NHK『テレビで中国語』テキスト 連載「標語でたどる なるほど! “中国の歴史”」2019年1月号用の原稿より自己引用
高筑墙,广积粮,缓称王 Gāo zhù qiáng, guǎng jī liáng, huǎn chēng wáng 【訳】高く壁を築き、広く食料を集め、ゆっくり王だと名乗る。 【意味】漢文訓読で読み下すと「高く牆(しょう)を築き、広く糧(りょう)を積み、緩(ゆる)ゆる王を称(しょう)せよ」。14世紀、元の時代の末、天下は乱れ、群雄割拠の状態になった。群雄の一人・朱元璋(しゅげんしょう)(後の明(みん)の初代皇帝)は、民間の有識者・朱(しゅ)升(しょう)に、天下を取るための戦略方針をたずねた。朱升はこの「九字の計」を献策した。 【解説】正月である。「今年の我が家の目標」などで盛り上がるご家庭や、仕事始めに「我が社の今年の経営方針」を発表する会社も多かろう。今回は方針策定に関する標語を取り上げる。 朱元璋は1328年、安徽省鳳陽県の貧農の末っ子として生まれた。数え17歳のとき、両親や兄たちは凶作のため衰弱死して全滅。身寄りを失った朱元璋は托鉢僧となり、ホームレス同然の漂泊生活を送った。彼はもともと美男子とは言えなかったが、栄養不足と苦労のせいで、ますますひどい顔になった。 元王朝は悪政により統治能力が低下し、「紅巾の乱」が起きた。24歳の朱元璋は、自分で運命を占い、反乱軍の一派に身を投じることにした。頭目は、郭子(かくし)興(こう)という任侠(にんきょう)肌の親分だった。郭子興は朱元璋の顔を見て「てめえみたいな面構えは見たことがねえ」と興味をもち、身近に置いて重用し、自分の養女(後の馬皇后)をめあわせた。人間、何が幸いするかわからぬものである。 平和と乱世では価値観が逆転する。貧農出身の朱元璋は、貧農出身者が多い反乱軍のあいだで人気を得て、めきめき頭角を現した。朱元璋は「呉国公」を名乗り、郭子興が死去した後はその勢力を受け継ぎ、江南地方を拠点に天下をねらう群雄の一人となった。 元末、混乱を避けて引退した役人も多かった。学識者の朱升もそんな一人だった。朱元璋は朱升を呼び出し、時局についての見解と今後について意見を聞いた。 「元王朝は滅亡寸前だ。天下は乱れ、群雄が割拠している。私は江南の要衝を押さえている。今後はどのような方針で戦えばよいか」 朱升は、韻を踏んだ九文字の言葉で答えた。 「高く牆を築き、広く糧を積み、緩ゆる王を称せよ。――江南は農工商業が発達した豊かな土地です。今は下手に動かず、拠点に高い城壁を築き、防備を固めてください。広い地域から糧秣を集めて高く積み上げ、きたるべき戦いに備えてください。当面はいままでどおり、呉国公と名乗り続けてください。あせりは禁物です。天下の情況の推移を見守りつつ、時がきたら、力による覇道ではなく、徳による王道を行う王者だと名乗ってください」 朱元璋は喜んだ。九字の計を実践して力を蓄えた朱元璋は、1364年からは「呉王」を名乗り、ライバルたちと戦って勝った。 1368年の正月、朱元璋は応天府(現在の南京)で皇帝に即位し、元号を洪武、国号を大明と定めた。明王朝の初代皇帝・太祖の誕生である。中国史上、南方から興って天下を統一した王朝は、明が初めてである。朱元璋は、皇帝の在位中は元号を変えないという「一世一元制」を開始したので、元号から「洪武帝」とも呼ばれる。 九字の計を献策した朱升は重用され、明王朝の礼制を定めるなど有識者として国政に参与した。洪武帝はその後、陰惨な粛清を始めるが、それはまた別の物語である。 簡にして要領を得た“高筑墙,广积粮,缓称王”は、施政方針の標語のお手本となった。 時は流れ、1973年1月1日の元旦。「文化大革命」に揺れていた中国の新聞や雑誌は、一斉に毛沢東の “深挖洞,广积粮,不称霸” Shēn wā dòng,guǎng jī liáng, bù chēng bà という指示を掲載した。「深く穴を掘り、広く食糧を積み上げ、覇をとなえず」。当時は東西冷戦と中ソ対立の時代で、核戦争の危機もあった。毛沢東は、国防のために、防空壕や地下空間をたくさん作り、食糧を自給して蓄積する一方、中国のほうから他国に攻撃や圧迫を加えない、という方針を述べた。朱升の「九字の計」をまねたものだが、韻は踏んでいない。 |
絶海中津が詠んだ七言絶句 熊野峰前徐福祠 満山薬草雨余肥 只今海上波涛穏 萬里好風須早帰 熊野峰前 徐福の祠 満山の薬草 雨余に肥ゆ 只今 海上 波濤 穏やかなり 万里の好風 須らく早く帰るべし ※和歌山県新宮市に伝わる徐福伝説をふまえる。 洪武帝が次韻した七言絶句 熊野峰高血食祠 松根琥珀也応肥 当年徐福求仙薬 直到如今更不帰 熊野 峰は高し 血食の祠 松根の琥珀も 也た応に肥ゆべし 当年の徐福 仙薬を求め 直ちに如今に到って更に帰らず |