HOME > 授業教材集 > このページ

怪談から見る中国の歴史

最新の更新2025年2月2日   最初の公開2024年12月21日

  1. 古代から六朝までの怪談 01/07
  2. 唐の怪談 01/14
  3. 宋の怪談 01/21
  4. 明の怪談 01/28
  5. 清の怪談 02/04
  6. ミニリンク

以下、早稲田大学エクステンションセンターのサイト
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/63498/
より引用。閲覧日2024年12月21日。引用開始
ジャンル 世界を知る中野校
【対面+オンラインのハイブリッド】怪談から見る中国の歴史
幽霊や妖怪は中国人の社会と心を映す鏡であった
火曜日 10:40〜12:10 全5回 ・01月07日 〜 02月04日
(日程詳細) 01/07, 01/14, 01/21, 01/28, 02/04
目標
・歴史の真実を知る面白さを学ぶ。
・現代と近未来の問題を歴史をヒントに考える。
・中国社会の特徴を理解することで、日本社会への教訓を得る。
講義概要
「怪談」は、その時代を生きる人々の不安や願望を映す鏡です。日本史では、中世まで怨霊といえば菅原道真とか平家とか貴族以上でした。江戸時代に「妖怪革命」(これは学者が使う学術用語)が起きると、妖怪は歌舞伎や浮世絵など民衆の娯楽の対象となり、また「お岩さん」のように社会的には無名の庶民の女性も怨霊になれるようになりました。その背景には、日本社会の歴史的な進化があります。中国の怪談はおよそ3千年の歴史がありますが、同様に、社会の進化や民衆の意識の変化を反映しています。豊富な図版や映像資料も使いつつ、中国史の予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。テキスト・資料は講師が配布します。
参考図書
 加藤徹『怪の漢文力』中公文庫
 加藤徹『漢文力』中公文庫
 岡本綺堂『中国怪奇小説集』cf.青空文庫・作家別作品リスト・岡本綺堂 https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person82.html


 第一回 古代から六朝までの怪談 

古代人は怪異を「本当にあったこと」と信じました。先秦時代の漢文古典に出てくる怪異譚から、六朝時代(3世紀〜6世紀)の志怪小説『捜神記』『捜神後記』までを取り上げ、乱世においてなぜ神仙思想や中国化した仏教が爆発的に広まったのか、その理由を中国の王朝の興亡史とからめて、わかりやすく説明します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mjSnb5U6KCsLgRCt5q3sIX

○ポイント、キーワード 参考ツイート https://x.com/katotoru1963/status/1870644416941297868

【拡散希望】講座「怪談から見る中国の歴史」by 加藤徹
at #早稲田大学エクステンションセンター 中野校 @ext_opencollege
教室+オンライン(見逃し配信つき)
教材はhttps://t.co/SWCKBCFE16
で、第1回(1月7日)は「無鬼論」も紹介します。画像は加藤徹『怪の漢文力』中公文庫からの自己引用。 pic.twitter.com/5lMfl56MXZ

— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) December 22, 2024

○怪談選読


★「西門投巫」(せいもんとうふ)  司馬遷『史記』その他に載せる故事成語
以下、#chugokubungakunosekai.htmlより自己引用。
『史記』にある話。戦国時代の魏の文侯(在位、紀元前445年 - 前396年)のとき、西門豹が、鄴(ぎょう)という土地の長官になった。西門豹は着任すると、さっそく土地の住民に、何かつらいことはないか、たずねた。土地の老人は答えた。
「河伯という川の神様に、毎年、若い女子を人身御供(ひとみごくう)として捧げる儀式が、たいへんな負担になっており、私どもの貧乏の原因になっております。でも、世間では、もし河伯に妻となるべき女性を捧げないと、河伯が怒って洪水がおき、みんな溺れてしまう、と言われておるので、しかたありません」
「その儀式の時がきたら、私に教えてくれ。私もその儀式に行き、女子を見送ろう」
 儀式の日が来た。西門豹は部下を連れて、川のほとりの会場に行った。三老(土地の教化をつかさどる三人の老人)、下役人、豪族、村の顔役たちも参列した。巫女は老女で、女の弟子を十人ほどしたがえていた。女の弟子はみな、豪華な絹のひとえの服をきて、巫女のうしろに立っていた。
 西門豹は、いけにえとして用意された娘を呼んで、その顔をのぞきこんで言った。
「美しくないな。巫女どのにお願いして、河伯に伝えていただきたい。もっと美しい女を用意するので、ちょっと待ってほしい、と」
 西門豹は、部下に命じて、巫女の体を拘束して、川の中に投げ込ませた。巫女は沈んだまま、浮かんでこなかった。
 しばらくして、西門豹は言った。
「らちがあかない。今度は弟子たちにも応援に行ってもらおう」
 三人の高弟たちが川に投げ込まれた。
「巫女は女性なので、河伯と交渉できないのだろう。今度は、三老にお願いしよう。川の中に入って、神様と交渉してきてくれ」
 三老が川に投げ込まれた。
 西門豹は、筆を髪に挿して、腰を「く」の字に折り曲げ、しばらくの間、うやうやしく川に立っていた。
「三老も帰ってこない。では、今度は、役所の属官と、豪族のうち一人に、川の中に入って、神様と交渉してもらうことにしよう」
 一同は頭を地面に血がでるほど叩きつけ、命乞いをした。西門豹は言った。
「河伯は、客をずっと留めて返してくれないことがわかった。おまえたちはみな辞職して、立ち去るがいい」
 土地の役人や人民はたいへん驚き恐れ、これ以後、河伯が妻をめとるなどという迷信を口にする者は絶えた。
 すると西門豹はすぐさま、民を動員して、用水路を十二本つくり、川の水を引いて民の田畑をうるおした。民はみな水利を得て、生活が豊かになった。西門豹の名声は天下に聞こえ、その恩恵は後世にまで及んだ。


★『捜神記』(六朝)
岡本綺堂『中国怪奇小説集』青空文庫版 https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1298_11892.html より選んで引用
以下、このwebpageにおける「青空文庫」https://www.aozora.gr.jp/ からの引用は、 「青空文庫収録ファイルの取り扱い基準」 https://www.aozora.gr.jp/guide/kijyunn.html に準拠して行います。

  琵琶鬼 【小泉八雲の怪談 「貉(むじな)」の原話のひとつです。 加藤徹】

 赤烏せきう三年、句章こうしょうの農夫楊度ようたくという者が余姚よちょうというところまで出てゆくと、途中で日が暮れた。
 ひとりの少年が琵琶びわをかかえて来て、楊の車に一緒に載せてくれというので、承知して同乗させると、少年は車中で琵琶数十曲をひいて聞かせた。楊はいい心持で聴いていると、曲終るや、かの少年はたちまち鬼のような顔色に変じて、眼をいからせ、舌を吐いて、楊をおどして立ち去った。
 それから更に二十里(六ちょう一里。日本は三十六丁で一里)ほど行くと、今度はひとりの老人があらわれて、楊の車に載せてくれと言った。前に少しくりてはいるが、その老いたるをあわれんで、楊は再び載せてやると、老人は王戒おうかいという者であるとみずから名乗った。楊は途中で話した。
「さっき飛んだ目に逢いました」
「どうしました」
「鬼がわたしの車に乗り込んで琵琶を弾きました。鬼の琵琶というものを初めて聴きましたが、ひどくかなしいものですよ」
「わたしも琵琶をよく弾きます」
 言うかと思うと、かの老人は前の少年とおなじような顔をして見せたので、楊はあっと叫んで気をうしなった。

   兎怪とかい

 これも前の琵琶鬼とやや同じような話である。
 黄初こうしょ年中に或る人が馬に乗って頓邱とんきゅうのさかいを通ると、暗夜の路ばたに一つの怪しい物がころがっていた。形はうさぎのごとく、両眼は鏡の如く、馬のゆくさきにおどり狂っているので、進むことが出来ない。その人はおどろきおそれて遂に馬から転げおちると、怪物は跳りかかって彼をつかもうとしたので、いよいよ懼れて一旦は気絶した。
 やがて正気に戻ると、怪物の姿はもう見えないので、まずほっとして再び馬に乗ってゆくと、五、六里の後に一人の男に出逢った。その男も馬に乗っていた。いい道連れが出来たと喜んで話しながら行くうちに、彼は先刻の怪物のことを話した。
「それは怖ろしい事でした」と、男は言った。「実はわたしも独りあるきはなんだか気味が悪いと思っているところへ、あなたのような道連れが出来たのは仕合わせでした。しかしあなたの馬ははやく、わたしの馬は遅い方ですから、あとさきになって行きましょう」
 彼の馬をさきに立たせ、男の馬があとに続いて、又しばらく話しながら乗ってゆくと、男は重ねてかの怪物の話をはじめた。
「その怪物というのは、どんな形でした」
「兎のような形で、二つの眼が鏡のようにひかっていました」
「では、ちょいと振り返ってごらんなさい」
 言われて何心なく振り返ると、かの男はいつの間にか以前の怪物とおなじ形に変じて、前の馬の上へ飛びかかって来たので、彼は馬から転げおちて再び気絶した。
 かれの家では、騎手のりてがいつまでも帰らず、馬ばかりが独り戻って来たのを怪しんで、探しに来てみると右の始末で、彼はようように息をふき返して、再度の怪におびやかされたことを物語った。

   亀の眼

 むかしそうの江水がある日にわかにみなぎったが、ただ一日で又もとの通りになった。そのときに、重量一万きんともおぼしき大魚が港口に打ち揚げられて、三日の後に死んだので、土地の者は皆それを割いて食った。
 そのなかで、唯ひとりの老女はその魚を食わなかった。その老女の家へ見識みしらない老人がたずねて来た。
「あのさかなはわたしの子であるが、不幸にしてこんなわざわいに逢うことになった。この土地の者は皆それを食ったなかで、お前ひとりは食わなかったから、私はおまえに礼をしたい。城の東門前にある石の亀に注意して、もしその眼が赤くなったときは、この城の陥没かんぼつする時だと思いなさい」
 老人の姿はどこへかせてしまった。その以来、老女は毎日かかさずに東門へ行って、石の亀の眼に異状があるか無いかをあらためることにしていたので、ある少年が怪しんでその子細を訊くと、老女は正直にそれを打ち明けた。少年はいたずら者で、そんなら一番あの婆さんをおどかしてやろうと思って、そっとかの亀の眼に朱を塗って置いた。
 老女は亀の眼の赤くなっているのに驚いて、早々にこの城内を逃げ出すと、青衣せいいの童子が途中に待っていて、われは龍の子であるといって、老女を山の高い所へ連れて行った。
 それと同時に、城は突然に陥没して一面のみずうみとなった。
 もう一つ、それと同じ話がある。しん始皇しこうの時、長水ちょうすい県に一種の童謡がはやった。
御門ごもんに血を見りゃお城が沈む――」
 誰がうたい出したともなしに、この唄がそれからそれへと拡がった。ある老女がそれを気に病んで毎日その城門をうかがいに行くので、門を守っている将校が彼女をおどしてやろうと思って、ひそかに犬の血を城門に塗って置くと、老女はそれを見て、おどろいて遠く逃げ去った。
 そのあとへ忽ちに大水が溢れ出て、城は水の底に沈んでしまった。

   宋家の母 【人間が病気や加齢により突然、変身する話のひとつです。 加藤徹】

 黄初こうしょ年中のことである。
 清河せいか宋士宗そうしそうという人の母が、夏の日に浴室へはいって、家内の者を遠ざけたまま久しく出て来ないので、人びとも怪しんでそっとのぞいてみると、浴室に母の影は見えないで、水風呂のなかに一頭の大きいすっぽんが浮かんでいるだけであった。たちまち大騒ぎとなって、大勢が駈け集まると、見おぼえのある母のかんざしがそのすっぽんの頭の上に乗っているのである。
「お母さんがすっぽんに化けた」
 みな泣いて騒いだが、どうすることも出来ない。ただ、そのまわりを取りまいて泣き叫んでいると、すっぽんはしきりに外へ出たがるらしい様子である。さりとて滅多めったに出してもやられないので、代るがわるに警固しているあいだに、あるとき番人のすきをみて、すっぽんは表へ這い出した。又もや大騒ぎになって追いかけたが、すっぽんは非常に足がはやいので遂に捉えることが出来ず、近所の川へ逃げ込ませてしまった。
 それから幾日の後、かのすっぽんは再び姿をあらわして、宋の家のまわりを這い歩いていたが、又もや去って水に隠れた。
 近所の人は宋にむかって母の喪服を着けろと勧めたが、たとい形を変じても母はまだ生きているのであると言って、彼は喪服を着けなかった。

   青い女 【私は東大寺の過去帳の「青衣の女人」(しょうえのにょにん)の話 https://www.todaiji.or.jp/annual/event/shunie/glossary2/ を連想します。 加藤徹】

 呉郡の無錫むしゃくという地には大きいみずうみがあって、それをめぐる長いどてがある。
 坡を監督する役人は丁初ていしょといって、大雨のあるごとに破損の個所の有無を調べるために、坡のまわりを一巡するのを例としていた。時は春の盛りで、雨のふる夕暮れに、彼はいつものように坡を見まわっていると、ひとりの女が上下ともに青い物を着けて、青いかさをいただいて、あとから追って来た。
「もし、もし、待ってください」
 呼ばれて、丁初はいったん立ちどまったが、また考えると、今頃このさびしい所を女ひとりでうろ付いている筈がない。おそらく妖怪であろうと思ったので、そのまま足早にあるき出すと、女もいよいよ足早に追って来た。丁はますます気味が悪くなって、一生懸命に駈け出すと、女もつづいて駈け出したが、丁の逃げ足が早いので、しょせん追い付かないとあきらめたらしく、女は俄かに身をひるがえして水のなかへ飛び込んだ。
 かれは大きな蒼い河獺かわうそで、その着物や繖と見えたのは青いはすの葉であった。

   祭蛇記 【現在の中華人民共和国福建省三明市将楽県は、昔は「中国」に含まれていませんでした。 加藤徹】

 東越とうえつ閩中みんちゅう庸嶺ようれいという山があって、高さ数十里といわれている。その西北のかいに長さ七、八丈、太さ十囲とかかえもあるという大蛇だいじゃんでいて、土地の者を恐れさせていた。
 住民ばかりか、役人たちもその蛇のたたりによって死ぬ者が多いので、牛や羊をそなえて祭ることにしたが、やはりその祟りはやまない。大蛇は人の夢にあらわれ、または巫女みこなどの口を仮りて、十二、三歳の少女を生贄いけにえにささげろと言った。これには役人たちも困ったが、なにぶんにもその祟りを鎮める法がないので、よんどころなく罪人の娘を養い、あるいは金をけて志願者を買うことにして、毎年八月の朝、ひとりの少女を蛇の穴へ供えると、蛇は生きながらにかれらを呑んでしまった。
 こうして、九年のあいだに九人の生贄をささげて来たが、十年目には適当の少女を見つけ出すのに苦しんでいると、将楽しょうらく県の李誕りたんという者の家には男の子が一人もなくて、女の子ばかりが六人ともにつつがなく成長し、末子ばっしの名をといった。寄は募りに応じて、ことしの生贄に立とうと言い出したが、父母は承知しなかった。
「しかしここのうちには男の子が一人もありません。厄介者の女ばかりです」と、寄は言った。「わたし達は親の厄介になっているばかりで何の役にも立ちませんから、いっそ自分のからだを生贄にして、そのお金であなた方を少しでも楽にさせて上げるのが、せめてもの孝行というものです」
 それでも親たちはまだ承知しなかったが、しいて止めればひそかにぬけ出して行きそうな気色けしきであるので、親たちも遂に泣く泣くそれを許すことになった。そこで、寄は一口ひとふりのよい剣と一匹の蛇喰い犬とを用意して、いよいよ生贄にささげられた。
 大蛇の穴の前には古い廟があるので、寄は剣をふところにして廟のなかに坐っていた。蛇を喰う犬はそのそばに控えていた。彼女はあらかじめ数石すうこくの米をかしいで、それに蜜をかけて穴の口に供えて置くと、蛇はその匂いをかぎ付けて大きいかしらを出した。その眼は二尺の鏡の如くであった。蛇はまずその米を喰いはじめたのを見すまして、寄はかの犬をしかけると、犬はまっさきに飛びかかって蛇を噛んだ。彼女もそのあとから剣をふるって蛇を斬った。
 さすがの大蛇も犬に噛まれ、剣に傷つけられて、数カ所の痛手にまり得ず、穴から這い出して蜿打のたうちまわって死んだ。穴へはいってあらためると、奥には九人の少女の髑髏どくろが転がっていた。
「お前さん達は弱いから、おめおめと蛇の生贄になってしまったのだ。可哀そうに……」と、彼女は言った。
 えつの王はそれを聞いて、寄をへいして夫人とした。その父は将楽県の県令に挙げられ、母や姉たちにも褒美を賜わった。その以来、この地方に妖蛇のうれいは絶えて、少女が蛇退治の顛末てんまつを伝えた歌謡だけが今も残っている。

   羽衣 【異類婚姻譚(いるいこんいんたん)の一類型「天人女房(てんにんにょうぼう)」タイプの話です。七夕(たなばた)説話や羽衣伝説と同系の怪談です。 加藤徹】

 予章新喩しんゆ県のある男が田畑へ出ると、田のなかに六、七人の女を見た。どの女もみな鳥のような羽衣はごろもを着ているのである。不思議に思ってそっと這いよると、あたかもその一人が羽衣をいたので、彼は急にそれを奪い取った。つづいて他の女どもの衣をも奪い取ろうとすると、かれらはみな鳥に化して飛び去った。
 羽衣を奪われた一人だけは逃げ去ることが出来なかったので、男は連れ帰って自分の妻にした。そうして、夫婦のあいだに三人の娘をもうけた。
 娘たちがだんだん生長の後、母はかれらにそっと訊いた。
「わたしの羽衣はどこに隠してあるか、おまえ達は知らないかえ」
「知りません」
「それではおとっさんにいておくれよ」
 母に頼まれて、娘たちは何げなく父にたずねると、母の入れ知恵とは知らないで、父は正直に打ちあけた。
「実は積み稲の下に隠してある」
 それが娘の口かららされたので、母は羽衣のありかを知った。
 彼女はそれを身につけて飛び去ったが、再び娘たちを迎いに来て、三人の娘も共に飛び去ってしまった。

   蛇蠱じゃこ

 滎陽けいよう郡にりょうという一家があって、代々一種の蠱術こじゅつをおこなって財産を作りあげた。ある時その家に嫁を貰ったが、蠱術のことをいえば怖れ嫌うであろうと思って、その秘密を洩らさなかった。
 そのうちに、家内の者はみな外出して、嫁ひとりが留守番をしている日があった。
 家の隅に一つの大きいかめが据えてあるのを、嫁はふと見つけて、こころみにそのふたをあけて覗くと、内には大蛇がわだかまっていたので、なんにも知らない嫁はおどろいて、あわてて熱湯をそそぎ込んで殺してしまった。家内の者が帰ってから、嫁はそれを報告すると、いずれも顔の色を変えて驚き憂いた。
 それから暫くのうちに、この一家は疫病にかかって殆んど死に絶えた。

   無鬼論 【無鬼論といえば、後漢の王充の無鬼論が有名です。 加藤徹】

 阮瞻げんせんあざな千里せんりといい、平素から無鬼論を主張して、鬼などという物があるべき筈がないと言っていたが、誰も正面から議論をこころみて、彼に勝ち得る者はなかった。阮もみずからそれを誇って、この理をもってすときは、世に幽と明と二つのさかいがあるように伝えるのは誤りであると唱えていた。
 ある日、ひとりの見識らぬ客が阮をたずねて来て、かたのごとく時候の挨拶が終った後に、話は鬼の問題に移ると、その客も大いに才弁のある人物で、この世に鬼ありと言う。阮は例の無鬼論を主張し、たがいに激論を闘わしたが、客の方が遂に言い負かされてしまった。と思うと、彼は怒りの色をあらわした。
「鬼神のことは古今の聖人賢者けんじゃもみな言い伝えているのに、貴公ひとりが無いと言い張ることが出来るものか。論より証拠、わたしが即ち鬼である」
 彼はたちまち異形いぎょうの者に変じて消え失せたので、阮はなんとも言うことが出来なくなった。彼はそれから心持が悪くなって、一年あまりの後に病死した。

   盤瓠 【滝沢馬琴『南総里見八犬伝』の元ネタの一つです。 加藤徹】

 高辛氏こうしんしの時代に、王宮にいる老婦人が久しく耳のやまいにかかって医師の治療を受けると、医師はその耳から大きなまゆのごとき虫を取り出した。老婦人が去った後、ひさごかきでかこってふたをかぶせて置くと、虫は俄かに変じて犬となった。犬の毛皮には五色ごしきあやがあるので、これを宮中に養うこととし、瓠と盤とにちなんで盤瓠ばんこと名づけていた。
 その当時、戎呉じゅうごというえびすの勢力が盛んで、しばしば国境を犯すので、諸将をつかわして征討を試みても、容易に打ち勝つことが出来ない。そこで、天下に触れを廻して、もし戎呉の将軍の首を取って来る者があれば、千きんの金をあたえ、万戸ばんこむらをあたえ、さらに王の少女を賜わるということになった。
 やがて盤瓠は一人の首をくわえて王宮に来た。それはかの戎呉の首であったので、王はその処分に迷っていると、家来たちはみな言った。
「たとい敵の首を取って来たにしても、盤瓠は畜類であるから、これに官禄を与えることも出来ず、姫君を賜わることも出来ず、どうにも致し方はありますまい」
 それを聞いて少女は王に申し上げた。
「戎呉の首を取った者にはわたくしを与えるということをすでに天下に公約されたのです。盤瓠がその首を取って来て、国のために害を除いたのは、天の命ずるところで、犬の知恵ばかりではありますまい。王者はげんを重んじ、伯者は信を重んずと申します。女ひとりの身を惜しんで、天下に対する公約を破るのは、国家のわざわいでありましょう」
 王もおそれて、その言葉に従うことになった。約束の通りに少女をあたえると、犬は彼女を伴って南山にのぼった。山は草木そうもくおい茂って、人の行くべき所ではなかった。少女は今までの衣裳を解き捨てて、いやしい奴僕ぬぼくの服を着け、犬の導くままに山を登り、谷に下って石室いしむろのなかにとどまった。王は悲しんで、ときどきその様子を見せにやると、いつでも俄かに雨風が起って、山は震い、雲はくらく、無事にその石室まで行き着くものはなかった。
 それから三年ほどのあいだに、少女は六人の男と六人の女を生んだ。かれらは木の皮をもって衣服を織り、草の実をもって五色に染めたが、その衣服の裁ち方には尾の形が残っていた。盤瓠が死んだ後、少女は王城へ帰ってそれを語ったので、王は使いをやってその子ども達を迎い取らせたが、その時には雨風のたたりもなかった。
 しかし子供たちの服装は異様であり、言葉は通ぜず、行儀は悪く、山に棲むことを好んで都を嫌うので、王はその意にまかせて、かれらにい山や広い沢地をあたえて自由に棲ませた。かれらを呼んで蛮夷といった。


★『捜神後記』(六朝)
岡本綺堂『中国怪奇小説集』青空文庫版 https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2235_11894.html より選んで引用。()

怪比丘尼 【「女儒者」は少ないのに、女性の僧(比丘尼)や女道士はいる。古代の漢民族の女性観が垣間見える怪談です。 加藤徹】

 東晋とうしんの大司馬桓温かんおんは威勢赫々かくかくたるものであったが、その晩年に一人の比丘尼びくにが遠方からたずねて来た。彼女は才あり徳ある婦人として、桓温からも大いに尊敬され、しばらく其の邸内にとどまっていた。
 ただひとつ怪しいのは、この尼僧の入浴時間の甚だ久しいことで、いったん浴室へはいると、時の移るまで出て来ないのである。桓温は少しくそれを疑って、ある時ひそかにその浴室を窺うと、彼は異常なる光景におびやかされた。
 尼僧は赤裸あかはだかになって、手には鋭利らしい刀を持っていた。彼女はその刀をふるって、まず自分の腹をち割って臓腑をつかみ出し、さらに自分の首を切り、手足を切った。桓温は驚き怖れて逃げ帰ると、暫くして尼僧は浴室を出て来たが、その身体は常のごとくであるので、彼は又おどろかされた。しかも彼も一個の豪傑であるので、尼僧に対して自分の見た通りを正直に打ちあけて、さてその子細を聞きただすと、尼僧はおごそかに答えた。
「もしかみを凌ごうとする者があれば、皆あんな有様になるのです」
 桓温は顔の色を変じた。実をいえば、彼は多年の威力をたのんで、ひそかに謀叛むほんを企てていたのであった。その以来、彼はおそいましめて、一生無事に臣節を守った。尼僧はやがてここを立ち去って行くえが知れなかった。
 尼僧の教えを奉じた桓温は幸いに身を全うしたが、その子の桓玄かんげんは謀叛を企てて、彼女の予言通りに亡ぼされた。

武陵桃林  【いわゆる桃源郷の話です。 加藤徹】

 東晋とうしん太元たいげん年中に武陵ぶりょう黄道真こうどうしんという漁人ぎょじんが魚を捕りに出て、渓川たにがわに沿うて漕いで行くうちに、どのくらい深入りをしたか知らないが、たちまち桃の林を見いだした。
 桃の花は岸を挟んで一面に紅く咲きみだれていて、ほとんど他の雑木はなかった。黄は不思議に思って、なおも奥ふかく進んでゆくと、桃の林の尽くるところに、川の水源みなもとがある。そこには一つの山があって、山には小さいほらがある。洞の奥からは光りが洩れる。彼は舟から上がって、その洞穴の門をくぐってゆくと、初めのうちは甚だ狭く、わずかに一人を通ずるくらいであったが、また行くこと数十歩にして俄かに眼さきは広くなった。
 そこには立派な家屋もあれば、よい田畑もあり、桑もあれば竹もある。路も縦横に開けて、とりや犬の声もきこえる。そこらを往来している男も女も、衣服はみな他国人のような姿であるが、老人も小児も見るからに楽しそうな顔色であった。かれらは黄を見て、ひどく驚いた様子で、おまえは何処どこの人でどうして来たかと集まって訊くので、黄は正直に答えると、かれらは黄を一軒の大きい家へ案内して、雞を調理し、酒をすすめて饗応した。それを聞き伝えて、一村の者がみな打ち寄って来た。
 かれら自身の説明によると、その祖先がしんの暴政を避くるがために、妻子眷族けんぞくをたずさえ、村人を伴って、この人跡じんせき絶えたるところへ隠れ住むことになったのである。その以来再び世間に出ようともせず、子々孫々ここに平和の歳月としつきを送っているので、世間のことはなんにも知らない。秦のほろびた事も知らない。かんおこったことも知らない。その漢がまた衰えて、となり、しんとなったことも知らない。黄が一々それを説明して聞かせると、いずれもその変遷に驚いているらしかった。
 黄はそれからそれへと他の家にも案内されて、五、六日のあいだは種々の饗応を受けていたが、あまりに帰りがおくれては家内の者が心配するであろうと思ったので、別れを告げて帰って来た。その帰り路のところどころに目標めじるしをつけて置いて、黄は郡城にその次第を届けて出ると、時の太守劉韻りゅういんは彼に人を添えて再び探査につかわしたが、目標はなんの役にも立たず、結局その桃林を尋ね当てることが出来なかった。

離魂病 【ドッペルゲンガーの話です。 加藤徹】

 そうのとき、なにがしという男がその妻と共に眠った。夜があけて、妻が起きて出た後に、夫もまた起きて出た。
 やがて妻が戻って来ると、夫はよぎのうちに眠っているのであった。自分の出たあとに夫の出たことを知らないので、妻は別に怪しみもせずにいると、やがて奴僕しもべが来て、旦那様が鏡をくれとおっしゃりますと言った。
「ふざけてはいけない。旦那はここに寝ているではないか」と、妻は笑った。
「いえ、旦那様はあちらにおいでになります」
 奴僕も不思議そうに覗いてみると、主人はたしかに衾をて寝ているので、彼は顔色をかえて駈け出した。その報告に、夫も怪しんで来てみると、果たして寝床の上には自分と寸分違わない男が安らかに眠っているのであった。
「騒いではならない。静かにしろ」
 夫は近寄って手をさしのべ、衾の上からしずかにかの男をでていると、その形は次第に薄くつ消えてしまった。
 夫婦も奴僕も言い知れない恐怖にとらわれていると、それから間もなく、その夫は一種の病いにかかって、物の理屈も判らないようなぼんやりした人間になった。

千年の鶴 【六朝時代は、輪廻転生を説く仏教だけでなく、不老不死の神仙術の探求も盛んでした。 加藤徹】

 丁令威ていれいい遼東りょうとうの人で、仙術を霊虚山れいきょざんに学んだが、後に鶴にして遼東へ帰って来て、城門の柱に止まった。ある若者が弓をひいて射ようとすると、鶴は飛びあがって空中を舞いながら言った。
「鳥あり、鳥あり、丁令威。家を去る千年、今始めて帰る。城廓もとの如くにして、人民非なり。なんぞ仙を学ばざるか、塚壘々るいるいたり」
 遂に大空高く飛び去った。今でも遼東の若者らは、自分たちの先代に仙人となった者があると言い伝えているが、それが丁令威という人であることを知らない。
【この漢詩の原文は、
   有鳥有鳥丁令威、去家千年今始帰。城郭如故人民非、何不学仙塚壘壘。
です。「壘」に作るテクストが多いですが、青空文庫版は、壘の下の「土」を「糸」としています。 加藤徹】


○第1回のポイント
孔子の儒教も、古代中国の知識人の思考も、意外と合理主義的だった。
2世紀末から3世紀初めにかけて活躍した三国志の曹操(後漢の人)も、オカルトや死後の世界をあてにせず、自身の薄葬(はくそう)を命じた。
皮肉なことに、後漢の「無鬼論」は、この世の弱者が死後に救済される可能性をつぶし、儒教的合理主義の限界をもあらわにした。
六朝時代(222年から589年)に、仏教や道教、神仙道が爆発的に広まった一因は、「死後の世界があってほしい」「理外の大きな力にすがりたい」という中国人の願望であった。
六朝時代の志怪小説には、仏教の爆発的流行と通底する思潮が認められる。


 第二回 唐の怪談 

7世紀に成立した唐は、シルクロードの異国情緒と貴族趣味が花開いた時代でした。『酉陽雑爼』や『宣室志』などの怪談集や、エロティックな『遊仙窟』、秘話実録的な『杜子春伝』、女性の怨念を描く『霍小玉伝』など多彩な伝奇小説(唐代伝奇)が誕生し、遣唐使を通じて日本にも大きな影響を与えました。「中国怪談のカンブリア大爆発」の背景となった唐の社会と歴史を含めて、わかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nWg7jXP0L21bopFiEcFkYS

○ポイント、キーワード

○怪談選読

★『酉陽雑爼』(ゆうようざっそ)
岡本綺堂『中国怪奇小説集』青空文庫版 https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1299_11895.html より選んで引用

   北斗七星の秘密

 唐の玄宗げんそう皇帝の代に、一行いちぎょうという高僧があって、深く皇帝の信任を得ていた。
 一行は幼いとき甚だ貧窮であって、隣家のおうという老婆から常に救われていた。彼は立身の後もその恩を忘れず、なにか王婆にむくいたいと思っていると、あるとき王婆の息子が人殺しの罪に問われることになったので、母は一行のところへ駈け付けて、泣いて我が子の救いを求めたが、彼は一応ことわった。
「わたしは決して昔の恩を忘れはしない。もし金やきぬが欲しいというのならば、どんなことでもいてあげる。しかし明君が世を治めている今の時代に、人殺しの罪をゆるすなどということは出来るものでない。たとい私から哀訴したところで、かみでお取りあげにならないに決まっているから、こればかりは私の力にも及ばないと諦めてもらいたい」
 それを聞いて、王婆は手をほこにして罵った。
「なにかの役にも立とうかと思えばこそ、久しくお前の世話をしてやったのだ。まさかの時にそんな挨拶を聞くくらいなら、お前なんぞに用はないのだ」
 彼女は怒って立ち去ろうとするのを、一行は追いかけて、しきりによんどころない事情を説明して聞かせたが、王婆は見返りもせずに出て行ってしまった。
「どうも困ったな」
 一行は思案の末に何事をか考え付いた。都の渾天寺こんてんじは今や工事中で、役夫えきふが数百人もあつまっている。その一室をから明きにさせて、まん中に大かめを据えた。それから又、多年召仕っているしもべ二人を呼んで、大きい布嚢ぬのぶくろを授けてささやいた。
「町の角に、住む人もない荒園あれにわがある。おまえ達はそこへ忍び込んで、うまこく(午前十一時―午後一時)から夕方まで待っていろ。そうすると七つの物がはいって来る。それを残らずこの嚢に入れて来い。数は七つだぞ。一つ不足しても勘弁しないからそう思え」
 僕どもは指図通りにして待っていると、果たしてとりの刻(午後五時―七時)を過ぎる頃に、荒園の草をふみわけていのこの群れがはいってきたので、一々に嚢をかぶせて捕えると、その数はあたかも七頭であった。持って帰ると、一行は大いに喜んで、その豕をかの瓶のなかに封じ込めて、木の蓋をして、上に大きい梵字ぼんじを書いた。それが何のまじないであるかは、誰にもわからなかった。
 あくる朝になると、宮中から急使が来て、一行は皇帝の前に召出された。
「不思議のことがある」と、玄宗は言った。「太史たいし(史官)の奏上そうじょうによると、昨夜は北斗ほくと七星が光りをかくしたということである。それは何のしょうであろう。師にその禍いをはらう術があるか」
「北斗が見えぬとは容易ならぬことでござります」と、一行は言った。「御用心なさらねばなりませぬ。匹夫ひっぷ匹婦ひっぷもその所を得ざれば、夏に霜を降らすこともあり、大いにひでりすることもござります。釈門しゃくもんの教えとしては、いっさいの善慈心をもって、いっさいの魔を降すのほかはござりませぬ」
 彼は天下に大赦たいしゃの令をくだすことをすすめて、皇帝もそれにしたがった。その晩に、太史がまた奏上した。
「北斗星が今夜は一つ現われました」
 それから毎晩一つずつの星が殖えて、七日の後には七星が今までの通りに光り輝いた。大赦の令によって王婆の息子が救われたのは言うまでもない。


   人面瘡じんめんそう

 数十年前のことである。江東こうとうの或る商人あきんどの左の二の腕に不思議の腫物しゅもつが出来た。その腫物は人のかおの通りであるが、別になんの苦痛もなかった。ある時たわむれに、その腫物の口中へ酒をそそぎ入れると、残らずそれを吸い込んで、腫物のかおは、酔ったように赤くなった。食い物をあたえると、大抵の物はみな食った。あまりに食い過ぎたときには、二の腕の肉が腹のようにふくれた。なんにも食わせない時には、そのひじがしびれて働かなかった。
「試みにあらゆる薬や金石草木のたぐいを食わせてみろ」と、ある名医が彼に教えた。
 商人はその教えの通りに、あらゆる物を与えると、唯ひとつ貝母ばいぼという草に出逢ったときに、かの腫物は眉をよせ、口を閉じて、それを食おうとしなかった。
「占めた。これが適薬だ」
 彼は小さいよしくだで、腫物の口をこじ明けて、その管から貝母のしぼり汁をそそぎ込むと、数日の後に腫物はせて癒った。



★『宣室志』より選読
https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1300_11896.htmlより引用。

七聖画


 唐の長安ちょうあん雲花寺うんげじに聖画殿があって、世にそれを七聖画と呼んでいる。
 この殿堂が初めて落成したときに、寺の僧が画工をまねいて、それに彩色画さいしきがを描かせようとしたが、画料が高いので相談がまとまらなかった。それから五、六日の後、ふたりの少年がたずねて来た。
「われわれは画を善く描く者です。このお寺で画工を求めているということを聞いて参りました。画料は頂戴するに及びませんから、われわれに描かせて下さいませんか」
「それではお前さん達の描いた物を見せてください」と、僧は言った。
「われわれの兄弟は七人ありますが、まだ長安では一度も描いたことがありませんから、どこの画を見てくれというわけには行きません」
 そうなると、やや不安心にもなるので、僧は少しく躊躇ちゅうちょしていると、少年はまた言った。
「しかし、われわれは画料を一文も頂戴しないのですから、もしお気に入らなかったならば、壁を塗り換えるだけのことで、さしたる御損もありますまい」
 なにしろ無料ただというのに心をかされて、僧は結局かれらに描かせることにすると、それから一日の後、兄弟と称する七人の少年が画の道具をたずさえて来た。
「これから七日のあいだ、決してこの殿堂の戸をあけて下さるな。食い物などの御心配に及びません。の具の乾かないうちに風や日にさらすことは禁物ですから、誰ものぞきに来てはいけません」
 こう言って、かれらは殿堂のなかに閉じ籠ったが、それから六日のあいだ、堂内はひっそりしてなんの物音もきこえないので、寺の僧等も不審をいだいた。
「あの七人はほんとうに画を描いているのかしら」
「なんだかおかしいな。なにかの化け物がおれ達をだまして、とうに消えてしまったのではないかな」
 評議まちまちの結果、ついにその殿堂の戸をあけて見ることになった。幾人の僧が忍び寄って、そっと戸をあけると、果たして堂内に人の影はみえなかった。七羽の鴿はとが窓から飛び去って、空中へ高く舞いあがった。
 さてこそと堂内へはいって調べると、壁画は色彩うるわしく描かれてあったが、約束の期日よりも一日早かったために、西北の窓ぎわだけがまだ描き上げられずに残っていた。その後に幾人の画工がそれを見せられて、みな驚嘆した。
「これは実に霊妙の筆である」
 誰も進んで描き足そうという者がないので、堂の西北の隅だけは、いつまでも白いままで残されている。


黄衣婦人


 唐の柳宗元りゅうそうげん先生が永州えいしゅう司馬しばに左遷される途中、荊門けいもんを通過して駅舎に宿ると、その夜の夢に黄衣の一婦人があらわれた。彼女は再拝して泣いて訴えた。
「わたくしは楚水そすいの者でございますが、思わぬ禍いに逢いまして、命も朝夕ちょうせきに迫って居ります。あなたでなければお救い下さることは叶いません。もしお救い下されば、長く御恩を感謝するばかりでなく、あなたの御運をひるがえして、大臣にでも大将にでも御出世の出来るように致します」
 先生も無論に承知したが、夢が醒めてから、さてその心あたりがないので、ついそのままにしてまた眠ると、かの婦人は再びその枕元にあらわれて、おなじことを繰り返して頼んで去った。
 夜が明けかかると、土地の役人が来て、荊州のそつがあなたを御招待して朝飯をさしあげたいと言った。先生はそれにも承知の旨を答えたが、まだ東の空が白みかけたばかりであるので、又もやうとうとと眠っていると、かの婦人が三たび現われた。その顔色は惨として、いかにも危難がその身に迫っているらしく見えた。
「わたくしの命はいよいよ危うくなりました。もう半ときの猶予もなりません。どうぞ早くお救いください。お願いでございます」
 一夜のうちに三度もおなじ夢を見たので、先生も考えさせられた。あるいは何か役人らのうちに不幸の者でもあるのかと思った。あるいは今朝の饗応について、何かの鳥か魚が殺されるのではないかとも思った。いずれにしても、行ってみたら判るかも知れないと思ったので、すぐに支度をして饗宴の席に臨んだ。そうして、主人にむかってかの夢の話をすると、彼も不思議そうに首をかたむけながら、ともかくも下役人を呼んで取調べると、役人は答えた。
「実は一日前に、大きい黄魚こうぎょ石首魚いしもち)が漁師の網にかかりましたので、それを料理してお客さまに差し上げようと存じましたが……」
「その魚はまだ活かしてあるか」と、先生は訊いた。
「いえ、たった今その首を斬りました」
 先生は思わずあっと言った。今更どうにもならないが、せめてもの心ゆかしに、その魚の死骸を河へ投げ捨てさせて出発した。
 その夜の夢に、かの黄衣の婦人が又もや先生の前にあらわれたが、彼女には首がなかった。それがためか、先生は大臣にも大将にもなれず、ついに柳州の刺史ししをもって終った。



以下、https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1301_11897.htmlより引用。

★『原化記』より
   女侠

 唐の貞元年中、博陵はくりょう崔慎思さいしんし進士しんしに挙げられて上京したが、京に然るべき第宅ていたくがないので、他人の別室を借りていた。家主は別の母屋おもやに住んでいたが、男らしい者は一人も見えず、三十ぐらいの容貌きりょうのよい女と唯ふたりの女中がいるばかりであった。崔は自分の意を通じて、その女を妻にしたいと申し入れると、彼女は答えた。
「わたくしは人に仕えることの出来る者ではありません。あなたとは不釣合いです。なまじいに結婚して後日ごじつの恨みを残すような事があってはなりません」
 それではめかけになってくれと言うと、女は承知した。しかも彼女は自分の姓を名乗らなかった。そうして二年あまりも一緒に暮らすうちに、ひとりの子を儲けた。それから数月の後、ある夜のことである。崔は戸を閉じ、とばりを垂れてしんに就くと、夜なかに女の姿が見えなくなった。
 崔はおどろいて、さては他に姦夫かんぷがあるのかと、憤怒いきどおりに堪えぬままに起き出でて室外をさまよっている時、おぼろの月のひかりに照らされて、彼女は屋上から飛び降りて来た。白の練絹を身にまとって、右の手には、匕首あいくち、左の手には一人の首をたずさえているのである。
「わたくしの父は罪なくして郡守に殺されました。その仇を報ずるために、城中に入り込んで数年を送りましたが、今や本意を遂げました。ここに長居は出来ません。もうおいとまをいたします」
 彼女は身支度して、かの首をふくろに収め、それを小脇にかかえて言った。
「わたくしは二年間あなたのお世話になりまして、幸いに一人の子を儲けました。この住居も二人の奉公人もすべてあなたに差し上げますから、どうぞ子供の養育を願います」
 男に別れてかきを越え、家を越えて立ち去ったので、崔も暫くはただ驚嘆するのみであった。やがて女はまた引っ返して来た。
「子供に乳をやって行くのを忘れましたから、ちょっと飲ませて来ます」
 彼女は室内にはいったが、やや暫くして出て来た。
「乳をたんと飲ませました」
 言い捨てて出たままで、彼女はかさねて帰らなかった。それから時を移しても、赤児あかごの啼く声がちっとも聞えないので、崔は怪しんでうかがうと、赤児もまた殺されていた。
 その子を殺したのは、のちの思いの種を断つためであろう。昔の侠客もこれには及ばない。
(原化記)


   霊鏡

 唐の貞元年中、漁師十余人が数そうの船に小網を載せて漁に出た。蘇州そしゅうの太湖が松江しょうこうに入るところである。
 網をおろしたがちっとも獲物えものはなかった。やがて網にかかったのは一つの鏡で、しかもさのみに大きい物でもないので、漁師はいまいましがって水に投げ込んだ。それから場所をかえて再び網をおろすと、又もやかの鏡がかかったので、漁師らもさすがに不思議に思って、それを取り上げてよく視ると、鏡はわずかに七、八寸であるが、それに照らすと人の筋骨きんこつから臓腑ぞうふまではっきりと映ったので、最初に見た者はおどろいて気絶した。
 ほかの者も怪しんで鏡にむかうと、皆その通りであるので、驚いて倒れる者もあり、嘔吐はきけを催す者もあった。最後の一人は恐れて我が姿を照らさず、その鏡を取って再び水中に投げ込んでしまった。彼は倒れている人びとを介抱して我が家へ帰ったが、あれは確かに妖怪であろうと言い合った。
 あくる日もつづいて漁に出ると、きょうは網に入る魚が平日の幾倍であった。漁師のうちで平生から持病のある者もみな全快した。故老の話によると、その鏡は河や湖水のうちに在って、数百年に一度あらわれるもので、これまでにも見た者がある。しかもそれが何の精であるかを知らないという。
(同上)

★『博異記』より
   登仙奇談

 唐の天宝てんぽう年中、 河南【糸+侯】子かなんこうし県の仙鶴観せんかくかんには常に七十余人の道士が住んでいた。いずれも専ら修道を怠らない人びとで、未熟の者はここに入ることが出来なかった。
 ここに修業の道士は、毎年九月三日の夜をもって、一人は登仙とうせんすることを得るという旧例があった。
 夜が明ければ、その姓名をしるして届け出るのである。勿論、誰が登仙し得るか判らないので、毎年その夜になると、すべての道士らはみな戸を閉じず、思い思いに独り歩きをして、天の迎いを待つのであった。
 張竭忠ちょうけっちゅうがここの県令となった時、その事あるを信じなかった。そこで、九月三日の夜二人の勇者に命じて、武器をたずさえて窺わせると、宵のあいだは何事もなかったが、夜も三更さんこうに至る頃、一匹の黒い虎が寺内へり来たって、一人の道士をくわえて出た。それと見て二人は矢を射かけたがあたらなかった。しかも虎は道士を捨てて走り去った。
 夜が明けて調べると、昨夜は誰も仙人になった者はなかった。二人はそれを張に報告すると、張は更に府に申し立てて、弓矢の人数をあつめ、仙鶴観に近い太子陵の東にある石穴のなかをあさると、ここに幾匹の虎を獲た。穴の奥には道士の衣冠や金簡のたぐい、人の毛髪や骨のたぐいがたくさんに残っていた。これがすなわち毎年仙人になったという道士の身の果てであった。
 その以来、仙鶴観に住む道士も次第に絶えて、今は陵を守る役人らの住居となっている。
(博異記)

★『幻異志』より
   板橋三娘子

 べん州の西に板橋店はんきょうてんというのがあった。店の姐さんは三娘子さんじょうしといい、どこから来たのか知らないが、三十歳あまりの独り者で、ほかには身内もなく、奉公人もなかった。家は幾間いくまかに作られていて、食い物を売るのが商売であった。
 そんな店に似合わず、家は甚だ富裕であるらしく、驢馬ろばのたぐいを多く飼っていて、往来の役人や旅びとの車に故障を生じた場合には、それを馬匹ばひつやすく売ってやるので、世間でも感心な女だと褒めていた。そんなわけで、旅をする者は多くここに休んだり、泊まったりして、店はすこぶる繁昌した。
 唐の元和げんな年中、きょ州の趙季和ちょうきわという旅客が都へ行く途中、ここに一宿いっしゅくした。趙よりも先に着いた客が六、七人、いずれもとうに腰をかけていたので、あとから来た彼は一番奥の方の榻に就いた。その隣りは主婦あるじの居間であった。
 三娘子は諸客に対する待遇すこぶる厚く、夜ふけになって酒をすすめたので、人びとも喜んで飲んだ。しかし趙は元来酒を飲まないので、余り多くは語らず笑わず、行儀よく控えていると、夜の二更(午後九時―十一時)ごろに人びとはみな酔い疲れて眠りに就いた。三娘子も居間へかえって、扉を閉じて灯を消した。
 諸客はみな熟睡しているが、趙ひとりは眠られないので、幾たびか寝返りをしているうちに、ふと耳に付いたのは主婦の居間で何かごそごそいう音であった。それは生きている物が動くように聞えたので、趙は起きかえって隙間から窺うと、あるじの三娘子は或るうつわを取り出して、それを蝋燭の火に照らし視た。さらに手箱のうちから一具の鋤鍬すきくわと、一頭の木牛ぼくぎゅうと、一個の木人ぼくじんとを取り出した。牛も人も六、七寸ぐらいの木彫り細工である。それらをかまどの前に置いて水をふくんで吹きかけると、木人は木馬を牽き、鋤鍬をもってゆかの前の狭い地面を耕し始めた。
 三娘子はさらにまた、ひと袋の蕎麦そば種子たねを取り出して木人にあたえると、彼はそれをいた。すると、それがまた、見るみるうちに生長して花を着け、実を結んだ。木人はそれを刈ってんで、たちまちに七、八升の蕎麦粉を製した。彼女はさらに小さいうすを持ち出すと、木人はそれをいて麺を作った。それが済むと、彼女は木人らを元の箱に収め、麺をもって焼餅しょうべい数枚を作った。
 暫くしてとりの声がきこえると、諸客は起きた。三娘子はさきに起きて灯をともし、かの焼餅を客にすすめて朝の点心てんしんとした。しかし趙はなんだか不安心であるので、何も食わずに早々出発した。彼はいったん表へ出て、また引っ返して戸の隙から窺うと、他の客は焼餅を食い終らないうちに、一度に地を蹴っていなないた。かれらはみな変じて驢馬となったのである。三娘子はその驢馬を駆って家のうしろへ追い込み、かれらの路銀ろぎんや荷物をことごとく巻き上げてしまった。
 趙はそれを見ておどろいたが、誰にも秘して洩らさなかった。それからひと月あまりの後、彼は都からかえる途中、再びこの板橋店へさしかかったが、彼はここへ着く前に、あらかじめ蕎麦粉の焼餅を作らせた。その大きさは前に見たと同様である。そこで、なにげなく店に着くと、三娘子は相変らず彼を歓待した。
 その晩は他に相客がなかったので、主婦はいよいよ彼を丁寧に取扱った。夜がふけてから何か御用はないかとたずねたので、趙は言った。
「あしたの朝出発のときに、点心てんしんを頼みます……」
「はい、はい。間違いなく……。どうぞごゆるりとおやすみください」
 こう言って、彼女は去った。
 夜なかに趙はそっと窺うと、彼女は先夜と同じことを繰り返していた。夜があけると、彼女は果物と、焼餅数枚を皿に盛って持ち出した。それから何かを取りに行った隙をみて、趙は自分の用意して来た焼餅一枚を取り出して、皿にある焼餅一枚とり換えて置いた。そうして、三娘子を油断させるために、自分の焼餅を食って見せたのである。
 いざ出発というときに、彼は三娘子に言った。
「実はわたしも焼餅を持っています。一つたべて見ませんか」
 取り出したのはさきに掏りかえて置いた三娘子の餅である。
 彼女は礼をいって口に入れると、忽ちにいなないて驢馬に変じた。それはなかなか壮健な馬であるので、趙はそれに乗って出た。ついでにかの木人と木牛も取って来たが、その術を知らないので、それを用いることが出来なかった。
 趙はその驢馬に乗って四方を遍歴したが、かつて一度もあやまちなく、馬は一日に百里をあゆんだ。それから四年の後、彼は関に入って、華岳廟かがくびょうの東五、六里のところへ来ると、路ばたに一人の老人が立っていて、それを見ると手をって笑った。
「板橋の三娘子、こんな姿になったか」
 老人はさらに趙にむかって言った。
「かれにも罪はありますが、あなたに逢っては堪まらない。あまり可哀そうですから、もうゆるしてやってください」
 彼は両手で驢馬の口と鼻のあたりを開くと、三娘子はたちまち元のすがたで跳り出た。彼女は老人を拝し終って、ゆくえも知れずに走り去った。
(幻異志)


★沈既済(しんきせい)『沈中記』
「黄粱一炊の夢(こうりょういっすいのゆめ)」「邯鄲(かんたん)の夢」の話。
以下はChatGPTが漢文の原文 (https://zh.wikisource.org/wiki//枕中記 )から作成した日本語訳(2025年1月13日14:55)


 開元七年のこと、呂翁という道士がいて、神仙術を得ていた。彼が邯鄲の道中を旅している際、宿屋に立ち寄り、帽子を脱いで帯を緩め、袋に寄りかかって座っていた。そこにしばらくすると旅の若者が現れた。その若者は盧生といい、粗末な麻の服を着て青い馬に乗り、畑に向かう途中で、同じ宿屋に立ち寄った。そして呂翁と同じ席に座り、語り合い、非常に打ち解けて話を楽しんだ。
 しばらくして、盧生は自分の粗末な身なりを見て深いため息をつき、こう言った。「男としてこの世に生まれた以上、こんなに困窮しているのは情けない!」すると呂翁が、「お前の体を見る限り、病気もなく元気そうだ。話も楽しんでいるのに、なぜ困窮だと嘆くのだ?」と尋ねた。盧生は、「私はただ生きているだけです。これを楽しむと言えますか?」と答えた。呂翁は、「それを楽しみと呼ばないなら、何を楽しみと言うのだ?」と聞き返した。盧生は、「男がこの世に生まれたからには、功績を立て、名を成し、将軍や宰相となり、豪勢な食事をし、美しい音楽を楽しみ、一族を栄えさせ、家を豊かにしてこそ、本当の楽しみと言えるのではないでしょうか。私は学問を志し、多くの技芸に通じているので、若い頃には官職を得るのも簡単だと思っていました。ですが、今や壮年を迎えても、まだ田畑を耕す毎日です。これを困窮と言わずして何と言いましょうか」と嘆いた。そして言い終わると目が重くなり、眠気に襲われた。
 ちょうどその時、宿屋の主人が黍(もちきび)を蒸していた。呂翁は袋から枕を取り出して渡し、「この枕を使えば、君の願い通りの栄華を体験できるだろう」と言った。その枕は青い陶製で、両端に穴が開いていた。盧生がその枕をのぞき込むと、穴が次第に広がり、明るくなっていった。やがて彼はその中に身を投じ、自分の家に帰り着いた。
 数ヶ月後、彼は清河出身の崔氏の娘と結婚した。その娘は非常に美しく、盧生の財産もますます増えた。盧生は大いに喜び、衣装や乗り物も日々豪華になっていった。翌年、彼は科挙に合格し、進士の位を得て官職に就いた。秘書郎を経て、渭南の県尉(地方役人)に任命され、その後、御史や起居舎人、制誥(皇帝の詔勅を作成する役職)を歴任。さらに同州の長官、陝西地方の長官に昇進した。
 盧生は土木工事を好み、陝西で80里の運河を掘って交通を改善し、地元民に恩恵を与えた。その功績を称える石碑も建てられた。その後も彼は昇進を重ね、河南地方の監察官、京兆尹(長安の行政官)、そして軍司令官として吐蕃との戦いで大勝利を収めた。朝廷に戻るとその功績が認められ、吏部侍郎、戸部尚書(財務長官)、さらに宰相にも任じられた。
 しかし、宦官や同僚に妬まれ、あることないことを告発され、失脚。端州に左遷されるが、その後再び召し戻され、ついには中書令(宰相)に復帰。燕国公に封じられた。彼の子供たちも皆優れた人材となり、家系はますます栄えた。
 50年以上も官職に就き、名声と権勢を誇った盧生だが、晩年は老いに苦しみ、たびたび辞職を願い出たが許されず、病に倒れた。そして80歳を超えた頃、ついに死去した。
 すると盧生はふと目を覚まし、自分が宿屋で横になっているのを知った。傍らには呂翁が座っており、主人が蒸していた黍もまだ炊き上がっていなかった。すべてが元のままだったのである。
 驚いた盧生は、「これは夢だったのか!」と叫んだ。呂翁は笑って言った。「人の人生の楽しみなど、このようなものに過ぎないのだよ」。盧生はしばらく呆然としていたが、やがて呂翁に深く礼をして言った。「栄辱、成功と失敗、生と死の理(ことわり)を、すべて理解することができました。先生が私の欲を断ってくださったのです。この教えを心に刻みます!」そして再び深く頭を下げ、去って行った。
【八仙のひとり呂洞賓(796年-?)は、この話の開元7年(719年)よりあとに生まれた人物だが、中国ではこの話の「呂翁」は呂洞賓と同一人物であるともされる(彼は神仙なので、凡人の生没年の縛りから超越している)。加藤徹】


 第三回 宋の怪談 

10世紀に成立した宋王朝は、日本や西洋より数百年も早く「近世」(初期近代)を実現しました。 合理的、科学的な思想が広まり、怪談を娯楽として楽しむ「妖怪革命」が日本より早く実現しました。 『稽神録』『夷堅志』などの怪談集や、百科全書『太平広記』に載せる怪談の数々は、江戸時代の日本の落語家や講談師がネタの宝庫として活用しました。 宋の社会の先進性や、日本の江戸時代のルーツは中国の宋であったという衝撃的な事実を、わかりやすく説明します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-laTmtl00U_iM0wS9Qv5uoI

○ポイント、キーワード

○辞書的な説明


○怪談選読

★『太平広記』の「杜鵑」の項より
 杜鵑(ホトトギス)は、互いに鳴き声を競い合う習性があり、先に鳴く個体は血を吐いて死ぬという。 あるとき、旅人が外出中に一群の杜鵑を見かけた。鳥たちは静かにしていた。旅人はふざけてその鳴き声を真似した。旅人は即座に死んでしまった。
 杜鵑が初めて鳴くのを最初に聞いた者には、離別の不吉な出来事が訪れるとされる。また便所で杜鵑の鳴き声を聞くことも不吉である。 これを避ける方法として、犬の鳴き声で応じると良いとされる。以上『酉陽雑俎』による。
※『太平広記』は全500巻、目録10巻に及ぶ類書(中国的な百科全書)。『酉陽雑俎』は唐代の段成式による随筆だが、このように、宋の時代は昔の怪談も類書の記載として客観的に読めるようになった。
 杜鵑の迷信は日本にも伝わった。夏目漱石の俳句「時鳥厠半ばに出かねたり」(明治40年、西園寺公望の招飲を断る手紙に書いた俳句)も、この迷信をふまえる。


★『夢渓筆談』より
https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2238_11901.htmlより引用
   霊鐘

 陳述古ちんじゅつこけん浦城ほじょう県の知事を勤めていた時、物を盗まれた者があったが、さてその犯人がわからなかった。そこで、陳は欺いて言った。
「かしこの廟には一つの鐘があって、その霊験れいげんあらたかである」
 その鐘を役所のうしろの建物に迎え移して、仮りにそれをまつった。彼は大勢の囚人をき出して言い聞かせた。
「みんな暗い所でこの鐘を撫でてみろ。盗みをしない者が撫でても音を立てない。盗みをした者が手を触るればたちまちに音を立てる」
 陳は下役の者どもをひきいて荘重な祭事をおこなった。それが済んで、鐘のまわりにとばりを垂れさせた。彼はひそかに命じて、鐘に墨を塗らせたのである。そこで、疑わしい囚人を一人ずつ呼び入れて鐘を撫でさせた。
 出て来た者の手をあらためると、みな墨が付いていた。ただひとり黒くない手を持っている者があったので、それを詰問きつもんすると果たして白状した。彼は鐘に声あるを恐れて、手を触れなかったのである。
 これは昔からの法で、小説にも出ている。
【「大岡政談 しばられ地蔵」にも影響を与えたか。加藤徹】

★『稽神録』より
https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2236_11899.htmlより引用

   鬼国  (ちょっとSFっぽいです―加藤)

 りょうの時、せい州の商人が海上で暴風に出逢って、どことも知れない国へ漂着しました。遠方からみると、それは普通の嶋などではなく、山や川や城もあるらしいのです。
「どこだろう」
「そうですねえ」と、船頭も考えていました。「わたし達も多年の商売で、方々へ吹き流されたこともありますが、こんな処へは一度も流れ着いたことがありません。なんでもここらの方角に鬼国きこくというのがあると聞いていますから、あるいはそれかも知れません」
 なにしろ訪ねてみようというので、人びとが上陸すると、家の作りや田畑のさまは中国とちっとも変りません。ただ変っているのは、途中で逢う人びとに会釈えしゃくしても、相手はみな知らない顔をして行き過ぎてしまうのです。むこうの姿はこちらに見えても、こちらの姿はむこうに見えないらしいのです。
 やがて城門の前に行き着くと、そこには門を守る人が立っているので、こちらでは試みに会釈すると、かれらはやはり知らない顔をしているのです。そこで、構わずに城内へはいり込んでゆくと、建物もなかなか宏壮で、そこらを往来している人物もみな立派にみえますが、どの人もやはりこちらを見向きもしないので、ますます奥深く進んでゆくと、その王宮では今や饗宴の最中らしく、大勢の家来らしい者が列坐している。その服装も器具も音楽もみな中国と大差がないのでした。
 咎める者がないのを幸いに、人びとは王座のそばまで進み寄ってうかがうと、王は俄かに病いにかかったという騒ぎです。そこで巫女みこらしい者を呼び出して占わせると、かれはこう言いました。
「これは陽地の人が来たので、その陽気に触れて、王は俄かに発病されたのでござります。しかしその人びとも偶然にここへ来合わせたので、別にたたりをなすというわけでもござりませんから、食い物や乗り物をあたえてかえしてやったらよろしゅうござりましょう」
 すぐに酒や料理を別室に用意させたので、人びとはそこへ行って飲んだり食ったりしていると、巫女をはじめ他の家来らも来て何か祈っているようでした。そのうちに馬の用意も出来たので、人びとはその馬に乗って元の岸へ戻って来ましたが、初めから終りまで向うの人たちにはこちらの姿が見えなかったらしいということでした。
 これは作り話でなく、青州の節度使賀徳倹がとくけん魏博ぎはくの節度使楊厚ようこうなどという偉い人びとが、その商人あきんどの口から直接に聴いたのだと申します。


   楽人  (耳なし芳一、の怪談と趣向がちょっと似ています―加藤)

 建康けんこうに二人の楽人がくじんがありまして、日が暮れてから町へ出ますと、二人のしもべらしい男に逢いました。
陸判官りくはんがんがお招きです」
 招かれるままに付いてゆくと、大きい邸宅へ連れ込まれました。座敷の装飾や料理の献立こんだてなども大そう整っていまして、来客は十人あまり、みな善く酒を飲みました。楽人らは一生懸命に楽を奏していると、もう酒には飽きたから食うことにすると言い出しました。しかも自分たちが飲んだり食ったりするばかりで、楽人らにはなんにもあてがわないのです。
 夜がしらじらと明ける頃に、この宴会は果てましたが、楽人らはもう疲れ切って、門外の床の上にころがって正体なしに眠りました。眼が醒めると、二人は草のなかに寝ているのでした。そばには大きい塚がありました。
 土地の人にくと、これは昔から陸判官の塚と言い伝えられているが、いつの時代の人だかわからないということでした。


『夷堅志』より
https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2237_11900.htmlより引用

   餅を買う女  (日本の「飴買い幽霊」「子育て幽霊」の原話です―加藤)

 宣城せんじょうは兵乱の後、人民は四方へ離散して、郊外の所々に蕭条しょうじょうたる草原が多かった。
 その当時のことである。民家の妻が妊娠中に死亡したので、その亡骸なきがらを村内の古廟のうしろに葬った。その後、廟に近い民家の者が草むらのあいだにの影を見る夜があった。あるときは何処どこかで赤児あかごの啼く声を聞くこともあった。
 まちに近い餅屋へ毎日餅を買いに来る女があって、彼女は赤児をかかえていた。それが毎日かならず来るので、餅屋の者もすこしく疑って、あるときそっとその跡をつけて行くと、女の姿は廟のあたりで消え失せた。いよいよ不審に思って、その次の日に来た時、なにげなく世間話などをしているうちに、すきをみて彼女の裾に紅い糸を縫いつけて置いて、帰る時に再びそのあとを付けてゆくと、女は追って来る者のあるのを覚ったらしく、いつの間にか姿を消して、糸は草むらの塚の上にかかっていた。
 近所で聞きあわせて、塚のぬしの夫へ知らせてやると、夫をはじめ、一家の者が駈け付けて、試みに塚をほり返すと、赤児は棺のなかに生きていた。女の顔色もなお生けるが如くで、妊娠中の胎児が死後に生み出されたものと判った。
 夫の家では妻の亡骸なきがらを灰にして、その赤児を養育した。
【京都市東山区にある「みなとや幽霊子育飴本舗」https://kosodateame.com/ame/ は「日本一歴史ある飴屋」で、 慶長4年=1599年に飴を買いに来た幽霊にちなむ「幽霊子育飴」を販売している。
参考 YouTube https://www.youtube.com/watch?v=srbFWBYzAQE
同様の話は日本各地に伝わっている。
法医学の用語「棺内分娩」(かんないぶんべん)のような現象は、土葬の時代にはまれにあった。】
   厲鬼れいきの訴訟  (宋の時代は、「包公」はじめ、庶民や霊魂の訴えをきく名裁判官の話が多いです―加藤)

 秦棣しんていが宣州の知事となっている時である。某村の民家で酒を密造しているのを知って、巡検をつかわして召捕らせた。
 巡検は数十人の兵を率いて、夜半にその家を取り囲むと、それは村内に知られた富豪であるので、夜なかに多勢たぜいが押し寄せて来たのを見て、賊徒の夜襲と早合点して、太鼓を鳴らして村内の者どもを呼びあつめた。その家にも大勢おおぜいの奉公人があるので、かれこれ一緒に協力して、巡検その他をことごとく捕縛してしまった。おれは役人であるといっても、激昂しているかれらは承知しないのである。
 それが県署にもきこえたので、県のじょうが早馬で駈け付けると右の始末である。何分にも夜中といい相手は多勢であるので、尉はまずいい加減にかれらをなだめた。
「よし、よし。お前の家で強盗どもを捕えたのは結構なことだ。ともかくもわたしの方へ引き渡してくれないか。おまえ達にも褒美をやるよ」
 だまされるとは知らないで、かれらは縄付きの巡検らをひき渡した。その家の主人とせがれと孫との三人も、その事情を訴えるために付いて行った。さて行き着くと相手の態度は俄かに変って、知事の秦棣しんていは巡検らの縄を解いて、あべこべにかの親子ら三人を引っくくった。
「役人を縛って、強盗呼ばわりをするとは不届きな奴らだ」
 かれらはからだ全体を麻縄で厳重にくくり上げられて、いずれも一百ずつ打たれた。縄を解くと、三人はみな息が絶えていた。それはあまりに苛酷の仕置きであるという批難もあったが、秦棣の兄は宰相さいしょうであるので、誰も表向きに咎める者はなかった。但し秦棣はその明くる年に突然病死した。
 そのあとへ楊厚ようこうという人が赴任した。ある日、楊が役所に出ていると、数人の者が手枷てかせや首枷をかけた一人の囚人めしゅうどをつれて来て、なにがし村の一件の御吟味をおねがい申すといって消え失せた。
 白昼にこの不思議を見せられて、楊もおどろいた。ことに新任早々で、在来のことをなんにも知らないので、下役人を呼んで取調べると、それはかの村民らを杖殺した一件であることが判った。首枷の囚人は秦棣であるらしい。
 楊は書き役の者に命じて、かの一件の記録を訂正させ、さらに紙銭しせん十万をいて、かれらの冥福を祈った。

   乞食の茶

 都の石氏せきしという家では茶肆ちゃみせを開いて、幼い娘に店番をさせていた。
 ある時、その店へ気ちがいのような乞食が来た。あかだらけの顔をして、身には襤褸ぼろをまとっているのである。彼は茶を飲ませてくれと言うと、娘はこころよく茶をすすめた。しかもその貧しいのを憫れんでぜにを取らなかった。その以来、かの乞食は毎日ここへ茶を飲みに来ると、娘は特に佳い茶をこしらえてやった。
 それがひと月もつづいたので、父もそれを知って娘を叱った。
「あんな奴が毎日来ると、ほかの客の邪魔になる。今度来たら追い出してしまえ」
 それでも娘はやはり今までの通りにしているので、父はいよいよ怒って彼女をつこともあった。そのうちに、かの乞食が来て、いつものように茶を飲みながら娘に言った。
「お前はわたしの飲みかけの茶を飲むか」
 これには娘もすこし困って、その茶碗の茶を土にこぼすと、たちまち一種不思議のよい匂いがしたので、彼女は怪しんでその残りを飲みほした。
「わたしは呂翁りょおうという者だ」と、乞食は言った。「おまえは縁がなくて、わたしの茶をみんな飲まなかったが、少し飲んでも福はある。富貴か、長寿か、おまえの望むところを言ってみろ」
 娘は小商人こあきんどの子に生まれ、しかもまだ小娘であるので、富貴などということはよく知らなかった。そこで、彼女は長寿を望むと答えると、乞食はうなずいて立ち去った。親たちもそれを聞いて今更のように驚いたが、乞食はもう再び姿をみせなかった。
 娘は生長して管営指揮使の妻となり、のちに燕王えんおうの孫娘の乳母となって、百二十歳の寿を保った。

   術くらべ  (日本の果心居士の幻術と似ています―加藤)

 てい州の開元寺かいげんじには寓居の客が多かった。ある夏の日に、その客の五、六人が寺の門前に出ていると、ひとりの女が水を汲みに来た。
 客の一人は幻術をよくするので、たわむれに彼女を悩まそうとして、なにかの術をおこなうと、女の提げている水桶が動かなくなった。
「みなさん、御冗談をなすってはいけません」と、女は見かえった。
 客は黙っていて術を解かなかった。暫くして女は言った。
「それでは術くらべだ」
 彼女はにないの棒を投げ出すと、それがたちまちに小さい蛇となった。客はふところからこなの固まりのような物を取り出して、地面に二十あまりの輪を描いて、自分はそのまん中に立った。蛇は進んで来たが、その輪にささえられて入ることが出来ない。それを見て、女は水をふくんで吹きかけると、蛇は以前よりも大きくなった。
「旦那、もう冗談はおやめなさい」と、彼女はまた言った。
 客は自若じじゃくとして答えなかった。蛇はたちまち突入して、第十五の輪まで進んで来た。女は再び水をふくんで吹きかけると、蛇はたるきのような大蛇となって、まん中の輪にはいった。ここで女は再びやめろと言ったが、客はかなかった。蛇はとうとう客の足から身体にまき付いて、頭の上にまで登って行った。
 往来の人も大勢立ちどまって見物する。寺の者もおどろいた。ある者は役所へ訴え出ようとすると女は笑った。
「心配することはありません」
 その蛇を掴んで地に投げつけると、忽ち元の棒となった。彼女はまた笑った。
「おまえの術はまだ未熟だのに、なぜそんな事をするのだ。わたしだからいいが、他人に逢えばきっと殺される」
 客は後悔してあやまった。彼は女の家へ付いて行って、その弟子になったという。


★『異聞総録』より
view-source:https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2238_11901.htmlより引用
   亡妻

 宋の大観たいかん年中、都の医官の耿愚こうぐがひとりの妾を買った。女は容貌きりょうも好く、人間もなかなか利口であるので、主人の耿にも眼をかけられて、無事に一年余を送った。
 ある日のこと、その女が門前に立っていると、一人の小児が通りかかって、阿母おっかさんと声をかけて取りすがると、女もその頭を撫でて可愛がってやった。小児は家へ帰って、その父に訴えた。
「阿母さんはこういう所にいるよ」
 しかしその母というのは一年前余に死んでいるので、父はわが子の報告をうたがった。しかしその話を聞くと、まんざら嘘でもないらしいので、ともかくも念のためにその埋葬地を調べると、盗賊のためにあばかれたと見えて、その死骸が紛失しているのを発見した。そこで、その児を案内者にして、耿の家の近所へ行って聞きあわせると、その女は亡き妻と同名であることがわかった。
 もう疑うところはないと、父は行商に姿をかえ、その近所の往来を徘徊して、女の出入りを窺っているうちに、ある時あたかも彼女に出逢った。それはまさしく自分の妻であった。女も自分の夫を見識っていた。不思議の対面に、その場はたがいに泣いて別れたが、それが早くも主人の耳に入って、耿は女を詮議すると、彼女は明らかに答えた。
「あの人はわたくしの夫で、あの児はわたくしの子て[#「て」はママ]ございます」
「嘘をつけ」と、耿は怒った。「去年おまえを買ったときには、ちゃんと桂庵けいあんの手を経ているのだ。おまえに夫のないということは、証文面にも書いてあるではないか」
 女は密夫を作って、それを先夫といつわるのであろうと、耿は一途いちずに信じているので、彼女をその夫に引き渡すことを堅くこばんだ。こうなると、訴訟沙汰になるのほかはない。役人はまず女を取調べると、彼女はこう言うのである。
「わたくしも確かなことは覚えません。ただ、ぼんやりと歩きつづけて、一つの橋のあるところまで行きましたが、路に迷って方角が判らなくなってしまいました。そこへ桂庵のお婆さんが来て、わたくしを連れて行ってくれましたが、ただ遊んでいては食べることが出来ませんから、お婆さんと相談してここのうちへ売られて来ることになったのでございます」
 さらに桂庵婆をよび出して取調べると、その申し立てもほぼ同じようなもので、広備橋こうびきょうのほとりに迷っている女をみて、自分の家へ連れて来たのであると言った。なにしろ死んだ女が生き返ってこういうことになったのであるから、役人もその裁判に困って、先夫から現在の主人に相当のあたいを支払った上で、自分の妻を引き取るがよかろうと言い聞かせたが、耿の方が承知しない。いったん買い取った以上は、その女を他人に譲ることは出来ないというので、さらに御史台ぎょしだいに訴え出たが、ここでも容易に判決をくだしかねて、かれこれ暇取ひまどっているうちに、問題の女は又もや姿を消してしまった。
 相手が失せたので、この訴訟も自然に沙汰やみとなったが、女のゆくえは遂に判らなかった。それから一年を過ぎずして、主人の耿も死んだ。
(同上)

   窓から手

 少保しょうほ馬亮公ばりょうこうがまだ若いときに、燈下で書を読んでいると、突然に扇のような大きい手が窓からぬっと出た。公は自若じじゃくとして書を読みつづけていると、その手はいつか去った。
 その次の夜にも、又もや同じような手が出たので、公は雌黄しおうの水を筆にひたして、その手に大きく自分の書き判を書くと、外では手を引っ込めることが出来なくなったらしく、俄かに大きい声で呼んだ。
「早く洗ってくれ、洗ってくれ、さもないと、おまえの為にならないぞ」
 公はかまわずに寝床にのぼると、外ではれて怒って、しきりに洗ってくれ、洗ってくれと叫んでいたが、公はやはりそのままに打ち捨てて置くと、暁け方になるにしたがって、外の声は次第に弱って来た。
「あなたは今に偉くなる人ですから、ちょっとためしてみただけの事です。わたしをこんな目に逢わせるのは、あんまりひどい。 しん温嶠おんきょう牛渚ぎゅうしょをうかがって禍いを招いたためしもあります。もういい加減にしてゆるしてください」
 化け物のいうにも一応の理屈はあるとさとって、公は水をもって洗ってやると、その手はだんだんに縮んで消え失せた。
 公は果たして後に少保の高官に立身したのであった。
(同上)


★『鉄囲山叢談』より
https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2238_11901.htmlより引用
   両面銭

 南方では神鬼をたっとぶ習慣がある。狄青てきせい儂智高のうちこうを征伐する時、大兵が桂林の南に出ると、路ばたに大きい廟があって、すこぶる霊異ありと伝えられていた。
 将軍の狄青は軍をとどめて、この廟に祈った。
いくさの勝負はあらかじめ判りません。就いてはここに百文のぜにをとって神に誓います。もしこの軍が大勝利であるならば、銭のおもてがみな出るように願います」
 左右の者がさえぎっていさめた。
「もし思い通りに銭の面が出ない時には、士気をはばめるおそれがあります」
 狄青はかないで神前に進んだ。万人が眼をあつめて眺めていると、やがて狄青は手に百銭をつかんで投げた。どの銭もみな紅い面が出たのを見るや、全軍はどっと歓び叫んで、その声はあたりの林野を震わした。狄青もまた大いに喜んだ。
 彼は左右の者に命じて、百本の釘を取り来たらせ、一々その銭を地面に打付けさせた。そうして、青いしゃの籠をもってそれをおおい、かれ自身で封印した。
凱旋がいせんの節、神にお礼を申してこの銭を取ることにする」
 それから兵を進めてまず崑崙関こんろんかんを破り、さらに智高ちこうを破り、※(「巛/邑」、第3水準1-92-59)ゆうかんを平らげ、凱旋の時にかの廟に参拝して、さきに投げた銭を取って見せると、その銭はみな両おもてであった。
(鉄囲山叢談)


★『諧史』より
https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2238_11901.htmlより引用
   我来也

 京城の繁華の地区には窃盗が極めて多く、その出没すこぶる巧妙で、なかなか根絶することは出来ないのである。
 趙尚書ちょうしょうしょ臨安りんあんいんであった時、奇怪の賊があらわれた。彼は人家に入って賊を働き、必ず白粉をもってその門や壁に「我来也がらいや」の三字を題して去るのであった。その逮捕甚だ厳重であったが、久しいあいだ捕獲することが出来ない。
 我来也の名は都鄙とひ喧伝けんでんして、賊を捉えるとはいわず、我来也を捉えるというようになった。
 ある日、逮捕の役人が一人の賊をいて来て、これがすなわち我来也であると申し立てた。すぐに獄屋へ送って鞠問きくもんしたが、彼は我来也でないと言い張るのである。なにぶんにも証拠とすべき贓品ぞうひんがないので、容易に判決をくだすことが出来なかった。そのあいだに、彼は獄卒にささやいた。
「わたしは盗賊には相違ないが、決して我来也ではありません。しかしうなったら逃がれる道はないと覚悟していますから、まあいたわっておくんなさい。そこで、わたしは白金そくばくを宝叔塔ほうしゅくとうの何階目に隠してありますから、お前さん、取ってお出でなさい」
 しかし塔の上には昇り降りの人が多い。そこに金を隠してあるなどは疑わしい。こいつ、おれをかつぐのではないかと思っていると、彼はまた言った。
「疑わずに行ってごらんなさい。こちらに何かの仏事があるとかいって、お燈籠に灯を入れて、ひと晩廻り廻っているうちに、うまく取り出して来ればいいのです」
 獄卒はその通りにやってみると、果たして金を見いだしたので、大喜びで帰って来て、あくる朝はひそかに酒と肉とを獄内へ差し入れてやった。それから数日の後、彼はまた言った。
「わたしはいろいろの道具をかめに入れて、侍郎橋じろうきょうの水のなかに隠してあります」
「だが、あすこは人足ひとあしの絶えないところだ。どうも取り出すに困る」と、獄卒は言った。
「それはこうするのです。お前さんのうちの人が竹籃たけかごに着物をたくさん詰め込んで行って、橋の下で洗濯をするのです。そうして往来のすきをみて、その瓶を籃に入れて、上から洗濯物をかぶせて帰るのです」
 獄卒は又その通りにすると、果たして種々の高価の品を見つけ出した。彼はいよいよ喜んで獄内へ酒を贈った。すると、ある夜の二更にこう(午後九時―十一時)に達する頃、賊は又もや獄卒にささやいた。
「わたしは表へちょっと出たいのですが……。四更(午前一時―三時)までには必ず帰ります」
「いけない」と、獄卒もさすがに拒絶した。
「いえ、決してお前さんに迷惑はかけません。万一わたしが帰って来なければ、お前さんは囚人めしゅうどを取り逃がしたというので流罪るざいになるかも知れませんが、これまで私のあげた物で不自由なしに暮らして行かれる筈です。もし私の頼みをいてくれなければ、その以上に後悔することが出来るかも知れませんよ」
 このあいだからの一件を、こいつの口からべらべらしゃべられては大変である。獄卒も今さら途方にくれて、よんどころなく彼を出してやったが、どうなることかと案じていると、やがてのきの瓦を踏む音がして、彼は家根やねから飛び下りて来たので、獄卒は先ずほっとして、ふたたび彼に手枷足枷をかけて獄屋のなかに押し込んで置いた。
 夜が明けると、昨夜三更、張府に盗賊が忍び入って財物をぬすみ、府門に「我来也」と書いて行ったという報告があった。
「あぶなくこの裁判を誤まるところであった。彼が白状しないのも無理はない。我来也はほかにあるのだ」と、役人は言った。
 我来也の疑いを受けた賊は、叩きの刑を受けて境外へ追放された。獄卒は我が家へ帰ると、妻が言った。
「ゆうべ夜なかに門を叩く者があるので、あなたが帰ったのかと思って門をあけると、一人の男が、二つの布嚢ぬのぶくろをほうり込んで行きました」
 そのふくろをあけて見ると、みな金銀のうつわで、賊は張府で盗んだ品を獄卒に贈ったものと知られた。趙尚書は明察の人物であったが、遂に我来也の奸計をさとらなかったのである。
 獄卒はやがて役をめて、ふところ手で一生を安楽に暮らした。その歿後、せがれは家産を守ることが出来ないで全部蕩尽とうじん、そのときに初めてこの秘密を他人に洩らした。
(諧史)





 第四回 明の怪談 

14世紀に成立した明では、大衆文化が花開き、古典小説『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』などが続々と刊行されました。 明の怪談集『輟耕録』や『剪灯新話』を読むと、明の時代は幽霊も大衆化が進み、サスペンスやミステリーの要素が洗練されていることがわかります。 21世紀の日本人が読んでも面白い明の怪談を紹介しつつ、近世中国の歴史と社会についてもわかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mSYfEP2ohFaxJ1dwQGiZKP

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明

○怪談選読 ★『輟耕録』より
https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2240_11903.htmlより引用
「飛雲渡」「陰徳延寿」の話は落語のネタとなり、その他の話も江戸時代の小説類に飜案されているのがある。

   飛雲渡

 飛雲渡ひうんどは浪や風がおだやかでなくて、ややもすれば渡船の顛覆てんぷくするところである。ここに一人の青年があって、いわゆる放縦不覊ほうじゅうふきの生活を送っていたが、ある時その生年月日をもって易者に占ってもらうと、あなたの寿命は三十を越えないと教えられた。
 彼もさすがにそれを気に病んで、その後幾人の易者に見てもらったが、その占いはほとんど皆一様であったので、彼もしょせん短い命とあきらめて、妻をめとらず、商売をも努めず、家財をなげうって専ら義侠的の仕事に没頭していると、ある日のことである。彼がかの飛雲渡の渡し場付近を通りかかると、ひとりの若い女が泣きながらそこらをさまよっていて、やがて水に飛び込もうとしたのを見たので、彼はすぐに抱きとめた。
「お前さんはなぜ命を粗末にするのだ」
「わたくしは或る家に女中奉公をしている者でございます」と、女は答えた。「主人のうちに婚礼がありまして、親類からたま耳環みみわを借りました。この耳環は銀三十錠の値いのある品だそうでございます。今日それを返して来るように言い付けられまして、わたくしがその使いにまいる途中で、どこへか落してしまいましたので……。今さら主人の家へも帰られず、いっそ死のうと覚悟をきめました」
 青年はここへ来る途中で、それと同じような品を拾ったのであった。そこでだんだんに訊いてみると確かにそれに相違ないと判ったが、先刻から余ほどの時間が過ぎているので、その帰りの遅いのを怪しまれては悪いと思って、彼はその女を主人の家へ連れて行って、委細のわけを話して引き渡した。主人は謝礼をするといったが、彼は断わって帰った。
 それから一年ほどの後、彼は二十八人の道連れと一緒に再びこの渡し場へ来かかると、途中で一人の女に出逢った。女はかの耳環を落した奉公人で、その失策から主人の機嫌を損じて、とうとう暇を出されて、ある髪結床へ嫁にやられた。その店は渡し場のすぐ近所にあるので、女は先年のお礼を申し上げたいから、ともかくも自分の家へちょっと立ち寄ってくれと、無理にすすめて彼を連れて行った。夫もかねてその話を聞いているので、女房の命の親であると尊敬して、是非とも午飯ひるめしを食って行ってくれと頼むので、彼はよんどころなくそこに居残ることになって、他の一行は舟に乗り込んだ。
 残された彼は幸いであった。他の二十七人を乗せた舟がこの渡し場を出ると間もなく、俄かに波風があらくなったので、舟はたちまち顛覆して、一人も余さずに魚腹に葬られてしまった。
 青年は不思議に命をまっとうしたばかりでなく、三十を越えても死なないで、無事に天寿を保った。この渡しは今でもうん州の瑞安ずいあんにある。

※加藤徹の補足:宋代から流行し、明末清初に最も流行した「功過格(こうかかく)」の発想の影響が見られる。中国のことわざに「救人一命、勝造七級浮屠」(人の一命を救うことの功徳は、七重の仏塔を作る功徳にまさる)とある。
この話は、根岸鎮衛(ねぎし しずもり)『耳嚢(みみぶくろ)』 巻之六 「陰徳危難を遁れし事」や、落語『佃祭』の元ネタとなった。

   女の知恵

 姚忠粛ちょうちゅうしゅくげん至元しげん二十年に遼東りょうとう按察使あんさつしとなった。
 その当時、武平ぶへい県の農民劉義りゅうぎという者が官に訴え出た。自分のあによめが奸夫と共謀して、兄の劉せいを殺したというのである。県のいんを勤める丁欽ていきんがそれを吟味すると、前後の事情から判断して、劉の訴えは本当であるらしい。しかも死人のからだにはなんのきずのあとも残っていないのである。さりとて、毒殺したような形跡も見られないので、丁もその処分に困って頻りに苦労しているのを、妻の韓氏かんしが見かねて訊いた。
「あなたは一体どんな事件で、そんなに心配しておいでなさるのです」
 丁がその一件を詳しく説明すると、韓氏は考えながら言った。
「もしその嫂が夫を殺したものとすれば、念のために死骸の脳天をあらためて御覧なさい。釘が打ち込んであるかも知れません」
 成程と気がついて、丁はその死骸をふたたび検視すると、果たして髪の毛のあいだに太い釘を打ち込んで、その跡を塗り消してあるのを発見した。それで犯人は一も二もなく恐れ入って、裁判はすぐに落着らくぢゃくしたので、丁はそれを上官の姚忠粛に報告すると、姚もまたすこし考えていた。
「お前の妻はなかなか偉いな。初婚でお前のところへ縁付いて来たのか」
「いえ、再婚でございます」と、丁は答えた。
「それでは先夫の墓をあばいて調べさせるから、そう思え」
 姚は役人に命じて、韓氏が先夫の棺を開いてあらためさせると、その死骸の頭にも釘が打ち込んであった。かれもかつて夫を殺した経験をもっていたのである。丁は恐懼きょうくのあまりに病いをて死んだ。
 時の人は姚の明察に服して、包孝粛ほうこうしゅくの再来と称した。
(包孝粛は宋時代の明判官めいはんがんで、わが国の大岡越前守ともいうべき人である)。
※加藤徹の補足:この殺人トリックは、京劇などの中国の芝居の演目『双釘記』(判双釘)の元ネタとなっている。

   陰徳延寿

 むかししん州の大商人おおあきんどが商売物を船に積んで、杭州へ行った。時に鬼眼きがんという術士があって、その店を州の役所の前に開いていたが、その占いがみな適中するというので、その店の前には大勢の人があつまっていた。商人もその店先に坐を占めると、鬼眼はすぐに言った。
「あなたは大金持だが、惜しいことにはこの中秋の前後三日のうちに寿命が終る」
 それを聞いて、商人はひどくおそれた。その以来、なるべく船路を警戒して進んでゆくと、八月のはじめに船は揚子江にかかった。見ると、ひとりの女が岸に立って泣いているのである。呼びとめて子細をくと、女は涙ながらに答えた。
「わたくしの夫は小商こあきないをしている者で、ぜに五十びんを元手にして鴨や鵞鳥を買い込み、それを舟に積んで売りあるいて、帰って来るとその元手だけをわたくしに渡して、残りの儲けで米を買ったり酒を買ったりすることになって居ります。きょうもその銭を渡されましたのを、わたくしが粗相で落してしまいまして、どうすることも出来ません。夫は気の短い人間ですから、腹立ちまぎれにち殺されるかも知れません。それを思うと、いっそ身を投げて死んだ方がしでございます」
「人間はいろいろだ」と、商人は嘆息した。「わたしも実は寿命が尽きかかっているので、もし金で助かるものならば、金銀を山に積んでもいとわないと思っているのに、ここには又わずかの金にかえて寿命を縮めようとしている人もある。決して心配しなさるな。そのくらいの銭はわたしがどうにもして上げる」
 彼は百緡の銭をあたえると、女は幾たびか拝謝して立ち去った。商人はそれから家へ帰って、両親や親戚友人にも鬼眼が予言のことを打ち明け、万事を処理しておもむろに死期を待っていたが、その期日を過ぎても、彼の身になんの異状もなかった。
 その翌年、ふたたび杭州へ行って、去年の岸に船を泊めると、かの女が赤児を抱いて礼を言いに来た。彼女はそれから五日の後に赤児を生み落して、母も子もつつがなく暮らしているというのであった。それからまた、かの鬼眼のところへゆくと、彼は商人の顔をみて不思議そうに言った。
「あなたはまだ生きているのか」
 彼は更にその顔をながめて笑い出した。
「これは陰徳の致すところで、あなたは人間ふたりの命を助けたことがあるでしょう」
※加藤徹の補足:前掲の「救人一命、勝造七級浮屠」参照。

   金の箆

 木八刺ぼくはつらは西域の人で、あざな西瑛せいえい、その躯幹からだが大きいので、長西瑛と綽名あだなされていた。
 彼はある日、その妻と共に食事をしていると、あたかも来客があると報じて来たので、小さい金のへらを肉へ突き刺したままで客間へ出て行った。妻も続いてそこをった。
 客が帰ったあとで、さて引っ返してみると、かの金の箆が見えないのである。ほかに誰もいなかったのであるから、その疑いは給仕の若い下女にかかった。下女はあくまでも知らないと言い張るので、彼は腹立ちまぎれに折檻して、遂に彼女を責め殺してしまった。
 それから一年あまりの後、職人を呼んで家根やねのつくろいをさせると、瓦のあいだから何か堅い物が地に落ちた。よく見ると、それはさきに紛失したかの箆であった。つづいてひからびた骨があらわれた。それに因って察すると、猫が人のいない隙をみて、箆と共にその肉をくわえて行ったものらしい。下女も不幸にしてそれを知らなかったのである。世にはこういう案外の出来事もしばしばあるから、誰もみな注意しなければならない。


★『剪燈新話』より
https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2241_11904.htmlより引用

   申陽洞記  (滝沢馬琴の『八犬伝』で、犬飼現八が庚申山で山猫の妖怪を射るくだりの元ネタ)

 隴西ろうせい李徳逢りとくほうという男は当年二十五歳の青年で、馬にり、弓をひくことが上手で、大胆な勇者として知られていましたが、こういう人物の癖として家業にはちっとも頓着せず、常に弓矢を取って乗りまわっているので、土地の者には爪弾つまはじきされていました。
 そういうわけで、身代しんだいもだんだんに衰えて来ましたので、げん天暦てんれき年間、李は自分の郷里を立ち退いて、桂州へ行きました。そこには自分の父の旧い友達が監郡の役を勤めているので、李はそれを頼って行ったのですが、さて行き着いてみると、その人はもう死んでしまったというので、李も途方に暮れました。さりとて再び郷里へも帰られず、そこらをさまよい歩いた末に、この国には名ある山々が多いのを幸いに、その山々のあいだを往来して、自分が得意の弓矢をもって鳥やけものを射るのを商売にしていました。
「自分の好きなことをして世を送っていれば、それで結構だ」
 こう思って、彼は平気で毎日かけ廻っていました。すると、ここにせんという大家たいけがありまして、その主人は銭翁と呼ばれ、この郡内では有名な資産家として知られていました。銭の家には今年十七のひとり娘がありまして、父の寵愛はひと通りでなく、子供のときから屋敷の奥ふかく住まわせて、親戚や近所の者にも滅多めったにその姿を窺わせたことがないくらいでした。その最愛の娘が雨風の暗い夜に突然ゆくえ不明になったので、さあ大変な騒ぎになりました。
 よく調べてみると、門も扉も窓も元のままになっていて、外から何者かが忍び込んだらしい形跡もなく、娘だけがどこへか消えてしまったのですから、実に不思議です。勿論、早速にその筋へ訴え出るやら、神にいのるやら、四方八方をたずね廻らせるやら、手に手を尽くして詮議したのですが、遂にそのゆくえが判らないので、父の銭翁は昼夜悲嘆にくれた末に、こういうことを触れ出しました。
「もし娘のありかを尋ね出してくれた者には、わたしの身代の半分をいてやる。又その上に娘の婿にする」
 それを聞いて、誰も彼も色と慾とのふた筋から、一生懸命に心あたりを探し廻ったのですが、娘のゆくえは容易にわからず、むなしく三年の月日を送ってしまいました。 すると、ある日のことです。かの李徳逢が例のごとくに弓矢をたずさえて山狩りに出ると、一匹のくじかを見つけたので、すぐに追って行きました。
 麞はよく走るので、なかなか追い付きません。鹿を追う猟師は山を見ずのたとえの通りに、李は夢中になって追って行くうちに、岡を越え、峰を越えて、深い谷間へ入り込みましたが、遂に獲物えもののすがたを見失いました。がっかりして見まわすと、いつの間にか日が暮れています。おどろいて引っ返そうとすると、もと来た道がもう判りません。そこらを無暗に迷いあるいているうちに、夜はだんだんに暗くなって、やがて初更しょこう(午後七時―九時)に近い頃になったらしいのです。むこうの山の頂きに何かの建物があるのを見つけて、ともかくもそこまで辿たどり着くと、そこらは人跡じんせきの絶えたところで、いつの代に建てたか判らないような、くずれかかった一宇いちうの古い廟がありました。
「なんだか物凄い所だ」
 大胆の青年もさすがに一種の恐れを感じましたが、今更どうすることも出来ないので、しばらく軒下に休息して夜のあけるのを待つことにしていると、たちまちに道を払う警蹕けいひつの声が遠くきこえました。
「こんな山奥へ今ごろいかめしい行列を作って何者が来るのか。鬼神か、盗賊か」
 忍んで様子を窺うにしかずと思って、かれは廟の欄間らんまじのぼり、はりのあいだに身をひそめていると、やがてその一行は門内へ進んで来ました。二つの紅い燈籠をさきに立てて、その頭分かしらぶんとみえる者はあかかんむりをいただき、うす黄色のほうを着て、神坐の前にあるつくえに拠って着坐すると、その従者とおぼしきもの十余人はおのおの武器を執って、階段きざはしの下に居列びました。その行粧ぎょうそうはすこぶる厳粛でありますが、よく見ると、かれらの顔かたちはみな蒼黒く、猿のたぐいのかくというものでありました。
 さては妖怪変化へんげかと、李は腰に挟んでいるを取って、まずその頭分とみえる者に射あてると、彼はそのひじを傷つけられて、おどろき叫んで逃げ出しました。他の眷族けんぞくどもも狼狽して、皆ばらばらと逃げ去ってしまったので、あとは元のようにひっそりと鎮まりました。夜が明けてから神坐のあたりを調べると、なま血のあとが点々として正門の外までしたたっているので、李はその跡をたずねて、山を南に五里ほども分け入ると、そこに一つの大きい穴があって、血のあとはその穴の入口まで続いていました。
「化け物の巣窟はここだな。どうしてくりょう」
 李は穴のあたりを見まわって、かれらを退治する工夫を講じているうちに、やわらかい草に足をすべらせて、あっという間に穴の底へころげ落ちました。穴の深さは何十丈だか判りません。仰いでも空は見えないくらいです。所詮しょせんふたたびこの世へは出られないものと覚悟しながら、李は暗いなかを探りつつ進んでゆくと、やがて明るいところへ出ました。そこには石室いしむろがあって、申陽之洞しんようのどうというふだが立っています。その門を守るもの数人、いずれも昨夜の妖怪どもで、李のすがたを見てみな驚いたようにきました。
「あなたは一体何者で、どうしてここへ来たのです」
 李は腰をかがめて丁寧に敬礼しました。
「わたくしは城中に住んで、医者を業としている者でございますが、今日この山へ薬草を採りにまいりまして、思わず足をすべらせてこの穴へ転げ落ちたのでございます」
 それを聞いて、かれらは俄かに喜びの色をみせました。
「おまえは医者というからは、人の療治が出来るのだろうな」
「勿論、それがわたくしの商売でございます」
「いや、有難い」と、かれらはいよいよ喜びました。「実はおれたちの主君の申陽侯が昨夜遊びに出て、ながれ矢のために負傷なされた。そこへ丁度、お前のような医者が迷って来るというのは、天の助けだ」
 かれらは奥へかけ込んで報告すると、李はやがて奥へ案内されました。奥の寝室はとばりよぎも華麗をきわめたもので、一匹の年ふる大猿が石のとうの上に横たわりながらうなっていると、そのそばには国色こくしょくともいうべき美女三人が控えています。李はその猿の脈を取り、傷をあらためて、まことしやかにこう言いました。
「御心配なさるな。すぐに療治をしてあげます。わたくしは一種の仙薬をたくわえて居りますから、それをお飲みになれば、こんな傷はたちまちに癒るばかりでなく、幾千万年でも長生きが出来るのです」
 腰に着けているふくろから一薬をとり出して勿体もったいらしく与えると、他の妖怪どもも皆その前にひざまずいて頼みました。
「あなたは実に神のようなお人です。その長生きの仙薬というのをどうぞ我々にもお恵みください」
「よろしい。おまえらにも分けてあげよう」
 李は嚢にあらん限りの薬をかれらにも施すと、いずれも奪い合って飲みましたが、それは怖ろしい毒薬で、怪鳥や猛獣をたおすために矢鏃やじりに塗るものでありました。その毒薬を飲んだのですから堪まりません。かの大猿をはじめとして、他の妖怪どもも片端から枕をならべてばたばたと倒れてしまいました。仕済ましたりとあざわらいながら、李は壁にかけてある宝剣をとって、大猿小猿あわせて三十六匹の首をことごとく斬り落しました。
 残る三人の美女も妖怪のたぐいであろうと疑って、李はそれをも殺そうとすると、みな泣いて訴えました。
「わたくしどもは決して怪しい者ではございません。不幸にして妖怪に奪い去られ、悲しい怖ろしい地獄の底に沈んでいたのでございます。その妖怪を残らず亡ぼして下さいましたのですから、わたくしどもに取りましてあなたは命の親の大恩人でございます」
 そこで、だんだん聞いてみると、その一人はかの銭翁の娘で、他のふたりもやはり近所の良家の娘たちと判りました。李はこうして妖怪を退治して、不幸の娘たちを救ったのですが、何分にも深い穴の底に落ちているのですから、三人を連れて出るすべがありません。これには李も思案にくれているところへ、いずこよりとも知らず、幾人の老人があらわれて来ました。いずれもびんの毛を長く垂れて、尖った口を持った人びとで、ひとりの白衣の老人を先に立てて、李の前にうやうやしく礼拝しました。
「われわれは虚星きょせいの精で、久しくここに住んで居りましたが、近ごろかの妖怪らのために多年の住み家を占領されてしまいました。しかも我々はそれに敵対するほどの力がないので、しばらくここを立ち退いて時節の来るのを待っていたのでございますが、今日あなたのお力によって、かれらがことごとく亡びましたので、こんな悦ばしいことはございません」
 老人らはその謝礼として、めいめいの袖の下から、金やたまのたぐいを取出してささげました。
「おまえらもすでに神通力じんつうりきそなえているらしいのに、なぜかの妖怪どもに今まで屈伏していたのだ」と、李は訊きました。
「わたくしはまだ五百年にしかなりません」と、白衣の老人は答えました。「かの大猿はすでに八百年のこうを経て居ります。それで、残念ながら彼に敵することが出来なかったのでございます。しかし我々は人間に対して決して禍いをなすものではございません。かの兇悪な猿どもがたちまち滅亡したのは、あなたのお力とは申しながら、畢竟ひっきょうは天罰でございます」
「ここを申陽洞と名づけたのは、どういうわけだ」と、李はまた訊きました。
「猿はしんに属します。それで、かれらが勝手にそんな名を付けたので、もとからの地名ではございません」
「おまえらがここへ帰り住むようになったらば、おれに出口を教えてくれ、礼物れいもつなどは貰うに及ばない。ただこの娘たちを救って出られればいいのだ」
「それはたやすいことでございます。半時のあいだ眼を閉じておいでなされば、自然にお望みが遂げられます」
 李はその通りにしていると、耳のはたには激しい雨風の声がしばらく聞えるようでしたが、やがてその声がやんだので眼を開くと、一匹の大きい白鼠がさきに立って、いのこのような五、六匹の鼠がそのあとに従っていました。そこには一つの穴が掘られていて、それから明るい路へ出られるようになっているので、李は三人の娘と共に再びこの世の風に吹かれることになりました。
 それからすぐに銭翁の家をたずねて、かのむすめを引き渡すと、翁はおどろき喜んで、かねて触れ出した通りに李を婿にしました。他の二人の娘の家でも、おなじくその娘を贈ることにしたので、李は一度に三人の美女をめとった上に、あっぱれの大福長者だいふくちょうじゃになりました。その後ふたたびかの場所へ行ってみると、そこらには草木が一面におい茂っているばかりで、むかしの跡をたずねる便宜よすがもありませんでした。

   牡丹燈記  (浅井了意の『お伽ぼうこ』や、円朝の『牡丹燈籠』に影響を与えた中編の怪談)

 げんの末には天下大いに乱れて、一時は群雄割拠の時代を現じましたが、そのうちで方谷孫ほうこくそんというのは浙東せっとうの地方を占領していました。そうして、毎年正月十五日から五日のあいだは、明州府の城内に元宵げんしょうの燈籠をかけつらねて、諸人に見物を許すことにしていたので、その宵々よいよいの賑わいはひと通りでありませんでした。
 元の至正しせい二十年の正月のことでございます。鎮明嶺ちんめいれいもとに住んでいる喬生きょうせいという男は、年がまだ若いのに先頃その妻をうしなって、男やもめの心さびしく、この元宵の夜にも燈籠見物に出る気もなく、わが家のかどにたたずんで、むなしく往来の人びとを見送っているばかりでした。十五日の夜も三更さんこう(午後十一時―午前一時)を過ぎて、往来の人影も次第に稀になった頃、髪を両輪りょうわに結んだ召仕い風の小女が双頭の牡丹燈をかかげて先に立ち、ひとりの女を案内して来ました。女は年のころ十七、八で、あおい袖、あかもすそきものを着て、いかにもしなやかな姿で西をさしてしずかに行き過ぎました。
 喬生は月のひかりで窺うと、女はまことに国色こくしょくともいうべき美人であるので、我にもあらず浮かれ出して、そのあとを追ってゆくと、女もやがてそれをさとったらしく、振り返ってほほえみました。
「別にお約束をしたわけでもないのに、ここでお目にかかるとは……。何かのご縁でございましょうね」
 それをしおに、喬生は走り寄って丁寧に敬礼しました。
「わたくしの住居はすぐそこです。ちょっとお立ち寄り下さいますまいか」
 女は別にこばむ色もなく、かの小女をよび返して、喬生のうちへ戻って来ました。初対面ながら甚だ打ち解けて、女は自分の身の上を明かしました。
「わたくしの姓はあざな麗卿れいけい、名は淑芳しゅくほうと申しました。かつて奉化ほうか州のはんを勤めて居りました者の娘でございますが、父は先年この世を去りまして、家も次第に衰え、ほかに兄弟もなく、親戚みよりもすくないので、この金蓮きんれんとただふたりで月湖げつこの西に仮住居をいたして居ります」
 今夜は泊まってゆけと勧めると、女はそれをも拒まないで、遂にその一夜を喬生の家に明かすことになりました。それらの事はくわしく申し上げません。原文には「甚だ歓愛をきわむ」と書いてございます。夜のあける頃、女はいったん別れて去りましたが、日が暮れるとまた来ました。金蓮きんれんという召仕いの小女がいつも牡丹燈をかかげて案内して来るのでございます。
 こういうことが半月ほども続くうちに、喬生のとなりに住む老人が少しく疑いを起しまして、境いの壁に小さい穴をあけてそっと覗いてみると、べに白粉おしろいを塗った一つの骸骨が喬生と並んで、ともしびのもとに睦まじそうにささやいているのです。それをみて老人はびっくりして、翌朝すぐに喬生を詮議すると、喬生も最初は堅く秘して言わなかったのですが、老人におどされてさすがに薄気味悪くなったと見えて、いっさいの秘密を残らず白状に及びました。
「それでは念のために調べて見なさい」と、老人は注意しました。「あの女たちが月湖の西に住んでいるというならば、そこへ行ってみれば正体がわかるだろう」
 なるほどそうだと思って、喬生は早速に月湖の西へたずねて行って、長いどての上、高い橋のあたりを隈なく探し歩きましたが、それらしい住み家は見当りません。土地の者にも訊き、往来の人にも尋ねましたが、誰も知らないという。そのうちに日も暮れかかって来たので、そこにある湖心寺こしんじという古寺にはいって暫く休むことにしました。そうして、東の廊下をあるき、さらに西の廊下をさまよっていると、その西廊のはずれに薄暗いへやがあって、そこに一つの旅櫬りょしんが置いてありました。旅櫬というのは、旅先で死んだ人を棺におさめたままで、どこかの寺中にあずけて置いて、ある時機を待って故郷へ持ち帰って、初めて本当の葬式をするのでございます。したがって、この旅櫬に就いては昔からいろいろの怪談が伝えられています。
 喬生は何ごころなくその旅櫬をみると、その上に白い紙が貼ってあって「故奉化符州判女もとのほうかふしゅうはんのじょ麗卿之柩れいけいのひつぎ」としるし、その柩の前には見おぼえのある双頭の牡丹燈をかけ、又その燈下には人形の侍女こしもとが立っていて、人形の背中には金蓮の二字が書いてありました。それを見ると、喬生は俄かにぞっとして、あわててそこを逃げ出して、あとをも見ずに我が家へ帰って来ましたが、今夜もまた来るかと思うと、とても落ちついてはいられないので、その夜は隣りの老人の家へ泊めてもらって、ふるえながらに一夜をあかしました。
「ただ怖れていても仕方がない」と、老人はまた教えました。「玄妙観げんみょうかん魏法師ぎほうしもとの開府の王真人おうしんじんのお弟子で、おまじないでは当今第一ということであるから、お前も早く行って頼むがよかろう」
 その明くる朝、喬生はすぐに玄妙観へたずねてゆくと、法師はその顔をひと目みて驚いた様子でした。
「おまえの顔には妖気が満ちている。一体ここへ何しに来たのだ」
 喬生はその坐下に拝して、かの牡丹燈の一条を訴えると、法師は二枚のあかいおふだをくれて、その一枚はかどに貼れ、他の一枚は寝台に貼れ。そうして、今後ふたたび湖心寺のあたりへ近寄るなと言い聞かせました。
 家へ帰って、その通りにお符を貼って置くと、果たしてその後は牡丹燈のかげも見えなくなりました。それからひと月あまりの後、喬生は袞繍橋こんしゅうきょうのほとりに住む友達の家をたずねて、そこで酒を飲んで帰る途中、酔ったまぎれに魏法師の戒めを忘れて、湖心寺のまえを通りかかると、寺の門前にはかの金蓮が立っていました。
「お嬢さまが久しく待っておいでになります。あなたもずいぶん薄情なかたでございますね」
 否応いやおういわさずに彼を寺中へ引き入れて、西廊の薄暗い一室へ連れ込むと、そこには麗卿が待ち受けていて、これも男の無情を責めました。
「あなたとわたくしはもとからの知合いというのではなく、途中でふと行き逢ったばかりですが、あなたの厚い心に感じて、遂にわたくしの身を許して、毎晩かかさずに通いつめ、出来るかぎりの真実をつくして居りましたのに、あなたは怪しい偽道士えせどうしのいうことをに受けて、にわかにわたくしを疑って、これぎりに縁を切ろうとなさるとは、余りに薄情ななされかたで、わたくしは深くあなたを怨んで居ります。こうして再びお目にかかったからは、あなたをこのままに帰すことはなりません」
 女は男の手を握って、ひつぎの前へゆくかと思うと、柩のふたはおのずと開いて、二人のすがたはたちまち隠れました。蓋は元のとおりに閉じられて、喬生は柩のなかで死んでしまったのです。
 となりの老人は喬生の帰らないのを怪しんで、遠近おちこちをたずね廻った末に、もしやと思って湖心寺へ来てみると、見おぼえのある喬生の着物の裾がかの柩の外に少しくあらわれているので、いよいよ驚いてその次第を寺の僧に訴え、早速にかの柩をあけてあらためると、喬生は女の亡骸なきがらと折り重なって死んでいました。女の顔はさながら生けるが如くに見えるのです。寺の僧は嘆息して言いました。
「これは奉化州判の符という人の娘です。十七歳のときに死んだので、仮りにその遺骸をここに預けたままで、一家は北の方へ赴きましたが、その後なんのたよりもありません。それが十二年後のこんにちに至って、そんな不思議を見せようとは、まことに思いも寄らないことでした」
 なにしろそのままにしては置かれないというので、男と女の死骸をおさめたままで、その柩を寺の西門の外に埋めました。ところが、その後にまた一つの怪異が生じたのでございます。
 くもった日や暗い夜に、かの喬生と麗卿とが手をひかれ、一人の小女が牡丹燈をかかげて先に立ってゆくのをしばしば見ることがありまして、それに出逢ったものは重い病気にかかって、悪寒さむけがする、熱が出るという始末。かれらの墓にむかって法事を営み、肉と酒とを供えて祭ればよし、さもなければ命をうしなうことにもなるので、土地の人びとは大いにおそれ、争ってかの玄妙観へかけつけて、なんとかそれを取り鎮めてくれるように嘆願すると、魏法師は言いました。
「わたしのまじないは未然に防ぐにとどまる。もうこうなっては、わたしの力の及ぶ限りでない。聞くところによると、四明山しめいざんの頂上に鉄冠道人てっかんどうじんという人があって、鬼神を鎮める法術をくするというから、それを尋ねて頼んでみるがよかろうと思う」
 そこで、大勢は誘いあわせて四明山へ登ることになりました。藤葛ふじかずらじ、たにを越えて、ようやく絶頂まで辿りつくと、果たしてそこに一つの草庵があって、道人はつくえに倚り、童子は鶴にたわむれていました。大勢は庵の前に拝して、その願意を申し述べると、道人はかしらをふって、わたしは山林の隠士で、あすをも知れない老人である。そんな怪異を鎮めるような奇術を知ろう筈はない。おまえ方は何かの聞き違えで、わたしを買いかぶっているのであろうと言って、堅く断わりました。いや、聞き違えではない、玄妙観の魏法師の指図であると答えると、道人はさてはとうなずきました。
「わたしはもう六十年も山を下ったことがないのに、あいつが飛んだおしゃべりをしたので、又うき世へ引き出されるのか」
 彼は童子を連れて下山して来ましたが、老人に似合わぬ足の軽さで、直ちに湖心寺の西門外にゆき着いて、そこに方丈ほうじょうの壇をむすび、何かのお符を書いてそれをくと、たちまちに符の使い五、六人、いずれも身のたけ一丈余にして、黄巾こうきんをいただき、金甲きんこうを着け、彫り物のあるほこをたずさえ、壇の下に突っ立って師の命令を待っていると、道人はおごそかに言い渡しました。
「この頃ここらに妖邪の祟りがあるのを、おまえ達も知らぬことはあるまい。早くここへ駆り出して来い」
 かれらは承わって立ち去りましたが、やがて喬生と麗卿と金蓮の三人に手枷てかせ首枷くびかせをかけて引っ立てて来て、さらに道人の指図にしたがい、むちしもとでさんざんに打ちつづけたので、三人は惣身に血をながして苦しみ叫びました。
 その呵責かしゃくが終った後に、道人は三人に筆と紙とをあたえて、服罪の口供こうきょうを書かせ、さらに大きな筆をとってみずからその判決文を書きました。
 その文章は長いので、ここに略しますが、要するにかれら三人は世を惑わし、民をい、条にたがい、法を犯した罪によって、かの牡丹燈を焚き捨てて、かれらを九泉の獄屋へ送るというのでありました。
 急々如律令きゅうきゅうにょりつりょう(悪魔払いの呪文)、もう寸刻の容赦はありません。この判決をうけた三人は、今さら嘆き悲しみながら、進まぬ足を追い立てられて、泣く泣くも地獄へ送られて行きました。それを見送って、道人はすぐに山へ帰ってしまいました。
 あくる日、大勢がその礼を述べるために再び登山すると、ただ草庵が残っているばかりで、道人の姿はもう見えませんでした。さらに玄妙観をたずねて、そのゆくえを問いただそうとすると、魏法師はいつか唖になって、口をきくことが出来なくなっていました。

※参考 「牡丹灯籠のあらすじ」 https://wa-gokoro.jp/traditional-culture/Japanese-ghost-story/872/
    青空文庫「怪談牡丹灯籠 三遊亭圓朝 鈴木行三校訂・編纂」https://www.aozora.gr.jp/cards/000989/files/2577_38206.html




 第五回 清の怪談 

17世紀から20世紀初頭まで続いた清は、最後の東洋的王朝でした。 清の怪談は、社会と人間の本質を達観した文豪の手になる文学作品『聊斎志異』『池北偶談』『子不語』『閲微草堂筆記』など、非常に洗練されています。 清は、満洲系の皇帝が圧倒的多数の漢民族を支配する征服王朝であり、清の文人は「文字の獄」など言論を理由に死刑になりかねない緊張感の中で生きていました。 清の怪談の完成度の高さは、現実社会への発言の不自由さの裏返しでもあったのです。 現代中国社会とも直結する清の社会の特徴について、怪談を紹介しつつ、わかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kyu0P9uzHZnfKGAOQqAzNO

○ポイント、キーワード

○怪談選読

★蒲松齢(ほしょうれい)『聊斎志異(りょうさいしい)』
蒲松齢(1640年- 1715年)による短編の怪談集。浮薄な世情に負けない強靱な精神を礼讃する話が多い。
原漢文 https://zh.wikisource.org/wiki/聊齋志異
いくつかの怪談のあらすじ

★王士禎(1634-1711)『池北偶談』より
https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2242_11907.htmlより引用
参考 早稲田大学貴重書 https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i05/i05_01575/index.html

   名画の鷹 【日本の民話「絵ねことねずみ」や小泉八雲「he boy who drew cats」と似た話です。加藤徹】

 武昌ぶしょう張氏ちょうしの嫁が狐にみこまれた。
 狐は毎夜その女のところへ忍んで来るので、張の家では大いにうれいて、なんとかして追いはらおうと試みたが、遂に成功しなかった。
 そのうちに、張の家で客をまねくことがあって、座敷には秘蔵の掛物をかけた。それはそう徽宗きそう皇帝の御筆ぎょひつというたかの一軸である。酒宴が果てて客がみな帰り去った後、夜がけてからかの狐が忍んで来た。
「今夜は危なかった。もう少しでひどい目に逢うところであった」と、狐はささやいた。
「どうしたのです」と、女はいた。
「おまえの家の堂上に神鷹しんようがかけてある。あの鷹がおれの姿をみると急に羽ばたきをして、今にも飛びかかって来そうな勢いであったが、幸いに鷹のくびには鉄の綱が付いているので、飛ぶことが出来なかったのだ」
 女は夜があけてからその話をすると、家内の者どもも不思議に思った。
「世には名画の奇特きどくということがないとは言えない。それでは、試しにその鷹の頸に付いている綱を焼き切ってみようではないか」
 評議一決して、その通りに綱を切って置くと、その夜は狐が姿をみせなかった。翌る朝になって、その死骸が座敷の前に発見された。かれは霊ある鷹の爪に撃ち殺されたのであった。
 その後、張の家は火災に逢って全焼したが、その燃え盛る火焔ほのおのなかから、一羽の鷹の飛び去るのを見た者があるという。

   無頭鬼

 張献忠ちょうけんちゅうはかの李自成りじせいと相ならんで、みん朝の末期における有名の叛賊である。
 彼がしょく成都せいとに拠って叛乱を起したときに、蜀王の府をもってわが居城としていたが、それは数百年来の古い建物であって、人と鬼とが雑居のすがたであった。ある日、後殿のかたにあたって、笙歌の声が俄かにきこえたので、彼は怪しんでみずから見とどけにゆくと、殿中には数十の人が手に楽器を持っていた。しかも、かれらにはみな首がなかった。
 さすがの張献忠もこれには驚いて地にたおれた。その以来、かれは其の居を北の城楼へ移して、ふたたび殿中には立ち入らなかった。

【近年の中国では、無差別殺傷事件を俗称で「献忠事件」と呼びます。参考 https://gendai.media/articles/-/140218 加藤徹】
 
   張巡の妾

 とう安禄山あんろくざんが乱をおこした時、張巡ちょうじゅん睢陽すいようを守って屈せず、城中の食尽きたので、彼はわが愛妾を殺して将士にましめ、城遂におちいって捕われたが、なお屈せずに敵を罵って死んだのは有名の史実で、彼は世に忠臣の亀鑑きかんとして伝えられている。
 それから九百余年の後、しん康煕こうき年間のことである。会稽かいけい徐藹じょあいという諸生が年二十五でという病いにかかった。腹中に凝り固まった物があって、甚だ痛むのである。その物は腹中に在って人のごとくに語ることもあった。勿論、こういう奇病であるから、療治の効もなく、病いがいよいよ重くなったときに、一人の白衣を着た若い女がその枕元に立って、こんなことを言って聞かせた。
「あなたは張巡が妾を殺したことを御存じですか。あなたの前の世は張巡で、わたしはその妾であったのです。あなたが忠臣であるのは誰も知っていることですが、その忠臣となるがために、なんの罪もないわたしを殺して、その肉を士卒に食わせるような無残な事をなぜなされた。その恨みを報いるために、わたしは十三代もあなたを付け狙っていましたが、何分にもあなたは代々偉い人にばかり生まれ変っているので、遂にその機会を得ませんでした。しかも今のあなたはさのみ偉い人でもない、単に一個の白面はくめん(若く未熟なこと)書生に過ぎませんから、今こそ初めて多年の恨みを報いることが出来たのです」
 言い終って、女のすがたは消えてしまった。病人もそれから間もなく世を去った。

【張巡は、南宋の文天祥の漢詩「正気の歌」https://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/p20.htmにも 「張睢陽の歯と為り、顏常山の舌と為る」 と詠み込まれた忠臣。加藤徹】

   追写真

 宋茘裳そうれいしょうも国初有名の詩人である。彼は幼いときに母をうしなったので、母のおもかげをしのぶごとに涙が流れた。
 呉門ごもんのなにがしという男がみずから言うには、それには術があって、死んだ人の肖像を写生することが出来る。それを追写真ついしゃしんといい、人の歿後数十年を経ても、ありのままの形容を写すのは容易であると説いたので、茘裳は彼に依頼することになった。
 彼はきよい室内に壇をしつらえさせ、何かの符を自分で書いて供えた。それから三日の後、いよいよ絵具や紙や筆を取り揃え、茘裳に礼拝させて立ち去らせた。
 一室の戸は堅く閉じて決して騒がしくしてはならないと注意した。夜になると、たちまち家根瓦に物音がきこえた。
 夜半に至って、彼が絵筆を地になげうつ音がかちりときこえた。家根瓦にも再び物音がきこえた。彼は戸をあけて茘裳を呼び入れた。
 室内には燈火が明るく、そこらには絵具が散らかって、筆は地上に落ちていた。しかも紙は封じてあって、まだひらかれていない。早速に啓いてみると、画像はもう成就していて、その風貌はさながら生けるが如くであった。茘裳はそれを捧げてまた泣いて、その男に厚い謝礼を贈った。
「死後六十年を過ぎては、追写真も及びません」と、彼は言ったそうである。
 蘇穀言そこくげんの随筆にも、宋僉憲そうけんけんは幼にして父をうしない、その形容を識らないので、方海山人ほうかいさんじんに肖像をかいて貰って持ち帰ると、母はそれを見て、まことに生けるが如くであると、今更に嘆き悲しんだということが書いてある。してみると、世にはこういうことわりがあると思われる。

【三波伸介が新幹線の中で老婦人の亡夫の似顔絵を描いたエピソードを連想します。https://mantenkan.com/siniti07.html 加藤徹】


★袁枚(えんばい 1716-1798)『子不語』より
袁枚の号は随園で、文豪・食通として有名。新宿の中華料理店「随園別館」は彼の名前にちなみます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/2243_11908.htmlより引用

   老嫗ろうおうの妖

 しんの乾隆二十年、都で小児が生まれると、驚風きょうふう(脳膜炎)にかかってたちまち死亡するのが多かった。 伝えるところによると、小児が病いにかかる時、一羽の鵂鶹きゅうりゅう――一種の怪鳥けちょうで、形は鷹のごとく、よく人語をなすということである。――のような黒い鳥影がともしびの下を飛びめぐる。その飛ぶこといよいよはやければ、小児の苦しみあえぐ声がいよいよ急になる。小児の息が絶えれば、黒い鳥影も消えてしまうというのであった。
 そのうちに或る家の小児もまた同じ驚風にかかって苦しみ始めたが、その父の知人にがく某というのがあった。かれは宮中の侍衛を勤める武人で、ふだんから勇気があるので、それを聞いて大いに怒った。
「怪しからぬ化け物め。おれが退治してくれる」
 鄂は弓矢をとって待ちかまえていて、黒い鳥がともしびに近く舞って来るところをはたと射ると、鳥は怪しい声を立てて飛び去ったが、そのあとには血のしずくが流れていた。それをどこまでも追ってゆくと、大司馬たいしばの役を勤める氏の邸に入り、台所のかまどの下へ行って消えたように思われたので、鄂はふたたび矢をつがえようとするところへ、邸内の者もおどろいて駈け付けた。主人の李公は鄂と姻戚の関係があるので、これも驚いて奥から出て来た。鄂が怪鳥を射たという話を聞いて、李公も不思議に思った。
「では、すぐに竈の下をあらためてみろ」
 人びとが打ち寄って竈のあたりを検査すると、そのそばの小屋に緑の眼をひからせた老女がたおれていた。
 老女は猿のような形で、その腰には矢が立っていた。 しかし彼女は未見の人ではなく、李公がかつ雲南うんなんに在ったときに雇い入れた奉公人であった。 雲南地方の山地にはびょうまたはようという一種の蛮族が棲んでいるが、老女もその一人で、老年でありながら能く働き、かつは正直律義りちぎの人間であるので、李公が都へ帰るときに家族と共に伴い来たったものである。それが今やこの怪異をみせたので、李氏の一家は又おどろかされた。老女は矢傷に苦しみながらも、まだ生きていた。
 だんだん考えてみると、彼女に怪しい点がないでもない。よほどの老年とみえながら、からだは甚だすこやかである。蛮地の生まれとはいいながら、自分の歳を知らないという。ことに今夜のような事件が出来しゅったいしたので、主人も今更のようにそれを怪しんだ。あるいは妖怪が姿を変じているのではないかと疑って、厳重にかの女を拷問ごうもんすると、老女は苦しい息のもとで答えた。
「わたくしは一種の咒文じゅもんを知っていまして、それを念じると能く異鳥に化けることが出来ますので、夜のふけるのを待って飛び出して、すでに数百人の子供の脳を食いました」
 李公は大いに怒って、すぐにかの女をくくりあげ、薪を積んで生きながらいてしまった。その以来、都に驚風を病む小児が絶えた。

【現代中国では、苗族は「ミャオ族」、猺族(現在の漢字表記は「瑶族」)は「ヤオ族」です。昔の漢民族の「南蛮」に対する感情が垣間見える怪談です。加藤徹】

   水鬼の箒 【いわゆる「鬼求代」「求代鬼」「替死鬼」の怪談です。非業の死を遂げた亡霊は地縛霊となり、誰かが同じ場所で非業の死をとげて新しい地縛霊になってくれない限り成仏できない、という中国の迷信です。加藤徹】

 張鴻業ちょうこうぎょうという人が秦淮しんわいへ行って、はんなにがしの家に寄寓していた。そのへやは河に面したところにあった。ある夏の夜に、張が起きてかわやへゆくと、夜は三更を過ぎて、世間に人の声は絶えていたが、月は大きく明るいので、張は欄干らんかんによって暫くその月光を仰いでいると、たちまち水中に声あって、ひとりの人間のあたまが水の上に浮かみ出た。
「この夜ふけに泳ぐ奴があるのかしら」
 不審に思いながら、月あかりに透かしみると、黒いからだの者が水中に立っていた。顔は眼も鼻も無いのっぺらぽうで、くびも動かない。さながら木偶でくぼうのようなものである。張はその怪物にむかって石を投げ付けると、彼はふたたび水の底に沈んでしまった。
 事件は単にそれだけのことであったが、明くる日の午後、ひとりの男がその河のなかで溺死したという話を聞いて、さては昨夜の怪物は世にいう水鬼すいきであったことを張は初めてさとった。
 水鬼はめいもとめるという諺があって、水に死んだ者のたましいは、その身代りを求めない以上は、いつまでも成仏じょうぶつできないのである。したがって、水鬼は誰かを水中に引き込んで、そのいのちを取ろうとすると言い伝えられているが、のあたりに、その水鬼の姿を見たのは今が初めてであるので、張も今更のように怖ろしくなって、それを同宿の人びとに物語ると、そのなかに米あきんどがあって、自分もかつて水鬼の難に出逢ったことがあると言った。その話はこうである。
「わたしがまだ若い時のことでした。嘉興かこうの地方へ米を売りに行って、薄暗いときに黄泥溝こうでいこうを通ると、なにしろそこは泥ぶかいので、わたしは水牛を雇って、それに乗って行くことにしました。そうして、溝の中ほどまで来かかると、泥のなかから一つの黒い手が出て来て、不意にわたしの足を掴んで引き落そうとしました。こんな所では何事が起るかも知れないと思って、わたしもかねて用心していたので、すぐに足を縮めてしまうと、その黒い手はさらに水牛の足をつかんだので、牛はもう動くことが出来ない。わたしもおどろいて救いを呼ぶと、往来の人びとも加勢に駈けつけて、力をあわせて牛をいたが、牛の四足は泥のなかへ吸い込まれたようになって、けども押せども動かない。百計尽きて思いついたのが火牛かぎゅうのはかりごとで、試みに牛の尾に火をつけると、牛も熱いのに堪えられなくなったと見えて、必死の力をふるってちあがると、ようように泥の中から足を抜くことが出来ました。それからあらためてみると、牛の腹の下には古いほうきのようなものがしっかりとからみついていて、なかなか取れませんでした。それがまた、非常になまぐさいようなにおいがして寄り付かれません。大勢が杖をもって撃ち叩くと、幽鬼のむせび泣くような声がして、したたる水はみな黒い血のしずくでした。大勢はさらに刃物でそれをずたずたに切って、柴の火へ投げ込んでいてしまいましたが、そのいやな臭いはひと月ほども消えなかったそうです。しかしそれから後は、黄泥溝で溺れ死ぬ者はなくなりました」

【これは「水鬼」の話。首つり自殺した幽霊が自分の後任を求めて人を殺す「縊鬼求代」も有名。加藤徹】

   僵尸きょうし(屍体)を画く 【僵尸は「キョンシー」です。加藤徹】

 杭州の劉以賢りゅういけんは肖像画を善くするを以って有名の画工であった。その隣りに親ひとり子ひとりの家があって、その父が今度病死したので、せがれは棺を買いに出る時、又その隣りの家に声をかけて行った。
「となりの劉先生は肖像画の名人ですから、今のうちに私の父の顔を写して置いてもらいたいと思います。あなたから頼んでくれませんか」
 隣りの人はそれを劉に取次いだので、劉は早速に道具をたずさえて行くと、忰はまだ帰って来ないらしく、家のなかには人の影もみえなかった。しかし近所に住んでいて、その家の勝手もよく知っているので、劉は構わずに二階へあがると、寝床の上には父の死骸が横たわっていた。劉はそこにある腰掛けに腰をおろして、すぐに画筆を執りはじめると、その死骸はたちまきあがった。劉ははっと思うと同時に、それが走屍そうしというものであることを直ぐにさとった。
 走屍は人を追うと伝えられている。自分が逃げれば、死骸もまた追って来るに相違ない。いっそじっとしていて、早く画をかいてしまう方がいいと覚悟をきめて、劉は身動きもしないで相手の顔を見つめていると、死骸も動かずに劉を見つめている。
 その人相をよく見とどけて、劉は紙をひろげて筆を動かし始めると、死骸もおなじようにひじを動かし、指を働かせている。劉は一生懸命に筆を動かしながら、時どきに大きい声で人を呼んだが、誰も返事をする者がない。鬼気はいよいよ人にせまって、劉の筆のさきもふるえて来た。
 そのうちに忰の帰って来たらしい足音がきこえたので、やれ嬉しやと思っていると、果たして忰は二階へあがって来たが、父の死骸がこのていであるのを見て、あっと叫んでたおれてしまった。その声を聞きつけて、隣りの人は二階からのぞいたが、これも驚いて梯子からころげ落ちた。
 こういう始末であるから、劉はますます窮した。それでも逃げることは出来ない。逃げれば追いかけて来て掴み付かれるおそれがあるので、我慢に我慢して描きつづけていると、そこへ棺桶屋が棺を運び込んで来たので、劉はすぐに声をかけた。
「早く箒を持って来てくれ。箒草ほうきぐさの箒を……」
 棺桶屋はさすがに商売で、走屍などにはさのみ驚かない。走屍を撃ち倒すには箒草の箒を用いることをかねて心得ているので、劉のいうがままに箒を持って来て、かの死骸を撃ち払うと、死骸は元のごとく倒れた。気絶した者には生姜湯しょうがゆを飲ませて介抱し、死骸は早々に棺に納めた。

【1980年代に流行した「キョンシー映画」は、カンフー映画の変型です。加藤徹】

   秦の毛人

 湖広に房山ぼうざんという高い山がある。山は甚だ嶮峻で、四面にたくさんの洞窟があって、それがあたかもへやのような形をなしているので、房山と呼ばれることになったのである。
 その山には毛人もうじんという者が棲んでいる。身のたけ一丈余で、全身が毛につつまれているので、人呼んで毛人というのである。この毛人らは洞窟のうちに棲んでいるらしいが、時どきに里へ降りて来て、人家の※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)や犬などを捕りくらうことがある。迂闊にそれをさえぎろうとすると、かれらはなかなかの大力で、大抵の人間は投げ出されたり、なぐり付けられたりするので、手の着けようがない。弓や鉄砲で撃っても、矢玉はみな跳ねかえされて地に落ちてしまうのである。
 しかも昔からの言い伝えで、毛人を追いはらうには一つの方法がある。それは手をって、大きな声ではやし立てるのである。
「長城を築く、長城を築く」
 その声を聞くと、かれらは狼狽して山奥へ逃げ込むという。
 新しく来た役人などは、最初はそれを信じないが、その実際を見るに及んで、初めて成程と合点がてんするそうである。
 長城を築く――毛人らが何故なぜそれを恐れるかというと、かれらはその昔、しん始皇帝しこうていが万里の長城を築いたときに駆り出された役夫えきふである。かれらはその工事の苦役くえきに堪えかねて、同盟脱走してこの山中に逃げ籠ったが、歳久しゅうして死なず、遂にかかる怪物となったのであって、かれらは今に至るも築城工事に駆り出されることを深く恐れているらしく、人に逢えば長城はもう出来あがってしまったかとく。その弱味に付け込んで、さあ長城を築くぞと囃し立てると、かれらはびっくり敗亡して、たちまちに姿を隠すのであると伝えられている。
 秦代の法令がいかに厳酷であったかは、これで想いやられる。

【文革中の革命模範劇『白毛女』のテーマ「旧社会把人逼成鬼、新社会把鬼?成人(旧社会は人を化け物に変えたが、新社会は化け物を人に生まれ変わらせた)」に通じるものがあります。加藤徹】

   帰安の魚怪

 みん代のことである。帰安きあん県の知県ちけんなにがしが赴任してから半年ほどの後、ある夜その妻と同寝していると、夜ふけてその門を叩く者があった。知県はみずから起きて出たが、暫くして帰って来た。
「いや、人が来たのではない。風が門を揺すったのであった」
 そう言って彼は再び寝床に就いた。妻も別に疑わなかった。その後、帰安の一県は大いに治まって、獄を断じ、うったえをさばくこと、あたかもしんのごとくであるといって、県民はしきりに知県の功績を賞讃した。
 それからまた数年の後である。有名の道士張天師ちょうてんしが帰安県を通過したが、知県はあえて出迎えをしなかった。
「この県には妖気がある」と、張天師は眉をひそめた。そうして、知県の妻を呼んで聞きただした。
「お前は今から数年前の何月何日の夜に、門を叩かれたことを覚えているか」
「おぼえて居ります」
「現在のおっとはまことの夫ではない。年を経たる黒魚こくぎょはもの種類)の精である。おまえの夫はかの夜すでに黒魚のために食われてしまったのであるぞ」
 妻は大いにおどろいて、なにとぞ夫のために仇を報いてくだされと、天師にすがって嘆いた。張天師は壇に登って法をおこなうと、果たして長さ数丈ともいうべき大きい黒魚が、正体をあらわして壇の前にひれ伏した。
「なんじの罪はざんに当る」と、天師はおごそかに言い渡した。「しかし知県に化けているあいだにすこぶる善政をおこなっているから、特になんじの死をゆるしてやるぞ」
 天師は大きいかめのなかにかの魚を押し籠めて、神符をもってその口を封じ、県衙けんがの土中に埋めてしまった。
 そのときに、魚は甕のなかからしきりに哀れみを乞うと、天師はまた言い渡した。
「今はゆるされぬ。おれが再びここを通るときに放してやる」
 張天師はその後ふたたび帰安県を通らなかった。

【張天師は2世紀、後漢末の五斗米道の創始者・張陵(張道陵)の嫡流の当主に対する尊称。 孔子の子孫「衍聖公(えんせいこう)」と並び、中国では珍しく長続きしている世襲制の実例である。 第64代天師の張源先が2008年に男系男子を残さぬまま死去したあと、お家騒動が起きて、自称第65代張天師が複数あらわれる事態となった。 加藤徹】

   金鉱の妖霊

 乾麂子かんきしというのは、人ではない。 人の死骸のしたるもの、すなわち前に書いた僵尸きょうしのたぐいである。 雲南地方には金鉱が多い。 その鉱穴に入った坑夫のうちには、土に圧されて生き埋めになって、あるいは数十年、あるいは百年、土気と金気に養われて、形骸はそのままになっている者がある。 それを乾麂子と呼んで、普通にはそれを死なない者にしているが、実は死んでいるのである。
 死んでいるのか、生きているのか、甚だあいまいな乾麂子なるものは、時どきに土のなかから出てあるくと言い伝えられている。 鉱内は夜のごとくに暗いので、穴に入る坑夫はひたいの上にともしびをつけて行くと、 その光りを見てかの乾麂子の寄って来ることがある。 かれらは人を見ると非常に喜んで、烟草たばこをくれという。 烟草をあたえると、立ちどころに喫ってしまって、さらに人にむかって一緒に連れ出してくれと頼むのである。その時に坑夫はこう答える。
「われわれがここへ来たのは金銀を求めるためであるから、このまま手をむなしゅうして帰るわけにはゆかない。おまえは金のつるのある所を知っているか」
 かれらは承知して坑夫を案内すると、果たしてそこには大いなる金銀を見いだすことが出来るのである。そこで帰るときには、こう言ってかれらをだますのを例としている。
「われわれが先ず上がって、それからお前をかごにのせて吊りあげてやる」
 竹籃にかれらを入れて、縄をつけて中途まで吊りあげ、不意にその縄を切り放すと、かれらは土の底に墜ちて死ぬのである。ある情けぶかい男があって、だますのも不憫だと思って、その七、八人を穴の上まで正直に吊りあげてやると、かれらは外の風にあたるや否や、そのからだも着物も見る見るけて水となった。その臭いは鼻を衝くばかりで、それを嗅いだ者はみな疫病にかかって死んだ。
 それに懲りて、かれらを入れた籃は必ず途中で縄を切って落すことになっている。最初から連れて行かないといえば、いつまでも付きまとって離れないので、いつもこうして瞞すのである。但しこちらが大勢で、相手が少ないときには、押えつけ縛りあげて土壁にりかからせ、四方から土をかけて塗り固めて、その上に燈台を置けば、ふたたび祟りをなさないと言い伝えられている。
 それと反対に、こちらが小人数で、相手が多数のときは、死ぬまでも絡み付いていられるので、よんどころなく前にいったような方法を取るのである。

【上野英信『地の底の笑い話』岩波新書、を読むと、昔の日本の炭鉱でも落盤事故がらみのせつない話がいろいろあったことがわかります。 ネットの「事故があって生きて戻ることができないと思ったら、髪を一房切るというルールがあった」も落盤事故関係の話です。加藤徹】


★紀ホ(きいん 1724-1805)『閲微草堂筆記』より
紀ホは、中国ではテレビドラマ『鉄歯銅牙紀暁嵐』の主人公としても有名。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1303_12030.htmlより引用

   落雷裁判

 しん雍正ようせい十年六月の夜に大雷雨がおこって、けん県の県城の西にある某村では、村民なにがしが落雷に撃たれて死んだ。
 めいという県令が出張して、その死体を検視したが、それから半月の後、突然ある者を捕えて訊問した。
「おまえは何のために火薬を買ったのだ」
「鳥を捕るためでございます」
「雀ぐらいを撃つ弾薬たまぐすりならば幾らもいる筈はない。おまえは何で二、三十きんの火薬を買ったのだ」
「一度に買い込んで、貯えて置こうと思ったのでございます」
「おまえは火薬を買ってから、まだひと月にもならない。多く費したとしても、一斤か二斤に過ぎない筈だが、残りの薬はどこに貯えてある」
 これには彼も行き詰まって、とうとう白状した。彼はかの村民の妻と姦通していて、妻と共謀の末にその夫を爆殺し、あたかも落雷で震死したようによそおったのであった。その裁判落着の後、ある人が県令に訊いた。
「あなたはどうしてあの男に眼を着けられたのですか」
「火薬を爆発させてらいと見せるには、どうしても数十斤を要する。殊に合薬ごうやくとして硫黄いおうを用いなければならない。今は暑中で爆竹などを放つ時節でないから、硫黄のたぐいを買う人間は極めてすくない。わたしはひそかに人をやって、この町でたくさんの硫黄を買った者を調べさせると、その買い手はすぐに判った。更にその買い手を調べさせると、村民のなにがしに売ったという。それで彼が犯人であると判ったのだ」
「それにしても、当夜の雷がこしらえ物であるということがどうして判りました」
「雷が人を撃つ場合は、言うまでもなく上から下へ落ちる。家屋を撃ちこわす場合は、家根やねを打ち破るばかりで、地を傷めないのが普通である。然るに今度の落雷の現場を取調べると、草葺き家根が上にむかって飛んでいるばかりか、土間の地面が引きめくったようにがれている。それが不審の第一である。又その現場は城をること僅か五、六里で、雷電もほぼ同じかるべき筈であるが、当夜の雷はかなり迅烈であったとはいえ、みな空中をとどろき渡っているばかりで、落雷した様子はなかった。それらを綜合して、わたしはそれを地上の偽雷と認めたのである」
 人は県令の明察に服した。

   鄭成功と異僧 【鄭成功は日中混血の、明末清初の英雄。asahi20220414.html#06 加藤徹】

 鄭成功ていせいこうが台湾にるとき、 粤東えつとうの地方から一人の異僧が海を渡って来た。かれは剣術と拳法に精達しているばかりか、肌をぬいで端坐していると、刃で撃っても切ることが出来ず、堅きこと鉄石の如くであった。彼はまた軍法にも通じていて、兵を談ずることすこぶるその要を得ていた。
 鄭成功はつとめて四方の豪傑を招いている際であったので、礼を厚うして彼を欵待かんたいしたが、日を経るにしたがって彼はだんだんに増長して、傲慢無礼ごうまんぶれいの振舞いがたびかさなるので、鄭成功もしまいには堪えられなくなって来た。かつかれは清国の間牒かんちょうであるという疑いも生じて来たので、いっそ彼を殺してしまおうと思ったが、前にもいう通り、彼は武芸に達している上に、一種の不死身ふじみのような妖僧であるので、迂闊に手を出すことを躊躇ちゅうちょしていると、その大将の劉国軒りゅうこくけんが言った。
「よろしい。その役目はわたくしが勤めましょう」
 劉はかの僧をたずねて、冗談のように話しかけた。
「あなたのような生き仏は、色情のことはなんにもお考えになりますまいな」
「久しく修業を積んでいますから、心は地に落ちたるわたの如くでござる」と、僧は答えた。
 劉はいよいよたわむれるように言った。
「それでは、ここであなたの道心を試みて、いよいよ諸人の信仰を高めさせて見たいものです」
 そこで美しい遊女や、男色なんしょくを売る少年や、十人あまりをりあつめて、僧のまわりにしとねをしき、枕をならべさせて、その淫楽をほしいままにさせると、僧は眉をも動かさず、かたわらに人なきがごとくに談笑自若としていたが、時を経るにつれて眼をそむけて、遂にその眼をまったくじた。
 そのすきをみて、劉は剣をぬいたかと思うと、僧の首はころりと床に落ちた。

   茉莉花 【茉莉花はジャスミンのこと。ジャスミン茶の材料でもある。「閩(びん)」は中国福建省の古名。加藤徹】

 閩中みんちゅうの或る人の娘はまだ嫁入りをしないうちに死んだ。それを葬ることかたのごとくであった。
 それから一年ほど過ぎた後、その親戚の者がとなりの県で、彼女とおなじ女を見た。その顔かたちから声音こわねまでが余りによくているので、不意にその幼な名を呼びかけると、彼女は思わず振り返ったが、又もや足を早めて立ち去った。
 親戚は郷里へ帰ってそれを報告したので、両親も怪しんで娘の塚をあけてみると、果たして棺のなかはからになっていた。そこで、そのありかをたずねてゆくと、女は両親を識らないと言い張っていたが、そのわきの下に大きいあざがあるのが証拠となって、彼女はとうとう恐れ入った。その相手の男をたずねると、もうどこへか姿をかくしていた。
 だんだんその事情を取調べると、閩中には茉莉花まつりかを飲めば仮死するという伝説がある。茉莉花の根をって、酒にまぜ合わせて飲むのである。根の長さ一寸を用ゆれば、仮死すること一日にして蘇生する。六、七寸を用ゆれば、仮死すること数日にしてなお蘇生することが出来る。七寸以上を用ゆれば、本当に死んでしまうのである。かの娘はすでに約束の婿がありながら、他の男と情を通じたので、男と相談の上で茉莉花を用い、そら死にをして一旦いったん葬られた後に、男が棺をあばいて連れ出したものであることが判った。男もやがて捕われたが、その申し立ては娘と同様であった。
 閩の県官呉林塘ごりんとうという人がそれを裁判したが、棺をあばいた罪に照らそうとすれば、その人は死んでいないのである。薬剤をもって子女を惑わしたという罪に問おうとすれば、娘も最初から共謀である。さりとて、財物を奪ったとか、拐引かどわかしを働いたとかいうのでもない。結局、その娘も男も姦通かんつうの罪に処せられることになった。
【西洋の「ゾンビ・パウダー」と似た奇談。https://ja.wikipedia.org/wiki/ゾンビ#ゾンビ・パウダー 加藤徹】

   仏陀の示現 【日本の『今昔物語』巻20第「愛宕護山聖人被謀野猪語 第十三」とちょっと似た話。加藤徹】

 景城けいじょうの南に古寺があった。あたりに人家もなく、その寺に住職と二人の徒弟とていが住んでいたが、いずれもぼんやりした者どもで、わずかに仏前に香火を供うるのほかには能がないように見られた。
 しかも彼等はなかなかの曲者くせもので、ひそかに松脂まつやにを買って来て、それを粉にして練りあわせ、紙にまいて火をつけて、夜ちゅうに高く飛ばせると、その火のひかりは四方を照らした。それを望んで村民が駈けつけると、住職も徒弟も戸を閉じて熟睡していて、なんにも知らないというのである。
 又あるときは、戯場しばいで用いる仏衣を買って来て、菩薩や羅漢の形をよそおい、月の明るい夜に家根の上に立ったり、樹の蔭にたたずんだりする事もある。それを望んで駈け付けると、やはりなんにも知らないというのである。或る者がその話をすると、住職らは合掌して答えた。
「飛んでもないことを仰しゃるな。み仏は遠い西の空にござる。なんでこんな田舎の破寺やれでら示現じげんなされましょうぞ。おかみではただいま白蓮教びゃくれんきょうをきびしく禁じていられます。そんな噂がきこえると、われわれもその邪教をおこなう者と見なされて、どんなおとがめをこうむるかも知れません。お前方もわれわれに恨みがある訳でもござるまいに、そんなことを無暗に言い触らして、われわれに迷惑をかけて下さるな」
 いかにも殊勝な申し分であるので、諸人はいよいよ仏陀の示現と信じるようになって、檀家の布施ふせ寄進きしんが日ましに多くなった。それに付けても、寺があまりに荒れ朽ちているので、その修繕を勧める者があると、僧らは、一本の柱、一枚の瓦を換えることをも承知しなかった。
「ここらの人はとかくにあらぬことを言い触らす癖があって、後光ごこうがさしたの、菩薩があらわれたのと言う。その矢さきに堂塔などを荘厳そうごんにいたしたら、それに就いて又もや何を言い出すか判らない。どなたが寄進して下さるといっても、寺の修繕などはお断わり申します」
 こういうふうであるから、諸人の信仰はいや増すばかりで、僧らは十余年のあいだに大いなる富を作ったが、又それを知っている賊徒があって、ある夜この寺を襲って師弟三人を殺し、貯蓄の財貨をことごとくかすめて去った。役人が来て検視の際に、古い箱のなかから戯場しばいの衣裳や松脂の粉を発見して、ここに初めてかれらの巧みが露顕したのであった。
 これはみん崇禎すうていの末年のことである。

【白蓮教は、中国仏教とマニ教が習合して南宋時代に成立した宗教で、元末の紅巾の乱や、清代の白蓮教徒の乱(1796年-1804年)など何度も反乱を起こした。加藤徹】

   飛天夜叉 【現在の新疆ウイグル自治区のウルムチ市の話です。加藤徹】

 烏魯木斉ウロボクセイ新疆しんきょうの一地方で、甚だ未開辺僻へんぺきの地である(筆者、紀暁嵐はかつてこの地にあったので、烏魯木斉地方の出来事をたくさんに書いている)。その把総はそう(軍官で、陸軍少尉しょういの如きものである)を勤めている蔡良棟さいりょうとうが話した。
 この地方が初めて平定した時、四方を巡回して南山の深いところへ分け入ると、日もようやく暮れかかって来た。見ると、たにを隔てた向う岸に人の影がある。もしや瑪哈沁ひょうはしん(この地方でいう追剥おいはぎである)ではないかと疑って、草むらに身をひそめて窺うと、一人の軍装をした男が磐石の上に坐って、そのそばには相貌獰悪どうあくの従卒が数人控えている。なにか言っているらしいが、遠いのでよく聴き取れない。
 やがて一人の従卒に指図して、石のほらから六人の女をひき出して来た。女はみな色の白い、美しい者ばかりで、身にはいろいろの色彩いろどりのある美服を着けていたが、いずれも後ろ手にくくり上げられて恐るおそるにかしらを垂れてひざまずくと、石上の男はかれらを一人ずつ自分の前に召し出して、下衣したぎがせて地にひき伏せ、むちをあげて打ち据えるのである。打てば血が流れ、その哀号あいごうの声はあたりの森に木谺こだまして、凄惨実にたとえようもなかった。
 その折檻が終ると、男は従卒と共にどこへか立ち去った。女どもはそれを見送り果てて、いずれも泣く泣く元の洞へ帰って行った。男は何者であるか、女は何者であるか、もとより判らない。一行のうちに弓をよく引く者があったので、向う岸の立ち木にむかって二本の矢を射込んで帰った。
 あくる日、廻り路をして向う岸へ行き着いて、きのうの矢を目じるしに捜索すると、石の洞門はちりに封じられていた。松明たいまつをとって進み入ると、深さ四丈ばかりで行き止まりになってしまって、他には抜け路もないらしく、結局なんのるところもなしに引き揚げて来た。
 蔡はこの話をして、自分が烏魯木斉にあるあいだに目撃した奇怪の事件は、これをもって第一とすると言った。わたしにも判らないが、太平広記に、天人が飛天夜叉ひてんやしゃを捕えて成敗する話が載せてある。飛天夜叉は美女である。蔡の見たのも或いはこの夜叉のたぐいであるかも知れない。

   喇嘛教

 喇嘛教らまきょうには二種あって、一を黄教といい、他を紅教といい、その衣服をもって区別するのである。 黄教は道徳を講じ、因果を明らかにし、かの禅家ぜんけと派をことにして源を同じゅうするものである。
 但し紅教は幻術げんじゅつを巧みにするものである。理藩院りはんいんの尚書を勤めるりゅうという人が曾て西蔵ちべっとに駐在しているときに、何かの事で一人の紅教喇嘛に恨まれた。そこで、或る人が注意した。
「彼は復讐をするかも知れません。山登りのときには御用心なさい」
 留は山へ登るとき、輿や行列をさきにして、自分は馬に乗って後から行くと、果たして山の半腹に至った頃に、前列の馬が俄かに狂い立って、輿をめちゃめちゃに踏みこわした。輿は無論にからであった。
 また、烏魯木斉に従軍の当時、軍士のうちで馬を失った者があった。一人の紅教喇嘛が小さい木の腰掛けをとって、なにか暫く呪文を唱えていると、腰掛けは自然にころころと転がり始めたので、その行くさきを追ってゆくと、ある谷間たにあいへ行き着いて、果たしてそこにかの馬を発見した。これは著者が親しく目撃したことである。
 案ずるに、西域せいいきに刀を呑み、火を呑むたぐいの幻術を善くする者あることは、前漢時代の記録にも見えている。これも恐らくそれらの遺術を相伝したもので、仏氏の正法しょうほうではない。それであるから、黄教の者は紅教徒を称して、あるいは魔といい、あるいは波羅門ばらもんという。すなわち仏経にいわゆる邪魔外道じゃまげどうである。けだし、そのたぐいであろう。

【×ラマ教→○チベット仏教 △黄教/黄帽派→○ゲルク派 △紅教/紅帽派→○ニンマ派ほか ダライ・ラマはゲルク派。加藤徹】

   顔良の祠

 呂城は呉の呂蒙りょもうの築いたものである。河をはさんで、両岸に二つのやしろがある。
 その一つは唐の名将郭子儀かくしぎの祠である。郭子儀がどうしてこんな所に祀られているのか判らない。他の一つは三国時代の袁紹えんしょうの部将の顔良がんりょうを祀ったもので、これもその由来は想像しかねるが、土地の者がいのるとすこぶる霊験があるというので、甚だ信仰されている。
 それがために、その周囲十五里のあいだには関帝廟かんていびょう(関羽を祀る廟)を置くことを許さない。顔良は関羽かんうに殺されたからである。もし関帝廟を置けば必ず禍いがあると伝えられている。ある時、その土地の県令がそれを信じないで、顔良の祠の祭りのときに自分も参詣し、わざと俳優に三国志の演劇しばいを演じさせると、たちまちに狂風どっと吹きよせて、演劇の仮小屋の家根も舞台も宙にまき上げて投げ落したので、俳優のうちには死人も出来た。
 そればかりでなく、十五里の区域内には疫病が大いに流行して、人畜の死する者おびただしく、かの県令も病いにかかって危うく死にかかったというのである。
 およそ戦いに負けたといって、一々その敵を怨むことになっては、古来の名将勇士は何千人にたたられるか判らない。顔良の輩が千年の後までも関羽に祟るなど、決して有り得べきことではない。これは祠に仕える巫女みこのやからが何かのことを言い触らし、愚民がそれを信ずる虚に乗じて、他の山妖水怪のたぐいが入り込んで、みだりに禍福をほしいままにするのであろう。

   節婦

 任士田じんしでん【引用元のルビ「んしでん」を改めました。加藤徹】という人が話した。その郷里で、ある人が月夜に路を行くと、墓道の松や柏のあいだに二人が並び坐しているのを見た。
 ひとりは十六、七歳の可愛らしい男であった。他の女は白い髪を長く垂れ、腰をかがめて杖を持って、もう七、八十歳以上かとも思われた。
 この二人は肩を摺り寄せて何か笑いながら語らっているてい、どうしても互いに惚れ合っているらしく見えたので、その人はひそかにいぶかって、あんな婆さんが美少年と媾曳あいびきをしているのかと思いながら、だんだんにその傍へ近寄ってゆくと、かれらのすがたは消えてしまった。
 次の日に、これは何人なんびとの墓であるかといてみると、某家の男が早死にをして、その妻は節を守ること五十余年、老死した後にここに合葬したのであることが判った。

【現代日本の似たような実話「祖母の四十九日で帰省。/ 遺影の前に置いてある祖母の二十代の写真を見て/ 私「わかっ!」/ 父「それを遺影にしてって言ってたんだ」/ 私「え!笑」/ 父「その日におじいちゃんが亡くなったんだよ。その姿じゃないと見つけてもらえないんじゃないかって言ってて…」/ 笑いごとじゃなかった、泣ける。」出典 https://grapee.jp/498405 加藤徹】

   木偶の演戯

 わたしの先祖の光禄公こうろくこう康煕こうき年間、崔荘さいそう質庫しちぐらを開いていた。沈伯玉ちんはくぎょくという男が番頭役の司事を勤めていた。
 あるとき傀儡師かいらいしが二箱に入れた木彫りの人形を質入れに来た。人形の高さは一尺あまりで、すこぶる精巧に作られていたが、期限を越えてもつぐなわず、とうとう質流れになってしまった。ほかに売る先もないので、すたり物として空き屋のなかに久しく押し込んで置くと、月の明るい夜にその人形が幾つも現われて、あるいは踊り、あるいは舞い、さながら演劇しばいのような姿を見せた。耳を傾けると、何かの曲を唱えているようでもあった。
 沈は気丈の男であるので、声をはげしゅうして叱り付けると、人形の群れは一度に散って消え失せた。翌日その人形をことごとくいてしまったが、その後は別に変ったこともなかった。
 物が久しくなると妖をなす。それを焚けば精気が溶けて散じ、再びあつまることが出来なくなる。また何かる所があれば妖をなす。それを焚けば憑る所をうしなう。それが物理の自然である。

【現代の日本でも「人形供養」をする神社や寺、団体はたくさんあります。https://otakiagejinja.com/media/1012https://www.ningyo-kyokai.or.jp/kuyou 加藤徹】



ミニリンク
  1. 加藤徹『怪の漢文力』紹介
  2. 青空文庫 岡本綺堂 作家別作品リスト:No.82
  3. 中国の聖地 泰山
  4. 中国の妖しい鏡
  5. 読売新聞書評 身近な恐怖の民俗学 評・加藤 徹


HOME > 授業教材集 > このページ