HOME > 授業教材集 > このページ
殷墟・戦慄すべき古代王権の廃墟 世界の遺跡シリーズ
最新の更新 2021年11月24日 最初の公開 2021年11月24日
以下、朝日カルチャーセンター・新宿教室のサイト より自己引用。
作家の遠藤周作は書きました。遺跡と廃墟は違う。遺跡はツアー客が遊びにくる観光地だが、廃墟はそこであがき死んでいった人間の肉欲に似たうずきを追体験する場所である、と(「廃墟の眼」)。
殷王朝の廃墟を意味する「殷墟」は、2006年に世界遺産に登録された古代都市の遺跡ですが、廃墟感に満ちています。紀元前14世紀から前11世紀まで殷の首都だったこの地は、20世紀に再発見され発掘調査が行われました。
最古の漢字である甲骨文字、精巧無比な青銅器、生けにえとして埋められたおびただしい人骨、巨大な地下墳墓、推定復元された建築群、など殷墟の歴史と魅力を、豊富な図版を使いながら、わかりやすく説明します。(講師・記)
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-n8UgJ2zN2M1Z_Eja99K0q0
VIDEO
概説
殷墟の歴史
殷墟の性格
主な遺址と出土品
○概説
★殷
殷という漢字の意味は「盛ん」「多い」「豊か」「にぎやか」など。殷賑(いんしん)の殷。
殷王朝は、中国では「商王朝」と呼ぶのが普通。「殷」は、司馬遷の歴史書『史記』殷本紀などに出てくる後世の呼称。
古代中国では、首都の名前をそのまま国の名前としても使った。古代日本で、大和(やまと)が首都の地名であると同時に国名でもあったのと同様である。
殷墟の「殷」は、殷という地名であると同時に、国名および王朝名としても使われる。
なお、殷人じしんの自称は「商」であり、殷墟も当時は「大邑商」という名前の古代都市だった。
殷の最後の王・紂王については、[ 中国権力者列伝 2021/04/22 殷の紂王 酒池肉林の伝説の虚と実 ]を参照。
★『デジタル大辞泉』より引用
いん‐きょ【殷墟】
中国河南省安陽市北西の小屯村を中心とした殷代の遺跡。前14世紀から前11世紀、殷王朝後期の首都があった所。1928年以来発掘が進められ、宮殿跡、大小の墳墓、竪穴式住居跡などが発見されたほか、文字を刻んだ多数の精巧な青銅器・玉器などが出土。2006年、世界遺産(文化遺産)に登録された。
★ユネスコの公式サイト 世界遺産 https://whc.unesco.org/ja/list/1114 より引用。2021年11月24日閲覧
登録年: 2006 核心ゾーン: 414.0000 Ha バッファーゾーン: 720.0000 Ha
北京の南約500q、安陽市の西北約3qにある殷墟は、後期殷(商)王朝の最後の首都として、紀元前1300年頃〜紀元前1046年まで栄えた都市。文献や資料によって都だったと実証されている遺跡としては中国最古のもので、古代中国の文化や工芸とともに青銅器時代の繁栄を伝える。当時の王族の墳墓では唯一完全な形で残る妃の墓(婦好墓)はじめ、多くの皇族陵墓や宮殿が発掘されており、出土した大量の埋葬装飾品は当時の手工業のレベルの高さを示す。神託に用いた牛の肩甲骨や亀の腹甲などに神託の結果などを刻んだ甲骨文字は、世界最古の書記体系や古代中国の信仰、社会システムの発達を証明する貴重な遺物である。
★中国駐大阪観光代表処(中華人民共和国政府の関係機関)の公式サイトより引用。2021年11月24日閲覧
http://www.cnta-osaka.jp/heritage/yin-xu?heritage=71
河南省安陽市の北西にある小屯村一帯に位置し、世界的に有名な中国殷(商)王朝後期(紀元前1300−前1046 年)の遺跡である。
中国史上に文献が残っており、甲骨文や発掘資料によって存在が証明された最古の都城遺構でもある。24㎢ほどの範囲に、宮殿・宗廟遺構、王陵遺構、庶民の集落跡、墓地、甲骨を埋めた穴、
青銅を鋳造所、玉や甲骨を作っていた工房などが発掘されている。
宮殿・宗廟遺構は、殷(商)の皇帝が政府用や居住用としていた場所で、土台を厚く盛り固めた上に、木の柱を立てや黄土の壁を造り、茅葺の屋根を葺いた。中国古代では最先端の宮殿建築である。
また、甲骨約15000 個が出土した穴も、主に宮殿・宗廟遺構に分布している。甲骨文とは亀甲や動物の骨に刻まれた古代文字。特に、YH127甲骨窖穴、小屯南地甲骨窖穴、
花園荘東地H3甲骨窖穴は内容的にも富んでいて、殷(商)時代の社会生活の一面を知る事ができ、人類最古の「書庫」と呼ばれている。
王陵遺構は宮殿・宗廟の遺構と川を隔てて相対する、殷(商)皇帝の御陵で、祭祀なども行われた。中国でこれまで見つかった陵墓群としては最古のものである。
遺構からは12 個の陵墓と2500 以上の祭祀用の穴が見つかっている。陵墓の多くは、「亜」「中」「甲」の型をしており、棺が安置された空間も大きい。
最大の陵墓では面積1803㎡、深さ15mにも達する。納められた棺は豪華で、埋葬品も美しく、殉葬者も多いことから、中国早期の陵墓建築の中でも最高峰のものと分かる。
また、青銅器、玉に代表される発掘文物も、殷(商)代後期の文化や伝統を伝える証拠となっている。
★埼玉県草加市の公式サイトより引用 2021年11月24日閲覧
http://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1410/020/010/010/a01_05.html
友好都市安陽市と市民交流 更新日:2013年5月13日
中華人民共和国河南省安陽市とは、平成10年に文化・スポーツ・教育等の幅広い市民交流を目的に友好都市提携に調印。以来、安陽市民の書や絵画などを展示した安陽市書画芸術作品展の開催や獨協・安陽両大学の学術交流に関する協定書の調印、草加・安陽両市の国際教育交流協議書の取り交わしなど、交流を行っています。
安陽市プロフィール
安陽市は、中国の内陸部にあり草加市とほぼ同緯度に位置しています。面積は草加市の約270倍の7,413平方キロメートル、533万人(2004年時点)です。中国7大古都の一つで、中国古代王朝の一つである殷の時代の遺跡「殷墟」からは、漢字の起源といわれる「甲骨文字」が発掘されています。
○殷墟の歴史
紀元前1600年頃-前1400年頃、二里岡文化(にりこうぶんか)が栄える。
中国の学界では河南省鄭州市の二里岡遺跡を殷王朝の初期の首都とするのが定説であるが、文字資料が出土していないため外国の学界の承認を得ていない。
前1350年頃−前1046年頃、現在の殷墟の地に、殷王朝後期の首都「大邑商」が置かれる(政治的な首都ではなかったという説もある)。
漢文資料に出てくる「朝歌」という古代都市と、殷墟(大邑商)の関係については諸説がある。
殷墟に遷都を行った殷王は、出土した甲骨文字によれば第22代の殷王・武丁が遷都したと思われる。『竹書紀年』によれば第19代の殷王・盤庚が遷都した。
殷墟時代の歴代の殷王は、
(19盤庚−20小辛−21小乙−)22武丁−23?祖己−23祖庚−24祖甲−25廩辛−26庚丁−27武乙−28太丁−29帝乙−30帝辛
とされる(諸説あり)。最後の帝辛は、漢文古典のいわゆる「紂王(ちゅうおう)」である。
前1373年3月27日の月食を、甲骨文字を研究した学者の董作賓は盤庚の「二十六年第三月甲午十六日」に比定。
前13世紀後半ごろ、武丁(前1250年?−前1192年?)と婦好が活躍。殷墟から出土した最古の甲骨文字は武丁期のもの。
cf.宮城谷昌光「沈黙の王」
歴代の殷王は、人身御供を含む先祖祭祀を熱心に行い、地下陵墓の造営、青銅器の鋳造、甲骨文字の保存を熱心に行う。
殷墟からは1万4000体以上の犠牲の人骨が出土している。
前1076年頃(年次については諸説あり)、最後の殷王となる帝辛が即位。漢文古典の「酒池肉林」の「紂王」のモデル。
前1046年頃(年次については紀元前1127年から前1018年まで諸説あり)、帝辛の時代に「殷周革命」が起きて、殷王朝が滅亡。
殷王朝の首都の跡地は後世「殷墟」と呼ばれるようになった。
前206年秋「殷墟之上」で、秦の将軍・章邯が項羽に降伏した。
殷墟の一帯からは甲骨文字の遺物などが出土したが、付近の農民はその価値がわからなかった。
1899年、甲骨文字の発見。清末の学者で国子監祭酒の王懿栄(おういえい)が、骨董商から購入した亀甲獣骨の遺物に古代文字が刻まれているのを発見した。
1903年、王懿栄の門下生であった劉鶚が甲骨文字の図録『鉄雲蔵亀』を出版。
これを機に海外の学界にも甲骨文字の存在が知られるようになる。
1912年、中華民国成立。政治の激動もあり、殷墟の発掘調査はなかなか進まなかった。
1928年から1936年までの8年間、殷墟で、国立中央研究院歴史語言研究所が15次にわたる大発掘作業を行う。
殷墟と日本人は浅からぬ因縁があった。
以下、吉開将人「殷墟をめぐる日中関係 : 近代日本と民国学術史(一)」(北海道大学文学研究科紀要 2012年7月25日)より引用。
NII論文ID(NAID)40019404444
考古学の中国社会への影響を見る上で、最も興味深い事例は、卜辞(以下「甲骨文」)を刻んだ甲骨(以下「殷墟甲骨」)の発見と、その出土地としての殷墟遺跡(以下「殷墟」)発掘をめぐる展開である。河南省安陽の殷墟は、今日、殷墟甲骨の出土地、そして古代殷王朝の都城址として名高い。甲骨文の存在自体が注意されたのは一八九九年(一八九八年)のことである。しかし、安陽で初めて中国人研究者の手で発掘が行なわれるまでには、さらに長い歳月が必要であった。中華民国国立アカデミーの中央研究院歴史語言研究所(以下「史語所」)によって、この地に鍬が入れられたのは、甲骨文の「発見」から三十年を経た、一九二八年のことである。史語所の中国人研究者たちは、この時、いかなる契機で殷墟発掘に着手したのであろうか。
殷墟甲骨発見以後の近代学術史において、中国の隣国である日本の学術界は、明治・大正・昭和を通じて、殷墟と甲骨文の研究の発展に多大な役割を果たしてきた。
これについては、殷墟甲骨の明治日本への最初の伝来以後、東京の林泰輔らによっていち早く着手された研究、あるいは来日した清朝金石学の大家羅振玉とその門生王国維、
さらに郭沫若と日本学術界との交流など、おもに甲骨学の分野の成果として国内外に広く知られている点である。(中略)実のところ、甲骨学と同様に考古学の分野でも、
近代日本の学術界は中国学術界と深い関係を持ち、その発展に一定の影響を及ぼした。そして少なくとも殷墟について言うなら、ある意味、
日本の学術界が、一九二八年の史語所による発掘を促し、研究の方向性を決定づけたといっても過言ではない のである。
1937年−1945年、日中戦争。
1949年、中華人民共和国が成立。
殷墟の発掘調査は再開されたものの、マルクス主義の「社会発展段階説」すなわち、
原始共産主義、アジア的生産様式、奴隷制、封建制、資本主義、社会主義
という枠組みでしか、殷墟を論じることができなくなった。
1966年−1976年、文化大革命。
1976年−77年、殷墟の発掘調査で「婦好」墓を発見。婦好は武丁の妃で、中国最古の女性政治家とも言われる。
墓の内は殉葬者が16人で、出土の文物は1928件にのぼった。内訳は青銅器が468件、玉器が755件、骨器が564件で、他に海の貝が7000個ほどである。
参考 https://www.arachina.com/heritage/yinxu/
2006年、ユネスコの世界遺産に登録。
殷墟では現在も発掘調査と研究が続けられている。近年も「殉葬者の頭骨には白人の頭骨もある」など真偽不明のニュースがときどきネットで話題となっている。
例 https://new.qq.com/omn/20210422/20210422A0CUAJ00.html
○殷墟の性格
★「冥都」説
地上施設よりも地下墳墓のほうが充実し、祭祀のための青銅器や甲骨文、いけにえにされた人骨が大量に出土している。
その一方、古代ローマやポンペイのような、楽しげな庶民生活の痕跡はあまり見つかっていない。
政治都市、消費都市、軍事都市、宗教都市、などの区分でいえば宗教都市。
規模は古代都市としては広大で、現在まで調査が進んだ範囲は東西6km、南北4km、面積24万平方メートルにも及ぶ。
宮殿、宗廟遺構、王陵遺構、庶民の集落跡、墓地、甲骨を埋めた穴、青銅器の鋳造所、玉や甲骨を作っていた工房などがあった。
建築物は簡素な作りで、土を厚く盛り固めた土台の上に、木の柱を立て、土壁をめぐらし、屋根は茅葺きだった。瓦も、中国式レンガも、まだ使われていなかった。
大規模な城壁で全体を囲むこともなかった(近年の発掘調査で、城壁があったと思われる場所も見つかっている)。周囲の地勢も戦争向きとはいえず、軍事都市や政治都市ではなかった可能性も捨てきれない。
殷墟から出土した甲骨文は、私たちが使う漢字のルーツであるが、暗い字源が多い。
道・・・異族の首を持って道を進む(白川静の説)
県・・・切断した首を逆さにした状態。「懸」も同様。
民・・・「眠」の字源と同系で、目をつぶした奴隷。
臣・・・伏し目。
王・・・大きな鉞(まさかり)の頭部の形。
白・・・頭蓋骨の色。横棒は頭蓋骨のひび(宮城谷昌光『沈黙の王』)
★「花の都」説
21世紀の中国では、殷墟は中華民族の栄光の歴史の一部とされている。
中国社会科学院考古研究所安陽殷墟考古チームの唐際根チーフ(1964年生まれ)は
「ふと気がつくと、商王朝の様子が地下から目の前に広がってきます。第23代王の武丁と妻の婦好が肩を並べ、貞人(王のために祭祀や占いを行った担当者の総称)が占い、兵士が訓練し、
祭事が期日通りに行われています。宮殿の外では、南北2本、東西3本の道を馬車が疾走し、密集した民家の間を人々が行き来しています。
北西から南東へ流れる人工の用水路が近くにあり、鋳銅工房からは火花が飛び散っている」(人民中国「漢字のルーツを伝える 甲骨文字発見120年」2020-03-19 17:55:41 李霞 黄麗巍=文 http://www.peoplechina.com.cn/whgg/202003/t20200319_800197753.html 2021年11月24日閲覧)
云々と述べるが「このようなロマンチックな想像は、歴代の考古学者たちがこの3000年以上前の商の都をたゆまず発掘研究してきた成果のたまものだ」(引用元は同上)
○主な遺址と出土品
殷墟の出土品は膨大である。以下はその一部。
1001号大墓
「亜」字型に深く地面を掘り下げた陵墓で、膨大な副葬品や、225体の殉葬者の人骨などが出土。
墓の正室は長方形で南北18.9m、東西13.75m。耳室は東西に幅3.8m。深さは10.5m。四方に階段状の墓道。王の棺は中央の板張りの槨室の中に収められていた。
[百度 図版検索結果 }
参考 https://www.y-history.net/appendix/wh0203-016.html
殷墟の玉人
玉人は、玉を彫刻して作った人間の像。いろいろなものが出土している。座り方や髪型に注目。
[百度「殷墟 玉人」画像検索結果 ]
[百度「跪坐玉人」画像検索結果 ]
后母戊鼎(こうぼぼてい)
旧称は「司母戊鼎」。研究と解読が進んだ結果、現在では「后母戊鼎」説が通説。
現在、見つかっている限りでは最大の殷代青銅器。1939年、現在の河南省安陽市殷都区北蒙街道武官村で出土した。
四足を有する横長方形の鼎で、大きさは通高 133 cm、長さ 110 cm、幅 79 cm、重量は 832.84 kg。饕餮文(とうてつもん)の装飾も見事。
「后母戊」は第22代王・武丁の妻・婦妌の廟号。
殷墟車馬坑(中国の漢字では“殷墟车马坑”)
日本語では「殷墟馬車坑」とも言う。
参考 http://www.ayyx.com/2015old/riy/cmk.asp [百度“殷墟车马坑”画像検索結果 ]
二頭立ての二輪戦車である「チャリオット(Chariot)」の起源は、紀元前2千年ごろの中央アジアの草原地帯であった。
殷の二輪戦車は車輪のスポークの数も多く、精巧だった。
甲骨文
亀甲獣骨文字。他の古代文字と違い、漢字は今も使われ続けているため、甲骨文字は発見直後からかなり読むことができた。
特筆すべきは、漢文(古典中国語)の文法は基本的には21世紀の今も大きく変化していないこと、
甲骨文で使われていた「干支紀日法」(60干支で日付を記す方法)は一度も途切れることなく21世紀の現在も
旧暦では使われ続けていることである。
ちなみに2021年11月25日の干支は丁丑。26日は戊寅。27日は己卯。・・・
特に「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の十干は、歴代の殷王の名前の一部であり、殷人の信仰や宇宙観、社会システムと密接に結びついていたことが想像される。
HOME > 授業教材集 > このページ