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拙著『漢文力』(中央公論新社刊)立ち読みコーナー

その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 ミニリンク


立ち読み・その1 まえがきより


 「漢文力」とはなにか
漢文力  本書で言う「漢文力」は、学校の漢文の試験で高得点を取る学力のことではありません。
 漢文を読み、そこに展開されている古人の思索を追体験することによって身につく力。歴史や宇宙など、より大きな時空のなかに自分を位置づけ、明日を生き抜くための設計図を描く力。それを本書では「漢文力」と呼ぶことにします。
 二十一世紀の今日、人類はさまざまな課題に直面しています。環境、文明、生命倫理(クローン、臓器移植、脳死ほか)、テロ、戦争・・・・・・。それらを、まるで人類が初めて直面する難問であるかのように誤認している人は多いのではないでしょうか。しかしこれらの問題は、人類が何千年も昔から考えてきたテーマの延長にすぎないとも言えるのです。
 また私たちはしばしば、日々の生活で悩みごとにぶつかります。それらの困難も、たいてい、すでに古人が体験ずみのものです。古典を繙(ひもと)き、人生を切り開くヒントを拾う。本来、教養とは、そのようなものだったはずです。
 漢文の本家は中国ですが、二十世紀初頭までの近代に限ってみれば、「科挙」(官吏登用試験)に呪縛されていた中国人よりも、漢文を純粋な教養として学んでいた日本人のほうが「漢文力」をもっていた、と言えるかもしれません。その日本でも、真の意味での「漢文力」をもっていたのは、しばしば漢文の素人(しろうと)たちでした。

   「漢文力」で西洋文明の本質をつかんだ高杉晋作
 幕末の高杉(たかすぎ)晋作(しんさく)(一八三九ー一八六七)は、文久二年(一八六二)、幕府の船に便乗し、上海(シャンハイ)に渡りました。彼は中国語を話せなかったものの、漢文は書けたので、中国の知識人にむかって、筆談で問いかけました。

貴邦堯舜以来堂々正気之国、而至近世区々西夷之所猖獗、則何乎。
 貴邦(きほう)は堯(ぎょう)(しゅん)以来(いらい)の堂々(どうどう)たる正気(せいき)の国(くに)なり。而(しか)して近世(きんせい)に至(いた)り、区々(くく)たる西夷(せいい)の猖獗(しょうけつ)する所(ところ)となるは、則(すなは)ち何(なん)ぞや。
 貴国は数千年の歴史をもつ文明国なのに、近年、野蛮な西洋人たちの横暴に苦しんでいる。そうなった理由は何か。

請問、宋朱文公所説格物窮理、与西洋人之所説窮者、異否。
 請問(せいもん)す、宋(そう)の朱文公(しゅぶんこう)の説(と)く所(ところ)の格物(かくぶつ)窮理(きゅうり)は、西洋人(せいようじん)の説(と)く所(ところ)の窮(きゅう)なる者(もの)と、異(こと)なりや否(いな)や。
  朱子学の合理主義と、西洋人の言う科学精神とに、違いはあるのか。

   右の筆談の二年後、高杉は、野山獄(のやまごく)(長州藩の牢獄)のなかで、蒸気船で上海に渡って清国人(しんこくじん)や西洋人と交流したときの思い出を、漢詩に書きました。・・・・・・(以下、略)

 
立ち読み・その2 第一部第五章「魅力と恐怖の秘密」より


・・・・・・日本語で「鬼(おに)」と書くと、桃太郎や一寸法師に出てくる筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)たる鬼が連想されますが、中国の「鬼(き)」は「お化け」の意味です。漢語で「鬼神(きしん)(「きじん」とも読む)と書くと、死者の霊魂や神霊を指します。桃太郎の鬼とも、聖書の神(エホバ)ともイメージは大違いです。
「鬼」を含む漢字の多くは、もともとはモノノケ(精霊や妖怪)の名前でした。例えば「魑(ち)(み)(もう)(りょう)」は山川草木(さんせんそうもく)に棲(す)むモノノケ。「魔(ま)」は人の感覚を麻痺(まひ)させるモノノケ。「魅(み)」は未(いま)だ形をなさず姿がよく見えぬモノノケ。……
「魅」の妖力を「魅力(みりょく)」と言います。「魅」の姿をはっきり見た者は、誰もいない。しかし、われわれの身の周りには、魅力のあるモノがたくさんある。例えば、子供たちを魅了(みりょう)してやまない「キティちゃん」もそうです。「キティちゃん」の顔をじっと見ていると、「魅」の秘密がおぼろげながら見えてきます。

 *「キティちゃん」の顔には、なぜ口がないのでしょう?

 魅力とは「未」の力
 あどけない子猫の顔をした、サンリオのキャラクター「ハローキティ」(キティ・ホワイトとミミィ・ホワイトの姉妹)は、一九七四年に誕生して以来、子供たちのあいだで絶大な人気を誇ってきました。
 キティちゃんの顔には、耳と目と鼻はあります。でも、なぜか口がありません。
 ここに「魅」が隠れています。実は、キティちゃんの口は、ないことによって「ある」のです。
 キティちゃんの人形で遊ぶ子供は、心のなかでキティちゃんに話しかけます。「キティちゃん、なんで笑ってるの?」「おなかがすいた?」」「どうしたの? 今日は元気がないね」
 キティちゃんの人形には有形の口がないから、子供は表情を自由に想像して、お話しを楽しめる。つまり、「未完成」の「魅」のちからです。
 「魅力」だけでなく、「恐怖」もまた、「魅」の状態がいちばん怖い。
 ホラー映画で一番怖いのは、怪物が正体を見せる直前です。画面にチャチな作り物の怪物が登場したとたん「なんだ、こんなバケモノだったのか」と観客が拍子抜けしてしまうことは、よくあります。
 病気もそうです。「最近、なんだか体調が悪い。もしや・・・・・・」。そういう不安感がピークに達するのは、病院での検査結果が出るまでのあいだです。検査の結果、たとえ難病であると判明しても、病気の正体さえわかれば治療法もいろいろあるので、それなりの心構えができるものです。
 魅力であれ恐怖であれ、曖昧(あいまい)でドロドロとした状態のときが、いちばん力がある。これを漢文では「渾沌(こんとん)、七竅(しちきょう)に死す」と言います。・・・・・・(以下、略)

 

立ち読み・その3 第二部第三章「生まれてくる不思議、死んでゆく意味」より


・・・・・・自分も、ヒトという種も、いつかはこの世を引き払って出てゆかねばならない。つまり、ヒトは地球というアパートを大自然という大家さんから借りて住んでいるだけで、永遠に所有しているわけではない。
 個々のヒト、つまり「あなた」や「わたし」という「自分」も同じことです。自分は、自分自身さえ所有できない。もし自分の体とか心が本当に自分のものだったら、自分の思い通りにできるはずです。ダイエットに失敗したり、病気になったり、年をとって死んだり、なんて馬鹿げた茶番は一切ないはず。でも実際には、人間は自分の意志に関係なく生まれ、なりたくもないのに大人になり、あれよあれよという間に老いて死ぬ。自分に魔法をかけて大人になることをやめたピーターパンや、出生直前にこの世に生まれるかどうかを自分の意志で選択できる河童(かっぱ)(芥川龍之介の小説に出てくる)ほどの自由も、人間にはない。
 自分は、自分自身を大自然からレンタルで借りているにすぎない、という考えを、漢文では「汝(なんぢ)の身(み)すら汝の有(ゆう)に非(あら)ざるなり」と言います。

舜問乎丞曰「道可得而有乎」。曰「汝身非汝有也。汝何得有夫天道」。舜曰「吾身非吾有也、孰有之哉」。曰「是天地之委形也」。(『荘子』知北遊篇)
(しゅん)、丞(じょう)に問(と)ひて曰(いは)く「道(みち)は得(え)て有(ゆう)すべきや」と。曰(いは)く「汝(なんぢ)の身(み)すら汝(なんぢ)の有(ゆう)に非(あら)ざるなり。汝(なんぢ)、何(なん)ぞ夫(か)の天道(てんどう)を有(ゆう)するを得(え)んや」と。舜(しゅん)(いは)く「吾(わ)が身(み)、吾(わ)が有(ゆう)に非(あら)ざれば、孰(たれ)か之(これ)を有(ゆう)するや」と。曰(いは)く「是(こ)れ天地(てんち)の委形(いけい)なり」と。

 古代の聖天子である舜が、丞に質問した。「道を自分のものとできるでしょうか」。丞は答えて「おまえの体さえ、実はおまえのものではない。どうして、自然の道などというものを自分のものにできようか。できはしない」と言った。舜は「自分の体が自分のものでない、とすると、自分の体は誰のものなのでしょうか」と質問した。丞は「大自然からの預かりものだよ」と答えた。

   預かりものは、いつかは返さねばなりません。

  *水も炭素も、私たちの体や命を作る物質は、地球という惑星のうえで循環しています。自分のこの体を作ってる物質は、どこから来て、どこへ行くのでしょう?

  ・・・・・・(以下、略)


立ち読み・その4 第三部第二章「宇宙人の目」より


・・・・・・漢文には「宇宙人の目」がよく出てきます。例えば、唐の詩人で「鬼才」と呼ばれた李賀(りが)(七九〇―八一六)は、「夢天(むてん)」という詩のなかで自らを月面上に立たせ、そこから地球を見下ろしました。

遥望斉州九点煙  遥(はるか)に望(のぞ)む 斉州(せいしゅう)九点(きゅうてん)の煙(けむり)
一泓海水盃中瀉  一泓(いちおう)の海水(かいすい) 盃中(はいちゅう)に瀉(そそ)

 月世界に立って、はるか地球をながめた。大陸は小さな九つの雲煙(うんえん)の点にすぎず、海洋も丸いコップに注がれた青い水に見えた。
   漢文の有名な寓話「蝸牛角上(かぎゅうかくじょう)の争い」は、一種のヒプノセラピー(催眠療法)による宇宙旅行の話です。・・・・・・(以下、略)

 

立ち読み・その5 第四部第三章「リーダーの条件」より


・・・・・・古来、人間の社会組織は、リーダー(指導者)、スタッフ(幕僚)、ライン(管理職)、フロント(実戦部隊)の四種類の人間(ないし部門)から成り立っている。国も会社も軍隊も学校も病院も、みなそうです。『三国志』を例にとれば、劉(りゅう)(び)はリーダー、諸葛孔明(しょかつこうめい)はスタッフ、関(かん)(う)・張(ちょう)(ひ)はライン、趙雲(ちょううん)はフロント。このほか『三国志』には、簡雍(かんよう)のように自分を組織の序列外に置く食客(しょっかく)的人物や、華陀(かだ)のようなフリーランサーも脇役的に出てきますが、その数は多くありません。
 英雄はリーダーとは限りません。『三国志』でも、袁紹(えんしょう)や董卓(とうたく)は強力なリーダーでしたが、あまり人気はない。歴史に名を残し、しかも後世から愛されている人物の多くは、自分の適性と個性を百パーセント生かしきる位置に、ぴたりと自分をはめこんだ人たちです。
 一度しかない人生。どうせなら、自分を完全燃焼させたいものです。そのためには、人間の社会のなかに、自分をピタリとはめこむ必要があります。
 では、自分をどこにはめこむべきか。本章ではそれを考えるうえで参考になる漢文を選読します。・・・・・・(以下、略)


立ち読み・その6 第五部第三章「中国古典の戦争論」より


・・・・・・孫子(前六世紀−前五世紀)は、本名を孫(そん)(ぶ)と言い、孔子とほぼ同時代の人。彼の思想を書いた『孫子』は、後世に多大の影響を与えました。曹(そう)(そう)も、日本の武田信玄も、フランスのナポレオンも『孫子』の愛読者でした。第二次世界大戦でイギリスを勝利に導いた戦略思想家と言われるリデル・ハート(一八九五―一九七〇)も、英訳本『孫子』(The Art of War)に寄せた序文のなかで、『孫子』こそ世界史上最高の軍事思想書であること、クラウゼヴィッツの『戦争論』は内容が古びつつあるのに、それより二千年以上も前に書かれた『孫子』の戦争哲学は現代でも古びていないことを力説し、“Sun Tzu has clearer vision, more profound insight, and eternal freshness.”(孫子のほうがヴィジョンが明確で、洞察も深く、永遠に新鮮である)と絶賛しました。つまり、世界最古の兵法書が、最高であり最新である、というわけです。
 こう書くと、『孫子』はいかにも好戦的な書物のようですが、実はその逆です。孫子の戦争哲学の神髄を一言で言えば「不戦必勝」です。

百戦百勝、非善之善者也。不戦而屈人之兵、善之善者也。(『孫子』謀攻篇)
 百戦百勝(ひゃくせんひゃくしょう)は、善(ぜん)の善(ぜん)なる者(もの)に非(あら)ざるなり。戦(たたか)はずして人(ひと)の兵(へい)を屈(くっ)するは、善(ぜん)の善(ぜん)なるものなり。

 百戦百勝は最高ではない。不戦必勝こそが最高である。

   孫子が説く「不戦」は、もとより「反戦」「非戦」「厭戦(えんせん)」とは違います。しかし、およそ「好戦」とは対極のところにあることは、明らかです。・・・・・・(以下、略)



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