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「中国」を作った四人の帝王 漢民族四千年の栄光と悲惨

最新の更新2019-08-02  最初の公開 2019-07-12

以下、早稲田大学EXTのサイトより引用。 https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/45816/。引用開始。
目標
・歴史の真実を知る面白さを学ぶ。
・現代と近未来の問題を歴史をヒントに考える。
・今も昔も変わらぬ中国社会の特徴を理解することで、日本社会への教訓を得る。
講義概要
 現在の中国はなぜ、西洋とも日本とも違う、あのような国になったのか。GDPが増えても、海外の情報が伝わっても、なぜ中国は変わらないのか。その理由は過去四千年の歴史にあります。「中国」を作った四人の帝王にスポットをあて、映像資料も使いつつ、漢民族の歴史と現在をわかりやすく解説します。
各回の講義予定
  1. 7/12 黄帝 中華民族の共通祖先
     現代の中国は多民族国家を標榜しています。中華民族の復興、というスローガンをかかげ、中華民族の共通祖先としての黄帝を持ち上げています。約五千年前の伝説の帝王である黄帝は、歴代の王朝の祭祀を受けただけでなく、中国共産党も政治的に利用しています。日本では「ユンケル黄帝液」で知られる黄帝の虚像と実像を解説します。
  2. 7/19 始皇帝 中華帝国の創始者
     紀元前3世紀の始皇帝は、その名のとおり最初の皇帝です。彼の秦王朝はわずか二代で滅びましたが、彼が創始した皇帝が君臨する帝国というシステムは、なんとラストエンペラーこと溥儀が退位する20世紀まで続きました。「一つの中国」と中央集権、というシステムは、21世紀の中国共産党も引き継いでいます。始皇帝の生涯と、彼が設計した中華帝国、現代中国における始皇帝の評価について解説します。
  3. 7/16 武帝 東アジアに残した影響
     中国の歴代王朝の中でも、2千年前の漢は強大な帝国であり、今も漢民族の誇りです。「漢字」「漢民族」の語源も、漢王朝です。前2世紀、前漢の最盛期に君臨した武帝は、領土を拡張し、儒教を国家教学化し、元号の制度を始めるなど、日本を含む東アジアの歴史に大きな影響を残しました。武帝の生涯と、現在の日本や朝鮮半島にまで残る彼の影響について解説します。
  4. 8/2 洪武帝 漢民族の栄光と悲惨
     明は、中国史上、最後の漢民族系王朝です。明は、鄭和の遠征など強大な国力を誇示する一方、内政面では恐怖政治や腐敗など陰惨な面もありました。14世紀、貧農から身を起こした朱元璋は、明王朝の初代皇帝・洪武帝となったあと、晩年の毛沢東と同様、残酷な粛清を繰り返しました。洪武帝の波乱に満ちた生涯と、その栄光と悲惨を、現代中国と比較しながら、わかりやすく解説します。
◆予備知識のない初心者のかたも大歓迎です。あらかじめ参考図書(拙著『貝と羊の中国人』新潮新書)をお読みくださると、より理解が深まると思います。
(引用終了)
7/12 黄帝 中華民族の共通祖先
別名:姓は姫ないし公孫姓、氏は軒轅(けんえん)氏または帝鴻氏。軒轅は名ともいう。戦国時代の斉国の青銅器銘文には黄帝を「高祖」と呼んだ例もある。
生没年:不明(非実在の可能性が高い)。紀元前26世紀から前25世紀ともされる。
主な事蹟:五帝のひとり(
中国の皇帝と天皇・上皇参照)
評価:「文化英雄」「人文始祖」。神話的帝王、中国文明の創始者、「中華民族」共通の始祖。
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kSR4Ux_PC1D8QlAIsxvmOJ

〇加上説
 江戸時代の学者・富永仲基(1715ー1746)が『出定後語』において提唱した仮説。後発の教派・学派ほど、自己を権威づけるため、自分たちの起源をより古い時代の伝説的人物に仮託する傾向がある、という考え。
 近代日本の東洋史学者・内藤湖南(1866ー1934)は、加上説を援用し、古代中国の諸子百家の成立時期を推定した。
 春秋時代の孔子は、周公を最も尊敬した。
 戦国時代の墨子は、周公より古い伝説の帝王、禹を尊敬した。
 墨子の教えを報ずる墨家集団を攻撃するため、孟子は、禹よりも古い堯と舜を理想化した。
 孟子よりもあとに成立した道家集団は、老子を孔子の先輩とし、また、堯舜よりも古い黄帝を尊った。
 以下、農家と易学は、それぞれ神農と伏羲を開祖として仰いだ。
 古代中国の伝承では、古い順に、
伏羲 神農 黄帝 堯 舜 禹 周公
であり、それぞれを尊ぶ学派は、
易学 農家 道家 孟子 墨子 孔子
である。学派の実際の成立時期と、それぞれが理想化して始祖と仰ぐ人物の年代順はちょうど反対の関係になっている、と、内藤湖南は推理した。
 つまり、道家思想=老荘思想の成立時期は、彼ら自信の主張とは裏腹に、孔子や孟子の儒教思想よりも新しい、と内藤湖南は推定した。

〇黄帝の伝説
 中国古代の伝説上の帝王。炎帝神農氏の時代の末、諸侯を攻める炎帝を阪泉の地(河北涿鹿(たくろく)県北西)に破り、妖怪のような蚩尤(しゆう)を涿鹿で殺し、天子となった。
 戦国時代以降に成立したと思われる伝説によると、黄帝は「文化英雄」でもあり、鏡や車、舟、衣服、家屋、弓矢などのさまざまな道具の発明や、文字や音律、暦などの文物制度の制定にもかかわった。
 現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』と『黄帝内経霊枢』も黄帝の著作に仮託されている(日本の栄養ドリンク剤「ユンケル黄帝液」の語源)。
 中国では唐代以降散佚し、日本の『医心方』(10世紀)に収録されて残った房中術の古典『素女経』も、黄帝に仕えた神女「素女」に仮託されている。
 前漢の初期には、黄帝は老子と結びつけられ、「黄老の術」と呼ばれた道家思想の実践が流行した。
 後漢の時代に成立したと思われる『列仙伝』によると、黄帝は首山(山西省浦阪県)の銅を採り、荊山(河南省)の麓で鼎(かなえ)を鋳造させた。鼎が完成すると、天から、髯(あごひげ)を垂らした龍が迎えにおりてきた。黄帝は龍に乗って昇天した。群臣もいっしょに昇天しようと龍の髯などにつかまったが、落ちてしまったという。別の伝説では、黄帝といっしょに昇天できた臣下は七十二人だけだったと言う。

〇黄帝陵
 「天下第一陵」とも称される。中華人民共和国陝西省延安市黄陵県に現存する陵墓遺跡。黄帝は昇天し、地上に残された衣服と冠を葬った「衣冠塚」であると伝えられる。
 帝陵の最初の祭祀は紀元前442年に始まったとされている。唐の大暦5年(770年)に廟の建立。以来、歴代王朝が黄帝の祭祀を行ってきた。
 約333ヘクタールに及ぶ広大なエリアに、6万本以上の「古柏」があり、そのうち3万本は樹齢千年以上である。なお、中国の墓地に植樹される「松柏」の「柏」は、日本のカシワとは全く違う木で、針葉樹の一種であるコノテガシワのこと。
 環境考古学の安田喜憲(やすだ・よしのり)氏が担当したNHKの番組・人間大学「森と文明」(1997年)でも、黄帝陵の森の映像は、「レバノン杉」と並んで印象的に紹介されていた。

〇黄帝紀元
 西洋のキリスト紀元や日本の神武紀元に対抗して、清末のナショナリズム高揚のなかで提唱された紀元。「黄紀」とも言う。実際に使われたのは短命だった。
 清末、康有為ら変法派は孔子紀年を提唱した。革命派の学者・劉師培はこれに反対し、光緒29年(1903年)、『国民日日報』に「黄帝紀年論」を発表し、黄帝誕生の年を紀元とすることを主張し、1903年を黄帝紀元4614年とした。
 革命家の宋教仁は、黄帝即位の年を紀元とすることを主張し、1904年を黄帝紀元4602年とした。
 武昌蜂起(辛亥革命)で中華民国湖北軍政府が成立すると、清朝の元号「宣統」を廃止し、宣統3年(1911年)を黄帝紀元4609年とした。各省政府もこれに応じた。孫文が中華民国臨時大総統の地位に就くと、通達をくだし、黄帝紀元4609年11月13日(1912年1月1日)をもって中華民国元年元旦とし、黄帝紀元の使用を停止した。

〇漢民族復興の象徴としての黄帝
 魯迅(1881-1936)が日本に留学していた数え23歳のときに詠み、自分の写真に書き付けた漢詩「自ら小像に題す」。
 霊台無計逃神矢  霊台 神矢を逃るるに計無し
 風雨如磐闇故園  風雨 磐の如く故園を闇とす
 寄意寒星荃不察  意を寒星に寄するも荃は察せず
 我以我血薦軒轅  我は我が血を以て軒轅に薦めん
 レイダイ、シンシをノガるるにケイナし。フウウ、イワオのゴトくコエンをヤミとす。イをカンセイにヨするもセンはサッせず。ワレはワがチをモッてケンエンにススめん。
 清末の専制政治という時代背景もあって、魯迅はわざと難解な表現を使っている。解釈には諸説があるが、最後の一句の解釈だけは共通している。
 霊台(清末の統治者階級を指すか)はもはや神の矢から逃れるすべはない。風雨は岩のように重く、ふるさとは闇だ。この思いを寒星に寄せても「荃は察せず」(『楚辞』「離騒」の名句「荃不察余之中情兮」をふまえる)である。私は私の血を黄帝に捧げよう。
(中国語の「簡体字」による表記)鲁迅《自题小像》 灵台无计逃神矢,风雨如磐暗故园。寄意寒星荃不察,我以我血荐轩辕。

〇中華民族の強制的拡大の歴史と黄帝
 清末の革命思想家は、清朝の支配民族である満洲人を「韃虜(だつりょ)」という蔑称で呼ぶ。
 1900年11月、清の政治家伍廷芳が講演で「中華民族」という言葉を使う。ジャーナリスト・梁啓超は、1905年の時点では満洲人やモンゴル人、チベット人を中華民族に含めなかったが、1922年には満洲人も中華民族に含めた。
 現在、中国政府は「中華民族」を「漢族と55少数民族の総称」と規定している。ウイグルやチベットも「中華民族」とし、黄帝崇拝を推し進めている。


7/19 始皇帝 中華帝国の創始者
別名:秦始皇帝、嬴政、趙政、秦王政、祖龍
(姓は「嬴(エイ)」、氏は「趙」、諱は「政」)
生没年:前259年-前210年
主な事蹟:第六代秦王として「六国」を統一。同文同軌。皇帝制を創始
評価:暴君か英雄か評価は分かれる
YouTube 始皇帝
〇大辞林 第三版の解説
しこうてい【始皇帝】(前259〜前210) 中国、秦の第一世皇帝(在位 前221〜前210)。第三一代秦王。名は政。紀元前221年戦国の六国を滅ぼし、初めて中国全土を統一、自ら皇帝と称した。郡県制を施行して中央集権化を図り、焚書坑儒(ふんしよこうじゆ)による思想統制、度量衡・文字・貨幣の統一、万里の長城の増築などを行なった。

〇ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
始皇帝 しこうてい Shi-huang-di; Shih-huang-ti
[生]前259
[没]始皇帝37(前210).7. 沙丘,平台(河北省平郷県)
 中国最初の古代統一帝国秦の創設者。名は政。父荘襄王の死により 13歳で即位。丞相呂不韋の失脚した始皇帝 10 (前 237) 年頃から独裁を始め,王翦 (おうせん) ,蒙武 (もうぶ) らの将軍を派遣し6国を次々に滅ぼし,同 26年天下を統一。法家の李斯らの建策により中央官制の整備,郡県制の実施,度量衡・文字の統一,焚書坑儒による思想統一など大きな成果をあげる一方,匈奴を攻撃して万里の長城を築き,南方に領土を拡大し,秦の名を外国にまで広めた。しかし,阿房宮,驪山 (りざん) の始皇帝陵などの大土木事業や外征のため国民に大きな負担を与えた。

〇ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
始皇帝 しこうてい Shi-huang-di; Shih-huang-ti
[生]前259
[没]始皇帝37(前210).7. 沙丘,平台(河北省平郷県)
 中国最初の古代統一帝国秦の創設者。名は政。父荘襄王の死により 13歳で即位。丞相呂不韋の失脚した始皇帝 10 (前 237) 年頃から独裁を始め,王翦 (おうせん) ,蒙武 (もうぶ) らの将軍を派遣し6国を次々に滅ぼし,同 26年天下を統一。法家の李斯らの建策により中央官制の整備,郡県制の実施,度量衡・文字の統一,焚書坑儒による思想統一など大きな成果をあげる一方,匈奴を攻撃して万里の長城を築き,南方に領土を拡大し,秦の名を外国にまで広めた。しかし,阿房宮,驪山 (りざん) の始皇帝陵などの大土木事業や外征のため国民に大きな負担を与えた。

〇「中国」の代名詞的に使われる王朝名はごく一部
秦・・・訓読みは「はた」。日本の「秦氏」(はたうじ)は、秦の始皇帝の末裔で、秦韓(辰韓)経由で日本に渡来したとされる。秦はChinaの語源とも言われる。
漢・・・訓読みは「あや」。日本の「漢氏」(あやうじ)は後漢の霊帝の子孫と称する阿知使主を開祖とする。
唐・・・訓読みは「から」(語源は古代朝鮮半島南部の小国群の総称「伽羅」から)。
契丹・・・北宋時代のモンゴル系の征服王朝「遼」を建国した民族の名前。英語Cathayの語源。
cf.
漢民族の歴史と現在
〇始皇帝の容貌
 生前の肖像画は残っていない。司馬遷の『史記』秦始皇本紀には「秦王為人,蜂準,長目,摯鳥膺,豺聲」云々とある。鼻はハチの腰のように長くとがり、眼は切れ長で、胸はタカのように突き出し、声はヤマイヌのようであった、とある。

〇天子の呼称  殷の時代には「王」。神格化の称号は「帝」
 春秋時代までは「王」。
 戦国時代に各地に「王」が乱立。斉が「東帝」、秦が「西帝」と名乗った時期も。
 始皇帝が天下を統一し、「皇帝」号を始めた。
 以下、「中国の皇帝と天皇・上皇」も参照のこと。

殷王朝(商王朝)…中国国外の学界も実在を認める王朝としては最古。
 殷王朝の自称は「商」。
 殷の最後の君主は、史書では「紂王」、甲骨文字など考古学的物証では「帝辛」(前1100年ごろ)。
 考古学的知見によれば、殷の最高神は「帝」であった。「天」は殷の時代にはまだ神聖な意味をもたなかった。「帝」は「締」「蹄」と同系で「一か所に集中する」というイメージがあった。
 殷の時代の君主号は「王」や「帝」である。「王」も「帝」も天下で一人であった。
 「王」は「旺」と同様「旺盛である」「大きく広がる」というイメージがある。

西周…前11世紀-前771年
 殷王朝末期の西伯(のちに追尊して文王)の息子・武王は、弟の周公旦や、文王が見出した軍師の「太公望」こと呂尚とともに、殷の紂王を打ち、周王朝をたてた。
 周は最高神として「天」を尊んだ。「天子」たる「王」は、天下に一人だけの存在とされた。
Cf.「一天万乗」(いってんばんじょう) 天子のこと。
 「明治維新」の語源は『『詩経』大雅・文王篇の「周雖旧邦、其命維新」周は旧邦なりといえども、その命これ新たなり。
 岐阜という地名の由来は、織田信長が、周の文王の本拠地であった「岐山」と、孔子の故郷である「曲阜」を合成したもの(他にも別の説がある)。

春秋時代…諸子百家の時代の幕開け。
 春秋時代も、中原諸国では「王」は周の君主一人だけだが、「南蛮」諸国では呉王や越王、楚王など勝手に王号を名乗っていた。
 狭義の春秋時代は、魯(ろ)国の史官の編年体の史書『春秋』が記載する前722年から前481年まで。孔子(前552-前479)は春秋時代の最後の人物ということになる。
 広義の春秋時代は、周の東遷から、晋が三国に分裂した前453年まで、ないし、その三国が正式に独立した前403年まで。
Cf.「尊王攘夷」もともとは中国古典の言葉。春秋時代の諸侯の「覇者」が中心となって天下の勢力を糾合し、周王朝の天子を尊び、「中国」すなわち中原に侵入する夷狄(いてき)を打ち払う、という意味。幕末の日本でも用いられたが、天皇号にあわせて「尊皇攘夷」と書き換えることもあった。

戦国時代…王号のインフレ化と帝号の部分的復活
 戦国時代には、中原諸国も勝手に王号を名乗り、周王の権威は落ちた。
 前288年、斉(せい)の湣王(びんおう)が東帝と称し、秦の昭襄王が西帝と称した。が、一時的に終わった。

秦の始皇帝…「皇帝」号の成立
 秦王政が天下を統一して、戦国時代は終わった。彼は、旧来の王号よりも格上の君主号を作ろうとして、臣下たちと審議した。
 臣下は「三皇五帝の三皇のうち、泰皇がいちばん偉いので、新しい君主号は『泰皇』にしましょう」と建議した。
 秦王政は「泰皇の泰を取り去って皇とし、上古の帝号を採用して、あわせて『皇帝』にしよう」と言った。
 こうして前221年、秦王政は「秦始皇帝」となった。
司馬遷『史記』秦始皇本紀によると、始皇帝の臣下たちは、
「古有天皇、有地皇、有泰皇、泰皇最貴。臣等昧死上尊号、王為『泰皇』。命為『制』、令為『詔』、天子自稱曰『朕』。」
と建議した。秦王政は、
「去『泰』、著『皇』、采上古『帝』位号、号曰『皇帝』。他如議。」
と応じた。こうして「皇帝」号と、「朕」「詔」などの用語が確立した。
始皇帝の死後、二世皇帝(胡亥)はクーデターで自殺させられ、三代目の秦王子嬰は帝号を名乗らぬまま処刑された。皇帝号は、劉邦の漢帝国に受け継がれた。


〇「皇帝」の本義
 以下、塚本史『始皇帝』(講談社文庫),pp.526-532「解説」,2009年8月12日刊,の拙文より引用。引用開始。
 過去、二千年以上にわたって膨張と統一を維持してきた「中 国」という世界の秘密を知るキーワードを一つ選ぶとするなら 、それは「皇帝」である。
 古代中国において、「皇」は膨張の神を、「帝」は集中の神 を指した。
 「皇」の字形の上半分の「白」は、字源的には「自」すなわ ち「はじめ」の意味である。「皇」の原義は「神のような人類 の始祖」だ。「皇(コウ)」という字音は、果てしなく広がる大 いなる空間を意味する「広(コウ)」、広々として何もない「荒( コウ)」、大地の色で膨張色でもある「黄(コウ)」、四方に広 がるかがやき「光(コウ)」「煌(コウ)」などと同系で、末広が りという語感をもつ。
 「帝」の字源は、複数の糸をたばねてひきしめる形である。 糸できつくしめあげるのは「締」。ウマやシカのひきしまった ひづめは「蹄」。のどもとをキュッとひきしめて鳴くのは「啼 」。ものごとの肝心かなめの大切なところは「要諦」。太古の 殷の時代、「帝」は、万物をたばねて支配する最高の神、とい う意味だった。
 膨張と永続の神「皇」と、一極集中の神「帝」。
この二つを組み合わせた君主号を考案したのは、始皇帝自身で ある。
「泰皇から皇を残し、上古の帝位の帝と組み合わせて『皇帝』 と呼ぶことにいたせ。また、朕を始めとして、以後は二世、三 世と千万世に至るまで、これを無窮に伝えよ」(本書391頁)  始皇帝が「帝」号にこだわったのには、わけがある。
彼の曾祖父にあたる秦の昭襄王が「帝」号を名乗った先例があ るのだ。
中略
 皇帝は、日本の天皇とも、西洋のエンペラーとも、中東のス ルタンやカリフとも違う。
 例えば、古代ローマ帝国のエンペラーは、「皇帝」ではなか った。行政・軍事上の重要な官職や権限がある一人の人物に集 中している状態が存在するだけだった。そのような人物は「イ ンペラトル(最高司令官)」「アウグストゥス(尊厳者)」「カエ サル(ユリウス・カエサルを継ぐ者)」「プリンケプス(筆頭市 民)」など、さまざまな称号を一身に兼ね備えていた。日本語 では便宜的に「皇帝」と呼ぶが、実は確信犯的な誤訳である。  日本史でも、徳川家康とその後の歴代の後継者たちは「征夷 大将軍」「源氏長者」「日本国大君」など、行政・軍事上の権 限を集中的に兼任した。江戸時代、日本を訪れた西洋人は、徳 川将軍をエンペラーと呼んだ。逆にいえば、古代ローマ帝国の エンペラーは、元老院から大権を授けられた「征夷大将軍」だ った。
 皇帝は王より格上だが、エンペラーは必ずしもキングより格 上ではない。キング(およびクイーン)は貴族の血筋の最高位で あり、エンペラーは統治者の最高位なので、そもそも比較の土 俵が違う。コルシカ島出身のナポレオンは、血筋からいってフ ランスのキングにはなれなかったが、エンペラーにはなれた。 近代イギリスの国王は、植民地たるインドのエンペラーと、宗 主国たるイギリス本国のキングを兼任したが、むろん、本国の キングのほうが植民地のエンペラーより格下だった訳ではない 。
 中東のカリフやスルタン、シャーも「皇帝」と訳されること があるが、やはり中国の皇帝とは異質である。
 始皇帝の死後、わずか四年で秦帝国は滅んだ。しかし「一つ の中国」「皇帝」という理念は生き残った。二十世紀の初め、 「末代皇帝」こと溥儀(ふぎ)が退位するまで、皇帝制は二千年 以上も続いた。皇帝という制度が消滅したあとも、「一つの中 国」や絶対的権力の一極集中という中華帝国の理念は、中国社 会を呪縛しつづけている。
「千万世に至るまで、これを無窮に伝えよ」という始皇帝の意 志は、ある意味では達成されたといえるかもしれない。
引用修了。

〇小説、映画、漫画、他
他、多数

7/16 武帝 東アジアに残した影響
別名:廟号(びょうごう)は世宗。姓名は劉徹
生没年:前156年−前87年(享年七十) 在位は前141年−前87年(足かけ55年)
主な事蹟:高祖劉邦の曽孫、前漢第7代の皇帝。儒教の国家教学化を公認、政治や文物の制度を強化、四方への外征を盛んに行った。
評価:武帝の時代の中国の国力は、ざっくり見積もって始皇帝の時代の二倍になっていた。武帝は政治・経済・文化の面で強大な中華帝国を作ることに成功したが、国庫の蓄積を蕩尽したり、専売制により民生を圧迫するなど、その功罪をめぐる評価は今も論議が尽きない。

〇さまざまな「武帝」
 「武帝」という諡号(しごう)を死後におくられた帝王は多い。
 単に武帝と言うと「漢武」こと前漢の武帝(劉徹)を指すことが多いが、魏の武帝(曹操)、西晋の武帝、梁の武帝、その他を指すこともある。

〇武帝に関連する成語
★傾城傾国(けいせいけいこく)、傾国の美女・・・李夫人の故事
★歓楽極まりて哀情多し(かんらくきわまりてあいじょうおおし)・・・武帝が詠んだ漢詩「秋風辞」の一節「歓楽極兮哀情多」から。楽しみ尽きて哀しみ来る。
★張騫鑿空(ちょうけん さくくう)・・・武帝が張騫(ちょうけん ?−前114年)を西域に派遣した故事
★星槎を泛かぶ(せいさをうかぶ)・・・俗世間を離れること。張騫が筏(いかだ)に乗って天の川まで至った、という説話に基づく。
★汗血の馬(かんけつのうま)・・・汗血馬(かんけつば)。武帝が、寵愛している李夫人の兄・李広利を「弐師将軍」に封じて西域の大宛国に遠征させて獲得した駿馬の種類。血のように赤い汗を流し、一日に千里を走ったという。
cf.坂崎紫瀾(さかざき しらん)の伝記小説『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)・・・坂本龍馬が有名人になるきっかけとなった小説 ★反魂香(はんごんこう)・・・武帝が李夫人と死別したあと、道士に命じて霊薬を金の炉で焚き上げさせ、煙の中に夫人の姿を見たという故事。日本の歌舞伎の『傾城反魂香』や落語『反魂香』の元ネタ。
★立子殺母(りっしさつぼ)・・・外戚(がいせき)の専横を未然に防ぐ目的で、息子を後継者に指名するのとあわせて、その生母を始末すること。武帝はその先例を開いた。

〇日本への影響

〇武帝の政治的事蹟
★内政 知識人の活用と中央集権
 「郷挙里選」という官吏任用法を採用し、各地の有能な人材を推挙させ、中央集権を強化した。
 「推恩の令」を出し、遺産相続の兄弟平等化をすすめることで、諸侯王の領土を細分化して諸侯王の権勢を弱め、中央集権を強化した。
 董仲舒の献策をいれて五経博士を設置、儒教を官学とする道をつけた。
 商人あがりの政治家・桑弘羊の献策をいれて、均輸法・平準法や、塩・鉄・酒の専売制を始めて国家の財源を確保したが、民生や民間の自由な商業を圧迫した。cf.『塩鉄論』
★外征 積極的な軍事行動
 北方遊牧民族の国・匈奴(きょうど)への外征。衛皇后の弟である衛青と、その甥の霍去病(かくきょへい)の両将軍に匈奴を攻めさせた。
 対匈奴軍事作戦の一環として、張騫を西域の大月氏国に派遣し、シルクロードの交易にも多大の影響を与えた。
 南越国(現在の広東省、広西省、ベトナム北部)に大軍を派遣して前111年に征服し、南越九郡(南海九郡とも。南海郡、蒼梧郡、合浦郡、鬱林郡、交阯郡、九真郡、日南郡、珠崖郡、儋耳郡)を置いた。
cf.いわゆる「魏志倭人伝」の一文「有無する所、儋耳・朱崖と同じ」。
 紀元前109年、武帝は現在の雲南省東部にあった滇(てん)を征服し、益州郡を置いた。
 前108年、朝鮮半島に遠征し「漢の四郡」を置いた。

〇武帝と女性たち
 武帝が登場するまでの前漢は、始皇帝の秦にくらべても、地味な王朝だった。高祖劉邦の建国、未亡人である呂后の専権、文景の治(文帝と景帝の治)、など、宮廷内の波風は民間の生活に悪影響を与えることはなく、人民は休息し、国庫は豊かになった。
 景帝の十男(九男説もある)で「彘」(てい、ブタの意)という幼名を与えられた劉徹は、本来なら、ただの皇子として平凡な生涯を送るはずだった。しかし、祖母である竇氏(文帝の皇后)の強い意向で、先に皇太子に立っていた異母兄を押しのけて、前141年、数え十六歳の若さで即位した。皇后になったのは、竇氏の孫娘でいとこである陳皇后だった。
 気位の高いセレブであった陳皇后との夫婦仲は悪かった。武帝は、姉の平陽公主のやしきのコーラスガールで、私生児であった衛子夫を見初めた。衛子夫は武帝の長男を産み、衛皇后となり、一族もとりたてられたが、最晩年は「巫蠱の乱」で息子ともども悲惨な最期をたどった。
 その他にも、武帝は生涯で数多くの女性を寵愛した。なかでも「傾国の美女」「傾城」の由来となった李夫人は有名。
 武帝が生涯で最後に寵愛した鉤弋夫人(こうよくふじん)、別名、趙ul(ちょうしょうよ)または拳夫人は、武帝の末子でのちに第八代皇帝・昭帝となる劉弗陵(前94年-前74年)を生んだ。武帝は、劉弗陵を後継者に指名するにあたり、鉤弋夫人を殺害させた(史学界ではこのようなやりかたを「立子殺母」「子貴母死」と呼ぶ)。


8/2 洪武帝 漢民族の栄光と悲惨
別名:朱重八→朱興宗→朱元璋(字は国瑞)、洪武帝、廟号は太祖、「明の太祖」
生没年:1328年-1398年
主な事蹟:紅巾の乱、北伐、皇帝独裁、一世一元制、大粛清
評価:清の歴史家・趙翼の評は「蓋明祖一人、聖賢、豪傑、盗賊之性、実兼而有之者也。」(ひとりで聖賢、豪傑、盗賊の性質をあわせもっていた)


〇中国史の近世
 日本の近世は江戸時代(戦国時代も含める説がある)。皇居は江戸城。
 中国の近世は明清時代(宋元時代も含める説がある)。北京の紫禁城(故宮)は明の永楽帝が改築。

 明(1368年-1644年)は、初代皇帝の影響を後々まで引きずる。

〇朱元璋の生涯
 1328年、濠州の鍾離(現在の安徽省鳳陽県)の貧しい佃農(でんのう)の家に生まれる。
 1344年、飢饉と疫病で親兄弟が死去。皇覚寺(こうかくじ)に入って托鉢僧となり各地を放浪。
 1351年、紅巾(こうきん)の乱が起こる。翌年、濠州で郭子興(かくしこう)も元に反旗を翻した。朱元璋は一兵卒として郭子興の反乱軍に参加。異相がきっかけで郭に認められて頭角を現し、郭の養女であった馬氏(後の馬皇后)と結婚した。
 1355年、郭子興が死去。朱元璋は郭軍の指揮権を掌握し、紅巾軍の一部将となる。同郷の湯和(とうわ)、徐達(じょたつ)、李善長(りぜんちょう)ら、後の「開国の功臣」も集まる。

NHK『テレビで中国語』テキスト 連載「標語でたどる なるほど! “中国の歴史”」2019年1月号用の原稿より自己引用
高筑墙,广积粮,缓称王
Gāo zhù qiáng, guǎng jī liáng, huǎn chēng wáng
【訳】高く壁を築き、広く食料を集め、ゆっくり王だと名乗る。
【意味】漢文訓読で読み下すと「高く牆(しょう)を築き、広く糧(りょう)を積み、緩(ゆる)ゆる王を称(しょう)せよ」。14世紀、元の時代の末、天下は乱れ、群雄割拠の状態になった。群雄の一人・朱元璋(しゅげんしょう)(後の明(みん)の初代皇帝)は、民間の有識者・朱(しゅ)升(しょう)に、天下を取るための戦略方針をたずねた。朱升はこの「九字の計」を献策した。

【解説】正月である。「今年の我が家の目標」などで盛り上がるご家庭や、仕事始めに「我が社の今年の経営方針」を発表する会社も多かろう。今回は方針策定に関する標語を取り上げる。
 朱元璋は1328年、安徽省鳳陽県の貧農の末っ子として生まれた。数え17歳のとき、両親や兄たちは凶作のため衰弱死して全滅。身寄りを失った朱元璋は托鉢僧となり、ホームレス同然の漂泊生活を送った。彼はもともと美男子とは言えなかったが、栄養不足と苦労のせいで、ますますひどい顔になった。
 元王朝は悪政により統治能力が低下し、「紅巾の乱」が起きた。24歳の朱元璋は、自分で運命を占い、反乱軍の一派に身を投じることにした。頭目は、郭子(かくし)興(こう)という任侠(にんきょう)肌の親分だった。郭子興は朱元璋の顔を見て「てめえみたいな面構えは見たことがねえ」と興味をもち、身近に置いて重用し、自分の養女(後の馬皇后)をめあわせた。人間、何が幸いするかわからぬものである。
 平和と乱世では価値観が逆転する。貧農出身の朱元璋は、貧農出身者が多い反乱軍のあいだで人気を得て、めきめき頭角を現した。朱元璋は「呉国公」を名乗り、郭子興が死去した後はその勢力を受け継ぎ、江南地方を拠点に天下をねらう群雄の一人となった。
 元末、混乱を避けて引退した役人も多かった。学識者の朱升もそんな一人だった。朱元璋は朱升を呼び出し、時局についての見解と今後について意見を聞いた。
「元王朝は滅亡寸前だ。天下は乱れ、群雄が割拠している。私は江南の要衝を押さえている。今後はどのような方針で戦えばよいか」
 朱升は、韻を踏んだ九文字の言葉で答えた。
「高く牆を築き、広く糧を積み、緩ゆる王を称せよ。――江南は農工商業が発達した豊かな土地です。今は下手に動かず、拠点に高い城壁を築き、防備を固めてください。広い地域から糧秣を集めて高く積み上げ、きたるべき戦いに備えてください。当面はいままでどおり、呉国公と名乗り続けてください。あせりは禁物です。天下の情況の推移を見守りつつ、時がきたら、力による覇道ではなく、徳による王道を行う王者だと名乗ってください」
 朱元璋は喜んだ。九字の計を実践して力を蓄えた朱元璋は、1364年からは「呉王」を名乗り、ライバルたちと戦って勝った。
 1368年の正月、朱元璋は応天府(現在の南京)で皇帝に即位し、元号を洪武、国号を大明と定めた。明王朝の初代皇帝・太祖の誕生である。中国史上、南方から興って天下を統一した王朝は、明が初めてである。朱元璋は、皇帝の在位中は元号を変えないという「一世一元制」を開始したので、元号から「洪武帝」とも呼ばれる。
 九字の計を献策した朱升は重用され、明王朝の礼制を定めるなど有識者として国政に参与した。洪武帝はその後、陰惨な粛清を始めるが、それはまた別の物語である。
 簡にして要領を得た“高筑墙,广积粮,缓称王”は、施政方針の標語のお手本となった。
 時は流れ、1973年1月1日の元旦。「文化大革命」に揺れていた中国の新聞や雑誌は、一斉に毛沢東の
“深挖洞,广积粮,不称霸”
 Shēn wā dòng,guǎng jī liáng, bù chēng bà
という指示を掲載した。「深く穴を掘り、広く食糧を積み上げ、覇をとなえず」。当時は東西冷戦と中ソ対立の時代で、核戦争の危機もあった。毛沢東は、国防のために、防空壕や地下空間をたくさん作り、食糧を自給して蓄積する一方、中国のほうから他国に攻撃や圧迫を加えない、という方針を述べた。朱升の「九字の計」をまねたものだが、韻は踏んでいない。
(以下略)
 1368年、各地のライバルと戦って勝ち残った朱元璋は、応天府(南京)で帝位につき、国号を明と定め、年号を洪武とした。また一世一元の制を始めた。
 洪武帝は、自分の故郷を「中都」に指定、各地から数十万人を強制移住させて大規模な造営を始めたが失敗した。
 cf.[
「鳳陽調」と「打花鼓」(明清楽資料庫)]
 洪武帝は当初、元の制度を踏襲したが、外敵に勝利すると、政治改革と粛清を行い始める。
 1376年、空印の案。地方官を大量処刑。
 同年、洪武帝は日本から来た禅僧・絶海中津(ぜっかいちゅうしん)を謁見。秦の始皇帝が伝説の仙島「蓬莱」に徐福を派遣した故事をふまえて、漢詩を応酬する
絶海中津が詠んだ七言絶句
  熊野峰前徐福祠 満山薬草雨余肥
  只今海上波涛穏 萬里好風須早帰
熊野峰前 徐福の祠
満山の薬草 雨余に肥ゆ
只今 海上 波濤 穏やかなり
万里の好風 須らく早く帰るべし
 ※和歌山県新宮市に伝わる徐福伝説をふまえる。

 洪武帝が次韻した七言絶句
  熊野峰高血食祠 松根琥珀也応肥
  当年徐福求仙薬 直到如今更不帰
熊野 峰は高し 血食の祠
松根の琥珀も 也た応に肥ゆべし
当年の徐福 仙薬を求め
直ちに如今に到って更に帰らず
 1380年、胡惟庸(こいよう)の獄。多くの功臣を粛清した。これを機に中書省を廃止し、宰相を置かず、六部(りくぶ)を皇帝に直属させた。
 同年、洪武帝は日本国王「良懐」から国書を読んで激怒した。「惟中華之有主、豈夷狄而無君(まさか中華にだけ君主がいて、夷狄に君主はいないとでも?)」「相逢賀蘭山前、聊以博戲。(中国の奥地にある賀蘭山の前で、ちょっと勝負いたしましょう)」云々。
 1381年、賦役黄冊(ふえきこうさつ)を制定し、里甲制を施行。
 1382年、錦衣衛(きんいえい)を設置。事実上の秘密警察(永楽帝の時代の1420年に東廠が設置されると、その下部組織となる)。
 同年、馬皇后が死去(1532年生まれ)。
 1386年、林賢事件。日本のスパイ。
 1392年、皇太子の朱標が急死。朱標の息子が皇太孫に立てられた(後の建文帝)。
 1393年、藍玉(らんぎょく)の獄。多くの功臣を粛清した。胡惟庸の獄とあわせて「胡藍の獄」のとも言う。
 1397年、民衆教化のため六諭(りくゆ)を定めた。「父母に孝順にせよ、長上を尊敬せよ、郷里に和睦せよ、子孫を教訓せよ、各々生理に安んぜよ、非為をなすなかれ」
 1398年、崩御。享年71(満69歳没)。

〇朱元璋と毛沢東の類似性
 「聖賢、豪傑、盗賊之性」を一身に兼ね備えていた。
 農民出身だが、それなりのインテリだった。
 若いころ、反乱軍に身を投じた。
 天下を取ったあと、功臣や旧友を次々と粛清した。
 後継者として期待していた息子に、先立たれた。
 人民に「お説教」するのが好きだった。
 それなりに農民思いだったが、それがかえって農民たちを苦しめた。
 
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