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中国の後宮 王朝をささえた内廷の歴史
最新の更新2025年10月26日 最初の公開2025年10月26日
- 10/28 古代の後宮
- 11/04 漢の後宮
- 11/11 南朝の後宮
- 11/18 北朝の後宮
- 11/25 隋唐の後宮
早稲田大学エクステンションセンター中野校
火曜日10:40〜12:10 全5回 2025・/10/28, 11/04, 11/11, 11/18, 11/25
以下、https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/65953/より引用。引用開始
目標
・私たちが生きている今の時代がこのようになった理由を考える
・日本史と中国史という枠組みを取り払い、世界的な視野から東アジアを見直す
・歴史の予備知識がない人にも、身近なことから考える楽しさを体験してもらう
講義概要
国家は、国と家と書きます。中国の君主にとって、大臣や官僚とともに政治を行う外廷と、后妃とともに暮らす内廷すなわち後宮は、国家経営の両輪でした。外廷の政治は儒教とか科挙とか論理的な計画設計が可能であり、古代から近代にかけて改革と改良が試みられました。内廷すなわち後宮は、国家安定のため君主の男系子孫を安定供給する「宗族製造インフラ」でしたが、妊娠という偶然に左右される生理現象が頼りでした。そのため后妃や宮女、宦官を巻き込んだ後宮の騒動は、しばしば国家をゆるがしました。本講座では、後宮から見た殷王朝から唐までの中国史を、豊富な映像資料を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。
★参考図書 book.html#koukyuu 加藤徹『後宮 殷から唐・五代十国まで』角川新書、2025年9月10日
KADOKAWAの公式サイト
https://www.kadokawa.co.jp/product/322409000459/
「試し読みをする」で、本文60頁まで読めます。
10/28 古代の後宮
中国の有史時代は紀元前14世紀ごろ、殷王朝の後期に始まります。文字による歴史記録は、史実というより説話であり、ヒストリーというよりストーリーでした。
殷王の妻で将軍だった婦好、紂王の説話に出てくる妲己、西周の滅亡のもととなった褒姒、多くの君臣と関係した美魔女とされる夏姫、など、
いわゆる先秦時代の人物たちは、多くの謎に包まれています。
しかし、戦国時代に成立した儒教の経典『礼記』で君主の後宮の后妃の定員が定められるなど、後宮の制度が始まったのも先秦時代でした。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-loJskwNRhG3fRPPQWgxv64
○ポイント、キーワード
- 国家
国=外廷
家=内廷(後宮)
- 家政機関
国政機関に対する概念。後宮は「家政機関」であった。
- 先秦時代 せんしんじだい
中国史上、前221年の秦(始皇帝の秦)による中国統一以前の時代を指す。
神話時代、夏・殷・周(西周)の三代、春秋・戦国時代からなる。
★後宮とは何か
中国の後宮は、歴代王朝においてきわめて特異な空間だった。皇帝の妻妾である后妃を中心に、膨大な宮女と宦官が居住し、その規模は小都市に匹敵した。「後宮佳麗三千人」「三宮六院七十二妃」といった常套表現は、その巨大性を象徴している。例えば西晋の武帝・司馬炎は、一万人規模の後宮を羊車で巡り、女性たちは皇帝が立ち寄るよう塩を盛って誘った。この逸話が日本における「盛り塩」習俗の起源とされる。
後宮の主は天子=皇帝であり、秦の始皇帝以降に確立した称号である。始皇帝から清末の宣統帝(溥儀)の退位まで約二千年、数百人の皇帝が出現した(皇帝の総数には自称皇帝を含むかで諸説あり)。こうした皇帝の多くは後宮で生まれ、権力争いに翻弄され、あるいは夜の営みに溺れて後宮で命を終えた。後宮は皇帝の家庭であると同時に、政治と密接に連動する危険な権力の温床でもあった。
世界史的に見ると、オスマン帝国のハレムや日本・朝鮮の後宮など、中国と似た制度は存在する。しかし中国の後宮は規模、概念、運営ノウハウの点で突出していた。そもそも「皇后」や「後宮」という明確に制度化された概念は、漢字文化圏特有の現象と言える。
ヨーロッパ世界には、中国的な後宮は存在しなかった。古代ローマの皇帝(カエサルやネロなど)は多くの愛人を持ったが、制度化された後宮は持たなかった。ローマ皇帝は世継ぎに恵まれず、五賢帝の多くは養子を後継とした。このことは王権の不安定を生み、暗殺や不慮死を招いた側面もある。後宮が不在のため、血統に対する疑義が生じる余地も大きかった。実際、英国王リチャード三世のDNA調査では、家系図に存在しない父系の混入が指摘されるなど、血統問題が歴史学を揺るがした。
一方、中国の後宮は女性の貞操管理を徹底し、血統の純粋性を保証する「悪魔の知恵」とも形容されるほど高度にシステム化されていた。皇帝の子が他人の血を混じえる余地はほぼ排除されていたのである。
儒教の経典『礼記』昏義には後宮組織を次のように記載している。
古者天子後立
六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻、
以聴天下之内治、以明章婦順、故天下内和而家理。天子立
六官、三公、九卿、二十七大夫、八十一元士、
以聴天下之外治、以明章天下之男教、故外和而国治。
故曰、
天子聴男教、後聴女順、
天子理陽道、後治陰徳、
天子聴外治、後聴内職。
教順成俗、外内和順、国家理治、此之謂盛徳。
これは、儒家が理想化した「いにしえの理想的な後宮」像で、後世の歴代王朝の後宮のモデルになった。
内治の組織は六つの宮殿からなる「六宮」であり、外治の組織は六つの官公庁からなる「六官」である。それぞれのメンバーの階級は、
六宮の女性は上から順に「三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻」
六官の男性は上から順に「三公、九卿、二十七大夫、八十一元士」
である。一階級下がるごとに定員は三倍づつ増える。
天子のつとめは国家、すなわち朝廷と家庭を治めること。天子は、プライベートな後宮でもオフィシャルな朝廷も、道徳的に模範となる態度で治めねばならない。そうすれば、天下の男女は教化され、人民に対する政治も良くなり、人民の家庭生活も円満になり、世界の平和と繁栄が約束される。
アジアでも制度は異なる。オスマン帝国のハレムは君主の私的空間であったが、女性の多くは奴隷であり、世継ぎを産む器として扱われた。「腹は借り物」という価値観が徹底していた点は中国と似るが、女性が皇帝の正式な妻となる制度は稀であった。また日本の平安後宮は管理が緩く、宦官も存在せず、自由な出入りが可能だった。『源氏物語』などは、もし中国並みの厳格管理があれば成立しえなかった物語である。
中国後宮史は神話的時代に遡る。黄帝は一夫多妻だったと伝えられ、夏・殷の王朝にも後宮的装置は存在したとされるが、史実性は不明確である。確実な記録に基づく後宮制度は、春秋戦国期に儒家思想が西周の制度を理想化し、整備の基盤が形成された点に求められる。その後、秦漢以降の中央集権国家体制の確立とともに後宮は制度化が急速に進んだ。
以後、後宮は「皇帝の子を産む装置」「政治権力の延長」「血統維持機関」として、中華帝国と運命を共にした。後宮の女性たちは華麗な衣装をまといながらも、極度に管理された閉鎖空間で一生を過ごした。皇后を頂点とする厳格な序列、宦官という去勢男性による監視とサービス体系、そして後宮内部の争いがしばしば天下の趨勢を左右した。後宮を制する者は皇帝を動かし、国家を動かすという現実があった。
このように中国の後宮は、単なる男女の情愛の場ではない。統治の中枢と血統維持を担う「国家機関」であり、皇帝権力の核心を占めた特異なシステムである。
★歴史学と考古学
歴史学は文献を、考古学は遺物を重視し、時に主張が矛盾する。神武天皇の即位年を根拠にした建国記念日も、考古学的には当時国家が存在せず、戦後はその記述が疑問視された。中国では今も共産党の統治正当化のため、政治的歴史観が優勢で、都合の悪い物証は無視される。
★黄帝と神武天皇
日本が神武天皇の「皇紀」を使ったように、中国も自国の古さを示すため「黄紀」を設けた。黄帝は神話上の帝王で、文明を開いたとされるが実在は確認されない。現在は中華民族の始祖として政治利用され、中国医学の祖ともされる。
★一夫多妻と嫫母
黄帝は一夫多妻で、醜女とされた嫫母もその一人。才徳を重んじた黄帝は彼女を評価し、嫫母は鏡を発明したと伝えられる。これは史実ではないが、女性を徳で見るべきという後世の理想を反映する。黄帝の時代像は、後宮文化や房中術の原型ともなった。
★最初の世襲王朝と後宮
古代中国の王位継承には、禅譲・世襲・放伐の三形があり、世襲が始まったのは夏王朝からとされる。夏の桀王は暴君で、殷の湯王に放伐されて滅んだ。以後、中国史は王朝が堕落し新王朝に取って代わられる「易姓革命」を繰り返す。禅譲時代には不要だった後宮は、世襲体制の確立とともに後継者確保のため生まれた。
夏王朝の実在は中国では公認されるが、同時代資料がなく国際的には未確定である。桀王の妃・末喜は伝説的悪女として知られ、『列女伝』などで描かれる。彼女は美貌だが無徳で、桀王とともに酒と快楽に溺れ、池を酒で満たして人を死なせ、それを笑って喜んだとされる。これらは後世の創作で、暴君と悪女の象徴として道徳的教訓に用いられた。結局、桀王は湯王に討たれ、末喜とともに滅亡した。
★殷王朝の後宮
殷(商)は、紀元前1600〜前1100年頃に栄え、文字資料が残る最古の実在王朝である。甲骨文字の発見により「有史時代」が始まった。王・武丁の妃「婦好」は実在が確認される最古の女性で、軍を率いた司令官でもあった。墓の発見で高い地位が裏付けられたが、後世には忘れられた。
甲骨文字には男性去勢を示すとみられる文字もあり、殷代にすでに宦官的存在がいた可能性がある。ただし、当時の「宦官」は必ずしも去勢男性ではなく、単に宮仕えを指す言葉だった。
最後の王・紂王は妃の妲己に溺れて「酒池肉林」などの逸話を残し、暴政で周に滅ぼされたと伝えられる。しかし考古学的には宗教的祭祀の大量消費が誤解された可能性が高い。妲己は後世、「悪女」の代名詞として語り継がれ、日本でも九尾の狐伝説に転化した。
★西周も美女で滅んだ
殷を滅ぼした周は西安西部に都を置き、これを西周という。孔子はこの時代の制度を理想とし、後世の東アジア文化に影響を与えた。周王朝では、王の死後に徳行を評価して諡号(おくり名)を与える制度があり、文王・武王・成王などは名君、脂、・幽王は暗君として伝わる。
第十二代の幽王は美女・褒姒を寵愛し、后と太子を廃してまで彼女を喜ばせようとした。褒姒はなかなか笑わなかったが、幽王が非常警報の「のろし」をいたずらに上げて諸侯を空集させると笑ったという。のちに本当に異民族が侵攻したとき、誰も援軍に来ず、幽王は殺され、褒姒は捕虜となった。
これにより周は滅び、都を東の洛陽に移した平王の時代から東周が始まる。美人に惑い国を失う「褒姒の笑い」は、桀の末喜・紂の妲己と並ぶ亡国の象徴として語り継がれた。
★春秋時代の孔子と悪女
古代の後宮は史実が乏しく、宦官の存在も語られないが、美女に溺れて国を滅ぼす王や、后妃による混乱という説話は、のちの則天武后や楊貴妃などに通じる「後宮の教訓」として語られた。
西周滅亡から約二百年後、春秋時代の魯に孔子が生まれる。『論語』には謎めいた記述が多く、たとえば「国君の妻の呼称」に関する説明や、「禘の祭り」についての発言がある。前者は君主の格付けに関わるもので、のちの史家・陳寿も『三国志』で蜀の劉備らの妃を「皇后」と称し、蜀の正統性を暗に主張した。称号の序列は、後宮や国家の格にも直結する問題だった。
孔子が「禘の祭り」について「知らない」と答えた理由には、彼が儀礼の専門家でありながら礼の乱れを目撃し、それを避けたという「孔子韜晦説」がある。魯では祖先の木主の並びが嫡庶を無視しており、孔子は礼の乱れを嫌って「それ以上見たくない」と語ったとされる。
この「嫡庶の序」の問題は、後宮制度と密接であり、庶子にも王位継承を認める儒教社会では、妻妾の地位が政治的な争いを生み、唐の則天武后などに象徴される陰謀の温床となった。
また『論語』には、衛の霊公の妻・南子という悪女が登場する。孔子は彼女との面会を嫌ったが、招かれて会見した。南子は霊公と愛人・宋朝との関係で国を乱し、孔子は衛を去った。南子を巡る騒動は「色に溺れる王」と「乱れた后妃」の典型であり、孔子の理想とする「礼の秩序」との対比として描かれる。
南子は後世、淫乱な悪女として非難される一方、現代ではマグダラのマリアのように哀しみを帯びた女性として再評価されてもいる。
★中国古代四大美女
中国では、西施(春秋末)、王昭君(前漢)、貂蝉(後漢末、伝説上)、楊貴妃(唐)の四人を「四大美女」と呼ぶ。
その美しさを「沈魚落雁・閉月羞花」の成語で形容する。
四大美女の筆頭・西施は越国の美女で、范蠡に見出され、呉王夫差の後宮へ「美人計」として送り込まれた。夫差は政務を怠り、越王勾践は「臥薪嘗胆」の末、紀元前473年に呉を滅ぼした。
西施の末路には、処刑説と范蠡と逃亡して幸せに暮らしたという説がある。伝説的存在となり、李白の詩や芭蕉の俳句にも詠まれた。
芭蕉は『奥の細道』の旅で秋田の象潟(現在の秋田県にかほ市の一部)に来たとき、その光景を次のような俳句を詠んだ。
象潟や雨に西施がねぶの花
参考 「「美女は人間兵器」、女性を使ってライバル国を内部から崩壊させてきた中国伝統の策略」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/90456
★秦の後宮
春秋時代は東周が形式上の「王」として存続しつつ、覇者が「尊王攘夷」を唱えて抗争した。だが戦国時代に入ると諸侯が勝手に「王」を称し、富国強兵で領土・人口を急増させた。文化も勃興し、後世の故事成語も多く生まれた。
前221年、秦王嬴政が中国を統一し、王号の権威低下を踏まえて「皇帝」を新設、自ら始皇帝を称した(当時39歳)。だが正妻=初代皇后の記録はなく、後宮は不明点が多い。
始皇帝の前史には、後宮の寵愛と皇位継承が密接に関わった。曾祖父昭襄王は武功を挙げ、母である宣太后が垂簾聴政を行い領土拡張を主導した。一方、祖父安国君(孝文王)は凡庸だが側室が多く、公子=世継ぎ候補を多数生んだ。しかし寵妃・華陽夫人には男子がなく、人質に出されていた末位の息子・異人(子楚)が、商人呂不韋の工作で養子かつ太子に抜擢された。
昭襄王死後、安国君→荘襄王(子楚)と相次ぎ即位するも短命で、趙で生まれた13歳の子が王位継承。のちの始皇帝である。もし華陽夫人に男子がいれば、始皇帝は登場しなかった。
さらに『史記』は、始皇帝の実父は呂不韋だとする説を記す。呂不韋の妾が妊娠中に子楚へ献上され、生まれた子が嬴政=始皇帝とされた可能性である。
『史記』呂不韋列伝によれば、始皇帝(嬴政)は呂不韋の子とする疑いがある。趙に人質だった子楚(異人)に対し、呂不韋は莫大な投資を行い、邯鄲で同棲していた美しい妾(後の趙姫)が妊娠中にもかかわらず、彼女を献上した。その後に生まれたのが嬴政であり、妊娠期間の不自然な長さが父子関係をめぐる疑惑を生んだ。
荘襄王(子楚)死後、趙姫は呂不韋と密通を復活させたが、成人しつつあった政に察知されることを呂不韋は恐れ、趙姫の情欲処理役として嫪毐を「偽宦官」に仕立てて後宮に潜入させた。趙姫は嫪毐の子を密かに産み、嫪毐は巨富と権勢を得た。
秦王政9年(前238)、嫪毐の乱が発覚し、クーデターは失敗。嫪毐とその一族は処刑、隠し子も殺害された。呂不韋も関与が露見し失脚、蜀へ流され自殺した。
太后趙姫は政によって直接罰せられなかったが雍に幽閉され、十年後に死去。夫荘襄王と合葬された。
統一後、始皇帝は度量衡・文字統一、大土木事業(長城・阿房宮・直道)を推進したが、労役の怨嗟を招き、死後16年で秦は滅亡。
また始皇帝の死後、二世皇帝を操り政権を壟断した「宦官」の趙高は、後世のような去勢宦官ではなかった、という説もある。
概して秦の後宮は、よくわからないことが多い。
始皇帝は国家統合の英雄であると同時に、後宮と血統の政治に翻弄された統治者でもあった。
始皇帝がもうけた子女はあわせて三十人余りだったらしい。司馬遷の『史記』始皇本紀や李斯列伝の記述からみると、始皇帝の息子は二十人余り、娘は十人くらいだった。秦末の動乱で記録が失われたこともあり、正確な数はわからない。
参考 「秦の始皇帝も「後宮問題」に一生ふりまわされた 人気漫画『キングダム』の呂不韋はどう「相国」に上り詰めたのか」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/90460
[一番上]
11/04 漢の後宮
220年からの中国史における分裂時代で中国史上初の帝国は、始皇帝の秦でしたが、短命で滅びました。始皇帝の正妻「始皇后」が誰であったのか、秦の「宦官」趙高が去勢宦官であったのかどうか、秦の後宮は謎だらけです。劉邦が建てた漢帝国の後宮は、規模は大きかったものの、なにぶん歴史に前例がなかったため、想定外の事態の連続でした。中国の三大悪女に数えられる初代皇后・呂后、書類上のうっかりミスでシンデラレになった竇皇后、60代で公然と美少年を愛人にした館陶公主、腹上死疑惑の皇帝と趙飛燕姉妹、など破天荒な人物を輩出しました。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nj6GSJOUmjW8nGyHdfrYxN
○ポイント、キーワード
- 古典古代 classical antiquity
西洋史で、ギリシア・ローマ時代を指す。同時代の中国は、春秋・戦国時代から秦漢であった。
特に漢王朝は「漢字」「漢文」「漢民族」など中国文明の出発点となった。
- 前例なき時代
前漢の初代皇帝・劉邦は農民出身であった。農民が皇帝になるということをはじめ、前漢は前例のない事態が続出した。
後宮の運営も試行錯誤の連続だった。外戚や宦官、王朝末期の天子の短命化など、歴代王朝が経験する宿痾は、前漢に始まる。
- 社会インフラとしての宗族
前漢の武帝の時代から儒教の国家教学化がはじまった。父系の先祖崇拝を行う儒教は、宗族(父系同族集団)の社会インフラ化を助長した。
後宮は天子の子孫を増産する宗族製造工場でもあった。粗製濫造のきらいはあったものの、実際、後漢の劉秀や、三国志の蜀漢の劉備など、漢が三度復興できた理由は、宗族の力による。
漢王朝は「漢字」「漢民族」の語源にもなった大帝国で、前漢と後漢を合わせて四百年以上続いた。
「秦漢帝国」「漢魏六朝」と並称されることも多く、『三国志』の舞台となるのも後漢末から魏の滅亡までの「漢魏」の時代である。
○前漢の初期
前漢の創始者・劉邦(高祖 asahi20200625.html#03)は紀元前202年に即位し、前漢は約200年続いた。人口は秦の三倍に増え、国力の充実とともに後宮制度も拡大した。
初期の后妃の序列は「皇后、夫人、美人、良人、八子、七子、長使、少使」の八階級であったが、後に、
皇后、昭儀、婕、、娙娥、容華、美人、八子、充衣、七子、良人、長使、少使、
五官、順常、無涓、共和、娯霊、保林、良使、夜者
となった。正妻である皇后は別格として、側室の階級は「昭儀」以下の十四等まで増えた(「順常」は十三等で、「無涓、共和、娯霊、保林、良使、夜者」はまとめて第十四等)。 前漢の首都は長安だったが、後漢は、より小さな古都・洛陽に遷都した。光武帝は後宮も縮小した。
皇后、貴人、美人、宮人、采女
の五階級になった。
劉邦は庶民出の豪傑で、のちに漢王朝を創った。もと亭長という小役人にすぎなかったが、秦末の乱に乗じて頭角を現した。彼は自らの力だけでなく、人を使う才覚にすぐれていた。蕭何・張良・韓信らを登用し、ついに楚の項羽を破って天下を取った。
劉邦には多くの妻妾がいたが、正妻の呂雉(呂后 asahi20250410.html#02)は気丈な女であった。彼女は夫の出世を支え、戦乱の苦難をともにした。しかし天下を取ると、劉邦の愛は若く美しい戚夫人に移る。呂后は冷遇され、恨みを胸に秘めた。
劉邦は死に臨み、跡継ぎをめぐって一時は戚夫人の子・如意を皇太子にしようとした。だが張良と四人の老臣が諫め、呂后の子・劉盈が継ぐ。呂后は彼らの忠言に感謝しつつ、心の奥に怨念を宿した。
劉邦の死後、呂后は政権を掌握し、宿敵戚夫人に復讐する。彼女を捕らえ、「人間ブタ」にしてトイレの地下に幽閉した。恵帝は母の所業に心を痛め、「自ら政治を見ることができない」と嘆き、まもなく病死した。それでも呂后は権力を離さず、呂氏一族を次々と重職につけた。彼女の死後、功臣たちが一斉に蜂起し、呂氏を誅滅。こうして再び劉氏の天下が回復され、やがて文帝の治世へと続いていく。
【参考記事】前漢皇帝・劉邦の正妻に「人間ブタ」にされた美しき側室の悲劇 2025.9.11
https://courrier.jp/news/archives/412424/
司馬遷は『史記』において、呂后の伝記を「呂后本紀」として立て、彼女を天子と同格の最高権力者と認めた。呂后のせいで、劉邦の八人の息子のうち、生き残っていたのは二人だけだった。そのうちの一人が諸臣により長安に呼び戻され、第五代皇帝になった。中国の歴代の皇帝のなかでも名君の誉れが高い、文帝である。
文帝の母・薄姫は、劉邦に召されることがまれだったため、呂后の嫉妬の対象外となり、息子ともども命を長らえることができたのである。
文帝の皇后で、景帝の母親となった竇姫(前二〇五年―前一三五年 asahi20250109.html#02)は偶然に翻弄された女性だった。竇姫は呂太后に仕える宮女だった。諸国の王に宮女を下賜する際、趙への配属を望んだが、文書係の記入ミスで代国へ送られ、そこで代王劉恒の寵愛を受けた。娘と二人の息子を生み、やがて劉恒が即位して文帝となると、竇姫は皇后となった。文帝の死後、息子が景帝として即位し、竇姫は太后となる。彼女は孫の武帝の初期まで生き、政治にも影響を及ぼした。
景帝の後宮も偶然が支配した。ある夜、景帝は酔っ払い、お気に入りの程姫を召し出したが、彼女は月経中だったので、自分の侍女の唐氏を送り込んだ。唐氏が妊娠したあと、景帝は初めて事実を知った。生まれた皇子・劉発も子だくさんで、後漢の初代皇帝・光武帝もその子孫だった。
○前漢の最盛期から後期にかけて
景帝の死後、武帝 asahi20201008.html#02 が即位したのも、竇姫ら女性たちの差し金であった。武帝は十六歳の若さで皇帝となり、七十歳で崩御するまで全盛期の漢帝国に君臨した。数多い后妃のうち、特に、陳皇后(正式には孝武陳皇后)、衛皇后、李夫人、鉤弋夫人の四人は劇的な運命をたどった。
母がたのいとこであった陳皇后は、不妊治療のため九千万銭を使った(今の九十億円くらい)も使ったが子供はできず、皇后から降格させられた。
【参考記事】漢の武帝に愛された皇后は「100人から選ばれた幼女」と「歌手から大出世したシンデレラガール」だった…不妊治療に90億円、本気すぎる妊活も 2025/09/24 13:00
https://toyokeizai.net/articles/-/905535
武帝の二番目の皇后は、コーラスガールあがりの衛子夫で、彼女が最初に武帝と関係を持ったのは「更衣」だった。彼女の身内である衛青や霍去病は、漢の名将となった。
「傾城」「傾国」「反魂香」などの由来となった美女・李夫人も、芸能人の妹という身分であった。
武帝は晩年、後継者を心の中で決めたあと、その生母である鉤弋夫人を殺した。「国の主が幼く、その母親が若くて強ければ、国はどうなる。おまえたちも呂后のことは知っていよう」というのが、臣下に対する武帝の言い訳だった。
中国史上、女性権力者が公然と愛人をもった最初の例は、武帝の父親の同母姉、すなわち武帝の伯母である館陶長公主こと劉嫖である。劉嫖は夫と死別したとき、すでに六十代だった。彼女は、孫ほども年が離れた董偃という美少年を、公然と愛人とした。武帝は董偃を婉曲に「主人翁」(ご主人さま)と呼んだ。「主人翁」は情夫の異称の一つになった。劉嫖は「董君が使うお金が、一日あたり黄金百斤、銭百万、絹千匹までなら、私に報告する必要はない」と言った。今の日本円で一億数千万円にあたる金額である。このような逆ハーレムは、その後、三十人の「面首」を囲った南朝の宋(四二〇年―四七九年)の山陰公主こと劉楚玉や、宦官や仏僧との淫楽に溺れた北斉の胡皇后(胡太后。六世紀)、次々と愛人をもった唐の武則天(則天武后)など、飛び石的に歴史に現れる。
【参考記事】イケメン30人囲っても飽き足らず、情夫に1日4億円の浪費を許可…中国史に残る「逆ハーレム」の実態
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/90461 2025.9.13(土)
ちなみに、男の権力者が囲う同性愛的男妾を漢文では「男寵」と呼ぶ。男寵関連の故事成語に「龍陽君」「分桃」「断袖」などがある。武帝が十代のころ起居をともにした韓嫣や、前漢の第十二代皇帝である哀帝(在位前七年―前一年)と容姿端麗な官人である董賢の「断袖」の故事など、漢では皇帝の同性愛も見られた。
前漢の後宮の美女として有名なのは、元帝の時代の王昭君と、成帝の時代の趙飛燕姉妹 asahi20240111.html#01 である。
趙飛燕は貧しい生まれで、捨てられかけたが生き延び、長安で宮人となった。のちに陽阿公主の屋敷で歌舞を学び「飛燕」と名乗る。成帝が遊びに訪れた際に見初められ、後宮に入り、妹もともに寵愛を受けた。やがて許皇后が廃され、成帝は反対を押し切って趙飛燕を皇后、妹を昭儀とした。外戚の力を避けたかった可能性もある。趙姉妹は十数年にわたり成帝の寵愛を独占したが、子は生まれず、成帝は甥の劉欣を皇太子とした。紀元前7年、成帝は突然死し、趙昭儀の関与が疑われた。彼女は自殺し、真相は不明のまま。後世には、成帝は媚薬の過剰摂取による「性交死」で亡くなったという説が流布し、民間伝承では今もそう信じられている。
稗史『趙飛燕外伝』は、日本でも広く読まれた。僧正遍昭(八一六年−八九〇年)が詠んだ和歌、
あまつかぜ雲のかよひぢ吹きとぢよ乙女のすがたしばしとどめむ
も『趙飛燕外伝』の一場面をふまえる。
趙皇后こと趙飛燕は、妹の趙合徳に成帝の寵愛を奪われ、悲しみにくれ、馮無方という臣下との火遊びにふけった。ある日、成帝は宮中の太液池で、豪華な宴会を開いた。広大な庭園の中の人工の池に、千人乗りの巨船を浮かべた。皇后は、昔取ったきねづかで、船の上で軽やかに舞った。成帝は壷を叩き、馮無方は笙を吹いて伴奏した。皇后は袖をひるがえして軽やかに舞い、いまにも風に乗って空に飛んでゆきそうに見えた。成帝はあわてて「無方よ、皇后が飛んでゆかないよう、おさえてくれ」と命じた。風がおさまると、皇后は「私は仙女になって飛び去りたいのに、陛下はお許しくださらないのですね」と泣いた。成帝は、皇后をいっそういとおしく思い、無方に千金を与え、皇后の寝室に出入りさせた、と『趙飛燕外伝』は伝える。
前漢の末、成帝、哀帝、平帝と、三代の皇帝が世継ぎを残さずに死去した。外戚である王莽が、儒教思想を悪用して帝位を簒奪し、前漢は滅びた。
○後漢
漢の後宮が「劉氏」という宗族を量産してきたおかげで、漢は復興した。
王莽に反旗をひるがえした劉玄(更始帝)も、赤眉の反乱軍が奉戴した劉盆子も、最後の勝利を収め後漢を創始した光武帝こと劉秀 asahi20201008.html#03 も、その先祖は漢の後宮で生まれた。
後漢は、前漢にくらべると人口も経済規模も小さな国になった。光武帝は「小さな政府」を作り、民の負担を減らしたが、その結果、自然と側近政治という形になる。具体的には、外戚と宦官が権力を振るうようになった。
後漢は二百年近い命脈を保ったのち、宦官・曹騰の子孫で外戚となった臣下、曹操 asahi20210408.html#01 によって壟断され、滅亡を迎えることになる。
曹操のライバルであった劉備 asahi20220113.html#02 は、前漢の景帝の第九子、中山靖王劉勝の末裔を自称し「蜀漢」を建国した。劉備は、荊州の劉表(前漢の景帝の子孫)や、益州の劉璋(同じく景帝の子孫)のもとに身を寄せるなど、劉氏の宗族のブランドをフルに活躍して、三国志の戦いを生き抜いた。
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11/11 南朝の後宮
中国史の「魏晋南北朝時代」は、西暦220年に魏王朝が成立してから、589年に隋王朝が天下を統一するまでの、数百年にわたる慢性的な分裂時代を指します。この時代、南京を首都とした呉、東晋、南朝(宋・斉・梁・陳)では漢民族的な貴族社会が形成され、優雅な「六朝文化」が花開きました。同時に、フランス革命前の貴族社会のような淫靡な退廃も広がりました。吉田御殿の話の元ネタとなった西晋(南朝の東晋の前身)の皇后・賈南風、南朝宋の皇帝の姉として逆ハーレムをかまえた山陰公主、両性愛者であった南朝斉の皇帝と寵臣と三角関係を楽しんだ皇后・何?英、亡国の暗君である陳の後主に愛された張麗華、など、この時代の後宮は乱脈でした。
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11/18 北朝の後宮
中国の南朝と対峙した北朝(439年 - 589年)は、華北に興亡した五つの王朝、北魏、東魏、西魏、北斉、北周の総称です。北朝はいわゆる「拓跋国家」(たくばつこっか)でした。支配層は、北方遊牧民であった鮮卑(せんぴ)の中の部族集団「拓跋部」の血を引く、質実剛健かつ荒々しい気風の人々でした。事実上の女帝となった北魏の馮太后、「子貴母死制」の廃止で命を拾ったあと国を傾けた北魏の霊太后、亡国後も売春業で生き残った北斉の胡皇后、皇后でありながら裸にされむち打たれた北斉の李祖娥、など、北朝の後宮は荒々しさに満ちています。
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11/25 隋唐の後宮
南朝と北朝を統一した隋 (581年-618年) と、そのあと超大国として栄えた唐(618年-907年)は、北朝の後継国家でした。後宮の気風も北朝に似ていました。事実上の一夫一婦制を皇帝にしいた隋の皇后・独孤伽羅、中国史上唯一の女帝となった武則天、実権をにぎるため夫である皇帝を毒殺した韋后、玄宗皇帝が息子から略奪して寵愛した楊貴妃、など、この時代の後宮はドラマチックでした。唐の後宮の制度は、遣唐使を通じて日本にも影響を与えました。
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