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北京 東ユーラシアの主都の歴史と魅力

最新の更新2021-3-23  最初の公開 2021-3-20

2021年3月20日土曜13:30−15:00 朝日カルチャーセンター・新宿にて。
(以下、https://www.asahiculture.jp/course/shinjuku/10df662b-7168-ca37-9736-5f8ba3bd33f1より自己引用。引用開始)
 三千年前、中国の辺境の小都市だった北京は、千年前の遼の時代から東ユーラシアの主都となりました。 元の時代の北京の繁栄はマルコ・ポーロを驚嘆させました。 以来、一部の例外的時期を除き、北京は中国の首都であり続けています。 欧州の都市を見慣れた洋画家の梅原龍三郎も、北京の美しさに魅了され、作品を残しました。 北京の魅力とそのダイナミックな歴史を、豊富な映像資料を使いながら、わかりやすく解説します。(講師・記)
引用終了。
梅原龍三郎(1888-1986)は洋画家。 若き日にパリで洋画を学び、1939年に満洲からの帰途はじめて北京を訪れて感動。 「雲中天壇」(1939年、京都国立近代美術館蔵)、「紫禁城」(1940年、大原美術館蔵)、「北京秋天」(1942年、東京国立近代美術館蔵) を描く。 パリと北京の対比は横光利一と共通(後述)。

本棚の整理がなかなか進まない。昔、学生時代に愛読した本を、ついつい読んでしまう。鐘ケ江信光(1912年- 2012年)著『中国語のすすめ』講談社現代新書もその一つ。ことばの勉強は「暗記、根気、年期」の3つの「き」が大事、というくだりには、いまも納得。 pic.twitter.com/mW9WL0toko

— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) March 23, 2021

※不肖・加藤徹は1990年9月から1年間、北京大学に留学していました「当時の写真」。その後も何度も北京に通っています。


参考動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nRXkLeMswOlDMcQoi_J_co


○古都・北京を理解するためのポイント

朝日カルチャーセンター 新宿 @asakaruko 「北京 東ユーラシアの主都の歴史と魅力」3月20日(土)13時30分から。ネット配信(有料)併用。民族と権力が興亡を繰り返す「世界史上最強の事故物件都市」(芥川龍之介や横光利一の北京観を超訳)の蠱惑的吸引力をやさしく解説。https://t.co/TZTxWdWOcD

— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) March 19, 2021
  1. 北京の前史は長いが、現在の北京の直接の前身はモンゴル帝国・元(1271年-1368年)の大都。
     漢民族だけではなく、モンゴル、満洲、チベット、回族などの都。
    ★「居庸関」(きょようかん。北京市街から北西に約50km)で「内陸アジア世界」とつながる。
      cf.明治大学和泉キャンパスの隣の、カルピス創業者・三島海雲翁顕彰碑は居庸関を模している。
    ★「積水潭」(せきすいたん。北京市内に運河の終着駅として作られた市内港)で海のシルクロードとつながる。
  2. 「北京」ペキンという呼称の定着は15世紀初頭、明の永楽帝の時代から。
  3. 東アジアと東ユーラシア(東部ユーラシア、ユーラシア東部)
    ★東アジア・・・現在の日本、中華人民共和国、台湾、モンゴル国、大韓民国、 朝鮮民主主義人民共和国などの地域。通常シベリアは含まない。
     新疆ウイグル自治区のウイグル人独立派など、自分たちは東アジア人ではなく中央アジア人である、と主張する人々もいる。
    ★東ユーラシア・・・ユーラシア大陸の東の三分の一。東アジアだけでなく、中央アジアやシベリア、東南アジアまで含む。
     cf.「内陸アジア」
  4. 国土の中央ではなくて「辺縁」にある地政学的理由。
     中華帝国のアキレス腱。cf.加藤徹著『貝と羊の中国人
    北京と東京、同一縮尺による比較
    東京と北京の比較,皇居と紫禁城の比較
  5. 四角形と左右対称の美意識。
     儒教の経典『周礼』冬官考工記の「世界首都」のコンセプト。
     宇宙の「紫微垣」と地上の「紫禁城」の関係。芥川龍之介は紫禁城を「夢魔」と形容(後述)。  東京は非相称。東京-中京-(西京?) 上野-中野-(下野?)
     北京は対称性を尊ぶ。東単-西単。天壇公園-地壇公園。日壇公園-月壇公園。北海公園-中南海。
     なお、新宿区と中野区は、それぞれ北京市東城区と西城区と友好都市の関係を結んでいる。
  6. 自己相似形の美意識。
     四合院と紫禁城の設計思想が同じである理由。
     東西南北の四角い壁で囲んだ瓦葺きの建物で、サイズだけ違う。


○北京の概略
★デジタル大辞泉の「北京」の項より。引用開始。
 中華人民共和国の首都。華北平原の北部に位置し、中央政府直轄市。遼・金・元・明・清の都として繁栄。 明代になって北京となり、1928〜1938年は国民政府が成立して北平(ペイピン)とよばれた。 旧内城中心の紫禁城は故宮博物院となり、その南に人民大会堂・天安門広場がある。人口、行政区1151万(2000)。ペイチン。
引用終了

★東京圏と北京圏
 http://www.demographia.com/db-worldua.pdfによると、 2020年の北京都市圏(行政区分ではない)の人口は19,433,000人で世界12位。世界第1位は「東京-横浜」都市圏の37,977,000人。
 この統計によると、「東京-横浜」都市圏の面積は8,230平方キロメートル。北京都市圏は4,172平方キロメートル。
 広さも人口規模も、北京都市圏は東京の半分くらい。
 なお、中国最大の都市圏は上海で、人口22,120,000人(世界第6位)、面積4,068平方キロメートルである。
 

世界の大都市圏人口ランキング、2020。世界第1位は日本の首都圏の約3800万。・・・こんなに集中して、大丈夫かな??? ちなみに中国の首都圏は世界第12位。韓国の首都圏は世界第8位。欧米のいわゆる先進国の首都圏の人口はどこも意外と少ないのは、示唆的。https://t.co/6Re4UyvYfg pic.twitter.com/ep6JRtSNtY

— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) March 19, 2021

○北京の歴史
【原型】
・春秋戦国時代の燕国の首都「薊(けい)」「燕」
 ことわざ「先ず隗より始めよ」は燕の昭王の故事成語。
・秦漢時代の「北平」(北の国境を守る要衝)
・隋唐時代の「幽州」
 陳子昂の漢詩「登幽州台歌」。
 唐王朝に反逆した安禄山の根拠地。
・征服王朝・遼の「南京」
 モンゴル系の遼から見れば「南京」であったことに注意。
・征服王朝・金の主都「中都」
 女真族(満洲人の前身)の国の首都となる。
【前身】
・征服王朝・元の「大都」
「もともとクビライの冬営地だった場所を城壁で囲んだものであり、モンゴルの遊牧民と 中国の定住民の風習が融合した性格をもつものだった。」(古松崇志『草原の制覇 大モンゴルまで』p.194、岩波新書、2020年)
【成立】
・明の「北平府」「順天府」「北京」
 明王朝の首都は南京だった。燕王・朱棣が第3代皇帝(永楽帝。在位1402-1424)になると、 北平を北京と改称して1403年に首都と定めた。実際に移ったのは1421年である。
・清の「順天府」「北京」
 現在の北京の古い建築はほとんど ・中華民国の「北平」
 1928年に蒋介石の国民政府は南京を首都に定め、北京は「北平」と改称。
・日本占領期1937-1945
 北京に改称。
・第二次大戦後
 蒋介石、北京を北平に戻す。
・中華人民共和国成立1949
 北平を「北京」と改称して首都とする。現在に至る。
※上記以外にも北京の呼称の細かい変遷があったが、省略。

「北京」を「ペキン」と読むのは英語Pekingの影響。
明の永楽帝より前の「北京」は、日本語では漢音で「ほくけい」と読む。
もともとは「五京制」をしいた王朝の都市名として使われた。具体的にどの場所を指すかは時代ごとに違った。
唐の北京太原府は現在の山西省太原市。
宋の北京大名府は現在の河北省邯鄲市。
金の北京大定府は現在の内モンゴル自治区赤峰市寧城県。
「北京」が現在の北京を指す地名として定着するのは、6百年前の明の永楽帝からで、これ以前の「ほくけい」と区別するため「ぺきん」と読むのが日本語の習慣である。
ある。
遼の「南京」(現在の南京市とは違う)時代以降、ペキンは、非漢民族系の王朝の都市であった時期が長く続く。
中華帝国の世界首都としてのペキンは、元の時代に始まる。
明の初期や中華民国時代には、首都でなくなった時期もあった。
現在の故宮(紫禁城)は、明の永楽帝が建築したもの

北京・紫禁城関連の画像 紫禁城 北京の地図 長安街 北京

○日本人が見た昔の蠱惑(こわく)的な北京
 北京は、庶民目線で自然発生的に発展した都会ではない。 ヒトラーが構想した「世界首都ゲルマニア」を、数十倍の規模で 実現した古都である。日本の知識人は、そこに魅かれた。
芥川龍之介(1892−1927)「北京日記抄」より。「青空文庫」より引用。
 今日も亦中野江漢君につれられ、午頃より雍和宮(ようわきゅう) 一見に出かける。喇嘛寺(らまでら)などに興味も何もなけれど、否、寧ろ喇嘛寺などは大嫌いなれど、 北京名物の一つと言えば、紀行を書かされる必要上、義理にも一見せざる可らず。(このあと、詐欺めいた挿話がある。中略)
 天壇。地壇。先農壇。皆大いなる大理石の壇に雑草の萋々(せいせい)と茂れるのみ。
 天壇の外の広場に出ずるに、忽(たちま)ち一発の銃声あり。何ぞと問えば、死刑なりと言う。
 紫禁城。こは夢魔のみ。夜天よりも厖大なる夢魔のみ。


横光利一(1898-1947)「北京と巴里(覚書)」より。「青空文庫」引用
 (前略)北京は消費の街だという。なるほどこの街では生産というものをかつてしたことのない人物が、 代々かかってどれほど人間が消費を出来るものかと、あらゆる智慧を絞って工夫に工夫をこらせた有様が歴然と現れている。 (中略)北京へ行くものは悪徳と戦うつもりで行かない限り、身につけた現世の健康なものはすべて無くなってしまうかもしれぬ。 ここには精神のある美よりも詐術の美を美とする精神がある。 もし疲労と孤独のために難なくこれに襲われたら、恐らく北京ほど美しく見える都会はないだろう。 死体に色づけ客間に置き放したまま嫣然と笑わせたようなこの都会の女性的な壮麗さは、 たしかにどこの国にも類例はあるまい。
 (中略)数世代も続いた都を他民族に征服され、またそれが崩れると次の民族が交代するという肉体の死滅して来た累積層 の中には、残るものはこのように頓狂なものばかりかと思って私は茫然とした。かつて有ったに相違ない良いものは、 殆ど演劇だけを残して死んでしまっていて、尨大な駄作ばかりが本尊となりすまし、樹の海がひとり祭壇をめぐっている。 ここで一番人心に感動を与えているものは、今は小唄のような哀れな歌調をもった節廻しだけである。しかし、大衆というものは駄作ほど喜ぶ。駄作が傑作となって永久に残るというこの地の特種な機構は、何かこの北京に限り他国とは比較にならぬ犯罪の深さを物語ってやまぬものがある。
 北京に遊ぶ知識人はよく前から、ここは全くパリに似ているというのを私は聞いた。あるフランス人は北京はパリ以上だとも言ったという。(以下略)


○参考 中国の都城制
 古来、漢民族は「天円地方」という宇宙観を持っていた。大地は方形(四角形)であり、「囲」「国」などの漢字も方形であり、都城も家屋も麻雀卓も東西南北の四角四面に作るのを好んだ。
「内城外郭」「城郭都市」「条坊制」・・・

儒教の経典『周礼』(しゅらい)「冬官考工記」
「匠人営国、方九里、旁三門。国中九経九緯、経涂九軌。左祖右社。面朝後市、市朝一夫。」
匠人が「国」(都城)を造営するにあたっては、1辺の長さを9里として、それぞれの1辺に城門を3箇所ずつ作る。都城の中には、南北方向に9本、東西方向にも各9本の街路を作る。街路の幅は、馬車の軌道の9倍とする。左に祖先を祀る祖廟を、右に土地神を祀る社稷を建てる。前方に朝廷、後方に市場の区域を設けるが、市場も朝廷も面積は1夫とする。
※「9」が多いことに注意。『易』の陰陽思想の影響もある。
※古代中国の長さの単位 6尺=1歩(現代人の感覚では2歩。約 1.35 m) 300歩=1里
※古代中国の面積の単位 1歩=1歩(6尺)4方 1畝(ほ、ムー)=100歩 1夫=100畝(距離の百歩四方=1万歩)  1里(面積の単位としての里。井田)=300歩(長さとしての歩)4方=9万歩
※度量衡は時代による差が大きいので注意。ちなみに現代中国の「市制」の1畝は約6.67アールであるが、それを百倍した約6.67ヘクタールが古代中国の1夫だったわけではない。
『周礼』は、西周初期の理想的かつ理念的な文物制度を述べているとされる書物で、儒教の経典の一つだが、その中の「冬官考工記」は内容から見て戦国時代に成立したらしい。中国の歴代王朝の都城の設計思想は、「冬官考工記」をベースとしているが、規模やデザインを完璧に実現した都城はなく、現実にそってアレンジしている。
cf.日本史上、条坊制による初めての都である藤原京が短命に終わった理由は「日本人の祖先が『冬官考工記』のコンセプトを鵜呑みにして騙されたから」という説がある。

「風水」と都城
伝・郭璞(かくはく)『葬書』「気乗風則散、界水則止。古人聚之使不散、行之使有止。故謂之風水」(気は、風に乗れば則ち散り、水に界せられば則ち止る。古人は之を聚めて散らしめず、之を行かせて止るを有らしむ。故に之を『風水』と謂ふ」
 良い「気」が集まるような場所が、都城を作るのにふさわしい。
「背山面水」・・・北側が山、南側が川などが良い。
「蔵風聚水」・・・良い気を散らしてしまう風を防ぎ、良い気をとめるのに役立つ水があるような場所。
「四神相応(しじんそうおう)」・・・東に流水(青竜)、西に大道(白虎)、南にくぼ地(朱雀)、北に丘陵(玄武)が備わる土地(異説もある)。

中国人の宇宙観「天地人」「天文地文人文」「天人感応」・・・
 古代中国のアステリズム「星官」←→西洋の「星座」と根本的な発想の違い。
 古代中国人は、「地」は地上の天子が支配する王国(帝国)、「天」は天上の天帝が支配する帝国であると考えていた。古典小説や京劇の「孫悟空 天宮で大暴れ」の話を見ると、天上の星々はそれぞれ天帝に仕える官僚組織になっている。
 星々のまとまり「三垣」、木星とかかわりの深い「十二次」、天の赤道をもとにした「二十八宿」・・・
 三垣は「紫微垣」「太微垣」「天市垣」の3つがある。北京の「紫禁城」は、理念的には天上の「紫微垣」をモデルとしている。

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