(世界大百科事典 第2版の解説) りぞく【離俗】 俳諧用語。蕪村は門弟召波の《春泥句集》(1777)に寄せた序文の中で, 〈俳諧は俗語を用ひて俗を離るるを尚ぶ。俗を離れて俗を用ゆ。離俗の法最もかたし〉としるしている。 俳諧に用いられる言葉は,ことさらにあらたまった雅語のようなものではなく,だれもが日常に使う平易な俗語でなければならず, しかも俗から離れなければならないという。これは蕪村の俳諧の基本的な態度,方法をあらわすものである。 俗と離俗と同時におこなおうとすることは,芭蕉の〈高く悟りて俗に帰るべし〉につながるものであろうが,蕪村の場合,俗に〈帰る〉よりも,俗から〈離れる〉ことが強調されている。 | |
『春泥発句選』安永丁酉[安永六年]冬十二月七日(1778年1月5日)、蕪村序。[ ]内は加藤徹の注 ←原文の画像は、愛知県立大学図書館のHPの中の[こちらの頁]で閲覧可能。 柳維駒[召波の子]、父の遺稿を編集して余に序を乞(こふ)。序して曰。 「余曾テ春泥舎召波に洛西の別業(べつげふ)に会す。 波すなはち余に俳諧を問。 答曰。俳諧は俗語を用て俗を離るゝを尚(たつと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗ノ法最かたし。かの何がしの禅師が、隻手の声を聞ケといふもの[白隠の「隻手音声(せきしゅおんじょう)」の公案]、則俳諧禅にして離俗ノ則也。 波頓悟(とんご)す。却(かへつて)問。叟が示すところの離俗の説、其旨(そのむね)玄(げん)なりといへども、なを(ほ)是工案をこらして我よりしてもとむるものにあらずや。し(若)かじ彼もしらず、我もしらず、自然に化して俗を離るゝの捷径(せふけい)ありや。 答曰。あり。詩[漢詩]を語るべし。子もとより詩を能(よく)す。他にもとむべからず。 波疑(うたがつて)敢(あへて)問。夫(それ)詩と俳諧といささか其致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云。迂遠(うゑん)なるにあらずや。 答曰。画家ニ去俗論あり[芥子園画伝・初集]。曰。画、俗ヲ去ルコト無二他ノ法一。多読レ書則書巻之気上升、市俗之気下降矣。学者其(それ)慎旃哉(これをつゝしまんや)。それ画の俗を去だも筆を投じて書を読(よま)しむ。況(いはんや)詩と俳諧と何の遠しとする事あらんや。 (以下、略) |
This human world of ours is the making neither of God nor of the Devil; but of common mortals; your neighbors on your right; your neighbors on your left, and your neighbors across the street.
[青空文庫版・夏目漱石『草枕』]より引用 住みにくさが 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、 住みにくき世から、住みにくき |
中島恵『なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか?』中公新書ラクレ、2015
その頃、よく布団にくるまって泣きながら一人でこっそり見ていたのは 『Angel Beats!』というアニメでした。 布団がゴソゴソするなと思ったら、 なんとネズミが這い回っているんですよ。 そんなに汚い環境でも、好きなアニメを見ている時間だけはとても幸せで、 ほんの一瞬ですが、辛いことを忘れられました。 日本のアニメは温い日本人の人間性が凝縮されていると思いました。 いつか、好きなアニメを山ほど買って、コスプレもたくさんして、 日本旅行に行きたいと思って、 それで今日まで歯を食いしばってがんばってきたんです。 (中略) 中国人は誰でも明日のことはわからないんです。 今はとても豊かになって、多少のお金を持てるようになったとはいっても、 みんな心の中では明日のことをとても心配し、 殺伐としているんです。 中国のような国では、どこにどんな落とし穴があって、 これから先も順調に生きていけるかどうかわからない。 誰に足を引っ張られるかも、裏切られるかもわかりません。 口に出さなくても、みな、そんな不安をいつも抱えています。 でも、日本人は違う。(中略)お金以外に価値を置いて精神的に豊かな暮らしをしている人も多い。 そういう姿は本当にうらやましいんです。 少なくとも、僕の目にはそう映ります。 |
2015年の本。コロナ後の今、読み返すと感慨深い。若くして成功したコスプレ男性の言葉「中国人は誰でも明日のことはわからないんです。 今はとても豊かになって、多少のお金を持てるようになったとはいっても、 みんな心の中では明日のことをとても心配し、 殺伐としているんです」 pic.twitter.com/HHxTlB3Bxs
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) May 25, 2022
富野由悠季(とみの・よしゆき)監督の、日本大学芸術学部所沢キャンパスでの講演での語録。 以下、個人のブログ http://sleepydrag.blog29.fc2.com/blog-entry-242.html(2006-11-08)より引用。2019年10月3日閲覧。 |
今日わざわざここに来たのはあなた達以外に留学生がたくさんいるからです。というのも今あなた達の隣に居る留学生(中国や韓国)の技術力はもの凄くレベルが高くなってきています。だから日芸の所沢に来てそれだけで安心しきっているのなら今すぐ辞めてください!そしてこのような言い方をレトリックだとは思って欲しくないのです。
アニメのことを日本語で言う視覚芸能だと思っている。 学生時代はせめて歌舞伎の発生・能の発生・猿楽の発生くらいの概論は頭に入れて欲しい。 猿楽の時代から芸能が発生してどのように庶民に受け入れられたのか・楽しまれていったのか、単純な楽しみごとではないんだよね、祭りごとは。実はそれは祈願でもあるし、神に対してのお礼でもある、そのことは踊り・ダンスの発生とすべてリンクしていきます。 映画=アニメ=動く画を使うから=観客がリアルタイムで時間を拘束される・共有する。 それは一言で言えば「芝居」 だから、文芸・演劇・物語を見ないで映画・アニメが作れると思うな! 日本人なんてのはわいせつ大好き! 日本人はわいせつなものを舞台で見るような風俗がある。 自分が9歳までの間で何が好きだったか? 一番自分が気にしていたことを思い出して欲しい。 そこから何か生まれるはず。 |