清楽資料庫 > このページ

『長崎名勝図絵』についてのメモ

2008.1.13
(1)【稿本】1820年頃 長崎奉行筒井和泉守政憲が文政年間(1820頃)、儒者で長崎聖堂助教であった饒田喩義(にぎた・ゆぎ)に命じて編纂させたもので、野口文竜渕義と画家打橋竹雲等が助けた。しかし脱稿までに意外の日数を要したために遂に刊行されることなく稿本のまま明治を迎え以後、長崎区役所・長崎市役所の書庫の中に眠っていた。
(2)【翻刻本】1931年 長崎史談会ではこれではいけないというので原本の翻刻公刊を企図し、昭和6年、四六倍版で本文584頁の本を500部限定出版を行い、世に公開した。
(3)【詳訳本1】1974年 長崎文献社では、これの普及のために、図版161頁は忠実に再現し、本文のほうは漢詩漢文を割愛し、文章も平易にするなどして、昭和49年に長崎文献叢書第一集第三巻として発刊した。
(4)【詳訳本2】1997年 長崎文献社では、本文の文章や構成を読みやすく再構成して、平成9年に「長崎町人誌 第五巻 新編 長崎名勝図絵 さまざまの暮らし編 住の部」として新装版を発売した。文章は現代語であり、近年の写真や状況も載っているので使いやすい。ただ「詳訳本1」と比べて絵図のサイズが小さくやや不鮮明である。
 結局、(1)はともかくとして、研究のためには(2)(3)(4)の全てに目を通す必要があると思われる。


『長崎名勝図絵』【詳訳本2】より
12頁 長崎十二景のうちに、オランダ人と唐人の笛が出てくる。
 蛮楼凄笳 出島蘭館の蘭人が吹く笛の音に万里哀愁の思いあり。
 華館笛風 唐人屋敷の唐人達も望郷の思いに涙しながら月夜に笛を吹く。

17頁 異国海路里数
 唐国では船の海路60里を一更とする。順風では一昼夜に海上600里、つまり10更を走る。これを準とする。日本の里数で言えば1更60里は日本の7里余で、10更600里は70里と少しである。
  上海(江南)225里(32更) 乍浦(浙江)260里(37更) 普陀山(浙江)282里(40更) 寧波(浙江)296里(42更) 舟山(浙江)253里(36更) 天津衛(北京)705里(100更) 福州(福建)387里(55更) 泉州(福建)423里(60更) 台湾(福建)493里(70更) 東京(トンキン)987里(140更) その他の数字も載っているが略す。

51頁 崇福寺
 江戸時代初期、唐商は自分たちは切支丹ではないという証のために、一寺を建立することにした。寛永6年(1629)福州から唐僧超然(1644没)が来日したので、幕府の許可を得て、魏之[王炎]らの諸豪商が協力して一寺を建立し、天妃を祀る場とした。

76頁 芝居庭
 水神社の傍。もと、諏方社の能太夫早水(はやみ)氏が奉行所の許可を得て平日にその門弟らに稽古をつけるために舞台を設けていた場所であった。その後、荒廃していたが、上方の芝居者が長崎にやってきて芝居小屋を造るために借りたいと申し出て、早水氏の承諾を得た。これが長崎における歌舞伎芝居小屋のはじめである。だから、長崎の諸所で芝居興行をしようとする者は、まず早水氏に礼物を贈り、桟敷には必ずその招待席を儲けるのが例となって現在に及んでいる。

169頁 阿蘭陀人の楽器
 寛政(1879~)の頃、ゲイスベルトヘンミイという加比丹が長く出島に在住したが、日本の風俗に興味関心をもった。ある日、病気のため鍼治療に招いた内島勾当という者が三味線の妙手だと聞いて、是非にと懇願して演奏をさせた。そしてすっかり感心してしまい、リュベンとバンシャルという二人の「黒坊」(詳訳本2の表現のママ)に習わせることにした。やがて二人が上達したので、西洋楽器と合奏して酒興を添えたという。  西洋楽器には、ヒヨヲル(板張りの提琴)、トロンムル(太鼓)、トロンペット(らっぱ)、ワルトホーン(曲がりらっぱ)、テリヤンゲル(鉄の棒を三角に曲げて輪を入れて鉄のばちで打つ)、フロイト(笛)、ホルトピヤノ(手と足を使って弾ずる琴の類)、カラヒール(手で弾く琴)などがあった。

175頁 霊魂堂
 唐館の中の建物。俗に幽霊堂と呼ぶ。死亡した船商の位牌を並べて置いてある。亡魂の集まるところで、ときどき怪しい事が起こる。詳細は、彩舟流しの項に記してある。
歌舞庫
 唐館の中の、天后堂の前の傍。歌舞に用いる衣装や道具を格納する倉庫。舞台も平素は取り畳んで、この倉庫の中に収納し、使うときに組み立てる。

183頁 唐人踊 踊は一種の芝居 (舞台上演の様子を描いた絵図有り)
 唐人踊は古神祠の祭礼行事で、春二月二日を祭祀の日とし前後二、三日間行われる。昔は、秋の祭りにも催されたそうである。土神堂の前に高大な舞台が設けられ装飾する。在館の唐人は分に応じて出来る者が、種々の衣冠装束を着け錦繍を装って舞台に現れ歌舞をする。その内容は、水滸伝・三国志等の物語や小説また地方に遺る昔話その他を脚色して演ずる。中でも目連踊といって、仏弟子目連尊者が地獄の母を救うという筋書きのものがあるが、その演技に少々むずかしいところがあって、これをやりこなせる者が少ないので、容易に上演できないという。楽器は、笛、銅鑼、拍板、喇叭、小銅鑼(チャンチャン)、太鼓、胡弓、三絃(さみせん)で拍子をとる。胡弓は胴と柄が竹で蛇皮を張り、二絃の間に馬の尾を通し、摩擦音を出す。三絃は木製に蛇皮を張り絃は三本。鼈甲製のバチで鳴らす。
 この唐人踊は日本の演劇舞踊と似たようなものであるが、その装束が少々異様で、その点が変わっていて珍しい。

189~192頁 彩舟流し (船の巨大な模型を焼く祭祀の絵図あり)
 簡略化した小流し、と、大規模な大流し、の二つがある。
 (収録の絵図では、小流し、で、唐館の前で模型の船を焼き、周囲を見物人が埋めている絵図を載せる──加藤)
 大流しとは、こうである。長崎に滞在する唐人の数は多く、唐館内で死亡する唐人もいる。これを霊魂堂内に位牌を置いて祀るが、三十年、四十年もたつと死没者の累計数は百人を超える。死没者の身分や役割もまた必ず一船乗組の役唐人だけが揃い、欠けることがないようになる。
 そこで在館の唐商らが評議して、その筋に申請して許しを得て、長四間余の唐船の実物そっくりの船を造り、船主、財副(さいふう)から総哺(めしたき)、工社(こくしゃ)に至るまで人形を作ってその名を記し船に乗せる。船の積み荷の品々も、砂糖、端物(ママ)、薬種、荒物から手回り道具、食用品は鶏、豚、家鴨その他不足なく積載し、また、長崎の諸役人、荷揚げ荷積みに立ち会う唐通事や日傭頭、人夫の類に至るまで、みな人形に作って載せる。
 こうして準備が整うと、唐館前の波止場から船を海に差しおろす。三寺の唐僧は読経し、警護の役人は見物の群衆を整理する。唐人たちは小船に乗って船を送り、神崎鼻の先、白洞(しらとう)の海上で焼き、諸精霊が唐土の故郷へ帰るのを送る。
 不思議なことに、彩舟流しをすることが決まると、霊魂堂の内で物音が聞こえたり、幽霊が出たりするようなるので、唐館出入りの遊女や禿(かむろ)はなるべくその近くを通らないようにする。また、供養の対象となる死亡唐人のリストの中で、欠けている船の役職があると、その役職にあたる唐人は、自分も死者に引っ張られて急死するのではないかと、戦々恐々となる。そういう実例が、ままあったからである。また彩舟を造った残材を盗んだ者が発狂、急死した例もある。
 唐人の性質は日本人のようにあっさりとはしていないから、望郷の思いに暮れながら異境の地で病没したような場合、亡者の気が残り、怪異のことがあとを絶たないのである(と、本には書いてある──加藤)。

194~195頁 日本文化を学んだ唐人
【林有官】 正保の頃(1644~)に長崎に来た。長崎滞在が長く、日本語に通じ、小哥をよく唄ったので、小哥八兵衛と渾名された。その後、切支丹目明かしとなり、古川町に闕所屋敷を賜り住んだという。
【陸明斎】 名やあざなは不詳。清国浙江省乍浦の人。安永の頃(1772~)長崎に渡来。交易のためしばしば往来。日本の風儀を好み、乍甫の居宅も日本風の二階造りで畳敷きにし、日本の膳椀食具酒器を用い、料理の品味も日本風を学んで客をもてなし、酒興談話の折節には忠臣蔵の浄瑠璃一、二句を口ずさんだりする。これは大町という傾城から習ったのだそうで(彼が遊女から習っている様子を描いた絵図が残っている)、また、高砂の小謡も謡った。
 日本人の漂着者があちらの役人の命令で乍甫に送られ、帰国の便船を待つ間など、折ふし自宅に招いてひれの吸い物などを出し、目出度や一ふしに千代をこめたる竹なれば、など唄い興じたという。そして長崎の唐人屋敷内で亡くなった。
【孟涵九】 名は世濤、字は涵九。浙江省乍浦の人。明斎より約十年あとの人。寛政の頃(1789~)長崎の唐館にいて日本のいろは仮名を学び、古歌などを臨模し、書を乞う者があれば書いて与えた(その様子を描いた絵図が残っている)。昔、唐人がまだ唐館に住むことを義務づけられる前の町宿の頃、漳州安海の
【陳驥官】
という者が小川町に仮居していたが、仮名を学び三十六人歌仙古歌集などを書き写したものが多いと言われている。

260~264頁 波旦(パタン)人墓
 延宝8年(1680)5月17日夜、日向国伊東という雪州侯領の沖合に異国船が漂着し、乗組員18人は長崎へ送られ、6月17日に到着した。パタン人たちは、御薬種苗手入役水野小左衛門という者にお預けとなった。言葉は通じなかったが、小左衛門は機転をきかせて、海と船、島の簡単な模型を作って、身振り手振りで彼らの出発地をたずねた。その結果、彼らは、琉球と大宛(タイワン)との中間エナナ島の内にあるパタンという島から来たことが、わかった。残念ながら、日本の気候や水質が体に合わず、食べ物も胃腸になじまなかったと見えて、パタン人たちからは毎月、死者が出た。死者は崇福寺に埋葬された。結局、最後まで存命したのは6人にすぎなかった。水野小左衛門はパタン人たちに「与作丹波の馬追ひなれど今はお江戸の刀さし しゃんとさせ与作え与作え」という小哥を教えた。9月18日、島原から長崎に来た松平侯は、パタン人たちを蔵屋敷で召見したが、パタン人はその小唄を唄ったので、松平侯も大変興がられたという。
 翌9月19日、6人の生存パタン人たちは、出島のオランダ人に渡されて帰帆したが、タカサゴは航路から遠く離れているため、まずジャガタラに連れて行ったところ、6人ともその地に落ち着き、妻を求めて、一人は左官職、あとの五人はみな鍛冶屋の手伝いになったということである。

269~271頁 切支丹行列
 慶長19年(1614)に行われたテンペンシャの行列(ポルトガルのペニテンシャが訛ったもの)。隠れ切支丹の「おテンペンシャ」。罪を悔い償いをすることで、自らを鞭打つ鞭をディシプリナという。



清楽資料庫 > このページ