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国語学会シンポジウムの感想
「国語学会」改称について
「国語学」とは、日本語を言語の側面から研究するものです。最近、「国
語学」という名称に代わるものとして、「日本語学」という名称が提唱さ
れ、それを自らの専門分野とする研究者も数多くいます。
「国語学」という名称については、現在、これを積極的に排しようという考
え方と、「日本語学」という名称を採用することによって、いわば消極的
に、結果的に、排しようとする考え方があるようです。
「国語学」という名称を積極的に排しようという人々は、その名称が、排
他的であるということを論拠に挙げます。つまり、「国語学」といっても、
イギリスであれば現実の対象は「英語」になるし、中国であれば「中国語」
になる。従って、日本語だけを「国語」と呼ぶのは独善的だというのです。
たしかに、「国語の研究」に、「米国における国語の研究」と「米国におけ
る」を修飾させてみますと、そこの「国語」という言い方が、どうにも落ち着
きが悪いことに気付きます。これは、やはり、「米国における日本語の研
究」でないとまずそうです(一方、「『徒然草』の日本語学的研究」という
名称もしっくりこないような気がするのですが、これは個人差があるので
しょうか)。
しかし、名称が排他的だと言いますが、韓国でも、自国語の研究は「国語
学」と称しますし、中国でも「国語学」という名称は、自国語の研究(とくに、
方言研究)と捉えられるようです。とすれば、韓国でも、中国でも、排他的
な名称を使っているということになります。また、「国―」が排他的なものだ
とするならば、国立大学も「日本立」あるいは「日立」(にちりつ、ひたちニア
ラズ)大学と名称変更する必要があるのではないでしょうか(ただし、これ
は、すこし、まぜっかえしです^^;;)。
「国語学」という名称を用いることによって、精神が排他的になるとは、どう
しても思えません。それとも、誰かによって、そのことは証明されたのでし
ょうか。
次に、「日本語学」という名称を積極的に採用しようとする考え方は、世界
の言語の中の「日本語」という位置付けをすべきだから、個別言語学の一
つたる、客観的な「日本語学」がいいのだと考えます。確かに、日本語は、
世界の5000から3000と言われる言語の一つにすぎません。また、日本
語の研究は、言語の研究の一つの個別的なケースであることも事実です。
これでよければ、これを採用すればよいわけで、そうすれば、自然と「国語
学」の名称は消えていきます。
しかし、それでは、現実に、言語学の一つとして日本語を研究するというと
どうなるのでしょう。言語学の進展を大いに進めた比較言語学を知るため
には、ギリシア語・ラテン語、サンスクリット語の知識は必須でしょうし、英
語・ドイツ語・フランス語も、基本的な言語として、論文が書けるぐらいに習
熟する必要があることでしょう。私個人のことを言えば、そこですでに落第
です。
私は、日本という国の中だけで、日本語だけの文献を対象に、ただし、海
外の論文(英語・ドイツ語・フランス語のみ。それも、しょぼい語学力です
^^;;)を参照しながら、日本語だけを用いて論文を執筆しています。まさに、
「国語学」者なのです。そのようなわけで、このホームページを、「国語学」
のホームページと呼んでいるのです。
ところで、一方、「日本語学」を標榜する研究者で、日本語の言語事象を、
毎年、確実に、自分の手で(つまり、翻訳でなしに)外国語で海外に発信し
ている研究者がどれほどいるのだろうと思うと、かなり心許ないように思え
ます(もちろん、皆無でないことも事実ですから、その人は、もちろん、胸を
張って、自分は「日本語学」者だと言うことができるでしょう。「日本語学」を
提唱し、「国語学よ、死して、生まれよ」といった亀井孝氏も、もちろん、そこ
に含まれるでしょう)。やっていることは、日本という国の中だけで、日本語
だけを対象に、海外の論文(英語が中心のようですが)を参照しながら、日
本語だけを用いて論文を執筆しているという、従来の「国語学」者とそう変
らないようにも思えます。とすれば、これは、単なる名称の問題に過ぎない
ように思えてなりません。「ボクを今日からアイアンマンと呼んでくれ」と言っ
たところで、人間の体は、名前を変えただけでは、鉄と同じ固さにはなりま
せん。
そうすると、自分を「日本語学」者だと、差別化する積極的な理由もありま
せん。そのようなわけで、このホームページを、「国語学」のホームページ
と呼んでいるのです。
なお、「日本語」を用いて、自分は「日本語の研究」をしている、「日本語研
究」者だと呼ぶことには、自分自身、たいして抵抗がないような気もします。
「日本語学」と呼ぶ考え方は、実は、研究とは「学」でなければならない、ア
カデミズムでなければならないという、別の精神的な呪縛があるように思う
のは、考えすぎでしょうか。
研究者の団体の名称についても、「国語学会」をやめ、「日本語学会」にす
べきだという議論があるそうです。なぜ、二者択一なのでしょう。「日本語」
を用いるにしても、第三の選択として、例えば、「日本語研究会」や「日本語
を学ぶ会」などという案はないのでしょうか。名称が、「―学会」でなければ
ならないということは、ないはずです。
翻訳する場合は、「国語学」は、Occupation: Japanese Linguistics, or
Japanese Philology ということになるでしょう(ご自分のホームページにそう
名付けている方もいらっしゃるようです)。「国語」をそのまま直訳するはずな
どありません。「国語学」を訳しても理解されないなどと言うのは、つまりは、
訳し方を知らないのです(ちょっと、ここは怒りのモードです^^;;)。
参考に、『日本史大事典』(平凡社、1993)に項目執筆した、「日本語学」「国
語学」の項目を載せておきます。
とはいえ、私の考えにも、事実誤認などもあるかもしれません。考えの足りな
いところなどは改めるにやぶさかではありません。
ご意見などお聞かせ頂ければ嬉しく存じます。
2001.06.01、執筆
2001.06.12、一部改訂
2001.11.13、改称問題を補足、内容に一部補足