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四つの発想でわかる中国史

陰陽五行、律暦、地理、商人気質
最新の更新2023年8月6日 最初の公開2023年7月16日

  1. 07/18 五行思想と王朝交替
  2. 07/25 律暦と世界支配
  3. 08/01 中華と四夷の対決
  4. 08/08 商人気質
以下、https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/58788/より引用。引用開始。
曜日火曜日 時間10:40−12:10 日程全4回 ・07月18日− 08月08日
(日程詳細 )07/18、07/25、08/01、08/08
目標
・歴史の根底にあるシンプルな本質を知る。
・現在の中国はなぜあのような国になったのか、中国人とはどんな人々なのかを理解する。
・歴史を学ぶことで、現代の世界や日本社会のために役立つ教訓を得る。
講義概要
中国史は、一見すると難しそうです。まず歴史が長い。四千年くらいもあります。国土は広い。人口も多い。地名とか人名とか王朝名とか、漢字の固有名詞がたくさんでてきます。でも実は、中国史はとてもわかりやすい。中国社会を動かすシンプルな「法則」を理解すれば、本質はすぐわかります。この講座では、中国史を理解するうえで役立つ4つの発想を、予備知識のないかたにもわかりやすく説明します。


07/18 五行思想と王朝交替
 古代中国人は、この世の全てを人間社会の動きも自然界の法則も、「木火土金水」の5つの元素の関係によって解釈しました。中国の王朝交替や革命も、例えば、黄帝は土徳(黄色)、夏王朝は木徳(青色)、殷王朝は金徳(白色)、周王朝は火徳(赤色)、秦王朝は水徳(黒色)など「五行相剋」で解釈されました。現代の中華人民共和国がナショナルカラーとして赤を尊ぶのは、フランス革命以来の赤旗の影響もありますが、実は古代中国の五行思想の影響も強いのです。現代の中国人をも呪縛し、日本人の文化や生活にも多大の影響を与えた五行思想の特長と限界を、わかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-l0m_S5ExI_6FZoW5YW2Cm7

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○五行配当表
 中国の理想は「國」という漢字に象徴されている。世界の中央に中国の天子が君臨し、東西南北の四方に地方人や異民族が支配に服するのが、中国人の理想の形だった。
 儒教的な「社稷壇」(しゃしょくだん)では、中央に黄色い土(黄河文明の象徴)を、東西南北にそれぞれ青土、白土、赤土、黒土を配する。
[Google画像検索「社稷壇」検索結果]
 五行配当とは、中国人の自然認知であると同時に、中原の中華の天子が全世界を支配すべきである理論的根拠としても使われてきた。

五行
五色
五方 中央 西
五時 土用
五臓
五事
五常
五虫
五味
五声

 五行の起源は不明。肉眼で確認できる五つの惑星(木星、火星、土星、金星、水星)が起源とする説もある。
 儒教の経典『書経』周書・洪範篇に「五行、一曰水、二曰火、三曰木、四曰金、五曰土」云々とあるのが最古の用例だが、まだ「木火土金水」の順ではない。
 孔子らが活躍した春秋時代には、まだ五行説/五行思想は整っていなかった。戦国時代には五行説が整い、儒教の経典『礼記』や、秦の始皇帝の時代の紀元前239年に呂不韋が作らせた『呂氏春秋』には、五行説の完成形が見られる。
 漢の時代からは、中国の歴史の王朝交替を五行説と結びつける「讖緯説」や「天人感応説」などが流行した。
 隋の蕭吉(しょう きつ)の著『五行大義』(ごぎょうたいぎ)は、日本にのみ残った佚存書で、訳注書は明治書院の新編漢文選として刊行されている。
 五行説は、中国人の「自然認知」の型であり、21世紀現在も、中医学(中国の漢方医学)や中華料理をはじめ中国人の生活文化や美意識に大きな影響力をもっている。

○五行相生と五行相剋
政権交代について、日本史の迷信は「源平交替」思想、中国史の迷信は「五行相生」「五行相剋(五行相克、五行相勝)」思想。

日本史の政権は「平清盛、源頼朝、北条氏(平氏)、足利氏(源氏)、織田信長(平氏)、明智光秀(源氏)、秀吉(平氏)、徳川氏(源氏)」と源平交替であったとされる。

 中国の政権(王朝)は「・・・木火土金水木火土・・・」の順に循環する「五行相生」の順で交替する、という説が、漢の時代、司馬遷が『史記』を書いたころに主張された。
 前漢の儒学者・ 董仲舒(とう ちゅうじょ)の『春秋繁露』五行対に「天有五行、木火土金水是也。木生火、火生土、土生金、金生水。水為冬、金為秋、土為季夏、木為春。春主生、夏主長、季夏主養、秋主収、冬主蔵」云々とある。
 五行説による易姓革命(えきせいかくめい。王朝交替)が説かれるようになったのは前漢からで、漢王朝が天からうけた徳を五行のどれにあてはめるか、長い議論があった。
 王朝交替のメカニズムについては、「五行相剋(相克)」説と、その反対の「五行相生」説があった。
・・・木剋土、火剋金、土剋水、金剋木、水剋火、・・・
→ ・・・木>土>水>火>金>木>土>・・・
 「五行相剋(相克)」説は、政権交代は弱肉強食の仁義なき死闘によって暴力的に行われる、という歴史観にもとづく。
 「五行相生」説は、政権交代は自然界の事物の成長の原理と同様に天然自然のはたらきでそうなる、という歴史観にもとづく。
 漢王朝は、暴力によって秦王朝および項羽(西楚)を打倒したとみるのが「五行相剋」王朝交替説で、こちらは覇者的歴史観。
 漢王朝は、高祖劉邦に仁徳があったので天命によって前政権から自然に交替したとみるのが「五行相生」王朝交替説で、こちらは儒教的・王者的歴史観。

各王朝の徳(諸説あり。元以降はこじつけの俗説)
-前11世紀前11-4世紀6-10世紀10世紀-14世紀14-20世紀20世紀-
木徳 - 周王朝北周後周中華民国
火徳 - 漢王朝隋王朝宋王朝明王朝
土徳黄帝魏王朝唐王朝金王朝
金徳夏王朝晋王朝後梁元王朝
水徳殷王朝北魏後漢清王朝中華人民共和国
 前漢の武帝までは「五行相剋」王朝交替説だったので、漢王朝はみずからを土徳と規定していた。
 武帝のとき、漢の国家教学として儒教が採用され、それにともない「五行相剋」王朝交替説がとられ、漢はみずからを火徳の王朝と規定するようになり、漢の高祖劉邦は「赤帝」の子とされた。
 前漢を簒奪した王莽(おうもう)の新王朝に対する反乱は「赤眉の乱」で、赤は漢王朝と同じ火徳だった。
 後漢の末期、漢を滅ぼそうとした反乱は「黄巾の乱」で、黄は「土徳」だった。
 13世紀、モンゴル系の元は、みずからの国号を『易経』の「大なるかな乾元」から採り、五行相生王朝交替説を「卒業」したが、漢民族側のあとづけで金徳とされることが多い。
 金徳の元、火徳の明(開祖の朱元璋は紅巾賊の出身)、水徳の清(サンズイがある)は「五行相剋」説。
 中華民国の国旗は「青天白日満地紅旗」なので青すなわち木徳、中華人民共和国の国旗は「五星紅旗」なので赤すなわち火徳、というのは、完全な俗説である。


○十干(じっかん)
「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」の十個。「干」は「幹」と同源。
十干音読み五行陰陽 五行陰陽 訓読み
こう陽(兄) 木の兄 きのえ
おつ陰(弟) 木の弟 きのと
へい陽(兄) 火の兄 ひのえ
てい陰(弟) 火の弟 ひのと
陽(兄) 土の兄 つちのえ
陰(弟) 土の弟 つちのと
こう 陽(兄) 金の兄 かのえ
しん陰(弟) 金の弟 かのと
じん陽(兄) 水の兄 みずのえ
陰(弟) 水の弟 みずのと

 古代中国の「射日神話」では太陽はもともと十日兄弟で、十干はそれぞれの太陽の名前だったという説がある。
 殷王朝(商王朝)の歴代の王は名に十干をもつ。最後の紂王は後世の呼び方で、甲骨文字に見える当時の自称は「帝辛」であった。

○十二支
「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の12個。「支」は「肢」と同源。
 12進法に由来。子はタネ、丑は紐、のように植物の生長過程をなぞらえた命名が語源と推定する説もあるものの、語源は不明。
 十二支のそれぞれに動物をあてる「十二生肖(じゅうにせいしょう)」は秦代くらいから存在した。
 十二支で時刻や方位を表す習慣は、漢代から普及。
 
十二支音読み訓読み五行
ちゅううし
いんとら
ぼう
しんたつ
うま
ひつじ
しんさる
ゆうとり
じゅついぬ
がい


○六十干支
 十干(天干)と十二支(地支)を組み合わせた六十干支は、殷王朝の時代から日付に用いられていた。
★干支紀日法・・・毎日、殷の時代から現代まで、とぎれなく続いている。
★干支紀年法・・・毎年、漢の時代からとぎれなく続いている。60年を1周期として、それぞれの年次を干支で表す方法。漢代の確立。人間の60歳は還暦、120歳は大還暦という。
例 2023年7月18日は、旧暦では、癸卯年六月一日丁丑

★六十干支表(1) 10年ごとに60個並べる
01.甲子 02.乙丑 03.丙寅 04.丁卯 05.戊辰 06.己巳 07.庚午 08.辛未 09.壬申 10.癸酉
11.甲戌 12.乙亥 13.丙子 14.丁丑 15.戊寅 16.己卯 17.庚辰 18.辛巳 19.壬午 20.癸未
21.甲申 22.乙酉 23.丙戌 24.丁亥 25.戊子 26.己丑 27.庚寅 28.辛卯 29.壬辰 30.癸巳
31.甲午 32.乙未 33.丙申 34.丁酉 35.戊戌 36.己亥 37.庚子 38.辛丑 39.壬寅 40.癸卯
41.甲辰 42.乙巳 43.丙午 44.丁未 45.戊申 46.己酉 47.庚戌 48.辛亥 49.壬子 50.癸丑
51.甲寅 52.乙卯 53.丙辰 54.丁巳 55.戊午 56.己未 57.庚申 58.辛酉 59.壬戌 60.癸亥

★六十干支表(2) 12年ごとに60個並べる
01.甲子 02.乙丑 03.丙寅 04.丁卯 05.戊辰 06.己巳 07.庚午 08.辛未 09.壬申 10.癸酉 11.甲戌 12.乙亥
13.丙子 14.丁丑 15.戊寅 16.己卯 17.庚辰 18.辛巳 19.壬午 20.癸未 21.甲申 22.乙酉 23.丙戌 24.丁亥
25.戊子 26.己丑 27.庚寅 28.辛卯 29.壬辰 30.癸巳 31.甲午 32.乙未 33.丙申 34.丁酉 35.戊戌 36.己亥
37.庚子 38.辛丑 39.壬寅 40.癸卯 41.甲辰 42.乙巳 43.丙午 44.丁未 45.戊申 46.己酉 47.庚戌 48.辛亥
49.壬子 50.癸丑 51.甲寅 52.乙卯 53.丙辰 54.丁巳 55.戊午 56.己未 57.庚申 58.辛酉 59.壬戌 60.癸亥




07/25 律暦と世界支配
 21世紀現在、「メートル法」を公的に採用していない大国は米国だけです。なぜ米国はいまだに「ヤード・ポンド法」にこだわるのか? その理由を考えるとき、意外にも、古代中国の「律暦」がヒントになります。律歴は、いわば「近現代の西洋ですら達成できなかったメートル法の夢を、二千年前の古代中国の皇帝が達成してしまった」という事例です。音楽の楽律、元号やカレンダー、そして経済活動や日常生活に欠かせない度量衡の単位。この3つを一元的に統合し、しかもそれを自国と属国の支配の道具として活用した中国の王朝の悪魔的な知恵について、映像や図版などを使いながら、わかりやすく説き明かします。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-k0y_rrh7Zlp5Q1Hy77lfOf

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○五音と十二律
cf.#singaku-20.html#02
★五音は五声とも言い「移動ド」の「ドレミソラ」の意。
下記の表の「五正声」が、漢文に出てくる「宮商角徴羽」(きゅう/しょう/かく/ち/う)。
西洋音階=現代音階のファは「清角=ミ♯」、シは「変宮=ド♭」である。
西洋階名DoReMiFaSolLaSiDo
「簡譜」1#12#234#4
♭5
5#56#6
♭7
7

1
五正声
七音(1)
古音階二変


七音(2)
新音階二変


七音(3)
清商音階二変

日本雅楽







民間工尺(旧)
民間工尺(新)

★十二律は1オクターブを半音ずつ12個に分割したもので「固定ド」の「ド♯ドレ♯レミファ♯ファソ♯ソラ♯ラシ」つまり「西洋音楽のピアノの鍵盤」や日本の雅楽の十二律と同様の発想に基づく。
十二律
(中国)
黄鐘
(こうしょう)
大呂
(たいりょ)
太簇
(たいそく)
夾鐘
(きょうしょう)
姑洗
(こせん)
仲呂
(ちゅうりょ)
蕤賓
(すいひん)
林鐘
(りんしょう)
夷則
(いそく)
南呂
(なんりょ)
無射
(ぶえき)
応鐘
(おうしょう)
十二律
(日本雅楽)
壱越
(いちこつ)
断金
(たんぎん)
平調
(ひょうじょう)
勝絶
(しょうせつ)
下無
(しもむ)
双調
(そうじょう)
鳧鐘
(ふしょう)
黄鐘
(おうしき)
鸞鏡
(らんけい)
盤渉
(ばんしき)
神仙
(しんせん)
上無
(かみむ)
十二支
十二月
(旧暦)
十一月十二月正月二月三月四月五月六月七月八月九月十月
参考 コトバンク https://kotobank.jp/word/十二律-77316

○宮と黄鐘
 宮は現代音楽の(移動ドの)ド、黄鐘は現代音楽でいえばD(絶対音高。理論的な立ち位置からするとCないしAにあたるとも言える)にあたる基準の音で、それぞれ、五音と十二律の筆頭の基礎の音とされた。
 古代中国では、音楽の「黄鐘」の高さを基準として、度量衡を定めた。

 『呂氏春秋』古楽によれば、伝説の帝王である黄帝は、音楽の役人である伶倫に命じて音律を制定させ、黄鐘の音の高さを鳴らす律管つまりふえを基準としたが、
「其長三寸九分而吹之、以為黄鐘之宮」
とあり、その笛の長さは古代の尺で三寸九分に定められた。
 時代がくだり、漢王朝の時代になると、『淮南子』天文訓では「九鐘之律九寸」と黄鐘の管長は漢尺で九寸とされ、蔡邕の『月令章句』ではより精確に管長九寸、孔径三分、囲九分と定められた。
 中国では、九は「久」に通じるめでたい数字で、易(えき)で九を陽の最高数とする。管長九寸囲九分、というキリのよい数字が、中国文明の「メートル原器」ともいうべき「黄鐘律管」のサイズの基準となった。

 また古代中国では「社稷の臣」(しゃしょくのしん)という言葉があるとおり、「稷」すなわち黍(きび)は特別な意味をもつ神聖な穀物だった。
  『漢書』律暦志では、きびの粒の長さを基準として、
「本起黄鐘之長。以子穀秬黍中者、一黍之廣、度之九十分、黄鐘之長」
と説明している。「黄鐘律管」の長さは、中位のサイズの黍(きび)を90粒ならべた長さと同じ、とする。
 さらに『漢書』律暦志では、黄鐘律管を度量衡の基準としている。
 容積の単位である龠(やく)は、黄鐘律管の容積できび1,200粒ぶん。
 重さの単位である重さは龠は、黄鐘律管の容積できび1,200粒ぶんの重さを十二銖とする。つまり、黍100粒の重さが1銖(しゅ)で、1両が24銖、16両が1斤(きん)、30斤が1鈞(きん)、4鈞が1石とする。
 古代中国では、黄鐘という音律を鳴らす「律管」のサイズが、度量衡のすべての換算の基準とされた。

 フランス革命時代の「メートル法」が地球の大きさを基準として度量衡すべての換算の根源としたのと、発想じたいは全く同じで、合理的であった。
参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/律管


○暦 こよみ
古代日本・・・こよみの語源は「日読み(かよみ)」。聖(ひじり)は「日知り」。
古代中国・・・『礼記』月令にあるとおり、天子は毎月、時節ごとの陰陽五行と合致する礼楽を行う義務があった。

○元号
 かつて東アジアで広く使われていた紀年法で、天子は領土だけではなく時間も支配する、という思想に基く。
 中国と陸続きだった朝鮮半島は中国の皇帝が決める元号を使うことを強制され、独自の元号を使えなかった。一方、島国であった日本は中国から属国扱いされることを拒否し、「大化」以来日本独自の元号を作って使ってきた。
 元号を本格的に使い始めたのは、中国の領土拡張につとめた前漢の武帝である。

○世界の紀年法
 ★無限式紀年法・・・紀元紀年法
 ★有限式紀年法・・・在位紀年法、干支紀年法、元号紀年法
 無限式紀年法は「歴史の開始」を重視。西暦や仏暦、皇紀(神武天皇即位紀元)など。元年の設定は、宗教的紀元、政治的紀元、天文学的紀元など。
 有限式紀年法は更新と一新を重視。元年の設定は、君主の即位(中国の場合は即位の翌年)、機械的な循環方式(干支)、諸般の事情 (元号)など。
参考 薮内清『歴史はいつ始まったか―年代学入門』 中公新書、1980

○度量衡と暦で世界支配をめざした中国の天子
 『礼記』大伝第十六「立権度量、考文章、改正朔、易服色、殊徽号、異器械、別衣服、此其所得与民変革者也。其不可得変革者則有矣。親親也、尊尊也、長長也、男女有別。此其不可得与民変革者也。」
【大意】新しい君主が天下を統治する際は、度量権衡の新しい基準を立て、新しい文物制度を考案し、暦を改め、礼服の色を変え、旗や幟の記号を更新し、器具をとりかえ、衣服を以前とは区別する。これは人民に対して変革してもよい事柄である。一方、変革することのできない事柄もある。親族と親しみ、目上を尊び、年長者を敬い、男女の別を守る。これらの普遍的な礼制は、人民に対して変革することができない事柄である。

○中国の紀年法
 古代から近代までは、天子の国家権力を誇示するため、有限式紀年法。近代以降は西洋式の無限式紀年法へ移行。
 古代中国の「在位紀年法」には、越年称元法と当年称元法があった。前者は前の君主の死去ないし退位後の翌年を元年とするもので服喪の精神があり、後者は前の君主の死去ないし退位の年から元年とするもの。
Cf.『春秋』哀公十四年「十有四年、春、西狩獲麟。」
 魯の哀公十四年=西暦紀元前481年
Cf. 『旧約聖書』エズラ書・冒頭「ペルシヤ王クロスの元年に当たり(下略)」

★歳星紀年法・太歳紀年法…木星の周期、約十二年に基づく。天体観測の実測値を考慮。
★干支紀年法…本来、六十干支は干支紀日法に使われるものだったが、後漢の時代から天体観測の実測値を考慮せず、六十干支を機械的に年次にあてはめるようになった。
★生肖紀年法…十二支にあてた動物による紀年法で、干支紀年法の派生形。秦・漢時代から民間に定着して現在に至る。
【以下は近代以降】
★孔子紀年…清末の康有為が提唱した孔子卒後紀年(孔子が死去した年を起点とする)と、梁啓超が提唱した孔子生後紀年があるが、どちらも広まらなかった。
★黄帝紀元…清末に提唱され、中華民族の伝説の始祖・黄帝が即位したとされる年を起点とする。辛亥革命が起きた宣統3年(1911年)を黄紀4609年とした。
★民国紀元…中華民国臨時大総統・孫文は、黄帝紀元4609年11月13日(1912年1月1日)を中華民国元年元旦として、黄紀を廃止した。
★公元…中華人民共和国では西暦を「公暦」、西暦紀元を「公元」として採用した。


○元号は前漢から
★前史・・・治世の途中で「改元」した初例は、前漢の第五代皇帝・文帝(劉邦の息子) 文帝の治世の前半は、劉邦・呂后時代の元勲とのギクシャクした関係。後半から、文帝は自分の思い通りの統治ができるようになった。
 文帝の十六年、「人主延寿」と彫られた玉杯が発見されたのを機に再び元年と称し、その後は「後元年」「後二年」・・・と称した。
 第六代皇帝の景帝(「三国志」の劉備の先祖)は、治世の途中で二度改元した。「前×年」「中×年」「後×年」などと称した。
 第七代皇帝・武帝は、治世の途中で何度も改元したのみならず、それぞれに固有の名称を与え、現代まで続く「元号」のシステムが定まった。
★最初の元号「建元」(前140-前135)  前漢の第七代皇帝・武帝(在位、前141-前87)は、董仲舒の献策により儒学が国家教学となり、司馬遷が『史記』を書くなど、中国の「古典文化」が定まった時代だった。
 暦についても「夏正」(「建寅の月」を正月とする太陰太陽暦)を採用した「太初暦」が作られた。現在の旧暦の基礎は、武帝の時代に定まった。
 武帝の時代、即位の当初までさかのぼって、即位の年を「建」、瑞祥(ずいしょう。めでたいきざし)があらわれた年を「元」として改元を行うことにした。
 武帝の時代の元号は結局「建元、元光、 元朔、 元狩、 元鼎、 元封、 太初、 天漢、 太始、 征和、 後元」であった。
 武帝の時代、瑞祥と考えられていた宝鼎が発見され、これを機に「元鼎」という元号が決まった(元鼎元年=西暦紀元前116年)。そして過去に遡って、「建元」(即位の改元)、「元光」(天空に輝く彗星による改元)、元朔、元狩(瑞祥である一角獣を捕獲したことによる改元)などが定められた。

○朝貢と冊封(さくほう、さっぽう)
 朝貢は外国の使いが来て、貢物をさし出すこと。
 冊封は、中国の天子が臣下や諸侯、外国の首長などに冊(さく)をもって爵位を授け、封爵すること。漢王朝の時代にはじまる。
 朝貢国イコール冊封国ではないことに注意。
 遣唐使は、日本側から見れば対等外交だったが、唐側から見れば朝貢だった。つまり、唐は日本を朝貢国と見なしていたが、唐は日本に対して冊封は行わなかった。
 卑弥呼や「倭の五王」、琉球国王などを除けば、日本史上、中国の天子から正式に「日本国王」の冊封を受けたのは、南北朝時代の懐良(かねなが/かねよし)親王と、足利義満くらいである(豊臣秀吉は明から冊封を受けることを拒否)。
 冊封国は、朝貢の使節を中国に送り、中国から「天使」「冊封使」を迎え、中国の正朔を奉ずる(中国の暦と元号を使う)義務があった。
例 1592年−1598年の「東アジア戦争」の呼称は国ごとにバラバラ。 ・日本側呼称「文禄・慶長の役」 日本の元号を使う。
・中国側呼称「万暦朝鮮之役」 中国の元号「万暦」(1573-1620)を使う。
・朝鮮側呼称「壬辰倭乱」 中国の冊封国であった李氏朝鮮(韓国では単に「朝鮮」と呼ぶ)は独自の元号を持たなかったため干支紀年法を使わざるを得ない。

○その他


08/01 中華と四夷の対決
 中国人は古来「天円地方」という世界観を抱いてきました。人間が住む地上の世界は、「国」とか「囲」という漢字がそうであるように、おおむね方形である。世界の中央には「中華」がある。東西南北の「四方」には、それぞれ東夷(とうい)・ 西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)・北狄(ほくてき)という蛮族が住んでいる。こんな素朴な世界観は、三千年前から21世紀の今日まで、中国の外交の根底にあります。19世紀の中国の「塞防派」と「海防派」の論争。20世紀の「反ソ親日米」や21世紀の「親ロ抗米」。今も中国外交を呪縛する「中華と四夷」の地理観を、わかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kKDHzMA-8Vd1Rm-oPWOTA5

○ポイント、キーワード
○隋の煬帝(ずいのようだい)が腹を立てた日本からの手紙
参考 https://zh.wikisource.org/wiki/隋書/卷81#倭國
 607年、遣隋使として小野妹子らが隋に渡り、日本からの国書を隋の煬帝に見せたところ、煬帝は不機嫌となった。翌608年、小野妹子らは、隋の使臣・裴世清を伴って帰国したが、煬帝からの返書は百済でなくしたとして提出しなかった。
【原漢文】 大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不ス、謂鴻臚卿曰、「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」明年、上遣文林郎裴清使於倭國。
【拙訳】 隋の大業三年、西暦607年、倭国(日本)の王・多利思比孤(たりしひこ)が、隋に使節を派遣して朝貢した。使者は述べた。「海西の菩薩天子さま(仏教を保護した煬帝を指す)が仏法を振興なさっているとうかがい、拝礼の朝貢に参りました。わが国の沙門、数十人も、仏法を学ぶためいっしょに参りました」。倭国からの国書には、
日出処天子、致書日没書天子、無恙。
日いずるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや。
(太陽がのぼるところの天子が、太陽が沈むところに天子にお手紙をお送りします。お変わりありませんか?)
とあった。煬帝はこの手紙を見て不機嫌となり、外務担当大臣に「蛮夷の手紙で無礼なものがあれば、今後は朕に上奏するな」と言った。翌年、煬帝は文林郎の裴清(裴 世清。はい せいせい)を使者として倭国に派遣した。


○明の皇帝を激怒させた日本からの手紙
明は「北虜南倭」(ほくりょなんわ)に悩まされた。
以下は『明史』日本伝の記述より
参考 https://zh.wikisource.org/wiki/明史/卷322
 明の太祖洪武帝(朱元璋。1328-1398)が、日本国王良懐(懐良親王。1329?−1381ごろ)を恫喝したあと、良懐から送られてきた返書。洪武帝はこれを読んで激怒したが、元のフビライさえ2度も日本攻略に失敗したことを思い出して、日本侵略をあきらめた。「臣」は日本国王良懐の自称、「陛下」は洪武帝を指す。
【原漢文】 臣聞 三皇立極、 五帝禅宗、 惟中華之有主、 豈夷狄而無君。 乾坤浩蕩、非一主之独権、 宇宙ェ洪、作諸邦以分守。 蓋天下者、 乃天下之天下、 非一人之天下也。 臣居 遠弱之倭、 褊小之国、 城池不満六十、 封疆不足三千、 尚存知足之心。 陛下 作中華之主、 為万乗之君、 城池数千余、 封疆百万里、 猶有不足之心、 常起滅絶之意。 夫 天発殺機、移星換宿。 地発殺機、龍蛇走陸。 人発殺機、天地反覆。 昔 堯・舜有徳、四海来賓。 湯・武施仁、八方奉貢。 臣聞 天朝有興戦之策、 小邦亦有禦敵之図。 論文有孔・孟道徳之文章、 論武有孫・呉韜略之兵法。 又聞陛下 選股肱之将、 起精鋭之師、 来侵臣境。 水沢之地、 山海之洲、 自有其備、豈肯跪途而奉之乎。 順之未必其生、 逆之未必其死。 相逢賀蘭山前、聊以博戯、臣何懼哉。 倘君勝臣負、且満上国之意。 設臣勝君負、反作小邦之羞。 自古 講和為上、 罷戦為強、 免生霊之塗炭、 拯黎庶之艱辛。 特遣使臣、 敬叩丹陛、 惟上国図之。
【拙訳】
  1. 臣聞 (臣が聞くところでは、)
  2. 三皇立極、 (いにしえの三皇が登極し)
  3. 五帝禅宗、 (五帝が宗廟を祀って以来)
  4. 惟中華之有主、 (ただ中華の君主のみがほんとうの君主だ、と。)
  5. 豈夷狄而無君。 (が、夷狄の君主は君主ではないのでしょうか?)
  6. 乾坤浩蕩、非一主之独権、 (世界は果てしなく、ひとりだけの独裁支配ではないはず。)
  7. 宇宙ェ洪、作諸邦以分守。 (時空は広く、諸国がそれぞれ分かれて自国を守っております。)
  8. 蓋天下者、 (そもそも天下とは、)
  9. 乃天下之天下、 (天下の天下であって、)
  10. 非一人之天下也。 (ひとりのための天下ではないはず。)
  11. 臣居 (臣が居ります場所は、)
  12. 遠弱之倭、 (中国からみて遠くて弱い倭国で、)
  13. 褊小之国、 (狭っ苦しい小国でございます。)
  14. 城池不満六十、 (城は六十箇所にも満たず、)
  15. 封疆不足三千、 (領土は三千里にも足りませんが、)
  16. 尚存知足之心。 (それでも臣は足るを知るという心をもっております。)
  17. 陛下 (大明国の皇帝でいらっしゃる陛下は、)
  18. 作中華之主、 (中華の君主となって、)
  19. 為万乗之君、 (万乗の天子であって、)
  20. 城池数千余、 (城は数千あまり、)
  21. 封疆百万里、 (領土は百万里もおもちでありながら、)
  22. 猶有不足之心、 (それでもまだ満足できぬお心をお持ちで、)
  23. 常起滅絶之意。 (いつも誰かを根絶やしにする気持ちを起こされる。)
  24. 夫 (さて、)
  25. 天発殺機、移星換宿。 (天が殺機を発すれば、星や星座が移動するとか。)
  26. 地発殺機、龍蛇走陸。 (地が殺機を発すれば、龍や蛇が陸を走るとか。)
  27. 人発殺機、天地反覆。 (人が殺機を発すれば、天と地がひっくりかえるとか。)
  28. 昔 (その昔、)
  29. 堯・舜有徳、四海来賓。 (堯や舜は有徳の天子でしたから、しぜんに四方から来賓がありました。)
  30. 湯・武施仁、八方奉貢。 (殷の湯王や周の武王は仁君でしたから、八方から朝貢がありました。)
  31. 臣聞 (臣の聞くところによれば、)
  32. 天朝有興戦之策、 (天朝には開戦の計画がおありとか。)
  33. 小邦亦有禦敵之図。 (ならば、わが小国にも防御の作戦がございます。)
  34. 論文有孔・孟道徳之文章、 (わが国にも文には孔子や孟子の書籍があり、)
  35. 論武有孫・呉韜略之兵法。 (武には孫子や呉起の兵法を研究しております。)
  36. 又聞陛下 (また、聞くところによると、陛下は、)
  37. 選股肱之将、 (大明国のたのもしい将軍を選び、)
  38. 起精鋭之師、 (精鋭の軍隊を編成して、)
  39. 来侵臣境。 (臣の国境に侵攻なさるおつもりとか。)
  40. 水沢之地、 (わが国は川や湖など天然の要害が多く、)
  41. 山海之洲、 (山と海に囲まれているので守りやすい土地ですので、)
  42. 自有其備、 (おのずと防備はそなわっております。)
  43. 豈肯跪途而奉之乎。 (陛下の軍を道に出迎えて土下座するなんてことは、いたしませんよ。)
  44. 順之未必其生、 (中国にしたがっても生き残れるとは限りませんし、)
  45. 逆之未必其死。 (中国に逆らったからといって死ぬとも限りません。)
  46. 相逢賀蘭山前、聊以博戯、 (いっそ中国の奥地にあるという賀蘭山の前で、陛下と臣のふたりで、サシで勝負しませんか。)
  47. 臣何懼哉。 (臣はちっとも、こわくないですよ。)
  48. 倘君勝臣負、且満上国之意。 (もしそちらが勝てば、格上の国というプライドを満たせるでしょう。)
  49. 設臣勝君負、反作小邦之羞。 (もし臣が勝ってしまったら、むしろ小国の恥というべきでしょう。)
  50. 自古 (昔から、)
  51. 講和為上、 (講和がいちばん、)
  52. 罷戦為強、 (非戦こそほんとうの勇気です。)
  53. 免生霊之塗炭、 (人民を塗炭の苦しみに落とすのはやめましょうよ。)
  54. 拯黎庶之艱辛。 (庶民を苦しみから救いましょうよ。)
  55. 特遣使臣、 (こういうわけで、特に使いを派遣し、)
  56. 敬叩丹陛、 (陛下のもとに恭しくご挨拶申し上げる次第です。)
  57. 惟上国図之。 (格上の国として、よくお考えください。)


○明の皇帝が豊臣秀吉を日本国王に封じた文章
参照 Nihonkokuou-hideyoshi.html

【原漢文】 ※四六駢儷文として読解しやすいように加藤徹が改行や句読点をほどこした。
  1. 奉天承運、皇帝制曰、
  2. 聖仁広運、凡天覆地載、莫不尊親。
  3. 帝命溥将、曁海隅日出、罔不率俾。
  4. 昔我皇祖、誕育多方、
  5. 亀紐龍章、遠錫扶桑之域、
  6. 貞a大篆、栄施鎮国之山。
  7. 嗣以海波之揚、
  8. 偶致風占之隔。
  9. 当茲盛際、宜纘彝章。
  10. 咨爾豊臣平秀吉、
  11. 崛起海邦、知尊中国、
  12. 西馳一介之使、欣慕来同、
  13. 北叩万里之関、懇求内附。
  14. 情既堅於恭順、
  15. 恩可靳於柔懐。
  16. 茲特封爾為日本国王、錫之誥命。
  17. 於戯、
  18. 寵賁芝函、襲冠裳於海表。
  19. 風行卉服、固藩衛於天朝。
  20. 爾其
  21. 念臣職之当修、恪循要束。
  22. 感皇恩之已渥、無替欵誠。
  23. 祗服綸言、永遵声教。
  24. 欽哉。
萬暦二十三年正月二十一日

【書き下し文 (よみかた、拙訳)】
  1. 天を奉り運を承くる皇帝、制して曰く、
    (てんをたてまつりうんをうくるこうてい、せいしていわく、
    天命をうけた偉大なる中国の皇帝が、みことのりを伝える。)
  2. 聖仁は広く運り、凡そ天覆地載、親を尊ばざるは莫し。
    (せいじんはひろくめぐり、およそ、てんぷうちさい、しんをたったばざるはなし。
    中国皇帝の仁の心は世界にひろがり、友好の機運が全世界に満ちている。)
  3. 帝命は溥将にして、海隅日出に曁び、率俾せざるは罔し。
    (ていめいはふしょうにして、かいぐうにっしゅつにおよび、そっぴせざるはなし。
    中国皇帝の支配は広大で、海の果ての太陽がのぼる場所まで、くまなく及んでいる。)
  4. 昔、我が皇祖は多方を誕育し、
    (むかし、わがこうそはたほうをたんいくし、
    むかし、わが明帝国の初代皇帝は、四方の異民族を援助なされ、)
  5. 亀紐と龍章と、遠く扶桑の域に錫ひ、
    (きちゅうとりゅうしょうと、とおくふそうのいきにたまい、
    中国の藩属国の国印を、遠い日本にお与えになり、)
  6. 貞aと大篆と、栄を鎮国の山に施す。
    (ていびんとだいてんと、えいをちんこくのやまにほどこす。
    中国に服属できた栄誉のしるしの石碑を、日本の山に建てさせてやった。)
  7. 嗣ぐに海波の揚ぐるを以てし、
    (つぐにかいはのあぐるをもってし、
    その後は、海上交通で波風がたつなどいろいろあって、)
  8. 偶〻、風占の隔たるを致す。
    (たまたま、ふうせんのへだたるをいたす。
    日本から中国への朝貢が、たまたましばらく途絶えていた。)
  9. 茲の盛際に当り、宜しく彝章を纘ぐべし。
    (このせいさいにあたり、よろしくいしょうをつぐべし。
    いまの太平の世にあたり、本来の正しい国交を復活させよう。)
  10. 咨、爾、豊臣、平の秀吉は、
    (ああ、なんじ、とよとみ、たいらのひでよしは、
    ああ、なんじトヨトミことタイラのヒデヨシは、)
  11. 海邦に崛起するも、中国を尊ぶを知る。
    (かいほうにくっきするも、ちゅうごくをたっとぶをしる。
    遠い島国に生まれ頭角をあらわした身なのに、中国皇帝の偉大さをわきまえているのは、殊勝である。)
  12. 西のかた一介の使ひを馳せ、欣慕して来同し、
    (にしのかたいっかいのつかいをはせ、きんぼしてらいどうし、
    おまえは、中国を中心とする友好の輪に加わりたい一心で、西から使者を中国に送り、)
  13. 北のかた万里の関を叩き、懇に内附を求む。
    (きたのかたばんりのかんをたたき、ねんごろにないふをもとむ。
    北京までの万里の道をこえ「どうか中国の家来にしてください」と頼んできた。)
  14. 情は既にして恭順より堅く、
    (じょうはすでにしてきょうじゅんよりかたく、
    おまえの中国をしたう心情は、単なる恭順以上で、殊勝である。)
  15. 恩は柔懐より靳くすべし。
    (おんはじゅうかいよりかたくすべし。
    わが中国も、単なる蛮族への懐柔以上の恩を、おまえに与えてやろう。)
  16. 茲に特に爾を封じて日本国王と為し、之に誥命を錫ふ。
    (ここにとくになんじをほうじてにほんこくおうとなし、これにこうめいをたまう。
    ここに、特別措置として、おまえを日本国王に封冊してやることとし、この勅書を与える。)
  17. 於戯、
    (ああ、
    ああ、)
  18. 寵を芝函に賁り、冠裳を海表に襲ふ。
    (ちょうをしかんにかざり、かんしょうをかいひょうにおそう。
    中国皇帝のおまえに対する恩寵は、この箱にこもっている。おまえは、この箱のなかの中国の衣冠を晴れ着として、海の果てで着用せよ。)
  19. 風を卉服に行ひ、藩衛を天朝に固めよ。
    (ふうをきふくにおこない、はんえいをてんちょうにかためよ。
    普段着としては、おまえは島国らしく質素な草木の服を着用し、わが中国の衛星国として中国防衛のために力をつくせ。)
  20. 爾は其れ
    (なんじはそれ
    おまえは、そう、)
  21. 臣職の当に修むべきを念じ、恪みて要束に循へ。
    (しんしょくのまさにおさむべきをねんじ、つつしみてようそくにしたがえ。
    中国皇帝の臣下としてやらねばならぬことを忘れず、つつしんで中国との約束を守りなさい。)
  22. 皇恩の已に渥きを感じ、款誠を替ふる無かれ。
    (こうおんのすでにあつきをかんじ、かんせいをかうるなかれ。
    中国皇帝のご恩の厚さを忘れず、中国への忠誠の態度を変えてはならぬ。)
  23. 祗みて綸言に服し、永く声教に遵へ。
    (つつしみてりんげんにふくし、ながくせいきょうにしたがえ。
    おまえは、つつしんで中国皇帝のお言葉に服従し、永遠に中国皇帝のありがたいご教示にしたがうのだぞ。)
  24. 欽めや。
    (つつしめや。
    中国皇帝のたっといお言葉を、つつしんでうけたまわりなさい。以上。)
万暦二十三年正月二十一日


○龍の爪の本数と中華思想
 近世の中国では「五爪の龍」をデザインとして使えるのは中国の皇帝だけとされた。
 臣下や外国は四本爪や三本爪の「龍に似た生き物」しか、デザインとして使うことを許されなかった。
 日本は中国の冊封国ではなかったので、五本爪の龍も自由に使えたが、日本人は唐以前の古典的な龍の意匠の伝統を重んじたため、昔の日本では三本爪の龍が多かった。
参考 #higashiajia-power.html

クイズ「龍」(異体字は「竜」。中国の簡体字では“龙”、ハングルでは“용”)の爪は何本でしょう?
 →答え 時代や地域ごとに違う。近世の東アジアでは、中国の皇帝の権力と権威の浸透度、のバロメーターにもなった。

 紅山文化(紀元前4700年頃-紀元前2900年頃)の墳墓から「玉龍」が出土。
 先秦時代には龍が天子や王の象徴となっていた。『韓非子』の「逆鱗」の故事。
 唐・宋の時代までは龍の爪の数は一定していなかった。
 元の時代に、皇帝が使う龍の紋様は「五爪二角の龍」が正統とされ、民間での使用を制限した。
 以後、明・清時代を通じて、中国の皇帝だけが「五爪の龍(ごそうのりゅう)」の紋様を使い、臣下や民間、外国は四本爪や三本爪の龍を使うように定められた。
 参考図書 宮崎市定「龍の爪は何本か」<『中国文明論集』岩波文庫、1995年

爪の数の違い
★日本・・・日本の龍は、唐王朝の時代の龍(中国の皇帝が龍の爪の数を規制する前の時代)のなごりもあって、三本爪が多い。また、日本は中国の冊封を受けなかった(日本の中央政府は歴史上、一度も中国の皇帝から冊封を受けたことがない。東アジアでは特異な独立国家であった。ただし、引退した政治家の足利義満が個人的に明から冊封を受けるなど、個人や地方政権が中国の皇帝の臣下になる例はあった)。日本は独立国だったため、中国の皇帝に遠慮する必要はなく、歴代の美術工芸品の龍の爪の数は、三本、四本、五本などと一定しなかった。ちなみに、長崎県壱岐の龍光大神(りゅうこうおおかみ)は七本爪の龍神で、中国の皇帝の龍よりもはるかに「格上」である。
★韓国/朝鮮・・・朝鮮王朝時代まで、歴代の国王は中国の皇帝から冊封を受けていた。中国の皇帝は臣下から「万歳万歳万々歳!(ばんざい ばんざい ばんばんざい / wànsuì wànsuì wàn wànsuì)」と歓呼されていたが、朝鮮国王は「千歳千歳千々歳!(チョンセ チョンセ チョンチョンセ / 천세천세천천세)」しか許されない、など、万事につけて中国皇帝より一段低い儒教的ステイタスに甘んじねばならなかった。朝鮮国王が使用することを許された龍の爪の数も同様で、中国人の目が届くところでは四本爪の龍しか使えなかった。ただし、慶熙宮(けいききゅう/キョンヒグン/경희궁)の崇政殿(すうせいでん/スンジョンジョン/숭정전)には、中国の皇帝の龍をもしのぐ七本爪の龍がある。心のなかでは、中国と対等以上であるという独立心を保っていた。

参考 龍についての補足 #higashiajia-power.html#long



08/08 商人気質
 三千数百年前、黄河中流域に「商」という王朝がありました。日本の歴史教科書では「殷」と呼びますが、商王朝の自称は商でした。紀元前11世紀、商王朝は周王朝によって滅ぼされました。国家と領土を失った商人は、財貨のやりとりなどのサービスによって生活するようになりました。これが「商業」「商売」「商人」の語源です。日本人は職人気質、中国人は商人気質、という人もいます。「富は外からもってくるもの。『花見酒の経済』はダメ」「職人芸や名人芸は、非効率なガラパゴス化をもたらすだけ。商売も政治も戦争もコモディティ化すべし」という中国人の商人気質の歴史を、具体的な人物を挙げながら、面白く解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nUmVHP0BeoHKJwo11TVo3q

○ポイント、キーワード

○「商」の字源・語源
商の字源:今から三千三百年くらい前の甲骨文字から「商」という漢字は存在していた。
 学研『漢字源』(藤堂明保、加納喜光、他)の説では、商は「商・章・陽・場・昌・敞」の「単語家族」で、コアイメージは「明るい・明らか」、初義は「何かをしようと図る」(はっきりしない物事をはっきりさせようとする)。
 通説では、「商」は「辛」の下に「冏」で、高台の地形を表し、殷人の自称だった。
 日本の世界史の教科書などに出てくる「殷」は、殷を滅ぼした周人や司馬遷『史記』など後世の呼び方で、殷人自身の自称は「商」であった。現代中国語では殷王朝を「商王朝」と呼ぶ。
 商は紀元前11世紀、西方の周人に攻められて滅亡した(#asahi20210408.html#02)。亡国の民となって土地を失った商人は、西洋のユダヤ人と同様、遠方の物財を運んで取引をするというなりわいを始めた。これが「商業」「商人」の語源である。ちなみに「商」の訓読み「あきない」は、秋の行い、という意味の古代日本社会のことばで、古代中国社会の「商」とは意味用法が違った。
 拙著(加藤徹『貝と羊の中国人』新潮新書)でも述べたが、中国文明は、
 貝:殷人的、商人的、老子的、沿海部、商業、財・貨・買・購…
 羊:周人的、士人的、孔子的、内陸部、道徳、義・美・祥・善…
の2つの性格が融合して形成された。日本文明が「縄文と弥生の融合」から生まれたのと似ている。
 日本では、大正5(1916)年の渋沢栄一『論語と算盤』が商人と「武士」の倫理的融合「士魂商才」を強調した。中国では、2500年前の孔子(先祖は殷人だが周の文明を推奨した人物)から21世紀の中国共産党まで、「士魂商才」は中国人にとって自然なエートス(ethos)となっている。

○孔子の「商売っ気」
 孔子(前552/551-前479)は、いにしえの礼楽だけを主張する頭の固い学者ではなく、しなやかな商人的センスも持っていた。以下、『論語』子罕篇13より引用。
子貢曰「有美玉於斯。韞匵而蔵諸? 求善賈而沽諸?」。子曰「沽之哉、沽之哉。我待賈者也。」
子貢曰く「斯に美玉、有り。匵に韞&めて諸れを蔵せんか、善賈を求めて諸れを沽らんか」と。子曰く「之を沽らんかな、之を沽らんかな。我は賈を待つ者なり」と。
シコウ、イワく「ココにビギョクアり。ヒツにオサめてコレをゾウせんか、ゼンコをモトめてコレをウらんか」と。シイワく「コレをウらんかな、コレをウらんかな。ワレはコをマつモノなり」と。
 孔子の弟子である子貢(前520年 - 前446年)が言った。「ここに美しい宝玉がございます。ひつの中にいれて、人目につかぬようにしまいますか? それとも、よい値段をつけてくれる商賈(しょうこ。あきんど)をさがしもとめて売りますか?」。先生(孔子)は言われた「売るよ。売るよ。わたしはね、ずっと商賈との出会いを待ち望んでいるのだ」
 インドの釈尊(釈迦)に「十大弟子」がいたように、孔子にも「孔門十哲」がいた。孔門十哲のひとりである子貢は、孔子の死後、政財界で大成功した。司馬遷の『史記』によれば、子貢は魯国や斉国の宰相を歴任し、魯を救うため越・呉・斉・晋をまわって熱弁をふるって魯を救い、呉を滅ぼして越を覇者たらしめ、斉を弱めて晋を守るなど、国際情勢を弁舌力で動かした。また商才によって莫大な富を築いた。魯のローカルな孔子学校の教えを、全国区の永続的な「儒教」に高めた貢献者は、じつは子貢であった。
○司馬遷『史記』貨殖列伝
 紀元前5世紀から前1世紀までの、天下を動かした富豪たちの列伝。中国各地の経済地理や気風の相違を記述したうえで、富の追求を肯定し、経済的成功者の能力を絶賛した。後世の歴史家は、司馬遷が「お金持ち」を、政治家や学者などと同等に「歴史」に記載したことを批判した。
○陶朱猗頓の富 とうしゅいとんのとみ
 莫大な富、もしくは、富豪、の意。陶朱は、越王勾践(えつおうこうせん)に仕えた范蠡(はんれい)のことで、辞職後は山東の陶の地に住み朱公と称し、政治を離れて蓄財家として成功した。猗頓は魯国の富豪。
 『史記』「貨殖列伝」によると、范蠡は、越王の酷薄な性格を見抜き、粛清される前に政治から足を洗って辞職し、外国に移住した。斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変え商売を行い大富豪となると、斉は范蠡を宰相にしたいと申し出た。范蠡は全財産を他人に分け与えて去った。 斉を去った范蠡は定陶(現在の山東省?沢市定陶区)に移りって陶朱公と名乗り、ここでも商売に成功して大富豪となり、晩年は引退し悠々自適の老後を楽しんだ。
 中国史では春秋戦国時代の前5世紀から、子貢や陶朱などの大富豪がいた。日本史で商人が政治に登場するのは、16世紀の千利休や小西行長あたりからで、中国史より2千年くらい遅い。
○奇貨居くべし きかおくべし
 戦国時代の趙国の商人であった呂不韋 (りょふい ?−前235年。#asahi20211014.html#02) の名言。趙に人質になっていた秦の王子・子楚 (しそ) のパトロンとなり、財力を使って子楚を秦国の王とし、自分も秦の宰相となった。一説に、呂不韋は秦の始皇帝の実父ともいわれる。(1962年の大映映画『秦・始皇帝』では、勝新太郎が始皇帝、山田五十鈴が始皇帝の母、河津清三郎が呂不韋を演じ、山田五十鈴が勝新太郎に「おまえのほんとうの父親は・・・」と真実を告げるシーンがある)
○塩鉄専売
 前漢の武帝の時代の経済官僚・桑弘羊(そうこうよう ?−前80年)は洛陽の商家の出で、均輸・平準法や、塩と鉄の専売制などを推進した。「塩」が国家の専売となったことは、以後の中国史に大きな影響を与えた。
○三国志
宮本武蔵や星飛雄馬(巨人の星)は自己鍛錬にはげむ。
三国志の英雄は、関羽も諸葛孔明も自己鍛錬のシーンはない(登場の当初から無敵キャラ)。誰と組むか、どのチームに入るかに努力する。
日本人は職人気質なので、日本の剣豪は「名刀」にこだわる。宮本武蔵の「無銘金重」(むめいかねしげ)や、近藤勇の「長曽祢虎徹」(ながそねこてつ)など。cf.中国でも人気のある「刀剣乱舞」。
三国志演義では、関羽の青竜刀も、張飛の蛇矛も、田舎町の無名の鍛冶屋に注文して作らせた実用品である。参考 #20230518.html
吉川英治の小説『三国志』「桃園の巻」より引用。引用開始。参考 #waseda20220517.html
【商人の張世平が、無名の3人に資金援助を申し出る場面。日本の剣豪の名刀と違って、関羽や張羽は近所の無名の鍛冶屋で武器を作らせたことに注意。日本人の職人気質と、中国人の商人気質の対比がよく描かれている。】
 張は五十頭の馬匹を、無償で提供するばかりでなく、玄徳に会ってから玄徳の人物をさらに見込んで、それに加うるに、駿馬に積んでいた鉄一千斤と、百反(たん)の獣皮織物と、金銀五百両を挙げてみな、「どうか、軍用の費に」と、献上した。
 その際も、張はいった。
「最前も、みちみち、申しました通り、手前はどこまでも、利を道とする商人です。武人に武道あり、聖賢に文道あるごとく、商人にも利道があります。ご献納申しても、手前はこれをもって、義心とは誇りません。その代り、今日さし上げた馬匹金銀が、十年後、三十年後には、莫大な利を生むことを望みます。――ただその利は、自分一個で飽慾(ほうよく)しようとは致しません。困苦の底にいる万民にお頒(わか)ちください。それが私の希望であり、また私の商魂と申すものでございます」
 玄徳や関羽は、彼の言を聞いて大いに感じ、どうかしてこの人物を自分らの仲間へ留めおきたいと考えたが、張は、
「いやどうも私は臆病者で、とても戦争なさるあなた方の中にいる勇気はございません。なにかまた、お役に立つ時には出てきますから」といって、倉皇(そうこう)、何処ともなく立ち去ってしまった。
 千斤の鉄、百反の織皮しょくひ、五百両の金銀、思いがけない軍費を獲て、玄徳以下三人は、
「これぞ天のご援助」
 と、いやが上にも、心は奮い立った。
 早速、近郷の鍛冶工(かじこう)をよんできて、張飛は、一丈何尺という蛇矛(じゃぼこ)を鍛(う)ってくれと注文し、関羽は重さ何十斤という偃月刀(えんげつとう)を鍛(きた)えさせた。
 劉備に仕える前の諸葛孔明のように「出会い」「機会」「組み合わせ」に努力。
 自己研鑽する時間があれば、自分を活かしてくれる相手を探すのに時間と労力を割く。
 中国語の格言「人挪活,树挪死」(人は動いてこそ生きる。木は動くと死ぬ)
 三国志には、関羽や張飛の修行シーンも、孔明の勉学のシーンもない。彼らは登場したときから「無双する」無敵のヒーローである。参考 #20230322.html
諸葛孔明関羽
雅俗共賞劉備趙雲
張飛


○士商階級
 中国では、およそ千年前の宋の時代から、商工業者も「科挙」を受験できるようになった。科挙の受験勉強には莫大なお金がかかり、富裕層は「儒業」として子弟の教育のため惜しみなく財力をそそいだ。特に、江南などの豊かな地域では、数千人から数万人単位の宗族(父系同族集団)の存在がものをいうようになった。宗族の有力者は、商才のある身内の子弟には商売の資金を出し、座学にすぐれた子弟には勉学の資金を援助した。結果として、宋以降の歴代王朝の科挙の上位合格者の大半は、中国南部の出身者が独占した。「士」たる科挙官僚と、「商」たる財界人は、宗族という「私」の関係で密接につながっていた。
○最後の社会主義大国
 世界最初の社会主義国は1917年に成立したロシア・ソビエト連邦社会主義共和国である。
 ソ連崩壊(1988年 - 1991年)後、社会主義国を自称する国は、中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国、ベトナム社会主義共和国、ラオス人民民主共和国、キューバ共和国の5か国である。
 このうち中国は「改革開放」「経済特区」「一帯一路」など、資本主義国も顔負けの経済構想を推進し、21世紀の今も最後の社会主義大国として存在している。


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