.9撮影。
国指定重要文化財。指定年月日 昭和36年6月7日。所有者 長崎市。
 旧唐人屋敷内に遺存していたものを永久保存するために、1960年に長崎市が買収し、興福寺の敷地内に移築したもの。建築年代は天明4年(1784)以降と推定される。建築様式は純中国式の建築で、材料も輸入した中国特産の広葉杉(コウヨウザン、カンニンガミヤ属)を使っている。
←思案橋横町の入口の飾り。
月琴や唐人もあしらわれている。
旧唐人屋敷の敷地内に残る「福建会館・天后廟」(長崎市館内町)。→
柱聯にいわく──
「海外叙郷情、難得扶桑如梓里
 天涯崇廟祀、況承慈蔭到蓬瀛」
読みは、
「カイガイにキョウジョウをのぶれば、えがたし、フソウはシリのごとし。
 テンガイにビョウシをあつくすれば、ここにジオンをうけてホウエイにいたる。」
意味は、
「海外にある長崎が、われらの故郷の福建に似ていることは、まことに得難くありがたいことだ。
 天のはての地域でも天后をお祭りすれば、お慈悲と御利益は日本にまで及ぶだろう」。
長崎の人と風土は故郷の福建と似ている、と、親近感と感謝の念をこめた言葉である。
【語注】扶桑・蓬瀛──日本の雅称。
    梓里──「先祖が、子孫の生活の役に立つよう桑や梓を植えてくれた大切なふるさと」の意。ここでは長崎が、唐人にとって先祖代々友好をはぐくんできた、故郷と同様の大切な土地であることを言う。




坂本竜馬と長崎の月琴
2001年3月4日(日)付『毎日新聞』日曜くらぶ「司馬遼太郎を歩く」「竜馬がゆく(5)」より摘録
→毎日新聞社刊『司馬遼太郎を歩く』(1)~(3)
司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』では小曽根兄弟が一人の人物になってしまっているが、史実では、竜馬と深く関わったのは十三代の小曽根乾堂(けんどう。名は栄)と、四番目の弟の英太郎。
竜馬は、妻「おりょう」に月琴を習いたいとせがまれ、彼女を長崎に伴った。
長崎では、竜馬とおりょうは身を潜めるように、天領のはずれにある小曽根本宅にやっかいになった。おりょうは乾堂やその娘きくから月琴を教わった。
おりょうの月琴は今も小曽根家に残っている。
十七代の現当主・小曽根吉郎さんの言葉。
「長崎では月琴を男も女もやっていた。月琴は煎茶と一緒で東洋における教養の部分でした」。乾堂は月琴の名手だった。維新後、明治天皇・皇后両陛下の御前で、娘きくら一門とともに、月琴を披露している。乾堂は篆刻にも長じ、御璽・国璽を彫ったことでも有名である。




寛政十二年遠州漂着唐船「萬勝号」について
 1801年1月18日未明。
 現在の静岡県磐田市福田(ふくで)漁港から静岡県袋井市湊にかけての海岸の沖合で、寧波商船「万勝号」が座礁した。
 その後、乗っていた八十数名の唐人は上陸し、日本側の役人の監視下に置かれた。
 当時としては大事件で、江戸でも瓦版が出た。滝沢馬琴も、随筆でこの事件について書き残している。
 鎖国時代であったこともあり、日本側は、唐人たちについて綿密な調査を行い、詳細な記録を残した。
 これは期せずして、当時の中国商船の船員の文化・風俗習慣・出身地などについての第一級の史料となった。
 船員たちが船旅の慰みに持っていた楽器や、唄の歌詞と楽譜の断片までもが、日本人によって記録されていた。

 一説に、清楽「九連環」も、万勝号の船員が収容先で唄っていたものを、地元の人々が耳で聞き覚えたものであるという。
参考 遠州漂着唐船「万勝号」のこと

 この写真は、2008年1月19日、福田漁港にて撮影。江戸時代の海岸線は今よりも内陸だった。

滝沢馬琴『著作堂一夕話』
 吉川弘文館『日本随筆大成 第一期・第10巻』(平成5年10月1日新装版第一刷)pp.310-315より

漢字馬琴連山寧波語
ゴ   ŋo (ンゴー)
テ テ tiɪʔ (ティーッ)
カンカンkʼi (キー)
  スウ
キウキウʨiʏ (チー)
レンレン
クワンクワンguɛ (グエ)
ツアンシャンsɔ~ (ソオー)(鼻音化)
カイキャイka (カア)
コユツカ kɐʔ (カアッ)
スイジュイzɥ (ズユィ)
インジン〓iŋ (ニン)
参考:李栄主編『寧波方言詞典』江蘇教育出版社(南京市)1997年
寧波語の発音表示には、お使いのパソコンにIPA(国際音声記号)の
文字フォントがインストールされている必要があります。

○紅毛人(おらんだじん)の墓(はか)舶人(はくじん)の歌曲(かきよく)
 遠州掛川(ゑんしうかけがは)、転念寺(てんねんじ)本堂(ほんだう)の前(まへ)、西のかたに紅毛人(おらんだじん)の墓(はか)あり。高サ二尺ばかり、幅(はゝ゛)五尺に二尺四五寸もあるべし。上は蒲鉾形(かまぼこなり)にして長櫃(ながひつ)の蓋(ふた)をふせたるごとし。四方に石垣(いしがき)をして施主(せしゅ)大通辞(だいつうじ)某(それ)の姓名を刻す。墓誌は阿蘭陀(おらんだ)字(もじ)なり。五六年前紅毛人(おらんだじん)旅中(りよちう)こゝに歿(ぼつ)す、これも東海道(とうかいだう)のうちにしてはめづらし。亦寛政十二年十二月十二日、大清(たいしん)寧波府(ねいはふ)の舶人(はくじん)劉然乙等(りうぜんをつら)、その徒(と)八十六人、遠州袖志(そでし)が浦[割註]去掛川三里許。」に漂着(ひやうちやく)す。彼地(かのち)に逗留(とうりう)のうち、清人等(しんひとら)がうたひし曲子(こうた)あり。掛河(ママ)の人耳熟(じじゅく)して唄(うた)ひきかせたり。はなはだ興(きよう)あり。その曲(きよく)、魚鼓(ぎよこ)のごときものをうちならして囃(はや)すといふ。両三章(せう)こゝに録(ろく)す。唱歌(せうか)此方の潮来曲(いたこぶし)といふものに似(に)たり。

我的吓、感郎的(ゴ テ カ カン ラン テ)。呀々有(ヤア 〱 ユウ)。呀吓(ヤア カ)。呀々有(ヤア 〱 ユウ)。 看看吓(カン カン カ)。送奴個九連環(ソン ヌ コ キウ レン クワン)。 九吓(キウ カ)。九連環。 双手拿来解不開(ツアン シユ ナア ライ カイ プ カイ)。 奴把刀児割々不断了(ヌ ハ タウ ル コユツ 〱 プ タンリヨウ)。呀々有々(ヤア ヤア ユウ 〱)。[割註] 我的はわれにて、的は助字なり。吓は節(ふし)なり。感はかんしんと云までにて、郎的は思ふをとこをいふ。その男のこゝろやきりやうをかんしんして見とれてゐたれば、男のかたよりちゑのわをといて見よとておくれり。これを両の手してもち帰りとけども〱なか〱とけず。小刀をもて切とかんとすれども、いよ〱切はなれぬといふて、ふたりが中(ママ)のはなれがたきにたとへたり。九連環はちゑの輪なり。又呀々有々は曲をたすくるの章句にしてべちにこゝろなし。」

誰人吓解奴的(スイ イン カ カイ ヌ テ)九連環九吓九連環(キウ カ キウ レン クワン)奴就与他做夫妻(ヌ ズ イ タ サ フ チ)他們是个男(タ メン シ コ ナン)々子僕了(〱 ツウ パン リヨウ)呀々有々(ヤア 〱 ユウ 〱)。[割註] 前章のその二なり。たれかこのちゑのわをとき得べき。もしとく人もあるならば、われは思ふをとこをすてゝほかの男と夫婦になるべしといふて、たれがときてもとけぬところをあつくいふなり。僕は漢のあやまりなるべし。」

哥々吓(カヲ 〱 カ)住城的妹住船(ヂウ セン テ マイ チウ セン)妹吓妹住船(マイ カ マイ チウ セン)雖然与儞隔不遠(スイ ゼン イ コオ カツ プ ヱン)閉了城門難(ヒン リヨウ セン メン ナン)々得見了(〱 テ ケンリヨウ)呀々有々(ヤア 〱 ユウ 〱)。[割註] 哥哥は兄といふにおなじ。こゝにはおもふ男をいふ。妹は妾といふにおなじ。 君は城中にあり、わらはゝ船中に住す。そのみちとほからずといへども城門のへだてあればあふことのかたきをかなしむとなり。水浜浮君の恋ともいふべし。」

変変吓(ケン 〱 カ)鳥的飛上天(ニヤウ ル プイ シヤン テン)飛吓飛上天(プイ カ プイ シヤン テン)[口其][口票][口瓜][口魯]滾了来(キ ル ク ロ クオンリヨウ ライ)還有一個重(クワン ユウ イ コ チヨン)々相会了(〱 スヤン クワイリヨウ)呀々有々(ヤア 〱 ユウ 〱)。[割註] 前章の二也。かく城門のへだてあればとりにへんじて天にのぼり思ふまゝにあふことを得ばつねにこがるゝこともなく日にいくたびもあひみんとなり。」

掛川下復(しもまた)町の大場氏より、哪哆(ふなぬし)劉然乙(りうぜんをつ)が書(かけ)る扇面を得たり。来舶人(らいはくじん)の書画(しよぐわ)奇(き)とするに足らねど、ちなみにこゝに摹書(ぼしよ)す。



筆談の様子。↓絵図の下部、左側の唐人が「寧波船主」劉然乙(年四十二歳、杭州人)。

参考文献:
参考サイト:
換暦 和暦と西暦、ユリウス日等を自動換算。


唐人の「浄瑠璃」の楽譜(工尺譜)と
唐人が使っていた単語の発音(一部、福建語)


 唐人橋(とうじんばし)。
 静岡県磐田市の太田川にかかる豊浜橋から、東に200メートルほどのところにある。
 現在は狭い溝にすぎないが、江戸時代には、この川の幅は20メートル以上もあった。
 万勝号の唐人たちが無事に長崎に帰ったあと、破損した万勝号の帆の木材を流用して、長大な橋をかけたという。
 江戸時代の長大な橋に使われた万勝号の木材は、現在、この橋から北西に200メートルほど離れた豊浜小学校の校舎内で展示されている(非公開)。
 なお、船主・劉然乙を含む唐人の半数が収容されていた大安寺は、この唐人橋から西に200メートルほど離れた、現在の豊浜橋の東側のたもとにあったが、1944年の東南海地震で倒壊した。大安寺の跡地は現在、民家になっている。

『寧波舩漂着始末日記』より
或時ハ此国にもて遊ふ浄瑠璃のよふ成ル事を語りければ、其同士は大勢集り面そふに見へけれ共、此方の者ハ一向解しかたく、寔に唐人の寝語とやらんなれ共、興に乗して座中余念なき躰見るに笑ひを止めかねける、其表題を尋ければ漢論記と唱へ、六十巻の書のよし、又小弓をひきて歌を唄ひ、拍子の板を入テはやしける、其うたの文に曰
    十八摸
  上尺工工上工尺 上尺四尺上四合
  合四上尺尺四上 尺尺四尺上四合
  四上合四四合   四四合
  尺尺四尺上四合 四合
此国にて馬鹿ものと笑ふ事をごんぺいといふ、文字を尋候へ痴人こんぺいとと書候よし、椀に食を高く盛ル事を只もりりと計り唱へ、大きなといふ事をとハひと云ひ、多葉粉をんと云ひ、きせるを煙筒といゝけり
一此方にて、ひとつふたつよりこゝノトヲとかそへ候を、一二サンシウグウムウシツハチキウシンと唱へ申候
一独身にて居るものをいんそら
一耳をにいひ、鼻をびいといゝける、茶釜をとんこと唱へけり
一焚出し方に箸を入れし袋の上書を見テ、ヒウヒンセンと読候よし



劉然乙と長崎丸山遊女の関係。
本間春伯が「唐浄瑠璃本」を劉然乙に貸与。

『寧波商舩漂着雑記』より
長崎ヘハ、十二三度モ来シト語ル故ニ、本邦ノ詞ニ通シ、和人ニ対シテハ、日本詞ヲツカフナリ、殊更、長崎丸山ノ遊君ニナジミケル、疋田屋ノ姫菊ト云ニ劉然乙ナジミ居ケル由也、汪晴川ハ、相州屋ノ亀菊ト云ニナジミ、陳諸和ハ、筑後屋ノ恋菊ニナジミタル由、物語リシケル也、劉然乙ハ、唯故郷ノコトノミ案シ、鬱々トシテ、折々ハため息ヲ致シ、至テ心痛ノ躰ヲ春伯見テ気ノ毒ニ思ヒ、往年長崎ニテ得タリシ唐浄瑠璃本ヲ、掛川宅ヨリトリヨセ、慰ニモガナトテ借シケレバ、劉然乙大ニ悦ヒ、折々ハ、小声ニテカタリケル、和ノ浄ルリトハ大ニ事カハリシモノナリ、




三田村鳶魚「かんかん踊」,中央公論社『三田村鳶魚全集』第20巻 pp.221-228
(三田村鳶魚が記録した「かんかんのう」の歌詞↓)

かんかんのう看々那きうのれんす連子 きうはきうれんす九連子 きはきうれんれん九九連々 さんしよならへ三叔阿 さァいィほうにくわんさん財副儞官様 いんぴいたいたい□□大々やんあァろ不詳 めんこんぽはうでしんかんさん面孔不好的心肝 もゑもんとはいゝぴいはうはう屁好々
てつこうにくわんさん鉄公儞官様きんちうめーしなァちうらい京酒拿酒来 びやうつうほしいらァさんぱん嫖子考杉板ちいさいさんぱんぴいちいさい杉板屁
もゑもんとはいゝぴいはうぴいはう□□□屁好々



滝沢馬琴『著作堂雑記抄』に載せる「大通辞」(*1)神代(くましろ)四郎右衛門による「和解」。
長崎の唐館の「唐音」(中国語)と、遊女の特殊な言葉を合成して作った、卑猥な歌として歌詞を解釈している。
日本唄かんかんのふきうのれんすきうれんすきうはきうれんすさんちよならへさあいほう
漢字看看阿久阿恋思久久恋思久阿久恋思三叔阿財副
発音かんかんのうきうのれんすうきうれんすう(原欠)さんしょのう(原欠)
和解ミヨミヨ久敷恋思ふ久々恋思ふ同上他人を叔父分にて尊み申す言葉也、三男を三叔と申候、女より恋思ふ人をさして、尊みし言葉也藩方役人の事
日本唄にいくわんさんいんひいたいたいへんあろめんこうふはうてしんかんさんもへもんとはいいひいはうはう
漢字二官様戒指大大送你面孔不好的心肝男根大陰門はうはう(ママ)
発音にいくわんさんきやそうたあそんにいめんこんふはうてしんかんもへもんとはいい ひい よしよし
和解二男の事、総領を一官、二男を二官と申す。跡は右に准ず、二官の二を唐音はルウと申候得ども、所なまりてニイとも申候わ(ママ)びがね大分おくること、是は唐館門にての和語にて指金の事をいんひいと申候、大分のことをたいたいと申、おくるをやろうと申候、遊女のことば也顔のよくない色黒きと云事(以下省略)右男根をもへんもんと申候、ヒイもへもんと申は唐音にても和語にてもなく、唐館の遊女の言葉也、トハイイと申は唐福州の俗語にて、大なる事をトハイイと申候(以下略)


*1:正しくは「大通事」であろう。参考サイト:
「長崎唐通事」について








清楽の演奏図。




明清楽で使用する楽器。

気鳴楽器:清笛 洞簫 嗩吶
擦弦楽器:胡琴(板胡) 携琴(四胡) 提琴(京胡)
撥弦楽器:月琴 三弦子 琵琶 阮咸 洋琴
膜鳴楽器:大鼓 片鼓
体鳴楽器:拍板 木琴 金鑼 雲鑼





とりあえず
「紗窓」を試聴する(MIDI)。abc譜はこちら


  春夜洛城聞笛 春夜 洛城に笛を聞く
       唐・李白
誰家玉笛暗飛声
   誰が家の玉笛か 暗に声を飛ばす
散入春風満洛城
 散じて春風に入りて 洛城に満つ
此夜曲中聞折柳
 此の夜 曲中 折柳を聞く
何人不起故園情
 何人か故園の情を起こさざらん

五線譜に直し、コードを付けてみました(^^;; [聴いてみる](WAVE形式)

参考 江戸時代の中国語ブーム




「茉莉花」の曲を、
(1)
単旋律で試聴する(MIDI)。ABC譜はこちら
(2)コード・伴奏つきで試聴する(WAVE形式)。五線譜はこちら

清楽の「茉莉花」(又名「抹梨花」「含艶曲」)→日本本土「水仙花」「紫陽花」、沖縄「伊集の打花鼓」

『月琴楽譜』(1877)より

「茉莉花」の歌詞は、西廂記の物語をふまえた長編。
大田南畝「杏園間筆」には享和3年(1803)に長崎で筆録した小曲「文鮮花」(「茉莉花」)が収録されている。
天保3年(1831)ごろの『花月琴譜』(清楽の現存最古の楽譜)にも「含艶曲」というタイトルで「茉莉花」の曲が収録。
明治十年刊『月琴楽譜』が、工尺譜・歌詞ともに最も詳細である。

沖縄県の中城村に伝わる芸能「伊集の打花鼓」は、琉球王国時代に伝わった中国劇「打花鼓」が土着化したもの。茉莉花の曲も「打花鼓の歌」として歌われるが、村人が先祖代々、中国語の歌詞の意味を知らぬまま口承で伝えてきたため、中国の原曲とかなり違う。
原曲の歌詞「好一朶鮮花」→伊集の打花鼓では「ハウティチャーシンファー」。旋律も沖縄化している。喜名盛昭・岡崎郁子『沖縄と中国芸能』(おきなわ文庫,1984)参照。

CD「坂田進一の世界 江戸の文人音楽」(2003年 坂田古典音楽研究所)に「茉莉花」の合奏も収録(歌は無し)。




銀紐糸

[拙論]明清俗曲「銀紐糸」(ぎんちゅうし)旋律古型探求 [
PDFで読む(約4.9MB)]
  広島大学総合科学部紀要III「人間文化研究」第3巻,pp.23-54,1994年12月
[提要] 中国劇音楽で使われている伝統歌曲「銀紐糸」は、15世紀以来、東アジアの広汎な範囲で演奏されてきた。筆者は現存の中国各地の楽譜と、江戸時代の日本人が書き残した楽譜など、約60種の楽譜資料をもとに、「銀紐糸」のメロディーのヴァリエーションを分類整理し、同曲が豊富な変型を持つに至った理由を探究した。従来の戯曲研究に、音楽研究の方法を導入しようとする試みである。




清楽の曲目

月琴楽譜 奥付より
 明治十年六月廿一日御届
 同 十年七月十四日版権免許
 編輯兼出版人 中井新六
 大阪府下第四大区四小区
 堂島裏貳丁目九番地


「元・亨・利・貞」の四巻からなる。(元亨利貞という慣用的ナンバリングは、『易経』の語に基づく)。
【月琴楽譜 元部】
算命曲 九連環 剪々花 抹梨花(ママ) 四季 紗窓 売脚魚 哈々調
【月琴楽譜 亨部】
万寿寺宴 鳳陽調 補矼匠 親母閙 漫波流水 久聞 月花集 漳州曲(漳は、サンズイに章。[水章]) 富貴双聯 満江紅 魚心調 尼姑思還 将軍令
【月琴楽譜 利部】
耍歌(耍は、而のしたに女。[而/女]) 耍棋(耍は、而のしたに女) 武鮮花 金銭花 銀紐糸 不諗母流水(諗は、言のみぎに念。[言念]) 清平調 甘露殿 関睢(ママ。睢は、目へんに隹。[目隹]。正しくは「関雎」(且のみぎに隹)と書くべきところ) 月宮殿 風中柳 宮中楽 月下独酌 思帰楽 秋風辞 梁甫唫(ママ。唫は、口へんに金。[口金]。梁甫吟・梁父吟のこと) 烏夜啼 千秋歳
【月琴楽譜 貞部】
三国史(ママ) 碧破玉 桐城歌 双蝶翠 四不像
翠賽英 碧破玉 桐城歌 双蝶翠 串珠連
雷神洞 前段 後段
水滸伝 林冲夜奔


清楽曲牌雅譜 奥付より
明治十年十一月廿四日開版
編輯兼出版人 長崎県平民河副作太郎
大阪府下第一大区九小区北浜通三丁目拾八番地寄留
【清楽曲牌雅譜】
員頭 員頭環 算命曲 九連環 含艶曲 一薬藜花 四季曲 四節 月花集 剪々花 漳州月花集(漳は、サンズイに章。[水章]) 紗窓 脚魚売歌 売甲魚 流水 夏門流水 高山流水 関門流水 一新声高山 補矼匠 補矼歌 鳳陽調 胡蝶飛 漳州曲(漳は、サンズイに章。[水章]) 朝天子 親母閙 如意串 哈々調 哈々歌 桃林宴 櫓歌 蕩舟十八摸 漫波流水
【清楽曲牌雅譜二】
員頭串 員頭連 久聞 散瓦礫 蓬莱島 平板調 魚心調  嗩吶皮(嗩は、口へんに、「鎖」の右半分。[口+(鎖-金)]) 想思曲 巧韻串 思帰楽  渓庵流水 林徳健流水 二排 得律流水 陽関曲 将軍令第一排 尼姑思還 一名三七五 第二排 第三排将軍令 尼姑下山 武鮮花 西耍棋(耍は、而のしたに女。[而/女]) 耍歌 一名京南曲(耍は、而のしたに女。[而/女]) 清平調 烏夜啼 富貴双曲聯 金銭花 一名秋江別 銀紐糸 一名間雲月 仁宗不諗母流水(諗は、言のみぎに念。[言念]) 男西皮
【清楽曲牌雅譜三】
二凡 雷神洞 前後
三国史(ママ)
碧破玉 桐城歌 双蝶翠
翠賽英
碧破玉 桐城歌 双蝶翠 四不像 串珠連
雷神洞 前段 後段
水滸伝 林冲夜奔


明清楽譜(抄本) ○山松久
年代・伝来等不明 工尺譜のみ
算命曲 九連環 剪々花 夏門流水 茉梨花(ママ。正しくは茉莉花) 流水 中山流水 紗窓 四季曲 親母閙 胡蝶飛 櫓歌 嗩吶皮(嗩は、口へんに、「鎖」の右半分。[口+(鎖-金)]) 四季 徳健流水 蓬来嶋(ママ。正しくは蓬莱島) 松山流水 哈々調 朝天子 粲瓦礫(ママ。正しくは散瓦礫) 売脚魚 漫波流水 平板調 娥々流水 断板





おまけ(付録) 安永五年(1776)刊 『刪笑府』 墨斎主人原編  風来山人刪訳

*「」は、「敢」の下に「心」を書く漢字一文字。


「まんじゅう怖い」の原話。NHKテレビ「知るを楽しむ・歴史に好奇心」の4月19日(木)放送ぶん(第3回「まんじゅうこわい」の謎~江戸の漢文力)で、 柳家花緑さんが手にしていたのが、この本(加藤蔵書)。




「かんかんのう」「唐人歌」「九連環」などの研究についての主要参考文献・参考サイト

中国のサイト その他
 本研究は、下記の一環として行っているものです。
「散楽の源流と中国の諸演劇・芸能・民間儀礼に見られるその影響に関する研究」

研究者番号80253029(加藤 徹)
機関番号32682(明治大学) 所属番号306(法学部) 職番号20(教授)
研究種目:特定領域研究 領域略称名:東アジア海域交流
領域番号610 課題番号17083019 項目番号B01
研究分担者:上田望 竹本幹夫 細井尚子  研究協力者:坂田進一 他

上記の研究は、下記の研究の一部です。
平成17年度~21年度 文部科学省特定領域研究
東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成 ―寧波を焦点とする学際的創生―」(略称「にんぷろ」)
> 現地調査研究部門「B01-10 演劇班」
英文 Maritime Cross-cultural Exchange in East Asia and the Formation of Japanese Traditional Culture:
   Interdisciplinary Approach Focusing on Ningbo
中文 東亜的海域交流与日本伝統文化的形成 ─以寧波為焦点開創跨学科研究─

【参考】「にんぷろ」6つの重点項目(2007年策定)
イ)寧波を中心とした記録保存の社会文化史
ロ)寧紹地区の環境・生態と人間社会の営み
ハ)東アジアの視点から見た五山文化
ニ)地域間交流からみた寧波-博多-鎌倉-平泉
ホ)東アジアにおける<訓読>の思想文化
ヘ)<東アジア海域>の理論化


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