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講座 中国の「悪女」たち 呂后・趙飛燕・武則天・楊貴妃

最初の公開2018-5-14 最新の更新2018-5-28

全4回 2018年5/8, 5/15, 5/22, 5/29 火曜13:00〜14:30
講座<中国の「悪女」たち 呂后・趙飛燕・武則天・楊貴妃>
早稲田大学EXT(エクステンションセンター)中野校  講師 加藤徹
以下、https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/42473/より。

目標
・歴史と文学の違いを知る。
・日本への影響を考える。
・現代を生きる私たちへの教訓を拾う。

講義概要
 前漢の呂后と趙飛燕、唐の武則天(則天武后)と楊貴妃の4人は、国を乱した「悪女」とされる。呂后と武則天は残虐な権力者で、趙飛燕と楊貴妃は美貌と色香で皇帝を惑わし、様々な挿話が伝えられるが、果たしてどこまでが真実なのか。そもそも彼女らは「悪女」だったのか。歴史書や文芸作品をもとに考察する。

各回の講義予定
日程講座内容
105/08漢の呂后:前例なき時代を作った前例なき女傑
205/15漢の趙飛燕:平安時代の日本文学へも影響
305/22唐の武則天:中国史上唯一の女帝
405/29唐の楊貴妃:美女の代名詞
テキスト・参考図書 参考図書 『貝と羊の中国人』(新潮新書)(ISBN:978-4106101694)
呂后
ポイント
★中国史上最初の「皇后」「皇太后」
★息子の死後「外戚」の専横を招く
★戚夫人への残虐と薄姫(文帝の母)への優しさ
google画像検索結果 [
呂后][吕后

 [こちらのwebページ]と[こちらのPDF]も参照のこと。


趙飛燕
ポイント
★成帝は、「性交死」の疑いが記録として残っている中国史上最初の天子であり、歴代の皇帝の反面教師となった。
★趙飛燕は皇后までのぼりつめたが、出自は低かった。漢代の皇帝は、母がたの家柄はあまり気にしなかった。その理由は?
★趙飛燕にまつわる説話は、平安時代の日本文学にも影響を与えた。

[word 配布プリント原稿(縦書き)]
google画像検索結果 [趙飛燕][赵飞燕]

あまつかぜ 雲のかよひぢ 吹きとぢよ
乙女のすがた しばしとどめむ
   僧正遍昭(816-890)
★前漢の成帝と趙姉妹
 前漢の第11代皇帝・成帝(前51年〜前7年)と、皇后・趙飛燕、その妹・趙昭儀(後世「趙合徳」の名前で呼ばれる)の関係は、正史『漢書』や稗史(はいし)『趙飛燕外伝』によって、後世に大きな影響を与えた。
〇夏目漱石『文学論』序「余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短かきにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。」
 ※「左国史漢」=漢文の歴史書『春秋左氏伝』『国語』『史記』『漢書』のこと。
〇趙飛燕の肖像画……残念ながら彼女の同時代の肖像画は残っていない。趙飛燕のイメージ写真ではないが、鳥のように軽やかな舞姫、というイメージの現代中国の写真作品の例に『雀舞』(こちら)がある。

★『漢書』卷九十七下 外戚傳第六十七下より
(要約)漢の成帝の皇后となった趙飛燕の出自は、いやしかった。彼女は宮中の雑役の夫婦の子だった。生まれたとき、両親は育てるつもりがなく、放置した。三日間放置しても生きていたので、育てられた。その後、皇族の陽阿主の家で、歌手兼ダンサーとして仕込まれ、「飛ぶツバメ」という芸名を名乗った。
 漢の成帝は、おしのびで出かけて遊ぶことを好んだ。成帝は、趙飛燕を気に入り、後宮に入れた。のちに飛燕の妹(後世の伝承では「趙合徳」と呼ばれる)も後に後宮に入れた。この美人姉妹は、成帝の寵愛を独占した。
 成帝にはもともと許皇后がいたが、廃されていた。成帝は周囲の反対意見をおしきり、出自がいやしい趙飛燕を皇后とし、その妹を昭儀とした。やがて妹は、姉よりも皇帝に愛されるようになった。ただ、姉妹は十年余りも成帝の寵愛を得たものの、結局、成帝の子を産めなかった。
 成帝は健康だったが、綏和2年3月18日(西暦に換算すると前7年4月17日)の朝、起床後にものが言えなくなり、その日のうちに亡くなった。民間では、趙昭儀のせいだ、という噂が広まった。成帝の生母である孝元皇太后(王政君)は、一族の王莽(後に皇帝の位を簒奪する)らに命じて真相を調査させようとした。趙昭儀は真相を語らぬまま自殺した。
 成帝には実子がいなかった(隠し子説、あり)。成帝の次には、趙飛燕の後押しもあって、哀帝が即位した。哀帝は、寵臣・董賢との「断袖」の故事で有名である。前7年に哀帝が25歳の若さで崩御すると、趙飛燕は王莽との政争に負けて失脚し、追い込まれて自殺した。
〇加藤徹が思うに、成帝には成帝の言いぶんがあったろう。外戚の横暴に悩んでいたので、わざと出自がいやしい趙飛燕を皇后にしたのだ、とか。……
(出典)孝成趙皇后、本長安宮人。初生時、父母不舉、三日不死、乃收養之。及壯、屬陽阿主家、學歌舞、號曰飛燕。成帝嘗微行出。過陽阿主、作樂、上見飛燕而説之、召入宮、大幸。有女弟復召入、倶為婕、、貴傾後宮。
 許后之廢也、上欲立趙婕、。皇太后嫌其所出微甚、難之。太后姉子淳于長為侍中、數往來傳語、得太后指、上立封趙婕、父臨為成陽侯。後月餘、乃立婕、為皇后。追以長前白罷昌陵功、封為定陵侯。
 皇后既立、後ェ少衰、而弟絶幸、為昭儀。居昭陽舎、其中庭彤硃、而殿上髹漆、切皆銅沓黄金塗、白玉階、壁帶往往為黄金ス、函藍田璧、明珠、翠羽飾之、自後宮未嘗有焉。姉弟顓寵十餘年、卒皆無子。
 末年、定陶王來朝、王祖母傅太后私賂遺趙皇后、昭儀、定陶王竟為太子。
 明年春、成帝崩。帝素強、無疾病。是時、楚思王衍、梁王立來朝、明旦當辭去、上宿供張白虎殿。又欲拜左將軍孔光為丞相、已刻侯印書贊。昏夜平善、郷晨、傅褲襪欲起、因失衣、不能言、晝漏上十刻而崩。民間歸罪趙昭儀、皇太后詔大司馬莽、丞相大司空曰:「皇帝暴崩、群衆言雚嘩怪之。掖庭令輔等在後庭左右、侍燕迫近、雜與御史、丞相、廷尉治問皇帝起居發病状。」趙昭儀自殺
(以下略)

参考 「腹上死というと挿入中の死亡を想像しがちですが、発作が起きるのは行為後が大半で、特に心臓系疾患の場合は行為を終えてから数時間後のケースが多い。いわゆる“腹上死”のイメージに近いのは脳血管系の場合で、性交中や射精直後に突然意識を失うことがあります」(上野氏)
 文中の「上野氏」は、上野正彦氏。出典は、NEWSポストセブンの記事「腹上死 9割以上が男性、発作が起こるのは行為後が大半」2017.11.05 16:00

★『趙飛燕外伝』より
 趙昭儀(皇后・趙飛燕の妹)がある夜、酔って、ふだんの7倍の量の媚薬を成帝に飲ませた。その夜は大いに盛り上がったが、翌朝、成帝は死んだ。官憲は調査しようとした。趙昭儀は「ベッドの中のことを官憲にさらけだすことなぞ、どうしてできましょう」と言い、胸をたたいて「陛下はどうして逝かれたのですか」と叫び、血を吐いて死んだ。
(出典)昭儀輒進帝、一丸一幸。一夕、昭儀酔進七丸、帝昏夜擁昭儀居九成帳、笑吃吃不絶。抵明、帝起御衣、陰精流輸不禁、有頃、絶倒。挹衣視帝、余精出湧、沾汚被内。須臾帝崩。宮人以白太后。太后使理昭儀、昭儀曰「吾持人主如嬰児、寵傾天下、安能斂手掖庭令争帷帳之事乎」。乃拊膺呼曰「帝何往乎」。遂欧血而死。

★ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
趙飛燕 ちょうひえん Zhao Fei-yan; Chao Fea-yen
 中国,前漢の成帝 (在位前 33〜7) の皇后。庶民の出身。歌舞に巧みで,成帝の目に止り,女官となり,のち皇后となった。妹昭儀も召され,姉妹で成帝の寵を争ったという。平帝のとき,王莽の上奏で庶人に落され,自殺した。この姉妹を描いた『趙飛燕外伝』は六朝時代の小説で,日本の平安時代の宮廷女流文学者に広く読まれた。

★日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
趙飛燕 ちょうひえん(?―前1)
 中国、前漢末期の皇帝である成帝(在位前32〜前7)の皇后。卑賤(ひせん)の生まれから身をおこして陽阿主(ようあしゅ)に仕え、そこで歌舞を習得し、偶然陽阿主の家を訪れた成帝の目に留まって妹とともに後宮入りし、ついには皇后となった。しかし前漢王朝きっての放恣(ほうし)な皇帝が、ある夜突然死去したために、成帝とその夜をともにした妹に嫌疑がかかり妹は自殺に追い込まれてしまう。やがて宮廷内で王莽(おうもう)の勢力が伸張すると、飛燕もただの庶人に格下げされて、妹の後を追う。このように卑賤の身から一転して後宮の栄華をほしいままにし、最後には凋落(ちょうらく)の道をたどる趙飛燕姉妹の波瀾(はらん)の生涯は、やがて文学作品『趙飛燕外伝』となった。この作品は、彼女の血縁者から直接聞き取りの形で書き上げられたと伝えられるが、実際には後世の偽作とされる。[桐本東太]

★大辞林 第三版の解説
はんしょうよ【班婕、】
〔「漢書外戚伝」より。「婕、」は女官の名〕 中国、漢の女官。成帝の寵愛を得たが、のちに帝が趙飛燕姉妹を寵愛するようになったため、身をひいて太后に仕えた。その時自ら悲しんで「怨歌行」を作った。後世、寵愛を失った女性を歌った詩に登場することが多い。班女。生没年未詳。
〇世阿弥の能『班女』(はんじょ)は班婕、の故事をふまえた謡曲。

★『趙飛燕外伝』より
 妹に成帝の寵愛を奪われた姉の皇后は、悲しみにくれ、馮無方(ふう・むほう)という臣下と不倫関係に走った。ある日、太液池(たいえきち)で、宴会が開かれた。広大な庭園の中の人工の池に、千人乗りの巨船を浮かべた豪華な遊びだった。皇后は、昔取ったきねづかで、船の上で踊った。成帝が壷を叩き、馮無方は笙を吹いて伴奏した。皇后は「いっそ仙人になって飛んでゆきたい」という旨の歌を歌いつつ袖をひるがえして軽やかに舞い、風に乗って飛んでゆきそうに見えた。成帝はあわてて「無方よ、皇后が飛んでゆかないようにおさえてくれ」と命じた。風がおさまると、皇后は「私は仙女になって飛び去りたいのに、陛下はお許しくださらないのですね」と泣いた。成帝は皇后をいっそういとおしく思い、無方に千金を与え、皇后の寝室に出入りさせた。後日、成帝のお手つきになった宮女たちの中には、スカートのひだをたたんでひも状にしたファッションを作るものがあり、それを「仙女になるのを引きとどめられたスカート」と名付けた。
〇『趙飛燕外伝』の全訳は、明治書院の『中国古典小説選1』(2007)で読めます。
(出典)歌酣、風大起、后順風揚音、無方長吸細嫋与、相属后裙髀曰「顧我、顧我」。后揚袖曰「仙乎、仙乎、去故而就新、寧忘懐乎」。帝曰「無方為我持后」。無方舎吹持后履。久之、風霽、后泣曰「帝恩我、使我仙去不待」。悵然曼嘯、泣数行下。帝益愧愛后、賜無方千万、入後房闥。他日、宮姝幸者、或襞裙為縐、号曰「留仙裙」。

〇李白:七言絶句「清平調」三首 其の二
一枝濃艷露凝香。
雲雨巫山枉断腸。
借問漢宮誰得似?
可憐飛燕倚新粧!
イッシのノウエン、つゆ、かおりをこらす。
ウンウフザン、むなしくダンチョウ。
シャモンすカンキュウ、たれかにるをえたる?
カレンのヒエン、シンショウによる。
 唐の詩人・李白は、玄宗皇帝と楊貴妃の前に召されたとき、楊貴妃の美しさを漢の趙飛燕に喩え、それが一因となって宮廷を逐われた。この漢詩については「中国の四大美女」および「「唐詩五七絶譜」清傅士然伝」参照。


武則天
ポイント
★中国史上、女性が皇帝に即位した唯一の例。
★聖武天皇(701-756)の時代への影響。国分寺、四字年号、等々。
★則天武后と薛懐義(せつ・かいぎ)、称徳天皇と道鏡
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則天武后][武则天
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楊貴妃
ポイント
★「傾国の美女」の代名詞的存在で、彼女に取材した文芸作品は多い。
★彼女自身は政治的野心をもたなかった。が、実家が外戚として富貴をきわめ政治に関与し、玄宗が彼女に夢中になって国政をおろそかにしたことで、政治が乱れた。
★彼女には同情と批判の双方がある。
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楊貴妃][杨贵妃
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京劇の楊貴妃と玄宗皇帝(2017年3月14日撮影 説明はこちら)
玄宗皇帝
 685年-762年。在位712-756。氏名は李隆基。則天武后(624-705)と高宗(628-683)の孫。治世の前半は名君ぶりを発揮して「開元の治」と呼ばれる繁栄をもたらしたが、後半は政治に倦み楊貴妃を寵愛するなど善政が持続せず、安史の乱が起きた。

梨園(りえん)
 歌舞音曲を愛した玄宗は、治世の初年(712年)に、芸人たちを梨の庭園に集め、音楽教習の施設を作り、玄宗皇帝が直々に教えた。以来「梨園」は東洋の芸能界の代名詞となり、玄宗皇帝は芸能の守護神となった。

貴妃
 後宮の女性の位。唐の後宮の制度では、皇后をトップとして、四夫人(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃。正一品)、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛。正二品)、二十七世婦(婕妤、美人、才人。正三品から正五品)、八十一御妻(宝林、御女、采女。正六品から正八品)などがあった。
 楊貴妃は、楊姓の貴妃、という意味。

楊貴妃
 719−756。唐の玄宗皇帝の寵愛を受けた女性。玄宗の息子である寿王の妃だったが、745年に玄宗に召し出され、貴妃となった。実家の楊一族も登用され権勢をふるった。安禄山の乱が起きると、玄宗皇帝とともに長安から四川に向かって逃げたが、その途中、馬嵬(ばかい)の地で官兵がストライキを起こし、反乱勃発の一因となった楊一族の責任を糾弾したため、楊貴妃はくびり殺された。彼女の生涯は、白居易の漢詩「長恨歌(ちょうごんか)」を始め、さまざまな文芸作品の題材となってきた。

外戚(がいせき/げしゃく)
 母方の一族、親戚。楊貴妃と玄宗皇帝のあいだに子供はできなかったが、楊貴妃の実家である楊家の男女(又従兄の楊国忠、姉の虢国夫人、韓国夫人、?国夫人、秦国夫人、等)は外戚として富貴栄達を遂げ、権勢をふるった。
 中国史上、外戚の大きな弊害の最初の例は呂后であり、最後の例は楊貴妃の一族であった。
 楊貴妃のあとも外戚の弊はしばしば見られたが、後の王朝は漢や唐の歴史的教訓をふまえたこともあり、漢の呂一族や唐の楊一族にくらべると小粒だった。例えば、南宋の末に賈似道(かじどう 1213-1275)も姉(理宗皇帝の寵妃)のおかげで出世して宰相までのぼりつめたが、王朝滅亡寸前の最末期であったこと、南宋の官僚制は漢や唐より成熟していたこともあり、小粒感は否めない。

楊国忠
 楊貴妃の又従兄(またいとこ)。若いころは酒と博奕が好きな無頼漢で一族の鼻つまみ者だったが、楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を得たことをきっかけに栄達し、玄宗から「国忠」という立派な名前ももらって、宰相までのぼりつめた。最後は安禄山と対立し、安禄山が反乱を起こす一因を作った。楊貴妃や玄宗皇帝らと四川に逃げる途中、馬嵬の地で命を断たれた。


 楊貴妃は「中国四大美女」の一人。以下[こちらの頁]も参照。
氏名王朝年代出生地組み合わせ相手印象最期作品
西施春秋前5世紀浙江省沈魚呉王夫差(・范蠡)傾国不明(殺害、逐電)荘子、呉越春秋
王昭君前漢前1世紀湖北省落雁元帝婦徳再婚→自殺漢宮秋(雑劇)
貂蝉後漢2世紀末(架空の人物)閉月呂布・董卓傾国不明(斬殺)三国演義
楊貴妃8世紀四川省羞花玄宗皇帝妖艶縊死長恨歌
虞美人秦末前3世紀末江蘇省?(次点→貂蝉)覇王項羽唱和不明(自決)史記
卓文君前漢前2世紀四川省(次点→王昭君)司馬相如文才平穏史記、白頭吟
四大美女の顔ぶれについては諸説があり、王昭君の代わりに卓文君を、貂蝉の代わりに虞美人を加えることがある。西施と楊貴妃の2人は不動である。
漢語には、女性の美貌を言う「沈魚落雁、閉月羞花」という成語がある。「ひそみにならう」の故事で有名な西施の美貌に見とれて、川の魚も泳ぐのを忘れて水底に沈んだ。北の異民族の国に嫁がされた王昭君が琵琶をかなでると、空を飛ぶ雁も感動のあまり地上に落ちてきた。三国志演義の貂蝉が月を拝むと、月は彼女の可憐さに圧倒されて雲に隠れた。唐の玄宗皇帝に寵愛された楊貴妃が花園を散歩すると、花たちは彼女のあでやかさに遠く及ばぬことを恥じ、みな花びらを閉じた。日本語の「花も恥じらう乙女」という言い方もこれが語源である。

映画「楊貴妃」1955年公開。監督:溝口健二 出演:京マチ子、森雅之、山村聡、小沢栄、山形勲、南田洋子ほか。楊貴妃は家族のため忍従するおしとやかで、純愛タイプの女性として描かれる。

コトバンク「楊貴妃」(こちら)

江戸川柳と楊貴妃
 日本の古い説話。楊貴妃の正体は熱田神宮の熱田大神(あつたのおおかみ)の化身で、中国の日本侵略を防ぐため美女の姿になって玄宗皇帝を籠絡し、安禄山の乱で楊貴妃は殺され(たことにして)、熱田大神は熱田神宮にお戻りになった、という説話が伝わっている。
 この他、楊貴妃は死んでおらず、日本に逃げて生き延びた、という伝説もある(貴妃東渡)。

やまとことばはおくびにも貴妃出さず
日本にはかまいなさるなと貴妃はいひ
三千の一は日本のまわしもの
唐の人魂を日本でめつけ出し

楊貴妃を湯女に仕立るりさん宮
湯あがりは玄宗以来賞美する
やうきひはろくな一ッ家は持たぬ也
八日には楊国忠へ加増なり
おかあさんなどとろく山きひにいひ
美しい顔で楊貴妃豚を喰い
美しひ顔でれいしをやたらくい

白居易(白楽天)の漢詩「長恨歌」
 白居易(772-846)が806年に書いた長編の漢詩で、紫式部の『源氏物語』や、能の演目『楊貴妃』をはじめ、日本の文芸作品にも多大の影響を与えた。[訳解の一例]


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