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平成31年度/令和元年 福井県白川文字学ゼミ
第1回「元号と漢字」

令和元年(2019)5月28日(火) 講師 加藤徹 会場 福井県立図書館
最新の更新2019-6-2  最初の公開 2019-6-7

パワーポイントのビデオ化(無音)

https://youtu.be/FynvuQcZmFI
 芳村弘道・西川照子・津崎史『対談 私の白川静』(エディシオン・アルシーヴ 2018/2/20)第五章より引用。
 先生は「白川学」について、こうおっしゃいました。
「学問というものは、誰々の、という固有名詞が付いている間はまだ本物でないの。『白川静』が消えて初めて本物になる。そうやね、百年、三世代経て、僕の仕事が残っていたら、その時はね、もう『白川静』はいないの。それでね、『白川静』って女の人? という具合にね、男か女か、どこで生まれたんか、いつ死んだんか、なあんにも、その個人については知られてへんというのが一番ええの」。
 素敵な言葉です。それでもなお、私たちは「白川学」を知りたくて、「白川静という人」を追いかけます。先生の俊足に追い付くことは出来ないけれど、私たちも走ります。
 漢字一字一字の起源にも、誰々の、という固有名詞はない。
 元号も、誰がいつ考案したのか? などの固有名詞の詮索を越えてから初めて「本物」になるのかもしれない。

白川文字学で読み解く新元号「令和」の意味
以下、http://www.ritsumei.ac.jp/profile/pressrelease_detail/?id=167 より引用
2019/04/01 白川文字学で読み解く新元号「令和」“令”は神のおつげを聞いている姿から。“和”は軍門のしるしの形と誓いを収めた器から。
 立命館大学広報課
 本日、2019 年5 月1 日から施行される新元号「令和」が公表されました。この「令和」に込められた意味を、立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所は、故・白川静名誉教授(以下、白川静博士)が築いた「白川文字学」にもとづき、「すばらしく、なごやかな時代」と読み解きました。  それぞれの文字の成り立ちと意味は、プレスリリース全文をご覧ください。
(プレスリリースのPDFファイル)
 以下、上記のプリスリリースより引用。原本の画像による文字は省略。
“令” “令”は、象形で神官が冠をつけてひざまずいて神意を聞いている形です。古くは「令・命」二つの意味に用いています。元々は 「神のおつげ」、そこから「おふれ」「いましめ、おしえ」「よい、ただしい、めでたい」「させる、いいつける」等の意味を表すようになり ました。
※「令」の書き方について
 明朝体 ゴシック体 教科書体
 菅官房長官が掲げていた墨書の文字は、明朝体、ゴシック体、教科書体のいずれの活字のデザインとも違っていました。文化庁「常用漢字の字形・字体に関する指針(報告)」に示された通り、「手書きの文字にはさまざまな書き表し方がある」というメッセージがこめられているのではないでしょうか。
“和” “和”は、会意で「禾」+「口」で表されます。「禾」は軍門(陣営の門)のしるしの形であり、「口」は「誓いを収めた器」とされていま す。軍門の前で講和の誓いを行うと、平和になります。また別字に「龢」があり、「龠(やく)」は笛の象形で、「調和する」意味があります。

令和の典拠となった『万葉集』の漢文
 白川静先生は、広く東アジアの視点から言葉と文字を研究し、実り多い業績をあげました。『詩経』も『万葉集』も、それぞれ中国と日本の古典であると同時に、私たち東アジア人の共有財産です。
参考 YouTube 津崎史『白川静と万葉集』
 前編 https://youtu.be/i-mmT0SSmek 後編 https://youtu.be/rISWbdMyv-U
 白川静先生は、本当は日本の古代の文化を研究したかった。『万葉集』をやるために比較として『詩経』を選び、『詩経』をやるために同時資料として漢字の研究にとりくんだ。漢字で30年かかり、民俗学や神話学にも広がり、最後に本懐である『万葉集』に戻ってきた。若き日の白川静先生が『万葉集』にひかれた理由は、福井に生まれた幕末の歌人・橘曙覧(たちばなあけみ)の「独楽吟」の影響である。
「たのしみは まれに魚烹(に)て 児(こ)等(ら)皆が うましうましと いひて食(く)ふ時」「たのしみは そぞろ読みゆく 書(ふみ)の中(うち)に 我とひとしき 人をみし時」「たのしみは 数(かず)ある書(ふみ)を 辛(から)くして うつし竟(を)へつつ とぢて見るとき」
 新元号「令和」の典拠は、『万葉集』のなかでも東アジア的な視野で書かれた漢文でした。
 詳細は[こちらの頁]を御覧ください。

元号的なもののぬくもり感
 元号には、政治・経済・文化の三つの側面があります。ここでは文化的な側面を述べます。
 西暦とくらべ、元号はには「非合理の合理性」「ぬくもり感」があります。
「明治大学」「大正ロマン」「昭和歌謡」「平成アニメ」「令和〇〇」
 これら「元号的なもの」は、尺貫法と似ています。
 尺貫法は、不動産取引などでは使用を法律的に禁じられています。しかし日常生活では、今も尺貫法的な表現があふれています。
「三畳一間の小さな下宿」←→五・五平米の部屋つきシェアハウス
  ※「一畳」の面積は江戸間、京間、田舎間、中京間、団地間などで異なる
「五反百姓」←→五〇アールの農地の農民
  ※一反の面積の水田からとれる米はおよそ一石。
「一合徳利」
  ※一合は約一八〇ミリリットルだが、一合徳利の中の日本酒の量はそれより少ない。
 「干支的なもの」も、今もよく使われます。
「2019年は己亥の年」
「丙午(ひのえうま)の女」(迷信)
「戊辰戦争」 慶応四年=明治元年=一八六八年の戊辰の年

世界の紀年法
〇無限式紀年法・・・紀元紀年法
〇有限式紀年法・・・在位紀年法、干支紀年法、元号紀年法

 無限式紀年法は「歴史の開始」を重視します。西暦や仏暦、皇紀(神武天皇即位紀元)など。元年の設定は、宗教的紀元、政治的紀元、天文学的紀元などさまざまです。西暦のADは「anno Domini(主の)」の略、BCは「before Christ(キリストの前)」の略です。
 有限式紀年法は更新と一新を重視します。元年の設定は、君主の即位(中国の場合は即位の翌年)、機械的な循環方式(干支)、諸般の事情 (元号)などさまざまです。
 それぞれ一長一短です。

中国の紀年法
 昔は、朝廷の公式の記録は天子の「正朔」(せいさく)を奉(ほう)じましたが、庶民は六十干支を使うことが多かったほか、仏教徒は仏暦を、イスラム教徒は回暦を使うなど、多様でした。

有限式紀年法
〇在位紀年法…越年称元法と当年称元法があった。前者は前の君主の死去ないし退位後の翌年を元年とするもの、後者は前の君主の死去ないし退位の年から元年とするもの。
Cf.『春秋』哀公十四年「十有四年、春、西狩獲麟。」
 魯の哀公十四年=西暦紀元前481年
Cf. 『旧約聖書』エズラ書・冒頭「ペルシヤ王クロスの元年に当たり(下略)」
〇元号紀年法…前漢の武帝が創始。後述。
循環式紀年法
〇歳星紀年法・太歳紀年法…木星の周期、約十二年に基づく。天体観測の実測値を考慮。
〇元号紀年法…前漢の武帝が創始。後述。
〇干支紀年法…本来、六十干支は干支紀日法に使われるものだったが、後漢の時代から天体観測の実測値を考慮せず、六十干支を機械的に年次にあてはめるようになった。
〇生肖紀年法…十二支にあてた動物による紀年法で、干支紀年法の派生形。秦・漢時代から民間に定着して現在に至る。
無限式紀年法
〇孔子紀年…清末の康有為が提唱した孔子卒後紀年(孔子が死去した年を起点とする)と、梁啓超が提唱した孔子生後紀年があるが、どちらも広まらなかった。
〇黄帝紀元…清末に提唱され、中華民族の伝説の始祖・黄帝が即位したとされる年を起点とする。辛亥革命が起きた宣統3年(1911年)を黄紀4609年とした。
〇民国紀元…中華民国臨時大総統・孫文は、黄帝紀元4609年11月13日(1912年1月1日)を中華民国元年元旦として、黄紀を廃止した。
〇公元…中華人民共和国では西暦を「公暦」、西暦紀元を「公元」として採用している。

日本の紀年法
 近代以前は中国の影響が大きく、明治以降は西洋風の影響が大きくなりました。

元号の起源
 前漢の時代、まず一人の天子の治世を複数に区分する「改元」という発想が生まれ、その後、改元ごとの時代に固有の名前をつける「元号」という発想が生まれた。
〇前史・・・治世の途中で「改元」した初例は、前漢の第五代皇帝・文帝(劉邦の息子)。文帝の治世の前半は、劉邦・呂后時代の元勲とのギクシャクした関係。後半から、文帝は自分の思い通りの統治ができるようになった。
 文帝の十六年、「人主延寿」と彫られた玉杯が発見されたのを機に再び元年と称し、その後は「後元年」「後二年」・・・と称した。
 第六代皇帝の景帝(「三国志」の劉備の先祖)は、治世の途中で二度改元した。「前N年」「中N年」「後N年」などと称した。
 第七代皇帝・武帝は、治世の途中で何度も改元したのみならず、それぞれに固有の名称を与え、現代まで続く「元号」のシステムを定めた。
〇最初の元号「建元」(前140-前135)
 前漢の第七代皇帝・武帝(在位、前141-前87)は、董仲舒の献策により儒学が国家教学とした。司馬遷が『史記』を書くなど、中国の「古典文化」が定まった時代だった。
 暦についても「夏正」(「建寅の月」を正月とする太陰太陽暦)を採用した「太初暦」が作られた。現在の東アジアの「旧暦」(正確には「夏暦」と呼ぶ)の直接の始まりも、武帝の時代である。
 武帝は、即位の当初までさかのぼって即位の年を「建」として、瑞祥(ずいしょう。めでたいきざし)があらわれた年を「元」として改元を行うことにした。
 武帝の時代の元号は結局「建元 元光 元朔 元狩 元鼎 元封 太初 天漢 太始 征和 後元」であった。
〇武帝の時代、瑞祥と考えられていた宝鼎が発見され、これを機に「元鼎」という元号が決まった(元鼎元年=西暦紀元前116年)。そして過去に遡って、「建元」(即位の改元)、「元光」(天空に輝く彗星による改元)、元朔、元狩(瑞祥である一角獣を捕獲したことによる改元)などが定められた。

日本の元号
 古代の東アジアにおいて、中国の藩属国は、中国の天子が定めた「正朔」を奉じ、中国の元号を使う義務がありました。
 日本は、中国の藩属国ではないので、中国とは違う日本独自の元号を使ってきました。日本最初の元号は「大化」でしたが、日本で元号が定着するのは「大宝」からです。
 現在、元号を使っている国は、日本だけになりました。中国人も日本の元号には大きな関心をもっており、日本の改元の前後の様子は中国でも大きく報道されました。


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