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テーマ別に学びなおすと面白い中国四千年の歴史

最新の更新2021/07/27  最初の公開 2021/07/05

以下、https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/52395/より自己引用。
目標
・歴史の真実を知る面白さを学ぶ。
・現代と近未来の問題を歴史をヒントに考える。
・今も昔も変わらぬ中国社会の特徴を理解することで、日本社会への教訓を得る。
講義概要
現在の中国はなぜ、西洋とも日本とも違う、あのような国になったのか。GDPが増えても、海外の情報が伝わっても、なぜ中国人は変わらないのか。その理由は過去四千年の歴史にあります。中国の本質を理解するための4つのテーマを選び、日本史や西洋史とも比較しつつ、映像資料も使いながらわかりやすく解説します。

各回の講義予定 火曜日 13:00〜14:30 早稲田大学エクステンションセンター 中野校
  1. 2021/07/06【国号の謎】
    世界の国号の世界標準は「地域名称+立国理念」だが、「中華人民共和国」は立国理念のみ、「日本国」は地域名称のみ。世界でも例外的な国号に秘められた日中両国の「業」(ごう)を解説。
  2. 2021/07/13【人口変動史】
    日本以外の国や民族は、悲惨な人口崩壊を何度も経験している。中国人も同様で過去の人口の崩壊や数千万人規模の大量死を何度も経験してきた。21世紀の今も、中国人は過去の民族体験に根差す「危機意識」を持つ。
  3. 2021/07/20【地政学】
    日本の「島国性」に対し、ヨーロッパやアフリカ、インドは陸路や海路でつながれた「開かれた大陸」、一方中国は山脈で隔てられた「孤立の大陸」。真の意味で「大陸国家」ではない中国の本質とその宿命を考える。
  4. 2021/07/27【エートス】
    欧米理解にキリスト教理解が必要なように、中国を理解するには孔子と儒教を知る必要がある。中国共産党にも受け継がれた思想的DNAである孔子について、釈迦やキリスト、ソクラテスと比較しつつ、わかりやすく解説。
ご受講に際して(持物、注意事項)
◆予備知識のない初心者のかたも大歓迎です。あらかじめ参考図書(拙著『貝と羊の中国人』新潮新書)をお読みくださると、より理解が深まると思います。
◆休講が発生した場合、補講日は8月3日を予定しております。


国号の謎
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kCp8PGYjra-7d7xbVBQ-H2
○司馬遼太郎の嘆きと苦悩。
「韓国・朝鮮と中国についての特殊なことのひとつは、その地域を指す名称がない、ということである。私どもは韓国の市民にむかつて『朝鮮では』という名称でそのひとの住む地域を指すことはできない。『韓国では』というべきなのである。しかし韓国は国名であって、地域名の代わりとしては使いにくい。私どもにとって大切な隣国だけに、この不便さによろこんで堪えねばならない。かといって、両国の世界的な地域名称である「コーリア」「チャイナ」を日本においては日常語としてつかうわけにはいかない。なぜなら、世界の他の国とはちがい、同じ文明を共有してきた仲間だからである。」
司馬遼太郎「私的断片史」、『日韓理解への道(鮮子輝・高柄朔・金達寿・森 浩―・司馬遼太郎』(中央公論新社、1987年)

○「中国」について。
コトバンクの解説 https://kotobank.jp/word/中国-97172
日本大百科全書(ニッポニカ)「中国」の解説
引用開始。
 中国という語は、固有名詞としては、現在、漢字を使う国々では中華人民共和国や中華民国(台湾)の国名として用いられるが、もともとは文字通り中心の国(地域)という意味であって、その範囲も、国都のような中心地から、中原(ちゅうげん)とよばれる黄河下流域の古代文明圏、さらには広く漢民族の支配する領域をさすなど、時代や状況に応じてさまざまに変化した。近代以前においては、この国は、たとえば漢や唐のように、それぞれの王朝名が同時にその名であり、外国からもそのようによばれるのが通常であった。西欧語のChina系の語は最初に西欧に知られた秦(チン)王朝からきたものであり、日本で前近代にこの国を唐(カラ)国、人々を唐人とよんだのは、日本にとって唐代の交流がもっとも盛んであって強い印象を残したからであった。また仏教系の用語として伝わったシナ(支那)という語が、江戸時代から一般にも使われるようになり、第二次世界大戦まではよく使われた呼称であったが、現在では中国がもっとも一般的である。
 この国が中国をその呼称としても用いるのは、中華(中夏)や華夏(かか)という語と同じく、この国が世界の中心であるという中華思想に基づいて、自己を誇示するときであった。したがって朝鮮や日本など、中華思想の影響を受けた国では、自国を誇示する意識をあらわす場合、やはり自国を中国とよんでいる(これを小中華思想という)。ちなみに日本の本州西部を中国地方とよぶのは、都のある畿内と第二の中心であった大宰府(だざいふ)を中心とする西国との間にある国々という意味で、中華思想による中国という呼称ではない。
引用終了。

○日本の国号の変遷
中国の史書に見える「邪馬台国」はヤマト国の意か?
6世紀までは「倭」と表記。
7世紀後半ごろから「日本」へ切りかえ。則天武后の晩年に、遣唐使が「日本」改称を唐に伝えた。
日本語による「日本」の読み方は、
漢音:じつほん/じっぽん
呉音:にちほん/にっぽん → にほん
である。
 17世紀初めの『日葡辞書』(にっぽじしょ)には「にほん(nifon)」「にっぽん」「じっぽん」という3種類の 読み方を確認できる。
 その後、ジッポンはすたれて、ニッポンとニホンに。明治から戦前まではニッポン、戦後はニホンが優勢だが、現在も 両方とも使われる。

○中国の国号の変遷
 中国は、近代以前は「天子」思想により、日本的な意味での「国号」は持たず、王朝名(政権名)のみだった。
 国号と言えるのは、中華民国と中華人民共和国のみである。

「中国」を指す言葉。
○中国の王朝名の例
 古代から南宋(13世紀)までは地名。元(13世紀)以降は立国理念。
夏 か 最古の世襲王朝で「夏」は後世の史書での呼称。夏は「なつ」ではなく、大きいの意。「大厦高楼」(たいかこうろう)の「厦」も同系。「中国四千年」はこれを起点とする。
殷 いん 自称は「商」。中国以外の学界も実在を公認している最古の王朝。甲骨文字で有名。
秦 しん 始皇帝の秦。「シナ」や「チャイナ」の語源になったという説もある。
元 げん 日本史の「元寇(げんこう)」でも有名なモンゴル系王朝。中国史の枠をはみだす、東ユーラシアの王朝だった。自称は「大元」。「大元ウルス」とも。 それまでの歴代王朝の名前は、秦も漢も唐も建国者の封地の地名であったが、元からあとの統一王朝は立国理念を示す抽象名称を採用した。元という国号は儒教の経典『易経』「大哉乾元、万物資始」大なるかな乾元、万物、資りて始む(ダイなるかなケンゲン、バンブツ、トりてハジむ)から採った。
清 しん 最後の東洋的王朝。
中華民国 アジア初の共和国。

・清末の「滅満興漢」革命運動の人々は、自分を「清国人」と呼ばれることを嫌い、みずから「支那人」などと名乗った。
・中華民国も中華人民共和国も、立国理念のみである。
・1912年の中華民国成立後の一時期、日本政府は公式文書で中華民国を「大支那共和国」 と呼び、中国人の反感を招いた。「支那」が差別語とされるようになった転機。
・戦時中、日本は中華民国(中華民国南京国民政府。汪兆銘政権。1940年3月30日−1945年8月16。重慶のこもった蒋介石政権とは別) の要請により、順次「支那」から「中国」への切り替えを進めた。
cf.大林重信・著『新中国のお父さま汪精衛先生』健文社、昭和16年  ※汪兆銘の字は季新、号は精衛。

○世界の国号の例
アメリカ合衆国 United States of America 「アメリカ(地名)の州連合(立国理念)」の意。
イギリス United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland 「グレートブリテン及び北アイルランド(地名)連合王国(立国理念)」の意。
ロシア連邦 Russian Federation ロシア(地名)連邦(立国理念)
大韓民国 Republic of Korea 地名+立国理念 「コリアの共和国」
朝鮮民主主義人民共和国 Democratic People's Republic of Korea 地名+立国理念 「コリアの人民共和国」
中華民国 立国理念のみ。ただし英語名は地名+立国理念。Republic of China 「チャイナの共和国」。
中華人民共和国 立国理念のみ。ただし英語名は地名+立国理念。People's Republic of China 「チャイナの人民共和国」。
日本国 地名のみ。英語名も地名のみ。Japan
日本も、昭和20年までは「日本帝国」 Empire of Japan と、地名+立国理念の「普通の国」だった。

○中華+人民+共和国
★中華
以下、諸橋轍次『大漢和辞典』より引用。原文は旧字旧かな。引用開始。
【中華 チユウクワ】 (一)中国の自称。中は四方の中央に居る義で、華は文化を有する義。 古代中国の君主は、多く都を黄河の南北に建てた。 後世、其の地を中華といい、 中原といい、又、華夏という。 即ち、中華はもと黄河の流域を指したのであるが、 後、疆域が広くなり、各朝とも、其の所属地を併せて 中国・中華と称するに至った。 今の中華民国は、蒙古・新疆・西蔵等をも包含する。 中夏。華夏。(以下略)
引用終了。
★人民 日本由来の新漢語(日本漢語)。
 近代西洋の people を指す定訳として、 古典漢語の百姓(ひゃくせい)・士民・万衆・衆庶・蒼生・黎民・黎庶・黎元・黎首・人民などの 中から「人民」を選択したのは、幕末明治期の日本人だった。
★共和国 日本由来の新漢語(日本漢語)。
 西洋の republic の定訳として「共和制」「共和政」という訳語を考案したのは日本人。
 「共和」という訳語の原案は漢学者の大槻磐渓(おおつきばんけい)で、箕作省吾(みつくり しょうご)著『坤輿図識』(1845年)で「republic」の訳語として用いられた。
 「共和」という漢語自体は、西周の暴君だった脂、(れいおう)が 追放され国人が政治を行った古代中国の「共和」時代(前842年−前828年)の故事にちなむ。

参考ビデオ https://www.bilibili.com/video/BV15b411V7mU?from=search&seid=4727749454240712149


人口変動史
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nnkxymeXmPrfxwGiCrPFOK
キーワード
○血食 けっしょく
 先祖の祭祀(さいし)で、いけにえの動物を供えて先祖の霊を祭ること。 子孫が続いて先祖の祭りを絶やさないこと。
○宗族 そうぞく
 父系同族集団。近世以降の宗族のつながりは、華北よりも華南で強い傾向があった。

★『論語』子路第十三
【原漢文】
 子適衛。冉有僕。子曰「庶矣哉」。冉有曰「既庶矣。又何加焉」。曰「富之」。曰「既富矣。又何加焉」。曰「教之」。
【漢文訓読】
 子、衛に適(ゆ)く。冉有(ぜんゆう)僕(ぼく)たり。子曰く「庶(おお)きかな」。冉有、曰く「 既(すで)に庶し。又、何をか加えん」。曰く「之を富まさん」。曰く「既に富めり。又何をか加えん」。曰く「之を教えん」。
【大意】
 孔子が、衛の国に行った。弟子の冉有が馬車を運転した。孔子は言われた。 「人口が多いね」。冉有が聞いた。「人口が多くなったら、次はどうします?」 「豊かにする」「豊かになったら、次はどうします?」 「教化する」

★「伊尹(いいん)の土功」──『淮南子』(えなんじ)斉俗訓
【原漢文】
 故伊尹之興土功也、修脛者使之蹠钁、強脊者使之負土、眇者使之准、傴者使之塗、各有所宜、而人性齊矣。胡人便於馬、越人便於舟、異形殊類、易事而悖、失處而賤、得勢而貴。聖人總而用之、其數一也。 【書き下し】
 故に伊尹の土功を興すや、修脛(しゅうけい)なる者には之をして钁(くわ)を蹠(ふ)ましめ、強脊(きょうせき)なる者には之をして土を負はしめ、眇者(びょうしゃ)には之をして准せしめ、傴者(うしゃ)には之をして塗らしむ。各(おのおの)宜しき所有りて、人の性は斉(ひと)し。胡人は馬に便に、越人は舟に便なり。形を異にし類を殊にするもの、事を易(か)ふれば而ち悖(もと)り、処を失へば而ち賤しく、勢を得れば而ち貴し。聖人は総(す)べて之を用ふ、其の数は一なり。
【大意】
 いにしえのすぐれた政治家・伊尹の土木工事は、適材適所で見事だった。足が強い人には土を踏み固めさせた。背筋力が強い人には土を背負わせた。片方の目が不自由な人には測量の仕事をさせた。背中が曲がっている人には低いところを塗る仕事をさせた。適材適所の環境さえ整えてもらえれば、人間の個性の優劣はなくなる。北の遊牧民族は馬に乗るのが上手だし、南の異民族は舟を操るのがうまい。 障がい者も外国人も、慣れない仕事をやらされれば失敗するし、慣れない所に置かれれば低い評価しかもらえないが、 うまく勢いに乗れればS級になれる。聖人はあらゆる人材を登用するが、人材登用のコンセプトは一つなのである。

★「億兆」の民
 日本語の表現の例。「億兆の赤子」「億兆心ヲ一ニシテ」「中江兆民」等。「一億人ないし一兆人の民」と訳すと誤訳になるので要注意。
古代中国の「下数」法:十、百、千、万、億=10万、兆=100万
現代日本の「万進」法:十、百、千、万、億=一万の一万倍、兆=一億の一万倍
 日本・台湾・韓国・香港では1兆は1億の1万倍。中華人民共和国とベトナムでは兆は100万の意。
 中華人民共和国の中国語ではメガヘルツを「兆赫兹」、メガバイトを「百万字節」とか「兆字節」と言う。ギガ(十億)は「千兆」とか「吉咖」と言う。テラ(日本の一兆)は「兆兆」(百万の百万倍、の意)とか「太拉」と言う。

 殷の時代の後期、甲骨文字の時代までは、「万」が事実上の最大の単位だった。当時は人口が少なかったので、万までで事足りた。
 億の語源は「憶」や「臆」と同源。一つ一つ数えるのは不可能なほど多く、心のなかで憶測するしかないほど多いことを示す。
 兆の語源はそのまま「兆」。「兆」の原義は左右に二つに割れて離れる意で、古代の占卜では亀の腹甲や動物の肩甲骨の左右に割れたひび割れの形を見て吉凶の運勢の別れを見たことから「兆し」の意が生じ、また、万や億よりもかけ離れて多く現実離れしているので億の十倍ないし万倍の単位の名前になった。

★人間集団の適正人数
 人口がN倍ということは、人間関係の組み合わせの可能性がNの二乗倍になるということ。例えば、市場規模が二倍ならビジネスチャンスは四倍になることに注意。
 軍事学における「ランチェスターの法則」の二次法則も参照のこと。
 古来、漢民族の生存戦略は人口的物量作戦であり、「長袖善舞(チョウシュウはよくまう)」「多銭善賈(ぜにおおければよくあきなう)」「大兵に戦術無し」であった。

エデンの園の、アダムとイヴは2人。
狩猟採取明の「バンド」(band)は子供も含めて20人から50人ていど。近親婚でも子孫を維持できる最小限の人数。
新石器時代の農村人口は「ダンバー数」(人間が円滑に安定して維持できる関係は150人程度とする考え)ていど。
青銅器時代の都市国家の人口は一万人から数万人ていど。分業による文明社会を維持できる最小限の人数。
青銅器・鉄器時代の都市国家連合の人口は数十万人ていど。
一民族による強力な「王国」は百万人ていどから。
複数の民族の連合からなる強力な「帝国」は一千万人ていどから。cf.世界史上初の帝国は前7世紀のアッシリア帝国。中国史初の帝国は前3世紀の始皇帝の秦。
フランス革命以降の近代的中央集権国家の適正人口は、一説に五千万人ていど。cf.明治の日本が強かった理由
現代、内需をメインに経済を回せる国家の適正人口は、一億人以上。cf.韓国が外需に頼らざるをえない理由
人口がN倍ということは、人間関係の組み合わせの可能性がNの二乗倍になるということ。

★中国の人口の歴史
こちらの頁も参照。
 中国は古くから人口についての記録を残してきた。人口の増減は政府の租税収入に直結し、また、人口の増減が政治の良否の指標であると考えられてきたからである。
 歴史的に見ると、中国の人口は、常に世界最大級の規模を維持し、周辺世界との人口の流出・流入の比率が少なく、また人口増加と人口崩壊が周期的におとずれた、など興味深い特徴が見られる。
 ちなみに現在われわれが「中国」と呼ぶ地域は、ほとんどが中華人民共和国の領土と重なる。しかし歴史的に見れば、中国という語が指し示す領域の面積は、時代によってかなり変化してきた。古代の黄河文明の時代には、中国と呼びうる領域は今よりはるかに狭かったし、逆に、最後の王朝である清(西暦1636−1912年)の領域は現在の「中国」よりも広く、ロシアの一部やモンゴルも含んでいた。


★中国の人口のサイクル
 中国の王朝の寿命は「十世」三百年を超えない。
 cf.「十世知るべきや(ジュッセイ、シるべきや)」。『論語』為政第二:子張問「十世可知也?」。子曰「殷因於夏礼、所損益可知也。周因於殷礼、所損益可知也。其或継周者、雖百世可知也」。
1.建国期 新しい王朝が建国されたときは、人口は少なく、政府は一般に税金を安くして民を休めるという「小さな政府」の政策を進める。その結果、農民を中心とする中国の人口は急激に増え、太平の世の中となる。
2.繁栄期 人口増加の結果、税収が増える。この豊かな財政を背景に、王朝は、大規模な土木工事や領土拡張など積極的な政策を行いはじめる。ただし外見の繁栄とはうらはらに、民の負担が増えるため、生活は悪化する。また農地の開拓は一般に人口増加に追いつかないため、農民一人あたりの可耕地面積は減少し、世代がくだるにつれて生活環境が悪化する。ちなみに、儒教思想が徹底していた中国の伝統社会は、江戸時代の日本と違い、兄弟による均分相続が普通に行われていたため、農地は細分化されやすかった。
3.衰退期 建国後おおむね十世代ほどで一人あたりの食糧供給量が飢餓線のラインに近づき、社会不安が広まり、農民反乱が頻発するようになる。はじめは王朝政府による反乱鎮圧などの政策が奏功するが、いずれそれも無効になる。
4.交代期 王朝政府の支配力が弱まり、地方政権・地方軍閥が半独立状態となる。戦乱が起こり、王朝は滅亡する。人民の大量死亡と出生率の激減の結果、人口崩壊が起こり、人口は減少して適正ラインにまで下がる。そして新しい王朝が勃興し、サイクルの最初にもどる。ちなみに新しい王朝の支配階級は、多くの場合、前王朝末期の農民反乱グループなり軍閥なりの一つであるか、あるいは、前王朝末期の混乱に乗じて中国本土にはいってきた異民族集団である。


地政学
 古来、中国は「地大物博」の巨大国家として、東アジアの中心的な存在であった。
 そんな中国は、しばしば周辺民族から侵攻を受け、征服された。古来、中国人が
「東夷西戎南蛮北狄」とうい せいじゅう なんばん ほくてき
と呼んで見下してきた周辺民族のなかでも、「北狄」とか「胡」と呼ばれた北方系騎馬民族は強かった。人口でははるかに勝る漢民族は、しばしば北方系騎馬民族によって征服された。五胡十六国時代、南北朝時代の北朝、遼・金・元・清などの征服王朝などがそうである。

https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nrkaF-lUiLy6dC-sWg3wdn

○キーワード
★日本の地政学的特性について李氏朝鮮の実学者のコメント
 詳細は[李瀷(1681-1763)『星湖僿説』漢文選]を参照。
 元世祖欲征日本、其造艦㣥糧、皆我国所需、而掃境内、助戦、畢竟不克、而与強隣失和。
 彼倭者、地形如琵琶、尖頭向西。倭可以出掠、而外兵不能入。故中国江浙之間、其患滋甚、亦無奈何。況小邦乎。
 元の世祖フビライ、日本(隣国としての日本)を征服せんと欲して、 軍艦を造り食糧をたくわえしは、みなわが国(朝鮮。当時は高麗王朝)にもとめられて国境内の物資は一掃す。 わが国は元に助戦して畢竟、勝たずして、 しかも強大な隣国(日本)との和を失えり。
 かの倭(倭寇の巣窟としての日本)なる国は、地形は尖頭を西に向けた琵琶のごとし。 倭人は出国し掠奪すべきも、外兵は入るあたわず。ゆえに中国の江蘇・浙江の 間も倭寇の外患は甚大なれど、また、いかんともするなし。 いわんや小邦(朝鮮)においてをや。

★参考書評 評者・加藤徹 2016/9/11付 日本経済新聞 朝刊
[楊海英著『逆転の大中国史』遊牧文明からの刺激的な考察]
「著者は北京の大学で日本語を学んだあと、日本に渡り、文化人類学を研究した。生前の梅棹忠夫に会ったとき、著者は単刀直入にきいた。「私はじつはモンゴルの出身なのですが、梅棹先生は遊牧民族の文化、生き方を実際に調査し、高く評価しているのに、なぜ『悪魔の巣』とか『ものすごくむちゃくちゃな連中』と表現するのですか」。梅棹は京都弁で「いやあ、あれはパワーや」と答えた。著者は「これはなかなか絶妙な答え」と評している。」

★参考地図 [CIAの中国の地図] [google「中国 歴史 地図」検索結果] [baidu“中国 历史 地图”検索結果]

★中国vs北方系民族(北族、胡、北狄)
 漢vs匈奴  東晋vs浸透王朝(五胡十六国時代)  南朝vs北朝(南北朝時代)  唐vs突厥  北宋vs契丹(遼)  南宋vs金、元  明vs北元(韃靼)、後金(清)  清vsジュンガル帝国(最後の遊牧帝国)

★近現代の国家
 モンテビデオ条約 (1933年)第1条では、国家の資格の要件として(1)永久的住民、(2)明確な領域、(3)政府、(4)他国との関係を持つ能力、の4点を挙げる。
 一般には「領域、人民、主権」を国家の三条件とする。
 「マルタ騎士団」のように、領土を持たなくても「主権実態」と認定される存在もある。

★帝国
 古代ローマの「インペリウム」の訳語で「インペリウム(命令権)が及ぶ領域」の意。英語ではエンパイア。皇帝制か共和制か、など政体は問わない。複数の民族や地域を支配する国家を指す。

★遊牧国家
 遊牧民が形成した国家。固定した領土をもたず、国ごと移動することもある。遊牧国家の支配階級は騎馬民族であることが多い(遊牧民族イコール騎馬民族とは限らない)。自給自足は困難で、交易を重視する傾向がある。
cf.世界大百科事典 第2版の解説 ゆうぼくこっか【遊牧国家】 遊牧民族が建てた国家。スキタイ,匈奴(きようど),鮮卑,柔然,エフタル,突厥(とつくつ),ウイグル,契丹,モンゴルその他ユーラシアのステップの遊牧民族が建てた遊牧国家が多く,歴史的にも重要である。中国ではこれを行国と称することがあったが,それはその王以下がすべて定住せず,季節的移動を行っていたことによる。ウイグル以来城郭都市を築いて首都とすることが生じたが,その場合でも王はそこに常居せず,日ごろはその周辺で季節的な移動を行っていたのである。

★胡服騎射 こふくきしゃ
 古来、中国人は馬車を使い、騎馬の習慣はなかった。戦国時代の趙の武霊王(在位前326年 - 前298年)は軍事力を高めるため、臣下の反対を押し切り、それまで中国人が野蛮人と見下していた騎馬民族の戦法を学んだ。騎馬民族の服と、騎乗して弓を射る戦いかたを採用した。

★中国の「帝国」化は、秦漢帝国から。
 始皇帝の万里の長城と、漢の武帝の対匈奴作戦。
 cf.井上靖の「西域小説」の作品の数々

★匈奴vs漢
 匈奴の冒頓単于(ぼくとつ ぜんう 在位前209−前174)と、前漢の初代皇帝・劉邦(前202年−前195年)

★ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説文より
張騫 ちょうけん Zhang Jian; Chang Ch`ien
[生]? [没]元鼎3(前114)
 中国,前漢の旅行家,外交家。漢中 (陝西省) の人。武帝の初年,月氏への使者として,建元2 (前 139) 年頃長安を出発。途中,匈奴に捕えられること十余年,ようやく元朔3 (前 126) 年長安に戻った。大月氏国との同盟には成功しなかったが,ここに1年あまり滞在し,西域の事情を漢に伝えた。この旅行を中国では「張騫鑿空 (さくくう) 」といっている。帰国後,匈奴遠征にも加わり,博望侯となった。そののち烏孫への使者となり,さらに副使を西域諸国に派遣した。これから漢と西域との交通が開かれた。

★対抗不能性
 軍学者・兵頭二十八氏が修士論文で提唱した概念。


エートス
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mmmaWWq_I5ZGiydxV_ygBz
○ギーワード YouTube The Passion of the Christ - HD (Trailer) https://youtu.be/4Aif1qEB_JU
 俳優たちが使う言語はアラム語、ラテン語など二千年前の言語そのまま(一部の発音は違う)。
YouTube 映画『孔子の教え』予告編 https://youtu.be/E6LYWVPJzcs
 俳優たちが使う言語は21世紀の中国語(「普通話」。北京語)。二千五百年前の孔子が喋っていた「古代漢語」ではない。

★孔子とイエス(史的イエス)の比較
孔子イエス
本名氏は孔、名は丘、字は仲尼ヨシュア(יְהוֹשֻׁעַ‎, Yehoshuʿa)
後世の称号文宣王、至聖先師、他神の子、メシア、キリスト、INBI(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)、他
伝記資料『史記』孔子世家、他『新約聖書』福音書、他
身長九尺六寸(2m16cm)身長152センチ説(当時の人骨から推定)
178センチ説(トリノ聖骸布)
生没年前552年(前551年説も)−前479年前7年?…前4年?−30年頃
両親叔梁紇(下級武士)と顔徴在(巫女)ヨセフとマリア
先祖宋人(殷王朝の末裔)ダヴィデ王
母語中国語(古代漢語)アラム語? ヘブライ語?
「常師」無し洗礼者ヨハネ
職業公務員、政治家、教育者、校長、他修行者、宗教家、呪術医、革命家、他
弟子弟子三千人、高弟七十二人(「七十子」)、孔門十哲十二使徒
配偶者幵官(けんかん)氏(亓官or并官氏とも)。19歳で結婚生涯独身
子孫息子は孔鯉(字は伯魚)。
歴代の衍聖公。『孔子世家譜』2009年版では二百万人以上
無し
死因自然死。享年七十四刑死
墓所孔林聖墳墓教会、世界各地の「キリストの墓」
後継者による宗教儒教(Confucianism)キリスト教

★宗教の種類  「宗教」という言葉は、ラテン語religioや英語religionなど西洋語の訳語として幕末に考案され、明治に入ってから普及した新しい日本語である。
 religioの原義は「あらためて(re)」「結びつける(ligare)」である。日本語の「宗教」や「科学」は、実は実は良い訳語とは言えない。宗派に分かれていないものは宗教ではない、科に細分化していなければ科学ではない、という日本人特有の誤解を助長しかねないからである。
 佐藤信淵による奇書『宇内混同秘策』(うだいこんどうひさく。1823年)に出てくる「産霊(むすび)の法教」の「法教」は、宗教の意。
 宗教の定義はいろいろあるが、「至高の絶対的存在(神や真理など)と人間の関係を説く」「人間を内面と外面の両方から救済しようとする」「冠婚葬祭の自己完結性」「政治・経済・文化の側面をもつ」などの特長がある。この意味から見れば、中国の儒教は世界的に見ても強力な宗教である。
 江戸幕府は「儒学」を奨励する一方、「儒教」は弾圧し、「儒教徒」についてはキリシタン同様に警戒した。中国や朝鮮と違い、日本は、儒者にも仏式の葬儀を強要し、儒者もそれを受け入れるという異様な国だった。(cf.「儒者捨場」。拙著『本当は危ない『論語』』)。そのため日本では、21世紀の今も儒教は宗教ではないと誤解している人が多い。 例:国家神道は、天照大神を最高神とする選択的一神教である。
 キリスト教は一神教とされるが、マリア崇拝や守護聖人、天使崇拝など多神教的要素もある。
 儒教は客観的に見て宗教であるが、儒教自身はみずからを「儒学」「礼教」「名教」と自己規定する傾向がある。

★世界宗教になったキリスト教と、準世界宗教にとどまった儒教
 世界宗教になるための条件は、加藤徹が思うに、以下のとおり。 参考  中国人の知恵
祖先崇拝の儒教と、祖先崇拝を禁ずるキリスト教 加藤徹のサイト[paganism ペイガニズム]


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