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中国古典からの発想

 本稿は、筆者も編者・執筆者として参加した共著『人間理解のコモンセンス』(培風館、2002年刊。詳しくはこちら)第四章第四節の拙文「中国古典からの発想」をほぼそのままHTML化したものです。(ごくわずかだけ字句の違いがあります)
 『人間理解のコモンセンス』は、広島大学の教養教育改革の試みの一つである「パッケージ科目」担当教官を中心に執筆された副読本シリーズの中の一冊です。
 本稿の内容は、同書に載っている他の文章と密接に関連しています。
 この拙稿をお読みくださりご興味をお持ちのかたは、ぜひ上掲書もお読みくださいますよう。

2003年2月6日 加藤徹 

本ページの「壁紙」と回転星アイコンはあまのがわ料理店の、GIFアニメはGIF ANIMATION GALLERYのフリー素材を使わせていただきました。

リード文
1.α思考とβ思考
2.ユダヤ人と宋人(そうひと)
3.「胡蝶(こちょう)の夢」とクオリア
4.物理学者を魅了した荘子のβ思考
5.「一尺(いっしゃく)の鞭(むち)」と「アキレスと亀(かめ)」
6.「死後の世界」を否定した中国の合理主義者たち
7.近代科学は「あの世」ばなれできない西洋的思考から生まれた
8.宇宙は人間のためにある!?
9.むすび
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IV-4
中国古典からの発想

加藤徹

 今から二千年後の西暦41世紀,もしそのころまで人類が絶滅していなかったとして,どんな本が読まれているでしょう? ほぼ確実に予想できるのは,いままで二千年のあいだ一度も絶版になることなく読み継がれてきた本は,次の二千年間も読み継がれる可能性が高い,ということです。実際,古典の本のなかには,人類の現代や未来を考えるうえでヒントになる話がたくさんあります。ここではその例として,古代中国のいわゆる「漢文」に見られる発想を,いくつか見てみましょう。






IV-4-1 α思考とβ思考

 わたしたちが体を動かすとき,大きく分けて二つの動かし方があります。一つは,例えば近所に買い物に行く,という具体的な目的をもった運動。もう一つは,スポーツやトレーニングなど,体を動かすこと自体を目的とする純粋運動です。ここでは仮に,前者をα運動,後者をβ運動と呼ぶことにします。健康な体をつくるためには,α運動とβ運動の両方を適度にすることが大切です。
 中国語で脳のことを「脳筋」(ナオジン)と言い,考えることを「動脳筋」(ドンナオジン)つまり「脳を動かす」と言います。この表現の裏には,頭脳も体の筋肉と同じで「動かす」ことによって鍛えられる,という発想があります。運動と同じく,思考にもαとβの二種類があります。日常の現実をスムースに生きてゆく知恵としてのα思考。「頭のスポーツ」ないし「知性のダイエット」である純粋思考としてのβ思考。頭脳を鍛えるには,この両方を適度に行うことが大切です。
 英語で教養のことcultivation,つまり「耕すこと」と言います。これは,β思考によって頭を柔らかく耕したあと,α思考のタネをまけば,豊かな稔りが期待できるという発想です。
 頭脳をパソコンに喩えるなら,α思考の力は個々のソフト,β思考の力はOSと言ってもよいでしょう。最新のソフトを次々にインストールしても絶対にフリーズしない最強のOS。社会人になったときに備え,それを自分で頭のなかに作っておくことが,学生時代の勉強の目的の一つです。
 日本民族は古来,どちらかというとα思考のほうが得意でしたが,世界的にみると,伝統的にβ思考にたけてきた民族も少なくありません。





IV-4-2 ユダヤ人と宋人(そうひと)

 ユダヤ人のあいだで千数百年にわたって読み継がれてきた古典『タルムード』(Talmud)は,β思考を鍛える教材の宝庫としても知られています。例えば,こんな問題が論じられています。

もし二つの頭をもった赤ちゃんが生まれたら,この子は二人として数えるべきか,それとも一人として数えるべきか

 さて,あなたはこの質問を読んで,どう思いますか?
 日本の学校の授業では,こんな馬鹿馬鹿しい設問を先生が生徒に問うことは,まず無いでしょう。しかし,ユダヤ人は民族の伝統として,このような問題をじっくり自分の頭で考え,β思考を鍛えてきたのです。
 『タルムード』の答えはこうです。この子の片方の頭に熱湯をかけて(いまなら幼児虐待ですね!),その結果もう片方の頭が悲鳴をあげたら一人とみなす,もう片方が涼しい顔をしていたら二人とみなす。──
 ユダヤ人の子供は,こういう問題で頭を「耕し」ました。そして大人になったあと,例えば法律家になった者は「二重人格の人間が犯罪を犯したとき,その罪をどう問うべきか」という問題にすんなり解答でき,外交官になった者は「A国とB国にまたがって分布する民族がいる。この民族は,一つの民族とみなせるか否か」というような問題を理路整然と解くことができ,俳優や監督になった者は「二つの頭をもつ人」を主人公にしたファンタジーを作ることができるわけです。ユダヤ人に,科学者や精神科医,弁護士,外交官,映画人など,知的創造の職業で成功する人が多い秘訣は,子供のころからβ思考を鍛える独特の教育にあるとも言われています。
 ユダヤ人が教育でβ思考を重んずるのは,彼らが歴史的に周囲の民族から迫害を受けてきたことと無関係ではありません。土地とか物財は,いつ他人に奪われるかわかりません。しかし自分の頭のなかに築いた知性は,誰も盗めません。しかも,世界のどこへ行っても,それをタネに食べて行けるのです。ユダヤ人にとって,β思考を鍛えることは,民族の生き残り戦略でもあったのです。
 古代中国にも,ユダヤ人に似た境遇の人々がいました。
 いまから三千数百年前,中国に「商」という王朝がありました。日本ではふつう「殷」(いん)と呼びますが,これは後世の言い方で,殷人自身は「商」と自称していました。商人(しょうひと)は高度な文化を持っていましたが,今から三千年前,西の周人に国を滅ぼされてしまい,少なからぬ商人が流浪の民となりました。彼らは征服者から迫害され,土地所有などを制限されたため,しかたなくモノやお金のやりとりで生活の糧を得たり(これが「商業」の語源),モノよりコトを創造する仕事,例えば学者などになりました。
 商人の子孫で「宋」という土地に移住させられた人々は「宋人」と呼ばれました。いわゆる漢文の世界では,「宋襄(そうじょう)の仁」とか「株を守る」の説話のように,宋人はまぬけな人間として描かれることが多いのですが,実際は頭のよい人が多かったのです。
 周の文化と道徳を崇拝した孔子(こうし)も,先祖は宋人でした。道家思想(Taoism)の思想家・荘子(そうじ)も,宋人です。荘子の思想を書きしるした本を『荘子』と言い,β思考を鍛えるのによい説話がたくさん載っています。





IV-4-3 「胡蝶(こちょう)の夢」とクオリア

胡蝶
 荘子の「胡蝶の夢」の寓話は,日本の高校生向けの漢文の教材にもよく採られています。それは,こんな話です。

 むかし,荘周(そうしゅう)(荘子の本名)は夢のなかで蝶になった。ひらひらと飛ぶ蝶だった。自由自在に快適であったせいか,自分が荘周であることを知らなかった。そこで突然,目が覚めた。まぎれもなく,荘周だった。さて,いったいこの自分は,蝶になった夢を見た人間なのか,それとも,人間になった夢を見ている蝶なのか,一瞬わからなくなってしまった。──

 『荘子』の寓話は,どれもイメ─ジの使いかたが巧みです。ここではモチーフとして蝶が使われています。現実と非現実の世界をふわふわと飛ぶなら,鳥でもトンボでもなく,やはり蝶でしょう。蝶は,その飛び方や,イモムシから完全変態するなどの特徴から,世界各地の芸術において,霊魂の浮遊の象徴として使われてきました(もっと知りたい人は「イメージ・シンボル研究」関係の事典や参考書を御覧ください)。
 「胡蝶の夢」の寓話は,一種の思考実験と言えます。思考実験というのは,現実世界では実行することが難しい実験を,頭のなかで合理的思考によって行い,結果を得ることを言います。荘子は今から二千数百年前に,究極の「仮想現実」(vertial reality)は現実と区別しうるか,という思考実験を提起したのです。  「自分はいま,ふわふわと空を飛んでる」とか,「下に色あざやかなお花畑が見える」などの生き生きとした感覚(質感)を,西洋の言葉でクオリア(qualia)と言います。「胡蝶の夢」の寓話が提起している問題を現代風に言い直すと,「クオリアを味わっている当人にとって,それが幻覚なのか現実の出来事なのか,どこまで区別できるだろうか?」さらに言うと「本当にこの世界が客観的に存在しているかどうか,究極的には証明不可能なのではないのか?」ということです。
 みなさんは,この問題についてどう考えますか?
 仮想現実と現実の区別の本質的曖昧さ,というのは,洋の東西を問わず,古来から繰り返し論じられてきたテーマです。
 現代アメリカの哲学者H・パトナムも,「培養槽のなかの脳」という有名な思考実験を行っています(Hilary Putnam's " Brain in a Vat " hypothesis)。

水槽の中の脳  ある悪魔的な科学者がいた。彼は人間の頭蓋骨から脳を生きたまま取り出し,それを培養液の中に浮かべ,超高性能のコンピューターと電線で接続し,生かし続けた。そしてコンピューターでその脳を制御し,全てのクオリアが以前と変わりなく起こるよう操作した。その結果,培養液の中の脳は「木にリンゴがなっている」「燃えるように赤い」「手を伸ばして取ってかじる」「堅い」「甘酸っぱい」などのクオリアを味わい,その仮想現実を完全に現実の体験だと思いこんでいる。実は自分が培養液の中の脳であることには,決して気づかない。──

 さて,あなた自身,自分が「培養液の中の脳」でないと,証明できるでしょうか? もし,あなたが今まで生きてきた人生の歳月が,すべて宇宙人があなたの脳を操作して見せている仮想現実にすぎないとしたら……
 「独我論」という,何千年来と論じられてきた哲学的仮説があります。

全宇宙に本当に存在するのは,実は自分ひとりだけで,『われ』以外のすべての存在は,『われ』が見ている夢幻にすぎないのではないか

 意外なことに,独我論を論理的に論破するのは,至難の技なのです。
 さて「胡蝶の夢」が提起した問題,つまり,あるクオリアを経験している当人にとっては,それが幻覚か現実か境界線は限りなく曖昧である,という問題は,机上の空論ではありません。実際に人間がよく直面する問題です。
 ほんの一例をあげると,幻肢(げんし)(phantom limb)という医学的現象があります。事故や戦争などで手足を失った人が,無いはずの手足の痛みや痒(かゆ)みに悩まされることが,しばしばあります。もう自分には指は無いんだ,と頭では理解していても,実際に指先が痒くてしょうがないのです。幻肢という現象は昔から知られていましたが,無いはずの手足の痒みを感じる原因が,実は脳の神経回路の混線にあることがわかったのは,近年になってからのことです。
 SF作家の星新一さんは,幻肢と「培養槽のなかの脳」をミックスし,「これからの出来事」という傑作ショートショート(超短編小説)を書いています。

 未来の病院。交通事故に会い,重体となった男が運びこまれる。男は目を覚ます。ぼんやりとした明るさがあるだけで,目の焦点がさだまらない。ただ,女医の呼びかけの声だけが聞こえる。男は足の裏がかゆいので,女医に,かいてくれ,と頼む。女医は気の毒そうに,実はあなたの足はもうありません,と答える。男はショックを受けるが,気をとりなおし,お腹が痛い,と訴える。女医は,実はあなたのお腹もありません,と打ち明ける。男はびっくりし,心臓がどきどきし,頭に血がのぼり,こめかみが痛む,と訴える。女医はためらったあと,真実を打ち明ける。男は,すでに培養液のなかに浮かぶ脳にすぎず,細い電線で脳を装置につなぐことで,女医と意志疎通をしているのだった。男は覚悟を決めて,最後の質問をする。「おれは生きているのだろうか。生きているような気がしているのだろうか」──

 それに対する女医の答えは,とても感動的です。このあと話は意外な結末で終わるのですが,それをここで書かないのがマナーというものでしょう。
 荘子の寓話,哲学の思考実験,SF文学と並べてみると,用語やモチーフこそ違え,人間が長いあいだこのテーマに関心を寄せてきたことがわかります。





IV-4-4 物理学者を魅了した荘子のβ思考

 クオリアは純粋に「わたし」の内面的体験です。したがって「わたし」ではない他人は,「わたし」の外面を観察し,「わたし」の内面を判断するしかありません。もどかしい話ですが,それが人間の宿命なのです。
 例えば,花壇に咲いている赤い花を見て,「わたし」は「ああ,すごく綺麗な赤だ」というクオリアを感じます。それを隣で見ている「あなた」も「ほんと,燃えるような赤ですね」と相づちをうつでしょう。しかし「わたし」が感じている赤のクオリアと,「あなた」が感じている赤のクオリアは,果たして本当に同じでしょうか?
 『荘子』にも「天の蒼々(そうそう)たるはそれ正色(せいしょく)なるか?」と問いが載っています。
 作曲家の團伊玖磨(だん・いくま)さん(惜しくも2001年5月,中国を旅行中に急逝されました)は,随筆『パイプのけむり』で,こんな体験を告白しています。

 八歳のときのこと。ある朝,小学校の図画の時間で,クレヨンでバラの花を写生していました。すると突然,先生がその絵を取り上げ,それを教壇の上からクラス中に示し,叱りました。 「見た通りに描けとあれほど言ったのに何故見た通りに描かないのですか。先生の言った通りに出来ない子供は心のねじけた子供です」  そして罰として,團少年を教室の隅に立たせたのです。團少年は一切が何のことやらわからず,泣きました。一所懸命に見た通りに描いていたのに。──

 子供だった團さんが,自分が「色盲」であることを知らなかったのは,無理もありません。しかし,教師のほうには弁解の余地はありません。世界は誰の目にも同じに見えているのだと思いこみ,生徒の心を傷つけてしまったのです。β思考の力が足りないと,他人や自分を傷つけることもあるという例です。
 團さんはこの随筆のなかで「ああ,僕の感じる茶色は,青は,赤は,黄色は,貴方の,貴女の感じる何なのか?」と読者に問いかけています。
 あなたなら,どう答えますか? そもそも,クオリアを言葉で説明することは,どのていど可能なのでしょう?
 他者のクオリアをどのていど理解できるか,という問題は,人間にとって深刻なテーマであり,古来から繰り返し論じられてきました。なかでも有名なのは,『荘子』の「知魚楽」の説話です。

 荘子が,友人で論敵でもある恵子(けいし)(本名は恵施(けいし))といっしょに,川のほとりに行った。見ると,ハヤという魚が楽しそうに水のなかを泳ぎまわっている。荘子はそれを見て「ああ,これが魚の楽しみなんだな」と言った。恵子は反論して「君は魚じゃない。魚の楽しみがわかるわけないじゃないか」と言った。荘子は「君はぼくじゃない。ぼくに魚の楽しみがわからない,などと,君にわかるわけがない」と言った。恵子は「ぼくは君じゃない。だから,むろん君のことはわからない。君も,むろん魚じゃない。だから君にも魚の楽しみがわからないことは,百パーセント確実だね」と言った。荘子は言った。「議論を本質にもどそう。君はさっき,ぼくにむかって『君に魚の楽しみがわかるわけはない』と言ったね。ということは,君はその時点ですでに,ぼくの知覚レベルをわかっていたということだ。ぼくの場合も君と同じさ。川のほとりで魚の楽しみがわかったのさ」──

 この寓話も,モチーフの使い方が絶妙です。魚は,人間にとって身近な生き物ですが,水中という異世界に生きています。もしこの寓話のモチーフが魚でなく,例えば哺乳類とか鳥類など温血動物だったら,この寓話の妙味はたちどころに死んでしまうでしょう。「ああ,犬がしっぽを振っている。楽しいんだな」 ──これでは論議を始める気にもなりません。
 荘子もさることながら,ライバルの恵子もさすがです。同じ世界に身をおく動物でも,種が違うと感じるクオリアが異なることを,恵子は洞察していたようです(実際,ヒトの目に見えぬ波長の光まで見えるチョウの目には,花の色も模様もヒトと違って見えますし,超音波で世界を「見る」イルカやコウモリの意識には世界はレントゲン写真のように立ち現れます)。
 このように,古代中国には,他者のクオリアは本質的に理解困難である,という人間理解のコモンセンスがありました。さればこそ,荘子より二百年ほど前に活躍した孔子も「自分が他人から理解されぬことを悩むな。自分が他人を理解していないことを悩め」と弟子を叱咤(しった)しました。また孔子は「自分がされたくないことを,他人にするな」と,あえて慎重な消極形で説いたのです。五百年後にイエス・キリストが「自分がしてほしいことを,他人にしてあげなさい」と積極的な形で説いたのと比べると,対照的ですね。
 余談ながら,日本人として初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹は,素粒子物理学を研究した人ですが,漢学を家学とする家系に生まれ,幼時から漢文に親しみました。湯川は後年このことを回想し,孔子,老子(ろうし),墨子(ぼくし),孟子(もうし),荘子など,古代中国の思想家から深い影響を受けたことを告白しています。
『老子』という書物の一番はじめに『道の道とすべきは常道にあらず』という言葉がありますが,この言葉の本当の意味は何であろうと,そのまま素朴に受けとると,わたくしたち現代の物理学者に実にピッタリしているのであります」(「父から聞いた中国の話」,『湯川秀樹著作集』6)
 素粒子の世界は,目で見ることも手で触ることもできません。この研究分野では,結局,思考実験的な頭の使い方ができるかどうか,β思考の力が最大限に問われるのです。素粒子を研究する外国の科学者たちが『荘子』の寓話に関心をもったという次の逸話は,象徴的です。
去る昭和四十年の九月に京都で,中間子論三十周年を記念して,素粒子に関する国際会議を開いた。出席者が三十人ほどの小さな会合であった。会期中の晩餐会の席上で,上記の荘子と恵子の問答を英訳して,外国からきた物理学者たちに披露した。皆たいへん興味をもったようである」(「知魚楽」,『湯川秀樹著作集』6)





IV-4-5 「一尺(いっしゃく)の鞭(むち)」と「アキレスと亀(かめ)」

 荘子のライバルだった恵子も,β思考の名手でした。残念ながら彼の思想をしるした『恵子』という書物は歴史の歳月のあいだに失われてしまいましたが,彼が提唱した命題がいくつか『荘子』に記録されています。その中から一部を抜き出して紹介します(便宜的にアルファベットを打っておきます)。


・a 厚みをもたぬものは積みあげることはできないが,千里四方の面積を持つことができる。
・b 南方は果てしないが,限りはある。
・c 今日,遠い越(えつ)の国に行き,昨日帰ってくる。
・d 犬は羊とも言える。
・e 火は熱くない。
・f 飛ぶ鳥の影は決して移動しない。
・g 白い狗(いぬ)は黒い。
・h わずか一尺の長さの鞭でも,毎日その半分ずつを取り去ってゆくと,永遠に尽きることはない。──

 恵子は政治家としても有能で,魏(ぎ)という強国の宰相(さいしょう)(総理大臣)になった人です。彼は同時代の学者たちとこのような命題について議論を戦わせ,みんなでβ思考を楽しんだと伝えられています。知性のスポーツとしてのβ思考を楽しむ習慣が存在していた点で,中国は,ギリシアやインドなどと似ていますね。
 さて,あなたは恵子の提起した上記の命題の意味がわかりますか?
 命題aは図形の「面積」の概念についての説明でしょう。
 命題b は「地球は有限だが果てはない」という論法と似ています。無限の平面を想定した場合,南方の面積は無限です。しかし北方・東方・西方など「南方」とはいえぬ場所がある以上,際限がないとは言えません。
 命題cは,速度と時間についての思考実験でしょう。「越」は中国東南の沿海部にあった異民族の国の名前で,当時の中国人の感覚では,最果ての国です。旅人が足をどんどん速めて行くと,究極的には「瞬間移動」となり,さらに速度をあげると時間を逆行できるのではないか,と,恵子は古代中国版「タキオン(tachyon)」(超光速粒子)を仮想したのです。
 命題dは,学術上の定義についての問題提起でしょう。古代ギリシアでも「クジラは魚ではない」と言った哲人がいました。ただし彼は世間の「間違い」を正したわけではありません。クジラは,進化論や解剖学の見地からすれば「哺乳類」に分類するのが便利ですが,経済学などでは「魚介類」に分類します。GDP計算のとき,捕鯨業を「漁業」として分類するのが合理的だからです。
 命題eは,熱量と時間の関係を言っている可能性があります。例えば,ローソクの火に指を瞬間的に突っ込んでも熱さを感じません(安易にまねして火傷しないでくださいね)。
 命題fは,古代ギリシアの逆説「飛矢不動(飛んでいる矢は止まっている)」と同系でしょう。
 命題gは,真っ暗闇のなかでは白い犬も黒く見える,という,色名の定義についての問題提起でしょう。
 命題hは,古代ギリシアの逆説「二分法(目の前のドアに永久にたどりつけない)」と同系です。数式で書くと,こういうことです。
  1=1/2+1/4+1/8+1/16+……
 右辺は各項が無限に続く数列ですが,その総和は無限大にならず,1という有限の値に収斂します。恵子の時代はまだ文字式が使われていなかったので(数学で文字式が使われるようになったのは西洋でも16世紀以降),彼は一尺の鞭を分割するという思考実験を行い,無限大と稠密(ちゅうみつ)の概念の違いを整理したのです。
 古代ギリシアの有名な逆説「アキレスは永遠に亀に追いつけない」は,恵子の「一尺の鞭」の思考実験と,よく似ています。
(1)足の速いアキレスが,のろい亀を追いかける。(2)亀がいた地点にアキレスが追いついたとき,亀はすでに少しだけ先に進んでいる。(3)アキレスがまた亀のいた地点にたどりついたとき,亀はさらに少し先に進んでいる
 この繰り返しが永遠に続くため,アキレスは永遠に亀に追いつけない,という逆説です。アキレスをA,亀をBとして図示すると,こうなります。

 常識的には,アキレスはすぐ亀に追いつきます。この論法が逆説と言われるゆえんです。どこがおかしいか,あなたはすぐに答えられますか?
 β思考に長けたさすがの古代ギリシア人も,この問題には解答できませんでした。もし恵子にこの問題をたずねたなら,彼は「一尺の鞭」を使い,こう答えたかもしれません。
「話を簡単にするため,そのアキレスとやらの速度が亀の二倍で,(1)のときの両者の距離が半里であるとしよう。すると(2)のときの両者の距離は四分の一里,(3)のときは八分の一里と,半減してゆく。たしかにその作業を無限に続けることは可能じゃが,距離の総和は無限大にはならず,ぴったり一里になる(1/2+1/4+1/8+1/16+…… = 1)。わしは,鞭の長さは有限であるという自明の結果から出発して半分割をくり返した。ギリシア人はわしと反対の順番で思考実験したが,失敗して,正しい結論に至りそこねたわけじゃ。本質的に同じことでも,生起する順番を変えるだけで,印象はがらりと変わる。ここに人間の思考力の限界があるのかもしれぬ」
 事柄が生起する順番を逆にするとがらりと印象が代わってしまう,という「思考の線条性の罠(わな)」のことを,古代中国人は「朝三暮四(ちょうさんぼし)」と呼びました。





IV-4-6 「死後の世界」を否定した中国の合理主義者たち

 古代中国の思想家や知識人は,おおむね,β思考に長けた合理主義者でした。彼らは「人間」に関心を寄せた反面,「あの世」や心霊現象には比較的冷淡でした。孔子も「怪力乱神」を話題にせず,死後の世界の有無についても明断を避けました。老子や荘子も,基本的には無神論に近いところにいます。有神論者は墨子くらいでしょう。これは他の文明圏とくらべると,驚くべきことです。
 「死後の世界」や幽霊は存在しない,という唯物論的な仮説を「無鬼論」と言います(中国語では幽霊や妖怪を「鬼(き)」と言います)。無鬼論の一例として,今から二千年前,後漢の初めの学者・王充(おうじゅう)(『三国志演義』の王允(おういん)と混同しないでくださいね)が著書『論衡(ろんこう)』のなかで展開した論法を見てみましょう。

 天地が始まって以来,死んでいった者の数は膨大である。人が死んでその精神がみな幽霊になると仮定する。すると,道も町も家のなかも,幽霊で大混雑になっているはずである。しかし,たまたま幽霊の姿を目撃した人の話では,幽霊が押し合いへし合いしていることはない。これは矛盾である。──
 人が死んでその精神が幽霊になると仮定するなら,幽霊はみな裸体のはずだ。なぜなら,衣服とは絹や綿や麻であり,精神をもたない。しかし,たまたま幽霊の姿を目撃した人の話では,幽霊は服を着ている。これは矛盾である。──
 大自然の摂理(せつり)として,一度消えてしまった炎が,ひとりでにもう一度着火することはない(熱力学第二法則すなわち「エントロピー増大の法則」のこと)。同様に,改めて人間を生むことはできても,死んだ人間がふたたび出現することは,ありえない。──
 人間が死ぬと五臓(肝臓・心臓・脾臓・肺臓・腎臓)は腐敗し,五常の気(精神エネルギー)が宿るところはなくなる。何も無しに燃える火が自然界に存在しないように,肉体をもたずにひとりで知覚できる精神(幽霊)などというのも,ありえない。──

 王充の合理精神は徹底しています。それゆえ,彼は期せずして儒教(じゅきょう)的合理主義の限界をも明らかにしてしまったのです。儒教は宗教と違い「あの世」での救済を約束できません。しかも,儒教的知識人が「あの世」に冷淡だったことは,千数百年後,皮肉な結果を生むことになるのです。





IV-4-7 近代科学は「あの世」ばなれできない西洋的思考から生まれた

 東洋の早熟な合理主義者たちと比較すると,ソクラテスやピタゴラスがオカルト信奉者に見えてきます。錬金術に入れ込んだニュートン,交霊術に幻惑されたクルックス,「霊界との交信機」を試作したエジソン,妖精の写真を本物だと信じたコナン・ドイル,等々,西洋の知識人がオカルト的なものにのめりこんだ例は,枚挙にいとまがありません。
 皮肉なことに,近代的な意味での科学は,合理主義的な東洋でなく,オカルトや宗教と縁が切れない西洋的思考から生まれたのです。なぜでしょう?
 科学と宗教は,対立するものというイメージもありますが,歴史的にみると,科学は宗教から生まれた「鬼っ子」でした。両者とも,「この世」の背後にある普遍的な真理や秩序を探求するという点では,本質的に同系の精神的営為のシステムなのです。
 もう一つ,西洋の科学が驚異的に発展した秘密は「セレンディピティ」(serendipity)にあります。この言葉は直訳すると「セイロン性」という意味で,18世紀のイギリスの童話「セレンディップ(セイロンのこと。現在のスリランカ)の三人の王子」が語源です。この三王子はうっかり者で,よく物をなくします。そのたびに探すのですが,見つかったためしはありません。しかし毎回,探し物とは別の意外な発見があり,話はそちらのほうに展開してゆくのです。
 科学者が研究をするとき,往々にして,本来の研究目的とは懸け離れた,行きがけの駄賃のような発見・発明をする場合があります。こうした予想外の研究成果を,英語でセレンディピティと言います。ペニシリンの発明,催眠術の発明,非ユークリッド幾何学の発見など,セレンディピティの例は枚挙に暇(いとま)がありません。
 そもそも「科学」それ自体が,一つの壮大なセレンディピティでした。
 西洋の知識人は,二千年にわたり,ある栄光のシーンを夢みてきました。ギリシア的な合理主義とキリスト教的な信仰が握手し,神の存在を科学的に証明する,という晴れ姿です。彼らは何十世代にもわたり,涙ぐましい努力をしました。ある者は神の姿を求め,望遠鏡で宇宙をさぐりました。ある者は顕微鏡でミクロの世界を探索しました。錬金術によって神の摂理の秘密を解き明かそうとした者もいます。しかし長年の涙ぐましい努力にもかかわらず,神が存在するという科学的な証拠は,いまだ見つかっていません。
 ふと気がついてみると,セレンディピティのおかげで,西洋の科学はいつのまにか膨大な知識と技術を蓄積し,圧倒的な力を持つに至ったのです。
 とはいえ,西洋の学者の究極の悲願は,いまだ達成されていません。ことに生命とか宇宙,素粒子などを研究する科学者には「未練」が強いようで,往々にして科学的な発見を「神」と結びつけたがる傾向があります。
 クマムシという微小な水棲動物がいます。環境が悪くなると樽型(たるがた)に丸まって死体同然になりますが,環境が戻れば百二十年後でも生き返ることができます。なんと,真空状態にさらしたり,150度に熱したあとでも生き返るのです。1959年,ケンブリッジ大学のD.カイリンは,この生理現象を「クリプトビオシス(cryptobiosis)」(隠された生命)と命名しました。科学用語としては乾眠状態とか仮死状態と言うほうが適切なのに,彼は「復活を信仰する人びとの汚名をそそいでやろう」と考え,苦心してこの用語を案出したのです! (太田次郎『極限の生物たち』)。西洋人の執念を感じますが,この程度はまだ序の口です。





IV-4-8 宇宙は人間のためにある!?

 1961年,プリンストン大学の宇宙論学者ロバート・ディッケは,大胆な宇宙観を提唱しました。宇宙の年齢が百数十億年なのは偶然ではなく,宇宙の観測者たる人間が登場するために必然的にその歳月になったのだ,という見方です。これをきっかけに,宇宙は人間を存在させるためにあるのだ,という「人間原理」(anthropic principle)が提唱されるようになりました。
 人間原理には,科学的知見という根拠があります。例えば,広大な宇宙のどこでも普遍的に通用する「物理定数」が,不思議なことに,みな人間が宇宙で生存できるための絶妙な数値になっているのです。もし万有引力定数が,あとほんの少し小さい数値だったら,宇宙はビックバンの直後にあっという間に拡散して冷えてしまい,宇宙空間にただよう分子が人間になるまでに必要な百数十億年という歳月を持てなかったでしょう。逆に,万有引力定数がほんのちょっと高い数値だったら,宇宙はビッグバンのあと再び収縮に転じて,やはり人間は登場できなかったはずなのです。このほか,真空中における光の速度,プランク定数,ボルツマン定数,電子の電荷など,どれをとっても,人類が生存できる絶妙の数値なのです。まるで,宇宙創世の当初,超絶的な知性をもつ何者かが,百数十億年後に人類を創造することを計画してこれらの数値を決めた,としか思えぬほど,全てがどんぴしゃりの値なのです。
 この他,マクロやミクロの世界を科学的に観察すると,ほかにも不思議な符合がいろいろと見つかります。
 人間原理については,「私たちは,宇宙理性という普遍的な存在を見つけ,これを"神"と同定できるところまでたどりついたのだといってよいでしょう」(桜井邦朋『寿命の科学』)などと肯定する人もいる反面,「また西洋の科学者の悪い癖がぶりかえした」と冷たくつきはなす人もいます。
 あなたは,どう考えますか?
 大自然はヒトのために存在しているのではないか,という世界観の是非については,中国でも大昔から議論の対象となってきました。一例をあげると,『列子(れっし)』という本に,次のような話が載っています。

 斉(せい)は,東方の豊かな大国だった。この国の有力な家老である田氏(でんし)は,参加者千人にものぼる盛大な宴会を開いた。田氏は,魚や雁の肉のご馳走の山を見て,感嘆した。
「天の人間に対するめぐみは手厚い。五穀を増やし,魚鳥を生じ,人間の役に立たせてくれる」
 満座の客たちは頷いたが,ただ一人だけ,鮑氏(ほうし)の息子で数え十二歳の少年が進み出て,田氏に向かって反論した。
「いまのお言葉は間違っております。天地のあらゆる生物は,われら人類と平等な生命体です。命に貴賤はありません。ただそれぞれ小大智力の差があるために,互いに牽制し,食べあっているだけのことです。誰かのために生まれてきた生物など,おりません。天が人間のためにこうした生き物を作った,という考えは間違いです。人間は勝手に,自分が食えるものを食っているだけのこと。天がこれらを人間のために創造してくれたはずがありません。現に,蚊(か)やブヨはヒトの皮膚を噛み,虎(とら)や狼(おおかみ)はヒトの肉を食べます。だからといって,天が蚊やブヨのためにヒトを生じたとか,天が虎や狼のためにヒトの肉を作っているなどと言えましょうか?」──

 人間は万物の霊長であるとか,ヒトがいるから宇宙がある,といった人間中心の自然観は,洋の東西を問わず昔からありました。しかし意外なことに,人間中心主義と同じくらい昔から,それに反対する宇宙観もあったのです。
 β思考を鍛えるトレーニングとして,この十二歳の少年とロバート・ディッケの時空を越えた架空対談を想像してみるのも,面白いかもしれません。





IV-4-9 むすび

 古代中国人は,人間の宿命的限界を熟知していました。人間の精神が臓器のなかに宿っていること,その臓器はサイズも寿命も悲しいほど有限であること,自己が体験するクオリアをダイレクトに他者に伝達する手段はないこと,などです。科学技術が進歩した現代でも,人間の宿命的限界は本質的には変わっていません。たぶん今後も当面は変わらないでしょう。
 人間が個人的に,また社会的に直面するさまざまな苦悩の半分くらいは,上記の宿命的限界が影を落としています。戦争,疎外(そがい),差別,いじめ,社会的引きこもり,学級崩壊,脳死論争,学問の細分化……みなそうです。
 数千年来,人間は自分の宿命的限界を緩和するための試みをしてきました。文学という記憶装置の創造も,その一つです。人間の一生は一回限りであり,他者のクオリアを実感することはできません。しかし文学を通じて追体験し,共感することは可能です。
 中国に限らず,古典には「人間」を真摯(しんし)な態度で見つめた名著がたくさんあります。明日を生きるための「絵」を描くとき,書物をひもといて先人たちの声に耳を傾けてみると,勇気やヒントを得られるかもしれません。





◆◆もっと知りたい人へ◆◆
・『荘子』(全四冊)金谷治訳注,岩波文庫,1971-1983
・『列子』(上下)小林勝人訳注,岩波文庫,1987
・『老子』小川環樹訳注,中公文庫,1997
・『論語』金谷治訳注,岩波文庫,1999
・『論衡』(上中下)山田勝美訳注,新釈漢文大系(明治書院),1976-1984
・外山滋比古『思考の整理学』,ちくま文庫,1986
・ラビ. M.トケイヤー『ユダヤ五〇〇〇年の知恵』加瀬英明訳,講談社+α文 庫,1993
・『湯川秀樹著作集6・読書と思索』,岩波書店,1989
・天外伺朗・茂木健一郎『意識は科学で解き明かせるか』,講談社ブルーバッ クス,2000
・加藤徹のホームページ 
http://home.hiroshima-u.ac.jp/cato/






キーワード : 思考,クオリア,科学,宗教,オカルト,宇宙論

人名索引資料
イエス・キリスト(Jesus Christ, 6?B.C.- ?)
エジソン(Thomas Alva Ed'ison, 1872-1931)
王充(おうじゅう, Wang Chong, 27-96?)
カイリン(David Keilin, 1887-1963)
クルックス(Sir William Crookes, 1832-1919)
孔子(こうし, Kongzi, 英Confucious, 551(2)-479B.C.)
コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle, 1859-1930)
荘子(そうじ, 「そうし」とも, Zhuangzi, 370?-300?B.C.)
ソクラテス(Sokrates, 470(69)-399B.C.)
團伊玖磨(だん いくま, 1924-2001)
ディッケ(Robert Dicke, 1915-97)
ニュートン(Sir Isaac New'ton, 1643-1727)
パトナム(Hilary Putnam, 1926- )
ピタゴラス(Pythagoras, 582?-497(96))
星新一(ほし しんいち, 1926-1997)
墨子(ぼくし, Mozi, 450?-400?B.C.)
孟子(もうし, Mengzi, 紀元前4-3世紀)
湯川秀樹(ゆかわ ひでき, 1907-1981)
列子(れっし, Liezi, 紀元前4世紀?)
老子(ろうし, Laozi, 紀元前4世紀?

事項索引項目 :
SF 5, オカルト 11, 仮想現実 3,4 クオリア 3,4,5,6,7,14 クリプトビオシス 12, 幻肢 4, 思考実験 3,4,5,7,8,9,10 儒教 11, 宗教 11, セレンディピティ 11, タルムード 2, 道家思想 3, 独我論 4, 人間原理 12,13 脳 1,4, 5, ヒト 7, 13, 文学 5,14, 無鬼論 10, 


内部リンク
パッケージ科目「中国文学の世界」
 中国関係のページ(参考)
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