中国の古代文明は、インドや中東など他の文明から遠く離れた東アジアで成立し、一度も断絶することなく現在まで持続しています。古代中国文明の孤立性、持続性は、21世紀現在の中国にも大きな影響を与えています。およそ1万年前から2千年くらい前までの中国文明の歴史を、日本や西洋と比較しつつ、豊富な図版を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。
第1火曜日 15:30〜17:00 3回
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よん‐だいぶんめい【四大文明】
エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明の四つ。それぞれ、ナイル、チグリス‐ユーフラテス、インダス、黄河といずれも大河流域に発生し、都市・階級・文字・国家を生んだ。
[補説]日本や中国などで一般的な概念だが、世界的にはこの四文明のみを特別視する考え方は少ない。
文明 ぶんめい civilization
文化と同義に用いられることが多いが,アメリカ,イギリスの人類学では,特にいわゆる「未開社会」との対比において,より複雑な社会の文化をさして差別的に用いられてきた。すなわち国家や法律が存在し,階層秩序,文字,芸術などが比較的発達している社会を文明社会とする。しかし今日では,都市化と文字の所有を文明の基本要素として区別し,無文字 (前文字) 社会には文化の語を用いる学者も多い。この立場では文明は文化の一形態,下位概念とされる。またドイツ民族学や文化社会学では,精神的なものと自然的なものを区別し,自然を支配するための技術による物質的・実際的部門にかかわるものを文明,自然それ自体の価値を実現する精神的,感情的な部門にかかわるものを文化とする傾向がある。
西方地中海の海域世界 | 東方地中海の海域世界 | |
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海流 | 密封型→穏やか。海運が容易。鎖国・海禁は不可能。 | 半開型→荒海。鎖国・海禁が可能。 |
方向性 | 東西に長い→ライバル国家の林立 | 南北に長い→緯度による条件差が大、棲み分け |
戦争 | 「人種」間戦争・文明間戦争が多い。例)十字軍 | 近代以前は文明間戦争はなかった。 |
「人種」構成 | 多種多様 | 比較的均質 |
基幹産業 | 半集約農業/海商→人口の疎密化 | 集約農業→人口の集中化 |
支配的な宗教 | 一神教・『聖書』 | 儒教・『論語』 |
文字体系 | 表音文字 | 漢字・漢字系文字 |
文明の特色 | 市民階層・個人主義 | 士民階層・古人主義 |
エントリーコスト | 小。外国人にもやさしい。 | 大。外国人には敷居が高い。 |
主要国の中核領域 | 数百年単位で変動 | 千年単位で安定 |
前 史 | 57年 倭の奴国の使者が洛陽に行く(金印) 239年ごろ、邪馬台国の使者が魏に行く |
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遣 唐 使 |
630年 日本から、第一回の遣唐使が唐に向けて出発。 663年 ★白村江の戦い、日本と百済の連合軍が、新羅と唐の連合軍に敗れる。 753年 鑑真、来日。 838年 円仁ら、最後の遣唐使が日本を出発。 |
無 国 交 時 代 千 年 |
894年 菅原道真の建議により、遣唐使廃止。 1274年 ★「蒙古襲来」(元寇)。蒙古(元)と高麗の連合軍が日本に侵攻。一二八一年にも侵攻。 1374年 日本の懐良親王(南朝)が、明の皇帝から「日本国王良懐」と認定される。 1401年 足利義満、明の皇帝から「日本国王源義満」の冊封を受ける。 1592年 豊臣秀吉の★朝鮮出兵の開始。日本が朝鮮半島に侵攻、朝鮮と明の連合軍と戦闘。 1603年 徳川家康が江戸幕府を開く。 1644年 中国の明王朝が滅亡。「日本乞師」。 |
近 現 代 |
1871年 日清修好条規。 1894年 日清戦争。 1937年 日中戦争。 1972年 日中国交正常化。 |
龍と鳳(聞一多、陳舜臣) | 龍:老子的、融合、皇帝… 鳳:孔子的、純粋、皇后… |
貝と羊(加藤徹、他) | 貝:殷人的、老子的、沿海部、商業、財・貨・買・購… 羊:周人的、孔子的、内陸部、道徳、義・美・祥・善… |
日本語 | 中国語 |
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大義名分 | 名正言順、借口(言い訳) |
ホンネ | 心里話、真心話 |
タテマエ | 表面話、官場話、場面話、原則話 |
貝 | 羊 |
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殷人的 | 周人的 |
沿海部 | 内陸部 |
多神教的 | 一神教的 |
財、貨、賤、財・・・ | 姜、美、義、祥・・・ |
老子・荘子 | 孔子・孟子 |
近代国家 | (日)明治元年1868 | (中)民国元年1912 | 差は44年 |
内戦の終了 | (日)西南戦争1877 | (中)国共内戦〜19492 | 差は72年 |
オリンピック | (日)東京オリンピック(1940/64) | (中)北京オリンピック2008 | 差は44年(68年) |
ルイスの転換点 | (日)1960年代 | (中)2010年代? | 差は50年 |
人口ボーナスの終了 | (日)1990〜 | (中)2015〜 | 差は25年 |
航空母艦(日) | 「鳳翔」進水1921 | (中)「遼寧」就役2012 | 差は91年 |
参考 https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52410_51061.html
「おい、おい、旅の者」 こんどは、後ろを通った人間が呼びかけた。近村の百姓であろう。ひとりは鶏の足をつかんでさげ、ひとりは農具をかついでいた。 「――そんな所で、今朝からなにを待っているんだね。このごろは、黄巾賊とかいう悪徒が立ち廻るからな。役人衆に怪しまれるぞよ」 青年は、振りかえって、 「はい、どうも」 おとなしい会釈をかえした。 けれどなお、腰を上げようとはしなかった。 そして、幾千万年も、こうして流れているのかと思われる黄河の水を、飽あかずに眺めていた。 (――どうしてこの河の水は、こんなに黄色いのか?) 汀(みぎわ)の水を、仔細に見ると、それは水その物が黄色いのではなく、砥石を粉にくだいたような黄色い沙(すな)の微粒が、水に混じっていちめんにおどっているため、濁って見えるのであった。 「ああ……、この土も」 青年は、大地の土を、一つかみ掌(て)に掬(すく)った。そして眼を――はるか西北の空へじっと放った。 支那の大地を作ったのも、黄河の水を黄色くしたのも、みなこの沙の微粒である。そしてこの沙は中央亜細亜(アジア)の沙漠から吹いてきた物である。まだ人類の生活も始まらなかった何万年も前の大昔から――不断に吹き送られて、積り積った大地である。この広い黄土と黄河の流れであった。 「わたしのご先祖も、この河を下くだって……」 彼は、自分の体に今、脈うっている血液がどこからきたか、その遠い根元までを想像していた。 支那を拓(ひら)いた漢民族も、その沙の来る亜細亜の山岳を越えてきた。そして黄河の流れに添いつつ次第にふえ、苗族(びょうぞく)という未開人を追って、農業を拓(ひら)き、産業を興(おこ)し、ここに何千年の文化を植えてきたものだった。 「ご先祖さま、みていて下さいまし。いやこの劉備(りゅうび)を、鞭(むち)打って下さい。劉備はきっと、漢の民を興します。漢民族の血と平和を守ります」 天へ向って誓うように、劉備青年は、空を拝していた。 |
こうが‐ぶんめい〔クワウガ‐〕【黄河文明】
黄河の中・下流域を中心に発達した古代農耕文明。新石器時代晩期の彩陶をもつ仰韶(ぎょうしょう)(ヤンシャオ)文化、前2500年以降栄えた黒陶を特徴とする竜山(ロンシャン)文化を経て、夏(か)・殷(いん)の青銅器文化へと受け継がれた。世界最古の文明の一。→四大文明
中国・長江流域の広富林遺跡(上海市)で、約5千年前の女性の人骨に、東アジアで最も古い結核の痕跡が見つかった。(中略)
論文などによると、結核は縄文時代の日本列島では未確認で、研究者は弥生時代に渡来したと考えている。今回の発見は、結核はこの地域から稲作文化とセットで日本にもたらされた可能性を示唆するという。
アジアでは韓国やベトナムでも水田稲作の導入期に地域で最古の結核が確認されている。中橋孝博・九州大学名誉教授(人類学)は「結核は日本人に大きな影響を与えた病気だが、それが稲作農耕文化と当初から深い関連があることがわかった意義は大きい。今後、具体的な伝来ルートの解明が進むのでは」と話す。(編集委員・宮代栄一)
稲作は7000〜8000年前に、現在の中国を流れる長江が東シナ海にそそぐ地域で始まったと考えられています。じつは、ここは酒に弱い人の割合がもっとも高い地域でもあるのです。(中略)水田は実りをもたらす一方で、古い時代にはさまざまな病原体の温床となりました。(中略)酒に弱い日本人は有害物質アセトアルデヒドが血液に多くとけているため、侵入した病原体が活発に活動できない可能性があります。その結果、酒に弱いほうが生きのびやすかったのではないかという説が提唱されています。
長江文明 ちょうこうぶんめい
黄河文明と同時期,長江流域に栄えた,稲作を基盤とする農耕文明
1973年に浙江省で河姆渡 (かぼと) 文化が発見され,その存在が証明された。その他に,良渚 (りようしよ) ・屈家嶺 (くつかれい) 文化などがある。
長江文明 ちょうこうぶんめい
中国の長江 (揚子江) 流域で発達したと思われる文明。 1996年,中国文明の起源は黄河文明というこれまでの定説をくつがえし,長江文明の存在を裏づける発見が相次いだ。上流域の四川省成都を中心に 1984年から発掘調査が続けられていたが,市の北方にある三星堆遺跡から青銅製の等身大人物立像をはじめ,青銅や黄金製の眼球の飛出た独特の仮面,大量の玉・象牙製品が出土した。いずれも紀元前 2000〜前 900年頃の古代蜀文明のものと推定される。また下流域の浙江省良渚遺跡からも大量の玉製品が発見されたが,この遺跡も 4000〜5000年前のものと考えられている。そして 96年 10月には成都市南西の竜馬鎮から,長辺 60m,短辺 40m,3層からなるピラミッド型の祭壇と城壁をもつ都市遺跡が発見され竜馬古城遺跡と命名された。 4500年前のものと推定されるが,城壁に沿って濠がめぐらされ,インディカ米とジャポニカ米の稲籾が発見されていることから稲作文化があったものとみられている。こうした発見により,アワ,キビ,ムギなどの栽培を基盤とする黄河文明よりさらに古くから,長江流域に稲作文明が存在していたという説を裏づけるものとなった。
蜀王には名前がついている。初代が蚕叢で、次は柏灌、その次は魚鳧だ。三代で約1500年ほどがたつ。このうち柏灌の名は、この風土に扶桑信仰に続いて柏樹信仰があったこと、それらが「建木神話」を担っていたことを物語る。参照 加藤徹「中国の古代都市・成都」#asahi-20220910.html
魚鳧という名は、この時代になって蜀や巴で鵜飼がさかんになっていただろうことを想定させる。だいたい中国で鵜飼が有名なのが四川なのである。宋の沈括の『夢渓筆談』にも、四川の水辺にいる者たちの多くが鵜飼をしていた、鵜は川辺の樹上に群棲するのでその糞尿で樹木が霜雪のように枯れる、それを蜀水華と言うのだと書いてある。
三星堆からも鵜を象った青銅製の鳥がかなり多く出土した。この金属技能はもともと巴人がもっていたもので、それを甘粛の斉家文化→寺窪文化というプロセスをへて戈人の漁労集団が獲得したものだったろう。
(中略)
つまりは、こういうことらしい。古代巴蜀の建国伝説は太古においてすでに養蚕・柏樹信仰・鵜飼・太陽伝説・霊亀観念・聖石崇拝をもっていて、そこに稲作が入ってきた。これが黄河文明には見られない独特の長江文明の母型をつくりあげた。こういうことだが、そうだとすると、四川の長江はナイル・インダス以上の古代文明の母型だったということだ。
これらをさらに特色づけたのは三国時代以降の五斗米道が四川に流入したことだ。そこにはおそらく濃密なタオイズムが脈動した。初期道教だ。そもそも諸葛孔明が天下三分の計をなす前に四川の蜀に目をつけたのは劉焉だった。そこに張陵や張魯の五斗米道が広がりつつあった。曹操が漢中を破ったので、張魯は巴中に逃れていたのだ。
この初期道教を伴う思潮と習慣が長江を下って、呉巫や越巫のほうへ降りていったのだろう。蜀から来た李寛は呉に来ても蜀人の方言を使い、水に呪いをかけて病気を治した。古代巴蜀文化はこうして長江を下っていったのである。センセイ曰く、「蓋し巴蜀は百川を入れる大湖にして、百川を出だす大湖である」。