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読書メモ『江戸の英吉利熱』『大江戸異人往来
近世日本人は朝鮮をどうみていたか』『長崎出島の遊女

2008.2.16

タイモン・スクリーチ著 村山和裕訳『江戸の英吉利熱 ―ロンドン橋とロンドン時計』
講談社選書メチエ 単行本: 254ページ ISBN-10: 4062583526  ISBN-13: 978-4062583527  発売日: 2006/01

十七頁
 江戸時代には英国に対する呼称はいくつもあったが、ポルトガル語の発音に由来する「アンゲリア」が一般的で、アンゲリアのアンは「諳」で書くケースが多かった。三浦按針の表記は実は「三浦諳人」なのではないかと私は考えている。

二十五頁
 ジョン・セーリスは江戸への道々、子供たちが彼を追いかけながらcore core cocore ware (コレ コレ ココレ ワレ)と叫んでいたという出来事を、子供の叫びをそのままローマ字にしながら記している。セーリスはこれが「高麗人の心は悪い」という意味であることを理解している。当時の子供たちも、イギリス人と高麗人の区別がつなかいとはかなりの外国人音痴である。逆に、商館のあった平戸では外国人についての知識もかなり持っていたようだ。

三十頁
 ヨーロッパ人はみな「大名」をkingであると思っていたのでそう呼び、kingを支配する「将軍」をemperorであると思っていたのである。

三十二頁から三十三頁
 イギリス人は羊毛と火薬の二種類の商品を日本に売り込もうとした。
 しかし布類の輸出は日本では順調に進まなかった。日本には流行(ファッション)という問題があった。流行という概念は当時のヨーロッパではまだ一般的でなかった。昨年売れた物が今年は売れないという現象に、イギリス人は思いきり面食らったのである。

pp.35-37
 大坂の陣の前、家康は鉛や火薬をひそかに買いあさった。豊臣側はまだ気づかなかった。関東では銃弾が関西より30パーセントも高く売れた。後に豊臣側もようやく気づき、関西での火薬の価格は5倍に高騰した。イギリスの商人はこの戦争で大もうけをした。

p.40
 江戸時代の記憶に残るイギリス像を考えるうえで重要な事実。イギリスは自らの意思で日本を離れることを決定した。スペインやポルトガルと違って、恐怖と憎悪の果てに追放されたわけではなかった。
p.49
 チャールズ二世の妻、キャサリンはポルトガル人だった。幕府はポルトガルを嫌っていた。イギリスは幕府に貿易再開を懇願したが、イギリス国王がポルトガルの王女と結婚しているというただそれだけの理由で、イギリス製品の輸入を拒否した。

p.51
 1703年、ロンドンでは十歳代の若い王子の到来という事件が起きる。台湾でイエズス会に誘拐されて逃れてきたというのである。もちろんこれはでっち上げであった。しばらくはスキャンダルを巻き起こして有名人だった。後に、その人物の正体は、ジョージ・サルマナザールという中近東出身者であることが暴かれた。彼は1763年まで生きていた。

p..52
 京の医師、橘南谿(たちばななんけい)の憂慮。
 唐土ではいろいろな貨物を三段階に分ける。最上の物は西洋貨と称して、唐土より西の国々に渡す。天竺、イギリス、イスハンヤ、オランダなど、何でも高価で上等な品物を喜ぶからである。中品は唐土で商う。最下品を東洋貨と称して日本へ渡すという。日本はただ価格が安いものを喜ぶからだ、ということである。

p.57
 オランダやイギリスの東インド会社は、日本製の武器類をアジア市場で販売することによっても利益をあげていた。

p.61
 アムステルダムの画家、バルトローウス・ブレーンバーグが、1632年に「投石を受けるステファノ」を描いた絵「石もて追われる聖ステファノ」がある。ステファノはキリスト教の最初の殉教者である。絵を見ると、なぜか日本の日傘も描かれている。当時は日本ではキリスト教の弾圧が広まっていた時代であった。

pp.75-76
 一六一三年六月一〇日、セーリスの乗ったグローブ号が、イギリス船としてはじめて日本に到着した。船は平戸に曳航された。大勢の男女が乗船してきた。セーリスは「何人かの身分の高い婦人」を自分の船室に招待した。船室には「非常に猥褻に表現されている」ヴィーナスの絵が掛かっていた。これは日本人が初めて見たイギリス絵画であり、初のエロティカだった。この絵を見た日本女性たちは「ひれ伏して拝んでいた。聖母マリアと思ったのであろう。非常なる信心深さをあらわにした」。彼女たちは小声で、周囲に聞かれないようにそっと自分たちがクリスチャンであることを付け加えたという。

p.81
 セーリスの会社に対する進言。
「猥褻な絵を何点か、そして地上と海上の戦の場面を描いた絵を何点か送るべきだ。サイズは大きければ大きいほど良い」。セーリスはこれらが二〇〇から三〇〇マス(七・五ポンド前後)で売れるだろうと試算している。

pp.83-84
 イギリスの商品としては例外的に、エロティックな絵画は日本で完売となった。残念ながら、現在の日本ではそれらの現存が一枚も確認できない。

pp.84-89
 セーリスの時代のロンドンは、ピューリタン政権下であり、ポルノグラフィーは非常に手に入りにくかった。東インド会社社長は、長い航海中の慰みのために船員が船上で個人的にポルノグラフィーを所有することは黙認していたらしいが、バレれば問題となった。
 セーリスは、こっそり日本で大量の枕絵を購入した。プリマスに到着したとき、トランクの中には枕絵が大量にしまい込まれていた。これらは会社に見つかり、公的な場で焼却された。セーリスはこのスキャンダルをきりぬけ、失職をまぬかれた。
 これほど初期の枕絵や好色本は日本にも現存しておらず、もし彼の絵が残っていたら現存する世界最古の枕絵となっていたはずであった。

p.130
 一八二二年の参府を率いたカピタンのフィッセルは江戸に到着するなり「この町はどういうわけかロンドンを思い出させる」と言っている。

p.131
 一六一七年、コックスはジャワにいる東インド会社の役人にあてた手紙で、大阪と堺は「二つの都市であり、それぞれがほとんどロンドンの大きさほどもある」と報告している。

p.154
 東京の八重洲という地名は、ヤン・ヨーステンというオランダ人が家康から土地を与えられたことに由来する。ロンドンの終着駅の一つユーストン駅も、ヨーステンというオランダの人名に由来するが、これは中世後半にこの地の領主となったオランダ人で、ヤン・ヨーステンとは別人である。


タイモン・スクリーチ 高山宏訳 『大江戸異人往来』丸善ブックス、1995年11 月、ISBN 4-621-06036-8

五十六頁
 長崎のオランダ商館のトップの三人、商館長と医師と書記は、年ごとに江戸に参府した。商館の三人の人間を警護する日本人約二百名で、人々は街道に鈴なりになった。
 帰路ははるかに呑気な旅で、京都では観光を楽しんだ。三十三間堂と大仏が彼らのお気に入りだった。トゥーンベリは大坂について「この町は日本一愉しき所にて、パリがヨーロッパに占める位置を日本に於いて占めて居ると云うべく、歓楽の種の尽きることはさらになし」と記している。商館員たちはあちこちに足を運び、芝居や踊りを見て楽しんだ。

六十七頁
 「サラセン」号の英国人たちが排泄するのが、日本式にかがむやりかたと違うのを見た日本人の記録。

 打藁の如きものを以て肛門を拭、其拭いたるものを捨てず、股下のボタンをはずし入直、再び用て後は、洗いて日に乾し再三用うと云

八十四頁
 大田南畝は『一話一言』で次のように記した。

 但おらんだ人もむかしより長崎にて死たる者いくつといふ数をしらねども、終に蘭人の幽霊現じたる沙汰なし。

九十九頁から百頁
 一七八三年からしばらく長崎に逗留した旅人、古河古松軒の勘定では、彼のいた期間に三十五人ほどの遊女が出島に呼ばれていったという。日本人の男たちは、阿蘭陀行(おらんだゆき)の遊女たちが西洋人と心から楽しくつきあっているわけではないと思いたがったようで、古松軒の『西遊雑記』にも「遊女も紅毛やしきの行事は大いに嫌い、外聞あしく思うことながらも、公儀よりの御定故に無是非行事なり」などと記している。
 娼妓の揚代(あげだい)は高く、オランダ人たちの懐にはつらかったようだ。不足分あるいは贈り物としてよく砂糖が手渡された。売春はよく密輸の隠れ蓑にもなった。トゥーンベリは「彼女らの禁制破りは巧妙を極めることが多く、小さな物なら陰部や髪の毛に隠した」と記している。

百三頁
 一七七九年、ある夜遅く、たまたま出島にやってきた唐人番、番鴨池は、輸出されるばかりになっていたガラス絵の間に何枚かの春画のビイドロ絵板(ガラスえ) を発見した。さっそく長崎奉行が呼び出されたが、彼はポルノグラフィーの輸出を格別規制していなかったので事なきを得た。もっとも後に御禁制品となった。

百四頁
 佐藤中陵は、甲必丹がこう言うのを耳にした。

 我が国を出る時、我が母、我を送り出て云く、其方に於て別に心遣いはなけれども、爾が日本に至りて遊女を求めて悪疾を受く事を恐る。

 日本人は日本人で梅毒のことを「なんばん」とか「南蛮瘡(なんばんかさ)」と呼んでいたというから、皮肉な話である。

百七頁
 当時最大の蘭和辞典『長崎(ルビ ドゥーフ)ハルマ』(一八三三)の編纂に名を残す甲必丹ヘンドリック・ドゥーフ(「ヅーフ」)は、いっぺんに十二人の娼妓を出島に呼ぶなど女好きでも名を馳せたが、やっぱり子供ができた。

百九頁から百十頁
 フルスヘッキなるオランダ人が遊妓若浦に手をつけて一七五六年夏に「きり」という娘が生まれた。彼女は三十歳になってもなお遊女としてやっていたが、一七八九年には突如、娼家から失踪し、徹底した追及にもかかわらず二度と姿を見せなかった。おそらくフルスヘッキが娘の国外脱出を画策したものに違いない。

百十五頁
 男色は「薩摩好み」とも呼ばれたが、どうやら九州が一番の本場だと信じられていた。長崎もまた九州の地にあった。
 トゥーンベリは長崎で「毎日」桂川甫周と会い、二人で「深更まで」いたという。時に甫周は二十五歳。ほんの八歳だけ年上のスウェーデン医師はその甫周のことを「若く善良、溌剌として明敏」と言い「わが愛(まな)弟子」と評している。トゥーンベリの帰国後も二人の文通は久しく続いた。
 蘭学者たちの集まりのいくつかは今なら「ゲイ」と呼ぶたぐいの世界であったことも忘れてはならない。長崎と江戸の両方でしきりとヨーロッパ人のもとに足を運んだ平賀源内は生前「女嫌い」で通っていた。

百二十六頁
 桃山時代には日本にもパン屋があって、しかもけっこうおいしかった。リスボンのパンなどよりよほどうまいというので夢中になったイエズス会の宣教師がいるほどである。それらの店は異国の人間にも売ったが、日本人にも売った。十八世紀、長崎にもいくつかパン屋があって、出島に品を届けた。



倉地克直『近世日本人は朝鮮をどうみていたか』副題 「鎖国」のなかの異人たち
角川選書 2001年11月 ISBN 4-04-703330-8

八頁から九頁
 狂言「唐相撲」について、『天正狂言本』では次のように記す。次は全文である。

 一人出て明州(みょうじゅう)の津の者と名乗る。又日本の相撲取り明州の津に着く。相撲取らせんという。御門(みかど)も御出(おんいで)なさるる。まず臣下に取らする。みな負ける。後(のち)王の取る。楽ルビがくルビにて取る。王も負ける。踏みて帰る。とめ。

 この『天正狂言本』では「明州の津」という場所が特定されていることが注目される。これは寧波のことである。

十三頁から十四頁
 最近の歴史学会では従来の「鎖国」のイメージが根本的に批判されるようになった。そもそも「鎖国」の当時には「鎖国」という言葉も「国を鎖(とざ)している」という意識もなかった。
 小堀桂一郎『鎖国の思想』中央公論新社によると、「鎖国」という語が使われた最初は、享和元年(一八〇一)に長崎のオランダ通詞志筑忠雄が「鎖国論」を著した時であった。この書はオランダ商館の医師であったケンペルがヨーロッパで出版した『日本誌』を翻訳したものである。
 「鎖国」という概念は十九世紀にヨーロッパを意識することによった生み出されたものである。十七世紀前半の東アジアの現実に即して「鎖国」を再評価しなければならぬ、ということは、一九七五年に朝尾直弘が『鎖国』(小学館『日本の歴史』十七)において、翌七六年に田中健夫も「鎖国について」(『歴史と地理』二五五号)において指摘した。
 また、八三年には荒野泰典が「日本の鎖国と対外意識」(『歴史学研究』一九八三年別冊)において、「鎖国」の概念を放棄すべきことを明確に主張するに至った。荒野の主張は八八年に『近世日本と東アジア』東京大学出版会としてまとめられ、以後、歴史研究に大きな影響を与えている。

四十九頁から五十頁
 朝鮮出兵のとき日本に強制連行された朝鮮人被虜の大部分は農民であった。彼らは武士や土豪の家来として使われた。『文禄慶長役における被擄人の研究』東京大学出版会 を著した内藤雋輔は数万人にのぼると推定している。

五十二頁
 使節派遣交渉が進むなかで、五七〇〇人余りの朝鮮人被虜が送還された。これは主に宗氏の努力によるものだが、国内にはまだ多数の被虜人が残されていた。
 慶長十二年の朝鮮使節は江戸で将軍秀忠に拝謁、国書を交換したあと、帰路駿府で家康とも面会した。この年に使節団が刷還した被虜人の数は一四一八人であった。
 いまだ残留している被虜人は数知れず、薩摩にいる者だけでも三万七百余人にのぼるとの情報もあった。そこで元和三年 一六一七年に二回目の回答兼刷還使が派遣された。

五十五頁
 二回目の回答兼刷還使の従事官で『扶桑録』という使行記を著した李景稷(石門)は、次のように慨嘆した。

 大概帰るを思う者は、稍(やや)知にして誠有るの士族、及び、此(ここ)に在りて契苦の人也。其の余の、妻子有り、財産有り、已(すで)に其(そ)の居の定まれるは、頓(にわか)に帰る意無し。悪(にく)むべし、悪むべし。

 李景稷の観察によれば、自発的に帰国を希望する者は、知性や誠意のある士族に限られていた。つまり「民族」的な意識を持っていたのは支配層に限られていた。一般民衆の場合は、貧苦にあえぐ者は帰国を願うが、この地で妻子・財産・家屋などを得たものは帰りたがらないという。つまり彼らには「民族」的な自覚が乏しいというのである。「悪むべし」という言葉にも、朝鮮政府の官吏の民衆観が読み取れて、興味深い。
 朝鮮政府の記録によれば、使節たちの努力にもかかわらず、元和三年の使節が刷還した数は三二一人であり、成果は十年前の第一回とくらべて四分の一から五分の一にとどまった。

一六二頁
 『近世日本と朝鮮漂流民』(臨川書店)を著した池内敏の研究によれば、元和四年 一六一八年から明治五年 一八七二年までの約二百五十年間に朝鮮へ漂着した日本人漂流民は、九十一件千二百三十五人である。平均して二三年に一件ていどであり、多いとはいえない。他方、ほぼ同じ時期に、朝鮮人の日本への漂着は九百七十一件九千七百七十人を数える。一年に四、五件、漂着朝鮮人も四十人から五十人にのぼったが、その三分の二以上は漁船であった。

白石 広子 (著) 『長崎出島の遊女』 副題 近代への窓を開いた女たち
勉誠出版 (2005/04) (智慧の海叢書) ISBN-10: 4585071113 ISBN-13: 978-4585071112

pp.3-29
 パリ国立図書館蔵の『蛮館図』は、楢崎宗重氏が昭和61年にパリを訪れて発見した絵だが、画家は石崎融思(1768〜1846)と言われている。立正大学情報メディアセンター田中文庫蔵『長崎阿蘭陀船出島絵巻』は田中啓爾氏が昭和初年(1925)に古書入札で入手した白描画だが、照合の結果、『蛮館図』の下絵であることがわかった。
 下絵である『長崎阿蘭陀船出島絵巻』にはオランダ人に交じって多数の遊女が描かれているが、完成品として海外に渡った『蛮館図』からは遊女の姿が消されている。
 『蛮館図』は、1793〜1797年にカピタンであったゲイスベルト・ヘムミーGijsbert Hemmij に贈られたものである。『蛮館図』は綴じになっている冊子だが、その表紙には「暦数 一千七百九十七年、十一月十一日於出嶋 書之 ゲイスベルト・ヘムミー」と墨書してあったということである。
 ヘムミーは1798年に江戸参府旅行の帰路、掛川にて客死した。その経緯は庄司三男氏の論文「和蘭商館長ヘースベルト・ヘムミー」(『蘭学資料研究会』第一一八号)に詳しい。
 『長崎名勝図絵』(『長崎文献叢書』)によると、寛政四年(1792 )壬子年七月、カピタンとして渡来したゲイスベルト・ヘムミーは、寄合町油屋利十郎抱の遊女花の戸、同町京屋茂八抱の遊女常葉などを、出島に呼入れていた。彼は日本の風俗を好み、あるとき、内島勾当を招いて鍼治療をさせたことがあったが、内島が三絃の妙手であることを聞いていたので懇望して演奏させ、すっかり三絃に感激した。そこでリウベン、バンシャルという二人の黒坊(原文ママ)にこれを習わせ、二人が上達したのち、西洋音楽と合奏させて酒興をそえたという。
 黒坊が楽器を演奏したという姿は『蛮館図』の「蛮曾飲宴図」に描かれている。

pp.82-83
 古賀十二郎氏の『丸山遊女と唐紅毛人』は、遊女とオランダ人の交流についてさまざまな実例をあげている。
 マルティン・レメイというオランダ人の外科医が、1659年晩秋、たった三日の馴染みの遊女に恋慕して自殺まがいの騒ぎを起こした顛末も、詳しく載っている。



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