漢字表記の例 繁体字 廣 常用漢字/新字(日本) 広 簡体字(中国) 广 |
ポイント 日本古来の神道は「ことあげせず」で、本来は漢字文化とはなじまなかった。 聖徳太子の時代以降、漢訳仏典(いわゆるお経)の影響もあり、漢字は日本に定着した。 幕末明治の近代化の過程で、漢字教育廃止の意見が出たにもかかわらず、実際は新漢語など漢字を近代化に役立てるという逆方向に進んだ。 第二次大戦後には漢字廃止論もおきたが、ワープロの発明により、21世紀現在では「漢字廃止論が廃止された」状態となっている。 |
わたしの歴史は六歳になったばかりの満州事変勃発ではじまるのだが、その張本人、石原莞爾は満州国の国是として「五族協和」をかかげた。 天皇機関説が問題になると「国体明徴」とか「万世一系」とか「金甌無欠」とかがしきりに言われ、昭和史前半の標語は「八紘一宇」だった。 近衛内閣は「聖戦完遂」と唱えつづけ、平沼内閣は欧州情勢が「複雑怪奇」であるとして退陣し、 東条英機はいくさが敗けそうになると「本土決戦」「一億玉砕」などと強がり、いよいよ手をあげるとき鈴木内閣は「承詔必謹」と国民に諭した。 吉田茂は南席繁を「曲学阿世」とくさし、池田勇人は「所得倍増」で、田中角栄は「列島改造」、中曽根康弘は「不沈空母」だった。 こうして見ると四字熟語の連続で、字数が多いのは「統帥権干犯」(北一輝)、「大東亜共栄圏」、「ABCD包囲陣」(この二つは誰が言い出したか不明)くらいのものか。 |
筆者はそのころ、まだ文部省国語課の嘱託だったが、一も二もなく文部省を支持し、ラジオに雑誌に漢字制限論を論じたものだった。――が、三十余年たった十年ぐらい前から、この考えは捨てた。それはワープロという機械の発明によってである。 |
ポイント 漢字は「漢民族」の文字であり、漢字という文字表記システムそのものに、漢民族の美意識や宗教観、社会倫理が濃厚に反映されている。 中国でも、漢字をあえて受容しなかった、あるいは受容できなかった民族は多い。逆に古代の日本は、集約農業文明国として、漢字を含む中国式システムを積極的に導入した。 1912年の中華民国の成立以降、中国でも、漢字廃止論が散見されるようになった。が、非識字者は、ローマ字よりも漢字を学びたがった(サンスクリタイゼイション)。 1949年の中華人民共和国の成立後、中国共産党は将来的に漢字を全廃するつもりだったが、文化大革命の失敗により、その計画も破綻した。 1980年の改革開放後は、中国の富裕化、中国語ワープロの普及、ナショナリズムの高揚もあって、漢字全廃論は消滅している。 |
ポイント ベトナムと中国の関係は、文化的親近感と政治的緊張感のあいだを揺れ動いてきた。 当初は漢文だけだったが、13世紀ごろから民族固有の文字であるチュノムも漢字と併用するようになった。しかしチュノムは、日本のカナほどには普及しなかった。 20世紀以降、ベトナムでは漢字もチュノムも衰退し、ローマ字に一本化した。 |
チュノム Chu Nôm 字喃 ヴェトナム人が漢字をもとにして自国語を表すのに用いた俗字体 字喃とは南方文字の意。これは陳朝時代にヴェトナム人がモンゴル人の侵入を退け,民族意識が高揚した13〜14世紀ごろに流行し始めた。しかし十分に定着せず,現在では広くローマ字が用いられている。 |
ポイント 「高麗版大蔵経」を造った高麗も、「小中華」を自認した李氏朝鮮も、書き言葉は漢文だけだった。 李氏朝鮮第4代国王の世宗大王は1443年、民衆のために「訓民正音」(ハングルの祖型)を公布したが、日本のカナほどには定着しなかった。 第二次世界大戦後、北朝鮮は漢字を全廃してハングルに一本化し、韓国は漢字教育をやめて漢字の「安楽死」をはかり、21世紀現在、韓国も北朝鮮も、漢字を使わなくなった。 |
李朝時代、世宗王が発明したとされるハングル文字は、中国に臣下していた時代には公文書に使われる漢字と比べ賤しいものとされていた。日本占領時代、日本経由で入る欧米の文化・技術・学術に関する単語をハングルで表記するようになって普及しはじめたが、それでも漢字と併用されていた。戦後、日本語は禁止され、やがて漢字も姿を消した。それはナショナリズムから来るハングル至上主義という理由だけではない。漢字を復活させると多くの単語が日本に由来することが明らかになってしまうからだ。ハングルの歴史を追い、また韓国における漢字擁護派とハングル至上主義派の抗争を検証。ハングルの真実がわかる一冊。 |