学研の漢和辞典『漢字源 改訂第六版』(ISBN 978-4-05-304619-2)の遊(辵部9画)の解説より引用。改行や原書の符合は改めてある。 【初義】楽しみを求めて外に出ていく 【語源】遊は悠・揺と同源。これらは「ゆらゆらとゆれ動く」というイメージがある。 このイメージは「同じ所にとどまらず、じっとしない」「定位置にいないであっちこっちに動く」というイメージに展開。 何かの目的で、場所を定めずに、あっちこっちに動き回っていくことを遊という。 「定位置にいないで、あっちこっちに動く」というコアイメージから、 楽しみを求めて外に出ていく(あそぶ)意味(遊覧)、 住まいを離れてよその土地に行く意味(遊学)、 定職につかずぶらぶらする意味(遊民)、 行ったり来たりして付き合う意味(交遊)、 定位置につかずあっちこっちに移動する意味(遊牧)、 水上に浮かんであっちこっちに動く意味(遊泳)、 に展開。 【字源】遊=斿(ユウ−ゆらゆらする▶斿5552)[音・イメージ記号]+辵(行く)[限定記号]<形声>。 子はよちよち歩きの子で、あちこち動いてじっとしないというイメージがある。 斿は「子(こ)[イメージ記号]+㫃(はた)[限定記号]」<会意>で、ゆらゆら揺れる旗の吹き流しを示す。 この意匠によって、「定位置にじっとしない」「あっちこっちに所定めず動く」というイメージを示す記号になる。 遊は決まった場所にいないであっちこっちに動いて行く情景。 ▷遊は游の古文の字体。 【同源語】遊・游・蝣 【単語家族】遊・悠・揺・謡・遙・猶 |
参考講義ビデオ 加藤徹担当「アジア文化V」第8回(b)2024年6月7日 下記のビデオの27分04秒目から最後まで(長さは18分31秒) https://meiji-univ.ap.panopto.com/Panopto/Pages/Viewer.aspx?id=08123c09-565d-4de1-904e-b1870113be0f |
そんな頃、たまたま読んでいた本で知ったのが「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という禅の言葉。好きなことであっても、そこには楽しいこともつらいこともある。だからやることそのものを楽しめ、という教えです。挫折からはい上がってたどり着いた自分の境地そのものだった。以来、「遊戯三昧」は私の座右の銘にもなりました。 「テニス杉山愛 挫折後にたどり着いた「遊戯三昧」の境地」2020.07.22 |
江戸時代の両点本『妙法蓮華経』の画像 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wood-Block_Print_of_The_Lotus_of_the_True_Law,_Chapter_II_Skilfulness_妙法蓮華経_方便品第二_妙音成仏.jpg 或有起石廟 栴檀及沈水 木樒竝余材 甎瓦泥土等 若於曠野中 積土成仏廟 乃至童子戯 聚沙為仏塔 如是諸人等 皆已成仏道 (中略) 乃至童子戯 若艸木及筆 或以指爪甲 而画作仏像 如是諸人等 漸漸積功徳 具足大悲心 皆已成仏道 或は石廟を起て 栴檀及び沈水 木樒竝に余の材 甎瓦泥土等をもってするあり 若しは曠野の中に於て 土を積んで仏廟を成し 乃至童子の戲に 沙を聚めて仏塔と為る 是の如き諸人等 皆已に仏道を成じき (中略) 乃至童子の戲に 若しくは艸(草)木及び筆 或は指の爪甲を以て 画きて仏像を作(な)す 是の如き諸人等 漸漸に功徳を積み 大悲心を具足して 皆已に仏道を成じき Those who made rock stupas, Stupas out of sandal, aloe, deodar, and other woods, As well as brick, tile, mud, and other materials; All those who made buddha stupas Out of piles of earth in desolate places; And even children in play Who made buddha stupas out of heaps of sand― All such people have certainly attained The path of the buddhas *snip* This even includes children in play Who have drawn a buddha image With a blade of grass or a twig, Brush or fingernail. Such people, having gradually accumulated merit And perfected great compassion, Have certainly attained the path of the buddhas. ※https://www.bdk.or.jp/document/dgtl-dl/dBET_T0262_LotusSutra_2007.pdf pp.38-39 |
遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さへこそ動がるれ |
遊び あそび
日本の芸能音楽用語。古くは「神遊び」などという言葉が示すように,神をもてなすため,あるいは神とともに人間が楽しむための神事やそれに付随する芸能全体をさしていたと考えられる。 その後平安時代にはやや限定的に楽舞を演じて楽しむことを意味し,「御遊 (ぎょゆう) 」ともいわれた。当時の宮廷社会には,定められた年中行事や儀式とは別に,「あそび」と称する響宴があり,そのありさまは『源氏物語』や『栄華物語』などの平安文学に叙述されている。 なお,最も狭義には管絃の合奏をさす。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
日本の Bacchanalia(注1) は、呆気(あっけ)にとられたオルガンティノ(注2)の前へ、蜃気楼(しんきろう)のように漂って来た。
彼は赤い篝(かがり)の火影(ほかげ)に、古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌み交かわしながら、車座(くるまざ)をつくっているのを見た。
そのまん中には女が一人、――日本ではまだ見た事のない、堂々とした体格の女(注3)が一人、大きな桶(おけ)を伏せた上に、踊り狂っているのを見た。
桶の後ろには小山のように、これもまた逞(たくま)しい男(注4)が一人、根こぎにしたらしい榊(さかき)の枝に、玉だの鏡だのが下さがったのを、悠然と押し立てているのを見た。
彼等のまわりには数百の鶏が、尾羽根(おばね)や鶏冠(とさか)をすり合せながら、絶えず嬉しそうに鳴いているのを見た。
そのまた向うには、――オルガンティノは、今更のように、彼の眼を疑わずにはいられなかった。
――そのまた向うには夜霧の中に、岩屋(いわや)の戸らしい一枚岩が、どっしりと聳(そび)えているのだった。 桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた蔓(つる)は、ひらひらと空に翻(ひる)がえった。 彼女の頸(くび)に垂れた玉は、何度も霰(あられ)のように響き合った。彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。 しかもその露(あら)わにした胸! 赤い篝火かがりびの光の中に、艶々(つやつや)と浮(うか)び出た二つの乳房(ちぶさ)は、ほとんどオルガンティノの眼には、情欲そのものとしか思われなかった。 彼は泥烏須(デウス)を念じながら、一心に顔をそむけようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘な呪のろいの力か、身動きさえ楽には出来なかった。 その内に突然沈黙が、幻の男女たちの上へ降った。桶の上に乗った女も、もう一度正気(しょうき)に返ったように、やっと狂わしい踊をやめた。 いや、鳴き競っていた鶏さえ、この瞬間は頸を伸ばしたまま、一度にひっそりとなってしまった。するとその沈黙の中に、永久に美しい女(注5)の声が、どこからか厳(おごそ)かに伝わって来た。 「私(わたし)がここに隠(こも)っていれば、世界は暗闇になった筈ではないか? それを神々は楽しそうに、笑い興じていると見える。」 その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほどしとやかに返事をした。 「それはあなたにも立ち勝まさった、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」 |
読売新聞 2018/09/10 掲載 『禅とジブリ』 鈴木敏夫著 淡交社 1600円 人生という道楽 評・加藤徹(中国文化学者・明治大教授) 「道楽」は「仏道を歩むことを楽しむ」という仏教用語だ。世間では、生産的な仕事と無関係の遊び、という意味で使う。良寛の書や白隠の禅画は、両者の意味の区別を越えた道楽だ。スタジオジブリのアニメ映画のほぼ全作をプロデュースし『仕事道楽』という著書もある鈴木敏夫氏(1948年生まれ)が、3人の禅僧と丁々発止の対談をする本書も、上乗(じょうじょう)の道楽だ。 1979年生まれの細川晋輔和尚は、一般向けの仏教本を多数上梓(じょうし)し、102歳で亡くなった松原泰道の孫。修行中に雲水衣でジブリ作品『千と千尋の神隠し』を見に行ったほどのアニメ好きだ。東日本大震災のとき、細川和尚は被災者から「死んだらあの人に会えますか」と訊きかれた。「会える」とは簡単に答えられない。細川和尚の答えは、禅の開祖・達磨だるまや、ジブリの『もののけ姫』の主人公の言葉と同じだった。それは本書を読んでのお楽しみである。 64年生まれの横田南嶺老師は、ジブリやアニメは好きではない、昔話ばかりする坊さんの集まりは大嫌い、と言う痛快な高僧だが、人生の苦しみや死など、ジブリ作品のテーマと仏教の共通点を、やさしく説き明かす。 56年生まれで芥川賞作家でもある玄侑宗久和尚は、現代の世界に広まった禅はインドでも中国でもなく日本の禅であること、その理由はジブリ作品のある特徴と共通することを指摘する。ビートルズや植木等の歌にも言及する。 鈴木氏は、有名・無名の老若男女の生きかたも、積極的に話題にする。92歳まで生きた母親、若死にした妹。ずっと仕事をしてきた「宮さん」(宮崎駿氏。41年生まれ)の変人ぶり。80歳まで生きた身内がほとんどいない宮さんの覚悟。鈴木氏の口吻(こうふん)を通じ、私たち読者の現在や未来の分身も対談に参加しているような臨場感がある。禅やアニメの予備知識がなくても、すらすらと読める。人生という道楽について、あらためて考えさせられた。 ◇すずき・としお=愛知県生まれ。1978年から雑誌編集のかたわら宮崎駿、高畑勲監督のアニメ作品を制作。 |
遠藤周作『万華鏡』(朝日新聞社、1993)「人生の再構成」p.156 敬愛するわがデーケン神父さんはある時、こんな人生再構成の話をしてくださった。癌で死を前にした一人の母親が、子供たちのために、彼女にとって生涯の思い出だった色々な歌をテープに吹き込み、そして死んでいったという。 そのテープによって子供たちは母が自分たちのために歌ってくれた幼い頃の童謡、家族のみんなで歌った色々な歌、そして母の好きだった歌をそのままの肉声できくことができた。 何という美しい、素晴らしい人生の再構成であろう。何という愛情のこもった形見だろう。 私自身も亡母と亡兄の声のこもったテープを持っている。亡母は今の芸大(当時の上野音楽学校)の卒業生だったので、彼女の歌ったグレゴリアンの古いレコードが残っていて、そのレコードをテープに再生することで私は忘れがたい母の肉声をまだ聴くことができるのだ。 たった一人の兄弟だった亡兄の声も彼の対談がテープ化されていたお蔭で一人でそっと耳にする夜がある。 私の経験では実際の声は遺書や写真よりもずっとあざやかに故人を身近に感じさせる。だから自分の歌声を残してくれた末期癌の母親のやさしい心情を子供たちはどんなに感謝しているであろう。母親はそれによって、自分の人生が何であったかを子供たちに再構成してみせたのだ。 |
人間は、高温気候の影響下では、他の場合よりも怠惰かつ無関心になりがちであるから、本や講演、ラジオなどによる部隊の慰安は、とくに重要である。将兵が自分たちで芝居をやることには、とりわけ価値があり、可能なかぎり推奨すべし。
ドイツ国防軍陸軍総司令部 (著), 大木 毅 (翻訳)『ドイツ国防軍 砂漠・ステップ戦必携教本』作品社 (2019/1/25)の「第一〇章 熱帯衛生 H.生活態度」p.117 より引用。ISBN-13: 978-4861827334 |