「千葉県千葉市」は中国の地名?

 ひとり旅をするときは、行く先を決めず、とにかく北京駅から列車に乗って外地に出て、気にいったところで宿泊し、財布が軽くなると北京に帰ってきた。写真を取るときは、なるべく足の遅そうな人にカメラを託した。
 北京から一歩外にでると、中国語を使っているかぎり、日本人であることはまずバレない。2月、天津から船で青島に行ったとき、乗り合わせた公安の人が、たまたまぼくの北京大学の学生証を見て「うちの息子は勉強しないんだ。どうしたらいいか」と相談してきた。一時間ほど話したが、相手は最後までぼくを中国人だと思っていた。ぼくの中国語が特にうまかった訳ではない。むしろ、普通の中国人の「北京語」が、その程度なのである。実際、北京大学には、留学生よりも「北京語」が下手な教授や中国人学生がいくらでもいた。
 また、本来は国の規定で外国人を泊めてくれない安い旅館でも、宿帳に「千葉県千葉市・加藤徹」と国名を抜かして書くと、泊まることができた。旅館の主人は、ぼくのことを、チベット人かモンゴル人とでも思ったのだろう。中国には、地方行政単位としての「県」はもう存在しないが、地名には「なになに県」というのが結構のこっている。また、清王朝の皇帝の姓が「愛新覚羅」だったように、非漢民族系の姓を持つ中国人はちっとも珍しくないのだ。
 いや、ひょっとして、旅館の主人の方が正しかったのかもしれない。われわれ日本人は、歴史のどこかの段階で、自分たちが気付かぬうちに中国人になってしまった、そんな気もする。



91,6,27・河南省洛陽(らくよう)郊外にある、唐の詩人・白楽天(はくらくてん)の墓にて。


同じ日、洛陽(らくよう)郊外にある少林寺にて。放し飼のブタまでもが強そうに見える。



91,7,1・河南省開封市にて。ここは、今から一千年前の北宋(ほくそう)の都でした。映画化された井上靖の小説「敦煌」(とんこう)の物語も、この街から始まりました。千年前は「詞」や「諸宮調」の歌声が流れていたであろうこの街も、今は、自転車の鈴とテレビのロック音楽が聞こえていました。


同じ日、包拯(ほうじょう)の記念館にて。包拯は千年前に実在した正義の政治家で、芝居や小説でも大活躍します。この一見古風な瓦ぶきの記念館は、実は1980年代の新築の建物で、中にある包拯の像も、西洋風の八頭身です。宗教施設ではないのに、信心深い婦人たちが、職員の目をぬすんでこっそり拝んでいました。民間信仰の力は偉大です。





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