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中国人の知恵

経営文化フォーラム 2006.11.10 学士会館(東京・一橋) レジュメ
最新の更新2008.10.5


中華ボタン 「知」のいろいろ
「頭がいい」とは、どういうことか?

「知恵」は、書き換え。もともとは「智慧」

【「頭の良さ」を示す漢字の字源(藤堂説による)】

知 チ 矢のようにスッと言葉が出る頭の良さ。
 智 チ 矢のようにスッと言葉が出ること(「知」の名詞形)。
 適 テキ スッと進む。

哲 テツ サクッと言い切る頭の良さ。折+口。
 折 セツ サクッと折る。
 析 セキ サクッと分ける。「分析」のセキ。
 晰 セキ サクッと分かる。「明晰」のセキ。

聡 ソウ さーっと耳から知識や情報が入る頭の良さ。
 窓 ソウ さーっと風や光が入る。
 匆 ソウ さーっと時が流れる。
 従 ショウ さーっと抜ける。

怜 レイ 頭脳がクールである頭の良さ。
 令 レイ 容貌がクールである。
 冷 レイ 温度がクールである。

賢 ケン 身心をかためて貝(価値)を守る頭の良さ。
 堅 ケン かたい。
 緊 キン かたい。
 虔 ケン 信心がかたい。

叡 エイ 奥底まで深く見ぬく頭の良さ。
 鋭 エイ 深くえぐりだす。

慧 ケイ ほうき(彗)のように繊細に心を動かす頭の良さ。

【参考】和語(やまとことば)の「頭の良さ」を示す語
 かしこい < カシコシ(畏し) 相手に恐れおおさを感じさせる、ポジティブな頭の良さ。
 さとい < サトシ(聡し) 他動詞サトス(諭す)、自動詞サトル(悟る)に対応する形容詞。
              相手の気持をすぐわかる、パッシブな頭の良さ。

漢語=言葉(形式知)を駆使する頭の良さを示す語が豊富。
和語=暗黙知的な頭の良さを示す語のみ。

漢民族 「老成」「老熟」「老獪」←→「弱冠」「若干」:若=弱
古代ヤマト民族 ワカタケル=若くて、タケ(丈。身長)がある男が英雄。



中華ボタン 中国人の「知」の特長と限界
 富永仲基(1715〜1746)は、その著『出定後語』および『翁の文』の中で、国民性が違えば知性の性質も変わることを論じ、
  インド人の仏教は「幻」に、中国人の儒学は「文」に、日本人の学芸は「絞」
に偏っている、と主張した。
 「絞」とは、過度の簡潔化・秘密化という意味で、必ずしも褒め言葉ではない。
 「幻」も「文」も褒め言葉ではないが、「絞」よりはまだましだ、と『翁の文』では述べられている。
 富永が生きた時代、まだ「蘭学」は産声をあげたばかりだった。もし富永が西洋人の知性を論じたら、
  西洋人の科学は「説」
に偏っている、と言ったかもしれない。

中国人の「知」の四大象限

(2)   形式知   (1)

内省的・虚学的← →外向的・実学的

(3)   暗黙知   (4)

(第1象限)外向的形式知・・・孫子、孔子、韓非子など
(第2象限)内省的形式知・・・玄奘、朱子など
(第3象限)内省的暗黙知・・・荘子、達磨など
(第4象限)外向的暗黙知・・・老子など

日本文明(4)の国。「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」(柿本人麻呂。『万葉集』3253番)
西洋文明(1)と(2)から近代科学が生まれた。
中国文明(1)は強かったが(2)が弱かったため、近代科学が生まれなかった。


名称定義大学での学部
虚学
(基礎科学)
science
物事の根源を探求する学問 文学部、理学部など
実学
(応用科学)
art
直接何かの役に立つ学問 法学部、教育学部、経済学部、経営学部、商学部、医学部、工学部、農学部など
総合科学
integrated arts and sciences
既存の学問分野の枠を越えた学問総合科学部など


    知、智、聡、明、昭・・・ さまざまなタイプの「頭の良さ」。
 
階層人物の例必要な知恵
リーダー劉備(徳、烈帝)大戦略(暗黙知、結晶性知能)
スタッフ諸葛(孔)戦略(形式知、流動性知能)
ライン関羽、張飛戦術
フロント趙雲戦闘術

 玄(ゲン)・・・くらくてよく見えない。玄妙、幽玄。幻(ゲン)と同系の語。暗黙知。
 明(メイ)・・・あかるくてよく見える。聡明。形式知。


【参考】『論語』陽貨第十七「子曰、飽食終日、無所用心、難矣哉。不有博奕者乎、爲之猶賢乎已。」
 子曰わく「飽くまで食らいて日を終え、心を用うる所無し、難いかな。博奕なるものあらずや。之を為すはなお已むにまされり」と。
→インド哲学や西洋哲学のように、終日瞑想を行って形式知的な思索を行うという(1)の「知」は、初期の儒教にはなじまなかった。

【参考】幕末に上海に渡った高杉晋作は、西洋科学の根本的発想は、朱子の「窮理」と似ているのではないかと洞察し、そのことを筆談で中国人に質問した(拙著『漢文力』)。

○形式知 と 暗黙知
 →言葉や数字であらわせる知識、と、あらわせない知識。

○インテリジェント(知能的) と インテレクチュアル(知性的)。
『老子』「大巧如拙、大弁如訥」。
 大巧は拙なるが如く、大弁は訥なるが如し。
 →「大賢は愚なるが如し」。知性的な人は、しばしば知能的ではない。司馬遼太郎、アインシュタイン、・・・

○流動性知能 と 結晶性知能
『論語』雍也第六「子曰、知者楽水、仁者楽山。 知者動、仁者静。 知者楽、仁者寿」。
 子曰わく「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し」と。
 →水を楽しむ=流動性知能。山を楽しむ=結晶性知能。

『易経』繋辞上伝「形而上者謂之道、形而下者謂之器」。
  形よりして上なる者、之(これ)(みち)と謂(い)い、
  形よりして下なる者、之をと謂う。

『老子』第一章「道可道、非常道。名可名、非常名」。
  の道とすべきは、常の道に非(あら)ず、
  名の名とすべきは、常の名に非ず。

『論語』為政第二「子曰、君子不器」。
  子曰く「君子は(うつわ)ならず」と。



『大学』(『礼記』大学篇)「致知在格物、物格而知至」。→ 格物致知 、格致

 漢儒の解釈:後漢の鄭玄(127〜200) 格は「来」、物は「事」、致は「至」の意。
       「善悪を深く知ることが、善いことや悪いことを来させる原因になる」

 宋儒の解釈:程頤(程伊川。1033〜1107) 「格物」を「窮理」(『易』説卦伝)と結びつけた。
  「自己の知を発揮しようとするならば、物に即してその理を窮めてゆくこと」

  朱熹(朱子。1130〜1200) 格は「至」、物は「事」の意。
  「事物に触れて、理を窮めること」 格物窮理と居敬「聖人、学んで至るべし」

 明の王守仁(王陽明。1472〜1528) 格は「正(ただす)」の意。
  「格竹」の故事:庭の竹の理を窮めようと七日七晩、竹の前に座り続け、倒れた。
  「自己の心に内在する事物を修正し、先天的な道徳知(良知)を発揮する(致良知)」

【参考】星の界(ほしのよ)  作詞:杉谷代水 作曲:コンヴァース 明治の学校唱歌 2番の歌詞「雲なきみ空に横とう光 / ああ洋々たる銀河の流れ / 仰ぎて眺むる万里のあなた / いざ棹させよや 窮理の船に」



中華ボタン民間の外向的形式知 「兵法三十六計」

勝戦計
01 瞞天過海 まんてんかかい
02 囲魏救趙 いぎきゅうちょう
03 借刀殺人 しゃくとうさつじん
04 以逸待労 いいつたいろう
05 趁火打劫 ちんかだきょう
06 声東撃西 せいとうげきせい
敵戦計
07 無中生有 むちゅうしょうゆう
08 暗渡陳倉 あんとちんそう
09 隔岸観火 かくがんかんか
10 笑裏蔵刀 しょうりぞうとう
11 李代桃僵 りだいとうきょう
12 順手牽羊 じゅんしゅけんよう
攻戦計
13 打草驚蛇 だそうきょうだ
14 借屍還魂 しゃくしかんこん
15 調虎離山 ちょうこりざん
16 欲擒姑縦 よくきんこしょう
17 抛磚引玉 ほうせんいんぎょく
18 擒賊擒王 きんぞくきんおう
混戦計
19 釜底抽薪 ふていちゅうしん
20 混水摸魚 こんすいぼぎょ
21 金蝉脱殻 きんせんだっかく
22 関門捉賊 かんもんそくぞく
23 遠交近攻 えんこうきんこう
24 仮道伐虢 かどうばっかく
併戦計
25 偸梁換柱 ちゅうりょうかんちゅう
26 指桑罵槐 しそうばかい
27 仮痴不癲 かちふてん
28 上屋抽梯 じょうおくちゅうてい
29 樹上開花 じゅじょうかいか
30 反客為主 はんかくいしゅ
敗戦計
31 美人計 びじんけい
32 空城計 くうじょうけい
33 反間計 はんかんけい
34 苦肉計 くにくけい
35 連環計 れんかんけい
36 走為上 そういじょう
戦況のレベルの6段階ごとに6計ずつ分類されている。
 第1段階は、こちらが戦いの主導権を握っている場合の作戦の定石。
 第2段階は、余裕をもって戦える場合の作戦。
 第3段階は、相手が一筋縄ではゆかぬ場合。
 第4段階は、相手がてごわい場合。
 第5段階は、敵のほうが強い場合。
 第6段階は、敵が圧倒的に強い場合。

・5世紀 南朝宋の将軍・檀道済(?〜436)。
『南斉書』王敬則伝「檀公の三十六策、走るを上計と為す」。
・17世紀 明末清初、民間で「兵法三十六計」が成立か。
・1941年 「兵法三十六計」の古い手抄本が発見。
・1961年 『光明日報』紙が「兵法三十六計」を紹介。

【参考】守屋洋『兵法三十六計』(三笠文庫)

【参考】『史記』淮陰侯列伝より 井陘せいけいの戦い
 漢の名将韓信(?〜前196)は、一万二千の寄せ集めの兵を率いて、城にこもった二十万の趙軍と対峙した。
 韓信は、二千の兵に赤い旗を持たせて伏兵として山中に隠し、残りの一万を「背水の陣」で布陣した。
 趙軍は韓信の無知をあざけり、城を出て、漢軍を攻めた(調虎離山)。
 逃げ場がない漢軍の兵は必死に応戦した。そのすきに、伏兵の別働隊二千が趙軍の城を占領し(暗渡陳倉)、赤い旗を掲げた。(樹上開花)
 趙軍は総崩れとなって潰走、趙軍の将は韓信に捕まった(混水摸魚)。



【参考】『淮南子えなんじ』の「伊尹の土功」の故事。
 その昔、殷の湯王の宰相をつとめた伊尹が、土木工事を行った。
 すねが長い者には、足の力が強いのを利用して、スキをふませ、土を深く掘る仕事をさせた。
 背筋力が強い者には、土運びをさせた。
 「眇者(びょうしゃ)」には、片目をつむって測量の仕事をさせた。
 「傴者(おうしゃ)」には、背中を曲げて壁をぬる仕事をさせた。
 誰でも、自分の得意とするところがある。人間は平等なのである(各有所宜而人性斉矣)。



参考図書
 『漢文力』(中央公論新社,1890円)
 『貝と羊の中国人』(新潮新書,756円) ほか

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